2009年05月11日

劉岱と王忠 やられ役コンビの真実

書き手:赤龍

今回紹介する二人は、演義でやられ役として出てくるパッとしないコンビ(笑)

徐州で独立した劉備を討つべく、曹操に命じられて派遣された両将。といっても、味方からも「あの二人じゃダメでしょ」と言われる程度の情けなさ。曹操も「袁紹を討つまで劉備を抑えてりゃいいよ」と、はなからアテにしてない模様。案の定、関羽と張飛に敗れ、張飛には乱暴者のイメージを逆手に取った計略にはめられる始末。見事に劉備軍の引き立て役として、雑魚っぷりを見せつけてくれます(笑)

この二人、演義にありがちな、引き立て役兼やられ役の架空の人物などではなく、それどころか、史実でもしっかりコンビで劉備討伐に失敗しています。

では、史実ではどのような人物だったのか?順に見ていきましょう。

まずは劉岱。

演義では、かつてのエン州刺史で、反董卓連合にも諸侯の一角として参加してたと説明されます。
実はこの劉岱、エン州刺史の劉岱とは全くの別人。エン州刺史の劉岱は、青州黄巾軍と戦い戦死したと、武帝紀にもはっきり書かれています。
同姓同名の別人というわけですが、さらにややこしいことに、字(あざな)までも同じ「公山」。字で呼んでも「劉公山」と区別できないんですね。記事書いてる私にも、厄介この上ない(笑)

この劉備に負けた方の劉岱、彼の素性は、注の『魏武故事』のわずかな記述が残るのみです。ちくま訳から全文引用しますと
「劉岱は字を公山といい沛国の人である。司空長史として(曹公の)征伐につき従い、功績があったので列侯に封ぜられた」
ホントにこれだけ。

このわずかな記述で注目したいのが、出身地。沛国といえば、曹操の出身地。同郷人。なので、結構はやくから曹操に仕えていた可能性もあり、同郷人として曹操から親愛されてたかもしれません。ただの雑魚なんかではなく、曹操の信頼する腹心だったかもしれないですね。

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2009年05月08日

『「三国志」武将34選』

書き手:赤龍

どうもおひさしぶりです。また前回の投稿から一月以上空いちゃいましたね(苦笑)せっかくのレッドクリフパート2にも、何も便乗できずの無念の放置。
ですが、地獄のような激務のGWもようやく終わり、これから少し落ち着く時期。ぼちぼち投稿のペースを増やせるかなと思ってます。
いや、昨日ようやく休みを頂き、GW中の疲れがどっと出てダウン。今日もギリギリの状態で仕事。とりあえず、今回は紹介しそびれた本のことでお茶を濁す感じで…

さて、今回紹介させて頂きますのは

渡邉義浩『「三国志」武将34選』(PHP文庫、2009)

もう発売から一月(以上?)たってるんですよね。なんか今さらという気もするんですが…

以前こちらで紹介しました『「三国志」軍師34選』の続編的なものです
http://blog.livedoor.jp/amakusa3594/archives/50537259.html

一般向けの文庫本ながらの、専門的研究の成果も紹介している質の高さは、前回でも確認済みなんで、今回は迷わず買いました(笑)

前作は「軍師」に焦点を当てていたのに対し、今作は「武将」。戦場を駆け抜けた英雄豪傑達に注目。勿論、前作同様ただの人物伝の羅列ではなく、当時の軍事や兵法の話題をおりまぜ、読み応えのある内容になっています。
というか、はっきりいって、またまた渡邉先生の「名士論」にそった内容が相当多いんですが(笑)

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2009年03月23日

賀邵と楼玄 忠臣達の末路

書き手:赤龍

前回は、演義に登場しない呉の隠れた名将、賀斉を紹介しました。今回は、そのお孫さんである賀邵と、彼と同様な境遇であった楼玄の2人を紹介してみようと思います。

賀斉には、二人の子がいたことが記録に残っています。賀達と賀景。記述自体はわずかなものの、両者ともに優れた将であったと言われています。
その賀景の子が賀邵。字は興伯。

賀邵は、呉の三代皇帝孫休即位時に、虞翻の子虞シ、薛綜の子薛エイ、王蕃らと共に散騎中常侍に抜擢されます。彼らはいずれも、呉の末期を支える名臣となります。
賀邵はその後、呉郡太守となり、呉最後の皇帝孫皓の代となると、中央に戻され、中書令にまで昇り、太子の補佐役たる太子太傅も兼任します。将として活躍した父祖とは異なり、文人政治家として頭角を現していました。

一方の楼玄。字は承先。沛郡の出身。
孫休の代に監農御史となり、孫皓の即位時に散騎中常侍に昇進。やがて大司農となります。この官歴からして、農政関係に才を見せた人なのかもしれませんね。
当時、禁中のことを主管する役目には皇帝と親しい人物が任じられるのが慣例でした。しかし、万イクは「皇帝の側近には立派な人格者を用いるべし」と建議し、孫皓はこれを認め、忠義清廉たる人物を選び出すよう命じます。そして選ばれたのが楼玄。宮下鎮、禁中侯に任じられ、殿中の諸事をつかさどることになります。

彼ら両名、ともに優れた人物として孫皓の朝廷において重きをなしますが、後世に暴君として名高い孫皓(この実態については、色々と論じられていますが、今回は追及しないことにします)、彼の政治に問題が出始めると、両者ともに歯に衣きせぬ諫言を行うようになり、しだいに孫皓から憎まれ疎んじられるようになります。典型的な暴君と忠臣の悲劇的な構図ですね。
そうなると、この堅物どもを快く思わぬ皇帝の側近達が、両者の間隙につけいろうとするのもまたお約束的展開。

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2009年03月18日

賀斉 反乱平定の日々

書き手:赤龍

大変お久しぶりです。さぼり癖の酷い私ですが、過去最長の5ヶ月以上放置しておりました。申し訳ないです。
恒例の言い訳ですが、仕事が変わって投稿の余裕が無くなったり、なにより一時期三国志自体から離れてました。レッドクリフさえ映画館に見に行かなかった始末。しばらく距離を置いてみると、また三国志に対する見方が色々変るかな?とか考えると、悪くないかもと思ったり(笑)

そんな感じでしたが、討論場の方にも新しい方が色々参加されてるようで、私もこの機に復帰し、こちらの活性化に少しはお役にたてないかな?とか思って、こっそりと復活してみました。
そうそう、レッドクリフはDVDでしっかり買いましたよ(笑)予想以上によかったです。来月のパート2が楽しみ。


さて、久々復帰第一弾のネタは、賀斉。いきなりなんとも地味な。もっとレッドクリフ便乗企画で、あざとくウケ狙いに走ればいいものを、とも思うんですが、赤壁とか周瑜とか、メジャーすぎて今さら私が何か書くのも……、と逃げ腰の次第で(笑)

賀斉、字は公苗。揚州会稽郡山陰の出身。
伯父さんの慶純は侍中や江夏太守に、お父さんの賀輔も永寧県の長にと、それなりの家柄ではあったようです。

そうした家系のおかげか、賀斉も若くして郡の役人に取り立てられ、セン県の長の代行をつとめることになります。
その県の役人に、斯従という厄介な男がいました。県の豪族の出身で、山越とも親しい付き合いがある。そういう立場をたのんで、ヤクザの親分のようなことをやっている。
賀斉はこれを取り締まろうとするも、彼の部下まで斯従の権勢を恐れ、見て見ぬふりをしろと言い出す始末。賀斉はこの役人の弱腰に立腹し、断固対決を決意。反対をふり切り斯従を斬ってしまいます。
案の定、斯従の一族は復讐のため人を集めます。付き合いのある山越なんかからも集まったんでしょう。その数千人以上。武器を持って役所に攻めかけます。
賀斉は、役人や民を指揮してこれを迎撃。見事に打ち破り、その威は山越をも震え上がらせることになります。

これが、彼の生涯の大部分を費やす、揚州の豪族・山越らの反乱との戦いの始まりでした。
この斯従のように、当時の、特にまだ未開の地域でもあった揚州は、こうした豪族達が各地に根を張り、官も手出しできない程、好き勝手してたんですね。ですから、孫策、孫権が揚州を確固たる地盤とし、この地に割拠しようと思えば、こうした勢力を服従させる必要があるわけです。勿論、彼等としてはこれまでの自分達の自由・自治が押さえつけられるわけだから面白くない。国家の秩序のもと取り締まろうとする賀斉の立場と、それに反発し抵抗する斯従の一族のような事件が無数に起きるわけです。

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2008年10月14日

蓋勳 その2  董卓も手を焼く硬骨漢

書き手:赤龍

前回の続きです
蓋勳 その1  涼州の苦労人

中央に召し出され、討虜校尉に任命された蓋勳。さっそく時の皇帝、霊帝と会見する機会が訪れます。その場には、宦官の大物にして、西園八校尉の筆頭として軍権も握る、権勢並ぶ者無きケン碩も同席していました。

霊帝は蓋勳に問います「天下はなぜこうも苦しみ、反乱ばかり起こるのか?」
それに対し蓋勳「陛下にへつらう側近どもの子弟が世を乱しているのです」ときっぱりと言い放ちます。宦官の権勢をかさにきて悪事を振るう連中を批判したわけですね。これにはケン碩も青ざめます。霊帝はケン碩に「お前はどう思う?」と訊ねますが、ケン碩さすがに言葉も出ず。
これでさっそくケン碩の恨みを買うわけですが、初っ端からいきなり宦官に喧嘩売るとはたいした度胸です。

その後も、霊帝は軍事についての諮問を行い、彼の明瞭な回答に感心し「お前に会うのが遅すぎたのが恨めしい」とまで言わしめます。宦官に睨まれると同時に、一躍皇帝のお気に入りに。これではケン碩もそうそう手出しはできません。

いきなり痛烈な宦官批判をやらかした彼ですが、口先だけの男ではありません。
共に中央軍を司る袁紹、劉虞に相談を持ちかけます
「私が陛下に謁見したところ、陛下は甚だ聡明なお方。ただ周りの宦官どもがそれを遮っているだけにすぎない。もし我等が力を合わせ宦官どもを誅滅し、すぐれた人材を登用することができれば、漢室は再び興隆するだろう」
かねてから宦官の専横を苦々しく思っていた二人も蓋勳に賛同します。

しかし、決起に及ぶ間もなく、蓋勳に京兆尹(長安一帯の長官)への推挙の話が持ち上がります。蓋勳を気に入った霊帝は側近くに置いておきたいと躊躇しますが、ケン碩は厄介者を都から遠ざける好機と、これに強く賛成。京兆尹を拝命し、都から離れ、宦官誅滅の謀議は立ち消えになります。もっとも、袁紹は諦めることなく、大将軍何進と共に宦官誅滅を謀ることになります。

都から離れても、霊帝の蓋勳に対する信頼は衰えることなく、「軍国の密事」あるたびに、手づから詔を発し、蓋勳に意見を問うほどであったといいます。

霊帝といえば、一般には宦官を重用し、売官を行うなど、暗愚の皇帝として知られています。しかし、蓋勳の伝記から感じられる霊帝の印象は、それとは少々違いますね。蓋勳のような直言の士を愛し、彼の意見を積極的に聞こうとする。
蓋勳が「上は甚だ聡明」と言ったのも、勿論皇帝陛下の事を悪し様に言うわけにはいかない、修辞的な意味もあるでしょう。しかし、自らの言を真摯に聞いてくれる帝に対しての、率直な思いもあったのではないでしょうか。

かつて売官制についてお話した時にも、売官により得た金は、帝の懐ではなく、国庫に入っていたらしき証言があることを紹介しました。また、西園八校尉を新設し、自ら「無上将軍」と称するなど、軍事に対し並々ならぬ感心があったこともうかがえます。

どうも霊帝は単なる暗愚の君という評価には、再考の余地があるように思えます。

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2008年10月13日

蓋勳 その1  涼州の苦労人

書き手:赤龍

今回もまた、『三国志』に登場しない後漢末の人物を紹介してみます。
「あんまり知らないような人ばっかとりあげられても、つまんないぞ」とか思われないだろうか。と心配しつつ……

今回紹介するのは蓋勳(がいくん)という人物。『後漢書』に列伝があります。

蓋勳、字は元固。涼州敦煌郡の出身。漢帝国の西の果ての地ですね。

「家世二千石」と、代々二千石相当の役人、つまり太守クラスを輩出していたといわれます。地方の名家豪族の類の出身ということですね。少し前に「四世三公」の話をしましたが、こちらは少しランクが落ちて「家世二千石」。家柄の固定といえる現象がうかがえますね。

さて、官に取り立てられた蓋勳は、漢陽郡(三国時代の天水郡のあたりです)の長史に任命されます。長史というと、郡の長官である太守の補佐官といったとこでしょうか。

このころの、同じ涼州の武威郡の太守というのが、都の権力者、おそらく宦官あたりに取り入って出世したらしき人。背後の権勢を頼みに、やりたい放題。ろくでもないというか、当時ありがちというか、とにかく評判がよろしくない人でした。

これを見かねたのが、蘇正和という人。罪状を調べ上げ、訴えようとします。
それを聞き困ったのが、涼州刺史の梁鵠。下手に手を出して、バックにいる宦官様あたりに睨まれたら、自分の身も危ない。これまた、古今ありがちなお役人様の保身ですね。そして、乱暴なことに蘇正和を殺してしまおうと。

ここで、やっと蓋勳の登場。蓋勳と蘇正和とは「有仇」と書かれる程、どうも相当遺恨のある犬猿の仲。太守の梁鵠は、そんな蓋勳に蘇正和殺害の件を相談します。「このチャンスに、恨みを晴らしちゃえよ」なんて勧めてくる人も。
しかし、蓋勳それをきっぱりはねつけます。公私の混同などもってのほか「謀事にて良を殺すは、忠にあらず。人の危に乗じるは、仁にあらず」
蓋勳は刺史梁鵠を諌め、梁鵠もついに断念します。

さて、これに喜んだ蘇正和。蓋勳のもとを訪れ、今までのことを詫びようとします。これを機に二人は和解めでたしめでたし。と、これまたよくあるオチ……
になると思いきや、その流れをぶち壊した蓋勳「これはあくまで刺史のためを思ってのこと。お前のためにやったんじゃねえよ」二人は結局もとどうり仇敵の間柄のままでしたとさ。
あくまで公私を混同しない蓋勳さん、素敵です(笑)

「べ、別にあんたのためにやったんじゃないんだから。梁使君のためにやったんだからね!」と訳せば、今流行りのツンデレキャラとして、蓋勳の人気も一気にアップ……、にはならんでしょうね

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2008年10月03日

黒山賊百万

書き手:赤龍

しばらく御無沙汰しまして申し訳ありません。最近また投稿する余裕があまりありませんで、しばらくまたさぼりがちになるかと思います。申し訳ありません。

さて、今回は盗賊と数のお話。
最近、金庸原作の中国ドラマ『碧血剣』をレンタルして見ています。舞台は明の末期、外には清が中国侵攻を狙い、内では李自成が反乱を起こしていた時代。無実の罪で殺された名将袁崇煥の遺子袁承志、彼を主人公とする武侠アクションドラマです。ありえないような、ど派手なアクションシーンの連続で、中々楽しいです。中国人って、高い所や、不安定な足場で戦うのが、相変わらず大好きなのね(笑)

ドラマの話はさておき、気になったのは、妙に英雄扱いの李自成。どうも中国では、かなり人気の人物のようですね。そこで、我が家にある唯一の李自成関連書籍『中国の大盗賊・完全版』(講談社現代新書)を読んでみました。著者は、私が何度もネタ本として利用させて頂いてる『三国志きらめく群像』(ちくま文庫)の高島俊男先生。
中国史上極めつけの大盗賊として紹介されてるのが、李自成や太平天国の洪秀全と並び、漢の劉邦、明の朱元璋、そして毛沢東。相変わらずの高島先生のわかりやすい文章もあって、並みの小説以上の面白さです。
その中で、ちょっと気になった文章があったので、後程ご紹介を。

さて、そろそろ本題に。
三国志でも、盗賊と言えば、物語の幕を開く黄巾の乱から、黒山賊やら白波賊やら、米賊と言われた五斗米道、無名の盗賊達も含め、数々の賊の名が見られます。まさに後漢朝廷の権威が完全に失墜したことを感じさせますね。

ここで、読んでてしばしばびっくりするだろうことが、この賊の人数。黄巾が「数十万」やら、孔融を包囲した「二十万」やら、張燕率いる黒山賊の「百万」やら、とんでもない桁の数がしばしばでてきます。さすが中国、日本の山賊なんかとは規模がまるで違います。
ただし、すでにご察しの方もいるでしょうが、どうもこの数あてになりそうにありません。

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2008年09月13日

気になったことあれこれ

書き手:赤龍

思えば結構な長い間、こちらに投稿させていただいてますが、ろくに文章も、説明の技術も上達しないのが悩みの種。どうすれば、すっきりと分かりやすい文章が書けるのだろう、と毎回苦戦しています。

そこで気になる点の一つに、勝手に自分の文章の語句や用法の定義づけを決めつけてないか?ということがあります。それについて今回はお話します。要は私の文章の言い訳特集(笑)いや、こんなの書くなって話でしょうが…


まず第一に「三国時代」について

最初に清岡美津夫さんの「三国志ニュース」の記事
http://cte.main.jp/news/blog.cgi?n=1002
三国志城での、満田剛先生の講演レポート。非常に面白くためになる記事です。私の文を読むのをここでやめてもいいので、しっかり読みましょう。

そこから一部引用させて頂きます(無断転載すみません)
「話が変わって「三国時代」の定義の話。いろんな見解を紹介しつつ、厳密に言えば魏が起こった220年からになるが、大まかに言えば黄巾の乱の184年から呉の滅亡の280年で良いのでは、と説明。」

歴史の世界には、どうしても時代区分の話がついてまわります。
「教科書なんかには、はっきり区分されてるから何の問題もないだろ」とお思いの方もいるかと思いますが、これは結構ひと悶着の末の暫定案だったりするんですね。

鎌倉時代の始まりと言えば、私らなんかには「いい国つくろう鎌倉幕府」1192年というのが常識です。「なくよウグイス平安京」と並ぶ、二大語呂あわせですね。しかし、最近の教科書では1185年らしい。鎌倉幕府の成立の基準を、将軍就任に置くか?実質的な政権成立に置くか?といった論争が、実は研究者の間ではあったんですね。その結果、教科書も変わったらしい。
もうガッツ石松さんの「よいくにつくろう鎌倉幕府」ネタは若い子には通じないんだろうか?そして、今の小学生は、どうやってこの年を覚えてるんだろう?これが一番気になります(笑)

三国時代の定義は、そんなややこしい話でもないんで安心してください。

三国志の物語といえば、黄巾の乱と劉備三兄弟の桃園結義(184年)からスタートしますよね。しかし、このころはほんとは後漢の世。献帝が曹丕に禅譲する漢魏交替の220年までは正確には後漢時代。三国時代といえるのは、それ以降である。ということです。
いやいや、孫権が独自の年号を使った222年からだ。孫権が帝位についた229年からだ。と小うるさい人もいますよ。まあ、細かいことはこの際無視しましょう。

でも、そうすると曹操も、関羽も、周瑜も、呂布も、実は三国時代の人じゃあないことになります。
しかし、三国時代を語るには、こうした人々は無視できない。正史『三国志』も彼等の伝をしっかり立ててる。なにより、三国志演義で特に面白いのは、三国時代に入るまで。というわけで、満田先生の「大まかに言えば184年から」というお言葉につながるわけです。

はい、ここからやっと本題。
私も文章書いてて、この「三国時代」の定義に悩むわけです。満田先生の「大まかに」のお言葉は大変心強いが、後漢時代は後漢時代と書きたいときもある。
そこで思いついたのが、220年以後の厳密な三国時代を「三国時代」と書き、184年からを「三国志の時代」と書き分ける。なにも私の発明じゃなく、これくらいのこと思いついた人はいくらでもいるでしょうが…

実は、ある時から勝手にこの定義で文章書いてたんですね。なんの断りもなく。
まあ、普通に読んでてあまり気にする人もないと思うし、だからどうした?という話ですが…

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2008年09月12日

楊彪  後漢最後の元老

書き手:赤龍

先日、三公のお話をした時「四世三公」と呼ばれる名門の話をしましたね。その一つは、袁紹、袁術でお馴染みの、汝南の袁氏。そして、もう一つが弘農の楊氏。今日は、その楊彪を紹介します。
「鶏肋」の故事で有名な、曹植の知恵袋、楊脩。その父親が楊彪といった方が、三国志ファンには伝わりやすいかな?

楊彪、字は文先。
曽祖父楊震から、代々三公の位に昇る名門の子として生まれます。

仕官後は、議郎から始まり、侍中、京兆尹などを歴任。その後も、各地の太守や九卿などの栄職を転々とします。
董卓が政権を握ると、ついに三公の一つ司空に就任。これで楊震以来四代に渡り三公を輩出。後世「四世三公」の名家の一つに数えられることになります。

この楊彪という人、歯に絹きせぬ直言家のようで、董卓が長安遷都を議した時も、董卓の威を恐れ、誰も黙りきっている中、一人敢然と反対。董卓が持ち出した予言の書を「妖邪の書、あに信用すべけんや」と一蹴するなど、かなり激しい論戦になり、董卓も怒りのあまり顔色が変わってきます。
これは楊彪の身が危ないと、肝を冷やした同じく三公の黄エンと荀爽。なんとか董卓をなだめ、会議はお開きに。ただ、董卓も腹の虫がおさまらず、災異を口実に楊彪と黄エンを罷免しました。

その後、楊彪と黄エンは董卓に謝罪に行き、董卓もこれを許し光禄大夫に任じられます。無事和解できたようです。黄エンあたりが、無理矢理連れてったんでしょうか?
董卓といえば、三国志演義なんかの影響で「稀代の暴君、逆らう者は朝廷の大臣だろうと容赦なく殺される」なんてイメージが強いかもしれません。
しかし、朝廷の高官、高名な士大夫なんかを相手に、今回のように腹を立ててあわやということがあっても、周囲のとりなしで罷免ですんだり、結局は許したり、言い負かされて誤ったり、意外と穏当なとこに落ち着いてることが多いんですよね。
成り上がりの武人ゆえに、名族、高官の連中に頭の上がらない一面があったか?なんとか、彼等を味方につけようと必死だったか?世間のイメージほど無茶はしてないんですね。

董卓死後の李カク政権で、三公の司空に復帰。地震が起きたことを理由に免職されるも(これまた、災異の責任を三公がとる、というやつですね)、後に太尉に復帰。
これにより、三公すべてに任官経験ありということになります。

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2008年09月11日

官職のお話 その4  丞相

書き手:赤龍

ちょっと別の投稿を挟みましたが「官職のお話」シリーズの続きに戻ります
前回はこちら↓
官職のお話 その3  九卿

さて、今回は皆様ご存知「丞相」です。なにせ、三国志のあの二大英雄がこの官で呼ばれるのですから

○丞相(一品)

以前「三公」のお話をした時「後漢の朝臣のトップ。人臣の最高位」と説明しました。たしかに、原則では、常設の官制の最高位です。
しかし、臨時の、非常設の官として、三公以上の権力を持ち、実質的政権のトップとなる官が置かれました。「大将軍」とか「丞相」がそれにあたります。大将軍はまたいつかお話しますね。

もともと、前漢の丞相は三公の一つであり、こうした特殊な地位ではなかったようです。丞相が前漢末に大司徒に改名され、それが光武帝の時「大」の字を取り、司徒に改名された。つまり、本来は「司徒=丞相」のはずなんです。

しかし、これが妙なことになるのが、董卓が政権を握った時。
董卓は、自らの地位を「相国」とし、三公の上に置きます。これまた「相国=丞相」みたいな関係だから、ややこしい。つまり「相国=司徒」であってもいいはずだが、董卓は別枠扱いに。
どうもめんどうな話ですいません。

ちなみに、日本では、これまた非常設の最高位「太政大臣」の唐名を「相国」といいます。この話は以前にもしましたね。「唐名」ってのは、官職をきどって中国風の名称で呼んでみせる雅称。おかげで、「相国」は日本人にもイメージが掴みやすいかもしれないですね。

董卓が死ぬとしばらくは、この臨時の官の「相国」はしばらく空位。
次に出るのが、ご存知「曹丞相」こと曹操です。

建安十三年(208)、河北平定を成し遂げ、江南遠征を控えた曹操は、三公を廃止。代わりに丞相を置き、自らその丞相の地位につきます。
丞相と司徒を並置しないと思えば、関係無い他の二つまでバッサリ廃止。
これは、はっきりいって、自分に権力を集中し、絶対的な位置に置く為の、露骨な改変ですね。名誉職的とはいえ、比肩する地位にある三公を廃止し、朝廷内には、曹操に匹敵する地位にある高官は存在しないことに。
董卓の「相国」から、さらに一歩進んだ権力掌握。

ちなみに、これ以前の曹操は司空。三国志の小説や漫画だと、献帝奉戴のあたりから、曹操のことを「丞相」とよぶことが多いですが、実はこの赤壁の戦いが起きた年以前に、曹操を「丞相」と呼ぶのは間違いなんですね。「曹丞相」より「曹司空」の時期が長かった。

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2008年09月10日

羊続  貧乏人は公にはなれぬ

書き手:赤龍

先日の記事、官職のお話 その2  三公にて、三公のお話をしましたが、それの補足として、気になる人物を。
そうそう、このシリーズ、なんか途中で放置しちゃってるみたいですが、続きはちゃんと書く予定ですよ(笑)

今回紹介の人物は「羊続」。後漢は霊帝の時代に活躍した人。演義にも、正史三国志本文にも登場せず「三国志の人なのか?」と苦情がでそうですが、まあギリギリ「三国志の時代の人」ということで、ご勘弁を

羊続。字は興祖。泰山郡平陽県の出身。
先祖代々役人の家柄で、羊続も「忠臣の子」ということで取り立てられました。
その後、一時「党錮の禁」に連坐し、その後なんやかんやと官を転々とし、廬江郡の太守に。

盧江太守やってる頃、黄巾の乱勃発。盧江にも黄巾軍が攻め寄せますが、これを撃退。
さらに、安風県の賊、戴風らの反乱を鎮圧。
その活躍は、広く世に知られたことでしょう。

中平三年(186)二月、江夏の兵士趙慈が反乱、南陽郡の太守を殺害するという事件が起こります。この後任の太守に任命されたのが羊続。
彼は正式に赴任する前に、粗末な衣服をまとい、童子一人を連れて、お忍びでこっそり郡に入り、色々と情報収集を。それから、太守として郡に入ります。新任の太守様は、役人から民にいたるまでの、よい評判も悪い評判も、つぶさに知っている。これには、郡の人たち皆びっくり。特に悪人どもは震え上がったことでしょう。

その後、荊州刺史王敏とともに、趙慈を攻め、これを斬り、見事に反乱を平定します。

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2008年09月08日

「関氏家譜」発見

書き手:赤龍

昨日、討論場の方に「関氏家譜」なるものが発見されたというニュースを紹介しましたところ、それについてのご質問を頂きました。というわけで、こちらに場を移して紹介を。


まずは、以下に記事を引用

三国志の重要な登場人物の関羽の家譜がこのほど、河南省障ナ州市で発見されました。家譜は、関羽の子孫が山西省から河南省の障ナ州市まで移住してきた歴史を記しているということです。家譜は木版印刷で、縦36cm、横23cmで、103ページあります。1787年に製作されたものです。

 家譜の主な内容は、関羽を称え、その生涯を記したものですが、歴代の皇帝や大臣が関羽を祭ったときの銘文や家系図も書かれています。

http://japanese.cri.cn/151/2008/09/01/1s125641.htm

ポイントは製作時期ですね。
1787年といえば、清朝、乾隆帝の時代。わりかし最近のものですね。三国志演義も既に存在しています。

記事の書きぶりからも推測できますが、おそらく後世の関羽伝説に基いて作られた家譜でしょう。
歴史上の人物である、三国時代の関羽、及びその子孫についての史実の解明。そうしたものには、おそらく役立たないでしょう。
しかし、だからといって全く無価値と言い出すのは早計。何も世の中の学問は歴史しかないわけじゃあないんですよ。当時における関羽信仰、関羽伝説などを考える上では貴重な資料になるかもしれません。こういうの、世の一般的な三国志ファンが期待するようなものではないでしょうが(笑)

まあ、成立年代とか内容とか、今後の考証待ちという感じです。

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2008年09月07日

曹操の「禹貢九州」再編

書き手:赤龍

現在「官職のお話」シリーズを書いておりますが、ずっと同じネタを続けてると私が飽きるので、ちょっと別の話を挟んでみます。「官職のお話」の方も、追々続きは書く予定です。

今回のネタを書くきっかけは、討論場の方で、「荊州は八郡?」という問題から、なぞの章陵郡についての話などに広がり、私も多少当時の郡県を調べてみたことによります。詳しくはこちら
http://m.z-z.jp/thbbs.cgi?id=359kk&p3=&th=328

そこで気になったのが、曹操による州再編問題。上記の話題とは直接関係ないですが。

問題の記述は、魏志武帝紀の建安十八年(213)正月
「詔書して十四州を并し、また九州と為す」
(詔書によって十四州を併合し、また九州とした)
という、ごく短い記述。この年の五月、曹操は魏公に昇っています。

後漢の十四州とは、司、幽、冀、并、青、エン、豫、徐、雍、涼、益、荊、楊、交の十四州。これを「禹貢」の九州の制に戻そうというのです。

「禹貢」とは、儒教の聖典の一つである『書経』の一篇。夏王朝の祖とされる、古代の伝説的な君主である禹が定めた九州について記したものです。

戦乱の世において、より細かく行き届いた地方統治をするためにも、州郡の分割が進むこの御時世。古典に基づき、時流に逆行するともいえる政策。一見、曹操らしくない行為です。なぜこのようなことを行なったのか?

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2008年09月06日

官職のお話 その3  九卿

書き手:赤龍

官職のお話シリーズ第三回です。前回は中央政府のそのまた中心に位置する「三公九卿」のうち、臣下の最高位である「三公」についてお話しました。今回は「九卿」です。
官職のお話 その2  三公

○九卿 (三品)

三公が国政のトップとすると、九卿は各省庁の大臣クラスという感じです。九卿というくらいですから、九つの役所があり、九卿はそのトップですね。では、それぞれの説明を、ちくま訳巻末の「三国職官表」を参考にして

太常…礼儀・祭祀及び天子の行なう行事を司る
光禄勲…宮殿の門戸宿衛を司り、殿中侍衛の士をとりしきる
衛尉…宮門の衛士、宮中の巡察を司る
太僕…車馬を司る
廷尉…裁判を司る
大鴻臚…諸侯及び四方の帰順した蛮族を司る
宗正…皇室親族関係を司る
大司農…金銭や穀物などを司る
少府…宮中の諸々の仕事を司る

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2008年09月05日

官職のお話 その2  三公

書き手:赤龍

三国志の時代の官職について、思いつくままあれこれ語っていこうという、いい加減なノリでスタートしたこの企画。前回は前置きとして大雑把な序列の仕組みをお話しました。それでは、今回から具体的な各官職の話をしましょう。

官職のお話 その1 

まずは、中央政府、都にある朝廷のお役人からお話していきます。
後漢の朝廷の中枢というべき重臣達は「三公九卿」と呼ばれる人達で構成されていました。今回はその「三公」

○三公 (一品)

後漢の朝臣のトップ。人臣の最高位というべき官です。なお、カッコ内は前回お話した「九品官人法」での官品

「三公」というからには、3つの役職から構成されます。最高位を一人ではなく、複数置くのは、臣下に君主を脅かす絶対的な権力を与えないためにも、古今ありがちな方法ですね。江戸幕府の、複数の老中による合議制とか。

その三公は、司徒、司空、太尉からなります。
時代によって、名称はちょくちょく変わりますが、三国志の時代では大体これで覚えていいでしょう。

彼等の仕事は何か?

司徒…「人民の事を掌る」(後漢書、百官志)主に礼儀とか教化とか、中華の「文」に関わることですね。
司空…「水土の事を掌る」(同上)土木、建築、水利などの事業の総責任者。
太尉…「四方の兵事の功課を掌る」(同上)軍事の最高責任者。といっても、直接戦争にでるのではなく、諸将の論功、賞罰など統制が主のようです。文民統制ってやつですかね?

ちなみに、ちくま訳の巻末付録の「三国職官表」では

司徒…政治を司る
司空…官吏の不正取締りに当る
太尉…軍事の最高責任者

ちょっと違いがありますが、前回お話した「国ごとにも、時期によっても官職の制度は変る」というやつと思ってください。特に、三公はあんまし職務を気にしないでいいです。その理由はおいおい

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2008年09月04日

官職のお話 その1 

書き手:赤龍

いつものことですが、しばらく空けてしまって申し訳ありません。最近また興味が別の方向にむかってまして……
でも、完全に三国志から離れていたわけでもないですよ。

先日古本屋で、大庭脩先生の『親魏倭王』(学生社)を見つけました。
タイトルからわかるように「魏志倭人伝」に関する本ですが、中国史の専門家による倭人伝研究ということで、後漢〜三国時代の東アジア世界の国際関係やら、卑弥呼のもらった制詔の説明など、非常に面白い内容でした。
中でも、一番私が注目したのが、魏から任命された「率善中郎将、率善校尉」、倭王武の「安東将軍」などの官位を説明するために、当時の将軍、中郎将、校尉がどういう地位なのかを変遷を追いながら述べられている部分です。三国志の官職を理解する上でも、大変勉強になりました。

いや、今回のテーマは書籍紹介じゃあないですよ。勿論この本はおすすめですが。

これを読んでふと思ったのが、人物紹介なんかで、その人物の任官した官職なんかを色々書いてますが、それについてここでまともに説明したことないなあ、という問題。
多分、三国志を初めて読んだときに苦戦するものの一つに「聞いたことが無い官職・役職が次々出てくる」というものがあると思います。

というわけで「当時の官職についてのお話を、おもいつくままあれこれしていこう」という新企画を思いつきました。
なんだか、あやふやで心配ですね(苦笑)そんなこと言われても「各官職を体系立てて整理し、その実体やら変遷やらをまとめる」なんて高尚なこと私に求められても無理なんです(涙)そういうことは、専門家の先生の本を探してください(あーあ、自分の無知を開き直ってしまった……)

不安全開なスタートですが、こんな感じでボチボチやっていきます。よろしくお願いします。

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2008年08月21日

『三国志集解』ってなに?

書き手:赤龍

いきなりどうでもいい話ですが、先ほど生まれてはじめてムカデにかまれました(涙)山の側に住んでるんで、毎年数回戦ってるんですが、かまれたのははじめて。なんとか応急処置もして、だいぶ痛みもひいてきました。

ほんとは、今日は本も読み終わって、さっさと寝るつもりでしたが、一気に目が覚めてしまって寝付けません。というわけで、あんまり調べなくていい、軽い内容で。

こちらのブログのタイトル「三国志博物館集解」
命名者は、こちらのサイト「三国志博物館」管理人の天草さん。当然ここもそのコーナーの一つ。ずっとこちらに投稿させて頂きながら今さらですが、この命名の理由聞いたことないなあ(笑)

このタイトルに変更された少し前、討論場で『三国志集解』という本の話題がありました。とりあえず、『三国志集解』の話をしてみましょう。


『三国志集解』とは、中国の盧弼という人の著作。
1936年出版ということになってますが、高島俊男さんによると「刊行されたのは1957らしい」(『三国志きらめく群像』)どちらにせよ、意外と新しい本ですね(これで新しいというのは、私の感覚が変なんでしょうか?)

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2008年08月20日

三国ご先祖自慢  その2

書き手:赤龍

次回に引く続き、三国志の人物のご先祖様の話です。
前回は、魏・呉・蜀三国の皇帝の先祖を比較してみました。

それでは、三国時代を再統一した晋の司馬氏から見てみましょう。

と、その前に。
諸葛亮のライバルとして有名な司馬懿。彼の伝記は、正史『三国志』の中にはありません。なぜ、こんな有名人の伝がないかって?彼の孫司馬炎が、魏から禅譲を受け、晋を建国した時、祖父の司馬懿に「宣帝」の諡号を追贈しました。さかのぼって皇帝の扱いになったのです。生前帝位につかなかった曹操が、魏の武帝と追贈されたのと同様です。
ですので、司馬懿は晋の創業者扱い。『晋書』に皇帝として記録すべき人物であり、『三国志』には伝を立てることがなかったのです。

では、その晋書の宣帝紀を見てみましょう。
「其の先は帝高陽の子重黎より出ずる」と、伝説上の五帝時代から語り起こされます。陳寿が曹氏の出自を記すとき、曹参以前をばっさり切り捨てたのとは、編集方針が違ってるのが見て取れますね。

それから、色々下って(面倒なので省略)、秦末の時代。
始皇帝の死後、陳渉呉広の乱を皮切りに、打倒秦朝に各地で立ち上がった諸将の一人司馬コウ。秦滅亡の後に、彼はその功績により、河内の地に殷王として封ぜられます。これが河内郡を本籍とする司馬氏の祖となるわけです。
私たちには馴染みが薄い人物で、いまいちパッとしない先祖ですが、これぐらいの方がリアルに感じますね(笑)

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2008年08月19日

三国ご先祖自慢  その1

書き手:赤龍

今回は、三国志の有名人達のご先祖様の話をしてみましょう。
といっても、祖父さん曾祖父さんが政府の高官だった、なんて現実的で面白みの無い(?)話はしません。もっと数百年前の、わが家の祖というべきご先祖様。

まずは、三国の皇帝の家から見てみましょう。さすがに一国の皇帝陛下の来歴となると、世間体というものがあります。仰々しいご先祖様の話から語り始めなければいけません。みな、しっかりご先祖様の事が書かれています。

まずは、魏の曹氏から。

魏志の武帝紀には
「漢相国参之後」(漢の相国参の後なり)
と書かれています。

「相国参」とは、漢の二代目相国の曹参。「相国」とは、臣下の最高位で、丞相と似たようなイメージをしてもらうといいでしょう。

日本では、平清盛が「相国さま」と呼ばれたりしますよね。あの相国。『三代実録』に「本朝の太政大臣、まさに漢家の相国等に当るべし」と。「唐名」といって、日本の官位を中国名に置き換えて呼ぶ雅称があったのです。
時代劇でお馴染みの水戸黄門。中納言の唐名で「黄門」というわけ。

話を戻しましょう。
曹参と言えば、高祖劉邦挙兵以来の、建国の功臣の一人。漢の世では名門の血筋といっていいでしょう。出身の沛も、劉邦、曹参らの出自と同じ、漢の発祥の地。信憑性はかなり高めと思っていいでしょう。

これが、注の『魏書』になると「その先祖は黄帝から出る」と、伝説的な中国人の祖ともいうべき存在から語りおこし、一気に眉唾ものになります。それから、曹氏の初代の事から、周の武王に封建され、その末裔が曹参に至るという、壮大な系譜です。さすがに陳寿も、これはやりすぎと思って不採用にしたんでしょうね。

でも、ちょっとまってください。曹操の祖父曹騰と言えば、宦官で有名ですよね。つまり、生殖機能が無く、子が作れない。では、曹操の父はどっから来た?曹操には曹参の血は直接流れてない?

武帝紀では曹操の父曹嵩について
「莫能審其生出本末」(よくその生出の本末を審ずるなし)
つまり「その出自ははっきりしない」、どっから養子に入ったのかわからない。皇帝の家系にしては胡散臭いはなしですね。魏を正統とする立場の史書で、こんなことをさらっと書いてしまう陳寿はさすがとしか言えません。

注の『曹瞞伝』(呉の人の著作)と『世語』(西晋の著作)には、
「曹嵩は夏侯氏の子で、夏侯惇の叔父である」
敵国の史書と、ずっと後世の史書で明らかになる。これもちょっと胡散臭い話ですよね。父祖の話題は、曹操にとってもかなり気にしていたことのようですし、魏においては曹嵩の出自に触れることはタブーだったのかもしれませんね。

ただ、夏侯氏といえば、準宗室クラスとして魏では重きをなした一族。これも沛の出身で、同じく漢建国の功臣夏侯嬰の末裔を称する家。曹氏と夏侯氏が以前から深い関わりがあったという推測は充分にできます。曹嵩が夏侯氏という話も、それほど無理があるとも思えません。

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2008年08月18日

裴松之の「注」について

書き手:赤龍

最近ふと思ったこと。
私は記事を書くとき、平気で「注では〜」「注に引く『○○』では〜」なんて書いてるけど、注に関する話ってちゃんとしたことあったかなあ。正史の構成とか知らない人には不親切なんじゃないか?
「なにを今さら」「そんなこと知ってる、馬鹿にするな!」と思われる方、まあ怒らず今回の記事は読み飛ばしといてください。

陳寿の書いた『三国志』。これが俗に「正史三国志」単に「正史」とも言われる、三国時代を記録した歴史書ですね。三国志の歴史を知る時に最も基本となる史料ですね。
この『三国志』に注をつけたのが、裴松之。

裴松之、字は世期。(372〜451)南朝、宋の時代の人です。
『後漢書』の范ヨウ、『世説新語』の劉義慶も同時代の人物。
三国志に伝のある裴潜がその先祖とされているようです。

三国志に限らず、史記や漢書、論語や孟子と、主要な古典の類には大抵「注」というものがあります。
三国志の人物でも、孫子に注をつけた曹操、論語に注をつけた何晏なんかがゆうめいですね。
こうした古典の注というものは、使われた語句の意味や発音についての説明、文中にしようされる故事の説明、などが中心でした。つまり、古典を読み、その意味を解釈するための注釈です。図書館にある『古典文学全集』みたいなのについてる注釈みたいなもんですね。

しかし、裴松之の注には、それとは違った特徴がありました。

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