2008年09月12日

楊彪  後漢最後の元老

書き手:赤龍

先日、三公のお話をした時「四世三公」と呼ばれる名門の話をしましたね。その一つは、袁紹、袁術でお馴染みの、汝南の袁氏。そして、もう一つが弘農の楊氏。今日は、その楊彪を紹介します。
「鶏肋」の故事で有名な、曹植の知恵袋、楊脩。その父親が楊彪といった方が、三国志ファンには伝わりやすいかな?

楊彪、字は文先。
曽祖父楊震から、代々三公の位に昇る名門の子として生まれます。

仕官後は、議郎から始まり、侍中、京兆尹などを歴任。その後も、各地の太守や九卿などの栄職を転々とします。
董卓が政権を握ると、ついに三公の一つ司空に就任。これで楊震以来四代に渡り三公を輩出。後世「四世三公」の名家の一つに数えられることになります。

この楊彪という人、歯に絹きせぬ直言家のようで、董卓が長安遷都を議した時も、董卓の威を恐れ、誰も黙りきっている中、一人敢然と反対。董卓が持ち出した予言の書を「妖邪の書、あに信用すべけんや」と一蹴するなど、かなり激しい論戦になり、董卓も怒りのあまり顔色が変わってきます。
これは楊彪の身が危ないと、肝を冷やした同じく三公の黄エンと荀爽。なんとか董卓をなだめ、会議はお開きに。ただ、董卓も腹の虫がおさまらず、災異を口実に楊彪と黄エンを罷免しました。

その後、楊彪と黄エンは董卓に謝罪に行き、董卓もこれを許し光禄大夫に任じられます。無事和解できたようです。黄エンあたりが、無理矢理連れてったんでしょうか?
董卓といえば、三国志演義なんかの影響で「稀代の暴君、逆らう者は朝廷の大臣だろうと容赦なく殺される」なんてイメージが強いかもしれません。
しかし、朝廷の高官、高名な士大夫なんかを相手に、今回のように腹を立ててあわやということがあっても、周囲のとりなしで罷免ですんだり、結局は許したり、言い負かされて誤ったり、意外と穏当なとこに落ち着いてることが多いんですよね。
成り上がりの武人ゆえに、名族、高官の連中に頭の上がらない一面があったか?なんとか、彼等を味方につけようと必死だったか?世間のイメージほど無茶はしてないんですね。

董卓死後の李カク政権で、三公の司空に復帰。地震が起きたことを理由に免職されるも(これまた、災異の責任を三公がとる、というやつですね)、後に太尉に復帰。
これにより、三公すべてに任官経験ありということになります。



この間も、李カクと対立した郭シが、朝廷の高官を人質にとろうとしたことを厳しく諌め、あわや郭シに斬られそうになる、という一幕もありました。

献帝が洛陽に帰還せんとすると、楊彪もこれに従います。
その道のりは、官職のお話 その3  九卿で触れたように、多くの朝臣が命を落とすほどの苦しいものでしたが、なんとか楊彪は献帝とともに、洛陽までたどり着きます。

しかし、旧都に戻った一行は、この地に長くとどまることはできませんでした。
献帝を庇護した曹操は、自らの勢力圏内の許へ遷都を強行します。楊彪の苦難も続きます。

許で公卿達と引見した曹操は、楊彪が不機嫌そうな顔をしているので「これを図らんと」(楊彪伝)しました。何を「図った」のかは直接書かれてませんが、多分殺そうとしたんでしょうね。先ほどの董卓と比べてみてください。曹操のほうが、よっぽど乱暴じゃないですか?不満そうな顔したから殺すって。どこのヤクザの因縁か?と(笑)
楊彪も、曹操の様子から危険を察知したのでしょう。宴会が始まる前に、厠へ行くふりをし、そのまま逃げ帰ってしまいます。
結局、楊彪は病を名目に罷免されます。

しかし、曹操もよっぽど楊彪が気に入らなかったのでしょう。これですむことはありませんでした。
楊彪が袁術と婚姻を結んでいたことが目をつけられます。帝位を僭称した袁術。その縁戚の楊彪も大逆の徒であると。投獄され、今度は堂々と国家の名分を振りかざして死刑にしようとします。
孔融が必死で諌めるも「これは国家の意である」(国家はつまり皇帝ですね)とはねつけます。孔融も食い下がらずに説得し「聞き入れないなら、明日にでも官を捨てて、朝廷をさる」とまで言い放ち、とうとう曹操も折れて、放免します。

ゆるされ、太常の地位に復帰した楊彪ですが、また再び罷免されます。追い討ちをかけるように「諸々の恩沢により侯の地位にあるものは、全て剥奪する」という布告が出されます。漢朝恩顧の旧臣を狙った迫害ですね。

楊彪は「漢室ももうおしまいだ」と絶望し、足が不自由なことを名目に隠居します。
思えば、霊帝没後の政変からの、続く数々の朝廷の苦難。その只中に国家の重臣として居つづけ、朝廷衰微の様を身を持って味わった楊彪。漢朝の終焉を誰よりも強く実感していたのかもしれません。

さらに不幸は続きます。曹植の側近として活躍していた子の楊脩が、曹操に厭われ殺されてしまいます。この時も「袁術の甥」ということが名目に持ち出されたそうです。
失意の楊彪のもとを曹操は訪ね、「随分と痩せたようだが、どうなされたか?」とわざわざ嫌がらせに行きます。よっぽど楊彪のことが嫌いだったのか、なんとも底意地の悪いことです。

やがて、曹操が死に、子の曹丕が継ぎ、献帝から禅譲を受け、名実ともに漢朝は滅び、魏の世を迎えます。なんと楊彪、何度も殺そうとした曹操よりも、彼の方が長生きしてるんですね。まだご健在なのです。

曹丕は父と違い、楊彪を優遇しました。やはり、なんといっても四百年の伝統を誇る漢朝に幕をおろしたのですから、反感を持つ者も少なくないでしょう。漢朝の遺臣の長老を礼遇し、風当たりを弱めようとしたのかもしれません。
曹丕は楊彪を三公の一つ太尉にしようと持ちかけます。これを楊彪は丁重に辞退しました
「彪漢の三公を備えるも、世の傾乱に遭い、よく補益するところにあらず。耄年にして病をこうむり、あに惟新の朝を賛けるべけんや」
(私楊彪は漢の三公の地位にありながら、世の傾き乱れることに対して、なにもおささえすることができませんでした。もはや老いぼれて病の身、どうして惟新の朝廷をおたすけすることができましょうや)

目をひくのは「惟新之朝」という言葉。惟と維はここでは同じ意味。つまり「明治維新」の維新と同じなんですね。そもそも「維新」とは中国の古典『詩経』を典拠とする言葉なので、楊彪が知っていて当然なんですが、三国時代の人も、新政権のことを「維新」と表現してたんですね。

太尉の位は辞退したものの、三公に並ぶ扱いを受け、「賓客の礼」により(家来扱いしないということですね)、後漢の長老として重んじられ、黄初六年(225)八十四歳の生涯を終えます。



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この記事へのコメント

1. Posted by ストラップ   2008年09月13日 04:50
「公卿」は三公九卿の事ですよね?

僕は「三公」を数年前まで、専売公社、電電公社、国鉄と勘違いしてました。
2. Posted by 赤龍   2008年09月13日 10:05
はい。その通りの意味で、原文でも「公卿」
日本語的な「くぎょう」とごっちゃになるので、どうしたものかと悩むものの、いい訳語も思い浮かばず、「三公九卿」と書いて、それと同格の人らも含む表現だとどうしようと迷い、結局そのまま放り込んじゃいました。

誤魔化せるかな?と思ったけど、しっかり見つかるもんですね(笑)

ところで、その勘違いは年がばれますよ(笑)もはや、若者にはわからないですって
3. Posted by ストラップ   2008年09月13日 23:13
鳥渡調べてたので、ついでに質問です。

「王湛門資台鉉……」
の訳は、
「王湛は三公(台鉉)の家柄(門資)で……」
だと思うのですが、王湛自身は三公じゃないんですよね?
4. Posted by 赤龍   2008年09月14日 04:41
王湛伝流し読みした感じでは、訳はそれで問題ないと思います。王湛はたしかに三公にはなってないようですね。

以前、討論場かどこかで九品官人法の簡単な説明をしたような気がしますが、採用時の査定で、最終的にどの官品まで出世できるかが決められていました。そして、この査定の判断基準が家柄偏向のものに。
王湛は父も兄も三公、建国の功臣の家柄。最終的に三公に昇れる家格とみなされ、おそらくそういう査定も受けたのだと思います。

三公になれる家格だったけど、実際はなんらかの理由でそこまでなれなかった。だから、わざわざ「三公の家柄」という書き方をしたんじゃないでしょうか?
5. Posted by ストラップ   2008年09月14日 07:13
解説ありがとうございます。

なるほど、そういう理由で、三公で無いのに、触れていたんですね。
知らないところでこっそりなってたかと、勘違いしていました。
6. Posted by 諏訪   2008年09月14日 09:00
王湛は当初、周囲から「癡」とみなされ、世間と交わりを断っていたようですね。
王湛が最初に就いた官は秦王の文学ですが、司馬柬が秦王に改封されたのは289年ですから、このとき王湛は41歳。
甥の王済は王湛を「山濤以下、魏舒以上」と評していますが、両者とも40歳を過ぎてから仕官して三公にまで昇進した人物。王湛も長生きしていたら三公になれたかもしれないということではないでしょうか?

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