人物紹介 魏

2009年05月11日

劉岱と王忠 やられ役コンビの真実

書き手:赤龍

今回紹介する二人は、演義でやられ役として出てくるパッとしないコンビ(笑)

徐州で独立した劉備を討つべく、曹操に命じられて派遣された両将。といっても、味方からも「あの二人じゃダメでしょ」と言われる程度の情けなさ。曹操も「袁紹を討つまで劉備を抑えてりゃいいよ」と、はなからアテにしてない模様。案の定、関羽と張飛に敗れ、張飛には乱暴者のイメージを逆手に取った計略にはめられる始末。見事に劉備軍の引き立て役として、雑魚っぷりを見せつけてくれます(笑)

この二人、演義にありがちな、引き立て役兼やられ役の架空の人物などではなく、それどころか、史実でもしっかりコンビで劉備討伐に失敗しています。

では、史実ではどのような人物だったのか?順に見ていきましょう。

まずは劉岱。

演義では、かつてのエン州刺史で、反董卓連合にも諸侯の一角として参加してたと説明されます。
実はこの劉岱、エン州刺史の劉岱とは全くの別人。エン州刺史の劉岱は、青州黄巾軍と戦い戦死したと、武帝紀にもはっきり書かれています。
同姓同名の別人というわけですが、さらにややこしいことに、字(あざな)までも同じ「公山」。字で呼んでも「劉公山」と区別できないんですね。記事書いてる私にも、厄介この上ない(笑)

この劉備に負けた方の劉岱、彼の素性は、注の『魏武故事』のわずかな記述が残るのみです。ちくま訳から全文引用しますと
「劉岱は字を公山といい沛国の人である。司空長史として(曹公の)征伐につき従い、功績があったので列侯に封ぜられた」
ホントにこれだけ。

このわずかな記述で注目したいのが、出身地。沛国といえば、曹操の出身地。同郷人。なので、結構はやくから曹操に仕えていた可能性もあり、同郷人として曹操から親愛されてたかもしれません。ただの雑魚なんかではなく、曹操の信頼する腹心だったかもしれないですね。

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2008年08月15日

呉質 曹丕の腰巾着

書き手:赤竜

前回に続いて、せっかくなので曹丕関連のネタをもうひとつ。

太子時代の曹丕の腹心として「四友」と呼ばれる人たちがいました。
司馬懿、陳群、呉質、朱シャクの4人です。
その中の、知名度低い部類の呉質を紹介してみましょう。

呉質、字は季重。エン州済陰郡の出身。
博識で知られ、ご機嫌とりにも巧みだったようです。

呉質は曹丕に気に入られ、後継者争いの際には、曹丕の参謀格として、色々と入れ知恵を行なっていました。

ある時、曹操が出征し、曹丕と曹植がそれを見送ることがありました。
当代随一の詩人の誉れ高い曹植。見事な曹操を称える詩を詠ってみせ、曹操はじめ周囲の人々を感心させます。
文学者としては『典論』を著すほどの曹丕も、詩文の才ではとうてい曹植に及ばず、人々が曹植を褒めそやすのを黙って見ているほかに術がありません。
そこに智恵を授けたのが呉質です「王(曹操)が出発されるときに、涙をながせばよいのです」
出立の時になると、曹丕はただ黙って拝伏し、別れの悲しみに涙を流してみせました。これに心をうたれ、曹操もその側近もまた涙を流します。これにより、曹植は言辞はなやかではあるが、誠実さでは曹丕に及ばないという評判をえます。

呉質が朝歌の長として赴任していた時、曹植派の楊脩らの策謀に不安を感じた曹丕は、呉質を密かに呼び寄せます。呉質は車に乗せた荷物の中に隠れて、曹丕のもとに参じますが、それを楊脩に察知され、曹操に告げ口されてしまいます。
勝手に任地を離れた上に、太子候補と密会。これが発覚すれば二人ともただではすみません。幸い曹操は「まさか」と聞き流しましたが、曹丕は不安になり呉質に相談します。
そこで呉質は、わざと同じ車に荷物で、中にはただの絹を入れて参内させます。楊脩これにまんまとひっかかり、今度こそ尻尾を押さえてやるぞ、と曹操に報告。さすがに二度目とあっては、曹操も調査を命じます。そこで車を止めて調べてみれば、中にはただの絹を運び込んでいるのみ。
見事に楊脩を出し抜いた上に、曹操の楊脩に対する信頼も落とすことに成功します。

なんというか、小賢しい入れ知恵ですが、こうしたこともあり、曹丕から抜群の寵愛を受けることになります。

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2008年07月29日

臧覇 侠気あふれる東方軍司令官

書き手:赤龍

なんとなく、私の独断による「三国志の強そうな名前ランキング」ベスト10に入る臧覇(いや、残り9人は決めてませんが…)その割に、何した人かいまいち知られてない、微妙な立場の彼。中々面白いエピソードを持ってる人なので、今回はこの臧覇を紹介してみましょう。

臧覇、字は宣高。泰山郡華県の出身。

彼の18歳の時の話です。
父の臧戒は県の獄掾(牢獄の役人。割と下っ端です)をつとめていました。
あるとき太守が、正当な理由もなく、自分勝手に死刑を行なおうとしました。臧戒はこの横暴に対し、法を根拠にしてはねつけました。
太守はこの臧戒の反抗を大いに恨み、臧戒を逮捕して、役所まで連行させました。その護送の数は百を超えます。
臧戒の息子の臧覇は、臧家の食客数十人を集め、護送の集団が山を通過する際に襲撃。見事父を奪い返し、そのまま徐州の東海郡へ逃げ延びました。
この事件で、彼の勇壮さは知れ渡ることになります。

なんとなく、水滸伝にでも出てきそうな話ですね。

徐州で黄巾賊の反乱が起き、陶謙が徐州刺史として派遣されると、臧覇はこれに協力し武功をあげ、騎都尉に任じられます。

官を得た臧覇は、孫観、呉敦、尹礼らとともに軍を集め、開陽に駐屯します。
『魏略』には彼ら4人について「臧覇は一名奴寇、孫観は一名嬰子、呉敦は一名アン奴、尹礼は一名盧児という」という、妙な彼らのあだ名を列挙してます。当時の賊の頭目連中は、みなあだ名を称していましたが、そうした類のものでしょうか。
また、彼等が集めた軍勢は、鎮圧されたもと黄巾賊を主体とするものではないかという説もあります。曹操の青州兵の例もあるように、当時手っ取り早く兵を集めようとしたら、こうした賊や流民、無頼の輩なんかを集めるのが一般的でした。大いに可能性のある話です。

このように、臧覇らの軍勢はちょっと物騒な私軍として、徐州で独立的な位置を占めていました。ますます水滸伝チックな集団(笑)

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2007年06月21日

検証!陳矯の調査で発覚した当時の常識

書き手:天草


初心者質問掲示板で陳矯についての質問がありました。

私自身も良く分かっていなかったので、ついでに勉強し、集解の記事にしたいと思います。

興味のある方は、下から続きをお読み下さい。

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amakusa3594 at 22:06|この記事のURLComments(4)TrackBack(0)

2007年03月01日

曹操に最も惜しまれた男 郭嘉

書き手:赤龍

討論場での予告どおり、その早すぎた死を惜しまれた軍師郭嘉を今回は取り上げます。といっても、郭嘉は任期キャラ。私が今さら人物紹介するまでもないでしょう。タイトル通り、いかに郭嘉の死を曹操が惜しみ、悲しんだか。そこに焦点をあててみようと思います。

郭嘉、字は奉孝。潁川郡の出身。戯志才の後任として荀に推挙され、曹操に仕えることになります。
曹操の参謀として、対呂布、対袁氏との戦いに活躍し、また、孫策の非業の死を予見したことでも有名です。
207年、烏丸討伐に従軍するも、帰還後、死去。享年三十八。若手の参謀でありながら、早すぎる死でした。

この若き才人の死に、曹操は大変悲しみます。優れた人材を愛したといわれる曹操ですが、これほど惜しまれた人物は他にいないのではないか?と思えるほどです。

葬儀の席で曹操は「諸君の年皆孤の輩なり、ただ奉孝最も少し。天下の事竟れば、以って後事をこれに属せんと欲するも、しかるに中年にて夭折す。命なるかな」(諸君は皆私と同年輩だが、奉孝だけが一番若かった。天下の事が終われば、後事を彼に託そうと思っていたのに、中年にして夭折してしまった。これも運命か)と語ったといいます。「中年」は、現在の中年のオッサンをイメージしないほうがいいでしょう(笑)「人生半ばに」くらいのニュアンスでしょうか?
「後事を託そうと思っていた」というのには注目ですね。荀、程イクらを共に戦う同世代の参謀と見ていたのに対し、郭嘉は自分の次の世代を担う人物として、その才と共に、これからの成長も期待してたのでしょう。年代的に、我が子に近い感情もあったのかもしれません。

その後上奏し、郭嘉の子に領邑八百戸を加増。計千戸とします。当時の曹操の臣で千戸以上与えられたのは、夏侯惇、荀ら一握りの重臣だけ。それが、せいぜい十代か二十歳そこらの若僧にこれだけの加増。これもまた、曹操の強い哀惜の意を感じます。
ちなみに、この時の上奏文が、『蒼天航路』の郭嘉の死の回の時、最後の頁に引用されたものです。

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2006年05月18日

李典 実は早死

書き手:赤龍

今回は、久々に初心に帰って人物紹介。それも、なぜか今まで少なかった魏の人物で。というわけで、今回注目するのは李典。有名すぎず、マニアックすぎず、微妙なポジションの彼を選んでみました。

まず、演義での李典。曹操挙兵時に楽進とともに参加した、曹操軍中でも最古参の一人。その割にはいまいちこれといった活躍がなく、曹操軍のその他大勢とか、曹仁や夏侯惇の副将とかいう役割でちょくちょく顔を出してます。そして、同期の楽進とセットででてくることが多いイメージがあります。そして、そろってやられ役(笑)。
光栄の三國志でも、昔は楽進といっしょに雑魚武将をやってました(笑)。靴△燭蠅ら徐々に評価はあがってますが。

では、正史での彼を見てみましょう。と、その前に、まず彼の従父の李乾の話から入らなければいけません。
李乾は雄雄しい気性の人物で、食客数千家を集めて済陰郡の乗氏という地に住んでいました。後にも「配下と一族一万三千余人」という記述もあり、かなり大規模な力をもっていたことがわかります。かつて、三国時代の人口の大減少の裏にある理由の一つに、豪族の私有民の存在をあげました。これなんか、その格好の例ですね。ちなみにこの李氏は、当時の豪族の武人領主化の例としてしばしば注目されたりしてます。
さて、この李乾、初平年間(190〜193)に曹操に従い、寿張の黄巾賊との戦いに活躍したといいます。おそらく、初平三年曹操がエン州に迎えられ、青州黄巾賊と戦っているころ、曹操に帰順したのでしょう。
その後も、対袁術戦、徐州侵攻と活躍を続けますが、ここで曹操の根拠地エン州が呂布に奪われるという非常事態が発生します。曹操はエン州諸県の離反を防ぐため李乾を帰還させます。しかし、呂布側の者により殺されてしまいます。

その後李氏の軍を継いだのが、李乾の子李整。彼もエン州平定に活躍し、父を殺した連中も打ち破って仇をうち、青州刺史にまで昇進します。しかし、李整もほどなく死亡します。その後李氏の軍を継いだのが李典。ここでやっとのこと李典が歴史の表舞台に姿を現すことになります。

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2006年05月13日

スーパードクター

書き手:黒耀竜

どうも〜♪「資料や文献をまとめるだけで、自分では何も考えていない」黒耀竜です。じつは三国志の時代の建築物について書こうとしたのですが、わけあって延期しました。そこで予定変更。今回は三国志時代の「医」についてご紹介したいと思います。

 

 まずは三国志の時代の医者について。当時の医者と言えば、おそらく100人中99人(根拠なし)が華佗(名については異説あり)を挙げるでしょう。ですが、彼については三国志討論場の「ブラックジャック」 スレがすでにありますので、詳しくは触れません。ひねくれものの私は、張機・王煕・皇甫謐(ついでに左慈も)を取り上げます。張機と王煕は陳寿『三国志』には出てきませんが、紛れもなく実在した人物です。私の創作ではありませんので、念のため。それでは、まず彼らのプロフィールから・・・。続きを読む

2005年06月20日

占い師 朱建平

書き手:赤龍

最近、討論場で盛り上がってる「曹丕」。では、私は曹丕の死期について占った占い師を紹介しようと思います。

その占い師の名は「朱建平」。人相見を得意とし、また馬相を見ることも得意だったと言われています。野にあって高い評判を得て、曹操が魏公であったころ召し出され、朗官の地位を与えられました。

曹丕の寿命を占ったのは、この頃の事と思われます。
朱建平は「将軍(当時曹丕は五官中郎将)の寿命は80歳ですが、40歳になられた時にいささか災難がございましょう。どうか気をつけて御身を守られますよう」と。
ここで「おや?」と思う方もいるかもしれません。討論場でもしばしば触れられてるように、曹丕は40歳で死去。その早死にを惜しむファンもいます。いきなり朱建平はずしたのか?

曹丕が40歳で病の為危篤となると、周囲の者に言いました。「朱建平が80と言ったのは、昼と夜を別々に数えてのことだった。吾の寿命はきわまった」その後まもなく崩御します。
なんか、いまいち腑に落ちない結果ですね。曹丕に遠慮してそんな事を言ったのでしょうか?確認しようにも、この時朱建平は既に死んでいます。

この人、こういう微妙な占いが多いんですよね。では、もう一つ夏侯威のケース。続きを読む

2005年06月19日

七歩詩〜曹丕と曹植

書き手:天草

曹丕スレ』が盛り上がってましたので、あえて曹植の話をしますw
殆どの皆さんが彼について知らない方などいないでしょうから、あえて詳しい話はしませんが、曹操の三男。曹丕の弟で、曹丕と後継者争いを演じ、三国志・三国志演義でも一位・二位を争う悲劇を演じてしまうことになる人物です。ちなみに彼の名前を『そうしょく』と読んでる方も多いと思われますが、『そうち』が正しいという説が多いです。どちらも間違いじゃないと思いますが(笑)

彼について語る上で、忘れてはならないのはやはり文才・詩才でしょう。
建安時代を代表する文学人の一人として今でも語られる彼の文に心を打たれる人も少なくなく、『八斗の才』『七歩の才』と呼ばれる彼の代表作はご存知『七歩詩』です。
この詩には様々な書き方が残されていますが、ここでは『世説新語』の作品とその背景を抜粋します。

「文帝、嘗(かつ)て東阿王をして七歩の中に詩を作らしめ、成さざれば大法を行わんとす。声に応じて便ち詩を為(つく)りて曰く…」
という文で始まります。

曹丕は曹植に七歩歩く間に詩を作れと命じます。もしこれが出来なければ大罪だと。曹植はたちまち詩を語り始めました。

豆を煮て豆乳を作り
醗酵させて汁にする
豆がらは釜の下で燃え
豆は釜の中で泣いていた
もとは同じ根から生まれた同士
どうしてそれほどひどく煮詰めるの


実はこの作品は曹植の作品ではないのではないか?という説が根強く残り、今ではそれが一般的だとも言われています。
理由は彼の作品の全てと比べ、詩の手法に違いがあるということらしいのですが、私は中国の古文系に疎いので、ここら辺は詳しく分かりません。続きを読む

amakusa3594 at 15:25|この記事のURLComments(3)TrackBack(0)

2005年06月12日

魏の切り込み隊長

書き手:天草

蒼天航路もいよいよ佳境のようで…関羽が表紙のモーニング最新号を紹介していた蒼天三国志blogというブログを発見しましたので、私はリアルタイムに読んでいないのですが、そろそろクライマックスなのかな?

そういえば、去年いっぱいで終わるやら…いろんな噂が飛び交ってましたが、やはり曹操が死ぬあたりで終わりでしょうか?

何はともあれ、コーエーの三国無双シリーズとともに、蒼天航路が日本の三国志ファンの増大を担った功績は非常に大きいと言う事に変わりはないでしょう。

そんな蒼天航路の名場面に一つに楽進のシーンを挙げる人も少ないないようで、私もその一人です。
今日は魏の切り込み隊長・楽進文謙について説明します。続きを読む

amakusa3594 at 13:04|この記事のURLComments(3)TrackBack(0)
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