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原発事故現場が戦争に例えられることが多い。原発推進派の石川迪夫や反原発の小出裕章氏を始め多くの人がそのように発言している。筆者もそのように感じる。とはいえ私は戦争を経験しているものではないので福島原発事故現場は戦争のような大変な現場なのだろうなあ、と思うしかない。

いったい何が戦争なのか。死を賭して作業に当たっていることが、戦争だと例えられる理由の1つであることはわかる。放射能を恐れて福島から疎開する人達がいることも、空襲を避けて疎開した戦時中を思い起こさせる。そういう具合に戦争との類似点をいくつも僕たちは見つけることができるだろう。

この類似点は、戦争の被害という視点で語られるものだ。だが本当に似ているのは被害の点だけだろうか。

私が福島原発事故について本能的に感じる気持ち悪さは、原発事故は組織によってもたらされたところにある。福島原発事故だけではない。その後の九州電力のやらせメールもそうだ。そこには組織のもつ胡散臭さが漂う。私が、こういった組織が持つ胡散臭さをどうしても受け入れられない、極端な人間だからかも知れない。

このブログでは機会があるたびに書いているが、私は今、ニートだ。つまり組織に属して仕事をして報酬を貰っているわけではない。だから非常に気が楽だ。お恥ずかしいが気を使う相手は屋根を借りている両親ぐらいだ。だがかつて、私にも、多くの人達と同じように組織の中で仕事をしたことがある。短い間だが、これを読む皆さん全員が御存知であるに違いない巨大な企業の中で働いていた。

私はそこを逃げ出した。それは見る側の立場を変えれば排除したと見ることもできる。私はつまるところ組織の中に居場所を作れなかった人間だ。組織の中でうまくやる能力がなかったのだ。はっきり言うならば私には協調能力が欠如している。そのため私は組織の中でとても苦しんだ。根本的に他人から命じられることがどうしても嫌な私は、納得できないことがあると立ち向かうか、あるいは生理的に逃げ出す習性がある。納得出来ることならばそれはそれで必要以上に自分の能力の無さを痛感してしまう。逃げ出せばそれはそれで自分の責任のなさに嫌気がさした。

そんな具合に組織というものが苦手な私は、東京電力という巨大な組織が行った犯罪的な大事故に対して、組織の中にいるものとしての目線で理解することがおそらく出来ないし、試みてもうまくいかないだろうと思っている。

だからこそ、私はここ最近、組織に興味がわいていた。なぜ人は組織に属すことを選ぶのか。その選択肢を簡単に受け入れる人がいる一方で、受け入れざるを得ず苦しみつづける人がいるのか。そこには必ずお金が介在する。つまり生活が介在する。ミクロな視点では生活を維持しようとする個人個人のせいで組織はだめになると見ることもできる。生活と組織と権力。私たちは、弥生時代に農業を手に入れ、余剰生産を行い始めてからずっとこのサイクルの中に存在し続けている。実は恥ずかしいことに私は改めて高校の日本史の教科書を購入して読み直している。歴史というダイナミックな視点を持ちたいからそうしているのではない。改めて日本の歴史の中の個人個人はどんなことを考えながらその時代を生きていたのかを少しでも知りたいと思ってしまったからだ。そこにどんな生活があったかを知りたい。

書店で平積みになっていたこの書籍に出会ったのもひょっとしたらそういう私の心境が左右していたのだろう。

「日本海軍400時間の証言 軍令部参謀たちが語った敗戦」(NHKスペシャル取材班)

NHKスペシャル制作の経験を書き記した書籍だ。

私はすぐに、海軍と東京電力を比較対象と捉えてこの本を手にとった。16Pのプロローグはすぐに私にこの本を今読むべきだと教えてくれた。

『この日も居酒屋に私たちはいた。私の横で豆腐をつついていた戸高氏が、箸を止め、少し遠くを見るような顔になり、そしてそれまで一度も口にしなかった「軍令部」中枢の海軍士官などによって秘密に行なわれていた「海軍反省会」とその録音テープの存在を明かした』

海軍が敗戦後に「反省会」をしていたそうで、その録音テープが残っているということが明らかになったことを記述した箇所だ。私は皆さんの大半の人と同じように、戦争を体験していないし、軍隊について詳しくはない。だからこのあたりで皆さんがこのブログにアレルギーを起こすことがありそうだなあと思う。でも極力みなさんにわかりやすいように簡単に書いていきたい。

太平洋戦争で負けた日本の、海軍の幹部たち、が戦争に負けてしばらく時間が経ったあと、密かに集まって、反省会を行っていたというのだ。

反省会。

まるで部活動ではないか。

いや部活動ならば、負けたその日、もしくは翌日に反省会をするだろう。海軍はちょっとスケールがすごいらしく、敗戦後、数10年後に集まって反省会をしたのだ。

私はその「数十年」という時間にまず興味を持った。なぜ反省会までにそんなに時間がかかったのか。実はこれには、組織というものの性質が大きな原因になっている。

すごく馬鹿馬鹿しい理由がある。

戦争の時にTOPだった幹部が死んだあとでしか、反省会を開けなかったのだ。

皆さんも心あたりががあるかもしれない。もちろん例外もあるだろうが、原則的には、不思議なことに反省というのは最も責任がある人達はけっして行わない。あるいは行っているのかも知れないが公にそれを認めようとはしない。おそらくプライドが邪魔をするからだろう。そういう意味では、組織の中で意味のある反省を行うのは、TOPの下にいる次の世代だ。

だが、哀しいかな、組織の人間たちはTOPがいる場所では反省は行えない。反省するためにTOPを呼ばずに集合することもはばかられる。また実際にTOPを呼んで「あなたのここが悪い」と反省を促すようなことはしない。絶対的な上下関係が邪魔をするからではないかと私は思っている。

なぜTOPは反省できないのか。反省した時におきる何を恐れているのか。

また、なぜ次の世代の人間は、追い出した後でなければ反省しないのか。そして組織では、このような反省の構造が繰り返されていくのか。

海軍の反省会は、TOPの人たちがこの世から去ってから行なわれた。

きっと皆さんの脳裏には原発事故以降の長老たちの発言が脳裏によぎっているはずだ。今の自民党の長老たちは、原発を推進してきたことについて「反省しても意味が無い」「反省はしていない」と発言し続けて、国民から顰蹙を買っている。これは何も彼等独自のアイデンティティーではない。大きな組織というものが持つ性質なのだ。

「まあ、平時はいいけど、戦時になると偉い人ほど責任を問われない……。作戦を失敗しても責任者の責任を問わないケースが多くなってしまうんだ。人事も問題が多い。戦時にもかかわらず、平時と同じように行なわれている。ミッドウェーの大海戦の前にも、平気で大幅な人事異動をしちゃってるんだから……。戦争をするための適材適所とはとても言えない。それじゃ、戦争はできないですよねえ」

この記述あたりも、まさに、今の福島原発事故が起きているさなかの政界、経済界、電力業界にピターっとあてはまる。

プロローグの中で、旧海軍という組織が抱えた問題を次のようにまとめている。

●責任者のリーダーシップ欠如

●身内をかばう体質

●組織の無責任体質

これもまさに、そのまま今各業界を仕切っている人たちに当てはまる。

私はこのような組織の持つ性質が受け入れられなくて苦労したんだと改めて思う。

プロローグの中でNHKの制作者は、「命じられた側」ではなく「命じた側」に迫る番組作りという狙いを固めたことを記している。

その教訓を3つ挙げている。

●組織優先で個人を軽視する

●失敗したときの責任の所在の曖昧さ

●流れに身を任せた結果に生まれる”やましき沈黙”

まさに正論だ。

だが私は思うのだ。

「命じられた側」はいつか「命じる側になる」つまり、「命じる側」の性質は「命じられた側」が引き継ぐのだ。更に踏み込んで言うならば「命じる側」は「命じられた側」が作り出しているのではないか、と私は思う。

だから私は組織が嫌いだ。命じられるのが嫌いだ。命じられているうちにいつか命じる側になるだろうという組織内に敷かれたレールが嫌いだ。その先に待っている権力闘争を通してしかリーダーが選ばれないという、どこでも似通った構造が嫌いだ。

だから、私はこの本をじっくり読もうと思う。私はニートであるという立場を存分に活かして、素人ならではの感覚で組織について考えていきたい。

ちなみに、これを片手にマクドナルドでコーヒーを飲んでいたら、目の前に座った初老の男性が大変興味深そうにこの本を見つめていた。私は思う。この本は年老いた人たちよりもこれから組織を担う人たちのための本ではないかと。

「日本海軍400時間の証言」の読者レビューを読んでみる

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