1994年3月16日にNHKが放送した、「現代史スクープドキュメント 原発導入のシナリオ~冷戦下の対日原子力戦略~」を3回に分けて文字に起こした。今回は第1回目。米ソが水爆開発に躍起になっていた最中の1954年、極秘におこなわれていたビキニ水爆実験で、第五福竜丸が被ばくし、放射能パニックに陥った日本。そんな中、アイゼンハワー大統領が核の平和利用と唄った「原発」を日本に作るため、「毒は毒をもって毒を制す」という題目を掲げた柴田秀利(TOP画像右)という男が暗躍し、読売新聞社主、正力松太郎(TOP画像左)とアメリカをつなげた。福島第一原発事故真っ只中の今、当時の状況と重なるところもあるのではないだろうか。
(開始)
去年12月アメリカ政府は核開発に関わる隠された事実を明らかにした。
字幕「プルトニウムの人体への注射」
字幕「ベータ線に対する皮膚の反応」
冷戦が本格化した1940年代後半から50年代、放射能の影響を調べる人体実験が行なわれていたというのである。
こうした中、アメリカはもう一つの巨大な実験を準備していた。
1954年3月1日、アメリカは南太平洋ビキニ環礁で、水爆ブラボーの爆発実験を行った。
この実験で放出された死の灰が、近くで操業中のマグロ延縄漁船、第五福竜丸に降り注ぎ乗組員23人が被爆した。いわゆる第五福竜丸事件である。
広島長崎に継ぐ3回目の被ばく事件として、日本では激しい反米世論と放射能パニックが沸き起こった。
このころ一人のアメリカ人が銀座で日本人と密談を交わしていた、二人は日米関係に亀裂が入ることを恐れ、ある計画を具体化すべく協力を約束した。それが日本に原子力を導入する重要なステップとなっている。
日本人の名は柴田秀利、当時日本テレビの重役であった。柴田は日本の初期の原子力開発に関わる膨大な書類を残している。
政財界の要人の連絡先を記した手帳、アメリカの頻繁な書簡の往復、そして政府側の内部文書など、その数は200点を超える。そこからは日米が手を組み、反核感情が高まる日本に原子力発電を導入するシナリオが、鮮明に浮かび上がってくる。
タイトル「原発導入のシナリオ〜冷戦下の対日原子力戦略〜」
原爆でアメリカに遅れをとったソビエトは、1950年代、水爆の開発に躍起になっていた。
そして1953年8月12日、ソビエトはアメリカに先んじて実用的な水爆の開発に成功した。
核開発競争で始めてソビエトが優位にたったのである。
4ヵ月後アメリカのアイゼンハワー大統領は国連総会に向けて演説を行った。それは原子力の情報をすべて機密扱いにしてきた従来の政策を大きく転換するものであった。
字幕「私は、提案したい。原子力技術を持つ各国政府は」
「蓄えている天然ウラン濃縮ウランなどの核物質を」
「国際原子力機関(IAEA)をつくり、そこにあずけよう」
「そしてこの期間は、核物質を平和目的のために」
「各国共同で使う方法を考えてゆくことにする」
アトムズ・フォー・ピース。原子力の平和利用を呼びかけたこの提案は、画期的な核軍縮提案とみられた。
ウラン鉱石の中に含まれる核分裂性物質、ウラン235。その濃度を挙げたいわゆる濃縮ウランが核兵器に使われる。アメリカの提案は、核兵器用に濃縮した濃縮ウランを原発など民間に転用することにより軍縮を進めようというものであった。
しかしこの提案の裏には、アメリカの各戦略におけるもうひとつの大転換があった。演説の5日前に開かれたアメリカ国家安全保障会議の文書にはこう書かれている。
アメリカは同盟国に対して核兵器の効果や利用法、ソビエトの核戦力などについて、情報を公表していくべきである。
それはNATOなど同盟国諸国にアメリカの核兵器を配備しようとする計画であった。平和利用を呼びかける一方で、西側諸国の核武装を進めていたのである。
ソビエトはアメリカの2枚舌を非難して、原水爆の無条件禁止を世界に訴えた。そして米ソは、互いに核の脅威を煽り立てる宣伝合戦を繰り広げていく。
字幕「ソ連の国内向け宣伝映画」
「これが原爆です。巨大な爆発力を持つ原爆はー」
「アメリカによって第二次大戦で始めて使用されました」
「いかにしてアメリカはソビエトとの戦争に勝利するか」
「そんな内容の雑誌が、アメリカで発行されています」
「すでに1945年以来ずっとワシントンではー」
「ソビエトとの核戦争に備える動きがあったのです」
「アメリカの国内向け宣伝映画」
「原爆だ! 頭を下げて隠れろ!」
「頭を下げて隠れろ!」
字幕「東京」
アメリカは海外での広報宣伝活動を強化するため、海外各地へ広報文化交流局、いわゆるUSISを置いた。
東京には、当時虎ノ門のアメリカ大使館別館にUSISが設置されていた。USISは、新聞や放送、映画などのメディアを通じて、アメリカの原子力平和利用の宣伝を進めていった。
字幕「当時のUSIS」
字幕「元USIS局 次長 ルイス・シュミット」
我々、USISは日本での原子力平和利用の宣伝活動に特に力を入れました。日本は原爆が投下された、唯一の国であり、いかなる形の原子力計画に対しても反発していたからです。」
字幕「ビキニ環礁(1954年3月)」
アメリカは、原子力平和利用計画を宣伝する一方で、ソビエトを凌ぐ水爆の開発に全力を上げていた。アイゼンハワーの演説のわずか3ヶ月後の1954年3月、ビキニ環礁で、秘密裏に、水爆実験キャッスル作戦が実行された。
字幕「水爆ブラボー(1954年3月1日)
秘密だったはずの実験は、第五福竜丸の被ばく事件によって、世界中に知れ渡った。やがてビキニ近海でとれた魚から放射能が検出され始めた。
食料品の汚染は国民の不安をかきたて、アメリカの核実験に対する反発が強まった。さらに雨からも微量の放射性物質が検出され、
野菜や牛乳などにも汚染の疑いが起こり、放射能パニックが広まっていった。
字幕「広島市(1954年8月6日)
原爆の日を迎えた広島でも、米に対する非難の声が相次いだ。
「アメリカ人道主義なんていっとるけれども、なんで人道主義が唱えられるんだ。原爆というのはもう、この世から、ないようにしちしまったらええ」
字幕「元 USIS局 次長 ルイス・シュミット」
「私たちが折角積み重ねてきた努力も、水の泡になってしまいそうでした。全く最悪の事態だったといってもいいでしょう。第五福竜丸事件の後、日本人は、アメリカの原子力平和利用計画に、さらに、疑いを強めるようなことになってしまったのです。」
柴田秀利は、反米に傾いた世論の動向を危惧していた。柴田は、このビキニ事件が起こした大きな波紋を、次のように記している。
「日本は唯一の被爆国であり、こと原子力というと、たちまち人々の神経は苛立ち怒髪天を衝く。原爆アレルギーの最たる国である。」
「日本人全体の恨みと怒りは、それこそきのこ雲のように膨れ上がり、爆発した。その動きを見逃す手はない。たちまち共産党の巧みな心理戦争の餌食にされ、一大政治運動と化した。」
字幕「柴田秀利」「吉田首相」
柴田は吉田総理大臣を始めとする、経済界の上層部に通じていた。
また、国内のみならずアメリカにも多くの人脈を持っていた。
字幕「アイゼンハワー大統領」
字幕「第2時読売争議(1946年)」
戦後最大の労働争議の一つと言われた読売争議。柴田はその中で頭角を表した。
GHQの担当記者だった柴田は、GHQの幹部を動かして組合側の要求を抑え、経営側を勝利に導いた。
柴田は社主、正力松太郎の懐刀として、次第に重用されるようになり、
そして日本テレビの創設に深く関わり、GHQの人脈を元にアメリカとの交渉に辣腕を振るったのである。
手記によれば、柴田は、第五福竜丸事件の後、銀座の寿司屋で一人のアメリカ人と接触を重ねていた。
字幕「柴田秀利の手記より」
「このまま放っておいたら、せっかく永々としてとして築きあげてきたアメリカとの友好関係に決定的な破局を招く。日米双方とも対応に苦慮する日々が続いた。この時アメリカを代表して出てきたのが、D・S・ワトソンという私と同年輩の肩書を明かさない男だった。」
「私は告げた。日本には毒を持って毒を制するということわざがある。原子力は諸刃の剣だ。原爆反対を潰すには、原子力の平和利用を大々的に歌い上げ、希望を与える他はない。」
柴田の書簡にも名前が登場する。ダニエル・S・ワトソン。ワトソンとは一体何者だろうか。アメリカコネチカット州にかつてワトソンの同僚だった人物がいた。彼は匿名を条件に電話インタビューに応じた。
字幕:記者「なぜワトソンを知っているのですか?」
男「同じ時期に東京に駐在し、政府のために働いていたからだ」
記者「ワトソンは、心理戦略などに関与していましたか?」
男「その通りだ」
記者「情報は国家安全保障会議などに届けられていたのですか?」
男「そのとおりだ。当時は、アイゼンハワー政権の時代で、大統領は、原子力平和利用計画には特別熱心だったからね」
記者「すると原子力平和利用計画についての情報は…」
男「情報は、かなり高いレベルのところに届けられていたよ」
ワトソンはメキシコに住居を移していた。
字幕「クエルナバーカ(メキシコ)」
メキシコ南部にあるクエルナバーカ。メキシコ屈指の高級保養地クエルナバーカに、ワトソンは今も健在であった。ワトソンは日本での活動を終えた後、パキスタン、香港、ベトナムなどで、アメリカ政府のために働いたという。
字幕「ダニエル・ワトソン」
しかし、彼は所属機関や日本での仕事の目的については、けっして明かそうとはしなかった。
「私が政府のどの組織に属して、どう報告していたかは、当時柴田にも伝えませんでした。日本に来ている公式の目的についても同じです。柴田も私に対して同様の態度をとっていました。私が言えるのはそれだけです。」
「柴田は明らかに首相官邸と連絡をとりあっていました。私は日本の首相から出された様々な提案を柴田を通じて受け取っていました。私は非常に驚きました。それはテレビ局の重役がするような提案ではなかったからです。まったくレベルの違うものでした。」
対日政策の進行状況を記した、当時の国務省の報告書。第五福竜丸事件後の対日政策について次のように記されている。
「核兵器に対する日本人の過剰な反応は日米関係にとって好ましくない。核実験の続行は困難になり、原子力平和利用計画にも支障をきたす可能性がある。」
字幕「日本に対する心理戦略計画」
「そのために、日本に対する心理戦略計画をもう一度見直す必要がある。」
ワトソン自身の説明によると、彼は1953年の6月に来日した。やがて当時のイギリスのサンデー・タイムズの東京特派員を通じて、柴田秀利と知り合った。目的は読売新聞社主、正力松太郎に近づくことであった。
字幕「ダニエル・ワトソン」
「日本では新聞を抑えることをハッキリ分かっていました。それも大きな新聞をです。日本の社会は新聞に大きく影響を受けます。日本人は一日に3誌に目を通し、それから自分の意見を組み立てるのです。」
「その新聞は当時一人の男によって経営されていました。その下には決してミスをしない優秀で従順な部下が揃っていました。ですから、この仕事で成果を上げるには、誰よりも先に正力さんに会って話をした方がいいと思いました」
当時の読売新聞社主、正力松太郎。
字幕「読売新聞 社主 正力松太郎」
内務省の警察官僚だった正力は、大正13年、官職を退いて読売新聞の経営に乗り出した。正力が買収したとき、発行部数わずか5万部あまりだった読売新聞は、正力の斬新な企画力と紙面改革力によって急速に部数を拡大した。
昭和28年、正力は新たな事業拡大に乗り出した。日本初の民間テレビ局、日本テレビ放送網を創設したのである。街頭テレビのプロレス中継は、爆発的なブームを呼んだ。
読売新聞の発行部数はこの時300万部に迫ろうとしていた。正力は新聞とテレビの2台メディアを手中に収めていたのである。
ワトソンは柴田の仲介で、正力松太郎と会談する機会を持った。
(続く)
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コメント
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ねぎらいの言葉ありがとうございます。これからもお付き合いいただければ幸いです。
大変ためになります!