隗より始めよ・三浦淳のブログ

「新潟大学・三浦淳研究室」が終了となったあと、後続ブログとして立ち上げたこの「隗より始めよ・三浦淳のブログ」もできて4年、2018年3月末をもって当ブログ制作者は新潟大学を定年退職いたしました。今後も従来の路線を維持して更新を続ける予定です。よろしくお願いいたします。 旧「新潟大学・三浦淳研究室」は以下のURLからごらんいただけます。 http://miura.k-server.org/Default.htm 本職はドイツ文学者。ドイツ文学の女性像について分かりやすく書いた『夢のようにはかない女の肖像 ――ドイツ文学の中の女たち――』(同学社)、ナチ時代の著名指揮者とノーベル賞作家との対立を論じた訳書『フルトヴェングラーとトーマス・マン ナチズムと芸術家』(アルテスパブリッシング)が発売中です。 なお、当ブログへのご意見・ご感想は、メールで以下のアドレスにお願いいたします。 miura(アット)human.niigata-u.ac.jp

読書と映画については★で評価をしています。☆は★の半分。
★★★★★=最高、★★★★=かなり良質、★★★=一読・一見の価値あり、★★=芳しからず、★=駄本・駄作



評価 ★★★

 出たばかりの新書。著者は1967年生まれ、上智大外国語学部卒、ハーバード大学博士課程修了。慶大SFC教授。アメリカ研究、文化政策論専攻。著書多数。当ブログでも何度か(ここここここ)取り上げている。

 本書は、米国で特に若い世代に広がっているリバタリアニズムを紹介した書物である。自由至上主義と訳されるこの思想は、簡単に言ってしまうと公的な制度や束縛をなるべく少なくし、個人の自由を可能な限り拡大しようというものである。

 ただ、リバタリアンと一口に言っても、個々人によりその主張にはかなり幅がある。おおよそのところでいうと、移民、宗教、性的少数者(LGBT)には寛容で中絶も認めるが(リベラル)、銃規制や公的医療保険制度には反対(保守)、といったところらしい。レイシズムやナショナリズムにも反対である。つまりリベラルと保守の両面を持つのがリバタリアンということになる。

 冒頭、ニューハンプシャー州にリバタリアンが集まって居住しようという運動が紹介されている。といってもいわゆるユートピア的なコミューン(共同体)を作ろうというのではなく、国家と村落の中間の規模、小さな州といった規模でリバタリアンが集まることが目標らしい。本書ではこれ以外にも洋上にリバタリアンの住む人工浮島を作ろうとか、東欧を流れる河の中州にリバタリアンのコミュニティを作るといった試みが紹介されている。

 この思想をもとにした政党もあるが、勢力的には共和党と民主党という二大政党の足下にも及ばない。しかし、選挙での投票に際してはリバタリアンは当選可能性の高い二大政党の候補者に票を投じる場合も多いので、実際には選挙での票数よりかなり多いリバタリアンが存在するという。

 本書は最初の二章でリバタリアンたちにインタビューしてその考え(上述のようにかなり幅がある)を紹介し、次の第3章で思想的な系譜をふまえた上でのリバタリアニズムの位置づけ、またそれに対する批判が紹介されている。この第3章が、私の見るところ、本書のいちばん優れている部分だと思う。

 ただ、実際にリバタリアンを自称している人々の主張を本書で読んでも、あまり説得はされなかった。ちなみに著者も自分はリバタリアンではないと述べているのだが、それにしてはインタビューでは相手の意見を聞くことに徹しすぎている。別の言い方をすれば従順な日本人の役割を米国人などの前で演じているようで、もう少し相手の見解に突っ込みを入れたらどうだと言いたくなるところが多かった。

 しかし本書を読むとリバタリアニズム系のシンクタンクが米国に数多く存在しているのみならず、米国外にもそうしたネットワークが張りめぐらされていることが分かる。日本では幸か不幸か(?)そういうシンクタンクは一つしかなく、また動きも鈍いようだが、リバタリアニズムへの賛成反対は別にして海外の動きを知っておくことは重要だと思う。

 というのも、現在のトランプ大統領はアメリカ・ファーストを唱えていて、したがって海外の駐留米軍を削減・撤退するという方針を示しているわけだが、リバタリアンにはトランプ嫌いが多いと本書では述べられているけれど、しかしこの点では意見を同じくする場合も少なくないらしいからだ。それはトランプ大統領とは正反対の理由からで、他国・他地域のことに口を(手も)出すべきではないというのが多くのリバタリアンの信条であるためなのだ。だから、将来の米国にリバタリアンの大統領が誕生し、それにともなって日本からも米軍が撤退、ということだって十分あり得るのである。「何が何でも憲法(九条)を守れ」と五十年一日のごとく念仏を繰り返している輩は、こういう状況を知っておくべきだろう。

 もっとも、トランプ嫌いというリバタリアンの傾向は矛盾している。リバタリアンはミルトン・フリードマン(本書でも何度か言及がある。リバタリアンはフリードマンの子孫なのである。これは比喩としてばかりでなく、実際フリードマンの息子や孫がリバタリアンをやっていることが本書を読むと分かる)流の「政府が介入せず放置しておけば世の中はうまくいく」という思想を奉じているようだが、そもそもトランプを支持する人間が多数に及んだのは格差社会のせいであり、その格差を生んだのはフリードマンの「放置しておけばうまくいく」というムセキニンな経済思想だったからだ。著者にはその辺を追及してほしかったところだが、上にも述べたようにインタビューする相手との間にはあまり波風は立てない人らしく、物足りない。

 なお、フリードマン批判については、中山智香子『経済ジェノサイド フリードマンと世界経済の半世紀』(平凡社新書)を参照(私の旧サイトのここ、1月のところをご覧下さい)。

 というわけで内容面では第3章を除くと「どうかな」と思える箇所が多いが、世の中にはこういう人間もいるということを、或いは米国の若い世代の動向を知っておくという意味では悪くない本だと思う。

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今年映画館で見た19本目の映画
鑑賞日 2月8日
ユナイテッドシネマ新潟
評価 ★★★☆

 堤幸彦監督作品、118分。冲方丁による原作小説は未読。

 ネットでの情報に応じて廃病院に集まった12人の高校生たち。彼らは死にたいと考えており、この場所で集団自殺を敢行するつもりでいた。

 しかし、集まった部屋には身元不明の死体が。自殺願望を抱えた12人の誰かが殺したのか? それを明らかにしないうちは死ねないと考えた彼らは真相を究明しようと・・・

 ミステリーである。そして12人という、少なくない若者が主人公の映画である。その点にポイントを置いて見るとそれなりの映画だと思う。つまり、謎解きと、12人の個性を楽しむということである。

 ただしミステリー特有のアリバイ検証など細かい話もあるので、そういう映画が不得手な向きにはお薦めしない。ミステリー好きには悪くない作品。

 新潟市では全国と同じく1月25日の封切で、市内のシネコン4館すべてで上映中。県内他地域のシネコン3館でも上映している。

 日頃、本ブログをご愛読いただき、感謝申し上げます。
 
 さて、本ブログは開設以来、ブログ制作者が新潟を離れている場合を除き、基本的に毎日更新するという原則でやってまいりました。

 しかし、諸般の事情でこれが困難になってきたため、勝手ながら週休二日制を導入することにいたします。

 具体的には、月曜と金曜は更新を休むということです。今度の金曜日(2月15日)から実施したいと考えております。

 理由は、時間が足りないことです。
 昨年三月末に新潟大学を定年退職して、それ以降、春と秋の各二ヵ月に週2日非常勤の授業を1コマ受け持つ以外は大幅に自由時間が増えたはずでした。
 ところが、退職してみたら意外にも時間が不足しているのです。
 専任教員時代でも毎日更新していたのだから、退職したらなおさら、と思っていたのはとんだ見込み違いでした。

 退職後やりたいと考えていた仕事がいくつかあったのですが、退職して10ヵ月あまりたつ現在、予想していたよりはるかにわずかの仕事しか出来ておりません。(この辺の事情については昨年大晦日本年元日のブログ記事をお読み下さい。)

 現在私は66歳、残された時間がどれほどあるか心許ない状態にあります。考えている仕事を全部やり遂げることは出来ないにしても、このままではあの世に行ってからも悔いが残るほどささやかな仕事しか成し遂げられないという結果になりそうなのです。

 なので、色々なところから時間を工面する必要に迫られており、ブログ記事を書く時間もいくらか節約したいというのが、週休二日制導入の動機です。

 まことに勝手ながら当方の事情をお酌み取りいただき、今後このブログが週休二日制(月曜と金曜は更新休止)で運営されることをお許しいただきたく、お願い申し上げる所存です。

 以上、よろしくお願い申し上げます。

 毎日新聞が日本における大学改革や「科学技術立国」政策の含む問題点を精力的に報道し続けていることは、当ブログでもたびたび紹介している。

 先週金曜日(2月8日)の「オピニオン」欄では、「論点 平成の軌跡 大学改革」として、尾池和夫・京都造形芸術大学長(前・京大副学長、前・国立大学協会理事)へのインタビュー記事を載せた。

 https://mainichi.jp/articles/20190208/ddm/004/070/019000c

 「財界人の多くは大学の実情を知らない」
 「自分が大学生だったときの実感だけで大学を語る人が多すぎる」
 「日本の高等教育の公費負担割合はOECD加盟国中、下から2番目の3割強。加盟国平均の約7割まで上げて当然」
といった、大学人からすれば「常識」の、しかし政治家や官僚には何度繰り返し説明してもなかなか理解されない(だから何度でも言う必要がある)事柄が語られている。
全文は上記URLから。

 また、この特集には、井上義和・帝京大准教授(教育社会学専攻)の「改革免除の特権大学を」という文章も掲載されている。(上のURLからお読み下さい。)

 私に言わせれば、国立大学の独法化を一律にやったのが最大の誤りなのである。むしろ、「独法化という特権大学を」一部に作ればよかったのだ。

 国立大の独法化には反対意見も多かった。にも関わらず、全国の国立大学を一斉に独法化してしまった。日本の政治家がいかにバカか、ここから分かるというのが私の主張である。

 なるほど、何でもやってみなければ分からない部分がある。
 もし、どうしても独法化が大学の改善につながると主張したいなら、国立大学のうちいくつかを、それも、例えば旧帝大から一校、いわゆる筑一工神広から一校、旧六(千葉、金沢、新潟、岡山、長崎、熊本)から一校、それ以外の純然たる新制大学から二、三校、というふうにランク別に選んで独法化し、その結果がどうなるかを10~20年くらいかけて検証すべきだったのである。その結果、独法化が大学を良質化するという答が出たなら、その時点で残る国立大学を全部独法化すればよろしい。

 ところが日本の政治家は阿呆だから、一律に国立大学を全部独法化し、結果、日本の大学は一律に世界ランキングの順位を下げる、という惨憺たる現状に至ってしまった。

 独法化に賛成した政治家は、全員、辞職するように!

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今年映画館で見た18本目の映画
鑑賞日 2月3日
ユナイテッドシネマ新潟
評価 ★★★☆

 アメリカ映画、ロブ・マーシャル監督作品、131分、原題は放題に同じ。字幕版にて。

 有名な映画『メリー・ポピンズ』に55年ぶりに続編が、というので話題に。
 舞台設定は前作の約20年後、大恐慌で不景気な時代のロンドン。

 かつてナニーであるメリー・ポピンズに育てられたマイケル・バンクス(ベン・ウィショー)は今は大人に成長し、3人の子持ちになっていた。しかし妻に先立たれ、不景気風の吹く中で仕事も不調。姉のジェーン(エミリー・モーティマー)の助けを借りて何とかかんとかやっている。そこへ、あのメリー・ポピンズ(エミリー・ブラント)が再びやってきて・・・

 大恐慌期、つまり経済的にも四苦八苦、おまけに子供3人を残して妻に逝かれて家庭的にも四苦八苦・・・・その苦境を救うのがメリー・ポピンズというお話。

 前半は、メリー・ポピンズの魔法がよく効いていて、見ても聴いても楽しいミュージカルが繰り広げられる。

 後半になるともう少し現実的な話になり、メリー・ポピンズはやや背後に。代わりに点灯人たちが活躍したりしてそれなりだが、前半の楽しさが維持できなかったのが惜しまれる。ま、人間は魔法使いに頼り切っちゃいけないのだから、仕方がないんだけどね。

 新潟市では全国と同じく2月1日の封切で、市内のシネコン4館すべてで上映中。県内他地域のシネコン3館でも上映している。なお、映画館により字幕版と吹替版のいずれか一方しかやっていないところもあるので(両方やっているところもある)、行くときはあらかじめ調べてからどうぞ。


評価 ★★★☆

 こないだ読んだ同じ著者の幼少期を綴った自伝『花々と星々と』が面白かったので、続編であるこの『ある歴史の娘』を読んでみた。こちらは自分では所蔵していなかったので、探してみたら『犬養道子自選集 2』に入っており(『花々と星々と』も収録)、珍しくも(?)新潟大学図書館においてあった。

 先の本は著者の祖父である犬養毅首相が暗殺された五・一五事件で終わっていた。その続編である本書は、そこから始まる。といっても、直接にすぐそこから始まるというわけではない(少し先に行くと犬養首相暗殺時のエピソードが出てくる)。歴史の見方から話は始まる。つまり、戦後しばらく(或いは今もなお)日本で大手を振ってまかり通っていた進歩的な歴史観に対する根源的な疑問である。

 つまり、「戦前の歴史を形成した何もかもたれもかれもすべては間違っていた」といった、きわめて単純に割り切った歴史観に対する疑問である。

 著者はスピノザの言葉を引いている。「前時代の歴史を、まっこうから断罪し一語で片づけることは誰にでも出来る。しかし、歴史を内から理解するという複雑公正な作業は、真の歴史学究によってのみ可能である。」まことに、名目上歴史学者を名のっていても、このような「真の歴史学究」の名に値する人間がどの程度いるだろうか。

 著者は祖父の周辺にいた、そして親しく付き合ってもいた中国やヴェトナムなどアジア人について、進歩史観の主が「中国人などを(戦前の日本人が)助けたのは、あとで日本進出の利になると考えたから」「ブルジョワ資本・植民地主義の支配心から」というような割り切り方をすることに批判を投げかけているのである。

 前著でもそうだったが、本書にも、日本に流れてきて著者の祖父とつながりのあった安南(ヴェトナム)最後の王子や、汪兆銘といったアジア人の名が何人も登場する。彼らと、著者の祖父を初めとする日本人との交流は、左翼史観の主が割り切るような単純なものではなく、双方の心の交流には真実が多々込められていたと著者は強調する。

 他国の人間ばかりではない。祖父を暗殺した青年将校にしても、多くが貧しい農村の出て、当時の時代にあっては彼らの姉や妹が売春施設に身売りをすることは珍しくなく、したがってクーデターに走る心情にもなろう、と著者は理解を示している。

 有名人では右翼の大立者・頭山満が登場するし、斉藤博(戦前に日米関係の改善に尽力した駐米大使。著者の母の姉の夫)も、そして尾崎秀実(ほつみ)も登場する。ゾルゲ事件でソ連のスパイであることを暴かれて刑死した、あの尾崎である。尾崎は著者の父母と交流があった。どこか油断のならない人物であることを著者の母は見抜いていたようだが、当時子供であった著者とはそうした大人の事情とは別の、人間としての付き合いもあった。

 また、切手収集を始めていた著者が、同じ趣味の持ち主である尾崎からその点で色々教わったという話も出てくる。しかし著者は恵まれた環境に育っているから(前著から分かるように父方も母方も大物ぞろい)、子供ながら外国の珍しい切手が多数入ってくる。あるとき尾崎は著者の持っている珍しい外国切手が欲しから(同じ切手を著者は2枚持っており、そのうち1枚を)僕のと交換しようと申し出るが、著者はなかなかうんと言わない。そこで尾崎は、非常に珍しい切手がたくさんあるから、これと交換しよう、ただし僕の提供した切手だということは絶対に秘密だよと言い含める。それは多数のソ連切手であった。

 この話には続きがある。尾崎が刑死して、困難な戦時中をへて、尾崎と交換したソ連の切手は著者のコレクションの中に維持されていた。しかし戦後の混乱期、食うものもろくにない人々のためにお金が必要という話を聞いた著者は、大事な切手コレクションを提供する。コレクションは、切手収集の趣味を持つ米軍高級軍人によって高額で購入されたが、それは尾崎のもたらした多数のソ連切手が決め手になった。自分の大事なコレクションを差し出した著者は涙を流し、そしてその後、形のあるもののコレクションは二度としなかったという。

 そのほか、例えば戦前の学習院出身者は、皆が友だち・親戚のようなもので、(学年が違っていても)同窓生同士の気のおけない交際や付き合いは他の学校を出た者には分からないという話もでてきて、そうなのかなと思った。つまり、学習院出身者には政治だとか日本の中枢部で仕事をした者も多かったわけだが、彼らの付き合いはいわゆる学閥というようなものとは違っていたということのようである。年齢がかなり異なっていても呼び捨てかせいぜい「さん」付けで済ませていたという。これは私の感想だが、戦前の日本は、つまりは限られた家族・親族によって運営されていた、ということだ。安倍首相の出自を考えれば、或いは今もそうなのかも知れないのだが。

 ほか、石井桃子も祖父の蔵書整理の手伝いをしていた縁で著者の知り合いであった(その点は前著で触れられている)が、『クマのプーさん』の原書を著者が西園寺公一(きんかず)から贈ってもらい自宅で愛読していたところ、やがてその本が石井の目にとまって、彼女による邦訳につながったというエピソードも出てくる。

 戦前戦中の大変な時期であり、また著者の父も作家から(祖父の跡継ぎということで)政治家に転身して、一時期警察に収監されていた時期があって、平均的な人間から見れば恵まれた育ちの著者にとってもつらいことがそれなりにあったのだと分かる。父が収監されていた間、それまでは親しく出入りしていた人々の多くが背を向けたこと、しかしそういう時期にこそ親切にしてくれる人も少数ながらいたことなど、人生の妙味が伝わってくる本になっている。

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今年映画館で見た17本目の映画
鑑賞日 2月2日
イオンシネマ新潟西
評価 ★★★

 甲斐さやか監督作品、106分、R15。

 30年前の少年時代、外に出だ幼い弟から目を離さないようにと母から言われながらも、弟が忽然と姿を消した事件で心に負った傷を抱えつつ生きている中年男・白川(永瀬正敏)。近所のアパートではこの事件の直後に火事があり、焼け跡からは大人と小さな子供の焼死体が発見されていた。

 この事件を今も追っているジャーナリストと称する男(井浦新)の訪問を受けた白川は、30年前に焼失した例のアパートに母親(夏川結衣)とともに住んでいた娘・江藤小百合(菜葉菜)に探りを入れようと誘われる。最初は拒絶していた白川だったが・・・

 30年前に起こった事件の真相、それに関する人間の記憶、この事件を背負って生きている人々の表情などを映し出した作品である。

 監督は女性の新人監督として将来を嘱望されている人だそうで、映像面では魅力がまああるけれど、内容面では率直に言ってさほどとも思われなかった。このくらいの映画で人を感心させようとしてはいけません。

 新潟市では東京と同じく2月1日の封切で、イオン西にて単独上映中。県内でも上映はここだけ。

 https://mainichi.jp/articles/20190126/ddm/008/020/125000c
 パイオニア 上場廃止へ 香港投資ファンドの傘下入り
 毎日新聞2019年1月26日 東京朝刊
 (以下の引用は一部分です。記事全文は上記URLからお読み下さい)

 業績不振のパイオニアは25日、臨時株主総会を東京都内で開き、香港の投資ファンドの支援を受けて傘下に入るための議案が承認された。構造改革を実施して経営体制を見直し、早期の再建を目指す。今後は主力のカーナビ以外で収益源の育成が急務になる。

 香港のファンド「ベアリング・プライベート・エクイティ・アジア」が、パイオニアを3月中にも完全子会社化する計画。第三者割当増資の引き受けなどで総額約1020億円の支援を行う。パイオニア株の東京証券取引所第1部の上場は廃止される見通しだ。

 ファンドとの交渉当初、株式上場を維持するとしていた。総会で森谷浩一社長は経営判断について陳謝した。総会後、取材に応じた森谷社長は、予定する約3000人の人員削減や工場再編について「2年ぐらいの間にやり切らないといけない」と説明した。

(中略)

 パイオニアの連結最終(当期)損益は18年3月期まで2年連続で赤字を計上。主力のカーナビ事業が不振に陥り、経営が悪化した。

(以下、略)

                      

 こういう記事を読むと、企業の栄枯盛衰を強く実感する。

 パイオニアといえば、私の世代にとってはまず音響機器(ステレオ)のメーカーであった。
 1970年代、日本ではオーディオ・ブームが起こり、パイオニア、トリオ、サンスイが音響機器三大メーカーとされた。この三つのメーカーは、昔からレコードや電蓄機を製作販売していたコロンビアやビクターといった伝統的な会社に比べて、流行に敏感な若者の心を捉えるコンポーネント・タイプ(プレーヤーとアンプとスピーカーが別々の製品として作られるタイプ)の音響機器を早くから販売していた。

 もっとも福島県の地方都市に育った私は、1971年に仙台の大学に進学するまでそういう世事にはうとい人間だった。当時の国立大学の学生は一年次は教養部に所属し、教養部はクラス制で1クラス50人であったが、クラス名簿の自己紹介欄に「趣味:音楽、オーディオ」と記した学生がいた。私はこのとき初めて、音楽だけでなく、音楽を鳴らす音響機器が趣味の対象になり得るのだと知ったのである。その学生は関西出身だった。

 同じクラスの女子学生は「趣味:シカゴを聴くこと」と書いていた。シカゴというと米国の都市名としてしか知らなかった私は、それが音楽グループのことだと理解するのに若干の時間を要した(当時はインターネットなんてものはなかった)。地方都市出身の学生は、ビートルズやビージーズは知っていても、シカゴなんて音楽グループがあるとは夢にも思わなかったのである。その女子学生は東京出身だった。

 以上のことからも分かるように、首都圏や関西から来た学生は文化的な知識において地方都市出身の学生よりはっきり上を行っていた。

 それはさておき、大学生時代の私は流行と無縁ではなく、人並みに音響機器が欲しくなり、やがて何とかレシーバー(プリメインアンプ+チューナー)とLPプレイヤーとスピーカーを揃えた。いずれもパイオニアの製品だった。なぜかというと、当時私が通っていた大学の生協では、パイオニア製品のみ15%割引で販売していたからである。他のメーカーだと10%引きだった。お金がなく、それでもなるべく良質の製品を手に入れたい大学生からすれば、必然的に割引率が高いメーカーの製品を選ぶことになるのである。やがてここに同じくパイオニア製のカセット・デッキが加わった。

 これらの製品のうち、スピーカーだけは今も私の書斎で現役生活を送っている。購入してから約45年間、同じスピーカーで私は音楽を聴いてきた。壊れない限り、死ぬまで使い続けるだろう。20センチ2ウェイの、当時としては小型の、そして今では珍しい、箱が木製のスピーカーである。

 レシーバーはその後、プリメイン・アンプとチューナーに買い換え(いずれもDENON製)、プリメイン・アンプはさらにもう一度買い換えて現在に至っている(やはりDENON製)。LPプレイヤーも、今はあまり使わなくなっているが、書斎にあるのは2代目である(KENWOOD製。KENWOODはトリオが改称した名)。カセット・デッキも2代目のTEAC製だが、こちらはここ数年間全然使っていない。80年代になってから加わったCDプレイヤーは、初代はパイオニア製だったが、2代目の現在はDENON製である。

 こうしてみると、現在使っているのは多くがDENON製品である。DENONは、現在はデノンと発音するようだけど、もともとはデンオンだったので、コロンビアの音響部門の製品に使われていた名称である。伝統的なコロンビアが、新興で一時期は優勢だったパイオニアやトリオ(ケンウッド)やサンスイに逆襲して再度優勢を確保したということか。

 しかし1970年代のオーディオ・ブームはとうに下火になっている。当時は長岡鉄男や菅野沖彦といったオーディオ評論家が何人もいて、彼らが執筆する音楽雑誌はそれなりに売れていたものだが、今はもうオーディオ評論家という職業自体が成り立たなくなっているのではないか。

 パイオニアも、音響製品から他の分野に鞍替えしてそれなりにやっていたが、結局力尽きたということかも知れない。昔のオーディオ・ブームが続いていたらどうだったろうか。そんなことを考えてしまう今日この頃である。

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今年映画館で見た16本目の映画
鑑賞日 2月1日
ユナイテッドシネマ新潟
評価 ★★★☆

 福澤克雄監督作品、119分。池井戸潤の原作は読んでいない。

 某中堅企業を舞台に、グータラ社員(野村萬斎)と首脳部の関係、および親会社である大企業との関わりの中で、企業不祥事が暴かれていく様子を描いている。

 池井戸潤原作の映画は昨年『空飛ぶタイヤ』が公開されたけれど、内容的にちょっと似ている。映画としてはあちらのほうがすっきりしていて良くできていると思う。こちらはひねった分だけどこかすっきりしない感じが残る。

 まあ、企業だけでなく、最近の日本では中央省庁の不祥事も明らかになっているから、日本の世相を批判していると言えなくもない。その意味では時宜にかなっている映画かな。

 社員役で多数の男優が出てくるので、各人の個性や演技を見比べるのも一興。

 新潟市では全国と同じく2月1日の封切で、市内のシネコン4館すべてで上映中。県内他地域のシネコン3館でも上映している。

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今年映画館で見た15本目の映画
鑑賞日 1月31日
シネ・ウインド
評価 ★★★★

 アメリカ映画、ウィリアム・フリードキン監督作品、121分、1977年、原題は"SORCERER"(魔術師)。

 世界各地からワケありで流れてきた男たち4人が、南米奥地で危険なニトログリセリンの大量運搬を引き受ける、というお話。しかし2台のトラックに分乗して道なき道を進む彼らの前には様々な困難が立ちはだかって・・・

 最初のあたりは話の道筋が見えなくてやや退屈したが、途中から面白くなり、半ば以降はスクリーンから目が離せなくなる。今にも壊れそうな吊り橋を大型トラックで渡るシーン(画像を参照)は映画史上に残る名場面で、映画ファンは必見! 終わり方もいい。

 この作品、1977年に公開された当時はあまり評価されず、また日本などでは短縮版で上映されたが、数年前監督がデジタル・リマスター版を作り、これがヴェネツィア映画祭で上映されて再評価の大波が生じたといういわくつきの映画。77年当時の映画人は盲目だったんだね。繰り返すけど、映画ファンは必見!

 この「オリジナル完全版」は東京では昨年11月24日に封切られたが、新潟市では8週間の遅れでシネ・ウインドにて2週間上映された。

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評価 ★★★☆

 出たばかりの新書。著者は1978年生まれ、筑波大卒、日経新聞勤務。

 ロシアや米国で、LGBTや中絶を擁護するリベラルへの批判を行う保守派の動きが顕在化しているが、その組織である「世界家族会議」の実態やネットワークを紹介した本である。

 基本的には伝統的なキリスト教倫理観を前面に押し出すイデオロギーに依拠しており、これがロシアならソ連解体後に復活してきたロシア正教、米国ならキリスト教原理主義などと結びついてリベラルの動きを封じようとしている、ということである。伝統的な父権主義による父母と子供たちによる家庭をあるべき姿と考え、同性婚や中絶には反対の立場をとる。

 そして「世界家族会議」は第一回総会が1997年にプラハで開かれているが、この時点で40ヵ国から約700名が集まったという。2016年時点で35の有力NGOがこの会議のパートナーとなっており、年間予算規模は総額で2億ドルを超える。

 またこうした動きは政治家や各国の政治情勢とも結びついている。プーチンにしても、最初から現在のような右派だったわけではなく、ソ連解体直後には西欧民主主義的な方向性をとっていた。ところが東欧諸国が雪崩を打ってNATOに加盟していく中で(ロシア側の言い分では、これは西側の約束違反であるという)ロシアは危機感を強め、ソ連以前の伝統的な価値観やロシア正教と結ぶことで一般民衆の支持を拡げていく戦略を取るようになっていったのだという。

 ハンガリー、シリア、ウクライナなどの動向、またイスラム圏諸国の動きともこうした保守主義の運動は関わりを持っているのであり、単なる家族問題や中絶問題にはとどまらず、広く世界政治の流れにも影響を与えているのだ。

 ロシアの保守主義については「ユーラシア主義」の流れを紹介してその関連を探る試みもなされている(187ページ以下)。要するにリベラルの主張する個人主義には限界があるとして、家族や民族といった共同体の中に個人の意義を位置づけるという思想なのである。

 記述は整理されていて具体的であり、非常に分かりやすい。日本ではキリスト教の勢力が弱いから世界家族会議の動向もあまり知られていないが、そういう意味では貴重な本である。また最後近くには日本の保守主義者の家族観についても取材がなされている。

 というわけで悪くない本だけれど、若干の疑問点を挙げるなら、まず著者の言葉遣いである。世界家族会議の動きを「保守反動」と一貫して呼んでいるのだが、「保守」はいいとして「反動」はどうだろうか。「反動」とは、進歩主義から来る用語であり、世界は自然科学の法則のごとくに特定の方向に進歩していくもので、それに合わないものは「歴史の法則」に反するから叩かれて当然というような考え方から出てきている。しかし今どき、歴史の動きを自然科学の法則と同じと考える人間はあまりいないだろう。

 以上のような疑問は、つまりは著者が近代思想をどの程度押さえているかという疑問に直結する。ある箇所では個人主義の超越という思想を「ファシズムと共通点が多い」(192ページ)としたかと思うと、別の箇所では伝統主義を「ファシズムの源流」(199ページ)と言っている。しかしファシズムが出てきたのは「民族自決主義」に基づく民主主義の潮流の中においてであったこと、つまり「近代の超克」という思想こそが近代主義の一種であったことを著者は見落としている。近代の民主主義は同質者(例えば「同じ民族」「同一宗教」)の集合体においてこそ可能となるとされたのであり、そこからファシズムも生まれてきたのであって、古い「伝統的な帝国」であれば異質のものの集合体が「皇帝」によって統治されるからファシズムは起こらない(だから最近は逆に「帝国」が再評価されたりしている)。

 著者は「あとがき」では自分の立場は中立であり、リベラル派への警鐘として本書を執筆したと語っている。であれば、例えば中絶問題については通り一遍の「リベラル=中絶賛成=先進国の常識」といった図式にはそれなりに留保をつけるべきではないか。

 以下は私個人の意見だが、中絶とは人殺しと同じであり、人殺しを「女性の権利」などと言う輩は頭がおかしい。死刑に反対するくらいなら中絶に反対すべきだ。なぜなら死刑になる人間は(冤罪の場合を除いて)重罪を犯しているのに、胎児は犯罪行為などこれっぽちも犯してはいないからである。「中絶賛成、死刑反対」を叫ぶ人間はまともな知的能力を持たないというのが私の持論である。

 また米国でも、リベラル派のビル・クリントン政権も「家族の価値」は重視していたし、オバマ前大統領も、権利としての中絶はいちおう認めてはいたが、なるべく中絶しないで済むような社会をとも言っていた。つまり、「中絶=リベラル=いいこと」「家族の大切さ=守旧的価値観=ダメ」というような図式では済まない部分があるということだ。

 もっとも、日本における「子供を持たない」ことと「生産性」の議論について紹介した箇所(232ページ以下)では、「生産性」の意味が保守派とリベラル派でズレていると冷静に指摘していて、悪くなかった。こうしたキレが他の箇所にも見られれば、名著と呼ぶに値する本になったと思う。

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今年映画館で見た14本目の映画
鑑賞日1月29日
イオンシネマ新潟西
評価 ★★★★

 英米合作、スティーヴン・フリアーズ監督作品、112分、原題は"VICTORIA & ABDUL"。

 六十年以上にわたって英国に君臨したヴィクトリア女王の、最晩年の実話に基づく映画。

 インドなども植民地として統治し絶頂期を迎えていた十九世紀末の大英帝国。そのインドから女王陛下(ジュディ・デンチ)に金貨を献上するために連れてこられたインド人青年アブドゥル(アリ・ファザル)。

 しかし女王陛下はハンサムなインド青年が気に入り、儀式が終わっても自分の側に残るように指示する。青年はインド人ながらヒンドゥー教徒ではなくイスラム教徒だったが、女王陛下はその青年からウルドゥー語を教わり、コーランの教えを教わる。

 これを見ていた英国人の側近たちは困惑する。人種差別の厳しい時代のことで、英国女王ともあろうものがアジアから来た肌の浅黒いインド人と仲良くするのは困りますということもあるし、また、英国国王は同時に英国国教会、つまり英国キリスト教会の最高指導者でもあるから、その指導者が異教であるイスラム教の教えに感心していてはいけないのである。

 しかし、夫に早くに先立たれて孤独の中を生きてきた老女王はそういう周囲の困惑を無視。周囲は何とかしようと皇太子を抱き込んで一計を案じ・・・

 英国映画らしい、コミカルでシニカルな展開が非常に魅力的。またヴィクトリア女王の老い故の自由な振る舞いや思考、自分の信じるところを率直に女王陛下に伝えようとするインド人青年の態度もいい。

 なお、最後近く、老女王の臨終の席に「カイザー」(Kaiserはドイツ語で、英語のEmperorに同じ)と呼ばれた当時のドイツ皇帝ヴィルヘルム二世が来ている場面がある。ヴィルヘルム二世の母方の祖母は英国のヴィクトリア女王だった。またヴィルヘルム二世は生まれたとき難産で片腕が短かったので、いつも健常な手でもう片方の手をつかむような姿勢をとっていたが、この映画でもそうなっている。この辺の時代考証がしっかりしているところもヨーロッパ映画の魅力なのである。

 良くできた映画だと思うし、最近のヨーロッパ映画には珍しく新潟市では東京と同じ封切日だったんだけど・・・私が見に行った回は、観客は2人(つまり私ともう1人)だけでした。せっかく映画館が頑張っていても、新潟市民が頑張っていないのではどうしようもないのである。新潟の映画ファンの奮起を望みたい。繰り返すが、東京だけでなく地方都市なら札幌や仙台と同じ(ふつうの県庁所在都市はもっと遅い)封切日で、ハリウッドの大作や日本の大手映画社の作品でないのに新潟市での公開日がこのように設定されるのは珍しいのだから。

 というわけで新潟市では東京と同じく1月25日の封切で、イオン西にて単独上映中。県内でも上映はここだけ。

 毎日新聞の(毎木曜の)連載記事「幻の科学技術立国」についてはこの欄でもたびたび紹介しているが、先日(1月31日)掲載された「第3部 企業はいま 番外編 識者インタビュー 小林喜光 経済同友会代表幹事/山口栄一 京都大教授」を読むと、日本の財界人がいかにダメかが改めて痛感される。(この記事の全文は以下のURLからお読み下さい。以下は一部分の引用です。)

 https://mainichi.jp/articles/20190131/ddm/016/040/002000c

 小林喜光・経済同友会代表幹事は、次のように言っている。

 【--最近のノーベル賞受賞者の多くが、基礎研究への投資が足りないと批判します。

 僕の考えは逆だ。日本はノーベル賞をたくさん取ってきたが、経済もビジネスも負けている。光ディスクやリチウムイオン電池、みんな日本人が先行した発明なのに、ビジネスの勝者は海外だ。かつての自然科学にこだわっていることが一番間違っている。今の企業時価総額上位のGAFA(米国のグーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン・コム)、中国のアリババやテンセントは誰もノーベル賞を取っていない。学術界は自由に研究すればいいが、それを企業の中心に据えたから日本経済がダメになった。】

 これを読むと、この人物が基本的な事実関係すらふまえていないことが明白だ。
 まず、日本のノーベル賞はほとんどが大学関係者によって獲得されたものであり、企業研究者によるものはごくわずかでしかない。
 「経済もビジネスも負けている」と言うけれど、それは経済人、つまりアンタが悪いわけでしょう? 自分の責任を棚に上げて、ノーベル賞取得を攻撃するのは完全に的外れじゃないですか。

 また、毎日新聞の「幻の科学技術立国 第3部 企業はいま」の連載を読んでいれば、日本で新しい基礎技術が開発されても、日本企業はなかなか関心を示さず、むしろ米国企業が関心を示してくる、といった事態も見えてくるはずなのである。ここからも、日本企業経営者の先見の明のなさが、日本経済の落ち込みの原因であることが判明するわけ。

 加えて、山口栄一氏の発言(上記URLからどうぞ)、およびその著書(このブログでも紹介した『イノベーションはなぜ途絶えたか 科学立国日本の危機』)を読めば分かることだが、日本の企業は90年代以降、基礎的な研究を放棄して特定分野に集中する傾向が強まっており、それが逆に日本企業を弱らせてきたのである。

 小林喜光氏は以下のようにも言っている。

  【--大学には、どういうことを求めますか。

 縦割りがまだ残り、研究がサイロ化(他の分野と連携がなく孤立化)している。これに横串を刺してオープンイノベーション化することが重要だ。人文・社会科学と自然科学が融合し、人間とは何か、社会とは何かといった課題が重要になってきている。さらに世の中には解決すべき大きな問題が残っている。エネルギー・環境問題、脳やDNAなどヒトのサイエンス、光量子コンピューティング。そうした分野に焦点を当てた基礎研究をやっていくべきだ。カビが生えたような研究をしている大学教授をどうするかだ。何でもやろうとするのは、もう無理だ。】

 大学は企業のためにあるわけではない、なんて古めかしいことは言いませんが、そもそも企業は小林氏が求めているような研究にカネを出してきたのだろうか。基礎研究とは、将来役立つかそうでないか分からないから基礎研究なのであって、今現在脚光を浴びている分野だけ(小林氏の挙げている分野はまさにそうした分野)やっていたら先細りになるだけですってば。本当に視野が狭い人だなあ、と痛感させられますね。カビの生えているのは誰の頭だろうか。

 かつて、評論家の福田和也は某対談本の中で、色々な職業の人間と話をしてきた経験から分かったこととして、「政治家、官僚、知識人、財界人のうち、いちばんダメなのは財界人。財界人の頭はひどい。クルクルパーしかいない」と述べたけれど、小林喜光氏の発言を読むと、そのことが鮮烈に思い出されるのである。

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今年映画館で見た13本目の映画
鑑賞日 1月26日
イオンシネマ新潟南
評価 ★★★☆

 英・ルクセンブルク・米合作、ハイファ・アル=マンスール監督作品、121分、原題は
"MARY SHELLY"。(邦題がどうもイマイチ。原題のままでもいいんじゃないか。)

 今なお読み継がれる小説『フランケンシュタイン』の作家として知られるメアリー・シェリー(1797-1851)の半生を描いた伝記映画。主演はエル・ファニング。

 書店を営む知的な父を持つ少女メアリー・ゴドウィンは早くから書物が好きだった。実の母も文学的才能豊かな女性だったが、メアリーを生んだときに亡くなり、父が迎えた後妻とメアリーは折り合いが良くなかった。そこで親戚宅に預けられるが、そこで詩人のパーシー・シェリー(ダグラス・ブース)と知り合い、恋に陥る。しかし彼にはすでに妻がいた・・・

 早くから文学に惹かれていたメアリーが妻子ある青年詩人と駆け落ちをし、やがて男のエゴに悩まされつつも、バイロン卿(トム・スターリッジ)の屋敷に招待された晩に、ここにいる面々がそれぞれに怪奇小説を書こうと約束し、ヒロインがそれを果たすまでが描かれている。

 現代的な視点で作られているので、男のエゴに対するフェミニズム的視点が濃厚に出ているが、それだけではなく当時の風俗や、画家フュースリの絵画『夢魔』がバイロン邸に飾られていたりするなど、文化的雰囲気がそれなりに映像として再現されている。

 また、メアリーの『フランケンシュタイン』が出版直後は夫シェリーの作と見られたばかりか、例の晩に同席していた医師ポリドリも約束どおり『吸血鬼』という小説を書いたのにバイロン作と見なされてしまうなど、当時の文学界の偏見もよく分かる。ちなみにこの映画では詩人シェリーとバイロンはろくでなしであるが、ポリドリはまともな男ということになっている。

 『フランケンシュタイン』は様々な解釈が可能な小説だと思うけど、この映画はその点で見るとやや問題がある。解釈を時代や作中人物に引きつけすぎ。

 ヒロインのエル・ファニングは悪くないが、それなりに重要な役を果たす彼女の妹役がブス(最近わりに映画でよく見かけるベル・パウリー)であるばかりか、ヒロインが一時期身を寄せる親戚宅の同年配の女の子役もなぜかブスで、映画なんだからもう少し何とかならなかったのかと言いたくなる。

  ちなみに監督はサウジアラビア出身の女性で、同国で女性の権利が低い現状を批判している人だそうで、この映画を見るとそうだろうなと思うのだが、偏見と言われることを覚悟して書くけれど、女性監督は美人女優をあまり使わない傾向があるのではないかしらん。私のような男性映画ファンからすると、困りますと言いたくなる。映画はプロパガンダじゃない、或いは少なくともプロパガンダだけでできているわけじゃないんですから。

 東京では昨年12月15日の封切だったが、新潟市では6週間の遅れでイオン南にて単独上映中。県内では他に上越のJ-MAXにて2月下旬から上映される。

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今年映画館で見た12本目の映画
鑑賞日 1月26日
イオンシネマ新潟南
評価 ★★☆

 櫻木優平監督作品、93分、アニメ。

 現代世界になぜか突然死が流行。それで母を、ついで父を亡くした高校生の少年が、幼なじみの女の子と共に何者かに襲われる。それは地球と並行して存在するもう一つの地球から派遣されてきた者たちだった・・・

 最近の日本アニメはどうなっているのかという興味から映画館に足を運んだのだけれど、率直に言ってイマイチだった。

 筋書が単調。展開も不十分。後半、意外性がまったくなくて予想のままに進行する。日本ではよくある戦闘美少女にも独自性が感じられない。

 櫻木氏はアニメ界の新鋭として注目されているのだそうだけど、この程度のものを褒めちゃいけませんね。日本のアニメ界には物語を作るのが下手な人が結構いるけれど、この人もそうなのかなあ、と思いました。絵だけうまくてもそれだけではアニメ作家としては落第だということを知って欲しい。

 新潟市では全国と同じく1月25日の封切で、イオン南にて単独上映中。県内でも上映はここだけ。

・10月2日(火)  産経新聞インターネットニュースより。
 
 https://www.sankei.com/life/news/181002/lif1810020036-n1.html
 調査捕鯨で日本の違反認定 ワシントン条約常設委 政府、迫られる計画修正
 2018.10.2 23:55

 絶滅の恐れがある野生動植物の国際取引を規制するワシントン条約の常設委員会は2日、ロシア・ソチでの会合で、日本が北太平洋の調査捕鯨で捕獲したイワシクジラの肉を販売していることが条約違反に当たると判断し、日本政府に適切な対応を求めることを決めた。日本政府も見解を受け入れ、来年の次回委員会に是正策を示すことを表明した。

 イワシクジラは科学研究目的として捕獲されているが、肉は国内で販売され、収益が費用の一部に充てられている。政府は、肉の販売中止など調査捕鯨計画の見直しを迫られる。

ワシントン条約は、絶滅の恐れがあるとして国際取引を禁止している種について、公海で捕獲して自国内に持ち込む場合でも規制対象になると規定。「主として商業的目的のために使用されるものではない」と認められる場合に限り、政府の許可証の発行を経た上で、持ち込みを認めると定めている。

・10月3日(水)  日経新聞インターネットニュースより2件。

 https://www.nikkei.com/article/DGKKZO36058720T01C18A0EAF000/
 イワシクジラ調査捕鯨に是正勧告 ワシントン条約委「商業目的」 
 2018/10/3付日本経済新聞 夕刊
 
 絶滅の恐れがある野生動植物の取引を規制するワシントン条約の常設委員会は3日までに、日本が北西太平洋で実施するイワシクジラの調査捕鯨について是正を勧告した。調査後に鯨肉を国内で流通させているのは「商業目的」にあたり、条約違反になると認定。日本側は2019年2月までに是正措置を報告する必要があり、同年5月に予定される常設委で措置内容を討議する。

 同条約はイワシクジラについて、絶滅の恐れが最も高く商業目的の取引を禁止する「付属書1」に記載している。ただ、科学的調査は例外的に認められており、日本は生息状況を把握するため調査捕鯨を実施し、調査後に鯨肉が国内で売られている。常設委で日本側は、調査捕鯨は科学的調査と主張したが、受け入れられなかった。 


 https://www.nikkei.com/article/DGXMZO36086580T01C18A0EE8000/
 吉川農相「通商交渉、攻めの部分も」輸出増に期待 
 2018/10/3 23:00

 吉川貴盛農相は3日、日本経済新聞などとのインタビューで、農産品の日本からの輸出を増やすため、通商交渉で「攻めの部分を作りたい」と語った。来年にも発効する日欧経済連携協定(EPA)をテコに「現在は規制されている欧州向けの豚肉や、スイーツを含む乳製品などの輸出を可能にしたい」と話した。

 (中略)

 日本の調査捕鯨を巡り、ワシントン条約の常設委員会が是正勧告を出したことについては「我が国の主張が認められなかったのは残念」と語った。クジラの資源管理を議論する国際捕鯨委員会(IWC)から脱退すべきだとの意見も国内にあるが「答えられない。今後色々な検討課題が出てくる」と述べるにとどめた。


・10月6日(土)  朝日新聞インターネットニュースより。

 https://www.asahi.com/articles/DA3S13711404.html?iref=pc_ss_date
 「IWC脱退含め見直しを」 自民会合、商業捕鯨めぐり議
 2018年10月6日05時00分
 (以下は記事の一部分のみです。全文は上記URLからお読み下さい。)

 国際捕鯨委員会(IWC)の総会で、商業捕鯨の再開を含む日本の提案が否決されたことについて、自民党が5日に開いた会合ではIWC脱退を含めて捕鯨政策を見直すべきだとの意見が相次いだ。政府は「IWCとの関係についてあらゆる選択肢を精査する」との姿勢で、党の意見も踏まえて対応を検討する。

(以下略)


・10月9日(火)  産経新聞インターネットニュースより。

 https://www.sankei.com/life/news/181009/lif1810090018-n1.html
 釧路沖の調査捕鯨でミンククジラ29頭を捕獲
 2018.10.9 22:38

 北海道釧路沖で9月から調査捕鯨を行っていた地域捕鯨推進協会(福岡市)などでつくる調査団は9日、ミンククジラ29頭を捕獲したとの結果を発表した。遭遇率は昨年を大きく上回った。

 捕鯨船5隻が、商業捕鯨の再開に向け、性別や大きさなどのデータを集めた。北西太平洋沿岸の調査捕鯨の一環で、釧路沖のほかに宮城県沖や青森県沖でミンククジラ計80頭を捕獲した。

 日本の調査捕鯨は北西太平洋沖合でも実施され、上限としていたイワシクジラ134頭とミンククジラ43頭の計177頭を捕獲した。

 ワシントン条約の常設委員会は、イワシクジラの肉を販売目的で水揚げすることが条約違反と判断し、日本政府に対して是正措置を求めている。


・10月16日(火)  毎日新聞インターネットニュースより。

 https://mainichi.jp/articles/20181016/ddl/k35/020/315000c
 捕鯨 江島参院議員「IWC脱退」を主張 「国内の産業守るため」 対応など不安の声も 総会報告会 /山口
 毎日新聞2018年10月16日 地方版

 ブラジルで9月に開かれた国際捕鯨委員会(IWC)総会の報告会が14日、下関市であり、約30人が参加した。総会に出席した江島潔参院議員(自民)は報告で、日本が提案した商業捕鯨の一部再開を含む改革案否決を受けて「国内の捕鯨産業を守り、継承するため、もはやIWCに加盟している意味も意義もない」と述べ、IWC脱退を主張した。【上村里花】

 報告会は「南極海調査捕鯨支援の会」(織田光晴会長)主催。江島氏は、IWC総会でクジラ保護推進の宣言が採択されたことについて「IWCは『国際反捕鯨委員会』になってしまった」と、日本が示す科学的知見が重視されない現状を皮肉った。そのうえで、IWC脱退は江島氏が所属する自民党捕鯨議員連盟の意向だと明かし、年内に脱退を通告すれば、来年6月末に脱退できるとして「年末に向け、機運を高めていかなければならない」と語った。

 IWCを脱退した場合、南極海を含む公海で捕鯨は禁止され、商業捕鯨の範囲は日本沿岸と北太平洋の排他的経済水域に限定される。会場からは「南極海で捕鯨ができなくなると、国内のクジラ産業は大変革を強いられる。果たして対応できるのか」「北太平洋だけでは年1回しか操業できない。従業員の仕事は確保できるのか」など不安の声が上がった。

 しかし、江島氏は「調査捕鯨すら次どうなるか分からない。日本が堂々とIWCを脱退し、商業捕鯨を再開する機会は今だ」と持論を述べた。 〔下関版〕


・10月18日(木)  産経新聞インターネットニュースより。
 
 https://www.sankei.com/column/news/181018/clm1810180007-n1.html
 【葛城奈海の直球&曲球】 捕鯨文化守るために毅然とした意思表示を
 2018.10.18 13:00

 日本の食卓から鯨が消えて久しい。元はといえば、1982年、IWC(国際捕鯨委員会)が採択したモラトリアムによって、南氷洋での商業捕鯨が一時停止され、以後、調査捕鯨を細々と行うのみになった。これによって、戦後の食糧難の時代には日本人のタンパク源の60%を占めていたこともある鯨が、おいそれとは手の届かない高級品になってしまったのだ。

 しかし、これまでの調査結果から、今では例えばクロミンククジラは南氷洋に51万頭もいると推定されており、むしろ鯨の増えすぎで、その餌となるオキアミや魚が減るなどの影響が出ている。全世界の鯨類が食す海洋資源の量は、年間2・5億~4・4億トンとされ、これは人間による漁獲量の3~5倍にあたる。

 9月中旬、ブラジルでIWCの総会が開かれた。日本は、資源の豊富な鯨種に限っての商業捕鯨再開を、法廷手続きの要件緩和と併せて提案した。しかし、オーストラリアなどの反捕鯨国から強硬な反対意見が相次ぎ、提案は否決された。将来的にも再開は極めて厳しい状況にある。

 これに対し、谷合正明農林水産副大臣(当時)は、「あらゆる選択肢を精査せざるを得ない」と、IWC脱退をほのめかした。私はこれを支持するものである。そもそも日本の捕鯨は、その昔、欧米各国が鯨を「海に浮かぶ油タンク」として油だけを取り、それ以外を捨てていたのとは対照的に、「一頭捕れれば七浦潤う」として余すところなく活用し、最後には鯨塚や墓を作って、鯨に感謝し、供養した。子々孫々まで恵みを享受できるようにと、持続可能な捕鯨を行ってきた日本の文化を否定するような組織に、いつまでも拘泥し続ける必要はない。

 捕鯨に限らず、各方面で、とかく摩擦を恐れて「事なかれ対応」をしがちな日本政府であるが、守るべきものを守れなくては本末転倒だ。

 その意味では、海上自衛隊が今月、韓国で行われた観艦式で「旭日旗掲揚自粛」を求めた韓国に対し護衛艦派遣を見送ったのは留飲が下がる思いであった。日本文化と国の尊厳を守るため、捕鯨でも毅然(きぜん)と意思を示すことを望む。


・10月22日(月)  毎日新聞インターネットニュースより。

 https://mainichi.jp/articles/20181022/k00/00e/040/157000c
 下関 どうなる捕鯨の将来 「くじらの街」に広がる不安
 毎日新聞2018年10月22日 09時33分(最終更新 10月22日 09時33分)

 9月にブラジルで開かれた国際捕鯨委員会(IWC)で、商業捕鯨の一部再開を求める日本の提案は、反対多数で否決された。かつて商業捕鯨で栄えた山口県下関市は「くじらの街」として捕鯨母船の母港誘致を目指すが、捕鯨賛否の議論が収まらない中、鯨肉を扱う業者の間では、今後の商売に不安の声が聞かれる。政府には、今後の捕鯨のあり方を早急に示すことが求められる。

 下関市の唐戸市場にある鯨専門店には、調査捕鯨の副産物として、赤肉やベーコンなどさまざまな鯨肉が並ぶ。平日も一人、また一人と客が訪れ、珍しそうに商品に見入っていた。仕入れる肉の多くは、遠洋で捕れた直後に冷凍するため保管しやすく、業者の急な注文にも対応できるという。経営する男性は「せっかく下関に来たから、と鯨を買っていく観光客も多い。市のPRもプラスになっているのでは」と話す。

 市は長年「くじらの街」をPRすることで、新しい捕鯨母船の母港誘致を目指してきた。母港になれば周辺に関連産業が集まり、億単位の経済効果が期待されるからだ。PRが本格化した1998年には、初めて調査捕鯨船団の出港式を下関で開催し、2001年には市民団体「下関くじら食文化を守る会」が発足。市内小中学校で始めた定期的な鯨給食も毎年続けてきた。

 だが、牛や豚、鶏などの肉が普及している状況で、鯨肉の需要拡大は簡単ではない。大手の量販店や通販サイトは反捕鯨国にも顧客が多く、鯨肉が販売しにくい事情もある。鯨加工・卸業を営むマル幸商事(古田将社長)は昨年、ネット上に店舗を開いたが、大手通販サイトには出品できない。古田社長は「会社の方針でやらないと言われたらどうしようもない」と理由を話す。自社サイトを検索してもらうしかなく、ネット受注は全体の1%に満たないという。

 捕鯨賛否の議論が収まらない限り、鯨肉の需要拡大は困難に思われるが、下関市立大付属地域共創センターの岸本充弘委嘱研究員は「関門地域では今も、鯨肉は一定の需要があり、母港ができれば人の雇用にもつながる。いろんな波及効果が期待できる」と語る。

 科学的調査に基づいて鯨を食べ続けることは、自給率の低い日本が食料危機に備える意味でも重要だ。しかし、商業捕鯨再開を急いでIWCを脱退すると、日本の沿岸200カイリ以内でしか鯨が捕れなくなってしまう。鯨専門店経営の男性は「沿岸で捕れた鯨の場合は生肉で流通するだろうが、長持ちしない。量もそれほど入らなくなるし、売る原料(鯨肉)が無くなったら店をやめるしかない」と不安を語った。現状のまま粘り強い交渉を続けるのか、IWCを脱退するのか、他の道を探るのか。鯨産業を支える業者の不安を解消するためにも、今後どのようにして捕鯨を残すのか、政府は早く具体的に示すべきだ。【佐藤緑平】

 ■新事業に挑戦も 鯨油で商品開発
 下関市内では、鯨を使った新しい事業に挑戦する企業もある。吉田総合テクノ(下関市豊浦町)は県産業技術センターと共同で、鯨油に水素を加え、独特のにおいを抑える技術を開発した。2013年にはその油を使ったせっけんを発売。同社の吉田静一環境事業部長は「今はトントンだが、これから伸びる事業だと信じている」と話す。

 試験室と呼ばれる小さな工場では、鯨油を遠心分離し、フッ素樹脂加工したベルトですくいとる工程を経て、工業用や食用の油に精製している。市内の鯨肉加工場ではそれまで、鯨油は捨てられていた。現在は月当たり約100リットルが精製され、魚の飼料やサラダドレッシングにも応用されている。吉田部長は「人が捨てる資源から、良い商品を作りたい」と意気込む。


・10月26日(金)  日経新聞インターネットニュースより。

 https://style.nikkei.com/article/DGXMZO36490410V11C18A0000000?channel=DF260120166525&style=1
 ウミガメをくるくる回すシャチ 教育のため? 
 2018/10/26
 ナショナルジオグラフィック日本版

 シャチは時折、食べるつもりがなくても動物を群れで攻撃することがある。紹介する動画はこのことを物語る貴重な映像だ。ガラパゴス諸島最大の島イサベラ島の沖で撮影された。

 (動画は省略)

 生物学を専攻するニコラス・ダバロス氏は2017年冬、フィールドワークのため、シュノーケルを装着し、海面近くを泳いでいた。このとき、映像に映るおとな1匹、子ども2匹からなるシャチのグループが2匹のアオウミガメを追いかけているところに遭遇したのだ。

 おとなのシャチは口先(口吻)を使い、アオウミガメの体を乱暴に回し始めた。同時に、片方の子どもがもう1匹のウミガメの足をとらえ、水中に引きずり込んだ。シャチたちは30分にわたってウミガメをもてあそんだ後、突然泳ぎ去った。解放された2匹のうち、少なくとも1匹は生き延びたようだと、ダバロス氏は説明している。

 米海洋大気局で働く海洋生態学者のロバート・ピットマン氏は「シャチは時折、獲物を30分以上もてあそび、無傷で解放します」と話す。

 「獲物を追い回し、命を奪っておきながら、食べないこともあります。そうした点では、ネコとよく似ており、衝動を抑えることができないのだと思います」

 米クジラ研究センターのマイケル・ワイス氏によれば、米国太平洋岸では、若いシャチがたびたびネズミイルカを攻撃し、命を奪うが、殺した後に食べることはめったにないという。

 無意味な行動に見えるかもしれないが、シャチにとっては重要な意味があると、ワイス氏は考えている。「単なる遊びかもしれませんが、一種の訓練である可能性もあります」

 「獲物を長く生かしておき、追跡や捕獲を繰り返せば、ハンターとして必要なスキルを磨くことができます」。ワイス氏によれば、こうした行動は若いシャチによく見られるという。

 狩りのテクニックは習得が難しく、年長者から若いシャチへと教えられる。シャチは年少者の教育に多大な時間と労力を費やす。

 こうした教育はかつて人間だけの特徴と考えられていたが、チーターやミーアキャット、ハンドウイルカなど、数こそ少ないものの、多様な種で確認されている。

 シャチがほかの種をもてあそぶのが、狩りのスキルを磨くためか、ただ楽しむためか明確にはわかっていない。しかし、このような動画が謎の解明につながるだろう。

 (日経ナショナル ジオグラフィック社)


・10月29日(月)  産経新聞インターネットニュースより。

 https://www.sankei.com/economy/news/181029/ecn1810290020-n1.html
 「IWC脱退」に質問集中…日本捕鯨協会が報告会 調査捕鯨継続に不安も
 2018.10.29 21:20

 日本捕鯨協会は29日、東京都内で、9月に開かれた国際捕鯨委員会(IWC)総会の報告会を開き、参加者から日本が検討するIWC脱退などに関する質問や意見が相次いだ。IWC総会などでの国際的な議論を踏まえ、今後、現在行われている調査捕鯨が難しくなることも想定されており、関係者の間には不安も広がっている。

 報告会では水産庁の担当者が、IWC総会で日本として商業捕鯨の一部再開と決定手続きの要件緩和を一括提案したが、反対多数で否決されたことを報告した。日本はこれを受け、脱退を含めIWCとの関係の見直しを進めている。

 ただしIWCから脱退すれば、IWCに加盟することで可能になっている南極海での調査捕鯨はできなくなる。調査捕鯨母船「日新丸」を運航する共同船舶の森英司社長は報告会で、「わが社にとって南極海は捨てがたい」と発言。将来的にクジラ資源の回復が国際的に確認される場合を想定し、「南極海で商業捕鯨をするという目標を持って臨むしかない」と語った。

 一方、報告会では、日本が調査捕鯨の副産物である鯨肉を流通させていることに対し、絶滅の恐れがある野生動植物の国際取引を規制するワシントン条約違反と認定されたことについても説明があった。日本捕鯨協会の山村和夫会長は「クジラ製品の加工流通のあり方に不安を抱いている方もいると思う」と指摘した。


・10月30日(火)  朝日新聞インターネットニュースより。

 https://digital.asahi.com/articles/ASLBG3S5PLBGTZNB006.html?_requesturl=articles%2FASLBG3S5PLBGTZNB006.html&rm=229
 山口)鯨油、せっけんやドレッシングに クジラ文化発信
 2018年10月30日03時00分
 (以下は記事の一部分のみです。全文は上記URLからお読み下さい。)

 世界でも珍しい鯨油の精製と製品化に取り組む「吉田総合テクノ」(山口県下関市)。本業である生産用機械器具製造業の傍ら、近代捕鯨のまち・下関でクジラ文化を発信している。

 (中略)

 同社はもともと産業機器メーカー。クジラとはおよそ無縁だった。ところが2009年冬、思いがけない形で接点が生まれた。

 「汚水処理施設の配管に、鯨油がこびりついて困っている」。水産加工会社から相談を受けた。クジラを加工する際に出た鯨油は廃棄されていたが、冷えると固まるため、配管のクリーニングが必要だった。

 1980年代後半に商業捕鯨が一時停止して以来、若い世代はクジラになじみが薄い。だが吉田社長は鯨肉はもちろん、鯨油を活用したせっけんやマーガリンなどにも親しんだ世代だ。「鯨油を捨てるのはもったいない。精製してにおいを取れば活用できる」と考えた。

 (中略)

 4年以上かけて作り上げた技術は現在、特許を出願中だ。吉田社長は「鯨油精製と販売を手がける業者は、国内では現在、ほかに聞いたことがない。海外でも珍しいはず」と胸を張る。

 次に、無色無臭の鯨油を使った化粧せっけんの開発に取り組んだ。せっけんは油脂とカセイソーダを反応させて作るが、その過程で鯨油の保湿成分は失われてしまう。そこで出来たせっけんに鯨油を練り込み潤いを保たせた。香りも20種以上試してローズ系に。2013年10月、「ミンキーソープ」(100グラム、税込み1890円)を発売した。鯨油が見事に生まれ変わった。

 せっけんにも使える無色無臭の鯨油のほか、においを除去した食用、不純物を取り除いただけの工業用の鯨油も市販化した。食用は水産加工会社と連携してドレッシングに。工業用は鹿児島大との共同研究で、養殖魚用の飼料に鯨油を加えると脂ののった魚に育つことが分かった。シンナー臭を消すために漁網の塗料にも用いられている。

 こうした取り組みが評価され、今年9月には第10回山口県産業技術振興奨励賞の知事賞を受賞した。

 鯨油にはDHAやEPAといったオメガ3脂肪酸が豊富に含まれているという。「今度はサプリメントの開発もしたい」。吉田さん親子の夢は膨らむ。(山田菜の花)

     ◇

 吉田総合テクノ 1946年、現在の下関市豊浦町に農業機械部品製作の吉田鉄工所として開設した。遠洋漁業の隆盛で漁船機関の販売修理の取り扱いが増えたため、6年後に株式会社化。2013年、業務拡大に伴い現社名に変更した。従業員32人、18年8月期の売上高は約3億5千万円。

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評価 ★★★★☆

 「過去の歴史を忘れてはならない」というのは、今日でもジャーナリストや歴史系を中心とする学者、或いは主として左派系の政治家が好んで口にする言葉である。かつて西ドイツ大統領のヴァイツゼッカーは「過去に目をつぶる者は現在にも盲目になる」という名文句を吐いて賞讃された。

 しかし、人間は果たしてそのように過去を、特に悲惨な過去を常時忘れずに生きていけるものであろうか。過去を忘れるなと叫ぶ学者やジャーナリストは、そうすることが一種の職業的な務めだから、という側面がある。学者でもジャーナリストでもない市井の職業人にそういうことを叫び続けるのは、実は人間を知らない野蛮な輩なのではないか。別に歴史に限らない。人間は失恋や受験の失敗や人間関係のごたごたなど、過去の嫌な出来事を忘れることで前向きに生きていけるものだ。(失恋と歴史は別次元だと言う人もいようが、著者は「序章」でミラン・クンデラの小説を引きつつ、両者が同じであることを指摘している。)

 本書は戦後のヨーロッパにおいて、過去の歴史がどのように「忘れられて」きたのかを明らかにした書物である。著者は1966年生まれ、東大法卒、学習院大教授、専門はドイツ史、ヨーロッパ政治史。

 「はじめに」で著者はスペインの例を挙げている。周知のようにスペインは1930年代に左派の連合による人民戦線内閣が成立したが、その直後にフランコ将軍によるクーデターが起こり、他国からの義勇兵を多数含めたスペイン内戦の末に、フランコが勝利してファシズム独裁体制が成立した。しかし1970年代にフランコの死と共に独裁体制は崩れ、民主主義体制に移行する。こうした移行がスムースに行われたのは(意図的な)忘却のおかげだったのだと著者は指摘する。スペインにとって最悪の選択は、かつての内戦時の左右対立が再燃することであった。そうなれば国内は二分され、亀裂と憎悪によって安定的な政治運営は不可能になる。スペインの民主化が成功したのは、独裁体制時の責任を追及せず、国内に政治的な亀裂を生み出さないように配慮するという、「忘却」政策によっていた。

 これは実は戦後のドイツにも当てはまることだったと著者は述べる。敗戦直後のドイツでは非ナチ化裁判により「過去の克服」が厳しく行われた。しかし1950年代に入ると西ドイツでは恩赦や元ナチの再雇用によってこれが覆されていく。ただし国家原理としてはナチとの決別が強く言われてはいたのだが、元ナチの恩赦は特に教会からの働きかけで多くが実現し、それもキリスト教的な「赦し」の観点からではなく「勝者の裁き」への反発からだったという指摘が興味深い。
 (著者はここでははっきり書いていないが、50年代西ドイツで恩赦などが多く行われたのは、国内の融合のためだけでなく、そうしないと国家運営に必要な人材が足りなくなるという側面からでもあった。)
 60年代になって改めてナチ時代の「罪」が問われるようになったのは、政治的経済的に西ドイツが安定してきたからであり、また戦中戦後に生まれ、「ナチ時代」に責任を負う必要のない若い「無垢な」世代が育ってきたからでもあった。こうした推移は、フランスについても(ヴィシー政権の記憶に関して)言えるという。

 トニー・ジャットは『ヨーロッパ戦後史』(邦訳あり、みすず書房刊)の中で、「最初の戦後ヨーロッパは忘却の上に建設された。(…)或る程度の忘却が、市民が健全でいるための必要条件である」と述べているという。

 著者も、歴史の忘却は必ずしも独裁者や権力者の犯罪を隠蔽するためとは言えず、スペインの例からも分かるように、国内の秩序を維持して政治的安定と経済発展を図るというような、「何を優先するか」という政治的な判断から来ると述べる。

 また、「おわりに」で著者は、これに加えて、歴史を「善と悪」「友と敵」という二分法で捉える見方を避けることも大事だとして、「勝者の歴史観の押しつけや敗者への一方的な責任転嫁によっては、(…)『国民的な和解』が達成されることはない(…)。これは国家内のみならず、国家と国家の間の歴史問題をめぐる『和解』を実現する際にも不可欠な態度であろう」と透徹した認識を示している。

 さらに「おわりに」の中で著者は、戦後ドイツの歴史学者ブラッハーが述べた「ナチズムをファシズムの一種と見ることは危険だ」という説に対して異議を唱える。ブラッハーはドイツの学者として、自国のナチズムが他国のファシズムを大きく超える残虐性を持つことをふまえ、類型に押し込めるとナチズム特有の犯罪性が隠蔽されるという自戒を込めてそう言ったのであった。これに対して著者はそうした自戒の厳しさを認めつつも、「このような(…)自国史への厳しく真摯な姿勢は、皮肉にも、他国にとっては『忘却の政治』を支える最も中心的な論理として機能してしまう。ナチズムに比べればファシズムはましな体制である、と。」

 実際、本文の中で著者は、イタリア人が戦後、自国のファシズムをドイツのナチズムよりはるかに「人間的な」体制と見なしてきたこと(連合国側にもそういう見方があった)、ドイツとイタリアが組んだのもドイツにイタリアが引きずられたせいでありイタリアはむしろ「被害者」なのだと考えてきたことを指摘しているからである。

 イタリアだけではない。本文には東欧諸国の例がいくつも挙げられているが(東欧諸国の戦後の「歴史観」は、国によってかなり異なり複雑である。是非本書を読んでほしい)、やはり悪いのはナチス・ドイツであるとして、ナチに協力的だった自国や自国民の責任は不問に付す場合が珍しくないのである。共産主義時代の体制についても同じであって、悪いのは共産主義やソ連であり、自国には何の責任もないという見方が多く存在する。

 また、東欧諸国では戦後、国家を支える重要部署に勤務する人間はほとんどが共産党員だったため、共産主義体制が崩壊しても、その責任を追及しにくいという面もある。三権の共産党員をすべてパージしてしまったら、国家運営が成り立たなくなるからだ。この辺は1950年代の西ドイツと元ナチスとの関係に類似した状況と言える。

 さらに、東欧諸国は戦前はイタリアやドイツ流のファシズム体制、その後は共産主義体制という変遷を経ている場合もあり、近い時代の共産主義体制を批判するために、その前のファシズムを一種の民族運動として肯定的に評価する傾向も強いという。

 本書には、東欧諸国や、イタリアやスペイン、ポルトガルやギリシャといった、必ずしも通常の日本人が詳しくその戦後史を知らない国家について「忘却」という観点から分析がなされており、その多様性を含めて非常に興味深い内容となっている。

 事実関係はそれとして押さえ、しかし事実の認識だけでは終わらない人間の営みを凝視する著者の目は、「おわりに」の最後に著者が述べているように「成熟」という表現がふさわしい。これは著者の力量もあろうが、法学部出身の政治学者であることにもよっているのかも知れない。日本の(文学部卒の)歴史学者は、こういう「成熟した視線」を身につけて欲しい。(ま、法学部出の学者にも変な人はいるけれど。)

 最後に望蜀的なことを書くなら、フランスの戦後史についての記述が、イタリアやスペインに比して簡略で物足りなかった。また東欧史は、多数の民族や国家が関わるので複雑であり、私を含めて予備知識のあまりない読者も多いだろうから、もう少し親切な記述であればなお良かった。

 なお、本書は例によって新潟大学図書館には入っていないので、新潟県立図書館から借りて読みました。

 一昨日の毎日新聞で、長谷川眞理子・総合研究大学院大学長が重要な指摘を行っていた。
 以下、一部を引用する。
 (全文は下記URLからお読み下さい)
 
 https://mainichi.jp/articles/20190127/ddm/002/070/108000c
 時代の風
 縮む科学者の「寿命」 若手襲った「産業革命」=長谷川眞理子・総合研究大学院大学長
 毎日新聞2019年1月27日 東京朝刊

 (前略)

 博士号を授与される研究者の卵の数は昔に比べて増えたが、研究者として食べていけるポストの数は年々減少している。その結果、独立して研究室を率いることのできる研究者の数は減少し、1年から5年の契約で、特定の研究グループで使われる研究者の数が増えている。こういった有期雇用の研究者の労働条件はかなり悪い。博士号取得前の大学院生も含め、研究グループの労働力としてこき使われる状況はよくある。教授、助教、ポストドクター、院生というヒエラルキーがしっかりとあり、結構ブラックだ。

 インディアナ大学の研究者らが行った最近の研究によると、科学者の「寿命」がどんどん短くなっている。1960年代に科学の世界に入った人々は、その半数が科学者を辞めるまでにかかる年数は35年だった。つまり、昔の学者は、だいたい30歳で就職して、35年間はその地位を維持するというのが普通だったということだろう。

 ところが、この年数は年を追うごとに減少し、2010年代に科学者になった人々の半数が科学者を辞めるまでの年数は、なんと5年なのである。しかも、天文学、生態学、ロボット工学という三つのかなり異なる研究分野を比較して、傾向は全く同じなのだ。サンプルの取り方や計算の方法についていくつもの批判は寄せられているものの、大筋において、これは実際の傾向を表していると私は感じる。

  (以下、略)

                           

 国立大学の独法化以降の「大学改革」が失敗の連続であることについては、このブログでもずっと指摘してきたし、また長谷川氏の貴重なご意見もこのブログで幾度か紹介したことがあったが、今回の指摘は理工系の研究に関して新たな問題点を提示したものとして重要であると思う。

 現場からのこのような声に耳を傾けて、すぐに対策を講じるのが有能な政治家や官僚のあるべき姿であるはずだが、現実には日本の政治家や官僚は現場の意見を聞かずに勝手な思い込みで「改革」を続け、日本の大学を凋落させ続けてきた。

 長谷川氏の今回の発言を無視するなら、これまでに倍して日本の大学はダメージを受けることになろう。

 理工系の研究者も、長谷川氏ひとりに任せるのではなく、多数の人たちが声を上げていくことが大事だと考える。

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今年映画館で見た11本目の映画
鑑賞日 1月25日
シネ・ウインド
評価 ★★★☆

 スペイン・アルゼンチン合作、パブロ・ソラルス監督作品、93分、原題は"EL ULTIMO TRAJE"(最後の服)。

 かつてポーランドに住んでいて、ナチス・ドイツに家族を殺され、戦後すぐに親戚を頼ってアルゼンチンに移住してきたユダヤ人の仕立屋アブラハム。それから70年をへて、今は娘たちや孫たちと暮らしているが、必ずしもうまく行っていない。

 そんな主人公が、かつて戦争を生き延びた自分を助けてくれた同年の友人と交わした約束、つまり自分が仕立てたスーツを届けるという約束を遅ればせながら果たそうと旅に出るお話。

 とはいえ、主人公はつむじ曲がりだし、娘たちとのいさかいには『リア王』的な要素もある。

 アルゼンチンからマドリッドに飛行機で飛ぶが、そこの安ホテルで金を盗まれて窮地に陥ったり、色々と途中で事件が起こる。

 しかし、基本的には善意の女性たちに助けられて、ポーランドにたどり着く。果たしてかつての友人はまだ存命中なのか・・・?

 下手するとモロ美談、或いは反ナチ=正義という「分かりやすい」映画になりかねないが、主人公のエグい性格と、それを囲む人々の多面的な姿によって、独特の風味のある作品になっている。

 東京では昨年12月22日の封切だったが、新潟市では4週間の遅れでシネ・ウインドにて上映中、2月1日(金)限り。

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今年映画館で見た10本目の映画
鑑賞日 1月25日
イオンシネマ新潟南
評価 ★★★☆

 川村泰祐監督作品、127分。

 社会人になって間もない若者・野宮透(横浜流星)は、会社の健康診断で余命いくばくもないと知る。
 落ち込んで自殺しかけていた彼は、偶然昔の友人・坂本龍也(飯島寛騎)と再会し励まされるが、気は晴れない。
 しかしたまたま道に落ちていた詩集を読んで、生きることの意味を改めて考えるようになる。詩集の著者である少女・伊藤凪(清原果耶)は死んだものと思われていたが・・・

 難病物映画である。
 難病物なので基本的な展開は決まっているのだが、この映画は筋書の上でちょっと捻ったところがあって、主人公二人が出会うまでに少し時間がかかる。
 その分、サブの人物(上記の飯島寛騎、および成海璃子)がそれなりの役割を果たすようになっており、物語に厚みが出ていると思う。

 新潟市では全国と同じく1月25日(金)の封切で、イオン南とTジョイ新潟万代の2館で上映中。県内では他にTジョイ長岡でも上映している。

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評価 ★★★★

 昨秋、非常勤で担当している教養講義「西洋文学」で取り上げた小説である。教材として取り上げることは昨年初めに決めて、ざっと目を通していたのだが、授業で扱うときには改めて精読し、また色々と調べる必要があった。今頃になってここにアップするのは、読了してすぐ掲載すると学生がレポートを書く際に利用する可能性があるからである。といっても、講義ではここに記したようなことはすべて学生の前で話しているのだが、授業には出ずにネット情報だけでレポートを書こうとする怠け者の学生を助けるような真似は慎むという意味で、年末になったら載せようと考えていたのを、うっかり忘れて、年が明けた今頃になって思い出したという経緯なのである。

 ゲルトルート・フォン・ル・フォール(1876-1971)はドイツ文学を専門にやっている人、或いはカトリック信者以外にはあまり知られていないと思うが、ドイツの女性作家である。ル・フォール(le Fort)という姓から分かるように元々はフランス系で、フランスでプロテスタント信仰を迫害されドイツに逃げ延びてきた先祖を持つ。
 というわけでル・フォールも当初はプロテスタントだったのだが、ローマに旅行してカトリックに改宗し、そうした方向性で宗教性の濃い作品を多数執筆した。この小説もその一つで、しばしば彼女の代表作とされる。私は彼女の小説はいくつか読んでいたが、これは未読のままだった。
 ちなみにこの小説はプーランクの作曲したオペラ『カルメル会修道女の対話』の原作ともなった。(ただしオペラと原作では当然ながら筋書や人物に違いがある。授業に出ずにネット情報でオペラの筋書を仕入れてそれでレポートを書いた不心得な学生がいたが、すぐにバレるわけで、当然ながら単位不認定となった。)

 舞台はフランス革命期のフランスである。ちょうど恐怖政治の真っ最中で、カルメル会に所属している修道女も多数断頭台の露と消えた。本書はその史実にヒントを得てル・フォールが書いたものである。

 ヒロインは侯爵令嬢のブランシュ・ド・ラ・フォルス、そして彼女と並ぶ主要人物が2人。修道会内で重きを置かれている修道女である「御託心の」マリー(修道女にはこのように、信仰にちなんだニックネームが付く)と、修道院長であるリドワーヌである。

 ブランシュは幼い頃から度を超しておびえやすい性格であったが、家庭教師であるド・シャレ夫人の薫陶を受けて修道女になろうと決意し、カルメル会修道院に入ることになる。ただし、おびえやすい性格は変わっていない。

 正式の修道女になるためにはその前の段階で見習い修道女として一定の修練をつむ必要があるが、ブランシュの面倒を見たのが「御託心の」マリーであった。王家の血筋を引き、背が高く人望も厚い彼女はブランシュのために時間と精力を費やすが、ブランシュのおびえやすい性格は治らない。そのため、ブランシュは正式の修道女には向かないのではないかとマリーは考えるようになる。

 他方、修道院長を務めているリドワーヌは、マリーとは逆に小柄で地味なタイプの修道女であるが、ブランシュのおびえやすい性格はむしろ宗教性を帯びている、つまり受難を前にして苦悩するイエスのように人類の本質的なおびえを体現しているのではないかと考え、マリーの意向には反対している。

 こうした中で恐怖政治がその頂点に達し、修道院にも革命派の男たちが押し入ってくる。誇り高いマリーは荒くれ男たちと対等にやり合うが、他方で殉教への意志を抱き、これが修道院内部にも伝染してゆく。しかし、リドワーヌ院長は、殉教の意義は否定しないものの、性急にそういう道を選んではならないという意向である。

 しかし、事情があってリドワーヌ院長が数日留守にしている間に、代理院長となったマリーは院内で殉教への方向性を決めてしまう。ところがその儀式の最中にブランシュは姿を消す。おびえやすいブランシュは殉教を怖れたのであろう、それはむしろ彼女のためにいいことだったとマリーは考える。

 ・・・その後、事態は修道女たちの殉教に向かって急速に動いていくのだが、誰が殉教し、誰が殉教しなかったかの結末に意外性がある。ここはご自分で読んでいただきたい。

 本書のテーマは、ブランシュに体現されている人間のおびえ、世界への恐怖と、その宗教的な克服である。それが本作品の場合カトリック文学という狭い領域にとどまらずに済んだのは、ブランシュというヒロインの造形によって、このおびえが信仰とは無関係に人類一般の苦悩に昇華し得たからだろう。またフランス革命の恐怖政治という極端な、しかし現実に存在した状況を背景としているので、物語がそれによってリアリティを確保していることもある。

 本作品の訳はきわめてよくできているが、訳注がないのがその意味で残念である。主要人物はフィクション(だと思う)であるが、作中に言及される事件や、マリー・アントワネット、シャルロット・コルデ、ル・ソンブルイユといった人物は実在のもので、そうした事件や人物について知って作品を読むのと、知らずに読むのとでは読みの精度や深さが違ってくる。私は授業で取り上げたわけだから、当然ながらあらかじめ調べて学生に説明した上で読み進めたが、ふつうにこの作品を邦訳で読む日本人はそこまではしないだろうし、またカトリック用語などはクリスチャンでない大方の日本人にはなじみがないから、読みが表層的なままで終わってしまう危険性が高い。それは、この作品にとって惜しい。

 この作品の醍醐味は、主要な三人の人物の造形とやりとりにもある。ブランシュのおびえは、極端ではあるが誰にでも或る程度こういうところはあるだろうし、御託心のマリーはヒロイックで、背が高いということ以外には容貌の描写はないが、映画や舞台にする場合は背の高い美人女優が適役だろう。リドワーヌ院長は逆に小柄で地味なタイプだが、案外この作品において重要な役割を果たしていることは、小説を読み慣れた人間には分かりやすい。ただ、授業でもそういう話はしていたのだが、学生のレポートではリドワーヌ院長の役割について触れたものはほとんどなかった。

 この三人以外でも、ブランシュの家庭教師ド・シャレ夫人(彼女の運命は、この作品の宗教文学という枠を超えている)、ブランシュの父である侯爵(貴族ながら啓蒙思想にかぶれ、革命が起こってようやく自分が何を愛好していたのかに気づくという皮肉な役どころ)、ブランシュ同様の若い見習い修道女であるコンスタンス(やや軽信な性格)、逆に百歳近い高齢の修道女ジャンヌなど、副次的な人物の造形もよくできている。

 なお、『ル・フォール著作集』は新潟大学の図書館に入っていない。これには私の責任もあるが(専任教員の間に入れておくべきだった)、関係者の配慮を望む。

 また、『ル・フォール著作集』は全4巻の予定が、第2巻だけ出ていない。第1・4巻が出たのが2009年、第3巻が2012年で、だいぶ年月が経過している。出版社の善処を求めたい。

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今年映画館で見た9本目の映画
鑑賞日 1月22日
ユナイテッドシネマ新潟
評価 ★★★

 佐々部清監督作品、105分。

 詩人・北原白秋と音楽家・山田耕筰が組んで今も愛唱される童謡を生み出していく様子を描いた映画。

 力点は北原白秋(大森南朋)に置かれており、山田耕筰(AKIRA)は一歩下がって北原白秋を照らし出す役になっている。

 前半は白秋の破天荒な生き方を、当時の詩壇(与謝野鉄幹、与謝野晶子など)や出版人(菊池寛)などを交えながら描いていて、まあ面白い。

 しかし後半、戦時期の言論が不自由な時代になると、物語が単調になり繰り返しも多くなって失速する。この辺は工夫が足りない。

 主演の大森南朋は悪くないし、脇役ながら与謝野晶子を演じる羽田美智子、与謝野鉄幹を演じる松重豊、白秋の妻を演じる貫地谷しほりなども好演しているが、山田耕筰のAKIRAはどうもぱっとしない。大森と並ぶ主演なのに華がないのである。ミスキャストであろう。

 新潟市では全国と同じく1月11日の封切で、ユナイテッドにて単独上映中。県内でも上映はここだけ。

 今年に入ってからの大学問題関係記事を3つほど紹介する。

 https://mainichi.jp/articles/20190107/k00/00m/040/300000c?pid=14509
 人文・社会も科学振興の対象に 基本法25年ぶり抜本改正へ
 毎日新聞2019年1月8日 06時00分(最終更新 1月8日 06時00分)
 (以下は記事の一部分です。全文は上記URLからお読み下さい。ただし登録が必要です。登録できない方は紙媒体でどうぞ。)

 政府は、倫理学や法学などの人文・社会科学を科学技術政策に含めて推進する方針を固めた。1995年に成立した科学技術基本法で振興施策の対象外とされてきたが、生命科学や人工知能(AI)の研究が進み、重要性が増してきたことから方針を転換する。2020年の通常国会で、同法の25年ぶりの抜本改正を目指す。

 同法は、近年の科学技術政策の原点になっている。対象分野について「人文科学のみに係るものを除く」とするただし書きがあり、社会科学も含めて対象外とする根拠になってきた。

 このため人文・社会科学は政策上、自然科学と差がつけられている。人文・社会系の研究職公務員は、自然系に比べて初任給が低い。企業が共同研究をする場合、相手が人文・社会系の研究機関だと、減税などの優遇措置が受けられない。文部科学省所管の科学技術振興機構が助成する研究プログラムは、テーマが人文・社会系だけだと採択されない決まりだ。

 しかし近年、AIや生命科学、気候変動など、自然科学だけでなく、社会や人間との関わりを考える上で人文・社会科学の知見が必要な課題が増えている。このため、政府は同法のただし書きを削除する方針。イノベーションなど、法成立時にはなかった新しい概念も盛り込む方向だ。

(以下、略)

                             

 朗報といえば朗報なのかな。 
 ただし、政府が分かる程度の分かりやすく有用性がはっきりしている研究でないと「推進」の対象にはならないんだろうから、あまり状況に変化はないかもしれないね。
 海の物とも山の物ともつかない研究を助成するシステムをもっと拡大しないと。

                             

 毎日新聞では昨年から「幻の科学技術立国」という連載記事を毎週木曜日に載せている。第3部は「企業はいま」だけど、先日の記事は大学院生の採用に触れていたから、大学とも無関係ではない。

 https://mainichi.jp/articles/20190117/ddm/016/040/008000c
 幻の科学技術立国 第3部 企業はいま
 /7 研究と就活、両立に悩み 博士課程、就職難で入学者減 専門性、高評価の動きも
 毎日新聞2019年1月17日 東京朝刊
 (以下の引用は一部分です。全文は上記URLからお読み下さい。)

 「学位取得が最優先で、準備に手が回らなかった」。東京都内の私立大理工学部に博士研究員(ポスドク)として籍を置く男性(32)は、2017~18年に経験した就職活動を振り返った。学部時代から続けていた研究は面白かったが、安定したポストを得にくい学術界に残ることには不安があった。博士号取得を目前にした17年夏、企業への就職を決意。「年齢的に新卒と内定を競うのは難しい」と、中途採用を狙って転職サイトに登録した。

 しかし、日中は研究や論文執筆に加え、研究室の後輩の指導に追われた。深夜や休日にエントリーシートを書き、数社に応募したが採用に至らなかった。博士号取得後はポスドクになったが、休職して就活に励み、昨年暮れにようやくIT系企業に内定を得た。

 ■長く採用に消極的
 文部科学省は、博士を科学技術イノベーション推進の中心を担う人材と位置づけるが、企業は長く博士の採用には消極的だった。文科省が18年に公表した博士課程修了者の追跡調査では、12年に企業に雇用された人は全体の約28%にとどまり、15年も約25%と横ばいだった。就職難を背景に、博士課程入学者は03年度の約1万8000人をピークに減少し、17年度は約1万5000人に減った。

 就活サイトを運営する「アイプラグ」は、博士の採用が広がらない理由について「過去に採用実績がない企業では、扱いにくいといった博士人材への先入観があり、給与体系などの受け入れ態勢ができていない」「中小企業に、研究に精通している採用担当者がいない」などを挙げる。同社は企業側の「食わず嫌い」解消のため、研究内容や人柄を紹介する博士課程専用の就活サイトを設けた。

 一方、ここに来て、企業の姿勢にも変化が出始めた。昨年11月、東京都新宿区の早稲田大で、博士課程の学生とポスドク限定の就活セミナーが開かれ、企業11社が参加した。学生たちは自分の研究内容のほか、趣味や特技、性格、長所などを書き込んだポスターを掲示し、その傍らに立って企業の担当者にアピールした=写真・斎藤有香撮影。東京医科歯科大大学院博士2年の山下真梨子さん(25)は「研究内容だけでなく、人となりをわかってもらえるよい機会」と話した。

(以下、略)

                           

 日本では、特に博士課程に進学する若者の数が減っている。理由は簡単。博士課程を出ても就職先がないからだ。

 かつては博士課程修了者の就職先は大学(の教員)が大部分を占めていた。しかし大学院の拡充で博士課程の定員は増えているが、最近の国立大学の独法化による予算難から若手研究者の採用は減っており(特に自然科学系の研究は国立大学が担う度合いが高い)、といって民間企業は、修士はともかく、博士の採用には消極的なので、博士課程に進学しても行き場がない。となると博士課程進学者が減るのは理の当然なのである。

 これが先進国のめざす高度知識社会構築と逆行する動きであることも言うまでもない。

 要するに日本は高度知識社会を構築するのを放棄しつつあるのである。意図的にそうしているのではなく、口先では高度知識社会を構築すると言いながら、実際にはそれとは逆のことをやっていて、しかもそれを理解していないのだから、バカも大バカなのである。
 
 何とかしなきゃ。

 なお、毎日新聞の連載「幻の科学技術立国」の第3部は本日(1月24日)に最終回が掲載された。理工系の研究において、日本は新領域への対応が他の先進国(英米独中)より鈍い、という重要な指摘がなされている。理工系の方々には以下のURLからご一読をお薦めする。

 https://mainichi.jp/articles/20190124/ddm/016/040/013000c

                            

 他方、産経新聞の1月13日(日)付け「新聞に喝!」欄(新聞批評のコラムですね)に京大霊長類研究所教授・正高信男が「科学の成果主義、あおったのは誰か」という文章を載せていた。

 最近日本の学術論文は減少傾向にあるという記事について、自分の見る若い世代ではせっせと英語の論文を書いているし、国際学会で英語で発表して研究費の取得に励んでいる、と一応評価する。

 しかしその後で、「これは政府が、優れた研究にのみ配分する研究費を増額したことと深く関連している。各大学におおむね満遍なく配分していた使途を定めない交付金を減額する代わりに、研究計画を競わせて審査する。典型的には科学研究費助成事業(科研費)である。」

 その結果どうなったかというと、「私の勤務する大学でも科研費申請書の書き方の講習が行われ、教授が書いた申請でも提出前に大学側のチェックを受けるようになった。(段落)結果、申請が採択されるためには成果が確実に見込まれるような研究計画が望ましいとなってきた。顔は見えなくとも、申請書を読む委員におもねるような研究が目立つようになったのだ。」

 「生命科学系の研究者は『一般受けしないテーマにおもしろい研究の種が多々あるが、それでは資金は取れない』と嘆く。研究費申請の際には、成果がわかりやすい研究を前面に出すのだという。」

 正高教授はこうした傾向を長期的な視野に欠けるとして憂うるのだが、その際に、「成果主義」をあおったメディアにも責任があるとしている。

 まあ、そうかも知れない。このブログでも書いているが、保守系メディアが最近の日本の学術的危機に無関心なのには、私も唖然としているからだ。

 しかし、同時に大学人がもっと声を上げていくことも必要だろう。安保法案反対だとか改憲反対だとか、自分の仕事に直接関係ないテーマでは大声を上げて、自分が直接従事している大学研究の危機にはさっぱり声を上げない人間は、サヨクにもたくさんいる。猛省してもらいたい。

 (なお、上記の正高信男教授の記事はネット上の産経新聞には載っていないようなので、全文は紙媒体でお読み下さい。)

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今年映画館で見た8本目の映画
鑑賞日 1月19日
イオンシネマ新潟南
評価 ★★★☆

 広瀬奈々子監督作品、113分。

 地方都市で小さな木工所を経営する初老の男(小林薫)は、ある夜、川縁で倒れている青年(柳楽優弥)を発見して自宅に連れ帰る。他人に言いたくない過去を秘めているらしい青年を、男は黙って自宅においてやり、やがて自分の木工所で働かせるようになる。青年は徐々に仕事を覚え、順調に事が推移するように見えたのだが・・・

 現代の生きづらさ、がテーマだろうか。青年だけでなく初老の男の側もそれなりの過去を背負っているという設定。

 質感はそれなりにある作品。ただし、いわゆる純文学的な映画なので、娯楽色を映画に求める人には薦められない。監督は是枝裕和監督や西川美和監督の弟子で、有望な新人だという。

 新潟市では全国と同じく1月18日の封切で、イオンシネマ南にて単独上映中。県内でも上映はここだけ。

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評価 ★★★☆

 2016年に同じ新潮新書から出てベストセラーとなり新書大賞を受けた(そしてこのブログでも紹介した)『言ってはいけない』の続編である。  

 今回は知能の人種差の話がメインになっている。
 内容的には前著と重複している部分もある。ユダヤ人の中ではアシュケナージと呼ばれる北ヨーロッパ系統の知能が高い、黒人の知的能力は平均的に見て低い、といった主張である。
 しかし今回は最近進歩が著しいDNA分析によって分かってきたホモ・サピエンスの進化経路やネアンデルタール人との交配などの情報を盛り込み、また著者自身の推測も含めて、大々的に人種間の知能の差異について語っている。

 もっともそれ以外にも興味深い箇所がある。例えば最近流行(?)のLGBTである。同性愛者は異性と性行為を行わないから子孫を残せない。したがって生物学的に考えるなら(つまり生物とは子孫を残すことで自分の種を存続しようとするものという前提に立つなら)生まれついての同性愛者が存在すること自体が矛盾しており、なぜ同性愛者が一定の率で生まれるのかは大問題となる。
 これについて、最近の研究では同性愛者は遺伝的に決まる度合いが高いらしいのだが、ゲイ(男性同性愛者)の母方の親戚女性、つまり母方のおばや従姉妹は多産であるという統計上の結果が出ているのだそうだ。著者はここから、ゲイの遺伝子は外見の美しさと関係していて、だから本人がゲイになる(男から愛されるほど美貌になる)遺伝子は母方の女の親戚をも魅力的な外見にし、だから多産なのではと推測する。それほど単純なものか、私には疑問があるのだが(そもそも、ゲイになるかどうかは本人の美貌度とは必ずしも関係ないのではないか)、ともかく多産とゲイが遺伝的につながっているらしいという指摘は興味深い。

 さて、本書のメインである人類の進化過程と人種の知能の差異の関係である。詳しくは本書を読んでいただきたいが、一つにはアフリカに誕生した現行人類がユーラシア大陸に出て行った後の遺伝子的多様性の問題である。アフリカの黒人と言っても地域ごとに違いがあり、遺伝子的に見ても相違があるのだが、そのアフリカ黒人間でのDNAの相違に比べると、白人とアジア人(及び白人同士の間で、アジア人同士の間での)DNAの相違ははるかに小さいのだそうである。つまり、出アフリカを果たした人類はDNA的に相互にきわめて似通っている。黒人の知能が他人種に比して劣っているのはここから説明が付く、ということらしい。

 もう一つは、近年、現行人類は過去においてネアンデルタール人と交雑しており、ネアンデルタール人のDNAを保持していることが判明しているが、東アジアの人類はネアンデルタール人DNA保持の割合が高いらしい。そして、東アジア(日本、中国、朝鮮)出身の人間は近年、米国の有力大学で多数の合格者を出し、逆アファーマティブアクションを受けていること、つまり平均的に他人種より高得点なのに入学できないという差別を受けていることが問題になっているわけだが(黒人の場合は逆で、点数に下駄を履かせないと有力大学への合格率が上がらない)、これはその辺から説明できるかもしれないという。

 その他、色々と面白いことが書かれているので、多少眉に唾はつけたほうがいいというのは前著の評でも書いたけれど、今回も同じことを繰り返しつつ、とりあえず読んでみればと言っておこう。

 疑問点を書いておく。
 著者は、女性の社会進出が進むと少子化も進行するという説が無根拠と書いているが(41ページ)、その証明として挙げているのはヨーロッパで女性の社会進出が進んでいる北欧のほうがそうでない南欧より出生率が高いという事実である。しかし、高いと言っても北欧の出生率は2に達していない。よく知られているように、人口を維持するためには出生率は2.1なければならず、ヨーロッパは全体として少子化を克服しているとは言えないのである。(だから移民問題も起こるわけなのだ。)日本の学者はその辺をごまかして、ここ20年ほど、スウェーデン、デンマーク、そしてフランスなどの、その時々の出生率が他のヨーロッパ地域より高い国を取り上げて賞讃してきたが、私の見るところ、2.1に達していない以上、どの国も失格である。要するに、ヨーロッパは全体として少子化克服に失敗しているのだから、北欧を例に挙げて「女性の社会進出が少子化につながるとは言えない」と言うこと自体が証明になっていないのである。失敗しているヨーロッパではなく、成功している(つまり出生率が2.1を上回っている)他地域の例を挙げなければ著者の主張は説得性を持たない。

  次に、「原住民」と「先住民」について、日本では前者が差別語とされるが漢語として両者には明快な意味上の区別があるから、と述べているが(106ページ)、漢語は漢語、日本語は日本語であろう。もっとも私は「原住民」が差別という見方自体もおかしいと思うが、日本語は漢語から多くを取り入れているとはいえ、漢字熟語の中国での意味と日本での意味は同じではない。漢語でこうだからという言い方は、したがって変。

 「(西暦)1800年当時の中世ヨーロッパの平均的生活」(240ページ)と著者は書いているけれど、西暦1800年は立派な近代ですぜ。ヨーロッパ史では中世と近代の分かれ目は、見方にもよるけれど、早ければ15世紀半ば(ビザンチン帝国の滅亡)、或いは16世紀前半(ルターによる宗教改革開始)、どんなに遅くとも16世紀末におくのが普通。これは最近の学生にも多い間違いなので(教養科目「西洋文学」の授業で18世紀の作品〔設定時代も18世紀〕を読ませると、「中世のヨーロッパではこういう風に人々は物事を考えていたのだと知りました」なんてレポートに書いてくる奴がいる)、文筆家の方々も注意して欲しい。

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今年映画館で見た7本目の映画
鑑賞日 1月18日
ユナイテッドシネマ新潟
評価 ★★★★

 鈴木雅之監督作品、133分。東野圭吾の原作は未読。

 連続殺人事件の犯人が4度目の犯行を名門ホテルで起こそうとしている・・・との情報を得た警察は、刑事たちをホテルマンに偽装させ、犯人逮捕に向けて策を練る。

 このため、やむを得ずホテルマンに扮した刑事・新田浩介(木村拓哉)は、ホテルマンを天職と考える女性・山岸尚美(長澤まさみ)とことあるごとに対立しながらも、第4の殺人を阻止するべく犯人像の究明に取り組むのだが・・・

 なかなかよくできたミステリー。木村拓哉と長澤まさみの掛け合いも楽しいし、ホテルマンと客が向かい合う中で一種の人生模様も見えてくるし、またそう見えること自体がミステリーの罠だったりもする。

 主役ふたり以外にもたくさんの俳優が出ているので、俳優各人各様の味を楽しみながら鑑賞するのもいい。

 新潟市では全国と同じく1月18日の封切で、市内のシネコン4館すべてで上映中。県内他地域のシネコン3館でも上映している。

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今年映画館で見た6本目の映画
鑑賞日 1月17日
シネ・ウインド
評価 ★★★

 大西功一監督作品、104分、ドキュメンタリー。

 津軽三味線の大家である高橋竹山の没後20年を記念して、残された映像から彼の演奏や生涯をたどり、合わせて彼らの弟子たち(その中には二代目の高橋竹山〔女性〕も含まれる)の回想や演奏を収録し、また沖縄や昭和三陸大津波の被害を受けた岩手県の海岸部など各地と竹山の縁などを追ったドキュメンタリー映画。

 私は三味線には趣味がないので、演奏の善し悪しは分からないけれど、迫力は感じられる。また津軽の風土の中で、子供時代は視力が極端に悪くてイジメを受けたり、その後も苦労して芸を身につけた竹山の人生には襟を正される思いがした。

 なおタイトルのカマリは「匂い」の意味の津軽弁で、竹山は「津軽のカマリが湧き出るような音」を求めていたという。

 東京では昨年11月10日の封切だったが、新潟市では8週間の遅れでシネ・ウインドにて2週間上映された。

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評価 ★★★★

 何だか少女マンガみたいなタイトル(笑)だけど、一昨年に亡くなった文筆家・犬養道子さん(1921~2017)の自伝である。といっても幼少期(10歳くらいまで)のみを扱っている。

 私はこれまで犬養さんの本を読んだことがなかった。思うところあって、昔どこかの古本屋で購入したまま自宅書斎の片隅でツンドクになっていた本書を引っ張り出して一読したのだが、非常に面白かった。

 一つにはやはり文章が生き生きしていて読者を惹きつける力を持っているということ。もう一つには著者の生きた背景が並の人間とは大きく異なっているということである。

 何しろ父方の祖父は犬養毅。昭和一桁の困難な時代に首相を務め、5・15事件で凶弾に倒れたあの人物である。祖父に可愛がられた著者は、書物(当時のことで漢籍が主だったようだ)を愛し、庭での花作りを愛した祖父の様子を鮮明に綴っている。また祖父がテロリストに殺された日のことも。

 ちなみにその妻、つまり著者の父方の祖母もかなりの人物だったようだ。先妻がいたのを追い出して妻に収まり(だから著者とは血がつながっていない)、屋敷の会計を厳しく取り締まり、使用人に粗相があれば給金からその分を遠慮なく差し引き、客人(政治家の屋敷だから非常に多い)に出すお菓子はカビが生えた代物(紙にくるんであるから外見ではそれと分からず、また客人の前に出して一定時間が経つと引っ込めてしまうので、大抵はバレない)である、というような経済的能力にたけた女性として描かれている。当時のことで、どこでどう繋がっているか分からない人物が出入りして飯を食っていくということも多かったらしく、このくらいでないと政治家の妻は務まらないのである。

 著者の父・犬養健は、最初は政治家の父(著者の祖父)や継母である母に反発して作家になる道を選び、実際著者が物心がつき始めたころは作家生活を送っており、また母・仲子もそういう人だからと嫁にきて、出入りしている白樺派の作家たちと一緒に芸術談義を交わしたり、ピアノを弾いたりするような女性であった。著者はそういう人たちに囲まれて、自宅に多く備え付けられていた西洋の美術書や、クラシック音楽のSPレコードを鑑賞しながら育っている。(やっぱり、基本的に裕福だったのだ。)白樺派の芸術家たちの、楽天的な世界市民主義や芸術主義を吹き込まれていたので、近隣(その頃一家は東中野の借家に住んでいた)の子供たちが朝鮮人や中国人を馬鹿にするのをまったく理解できなかったという。
 もっとも、著者の父は結局は困難な時代に政治家としての務めをまっとうしようとする父(著者の祖父)の後継になる道を選ぶことになるのであるが。

 武者小路実篤など白樺派の作家や、芥川龍之介、川端康成、佐佐木茂索などの有名人も登場する。
 日本人だけではない。ロシアの盲目の詩人エロシェンコが尾羽うち枯らした姿で(白樺派作家と知遇があったので)父を訪ねてきたとき、たまたま父は留守だったが、母は彼に食事を出して、さらに夫の使い古しの服と若干の金子を与えて帰したという逸話も紹介されている。

 著者の母方もすごい。祖父・長与称吉は東京帝大医学部を出てドイツに長年留学して帰国し、日本の近代医学、特に胃腸学方面の権威として知られた。その妻・延子は後藤象二郎の娘で、絶世の美人だったという。その典雅な姿といかにも上流的な暮らしぶりにも著者はページを多く割いている。長与称吉の弟・長与又郎も医学者で東京帝大総長、別の弟・長与善郎は白樺派の作家である。医者の一家に育ったので、著者の母も(やや怪しげながら)医学の心得はあったようだ。

 ・・・まあ、こういう中で育っているので、「氏より育ち」という言葉もあるけれど、著者の場合は「氏も育ちも」という感じで、文筆家になって成功するのも当然かなというふうに読んでいて思いました。

 なお私は著者が通っていた女子学習院についての描写が多くあるかと期待して読んだのであるが、その辺には残念ながらあまり触れられていない。著者には学校よりも、家庭や両親の周辺にいる人物のほうがはるかに面白かったのであろう。

 とはいえ、学習院に通っている子供といっても、親が没落公家というのも結構いて、昼食弁当のおかずはいつもおかか(鰹節の削ったもの)だけという場合もあったと著者は書いている。だけどあの時代、下々(しもじも)の家では子供に昼食弁当を持たしてやれない(いわゆる欠食児童)本当に貧乏な家庭も多かったはず。腐っても鯛、貧乏でも学習院、と私は思いましたけど。

 何にしても面白い本である。お薦め。

 1月13日は久しぶりに一家5人が揃い(長男と次男は首都圏のサラリーマン、サラリーウーマンの末娘は新潟市でアパート暮らし)、「旬庭(しゅんてい)」というフランス料理店でディナーをとった。

 これは5年に一度のわが家の習慣である。

 私と妻が結婚したのが1984年1月。それ以降、5年に一度、ホテル・イタリア軒の最上階のレストランでディナーをとる習慣になっていた。ホテル・イタリア軒は結婚式を挙げたホテルであり、5年に一度そこに舞い戻るという意味合いもある。毎年ではなく5年に一度なのは、言うまでもなくホテルのディナーは高価なので、毎年だと家計に響くからである。

 当初は1月中旬の結婚記念日がディナーの日と決まっていた。
 しかしやがて子供が大学に入り新潟を離れると、1月中旬では大学の冬休みは終わっているので、一家が全員揃うのは難しくなる。社会人になればなおさらである。それで日付にはこだわらず1月の、なるべく全員が集まれる日に5年に一度ディナーをとるというふうに変わってきていた。

 それでも、5年前まで場所は変えずにこの習慣が続いていた。もっとも5年前には長男は欠席であったが。

 ところが今回は場所を変更しなければならなくなった。理由は簡単。いつも利用していたホテル・イタリア軒最上階のレストラン「ゴンドリーナ」が、この間になくなってしまったからである。新潟市の中心街である古町通りやその周辺はこのところ地盤沈下が続いており、デパートが撤退したりして人の流れも以前より少なくなっているので、その影響かなと思う。まあ、同じホテル・イタリア軒でも1階のレストランはやっているのだが。

 そこで場所をどうするかという問題が浮上してきた。他のホテルにも夜景が楽しめる最上階のレストランはいくつかあるので、そういうところから選ぶか、或いはあくまでホテル・イタリア軒であれば1階のレストランで間に合わせるか。

 今はネットで色々と調べられるので、いくつかのホテル・レストランを検索してみたりもしたのだが、夜景にこだわらなければ、ホテルのレストランではなく一般のレストランから選んだほうがいいのでは、と考えるに至った。ただ、5年に一度のディナーはあくまで洋食ということで来ているので、和食ではなく洋食のフランス料理ということで探すと店は或る程度限られてくる。しかしよさそうなレストランは予約制で、ネットで調べるとすでに満席だったりする。

 そこで浮上したのが、妻が以前友人と行ったことのあるという「旬庭」である。私は言うまでもなく初めての店である。だいたい、私は日頃フランス料理を食べる習慣がないし、昼食は大学生協か、せいぜい街なかの回転寿司とかラーメン屋とか全国チェーンのトンカツ屋で済ませる人間なので、知っているはずもないのである。こういうことは女のほうがよく知っている。

 この店は場所的にはやや分かりにくい。JR新潟駅の万代口からまっすぐ柾谷小路を進むと、万代橋を渡って少し先を右手に曲がる。柾谷小路の右手側というのは道路の方向が入り組んでいて慣れていない人間は迷いやすい。それでも柳都大橋から新潟市美術館に通じる通りまではまだいいのだが、この道路を越えると方向がきわめてつかみにくくなる。この店も、柳都大橋から新潟市美術館に通じる通りより向こう側にあるので、初めて行く場合はよく事前に場所を調べておくことをお薦めする。車を運転していた妻も、以前二度ほど行ったことがあるはずが、途中で迷い、次男がスマホで地図を見ながら指示を出して何とかたどりついた。

 あまり大きくなく、夫婦でやっている店だが、料理の内容は充実している、と思う。フランス料理に慣れていない私の言うことだからアテにならないけれど、ちゃんとしたディナーは4千円から2千円刻みで1万円まである。われわれは8千円のを頼んでおいたが、魚料理も肉料理も、最初に複数品出てくる当日のスペシャルも、また2種類あるパンも、いずれも美味だった。グラスワイン(赤)もおいしかった。

 惜しいのは、アルコール類に日本酒がないこと。フランス料理店だから日本酒はなくていいというのも一つの考え方だが、今どきは日本酒もかなり国際化している。種類は少なくていいから、地元の日本酒を置いておくと客の選択肢が広がって利用しやすくなるのではないか。

 日本でも移民の受け入れが、労働者不足を理由としていささか拙速に決定されたが、この問題について考えるために恰好の書物2冊が毎日新聞で取り上げられている。いずれも私は未読だが、簡単に紹介しておこう。

(以下の書評引用は一部分のみです。全文は下記の毎日新聞のサイトからお読み下さい。)

 https://mainichi.jp/articles/20190113/ddm/015/070/010000c
 毎日新聞2019年1月13日付け書評欄
 岩間陽子(政策研究大学院大教授)= 評

 ◆『西洋の自死 移民・アイデンティティ・イスラム』=ダグラス・マレー著、町田敦夫・訳 (東洋経済新報社・3024円)
 ◆『アフター・ヨーロッパ ポピュリズムという妖怪にどう向きあうか』=イワン・クラステフ著、庄司克宏・監訳 (岩波書店・2052円)

 押し寄せる大波の激しさを体感
 二〇一五年ヨーロッパ「難民危機」が始まった時、思い出したのは、昔歴史の授業で習った「ゲルマン人の大移動」だった。なるほど、人の移動で国が亡(ほろ)ぶとはこういうことか、と思った。その後様々な措置が取られ、ヨーロッパにやってくる難民の数は減少した。しかしこの危機以前から、ヨーロッパ内外の大規模人口移動は始まっており、その累積的な影響により、「ヨーロッパ」そのものが滅びる危機に瀕(ひん)しているとする書が相次いで邦訳された。

 ブルガリア人のイワン・クラステフは、欧州統合の理想としての力が、今まさに滅びんとしていることに警鐘を鳴らす。大学生としてソ連の崩壊を体験した彼は、現在の危機には既視感(デジャヴュ)があるという。ソ連邦もハプスブルク帝国も滅びたように、EUもまた瓦解(がかい)し、ヨーロッパが苦難と混乱の時代を迎える危険がある。「二一世紀において、移民は新たな革命である」と彼は言う。かつて人々は、自国の政府を倒し、新しい政体を打ち立てた。しかし今や人々は自国を捨て、より豊かな生活を与えてくれる土地へと移り住もうとする。スマホに供給される画像に引き寄せられ、何百万という人が動き始めている。かつての植民地から宗主国へ、さらにはEUで東欧から西欧へ。ブルガリア人の何と約三分の一が国外で暮らすという。ブルガリアをドイツのようにするより、ドイツに行く方がはるかに簡単だからだ。これこそが、グローバル化時代における新しい民主主義の形かもしれない。

 受け入れ国側では、アイデンティティーの危機と反動が起き、ポピュリズム政党が勢力を伸ばしている。英国人ジャーナリスト、ダグラス・マレーは、西欧のリベラルなエリートたちが、自分たちの価値観を共有しないイスラム圏からの移民を受け入れ続けたことは、西洋文明の「自死」に等しいと憤り、キリスト教のルーツに立ち返ることを呼びかける。分析的なクラステフの書と異なり、マレーの書は強く感情に訴え、英国でベストセラーになった。

(以下、略)

                              

 なお、マレーの書物については、その数日前、やはり毎日新聞で浜崎洋介氏がコラムで取り上げていた。これも一部分引用しておこう。

 https://mainichi.jp/articles/20190109/dde/014/070/021000c
 ナビゲート2019 移民問題への思考停止 = 浜崎洋介(批評家
 毎日新聞2019年1月9日 東京夕刊

 昨年末、外国人労働者に門戸を開く出入国管理法改正案が参議院で可決成立した。実質的な「移民法案」だが、それに対するメディアの反応は極めて鈍い。が、最近、そんな日本人の眼(め)を醒(さ)ましてくれる良書が翻訳された。ダグラス・マレー著『西洋の自死-移民・アイデンティティ・イスラム』(町田敦夫訳、東洋経済新報社)である。

(中略)

 なかでも注目すべきなのは、欧州の移民政策の背景にあるのが、経済的要因(低賃金労働者の確保)というよりは、宗教的・文化的多様性を絶対視して、その価値を疑おうともしないマスコミ、政治家、エリートたちの思考停止だという指摘である。事実、移民受け入れ反対を言う声の多くは、ほとんどの場合、メディアや政治家に取り上げられることはなく、逆に「人種差別主義者」のレッテルさえ貼られてきたのだ。つまり、欧州の崩壊そのものが、「人権」「寛容」「多様性」など、啓蒙(けいもう)主義以来の西洋的価値観(リベラリズム)の無際限で無条件な拡大の結果だということだ。本書が、西洋の「自死」と題されている所以(ゆえん)である。

(以下、略)

                              

 日本ではバブル期のころ、労働力不足が言われて、財界が移民を導入しろと主張したことがあった。しかしそのときは、ドイツ文学者で評論家の西尾幹二氏がドイツにおける移民の実情を紹介した上で、やってくるのは(異なる宗教や倫理や文化習慣を持つ)人間なのであって、単なる労働力ではないという事情を紹介したこともあり、またバブルがまもなく崩壊して逆に若者の就職難が言われたこともあり、以後移民問題はあまり話題にならなくなっていた。西尾氏は最近もこの問題に触れている。産経新聞・正論欄に掲載された「『移民国家宣言』に呆然とする」は、西尾氏のブログに転載されているので、以下のURLから読むことができる。
 https://ssl.nishiokanji.jp/blog/

 そうは言っても、バブル期と異なり少子化による人手不足は一時的な景気の問題ではなく構造的な問題であり深刻だから、と言う向きもあろう。

 これについてはここでは詳論はしないが、そもそも少子化はずいぶん以前から指摘されてきたことであるのに、財務省(大蔵省)や政治家、さらにはマスコミが大問題としてまともに取り上げてこなかったという、それ自体が深刻な構造問題があることを指摘しておく。とりあえず、子供を持たないことが税制上大幅に不利になるような税体系の整備が急務だろう。これについては以前このブログで論じたので、ここでは省く。

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今年映画館で見た5本目の映画
鑑賞日 1月11日
イオンシネマ新潟南
評価 ★★☆

 ノルウェー・フランス・デンマーク・スウェーデン合作、ヨアキム・トリアー監督作品、116分、原題は"THELMA"。

 ノルウェーの田舎に育った少女テルマは、両親の家を離れてオスロの大学に進学する。なかなか周囲に溶け込めない彼女に、頻繁に実家の父から電話がかかってくる。やがてテルマは女子学生アンニャと仲良くなるが、そこから突発的な事件が起こり、テルマの過去が・・・

 雰囲気は悪くない映画だし、テルマを演じるエイリ・ハーボーも美形だけれど、いかんせん、中身が薄すぎ。他愛ないネタを、延々と時間をかけて展開していくので、見終えても希薄な印象しか残らない。残念賞。

 東京では昨年10月20日の封切だったが、新潟市では12週間の遅れでイオンシネマ南にて単独上映中、1月24日限り。県内でも上映はここだけ。

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 昨年末、三条に音楽会を聴きに行った際に、燕三条のBOOKOFFで見つけて購入したCD。
 表紙に記された英語のタイトルはCantatas for Bassとなっているが、中表紙と裏表紙に併記されたドイツ語のタイトルはGeistliche Konzerte für Baß、フランス語のタイトルはConcertos spirituels pour basseとなっているから、本ブログのタイトルにした「バスのための宗教曲集」がまあ妥当なところだと思う。
 内容は以下のとおり。

 1. ヨハン・ローゼンミュラー(1619頃~1684)
 Lamentationes Jeremiae Prophetae: Zum Karmittwoch, Erste Lektion, Kap. I, 1-5
  (予言者エレミアの嘆き:聖水曜日〔復活祭前の一週間を受難週というが、その中の水曜日〕用。第1章第1節1-5)

 2. ヨハン・クリストフ・バッハ(1642~1703)
 Wie bist du denn, O Gott, in Zorn auf mich entbrannt (Lamento)
 (神よ、なぜ私にお怒りなのですか (嘆きの歌))

 3. ディートリヒ・ブクステフーデ(1637頃~1707)
 Mein Herz ist bereit, BuxWV 73
 (わが心の準備は整い、BuxWV73)

 4. 同上
 Ich bin die Auferstehung, BuxWV44
  (われは甦りなり、BuxWV44)

 5. マティアス・ヴェックマン (1619頃~1674)
 Kommet her zu mir alle, die ihr mühselig und beladen sind
   (疲れ重荷を背負いし者、皆われのもとに来たれ)

 6. ハインリヒ・シュッツ (1585~1672)
 Ich liege und schlafe, SWV 310 (Op. 9/5)
 (われ横たわりて眠る、SWV310)

 7.  同上
 Fili Mi, Absalon, SWV 269 (Op. 6/13)
 (わが息子、アブサロム)

 8. フランツ・トゥンダー (1614~1667)
 Salve coelestis pater
 (ようこそ、天にまします神よ)

 9. ニコラウス・ブルーンス (1665~1697)
 De Profundis Clamavi
 (深き淵よりわれは呼ぶ)

 10. ヨハン・ローゼンミュラー
 Lamentationes Jeremiae Prophetae: Zum Grüdonnerstag, Erste Lektion, Kap. II, 8-11
  (予言者エレミアの嘆き:聖木曜日〔受難週の木曜日〕用、第1章第2節8-11)

 ごらんのように、ローゼンミュラーの受難週用の音楽から始まって、同じくローゼンミュラーで終わるという構成になっている。おそらくすべて17世紀の作曲である。

 歌詞は第1曲、第7~10曲がラテン語、それ以外はドイツ語。

 内容が宗教的であることはタイトルから分かると思う。
 総じて静謐で高雅な曲調の作品である。
 歌も非常にうまい。

 伴奏楽器は曲により異なるが、ヴァイオリン、ヴィオラ・ダ・ガンバ、チェロ、コルネット、トロンボーン、ファゴット、キタローネ(リュート)、ハープ、オルガン等である。いずれも歌手の支え役に徹している。
 演奏はPeriod Instrument Ensemble。

 歌手のHarry van der Kampは1947年オランダ生まれ、最初は大学で法学と心理学を学んでいたが、やがて声楽に転じたという。14~18世紀の音楽を得意とするが、モーツァルト、ヒンデミットなど新しい時代の音楽にも取り組んでいる。ブレーメン芸術大学教授も務めている。(以上、ライナーノートによる。このCDが発売された1995年段階での記述である。)

 解説は英独仏語で、歌詞はラテン語の場合は英独仏語の、ドイツ語の場合は英仏語の対訳が付いている。

 1995年、オランダでの録音。
 ジャケット表紙の絵はClaude Vignon(1593-1670)による"La jeune chanteur"(若い歌手)。
 Sony Classical SK 68264

・9月19日(水)  日経新聞インターネットニュース、および産経新聞インターネットニュースより。
 
 https://www.nikkei.com/article/DGXMZO35509460Z10C18A9000000/
 「商業捕鯨再開へ方針揺るがず」 水産庁・長谷長官
 2018/9/19 11:23

 14日まで開かれた国際捕鯨委員会(IWC)総会は商業捕鯨の再開など日本の提案を否決する一方、鯨類保護を推進する宣言を採択した。クジラは世界に80種類ほどいる。日本は資源が豊富な種類について持続的な捕鯨と利用を訴えたが、反捕鯨国の姿勢は強硬で対立は一段と鮮明になった。ニッポンの捕鯨は、どうなるのか。水産庁の長谷成人長官に聞いた。

 ――今回の結果をどう受け止めていますか。

 「日本の提案が合意を得られなかったのもさることながら、IWCが異なる立場や意見の『共存』を受け入れる意思がない場であることが明らかになったと考えざるを得ず、何よりもそのことが極めて残念だ。どれだけ科学データを積み重ねても反捕鯨国には理解されないことが明らかになった総会だった」

 「IWCが大型鯨類の商業捕鯨を一時停止してから30年余年が経過した。決して永久に禁じたのではなく『資源を管理するには科学データが不十分だから一時中断しましょう』というルールだった。日本はこれまで地道に調査捕鯨を継続し、南極海ではクロミンククジラの資源が安定しているほか、ザトウクジラは年に1割近いペースで急回復しているのも確認している。反捕鯨国の立場にも歩み寄り、丁寧に説明したが、全く受け入れられなかった」

 ――日本がIWCに拠出する分担金は年間2千万円。全体の1割を占め、加盟国中最大です。加盟し続ける意味はあるのでしょうか。

 「確実に言えることは、商業捕鯨の再開を目指す日本の方針に何の揺らぎもない。この先30年後も捕鯨をつないでいくため、必要な判断をする」

 「(今のIWCは)捕鯨支持と反捕鯨、お互いの利益を考える国際会議の場になっていない。今後はあらゆる選択肢を精査する。ただ、調査母船『日新丸』は老朽化で3年ほどで利用できなくなる可能性がある。時間の余裕はそれほどない。新たな捕鯨船の大きさや性能などを詰めるためにも、日本が目指すべき商業捕鯨の姿を明確にする必要がある」

 ――水産庁の捕鯨関連予算は51億円、海の生き物で最大です。クジラを食べたことがない若い世代を中心に「クジラのためにそこまでしなくても」との声もあります。

 「予算には捕獲調査のための直接的なものだけでなく、反捕鯨団体などの妨害対策や、IWCとの共同調査など幅広い。クジラの利用をあきらめれば、マグロなど他の水産資源にも影響が出るため粘り強く交渉している。クジラは日本人の貴重な食料であり、科学的根拠に基づいて持続的に利用すべきだと考えている。これは他の水産資源も同じだ」

 「世界で水産物の需要が高まるなか、国際的な漁獲量管理の必要性はますます高まっている。国際会議の場では、科学的な資源評価に基づき合意を形成する。かわいいから、かわいそうだからなどといった基準で秩序ある水産物の利用はできない」

 「世界には様々な食文化がある。多様性を尊重し合いながら、貴重な食料資源を持続可能な形で利用する権利がある。クジラに関する文化を育み続ける地域の期待もある。クジラで安易な妥協はできない」

 ――外国から非難されてまで食べたくないという日本人もいます。懐かしさだけでは消費は増えません。

 「反捕鯨団体からのサイバー攻撃を恐れ、店頭に置かないスーパーもあると聞く。一部に『食べちゃいけない』というイメージもあるのかもしれない。捕鯨関係者が安心して職務に従事し、流通できるよう国としても全力でサポートする」


 https://www.sankei.com/region/news/180919/rgn1809190008-n1.html
 「反捕鯨国に文化届ける」 下関市、クジラ給食拡充へ
 2018.9.19 07:07

 山口県下関市の前田晋太郎市長は18日、市内の公立小・中学校で実施している「クジラ給食」を、平成31年度に拡充する方針を明らかにした。ブラジルで10~14日に開催された国際捕鯨委員会(IWC)総会に、前田氏も政府代表団の一員として出席した。総会では、商業捕鯨再開を盛り込んだ日本提案が否決された。

 下関市は10年から、小・中学校の給食で、クジラ肉を使ってきた。竜田揚げやカレー、ケチャップ炒めなど、29年度は計10回、クジラ肉を提供した。30年度も同程度を予定し、当初予算に約330万円を計上した。

 前田氏は18日の記者会見で、来年度以降。予算を増額し、回数を増やすなど、クジラ給食の拡充を表明した。

 日本は、今回のIWC総会で、豊富な種類に限った商業捕鯨の再開と、IWCの決定手続きの要件緩和を提案したが、否決された。谷合正明農水副大臣は「あらゆるオプションを精査する」と、脱退も示唆した。

 前田氏は「資源保護の観点からかけ離れ、捕鯨そのものへの反対が強いと感じた。私たちは他国の食文化に敬意を払っているのだから、反捕鯨国にも同じことを求めたい」と述べた。

 その上で「近代捕鯨発祥地である下関から、(反捕鯨の急先鋒(せんぽう)である)オーストラリアなどに届くまで、クジラ文化を発信したい」と語った。

 市は水産庁に対し、調査捕鯨の母船である日新丸の後継船を、下関で建造することも求めている。


・9月20日(木)  朝日新聞インターネットニュースより。

 https://digital.asahi.com/articles/ASL9L3PH7L9LTZNB005.html?rm=299
 (山口)「商業捕鯨へ理論再構築を」食文化を守る会・会長
 聞き手・白石昌幸
 2018年9月20日03時00分

 ブラジル・フロリアノポリスで14日まで開催された国際捕鯨委員会(IWC)総会では、商業捕鯨の再開と組織改革を目指した日本の提案が否決された。総会を傍聴した、農学博士で「下関くじら食文化を守る会」の和仁(わに)皓明(こうめい)会長(87)に、商業捕鯨再開をめぐる現状と、「近代捕鯨のまち・下関」の取り組むべき課題について聞いた。

 ――日本提案が否決されたことで商業捕鯨再開への道のりは遠くなりました。

 今回、「(IWCの中に)持続的捕鯨委員会の新設」「資源が豊富な鯨種について、捕獲枠を科学的に算定して捕鯨可能とする」ことなどを提案しました。反捕鯨国の反対意見が多く、投票採決で否決されました。
 この結果を受け、谷合正明・農林水産副大臣は「IWC締約国としての立場の根本的な見直しを行わなければならず、あらゆるオプションを精査せざるを得ない」と述べ、IWC脱退の可能性を示しました。
 ――IWCを脱退した場合、どんな影響が出るのでしょうか。

 仮定の話には答えにくいが、捕鯨行動はワシントン条約など他の資源保護のための国際条約と関連しています。日本がIWCを脱退したからといって、必ずしも自由な捕鯨活動が出来るとは考えにくい。
 世界の経済行動は密接に関連し合っています。その中で孤立的な行動をとって日本が有利な立場に立てる保証はないから、むしろ現在の日本の主張を支持している各国と協力して、もう一度論理の組み立てを考えるべきだと思います。

 ――今回の総会で新たに決まったことは。

 IWCは鯨類保護に特化する国際機関だと定義する「フロリアノポリス宣言」が、多数決で成立しました。開催国のブラジルなどが提案したこの宣言は「クジラを殺す調査は不要」との内容が盛り込まれました。
 拘束力はありませんが、クジラの保護に力点を置く流れを印象付けています。IWCは「国際捕鯨委員会」ではなく、完全に「国際鯨類保護委員会」になってしまった感じです。

 ――商業捕鯨再開の合意を得るのは難しくなったように感じます。

 そうとばかりは言えません。総会の議論では、鯨肉も食糧安全保障の重要な要素と位置付ける主張が、発展途上国側から出されています。これは科学的に持続可能な鯨類の捕鯨再開のカギになるかもしれない。

 ――東京五輪が2年後にあります。1988年のソウル五輪では欧米などが犬肉料理を「野蛮な食習慣」と批判しました。

 アスリートの行動範囲は主に選手村に限定されているし、インバウンド客が鯨料理店を訪問してくれるなら、歓迎すべきことではないでしょうか。心配はしていません。

 ――国内でも、若者を中心に鯨肉を食べる習慣が少なくなっています。

 確かに、現状の捕鯨量で消費拡大を望むのは難しいでしょう。食文化の継承には、若い人々の食体験の積み重ねが重要です。
 下関市や長門市などで実施している「クジラ給食」を通じて、引き続き学校教育のなかで鯨肉を活用してもらうプロモーション活動を、「食文化を守る会」でも継続していきます。鯨肉を食材に使ったハリハリ鍋を作る講習会を開くなど、クジラ料理の消費拡大につなげる取り組みも実施しました。「近代捕鯨のまち・下関」として、これからも鯨食文化の情報発信を続けていきます。(聞き手・白石昌幸)


・9月21日(金)  日経新聞インターネットニュースより。

 https://www.nikkei.com/article/DGXMZO35642120R20C18A9QM8000/
 クジラ問題 日本が選ぶ道 商業捕鯨再開へ「仲間作り」 
 2018/9/21 19:39日本経済新聞 電子版

 クジラの刺し身やステーキなど各種料理を出す東京・神田の専門店「一乃谷」。昼食時には20~30歳代の顧客でにぎわうが、谷光男店長は「将来も鯨肉を安定調達できるかな」と顔を曇らせる。

 国際捕鯨委員会(IWC)総会は14日、商業捕鯨再開を盛り込んだ日本案を否決した。「商業捕鯨再開のあらゆる案も認めない」(中南米代表)など反捕鯨国が態度を硬化。「かつてないほど動物愛護色が強い総会だった」(日本捕鯨協会)

 あらゆる水産資源を科学的根拠に基づき持続的に利用すべきだというのが日本の考え方だ。世界で水産物の消費が伸びる今、「国際的な漁獲量管理の必要性が高まっている」(水産庁の長谷成人長官)。資源増加が確認されている鯨種の利用を断念すれば、マグロやサメなど「ほかの水産物の利用にも影響が及ぶ」。

 鯨肉の国内消費量は約5千トン。調査捕鯨の副産物だけでは足りず、半分をノルウェーなどから輸入している。おいしいものは色々あり世界に非難されてまでクジラを食べなくてもという人もいる。ただ「『食べない』のと、食べる文化のない国に圧力を受けて『食べられなくなる』のは意味が違う」(自民党水産部会長の江島潔参院議員)。

 今回のIWCでは捕鯨を取り巻く環境の厳しさが改めて示され、日本は戦略練り直しを求められている。政府は商業捕鯨再開に向け、ノルウェーなどが加盟する国際捕鯨組織との連携や新組織、IWCへの部分的参加などを検討中。国際的な反発を懸念する声もある。

 捕鯨支持国との「仲間作り」(長谷長官)をしつつ国内で理解を深め、遅くないタイミングで結論を出す。(た)


・9月23日(日)  産経新聞インターネットニュースより。

 https://www.sankei.com/column/news/180923/clm1809230002-n1.html
 【主張】商業捕鯨否定 IWC本来の姿取り戻せ
 2018.9.23 05:00

 先週末の国際捕鯨委員会(IWC)総会は、商業捕鯨の一部再開と議決ルールの変更を求めた日本提案を否決した。

 日本は外交ルートまで使って、これまでになく活発に活動した。だが、反捕鯨国との溝は埋まらないまま、手詰まり感だけが残った。

 失望感に加えて厭戦(えんせん)気分ものぞくが、捕鯨の必要性を求めて、ひるまず現状打破への努力を続けてもらいたい。

 IWCは1948年、「鯨類の保護」とともに「持続的な利用」をうたって創設された。1980年代に始まる商業捕鯨モラトリアム(一時停止)以降、保護に傾いて、資源の利用という観点は忘れ去られた感がある。本来のあるべき姿から逸脱して久しい。

 反捕鯨国が加盟89カ国の過半数を占め、米、英、豪など国際的な発言力の強い国が少なくない。保護が強調される要因である。

 一方で重要案件の決定には、4分の3以上の賛成が必要である。このため、何も決まらない状態が長く続いている。日本の「過半数での決定」提案は、議決のハードルを下げて膠着(こうちゃく)状態をうち破るねらいがあった。

 賛同を阻まれた要因は、IWCに蔓延(まんえん)する現状維持の心地よさだったのか。商業捕鯨再開との抱き合わせ提案が否定的にみられたのだろうか。「敗因」の分析から、次の戦略を練りたい。

 モラトリアムには、「資源状態のよい鯨種には商業捕鯨の再開を検討する」との文言がある。

 IWCの調査では、ミンククジラやニタリクジラに加え、ノルウェーなどが捕獲している大西洋鯨類の資源は健全な状態にある。増えすぎた感のあるミンククジラの旺盛な食欲は、食性が似通うシロナガスクジラを圧迫しているともいう。

 絶滅危惧種で捕獲禁止の対象であるシロナガスクジラの不安材料がミンククジラとは何とも皮肉だが、現状では対処のしようはない。世界の人口増に対応する近未来の食糧事情を考えれば、動物性タンパク源としてクジラが大きな役割を担うと想定される。検討に値する状況にあっても、決められない組織では打つ手はない。

 IWC脱退を言及する向きもあるが、それは最後の手段である。脱退カードを保持しつつ、加盟国の理解を進めていき、IWC本来の姿を取り戻したい。


・9月24日(月)  産経新聞インターネットニュースより。

 https://www.sankei.com/column/news/180924/clm1809240005-n1.html
 【一筆多論】クジラから魚群を守れ 佐野慎輔
 2018.9.24 13:00

 4年ぶりに提案した商業捕鯨の再開が否決され、一部には国際捕鯨委員会(IWC)脱退を示唆する発言があったという。

 IWCがクジラの保護に傾き、設立時の「保護と持続的な利用」という趣旨から大きく逸脱したことへの強いいらだちがわかる。

 しかし、断じて脱退してはならない。

 いまも続く南極海での調査捕鯨はIWCの傘の下にいてこそ実施可能である。脱退後に行えば、動植物の保護を定めた南極条約の規定に抵触し、ルール破りだと孤立しかねない。

 太平洋クロマグロやニホンウナギ、いまや大衆魚だったサンマまで海の恵みの枯渇が問題となり、消費大国・日本は微妙な立場にある。資源の保護と同時に、漁獲枠の確保も求められている。関連諸国・地域と良好な関係を維持することはいうまでもない。

 まして、太平洋侵出をうかがう覇権国家もある。いらぬ外交摩擦は避けるべきときだろう。

 では、どうしたらいいのか。いらだちはますます募るが、元IWC日本政府代表代理を務めた東京財団政策研究所上席研究員の小松正之氏は、「商業捕鯨モラトリアム(一時停止)を逆手に取れ」と話す。

 「商業捕鯨モラトリアムには、資源状態のよい鯨種への商業捕鯨の再開を検討する旨が書かれているが、実現されていない。ミンククジラやニタリクジラ、ノルウェーやアイルランドが捕獲している大西洋の鯨類は資源が健全だ。これをもとに、約束を果たさないモラトリアムは無効だと強く主張していくべきだ」

 小松氏は国際裁判になっても、リスクを感じるのは反捕鯨国だと指摘した。

 モラトリアムのおかげでクジラは増えている。一方で、増えたクジラが海の生態系を脅かしているといわれて久しい。

 調査捕鯨で捕獲したクジラの胃からは、イカやイワシ、サンマやサバなどが大量にみつかる。米国ではサケの稚魚も食べているとの研究結果もだされた。

 あれだけの体を維持しなければならないクジラは、いったい、どれほど魚類資源を摂取しているのか。資源減少にどのくらい影響を及ぼしているのか。

 クジラから魚群を守らなければならない。

 クジラを調べることは海の生態系を解き明かし、海洋資源の状況把握につながる。クジラを単独で考えるのではなく、「食う、食われる」という生態系、食物連鎖のなかで位置づける。増えすぎたクジラが、連鎖のバランスを崩していることを広く訴えていく必要があろう。

 そのうえで、適度な間引き、つまり捕鯨が保全のための有効な手段だと理解を求めていくべきである。

 捕鯨は海の生態系と海洋資源を守る。それが持続可能な水産業を担保することにもつながる。国連が掲げるSDGs(持続可能な開発目標)に合致しているといえるのではないか。

 IWCの結果を嘆くのではなく、大きな視野で調査捕鯨を総合的な海洋生態系調査として枠組みを変えていきたい。海洋国家・日本がなし得る、人類への大きな貢献だといっていい。(特別記者)

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今年映画館で見た4本目の映画
鑑賞日 1月8日
Tジョイ新潟万代
評価 ★★★★

 ロシア映画、アレクセイ・ウチーチェリ監督作品、108分、原題は"MATHILDE"。

 19世紀末の帝政ロシア。のちにロシア革命によって殺されることになるニコライ二世がまだ皇太子だった時代。老父の衰えで即位を意識し始めた彼の目の前に、美しいバレリーナが現れ、彼は恋に陥る。親の決めた婚約者であるドイツ貴族令嬢がいるにもかかわらず・・・

 実際に起こったスキャンダラスな事件を土台にした映画だそうである。
 帝政時代の豪華な宮殿を舞台に、当時の王侯たちの贅沢な暮らしぶりや、恋の駆け引き、皇太子とバレリーナをめぐる周囲の人々の反応、彼女に蠱惑される他の青年貴族たち・・・

 次から次へと色々な人物が登場し、様々な事件が起こり、きわめて映画チックな作品に仕上がっている。「深い」とか「芸術的」とかいうのではないが、王侯貴族や美女が豪華な宮殿を背景に恋や確執を繰り広げる絵巻物といったところ。

 先日新潟市で公開された『アンナ・カレーニナ』もそうだったが、最近のロシア映画が一種の古典帰りを見せていて、この種の映画を好む私としてはうれしい限り。近頃のハリウッド映画って子供向けばっかりで(或いは子供向けを好む大人が増えたということか)物足りないと思っている人にはお薦め。

 ヒロインを演じるミハリナ・オルシャンスカ(ポーランド女優だそうだが)が非常な美人(画像を参照)。裸のシーンもちゃんと(笑)あります。

 東京では昨年12月8日の封切だったが、新潟市では4週間の遅れでTジョイ新潟万代にて単独上映中。県内でも上映はここだけ。

 ただし、1日1回しか上映しないのが難点。前日の1月4日に始まった『ホイットニー』が1日4回であるのと比べるとどうにもバランスが悪い。せめて1日2回にして欲しい。

 これに限らず、最近のTジョイ新潟万代は他館でやらない作品をそれなりに持ってきていて、それは評価できるのだが、上映回数や時間設定、また宣伝に問題があると思う。単独上映の作品についてはサイトにそういう作品だけ集めて詳しく魅力を紹介するページを設ける、くらいのことはして欲しい。

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評価 ★★★★

 昨年秋に出た邦訳。原題は以下のとおり。
 James Q. Whitman: Hitler's American Model. The United States and the Making of Nazi Race Law. Rinceton University Press, 2017 

 著者は1957年生まれ、イェール大、コロンビア大、シカゴ大に学びシカゴ大博士。現在はイェール大教授。

 本書は、いわゆるニュルンベルク法として知られる、ナチ・ドイツのユダヤ人差別を具体化した悪名高い法律が、アメリカ合衆国の種々の法を十分に研究し参考にした結果として生まれたものであることを実証した本である。

 「はじめに」で著者は、今までなぜこのことが気づかれないできたかについて述べている。つまり、ふつうに考えれば、1930年代の米国とドイツは、人種差別という点できわめて類似した国家だったのである。米国は黒人(そしてインディアンやアジア系)に対する、ドイツはユダヤ人に対するという違いはあっても。だから、法律面でも一方が他方の影響を受けていてもおかしくないはずだ。ところがこれまでの研究者は、ナチ・ドイツの法律が米国の影響を受けていることを否定してきた。

 その理由はいくつかある。ナチが米国の(人種差別的な)法律を賞讃していたことは知っていても、それは単に自国政策への言い訳に過ぎないと考えていた。或いは、米国の法律が文章面でドイツの法律と一致していないから影響はないと解釈してきた。米国は黒人差別をしたといってもナチがユダヤ人に対してしたように大量虐殺を行ったわけではないという見方も存在した。また現代ドイツではナチの犯罪行為およびその責任を否定しないというのが鉄則になっており、したがって自国の悪が他国からの影響で生まれたというふうな論法自体がタブーになっていることもある(23ページ)。

 しかし、著者は以上のような学者の説や論法を否定する。虐殺の規模の相違については、そもそもニュルンベルク法が成立した時点(1935年9月)ではユダヤ人の大量虐殺はまだ未定だった。加えてナチは突然変異でこの世に生まれたわけではない。「彼らが機能する伝統が西洋の政体には存在した」と著者は冷徹な指摘を行っている(24ページ)。とすれば、法律面での影響関係があってもおかしくないわけだ。

 ユダヤ人差別・虐殺だけではない。米国の(インディアンを抑圧・虐殺しての)西部開拓は、ナチによってしばしばドイツの東欧・ロシアへの進出のモデルとして捉えられていた。米国は北方白人が主体になった国家という点で、まさにナチがモデルにすべき国家だったのである(18ページ)。

 第1章に入ると、著者は具体的な論述を開始する。

 最初に興味深い指摘がなされている。現在、ニュルンベルク法というと一般には「ドイツ国公民法」と「ドイツ人の血と法律を守るための法」の二つから成ると思われている。しかし実際にはもう一つ、「ドイツ国国旗法」が含まれていた。つまり、ナチのハーケンクロイツを従来のドイツ国旗と並ぶもう一つの国旗と制定する法律である。そしてこの法律の制定には米国が絡んでいた。

 2ヵ月前の1935年7月、NYで反ヒトラーの市民とヒトラー支持の市民が路上で激突した。反ヒトラーの市民は停泊していたドイツの大型客船に押し入り、ハーケンクロイツの旗を破ってハドソン川に投げ捨てた。この事件はドイツで大きく報道され、NYでも犯人とされる5人が逮捕されて、米国側もこの事件に遺憾の意を表明した。ところが、この事件を担当したユダヤ人判事ブロッドスキーは、5人の釈放を命じただけでなく、ナチを激しく非難した。ルーズヴェルト政権は改めてこの判決に遺憾の意を表明したが(国務長官ハルは正式に謝罪している)、ナチはこの事件への報復として、ハーケンクロイツを正式の国旗にする法律を通したというわけであった。

 ちなみにこのブロッドスキーは、17歳でニューヨーク大学ロースクールを卒業した秀才であったが、ユダヤ人だったため(当時の米国ではユダヤ人は黒人ほどではないが差別されていた)、一流法律事務所に勤めることもエリートコースの裁判官になることも困難だった。それでコネでNYの下級判事の職にありついたという経緯だったようである。

 このあと、著者はナチ時代の米国が(州法レベルで)人種差別的な法律を多分に有した国家だったことを指摘する。一般に米国の人種差別の法問題というと、連邦最高裁の二つの判決、つまり1896年のプレッシー対ファーガソン判決の「分離すれど平等」という事実上の差別容認判決と、1954年のブラウン対教育委員会判決による白人と黒人の別学を定めた州法を違憲とする決定が持ち出される。そして南部のいわゆる差別的なジムクロウ法(南北戦争後、南部州で事実上の黒人差別を行うために設けられた州法)にも言及がなされる。
 しかし米国では黒人対象だけではなく、インディアン法、移民法(中国人や日本人を標的にした)などの差別的な立法がなされていた。特に米国で目を惹くのは、白人以外の人種を二級市民と規定する法律が存在したことであった。また州法では異人種混交禁止法も設けられており、これは1967年のラヴィング対ヴァージニア州判決でようやく違憲とされた。(43-44ページ)(この判決、およびそのもととなった事件――白人男性と黒人女性の結婚が違法とされ夫婦がヴァージニア州から他州へ移住しなければならなくなった――は近年映画化され日本でも2017年に上映された。)

 以上の米国の政策には優生学が関わっていた。人種的な健全性を保つには必要だというのである(44ページ)。
 また、そもそも建国の直後から米国は人種差別を内包していた。1790年の帰化法では「自由な白人であるすべての外国人」に帰化を認めるとされていたのである。(45ページ)米国がそういう方針で一貫していたわけではない。しかし1870年代後半にアジア系移民が増加すると米国はふたたび差別的な方向に向かっていく。本書では、その後の立法にも明らかに北ヨーロッパ人を優先しようとする考えが見られると指摘されている。言うまでもなく、これはナチの「アーリア人」という観念と類似したものである。もっとも、これは米国だけでなく、大英帝国とその構成国家(カナダ、豪、NZ、南ア)にも或る程度言えることであった。(46ページ)

 このあと、ナチがいかに米国のこうした法律を研究していたかが明らかにされている。
 また、ナチだけではなく、ヨーロッパの他国でも米国の差別的な立法はよく知られていたという。その意味で米国はファシスト国家としての一面を持つ、というのが当時の(ドイツ以外でも)ヨーロッパの識者の見解だったのである(80ページ)。

 第2章では、まず1930年代の米国の裁判所(連邦と州とを問わず)がいかに人種差別的な判決を下していたかについて述べられている。
 また、異人種間の結婚を罰則をもって禁じる法律を当時は30の米国州が有していた。これは異常なことで、白豪主義のオーストラリアですら罰則付きの法律は存在しなかったという。(90ページ)そしてこの異人種間の結婚禁止法こそ、ナチがニュルンベルク法に利用したものであった。

 それだけではない。誰が白人か、誰が白人でないかを決める根拠において、米国法の厳しさはナチをも驚愕させた。米国では州によるが、黒人の血が8分の1以上、もしくは4分の1以上入っていれば黒人とされ、場合によっては一滴でも黒人の血が入っていれば黒人扱いされた。これに対しナチは誰がユダヤ人かを決める際にはこれほどの厳格さを貫くことはできなかった。祖父母4人のうち3人がユダヤ人ならユダヤ人、また2人でも本人がユダヤ教徒であるかユダヤ人と結婚している(または新たに結婚した)場合に限ってユダヤ人とする、と規定したのである。

 また第2章ではハインリヒ・クリーガーというドイツの法律家が米国で詳細に現地の人種差別的な州法を研究し、書物として刊行したという事実が(前にも多少述べられているが)詳しく紹介されている。これがナチの情報源になったという。(126ページ以下)なお、ドイツの植民地行政官は20世紀初頭(つまりドイツが第一次大戦で負けて植民地を手放す以前)に米国の人種法を研究していたという指摘もある。またクリーガーはジェファーソンとリンカーンを英雄として称えているが、それは米国が「アーリア人の世界征服」に向けて建国されたという理由からだという(128-129ページ)。

 終章では、大陸(仏独)法と英米法の違いについて言及がなされている。
 大陸法は厳格な法体系によって現実を裁断することを原則とする。これに対して英米法はコモンローと言われ、その時代や地域の実情に合わせて裁判官の裁量により判断が下される度合いが高い。著者によれば、ナチの新たな立法とは、それ以前の大陸法の精神によっていたドイツ法を、米国流のコモンローに変更するものだったという。それによって、「総統の精神にしたがって」裁判官がその時々の情勢に合わせた判決を下すことが可能になったという。

 そしてさらに著者は興味深い指摘を行っている。米国のニューディール政策は、初期には連邦最高裁の(大陸法的な)法律の条文重視の判決によって大胆な経済政策を阻止されていたのだが、途中から最高裁が方針を変更し、政府の経済政策の裁量を大幅に容認するようになった。そしてそれは経済政策だけにとどまらなかった。30年代、言うならばそれと同じ精神に基づいて、米国の人種差別的な法律も黙認されていたのである。著者はこの点について、「1930年代前半のアメリカのリアリズム法学は、経済改革支持者と南部人種主義者の悪魔の取引を土台にした初期のニューディール政策にあっさりと順応していた」と書いている。(170ページ)

 実際、ここではセオドア・ルーズヴェルト大統領も白人中心主義の、言ってみればナチと変わらない思想の持ち主だったと指摘されている。(155ページ)
 そして大事なことは、アメリカの「自由と民主主義」、つまり平等主義は、あくまで白人だけを対象にしたものであり、それは、ナチ・ドイツが、ドイツ人と認定された人間の平等化を徹底した(そしてそれ以外の人種は差別し排除した)ことと同じだ、ということなのである。(154ページ)
 ただ、米国とナチ・ドイツに違いがあったとするなら、米国は黒人を殺すのに多くをリンチ(私刑)に頼ったのに対し、ドイツは公的な法体系のもとでそれをやったというところだった。(158ページ)

 ニューディール政策とナチの類似性については他にも色々あるようだが、本書では言及できないとされているのが残念である。(170ページ)

 また、上記のように米国ではユダヤ人差別もそれなりにあったが、その辺については(第1章のブロッドスキー以外には)言及されていないのも残念である。

 しかし巻末の文献案内も充実しているし、第二次大戦を単なる「正義と悪」の対決と捉える教科書的な見方を脱するためにも、一読すべき書物だと思う。ナチ、アメリカ、第二次世界大戦について考えたい人には必読書。
  
 なお、例のごとく新潟大学図書館には入っていないので、私は新潟県立図書館から借りて読みました。新潟県立図書館は、新潟県でいちばんまともな図書館だというのが私の評価。新潟大学の教員たち、少し恥じて下さい。

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今年映画館で見た3本目の映画
鑑賞日 1月5日
ユナイテッドシネマ新潟
評価 ★★★

 セルゲイ・プロコフィエフの作曲になるバレエ作品「ロミオとジュリエット」を、熊川哲也が監督して昨年10月に東京などで行った公演を映画化したものである。
 演奏は井田勝大指揮のシアター・オーケストラ・トーキョー。
 ジュリエットは浅川紫織、ロミオは宮尾俊太郎。

 私はバレエにはうとくて、実演で鑑賞したバレエは『白鳥の湖』と『くるみ割り人形』だけ、テレビ等でもほとんど見ていない。ただ、最近はバレエ映画(バレエ作品の映画化ではなく、劇場での練習や制作の様子などを映画化した作品)が比較的多く作られており、そちらは多少見ているので、今回はプロコフィエフの音楽がバレエ作品にどのように使われているのかに興味があったこともあり、劇場に足を運んだ。

 この音楽は演奏会でもわりによく取り上げられるし、テレビやFMで聴く機会もあるから、曲そのものにはなじみはあったが、バレエと一緒に音楽を聴くと、やはり当時としては破天荒な曲だったのだなと思う。有名な、舞踏会の場面での音楽は、イタリアの上流社会の優雅な舞踏会というよりは、どこか血なまぐさい闘争のようなおもむきがあるし、しかし若い二人の悲劇を生むもととなった舞踏会であることを考えれば、それもなるほどと思えるわけだが、それはあくまで後知恵で、初めてこの曲を聴いた人はびっくりしたのではないだろうか。このバレエ、最初は予定していた劇場から上演拒否にあったというけれど、音楽の革新性が原因だったのかも知れない。

 私は上記のようにバレエは見慣れていないので、うまい下手はよく分からない。しかしロミオ役の宮尾俊太郎は長身で足も長く、若い日本人の体型はだんだん西洋芸術に向くようになってきつつあるのかなと思った。熊川哲也氏は、失礼ながら技倆はさておき体型はあまりバレエ向きではないような気がするので、世代の差は恐ろしいものである。

 バレエ作品として見ると、群衆の場面に大きな魅力がある。これはオペラにもそういう面があって、ヒーローやヒロインだけではなく、群衆がどういう動きを見せるかに作品の印象は大きく左右される。バレエも西洋の舞台芸術という点で同じなのだと痛感させられた。

 ただ、最後に若い二人が死ぬ場面は、もう少し時間をかけて表現したらどうだったろうと感じた。

 新潟市では全国と同じく1月5日の封切で、ユナイテッドにて単独上映中、1月18日限り。県内でも上映はここだけ。

 なお、前売券を買って鑑賞したが、なぜか上映館のユナイテッドでは前売券を販売しておらず、コンビニのローソンでしか入手できない。上映館で前売券が買えないというのは理不尽ではないか。改善を求めたい。(私は日頃は映画はシニア料金で見ているので前売券とは無縁なのだが、この作品はシニア料金の設定がなく、当日料金が2500円と普通の映画より高額なので、2200円ではあるけれど前売券を購入したわけである。)


 それで飲んでみての感想を記しておこう。

 まずは、「越後五十嵐川 特別本醸造」。三条市にある福顔酒造の製品。
 味は平均的と言ったらいいのか、特別な個性が感じられなかった。新潟の酒というと最近は淡麗辛口が相場になっているが、それとは明らかに違う傾向の味作り。といって濃厚な味とか、甘みの勝った味というのではない。日本酒としての味はそこそこあるけれど、辛口でも甘口でもなく、良く言えば黄金の中庸を行っているのだが、どこか平板で、まずくはないけれど、「うん、うまいっ」という感じでもない。製造元のサイトでは自社製品について「まろやか」という表現を使っているのだが、まあそうも言えるかな、くらいのところ。
 なお、製造元である福顔酒造のサイトにはなぜかこの製品は載っていない。吟醸酒と純米酒しか載せない方針らしい。なので、ネットで調べるときは製品名「越後五十嵐川 特別本醸造」で検索すると良い。ネット上の価格は4合瓶が税抜きで1000円だけれど、私は「三条行き」の記事に書いたように地元スーパーでもう少し安い価格で入手した。

 次は「越乃景虎 名水仕込 特別本醸造」。現在は長岡市の一部になっている旧・栃尾市の諸橋酒造の製品である。
 こちらは絵に描いたような「淡麗辛口」の酒だった。淡泊だけどきりりとしていて引き締まった味わい。すいすい飲めるのでうっかりすると飲み過ぎるかも。ネット上では税抜き1257円という中途半端な価格だけど、私が三条の酒屋で買ったのと同じですかね。

 ちなみに、日頃私が晩酌で飲んでいる日本酒は、「真野鶴(まのつる) 辛口 本醸造」である。新潟県は佐渡にある尾畑酒造の製品で(「真野」は佐渡の真野湾から来ている)、辛口ではあるが味がしっかりとある点でいわゆる「淡麗辛口」とは一線を画しており、日本酒を飲んでいるという充実感が味わえる酒。だまされたと思ってお試しあれ。価格も、1升瓶が税抜き1700円、4合瓶が850円と、質からするとびっくりするほど安い。

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今年映画館で見た2本目の映画
鑑賞日 1月4日
Tジョイ新潟万代
評価 ★★★★

 英国映画、ケヴィン・マクドナルド監督作品、120分、原題は"WHITNEY"。

 80年代から90年代にかけて歌姫として米国や英語圏にとどまらず世界的な脚光を浴びながら、2012年に40代後半の生涯を閉じたホイットニー・ヒューストンのドキュメンタリー映画である。

 私は歌手としての彼女にはほとんど興味がなかったが、90年代前半にケヴィン・コスナーと共演してヒットした映画『ボディガード』は佳作であった。このドキュメンタリーも、そのために見に行ったようなものである。

 生まれた時から不慮の死に至るまでの過程が、多数の人物へのインタビューや、残された映像を駆使しながら丹念に追われている。プラス面とマイナス面双方に光を当てて、説得性の高い作品になっている。こういうドキュメンタリーの作り方、戸田ひかるあたりは見習って欲しいものである。

 育った家庭環境の問題、黒人であることに伴う様々な問題、夫との関係、娘との関係、彼女の周囲にいた家族縁者や知人などの問題など、色々な困難さを背負った人だったのだということがよく分かる。

 彼女のファンはもちろん、私のように彼女にさほど関心のない人間にも色々と考える材料を与えてくれる映画になっている。

 新潟市では全国と同じく1月4日の封切りで、Tジョイ新潟万代にて単独上映中。新潟県内でも上映はここだけ。

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今年映画館で見た最初の映画
鑑賞日 1月3日
シネ・ウインド
評価 ★★★☆

 アメリカ映画、ジョン・カーペンター監督作品、1982年、109分、原題は"THE THING"。クリスチャン・ナイビー監督による同題映画(1951年、邦題は『遊星よりの物体X』と助詞が異なっている)のリメイク。

 元の1951年の映画はずいぶん以前に見た記憶があるが、面白くなかったことだけは覚えている。リメイク版のこちらは、今回初めて鑑賞。

 古典的なSFだけれど、なかなかよくできていると感じた。はるか遠い昔に地球の南極に不時着して埋もれていた他の天体の生物が、或るきっかけで甦り、ノルウェーの南極基地を全滅させ、さらにアメリカの基地も危機に・・・という筋書。

 アイデア自体は今からするとさほど斬新とは言えないが、映画を貫くサスペンス風味が観客を捉えて放さない。この種の映画の古典とされているのもうなずける。

 このデジタル・リマスター版は東京では昨年10月29日の封切だったが、新潟市では2ヵ月の遅れで昨年12月29日から今年の1月4日まで1週間限定公開された。

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評価 ★★★

 出たばかりの新書。著者は1976年生まれ、開成高校(どういうわけか高校まで記している)、東大理科1類をへて文学部卒、同大学院博士課程修了、ストラースブール大博士、福岡大准教授、専門は19・20世紀フランス文学。

 本書は、恋愛について、古代ギリシャ・ローマから始めて、中世ヨーロッパの貴婦人をあがめる騎士道精神(トゥルバドール)、近代的なロマンティック・ラブ、スタンダールの恋愛論とプルーストの恋愛否定、近代日本人の恋愛観、村上春樹、はてはキャラ萌え、ライトノベルや歌謡曲の歌詞などに至るまでの幅広い領域を扱った恋愛論である。

 よく勉強しているなとは思うし、古代から現代に至るまで長いスパンで見て恋愛観・男女関係の変遷をたどるという意味では悪い本ではない。

 ただ、著者には、日本人にはヨーロッパ人の強固な個人主義・主体性は〈明治以降、今現在に至るまで〉無縁だからヨーロッパ人の恋愛観は日本人には本当には分からないということを繰り返し述べている。
 じゃあ著者自身はどうなのか? 分からないなりに分かろうとしているのか、或いは自分は例外だと思っているのか(著者の奥さんはフランス人らしい)。

 日本でも多少そういうことは言えるけど、ヨーロッパならなおさらのこと、階級社会だから、文化の上澄み部分と基層部分とではかなり相違があるはず。貴婦人を神のごとくあがめる文化だって、王侯貴族はいざ知らず農民まで同調してやっていたわけじゃないだろうし、そんなにヨーロッパ人の恋愛観が強固で理念にしっかり根付いているなら、なぜあんなに簡単に別れるのかという問題だってある。

 その辺で、表と裏の見分けがあんまりつかない人なのかなあ、という感じがした。
 たしかに女性を崇めるヨーロッパ文化はヨーロッパ女性を権高にしたところがあって、私も乏しい体験ながら多少は感じているけれど(急いで付け足すが、親切で寛大なヨーロッパ女性もたくさんいます、はい)、それは要するにヨーロッパ文化が女の調教(なんて言うとフェミニストを激怒させそうだが)を誤った、ということに過ぎないんじゃないか――ニーチェはそういうヨーロッパ文化の陥穽に気づいていたから、「女のところに行くなら鞭を忘れるな」と言ったわけだし。

 あと、特に最初のあたりで「男は男らしく」「女は女らしく」は個人を型にはめるものだからイケマセンという当世風の言説が出てくるんだけど、でも収入の少ない男の結婚率は低い、という現象は今の日本に厳然として存在しているわけ。学者がいくら机上の空論を並べたって現実の前には無力だってこと、少し認識したほうがいいんじゃないか。その意味で、著者は勉強はできるけど頭はあまり良くない人なのかもしれないなと思いました。

 最後に細かい疑問箇所を。

 キリスト教の本家本元は(プロテスタントじゃなく)ローマ・カトリックと書いているんだけど(113ページ)、ギリシャ正教を忘れてはいませんか? あっちからすればローマ・カトリックなんて滅亡した西ローマ帝国の地域宗教に過ぎないんだから。
 
 「20世紀オーストリアの大作家ロベール・ミュジルは」(171ページ)とあるけど、ドイツ語圏の作家なんだからドイツ語読みでローベルト・ムージルと表記して下さいな。

 ユーゴーの「森にて」という詩が著者の訳で紹介されているのだけれど(223ページ以下)、一人称が「僕」「私」「私たち」「僕ら」とコロコロ変わるのはいかがなものかと。

 村上春樹の他者性のなさを蓮實や柄谷が批判しているのを捉えて、日本人には最初から他者は理解できないから批判は無視していいと言っているのは(335ページ)無茶苦茶。ヨーロッパと同じかどうかはともかく、近代日本文学に「他者」が登場するのは漱石を読んだって歴然としている。著者はあまりに無知すぎる。

 昨2018年に劇場鑑賞した新作に限定して、優れた作品を挙げてみます。
 ただし、以下の点にご留意下さい。

 ・新潟では新作の上映が、特にミニシアター系作品では首都圏より遅れるので、首都圏では2017年の晩秋以降に上映された作品が入っている場合があります。

 ・同じ理由から、首都圏では2018年の晩秋以降に上映されていてもまだ新潟では上映されていないので、秀作でも取り上げられていない場合があります。

 ・首都圏の映画館で鑑賞した作品で、新潟では劇場未公開のものも入っています。

 ・私の映画の好みは偏しており、『スターウォーズ』や『ボヘミアン・ラプソディ』、或いはディズニー系作品(『プーと大人になった僕』は見ましたが、やはりダメでした)などは鑑賞していません。日本映画でも一般には評判になっても未鑑賞のものがあります。

 ・特に外国映画の場合、リアリズム系が大多数で、ファンタジー系は(ほとんど見ないので)含まれていません。アクション系は或る程度見ていますが、順位では割を食っている場合が多いとお考え下さい。


◎外国映画ベスト20

1.判決 ふたつの希望 (シネ・ウインド)
2.ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書 (ユナイテッドシネマ新潟)
3.タクシー運転手 約束は海を越えて (シネ・ウインド)
4.ロープ 戦場の生命線 (新宿武蔵野館)
5.君の名前で僕を呼んで (Tジョイ新潟万代)
6.ウインド・リバー (ユナイテッドシネマ新潟)
7.ユダヤ人を救った動物園 アントニーナが愛した命 (イオンシネマ新潟西)
8.英国総督最後の家 (新宿武蔵野館)
9.アンナ・カレーニナ ヴロンスキーの物語  (シネ・ウインド)
10.ザ・シークレットマン (ヒューマントラストシネマ有楽町)
11.ローズの秘密の頁(ページ) (シネ・ウインド)
12.1987、ある闘いの真実 (シネ・ウインド)
13.ヒトラーを欺いた黄色い星 (シネ・ウインド)
14.アイ、トーニャ 史上最大のスキャンダル (ユナイテッドシネマ新潟)
15.おかえり、ブルゴーニュへ  (ヒューマントラストシネマ有楽町)
16.ワンダー・ストラック   (ユナイテッドシネマ新潟)
17.バグダッド・スキャンダル (シネマ・カリテ〔新宿〕)
18.ミッション:インポッシブル フォールアウト (ユナイテッドシネマ新潟)
19.キングスマン:ゴールデン・サークル  (ユナイテッドシネマ新潟)
20.マルクス・エンゲルス (シネ・ウインド)


◎日本映画ベスト15

1.万引き家族   (ユナイテッドシネマ新潟)
2.リズと青い鳥   (イオンシネマ新潟南)
3.孤狼の血   (ユナイテッドシネマ新潟)
4.空飛ぶタイヤ    (ユナイテッドシネマ新潟)
5.響 ―HIBIKI―  (ユナイテッドシネマ新潟)
6.止められるか、俺たちを  (シネ・ウインド)
7.さよならの朝に約束の花をかざろう  (Tジョイ新潟万代)
8.検察側の罪人  (ユナイテッドシネマ新潟)
9.ペンギン・ハイウェイ (イオンシネマ新潟南)
10. 教誨師   (シネ・ウインド)
11.日日是好日   (イオンシネマ新潟西)
12.青夏 きみに恋した30日   (イオンシネマ新潟西)
13  リミット・オブ・スリーピング・ビューティ   (シネ・ウインド)
14.花筐 HANAGATAMI   (イオンシネマ新潟西)
15.勝手にふるえてろ   (Tジョイ新潟万代)

 昨年末の読売新聞の記事から。

 https://www.yomiuri.co.jp/economy/20181219-OYT1T50017.html?from=ytop_main2
 70年続いた「市民の台所」客足遠のき閉店へ
 2018年12月19日 08時59分

 新潟市中央区で約70年にわたり飲食店や一般家庭に食材を販売してきた商業施設「本町食品センター」が、来年8月末に閉店する。利用客の減少や建物の老朽化が主な理由だ。精肉店や鮮魚店が並ぶ「市民の台所」として質の高い品ぞろえで支持を集めていただけに、惜しむ声が上がっている。

 古町地区の老舗料亭「鍋茶屋」は、同施設内の鮮魚店でほぼ毎日魚を仕入れてきた。板前の吉沢賢人まさとさん(30)は「近くにあったので、急に食材が足りなくなった時に何度も買いに走った。鮮度も良く、信頼して付き合っていた」と振り返る。新潟市中央区の主婦(82)も「干物や塩ザケなどは、ここで買うと決めていた。なくなると困る」と肩を落とした。

 同施設は1950年、本町通に開業し、最盛期には2階部分も含め24店舗が入っていた。だが、若者を中心に客足が徐々に遠のき、店の担い手も高齢化が進んだため店舗数は減少。現在は1階部分のみで13店舗営業している。

 施設内の店でつくる「本町公衆市場協同組合」によると、昨年11月に組合内で閉店が提案され、賛同を得た。組合の山口龍志理事長(66)は「閉店にかかる費用を自力で清算するには、今がタイムリミットだった」という。閉店後の建物や土地の活用方針は未定だ。

 同施設内の鮮魚店「金子商店」は、開業当初から店を構えていた老舗。売り上げが最盛期の半分以下に減ったこともあり、施設閉店とともに店もたたむ方針だ。店主の男性(80)は「昔はお客さんの肩がぶつかり合うほどにぎわっていた。思い入れもあるが、やむを得ない」と話す。

 山口理事長は「これまで愛顧いただき、ありがたく感じている。歴史ある市場で商売を続けたかったが、お客さんも減っている中で、いたしかたないと判断した」と語った。

                         

 新潟市の中心街である古町の没落は以前から問題になっていえるが、古町のすぐ近くの本町でも問題は変わらないようだ。

 新潟のことをよく知らない方のために補足しておくと、古町は東京なら銀座にあたるような新潟市の中心街。これに対して本町は古町通りから少しだけ離れた通りで、生鮮食料品など日常に必要なものを多く扱う店が集まっている。言ってみれば古町通りが表玄関だとすると、本町通は勝手口みたいなものである。

 古町通りは何年も前から郊外の大型モールに客を奪われて、新潟市は県庁所在都市としては他に類を見ないほど中心街が衰退している都市として有名になっている(?)のだが、どうやらその波は古町だけでなく、本町にまで及んでいるようだ。

 これに対して有効な手は、事実上打たれていない。

 衰退の理由ははっきりしている。郊外のショッピングモールなら駐車料金がタダなのに、古町近辺には無料駐車場がないからだ。車社会となっている地方都市では無料駐車場のない店には客は来ない。

 このことは以前から私は指摘しているので、ここではくどくどと繰り返さないが、昨年末に行われた市長選挙でも、「中心街の再活性化」はどの候補者も大声で公約していたけれど、それに必要な「中心街への無料駐車場の設置」は誰も言っていなかった。要するに中心街で駐車場を経営している人間の支持をそれによって受けられなくなるからということなんだろうけど、そうやってぐずぐずしているうちに古町や本町の衰退は進行する一方なのである。

 こんな無能な候補者(地方政治家)ばっかりで新潟市は大丈夫だろうか、と普通の人間(古町あたりに住んでいる人間を除く)は思っているだろう。いや、普通の人間はもう古町近辺にはあんまり行かなくなっているから、「別に」なのかも知れないね。

 実際、2009年に古町の大和デパートが撤退すると発表になったときには、篠田市長が反対の意思表示をしたのを初め、大々的なニュースになったけれど、昨2018年、同地区のもう一つのデパートである新潟三越の2020年撤退が発表されたときには、あんまり騒がれなかった。篠田市長も何だか知らないが悟ったようなコメントを出していたし、一般には「やっぱり」というような諦めムードになっているのではないか。

 そのほか、ラフォーレ原宿・新潟店も2016年初頭に閉店している。わずか10年少々の命だった。衰退する古町近辺に店を置いてもダメ、ということがはっきりした事件だったと言える。

 そして本町の衰退も今回の報道ではっきりしたけど、対策を市側が立てているという話は聞かない。

 要するに新潟市の中心街の再活性化なんて、誰も信じてはいないのだ。

                         *

 新潟市の抱えるもう一つの大問題は、新潟県唯一の総合大学である新潟大学の衰退である。これについても私はこのブログでさんざん報告してきたから、繰り返さない。

 新潟大学がつぶれたらどうなるか。単に新潟県から総合大学がなくなるだけではない。経済的に見ても新潟市の西側は、学生と教職員を合わせれば1万人以上になる新潟大学に依存している度合が高い。また大学がつぶれれば知的な人材も多数県外に流出するだろう。

 でもこの問題は市長選挙の話題にすら上らないのである。問題の所在を知らないのか、知っていても高をくくっているのか。要するにここでも地域政治家の無能ぶりがはっきりと浮かび上がってくるのである。

 政治家の皆さん、新潟大学がつぶれてから騒いだって、遅いんだよ。それによる余波は大和撤退どころの規模じゃ済まないんだからね。

 政治家だけを責めても、でも仕方がないですよね。政治家を選んでいるのは一般市民だしね。政治家のレベルとは、それを選んでいる人間のレベルに他ならないから。

 というわけで、新潟は危機にあるという、年頭から縁起でもない話でした。(分かる人には分かるけど、分からない人には分からない話、とも言えるかな。)

 2018年は合計36の音楽会に行きました。この数は前年、2017年と同じです。
 特に印象深かった10の演奏会を、順位なしで日付順に並べてみましょう。
 昨年同様、最近の私の興味に添ってオペラが多くなっていますが。


・3月6日 オッフェンバック:歌劇『ホフマン物語』 (新国立劇場)
 新国もできて20周年。比較的安価に本格的なオペラを楽しめることを、今回も確認しました。日本人歌手も頑張っていた。

・4月14日 ベートーヴェン:ヴァイオリンソナタ全曲演奏会第2回 (だいしホール)
 新潟出身で、東京その他で研鑽を積み地元に戻って活躍しているヴァイオリンの廣川抄子さんとピアノの石井朋子さんによる、全3回予定の演奏会の2回目。第1回はヴァイオリンの音色が地味に感じたが、今回は問題なし。来年の第3回が待たれる。

・6月9日 新潟室内合奏団第77回演奏会 (音楽文化会館)
  美人指揮者の喜古恵理香さん、地元出身のピアニスト小黒秀星氏を迎えて、モーツァルトの交響曲第38番「プラハ」、シューマンのピアノ協奏曲、ベートーヴェンの交響曲第4番というすごいプログラム。アンコールもちゃんとあって、新潟の地元オケもここまで来たかと感銘を受けました。

・6月22日 イタリア・バーリ歌劇場公演:ヴェルディ『イル・トロヴァトーレ』 (東京文化会館)
 イタリア・オペラをイタリアの歌劇場公演で聴くのは、やはり贅沢。技術的にすごく高水準とは思わないけど、味があるのですね。

・7月8日 東京交響楽団第108回新潟定期演奏会 (りゅーとぴあ)
 飯森範親氏の指揮で、ヴェルディのレクイエム。やはりこの曲は、生で迫力を味わわないとダメですよね。

・7月28日 オルガン・トリニティ 歴代専属オルガニストによるジョイントコンサート (りゅーとぴあ)
 新潟市民芸術文化会館の歴代3人のオルガニスト――吉田恵さん、和田純子さん、そして現在のオルガニストである山本真希さんが一堂に会して行ったオルガン演奏会。いい企画ですよね。もちろん演奏も充実。またやって欲しい。

・9月20日 ローマ歌劇場公演:プッチーニ『マノン・レスコー』 (東京文化会館)
 またまたイタリアの歌劇場でイタリアオペラを楽しみました。やはりオペラはディスクで聴くより実演です。

・9月21日 紀尾井ホール室内管弦楽団第113回定期演奏会 (紀尾井ホール)
 ライナー・ホーネックの弾き振りで、オール・モーツァルト・プログラム。ホーネックの楽しそうな演奏ぶりがひときわ印象に残りました。

・9月30日 東京交響楽団第109回新潟定期演奏会 (りゅーとぴあ)
 マクシム・エメリャニチェフの指揮、スティーヴン・ハフのピアノで、ベートーヴェンの「皇帝」とブラームスの交響曲第1番というオーソドックスなプログラムでしたが、内容が非常に濃かった。特に指揮者のエメリャニチェフには今後も注目!

・10月12日 シュトゥットガルト室内管弦楽団演奏会 (りゅーとぴあ)
 人数は多くないけど弦の音に力強さを感じました。フルートのヴァルター・アウアーもよかった。


 このほか、3月4日の東京交響楽団第106回新潟定期演奏会(りゅーとぴあ)、3月6日の日本フィル杉並公会堂シリーズ第6回演奏会、りゅーとぴあでの山本真希さんの二度のオルガン・リサイタル(3月21日、11月10日)、東京で聴いたクァルテット・エクセルシオ(11月11日)とウェールズ弦楽四重奏団(11月24日)の、日本人弦楽四重奏団二つの演奏会、モンテヴェルディのオペラ『ウリッセの帰還』の貴重な公演(11月23日、北とぴあ)も印象に残りました。
 また新潟の地元演奏家も、上で挙げた以外にも新潟バッハ管弦楽団(10月14日)や田中弦楽アンサンブル(10月13日)やプロジェクト・リュリ(11月4日)など、皆さん頑張っています。

 本2019年も良い音楽会にめぐり合えますように!

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