茶道教室 お茶のある暮らし 【茶道・写真・道具】

茶道を永年続けている友人が、ご主人から
『茶道はそんなに何年も稽古をしないと覚えられないほど難しいものかね』
と尋ねられたそうです。

友人は、『茶道はなかなか奥が深くてねえ』 と答えたそうなんです。
茶道の世界はなかなか奥が深くて稽古をすればするほどやめられません。

とても魅力のある世界です。


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本の名前ご存じないですか

先日、平釜の事を書いた後、以前に本で茶釜の話を読んだことがあるのを思い出しました。コピーしていたので再度読んだのですが、何の本に載っていたのか思い出しません。多分婦人雑誌の1ページだったと思うのですが、ご存知の方教えていただけませんか?
次の文章が掲載されていました。

「信長がほしがった平蜘蛛の茶釜」
物へのこだわりという点では、織田信長と松永弾正の茶器をめぐるエピソードがすさまじい。戦国の雄・織田信長が深く茶道に精進した事は有名であるが、信長は茶によって人をもてなし、自分も幽邃の境に遊んだ。しかし、部下の武将も特定の者にしか茶をたしなむ事は許さなっかた。
豊臣秀吉も数々の功績を挙げて後、やっと許されている。当然、信長は茶の道具にも興味を持ち、数々の名器を集めた。彼の最期、本能寺も茶会のため軍勢をつれていかなかったのが一因である。その信長と面白い関係にあるのが松本弾正という武将。
大変な教養人で茶の湯の造詣も深く、武将としても非常に優れていた。
ただ複雑な性格でインテリらしく、悩んだ末に3回も信長に背き、かつ許されている。
信長が弾正を特別扱いしたのには、その才能のほかにもう一つ理由がある。弾正は
「平蜘蛛の茶釜」という天下の名器を愛蔵していたのである。信長はそれがほしくて正がない。しかし、弾正も離さない。遂に4回目の謀反を起こし、城にたてこもった。今度こそ怒った信長は大軍をもって包囲した。弾正に勝ち目は万にひとつも無い。信長は平蜘蛛の茶釜を渡せば許してやると言ったが、弾正はせせら笑い「この名物、信長風情にはもったいない」と、一撃でたたきこわし、、城に火をかけて自決したという。今のお義理、お座なりの贈り物からは想像もつかない、物へのこだわりの精神がうかがえる。

ご存知のお方教えてください。

平釜

平釜平釜は寸法がさまざまのようです。
春めいてきて、釣り釜にする時期に、平釜も懸けるようです。
平釜を炉に懸ける時、透木(すきぎ)を使います。

炉壇の右と左の縁に透木(細長い小さな木)をおいて、その上に釜の羽をかけます。
このとき、もちろん、五徳はありません。

先生から教えていただいたのは、炉の時期が終わる頃は、冬の間に蒔いた濡れ灰や、炭の灰などで炉中の灰が多くなり、炭が釜の底にあたるので、五徳をあげ、透木釜にすると聞いています。

萬代屋釜

DSC03378写真は萬代屋釜です。

堺の茶人、萬代屋宗安が所持していた釜を模して造られ、肩と腰に擂座をめぐらしています。
「るいざ」はどんな意味なんだろうと、数年前調べた時、座禅の時使用する座布団の形をしていると何かの本に書いていたように記憶しています。
でも改めて調べるけど、私の知識ではわかりません。
どなたかお教えいただけませんか?「るいざ」「累座」 「擂座」について。

国師釜

昨日、茶事に呼ばれて行ってきました. 楽しい4時間でした。
亭主、客も勉強中の仲間でしたので、お互い知らないところは教えあいながらすすめていきましたので、足のしびれも、あまり気にならず時間がすぎました。

お道具の取り合わせは、私はよくわかりませんが、水指と香合をネットで買って「思わぬいいものがあり、楽しいです」とおっしゃっていました。

釜の事をお尋ねしましたら、20数年前、道具の事は何一つわからないときに、お道具やさんから畠春斎の国師釜を勧められたそうです。

畠春斎の名前も知らず、国師釜の名前さえも知らない時、「いい釜だから買っておきなさい」の一言で買い求めたそうです。
畠春斎師の工房は、富山県高岡市金屋にあり、初代春斎氏(1908-1981)から続く茶の湯釜の制作を手掛けています。
もしかして、友達の釜は、初代のお父様が制作した釜かも知れませんね。

国師釜は、大徳寺の春屋国師が所持していた事から名前がついたと記憶していますが、これからまた調べてみます。
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