2008年08月18日

裴松之の「注」について

書き手:赤龍

最近ふと思ったこと。
私は記事を書くとき、平気で「注では〜」「注に引く『○○』では〜」なんて書いてるけど、注に関する話ってちゃんとしたことあったかなあ。正史の構成とか知らない人には不親切なんじゃないか?
「なにを今さら」「そんなこと知ってる、馬鹿にするな!」と思われる方、まあ怒らず今回の記事は読み飛ばしといてください。

陳寿の書いた『三国志』。これが俗に「正史三国志」単に「正史」とも言われる、三国時代を記録した歴史書ですね。三国志の歴史を知る時に最も基本となる史料ですね。
この『三国志』に注をつけたのが、裴松之。

裴松之、字は世期。(372〜451)南朝、宋の時代の人です。
『後漢書』の范ヨウ、『世説新語』の劉義慶も同時代の人物。
三国志に伝のある裴潜がその先祖とされているようです。

三国志に限らず、史記や漢書、論語や孟子と、主要な古典の類には大抵「注」というものがあります。
三国志の人物でも、孫子に注をつけた曹操、論語に注をつけた何晏なんかがゆうめいですね。
こうした古典の注というものは、使われた語句の意味や発音についての説明、文中にしようされる故事の説明、などが中心でした。つまり、古典を読み、その意味を解釈するための注釈です。図書館にある『古典文学全集』みたいなのについてる注釈みたいなもんですね。

しかし、裴松之の注には、それとは違った特徴がありました。



裴松之は、その注を宋の文帝に差し出した時の「上三国志注表」という文の中で、その注釈の性格を以下のように説明しています

○陳寿が記録しなかった事で、記録に残すべきと思うことは、全て取り入れ、その遺漏を補う
○ひとつの事柄について複数の記録がある時、判断に迷うものでも全てを記述する
○それに明らかな間違いがあれば、指摘し訂正する
○本文の記述や、陳寿の著述に若干の個人的論評を行う


陳寿の『三国志』は、歴代正史の中でも特に高い評価を受けているものです。
それは、疑わしい話はできるだけ排除し、正確な記述をのこすよう心がけてつくられたため。しかし、その反面、文章は非常に簡潔。単純な事実の羅列が続いたりと、正直言って面白みには欠けます。その点、いかにも作り話的なものも多いけど、読み物としての面白さは抜群の史記とは好対照ですね。

こうした陳寿の著述方針のため、不採用になった記録というものが大量に存在しました。それを裴松之は、自ら言うように、ピンからキリまで、信憑性に関わらずに集めていったわけです。
その参考とした文献は二百数十種にも及びます。
私が記事の中で「注の『魏略』では〜」「注に引く『英雄記』では〜」なんていうのは、この裴松之が引用した文献のことを指してるわけです。

裴松之が自ら宣言するように、疑わしい記録だろうが採用する。本文と注釈で話が食い違うことも多々あります。自分で引用しといて「この記述は出鱈目だ。話にならん」と自分でツッコミいれて憤慨してることもちょくちょくあります(笑)裴松之は何も言わなくても、後世の研究者から問題を指摘される記述もあります。

悪い言い方をすれば、はなはだ無責任に、疑わしい記録も採用してるんですね。「出鱈目と指摘するぐらいなら、そんなもの載せるなよ」なんて言う人もいます。

しかし、これは後世の人間にとっては、とんでもなくありがたい話なんです。
裴松之の使った文献の内、現存するものはほんのわずか。裴松之が採用しなければ、今に伝わらなかったことが大量にあっただろうということです。
そして、真偽の判断は、あくまで裴松之の判断であり、裴松之があわせて記録してくれてるおかげで、後世の人間も対比して比較ができる。
また、内容が真実ではなかったとしても、そうした誤伝や捏造があったということは、当時を知る上での貴重な記録でもあるのです。

このように、陳寿が採用しなかった、眉に唾つけて読まないといけないような話も沢山あるわけですが、そうした真偽を置いて小説的に面白い話というのが、後の『三国志演義』に数多く利用されています。
つまり、裴松之がいなければ、『三国志演義』も存在しえなかったかもしれず、そうであるならば、現在の三国志人気もまたなかったかもしれないのです。

というわけで、以後の私の投稿でも、特に説明もなく「注の『○○』では〜」とか言えば裴松之の注のことを指します。そして、何か言われたら、ここでちゃんと説明したぞ、と堂々と言い訳をさせてもらいます(笑)

参考
吉川忠夫「裴松之のこと」(『正史三国志』ちくま学芸文庫、2巻巻末解説)



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