2005年05月27日

魏延は反逆者か?

さて、本日は嶋本彰サンからリクエストのあった魏延文長について、お話しします。

三国志演義では黄忠と共に韓玄を倒し劉備に従軍…といった登場の仕方ですが、史書ではその様な記載はありません。しかし時期的には確かに南荊州から入蜀する際に劉備に従軍したのは間違いのないようです。
最初(入蜀時の対劉璋戦)からかなりの武勲を挙げたと思われますが、劉備が漢中を奪取(昨日の定軍山の戦いですね)し、漢中王になると、要所である漢中の押さえとして蜀の臣の中では張飛が太守・将軍として任命されるであろうと噂されてました。
張飛も自分が選ばれるであろうと思っていたとあります。しかし、実際に選ばれたのは他でもない当時まだ無名だったこの魏延でした

この様な華やかなデビューを飾った魏延ですが、世間の目はもっぱら『裏切り者』『不忠の輩』として見られがちです。演技の影響も大きいですが…。
ちなみに私は『人気投票スレ』でも魏延に投票してます。それ程彼の大ファンで、彼こそ真の『忠臣』であると信じて疑いません。それはなぜか…。


魏延を語る上で2人の人物との確執は避けて通れません。
丞相『諸葛亮孔明』と長史の『楊儀』です。

諸葛亮は227年、あの『出師の表』を上奏してから、都合五度の北伐を実行してますが、魏延はその度に自分に兵を一万授けて、長安までの最短ルートで突撃させて欲しい(少し意味が違いますが、大まかに)と諸葛亮に進言してます。
しかし、少しでも安全な策を取ろうとした諸葛亮はその全ての北伐において彼の進言を却下しました。
この事から魏延は諸葛亮を臆病呼ばわりするようになったのです。ちなみに諸葛亮はそれでも先鋒に魏延を使ってる事を見れば、諸葛亮の気遣いも感じられます。

この様な状態の魏延を周りの将は腫れ物に触るように接していました。そんな中唯一彼に食って掛かる人物がいたのです。それが楊儀でした。
この二人の仲は水と油のようであったとわざわざ書かれている事からも、相当な中の悪さだったと思われます。

さて、234年五度目の北伐(五丈原の戦い)で、諸葛亮は没しますが、この時彼は密かに楊儀・費イ・姜維といった信頼できる人物を呼び遺言を伝えます。その中に、この戦の撤退についての策が伝えられました。
それは姜維を先頭、魏延を殿(最後尾)にし、魏延が撤退の命に背くようでも、気にせず進むようにという残酷なものでした。
諸葛亮死後、楊儀は密かに魏延の意向を探らせると、魏延は
「たった一人の死のために天下国家の事をないがしろしにしてはならない!わしは自ら諸軍を率いて賊を討つ!」
と譲りませんでした。
そこで楊儀と費イは魏延を騙し、密かに撤退の準備を始めるのです。

しかし魏延はこれに気づき激怒し、兵を連れて先回りし、蜀へと続く桟道を焼き捨てたのでした。
この後魏延と楊儀はお互いが相手の叛逆を訴え劉禅に上奏しました。しかし、劉禅と董允・蒋エンが下した結論は、『反逆者・魏延を討て』という者でした。
こうして魏延は反逆者の汚名を着せられたまま馬岱によって斬られました。

ここまでが話の流れです。
この悲劇についての考えは様々です。皆さんはどう考えますか?
純粋に軍人としての戦いを選んだ魏延。決して間違いではないのに、奇襲策として取り入れられなかった策。全てが伏線としてこの悲劇に繋がっていきます。

さて届けられた魏延の首を踏みつけ罵った楊儀という人物、裴松之の注釈によれば、いつも魏延が裏切るつもりだと讒言していたと言います。そんな彼の最後も自分より先に出世してしまった蒋エンの悪口を費イに告げ口され、庶民に落とされています。さらに流された地で、またまた悪口により指名手配されました。この後自殺してますから、もうこれは現代でも通用する格言になりそう(笑)

純粋なまでに勇猛果敢で生粋の軍人だった魏延。
大好きな武将の話だったので、少し長くなりましたが、最後に彼の民間伝承として『石人石馬』の話を紹介して締めます。

魏延が馬岱に殺害された後、魏延の愛馬はその場を離れようとしませんでした。
馬は川の水に「私の主はどんな罪を犯して殺されたのか教えてくれ」と泣いて尋ねた。川の水はすすり泣くばかりで答えない。馬が「数々の武功を立ててきたのになぜだ」と考えていると、二人の人の話し声が聞こえた。一人は「これは冤罪だ!」といい、もう一人は「魏延様は無実だ。丞相(諸葛亮)が不公平なのだ!」と言った。
この二人は魏延に使えていた小姓で、馬は「お二人様はなぜ逃げなのですか?」と尋ねると、「私達は魏延様の墓を守るためにここに留まっているのだ」と言ったので、馬も「では私も共に魏延様の墓を守りましょう」と言いい、その日から馬と二人の小姓は墓を守るようにして傍に立った。
何年もの月日が流れ、日照風雨に晒される中、人も馬も石になった。蒋エンが諸葛亮の跡を継ぎ丞相となり、漢中を訪れた時、なぜこんな所に石人石馬があるのだろうと不思議に思い、辺りの人に聞いてみると、魏延の小姓と愛馬が石になったものだという。何か訳があると思った蒋エンが調査してみると、魏延は楊儀の讒言によって無実の罪を着せられたということがわかったので、蒋エンは劉禅に上奏し、楊儀を罷免することでその無念を晴らしてやった。
この石人石馬、今現在も漢中博物館に大切に保管されているらしいです。

amakusa3594 at 16:14│Comments(3)TrackBack(0)人物紹介 蜀 

トラックバックURL

この記事へのコメント

1. Posted by DJ SEIETSU   2005年05月31日 10:49
素晴らしい…私も関公を崇拝しているので、貴方の気持ちが痛烈に伝わる文献でしたよ。始めに上のブログをよんだのですが、こちらのブログは胸をうたれました。
2. Posted by 嶋本彰   2005年05月31日 16:31
ありがとうございました!^^
お礼が遅くなりまして、すみません(汗)

それと、遅ればせながらですが、お引越し、ご苦労様でした。
うちからのリンクも張り替えておきます。
これからも三国志のお話、楽しみにしております^^
3. Posted by 社長三国志馬鹿!   2005年10月05日 10:46
なんか、同士発見って感じで嬉しいっす! また遊びに来ますね。 よかったら、こっちも遊びにきてくださいまし!!

この記事にコメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価: 顔   
 
 
 
記事内容
月別記事