隗より始めよ・三浦淳のブログ

「新潟大学・三浦淳研究室」が終了となったあと、後続ブログとして立ち上げたこの「隗より始めよ・三浦淳のブログ」もできて4年、2018年3月末をもって当ブログ制作者は新潟大学を定年退職いたしました。今後も従来の路線を維持して更新を続ける予定です。よろしくお願いいたします。 旧「新潟大学・三浦淳研究室」は以下のURLからごらんいただけます。 http://miura.k-server.org/Default.htm 本職はドイツ文学者。ドイツ文学の女性像について分かりやすく書いた『夢のようにはかない女の肖像 ――ドイツ文学の中の女たち――』(同学社)、ナチ時代の著名指揮者とノーベル賞作家との対立を論じた訳書『フルトヴェングラーとトーマス・マン ナチズムと芸術家』(アルテスパブリッシング)が発売中です。 なお、当ブログへのご意見・ご感想は、メールで以下のアドレスにお願いいたします。 bunseidoku(アット)yahoo.co.jp

読書と映画については★で評価をしています。☆は★の半分。
★★★★★=最高、★★★★=かなり良質、★★★=一読・一見の価値あり、★★=芳しからず、★=駄本・駄作

4月19日付け産経新聞の報道から。

 https://www.sankei.com/life/news/180419/lif1804190003-n1.html
 2018.4.19 07:03
 アクリルアミド コーヒーでがんになるの? 飲むときの摂取は微量

 米・ロサンゼルスの裁判所が3月、スターバックスなどコーヒー販売業者に対し、コーヒーに「発がん性成分が含まれている」との警告表示をすべきだとの判断を下した。発がん性が指摘される化学物質「アクリルアミド」が含まれているためのようだが、警告表示が必要なほど危険なのだろうか。(平沢裕子)

 ■米裁判所が警告表示
 AP通信などによると、裁判は、米国の非営利団体が、コーヒー豆の焙煎(ばいせん)でアクリルアミドが生じるとして、これを取り除くか、警告表示をするかのいずれかを販売業者に求めていた。判決では、「原告側はコーヒーの消費で胎児から大人まで危険性が増すとの証拠を示した」と非営利団体の主張を全面的に認めた。販売業者は上訴できるが、判決が確定すれば、カリフォルニア州でコーヒーを販売するときは発がん性物質の表示が義務付けられる。

(以上は記事の最初のあたりです。全文は上記の産経新聞のURLからお読み下さい。)

                                  

 産経新聞のこの記事では、上記引用のあとで、アクリルアミドが発がん性であることは日本の食品安全委員会でも認められていること、コーヒーのアクリルアミド含有量は麦茶やほうじ茶と同程度であること、コーヒーは身体にいい物質も含んでいるのでWHOはコーヒーの発がん性を否定していること(この説明――産経新聞記者によるものではなくNPO法人「食の安全と安心を科学する会」会長によるものだが――自体はあまり説得的とは私には思えないが)、などが説明されている。

 また、日本人のアクリルアミド摂取量はヨーロッパや豪州に比べると少なく、主として野菜炒めによって体内に入っているという。といって野菜を食べないのは身体によくないわけで、野菜炒めをするときは焦げすぎないようにするのがいいという。

 私はこの記事を読んで、だいぶ前に「山菜には発がん物質が含まれている」というので問題視されたことを思い出した。中年以上の方は覚えているだろうが、ゼンマイやワラビなどの山菜を食べるとガンになりやすいという実験結果が公表されて、一時期、大騒ぎというほどではないが、中くらいの騒ぎになった。

 しかし結局、山菜は季節の産物であって一年中食べるものではないし、特定の季節に適度な量を食べるのであれば問題はないという結論になったと記憶する。

 今回のアメリカ・カリフォルニア州裁判所の判決は、食と安全性および人間が生きていく上でのリスクの関係を考えさせるものだろう。

 産経新聞の記事でも指摘されているが、アクリルアミドはポテトスナックやフライドポテトにも(コーヒーより多めに)含まれている。もしコーヒーに「発がん性あり」の警告を付けなければならないとすると、ポテトを使ったスナック類にも付けなければおかしいということになるだろうし、そういう表示がはたして適切なのかという問題が生じる。野菜を販売するときは「炒め物にすると発がん性のあるアクリルアミドが生じます」と表示しなければならないのだろうか?
 
 それで言うなら、クルマを販売する時は、「あなたはこのクルマで人間を殺す可能性があります」と表示しなければおかしいだろうし、包丁やナイフの販売についても「あなたはこの道具で人間を殺傷する可能性があります」と表示すべきだということになるだろう。

 これに対して、社会常識として知っているから(知っておくべきだから)表示は要らない、という考え方もある。というか、実際には社会は大部分、そういう考え方で営まれている。

 そういう社会常識が崩れたのは、おそらくタバコに対する風当たりが強まったあたりからではないか。

 タバコを問題視することは、こんにち、常識のようになっている。しかし、そのことによって我々は社会常識で物事を判断するという一線を越えてしまったのだ、と私は思う。


 私はこの3月末で大学を定年退職となり、名実ともに立派な(?)年金生活者となった。
 ・・・と思っていたのだが、4月になっても年金がろくに出ない。

 というのは、年金は2ヵ月分まとめて、その2ヵ月の翌月に出るからなのだ。
 この4月に私の口座に振り込まれた年金は、したがって2月分と3月分ということになる。

 前回記したように、定年退職前でも、満65歳の誕生日を迎えた月の翌月から年金は受給権が発生する。私なら9月が誕生月だから、10月から受給権ができる。しかし、実際に年金が私の口座に振り込まれるのは12月になってからである。10月分と11月分が12月15日に口座に振り込まれる。また、まだ定年退職していないので、金額は大幅に減額となる。さらに、年金の受給権が発生すると同時に、介護保険料が大幅に増額となり、給料から天引きではなく、口座から天引きとなる。

 以上の点については前回記した。

 それでも、3月までは私は給料取りだったわけなので、年金額が少なかろうが、口座から引かれる介護保険料が高額だろうが、さして気にしてはいなかった。

 しかし4月になってみると、2ヵ月分の年金がその翌月半ばにならないと受け取れないというのは、理不尽な制度だと思うようになった。

 というのは、上述のようにこの4月に私が受け取った年金は、2・3月分で、2・3月は私は給料取りだったので額は大幅に減額されており、わずか10万円強だったからである。

 しかし4月には私はすでに給料取りではなくなっているのだ。なのに10万円強しか出ない。次に年金が出るのは(その時は満額出るはず、だが)6月15日になる。

 つまりこの制度は、退職した直後については、10万円で2ヵ月暮らせ、と言っているのと同じことなのである。私の場合で言えば、4月には10万円強しか出ておらず、次にもらえるのは6月なのだから、10万円で4・5月を暮らしなさい、と事実上言っていることになる。

 しかも、である。
 介護保険料についてはそういう措置はとられていない。
 介護保険料については、前回記したように、誕生月を過ぎてからは(それまでは月数千円の)給料天引きではなくなり、口座から毎月1万5千円ほどが引かれるようになっていたのだが、年度末に改めて新潟市から通知が来て、この4月からは2ヵ月ごとに、約2万6千円ずつを口座からいただきます、とのことであった。
 2ヵ月分で2万6千円だから1ヵ月分にすると約1万3千円、つまり3月までの月額1万5千円に比べるとやや安くはなっている。(また、介護保険料の額は前年の年収で計算される。つまり私は昨年はちゃんとした収入があったので、高額になっているわけだ。ちゃんとした〔?〕年金生活者になってしまえば、多少は安くなるはずである。)
 しかし、年金みたいに、「今月分と来月分は再来月に」というふうにはなっていない。しっかり最初からとられるのである。

 つまり、年金のように入ってくるお金は2ヵ月遅れなのに、介護保険料のように取られるお金についてはそういう措置がとられていない。

 これって、おかしいんじゃないか。3月末に退職した人間の年金の正規額が6月にならないと支払われないなら、介護保険料の徴収も同じにすべきではないか。

 どうも、騙されているような気がするのである。

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今年映画館で見た61本目の映画
鑑賞日 4月19日
シネ・ウインド
評価 ★★★

 ポーランド映画、アグニェシュカ・スモチンスカ監督作品、92分、原題は"CORKI DANCINGU"(ダンス・パーティの娘たち)。

 姉妹である人魚ふたりをめぐる物語。といっても、筋書きはあまり重要ではなく、彼女たちの姿や、人間に変身したときの様子、ふたりの歌や踊り、彼女たちを囲む人間たちのあれこれが、入り乱れて展開される。

 彼女たちは肉食、それも人間を狙う肉食だという設定なので、可憐な人魚姫の物語を期待すると失望する。といってもやたらに血が飛び交う類いの映画でもない。どちらかというと、映像や歌を中心に鑑賞すべき作品だろう。

 邦題がどうも冴えない。人魚ラプソディーとか、人魚幻想だとか、他に付けようがあったんじゃないかね。

 東京では2月10日の封切だったが、新潟市では2ヵ月余りの遅れでシネ・ウインドにて一週間限定公開された。

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評価 ★★☆

 昨年夏に出た新書。
 日本の憲法学者が、ふつうの常識的な人間から見るときわめて奇矯な憲法解釈や憲法擁護論をふりかざすことは、知っている人にはとうに知られている。そういう奇妙な憲法学者の説を批判した本というので読んでみた。著者は1968年生まれ、早大政経卒、ロンドン大学博士、国際関係論専攻、東京外大教授。

 戦前は体制順応的な姿勢をとっていた東大法学部教授の宮沢俊義は、戦後になった途端に転向して新憲法を支持し、また「8月革命説」なるものによって、敗戦直後の日本は国民による革命が起こって新憲法が制定され民主主義の新体制が作られたのだ、という、歴史的事実を完全に無視した珍説を展開した。このことは比較的良く知られており、また本書でもその点については詳しく論じられている。また、そのために東大系の護憲法学者は、新憲法がアメリカの押しつけだという事実を極力糊塗しようとしていることも。

 著者によれば、戦後の憲法解釈は東大法学部系の学者によって歪んだものとなったという。戦前の日本の憲法学が大陸法、つまりフランスとドイツの法体系から大きな影響を受けたのに、新憲法は英米系の法体系によって作られていることを無視して、あくまで主としてドイツ法的な解釈や概念に基づいているからおかしくなるのだ、という。

 なるほど、と思わないでもないが、では著者の主張に説得力があるのかというと、少なからず疑問なのである。
 なぜなら、著者は現行の日本国憲法が英米法の精神によって作られ、また国連憲章の精神とも合致する内容だから、そういう方向で解釈すべきだと主張しているのだけれど、はたしてそれでいいのか。

 言うまでもなく、日本国憲法は日本の憲法である。作るにあたって他国の憲法や国際法を参考にするのはいいけれど、最終的には日本人のための憲法である以上、解釈は日本人自身が行うべきなので、アメリカ人やイギリス人に解釈を任せるわけにはいかないではないか。これは、当たり前のことであろう。

 なのに、著者にはその当たり前のことが分からないのである。日本は戦前に国際法を無視して侵略行為に及んだから、それを防ぐのが新憲法なのだという著者の見解は、英米の法解釈と言うより、英米の歴史認識に基づいており、そこでは、アメリカもイギリスも戦前において侵略行為を盛んにやっていたという基本的な事実関係は完全に無視されてしまう。

 著者は、現行憲法は国連憲章の精神に沿って作られているから、9条は自衛のための軍隊を否定していないと言うのだが、ではアメリカやイギリスでは日本のような憲法論議が起こっているのか。また、戦後において、アメリカやイギリスは、自衛のためだけに戦争を行ってきたと言えるのか?

 著者は色々くどくどしい議論を重ねているが、上述のようなきわめて基本的なところを説明できていない。つまり、本書はそういう点でまったく説得性がない、という結論になるのである。

 別の言い方をすれば、宮沢俊義やそのひ孫弟子だか玄孫弟子になるであろう木村草太のような「東大法学部系憲法学者」も、早大政経卒の著者も、私から見れば現実や歴史を無視して珍説を展開しているということでは同じ穴のムジナに過ぎない。

 ただし、本書には一読に値する箇所もある。歴代の憲法学者の説を、丸山真男のような憲法学者でない人間の影響力を含めて詳しくたどっている部分だ。戦前に国家主義者から攻撃された美濃部達吉の説についても分かりやすく説明がなされており、また美濃部の年収は今の貨幣価値なら1億円強だったという指摘は、「大日本帝国憲法=天皇親政」という「顕教」を信じるのが貧しい民衆だったのに対して、「大日本帝国憲法=立憲君主制」という「密教」に通じていたのが高級官僚や、美濃部のような裕福な学者だったという構図も含めて、面白い。
 もっとも、「貧しい民衆」の意向がいつでも正しいわけではないという事情は、もう少ししっかり押さえたほうがいいのではないか。そのあたりの著者の記述には、下手をするとポピュリズムに堕しかねない危うさを感じた。

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4月14日(土)午後6時30分開演
だいしホール
全席自由 2500円

 この日は標記の演奏会に出かけました。
 地元で盛んな活動を行っているふたりの演奏家、ヴァイオリンの廣川抄子さんとピアノの石井朋子さんによる、ベートーヴェン・ヴァイオリンソナタ全曲演奏会の2回目。前回は昨年の7月22日に同じ会場で行われ、1・2・6・7番が演奏されました(感想はこちら)。

 9ヵ月ぶりの今回は、客の入りが良かった。意欲的なプログラムなのに前回はもう一つの入りで、新潟のクラシック・ファンは何をやってるんだという感じだったのですが、今回は3分の2以上、4分の3くらいは入っていたかな。
 私はいつものように右側のブロック、10列目に籍をとりました。

 ベートーヴェン
 ヴァイオリンソナタ第5番 ヘ長調 作品24「春」
 (休憩)
 ヴァイオリンソナタ第4番 イ短調 作品23
 ヴァイオリンソナタ第10番 ト長調 作品96
 (アンコール)
 クライスラー: ベートーヴェンの主題によるロンディーノ 

 前回は廣川さんのヴァイオリンにやや起伏が乏しいきらいがあって、今回はどうかなと思ったのですが、前半の「春」を聴いてびっくり。別人のようです。音が冴え冴えと響き渡り、細部まで神経が行き届いていて、名演といっていい演奏でした。特に音の出方が前回とはかなり違っていて、どうしてこんなに違うのかなと、うれしい疑問が湧いてきました。

 石井さんは、前回は廣川さんに代わって(?)起伏に富んだ表現を見せていたのですが、今回はやや大人しめでしたね。でもバランスということでは今回のほうがいいのかも知れません。堅実な演奏でした。

 後半も、第4番のイ短調という調性の表現(過度にパテティックにならず、バランスが良かった)や、第10番、ベートーヴェン最後のヴァイオリンソナタの滋味に富む表現がしっかりとなされていて、満足のいく演奏でした。

 なお、パンフレット見開き左側で、第4番が「イ長調」となっていました。また、右側の作品解説では、第4番が第9番「クロイツェル」と同じイ短調の作品と記されていました。たしかに「クロイツェル」の第一楽章はイ短調が主体となっていますが、出だしはイ長調であり、したがって一般にはイ長調と表記されます。

 前回はソナタ4曲というプログラムのせいかアンコールがありませんでしたが、今回はクライスラーがベートーヴェンの主題を用いて作った小品が演奏されました。適切な選曲と言うべきでしょう。

 最後になる次回は来年4月の予定だとのこと。今回の演奏会を聴いて、1年後が楽しみになってきました。大いに期待して待ちたいと思います。新潟のクラシック・ファンは集結しましょう!

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今年映画館で見た60本目の映画
鑑賞日 4月12日
シネ・ウインド
評価 ★★★☆

 アイルランド映画、ジム・シェリダン監督作品、108分、原題は"THE SECRET SCRIPTURE"。

 施設に長年入れられている老婦人ローズは、かつて自分の生んだ赤ん坊を殺したとされていた。しかし、彼女は自分の聖書に自らの生きてきた軌跡を書き込んでいた。施設を訪れて、乱暴な扱いを受けていたローズをかばった中年の男性医師は、聖書の書き込みを読み始める。

 そもそもの発端は第二次世界大戦だった。アイルランドは中立を守ったが、アイルランド人の中にも連合軍に加わって戦った男たちがいた。若かったローズの恋人もそのひとり。しかし恋人はアイルランド内部の複雑な情勢により迫害される身となり・・・

 アイルランド独立運動や宗教的対立も絡んでいるので、見ていてよく分からない部分もあるのだが、若かったローズ(ルーニー・マーラ)と恋人の関係が、あたかも神話のように紡ぎ出される優れた映画と言える。もっとも、最後はちょっと筋書き的に整えすぎの感もある。

 東京では2月3日の封切だったが、新潟市では2ヵ月の遅れでシネ・ウインドにて上映中、4月20日(金)限り。

 新潟大学図書館に寄贈する(すでに寄贈した)新書のリスト。これで7回目となる。
 今回は講談社現代新書と平凡社新書の2回目、および小学館新書と祥伝社新書。前回までと同じように、新潟大学にはないか、少なくとも新潟大学の中央図書館に誰でもすぐ読める形では備えていない本ばかり。


【講談社現代新書】2回目
伊勢崎賢治『武装解除 紛争屋が見た世界』
藤田孝典『貧困世代』
原武史『思索の源泉としての鉄道』
日垣隆『現代日本の問題集』
中島さおり『なぜフランスでは子どもが増えるのか』
西部邁『保守の真髄』
橋本健二『新・日本の階級社会』
植村和秀『ナショナリズム入門』
高木徹『国際メディア情報戦』
バーダマン『アメリカ南部 大国の内なる異郷』
宮田律『石油・武器・麻薬 中東紛争の正体』
平田オリザ『演劇入門』
菅原出『「イスラム国」と「恐怖の輸出」』

【講談社+α新書】
篠原孝『花の都パリ「外交赤書」』

【平凡社新書】2回目  
鷹野潤『アマゾン源流 食の冒険』
佐藤考一『皇室外交とアジア』
樋口尚文『「月光仮面」を創った男たち』
田中純『建築のエロティシズム 世紀転換期ヴィーンにおける装飾の運命』
山登義明『テレビ制作入門』
小谷野敦『私小説のすすめ』
長山靖生『千里眼事件 科学とオカルトの明治日本』
石井政之『肉体不平等 ひとはなぜ美しくなりたいのか?』
中村うさぎ+石井政之『自分の顔が許せない!』
陶智子『不美人論』
林信吾『しのびよるネオ階級社会 ”イギリス化”する日本の格差』
堀江珠喜『男はなぜ悪女にひかれるのか 悪女学入門』
木原善彦『UFOとポストモダン』
樽見博『古本通 市場・探索・蔵書の魅力』
小田光雄『ヨーロッパ 本と書店の物語』
水谷驍『ジプシー 歴史・社会・文化』
海野弘『秘密結社の世界史』
荒俣宏『プロレタリア文学はものすごい』
俣野敏子『そば学大全 日本と世界のソバ食文化』
礫川全次『サンカと三角寛 消えた漂泊民をめぐる謎』
海保眞夫『イギリスの大貴族』
小川裕夫(編著)『日本全国路面電車の旅』
田沢竜次『東京名画座グラフィティ』
辻原康夫『人名の世界史 由来を知れば文化がわかる』
安達功『知っていそうで知らないフランス 愛すべきトンデモ民主主義国』
鈴木貞美『日本の文化ナショナリズム』
利倉隆『ユダ イエスを裏切った男』
東京学生教育フォーラム『学生による教育再生会議』
海野弘『秘密結社の日本史』
井上太郎『旧制高校生の東京敗戦日記』
桜井武『ロンドンの美術館』

【小学館新書】
堀裕嗣『スクールカーストの正体 キレイゴト抜きのいじめ対応』
阿部珠理『ともいきの思想 自然と生きるアメリカ先住民の「聖なる言葉」』
橋爪大三郎『フリーメイソン 秘密結社の社会学』
ケント・ギルバート+井上和彦『東京裁判をゼロからやり直す』

【祥伝社新書】
萩原遼+井沢元彦『朝鮮学校「歴史教科書」を読む』
八幡和郎『「領土」の世界史』
泉三郎『伊藤博文の青年時代』
殿前康雄『都立高校は死なず 八王子東高校躍進の秘密』
及川智洋『左翼はなぜ衰退したのか』
藤井厳喜『「国家の逆襲」 グローバリズム終焉に向かう世界』
西尾幹二+呉善花『日韓悲劇の深層』
杉井敦+星野了俊『防衛大学校で、戦争と安全保障をどう学んだか』


 講談社で言えば、中島さおり『なぜフランスでは子どもが増えるのか』や高木徹『国際メディア情報戦』はずいぶん話題になったのに、新潟大図書館は入れていなかった。
  西部邁『保守の真髄』と橋本健二『新・日本の階級社会』は出たばっかりで話題にもなっているから、興味のある方はこの際ぜひ。小学館の堀裕嗣『スクールカーストの正体 キレイゴト抜きのいじめ対応』もそうかな。

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今年映画館で見た59本目の映画
鑑賞日 4月10日
イオンシネマ新潟西
評価 ★☆

 日仏合作、諏訪敦彦監督作品、103分、原題は邦題に同じ(LE LION EST MORT CE SOIR)。

 南フランスを舞台に、映画撮影に出演中の老いた俳優が、若死にした恋人と再会したり、子供たちの映画撮影に協力したりする夢を見る、という筋書き。

 率直に言って全然面白くなかった。
 かつての(若い姿のままの)恋人と再会するところも全然盛り上がらないし、そこで老俳優の過去の秘密が明らかになるわけでもない。
  子供たちとの映画撮影も、騒々しいだけで、何か目新しい事件が起こるわけでもない。
 出てくる少年たちの中に問題を抱えている子供もいるが、何ら解決の糸口が示されるわけでもない。

 タイトルは、有名なポピュラーソング「ライオンは寝ている」をもじって(作中でも歌われている)、多分主役の老俳優を暗示したつもりなのであろう。作中、ライオンも(幻として)登場するが、どういう意味があるのか不明。

 とにかく、作る側の勝手な思い込み(ひとりよがり)だけが先行していて、救いようがない映画になっている。見るべきところは、美しい港など南仏の風景だけか。

 東京では1月20日の封切だったが、新潟市では2ヵ月半の遅れでイオンシネマ西にて単独上映中、4月19日限り。県内でも上映はここだけ。

 なお、私が見に行った回は、観客が私ひとりだった。この出来じゃ、仕方がないよね。
 イオンシネマ新潟西は、最近、新潟の他の映画館に来ない映画を意欲的に拾っていて、私としては評価しているんだけど、こういう駄作は拾わなくて結構。

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今年映画館で見た58本目の映画
鑑賞日 4月7日
ユナイテッドシネマ新潟
評価 ★★★

 アメリカ映画、フランシス・ローレンス監督作品、140分。原題は邦題に同じ。

 ヒロイン(ジェニファー・ローレンス)はロシア・バレエ団のプリマだったが、舞台上の事故でリタイアを余儀なくされる。母と二人暮らしで、経済的な心配もある。そんな彼女に、若さと美貌を活かして諜報員の仕事をしないかと叔父がもちかける。承知した彼女はまず学校で厳しい訓練を受け、やがて実際に各国スパイが活動する東欧で仕事を始めるのだが・・・

 ヒロインを演じるジェニファー・ローレンスの女スパイぶりが見もの・・・なのかと思ったが、訓練の段階では結構脱いでいるのに、いざハニートラップの仕事をするようになってからはその手のシーンがあまりないので、やや拍子抜けの感もある。

 そういうエッチな期待を別にすれば、筋書き的にはまあまあの作品で、見て損はない。

 新潟市では全国と同じく3月30日の封切で、Tジョイ新潟万代を除くシネコン3館で上映中。県内他地域のシネコン3館でも上映している。

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評価 ★★★☆

 出たばかりの新書。著者はすでに多数の著書を出している金沢大教授なので、説明する必要はないだろう。

 本書はハンナ・アーレントの『全体主義の起原』と『イェルサレムのアイヒマン』を分かりやすく解説し、全体主義や反ユダヤ主義の本質をあらためて問いなおしたものである。

 特に『全体主義の起原』は、私も第2部「帝国主義」と第3部「全体主義」には目を通しているが、きわめて難解な書物であり、仲正氏が分かりやすくかみ砕いて説明してくれている本書は貴重だと思った。また、私は第1部の「反ユダヤ主義」だけは未読だったので、本書で18世紀までヨーロッパやロシアに見られた反ユダヤ主義と19世紀の人種主義的な反ユダヤ主義は異質なものだという解説に、今さらながらにうなずいたのである。

 つまり、18世紀までの反ユダヤ主義とは、宗教の違い、および日常的な暮らしぶりや文化的習慣の相違から来る反感に根ざしていたが、19世紀以降は(科学的に根拠がないと今では判明しているが、当時は科学の装いを持った)人種的な偏見によって支えられていたのである。だから、いくらユダヤ人がキリスト教に改宗しようが、ふだんの生活をキリスト教徒と同じように営もうが、反ユダヤ主義から逃れることはできなかったのである。

 また、金融業や大学教授、医師や弁護士といったステイタスの高い職業にユダヤ人が多くついていることも、嫉妬心をあおる要因となった。

 以下、「国民国家」、「帝国主義」、「大衆」といったキーワードを軸に、著者はアーレントの難解な『全体主義の起原』を読み解きつつ、平明に説明してゆく。

 本書の最後の三分の一では『イェルサレムのアイヒマン』が解説されている。この著書は『全体主義の起原』ほど難解ではなく、ふつうに読めば理解できるが、それでも例えばカントの定言命法とアイヒマンの思考法との関連を示唆した箇所などは、私もなるほどと思わされた。

 そして著者は、数年前に公開された映画『ハンナ・アーレント』について、映画を見てアーレントは正しいとすぐに信じ込む態度こそ、むしろ危険なのだと警告を発している。「これは絶対だ」と思い込むことこそ全体主義に通じているのだと述べる著者の姿勢に共感を覚えた。(もっとも、途中では「最近の日本は右傾化している」などとちょっと安易な書き方をしている箇所もあり、首をかしげたけれど。)

 今回宿泊したのは、宮城県庁裏手にある「仙台ビジネスホテル」。名前どおりのビジネスホテルだが、街の中心部にあって朝食付き1泊4500円は安い。ただし今回はクルマで行ったので、すぐ近くの契約民間駐車場に駐めて、900円を別にとられる。

 部屋は非常にコンパクト。基本的に泊まる(寝る)だけの部屋と考えたほうがいい。バストイレはついているが、アニメティは歯ブラシと歯磨き粉のみ。むろん入浴用の液体ソープやリンスはある。

 朝食は簡易バイキングで、和食のみ。副食は数種類だけだけど、タンパク質も野菜もそれなりにとれるから、実用的にはこれで十分(日ごろ、朝から皿数の多いご馳走を食べる日本人はあまりいないでしょう)。飲み物はコーヒーとほうじ茶だけ。あと、カレールーも置いてあった。

 4月6日は朝食をとってからクルマで石巻方面に向かう。
 北4番丁通りをまっすぐ東へ。しばらく走って、「利府・塩釜」インターから三陸自動車道に入る。「石巻河南」インターで下りる。三陸自動車道は仙台に近いところは有料だが、石巻付近は無料になっており、料金は片道600円台。
 ホテルを出てから「石巻河南」インターまでは順調で、1時間少々であった。 
 ところが、インターを下りてから石巻市内に向かう道がよく分からず、あらぬ方向に行ってしまう。仙石線の「石巻あゆみ野」駅前にたどりつき、そこの待合室にいた女高生に石巻駅の方向を訊いて、あらためてそちらに向かったのだが、またしても道に迷い、港(だと思う)の方向に行ってしまい、結局また途中のスーパーで店員に道を訊いて、何とか石巻駅前のあたりに来る。
 ただし目的は石巻駅ではなく、その近くにあるマンガ家・石ノ森章太郎の記念館「石ノ森萬画館」である。

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(石ノ森萬画館)

 私は学生・院生・助手として9年間を仙台で過ごしたわけだが、あまり出歩かない人間で、石巻は今回が初訪問である。何を見ていいか分からないので、マンガ家・石ノ森章太郎の記念館に行ってみようと思ったわけである。入場料は大人800円。

 私は石ノ森章太郎(私の世代は、昔のように石森章太郎と言うほうが何となく腑に落ちるのだが)の大ファンだったわけではない。初期の頃、つまり『ミュータント・サブ』の出始めや、短篇少女マンガを主に書いていたころは愛読者だったが、ルーチンワーク的な作品が多くなるとあまり魅力を感じなくなった。

 しかし彼がマンガ家として登場したころ、いかに大きな衝撃を与えたかは同時代の人間としてよく覚えている。

 今回、「石ノ森萬画館」では、特集として『ジュン』の展示を行っていた。実験マンガとして有名な作品だが、私はあまり目を通してはいなかった。

 今回の展示で、石ノ森章太郎が総合芸術として『ジュン』を構想していたこと、子供や大衆相手ではなく、芸術が分かる大人向けのマンガがあるべきだと考えていたことが分かった。そして残念ながら、そうした石ノ森の構想や夢は、実現せずに終わったということも。

 むろん、少数の人間に「理解」されるマンガは存在している。しかしそれらがマンガ史によってきちんと評価され然るべき位置を与えられるというふうに、日本のマンガは展開してはこなかったのではないか。

 日本のマンガは、アニメも含めて、「今現在」として展開してきた。読者は自分と同時代の人気マンガを(場合によっては知名度の劣るアングラ的な作品を)愛好し、そこで終わってしまう。マンガ史をたどって過去の作品群を自分なりに位置づけるという域にまで達する人間はほとんどいない。

 マンガやアニメにすばらしい作品があることは確かだ。しかしマンガやアニメが「芸術」になることを妨げる何かがあるとするなら、まさにこのこと、つまり「今現在」としてしか存在し得ないマンガやアニメの性格こそが最大の問題なのではないか・・・そんなことを私は考えた。

         

 「石ノ森萬画館」を出たのが正午を少し過ぎた頃。クルマで牡鹿半島の鮎川に向かう。

 石巻から鮎川へは県道2号線を走るのだが、牡鹿半島の出入りと起伏の多い海岸線に沿って、曲がりくねった行路が延々と続く。東日本大震災の津波被害の復旧工事が今なお行われており、途中片側交互通行の箇所もいくつかある。

 今回は、この日のうちに新潟に帰る予定で来たので時間的に余裕がなく、ひたすら目的地に向かって走ったが、時間的な余裕があれば、途中で入江の近くに下りて、美しい景観を楽しむのもいいだろう。実際、異なる入江を通るたびに異なる景観が眼前に現れてくる。

 こういうところに、例えば大学生用の合宿施設をもうけて、スポーツサークル、或いはゼミの合宿を誘致すれば、経済的な効果もあるのではないかと考えた。ただし交通は不便なところだから、例えば首都圏の大学から合宿を誘致するなら、JR石巻駅までバスで送迎するなどのサービスが必要だろう。

 それはさておき、石巻から鮎川までは、1時間近くを要した。
 今回の目的は、ここの「おしかのれん街」に入っている寿司屋「黄金寿司」である。

 東日本大震災の大津波によって店を失ったお寿司屋さんが、仮設住宅街のなかにできた「おしかのれん街」の一角を借りて店を再建したもの。
 と同時に、この店は「くじら寿司」を出すことでも知られている。つまり鯨の肉を使った寿司である。
 この点については、このブログでも「捕鯨問題 2017年5月の報道から」で毎日新聞の記事(5月11日付け)を紹介している。そちらをお読みいただきたい。
 
 というわけで、私は今回、この「くじら寿司」を食べるべく、ここ鮎川までやってきたのである。
 「おしかのれん街」は仮設住宅2軒から成り、県道2号線が鮎川に入ってまもなくのところで左折して山側に少し入ったあたりにある。「黄金寿司」は、そのうち前から見て右側の建物の、入口を入ってすぐ左手である。

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(おしかのれん街の建物2軒。「黄金寿司」は右側の建物の入口を入ってすぐ左手)

 午後1時を少し過ぎていたが、先客もいた。こぢんまりとした店だけど、壁には国会議員3人が手書きした色紙が貼ってあった。どうやら東日本大震災からの復興を応援すべく、国会議員も来店しました、ということらしい。

 くじら寿司が2貫入った「握りの中」を注文する。全部で8貫の握りに鉄火巻と味噌汁も付いて1500円だから、安いと思う。加えて、もずく酢までサービスしてくれた。実に客を大事にする店である。くじら寿司は、上で述べた毎日新聞記事でも紹介されている、赤身と白い脂身が一緒になった寿司と、普通の鯨肉による寿司との2貫。

 全体の印象は、いい意味での田舎寿司といった感じだろうか。変に洗練されているのではなく、田舎の人たちがたまのご馳走に寿司を食うような、そんな気持ちにさせてくれる寿司。お腹がいっぱいになりました。

 食べたあと、石巻に戻ったが、来た時と違い県道2号線は片側交互通行の区間がなくなっていて、来た時よりスムーズに走り、40分強程度の時間しかかからなかった。どうやら時間帯によって片側交互通行の有り無しが変わるらしい。

 石巻中心街から三陸自動車道のインターへも、今度は間違えずに順当にクルマを走らせることができ、帰路に就いた。

 4月5日はクルマで仙台に出かけた。
 新潟から仙台にクルマで行くというと、磐越自動車道で会津経由で郡山まで行き、そこから東北道に入って北上して、という経路を考える人が多いだろうけど、私はこの経路はとらない。

 朝8時頃に西新潟にある自宅を出発し、新潟西バイパスから新潟市と新発田市を結ぶ新新バイパスに入って新発田市に向かう。朝の通勤時間帯なので途中で渋滞に巻き込まれ、新潟西バイパスの新通インターあたりから新新バイパスの女池インターあたりまではのろのろ運転だった。

 新新バイパスの終点で左折して国道7号線に入り、しばらく進んでから右折して国道290号線を北上して関川村方面に向かう。やがて関川村近辺で荒川(およびJR米坂線)に沿って走る国道113号線にぶつかるので、右折して113号線を山形方面へ。

 113号線が南陽市で13号線(福島市から山形をへて秋田までを結ぶ国道)にぶつかると左折して13号線に入り、北上して山形市へ。山形市で右折して国道286号線に入り、仙台に向かう。286号線の途中では、笹谷峠を越えるときだけ高速道(山形高速道)を使う(210円)。あとは高速は使わないケチケチ旅行である。

 途中、113号線の道の駅「いいで」で休憩し、その次は笹谷峠を高速を使って越えて、高速道の笹谷インターから286号に出てすぐのところにあるラーメン屋「渓流」で昼食休憩をとる。ここのラーメンはうまい。ラーメン好きな方はお試しあれ。
 なお、道の駅「いいで」の売店で疲労回復のためにチョコレートを買おうとしたら、かろうじて板チョコが1種類あるだけ。地元の特産品をたくさん置いているのはいいけれど、ふつうのキオスク的な機能を持たせることも考えたほうがいいんじゃないかな。

 以前は286号をそのまま走って愛宕橋で広瀬側を渡り市の中心部に入っていたのだが、今は途中の茂庭で左折して県道31号線を北上し、東北道の仙台宮城インターと交わるあたりで右折して仙台西道路に入り、そこから仙台の中心部に向かうコースをとっている。

 いずれにせよ、仙台の中心部まで、約5時間である。
 これでも、昔に比べるとドライブは楽になっている。
 例えば、新新バイパスの新発田市の終点では、以前は信号をへて左折していたが、今はバイパスがあるので信号で止まらずに左折できるようになっている。
 113号線も、途中のトンネルが改修されて走りやすくなった。私が新潟大に来て間もないころだと、トンネルの道幅が狭い上に灯りがなくて真っ暗なので、途中で対向車とすれ違う時は接触しないか不安だった。といってクルマを左に寄せると今度はトンネルの壁に擦りそうだし。
 南陽市で113号線から13号線に入るまでの道路もバイパスができて、ほとんど信号で停まらずに走れるようになっている。

 閑話休題。

 今回仙台を訪れたのは、この3月末日に新潟大学を定年退職したので、その報告のためである。と言っても、故人への報告なのであるが。

 まず北山霊園で墓参をしてから、その北側に広がる住宅地に、故・原研二さんと故・島途健一さんのお宅を訪れて、位牌の前で退職の報告をする。ふたりとも同じ町内に住んでいたので、自宅は至近距離(歩いて数分)にある。

 原研二さんと島途健一さんは、私が独文科学生だった時にすぐ上にいた先輩で(原さんは一学年上、島途さんは二学年上)、当時はずいぶんお世話になった。ふたりはいずれも東北大教授となったが、定年を待たずにあの世に旅立った。詳しくは私の旧サイトをごらんいただきたい(原さんはこちらの9月29日を、島途さんはこちらの5月30日と7月17日を参照)。
  
 原さんのお宅では夫人とお嬢さんが、島途さんのお宅では夫人と、以前東北大のドイツ語教授だったH先生(女性。私も教養課程2年生の時に教わっている)が迎えて下さった。H先生は勉強会などで原さんや島途さんと長らく付き合いがあり、そのせいで島途さんが亡くなってからも夫人とは時々会っているようである。また島途さん宅では私がいとまごいをする直前に仙台市内で仕事をしている次男が帰宅されたので、挨拶はすることができた。

 原さんも島途さんも秀才だったので、秀才が定年前に早世し、私のような凡才が定年まで何とか勤め上げるというのは不条理な気がするのだが、凡才は長く勤務してやっと一人前、という天の配剤(?)なのかも知れない。ともかくいずれのお宅でも故人についてなごやかな雰囲気の中でお話しすることができたのは幸いであった。

 島途さんのお宅を後にしてから、予約していた県庁裏手のホテルにチェックイン。

 それから友人のW君と会って酒を飲む。友人といっても、約20年ぶりの再会である。

 W君は私が大学生だったときのサークル(卓球同好会)同期生である。経済学部の学生だけれど文学趣味があり、そのためか私とはウマが合った。また彼は地元の人間で自宅通学だったので、下宿生であるサークル仲間たちと一緒に彼のお宅にお邪魔してご馳走になったことが何度かあった。

 W君は卒業後地元の銀行に就職した。やがて結婚することになって、披露宴にはサークル仲間も何人か招かれ、私が友人代表でスピーチをした。

 それから間もなく今度は私が結婚することになり、W君が披露宴でスピーチをしてくれるはず、だったのだが、私の結婚式は1月で、たまたまその日は天気が大荒れとなり、当時札幌支店勤務となっていたW君は搭乗予定の札幌・新潟間の飛行便が運休となったため来ることができなかった。(何で新潟なのによりによって真冬の1月に結婚式をやったのかと訊かれそうだが、女房側のやむを得ない事情でそうなったのである。)

 その後も二、三回会った記憶があるが、このところはすっかりご無沙汰だった。年賀状のやりとりはしていたけれど。現在は銀行は退職して、それとは無関係な仕事を週4日ほどしているそうである。

 久しぶりに会ってみると、髪は真っ白になったけれど(私は髪がなくなっているが)、他は変わらないなと思った。W君は経済学部を出て銀行に入ったわけだが、傍から見ていると銀行でせっせと働いて順当に出世するようなタイプとは思われず、だったら勤務はテキトーにやって後は好きなことをやればいいのに、と私は昔から感じており、今回もそういう意味のことを言ったりしたのだが、人間の生き方は他人から見ると分からない部分があるわけで、W君自身はこれでいいと考えているのかも知れず、だとすれば他人が何を言っても仕方がないということになる。

 ただ、今は卓球をやっていないというのはいかにも惜しい。運動神経が鈍くてさっぱり上達しない私とは違い、W君の卓球の腕前は同期生の中でも一、二を争うほどだったので、社会人になっても続けているのではと思っていた。

 W君に連れられて二軒目に入った店が、持ち込み可だった。W君は途中の店で日本酒の4合ビンを買ってそこに入り、それが空になると、もう一度その店から別の日本酒4合ビンを買ってきた。店の女給(という表現は古いですね)や、たまたま居合わせた他の客も飲んだので、ふたりで8合を空けたわけではないけれど、相当に酔っ払った(一軒目でも飲んでいるわけで)。

 女給にW君と約20年ぶりで会った話をして、それから彼女の姉に文学趣味があるということだったので、「アメリカのO・ヘンリーという作家に『二十年後』という短篇があるけど」と言ってみたのだが、彼女はタイトルすら知らなかった。今度読んでみるとは言っていたけど、どうかな。女給に文学的素養(というほどじゃないけどね)を求めるのは可か不可か。

 店を出て、W君とは握手をして別れた。ホテルに帰って、すぐに着替えをしてベッドに倒れ込み、そのまま寝てしまう。

 4月5日付け毎日新聞「科学の森」欄で、「幻の科学技術立国」の連載が開始された。この日は「第1部 「改革の果てに」」の第1回。

 リード文は以下のとおり。

 【近年、日本の研究力を示す各種指標は低下の一途をたどり、中国を筆頭に科学技術新興国が台頭する中で、日本の存在感は急速に失われつつある。皮肉にも、政府はこの十数年間、科学技術政策を成長戦略の柱と位置付け、研究費配分の「選択と集中」や国立大の法人化など、さまざまな政策を進めてきた。第1部では、待ったなしの衰退の現場を歩き、こうした「改革」の副作用を考える。】

 そのあと、材料工学は以前は日本の得意分野で米国と並んでいたものが、今は中国、韓国、さらにはインドにも抜かれている現状が報告されている。

 そして、

  【「実質国内総生産(GDP)当たりの論文数はラトビアやトルコと同じくらい。データ上は、日本は科学技術立国とは言えない」。豊田長康・鈴鹿医療科学大学長は14~16年のデータを分析し、そう言い切る。
   (中略) 
 文部科学省科学技術・学術政策研究所の報告によると、80年代から00年代初めまでは日本は論文のシェアを伸ばし、一時は米国に次ぐ世界2位に浮上した。しかし、ここ約10年の落ち込みが顕著で、13~15年の3年平均では中国、ドイツに抜かれ4位に。引用数上位1%の影響力の大きな論文に限れば、オーストラリア、カナダ、イタリアにも抜かれ、4位から9位に転落している。年間平均論文数は10年前に比べ約3900本も減少した。】

 それから、研究資金の「選択と集中」が90年代以降進むなかで、少数の特権的大学だけに資金が集まり、中堅大学が貧乏にあえぐ構造に問題があるのではないかと指摘されている。

 今後の連載が待たれる記事と言えるだろう。

 (以上の4月5日付け記事は以下のURLから読むことができます。ただし登録しないと全文は読めません。登録が不可能な方は紙媒体の毎日新聞でお読み下さい。)

   https://mainichi.jp/articles/20180405/ddm/016/040/013000c

【追記 4月12日】 本日の毎日新聞に連載の第2回が掲載されています。 筑波大で建物と建物をつなぐ連絡通路(築40年余りで大学側は改修を要求していたが文科省から認められなかった)の崩壊事故が昨年末にあったことや、地方国立大で教員数が減っていることなど、最近国立大学を襲っている金欠病の実態が明らかにされています。 こうした現状を、大学教員自身が積極的に公けにしていくことが望まれるでしょう。 (新潟大の場合、なぜかマスコミにこの種の情報を流すことを嫌がる教員が多い。それでは事態は悪化するばかりです。) 

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今年映画館で見た57本目の映画
鑑賞日 4月4日
イオンシネマ新潟西
評価 ★★★☆

 英国映画、ジョー・ライト監督作品、125分、原題は"DARKEST HOUR"。

 第二次世界大戦中に英国の宰相として対ドイツ戦争を指揮したチャーチルを描いた作品。首相に任命されてから、国内の宥和主義政治家たちとの闘争をへて、対独妥協をしないと決意するあたりまでの時期を扱っている。

 今どきの映画だから、チャーチルを英雄的に捉えるのではなく、迷いも多い普通の老人として描いている。葉巻を欠かさず、地下鉄には乗ったこともない貴族政治家であったチャーチルの日常生活をも。

 私にとって面白かったのは、ドイツとの戦争が本格的に始まっても、前首相のチェンバレンを初め、対独宥和主義の政治家が結構幅をきかせていたということだ。今どきの歴史認識では、チェンバレンが首相時代にミュンヘン会談でヒトラーの要求を受け入れたのがそもそもの誤りということになっているわけだが、この映画を見る限り、宥和主義は失敗したのだという認識が英国の政治家には希薄で、むしろ戦争が始まってからも講和を第一に考えるべきだという声が強かったのだと分かる。

 この映画では、対独強硬姿勢を主張するチャーチルが孤立無援となるが、国王の信頼や、生まれて初めて地下鉄に乗って庶民の声を聞き、あらためて対独強硬姿勢を貫こうと決意するという筋書きになっている。

 でも、ミュンヘン会談でヒトラーに迎合したチェンバレンだって、帰国したとき英国大衆から大歓迎されたのだから(とりあえずの戦争が避けられたからという理由で)、庶民の声って頼りにならないと私は思うんですけどねえ。

 それに地下鉄には肌の黒い人間も乗っているけれど、チャーチルは分け隔てなく接している。でも、チャーチルって人種差別主義者でもあったのだよね。もっとも戦時中はそれを表には出さなかったかも知れないが。

 そういう点で、英雄的なチャーチルではないけれど、映画的な甘さもあるチャーチルになっているかな。

 新潟市では全国と同じく3月30日の封切で、イオンシネマ西にて単独上映中。県内でも上映はここだけ。

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評価 ★★☆

 出たばかりの新書。著者は1962年生まれ、早大英文科修士課程修了、千葉工大教授。以前平凡社新書から『魚で始まる世界史』を出している。

 前著『魚で始まる世界史』がまあまあ面白かったので本書も手にとってみたのだが、やや期待はずれだった。

 本書は、英国において魚ではなく肉がたくさん食べられるようになった契機と、それにともなって羊や牛の品種改良が進行していく過程を追った本である。

 今なら英国というと肉食の国というイメージが強いが、もともとはキリスト教の影響で魚食の日ももうけられており、必ずしも肉食が一般的というわけではなかった。特にキリスト教が定めた断食の日には、当初は肉も魚も食べてはならなかったのが、しだいに肉だけが禁止対象となり、魚は断食の日には積極的に食べるべきものとされるようになる。

 ところが宗教改革によってこれが一変する。プロテスタントや英国国教会は、カトリックの定めた魚の日を廃止してしまう。これにより肉食が優勢となる土台が築かれる。(逆に、カトリックの国、つまりスペインやイタリアではその後も魚食は盛んだった。)

 また、家畜は必ずしも肉をとるためだけに飼われていたわけではない。牛は動力源として貴重だし、羊では羊毛とミルク(むかしのヨーロッパでは牛乳より羊乳がよく飲まれていた)、さらにはその糞も貴重だった。羊の糞は畑の肥料として最適だったからだ。また豚は本来は森の動物であるのに対し羊は草原の動物で、つまり豚と羊は両立しないが、英国は(木材の大量伐採により)森が減って草原が増えていったため、羊が優勢となった。

 さて、本書は以上のような状況をふまえて、羊の品種改良がどのように行われて、いかに肉が大量生産および消費されるようになっていくかを説明しているのだが、メインはあくまで品種改良の話である。

 しかし品種改良は、それを行う側(ブリーダーという)にとっては企業秘密であるから、言うまでもなく「これとこれをかけ合わせて、かくかくの飼料を与えてやれば成功する」といった文書を残しているわけではない。

 本書は様々な研究書をひもといて、分からない部分はそれとしてこの間の事情を明らかにしようとしているのだが、不明の箇所があるのは仕方がないとして、説明がどうもまどろっこしいというか、記述が変に細かい部分にこだわっていて、すっきり読者の頭に入ってこない。もっと整理して分かりやすい書き方ができないものか。

 煎じ詰めれば、まだ遺伝というものが学問として知られていなかった時代のブリーダーは、「血統か、環境(エサなど)か」という問題に直面し、かつては環境論が優勢であったものを、近親交配を繰り返すことによって品種改良を行い、肉の大量生産を可能にしていった、ということのようである。

 詳細は本書をお読みいただきたい。最後のあたりでは、品種改良と優生学(つまり人間の品種改良)の思想的交錯にも触れているが、この辺も何か書き方が曲線的で、言おうとしていることがつかみにくいのである。残念。


 新潟大学図書館に寄贈する(すでに寄贈した)新書のリスト。これで6回目となる。
 今回は新潮新書と朝日新書と扶桑社新書である。前回までと同じように、新潟大学にはないか、少なくとも新潟大学の中央図書館に誰でもすぐ読める形では備えていない本ばかり。

【新潮新書】
中村淳彦『日本の風俗嬢』
春日太一『なぜ時代劇は滅びるのか』
中沢彰吾『東大卒貧困ワーカー』
烏賀陽弘道『フェイクニュースの見分け方』
三井美奈『イスラム化するヨーロッパ』
高崎順子『フランスはどう少子化を克服したか』
林英一『戦犯の孫 「日本人」はいかに裁かれてきたか』
川島幸希『国語教科書の闇』
裴淵弘『朝鮮人特攻隊 「日本人」として死んだ英霊たち』
柳田由紀子『二世兵士 激戦の記録 日系アメリカ人の第二次大戦』
「NHKスペシャル」取材班『アフリカ 資本主義最後のフロンティア』
藪中三十二『国家の命運』
大島真生『公安は誰をマークしているか』
藤倉良『環境問題の杞憂』
コリン・P・A・ジョーンズ『アメリカが劣化した本当の理由』
サンジーヴ・スィンハ『すごいインド なぜブローバル人材が輩出するのか』
和田秀樹『学者は平気でウソをつく』
前田和男『足元の革命』
市川真一『政策論争のデタラメ』
西岡文彦『ピカソは本当に偉いのか?』
宇都宮浄人『路面電車ルネッサンス』
筆坂秀世『日本共産党』
森口朗『授業の復権』
前田速夫『「新しき村」の百年』
米窪明美『明治天皇の一日』
エリック・ゼムール『女になりたがる男たち』
一瀬隆重『ハリウッドで勝て!』
小島英俊『文豪たちの大陸横断鉄道』
永嶺重敏『怪盗ジゴマと活動写真の時代』

【朝日新書】
菊地章太『悪魔という救い』
草野厚『日本はなぜ地球の裏側まで援助するのか』
宮崎哲弥『映画365本 DVDで世界を読む』
山口進+宮地ゆう『最高裁の暗闘 少数意見が時代を切り開く』
和田秀樹『この国の冷たさの正体』

【扶桑社新書】
堤未果『アメリカから〈自由〉が消える』
清水草一『高速道路の謎 雑学から知る日本の道路事情』
清水草一『港区ではベンツがカローラの6倍売れている データで語る格差社会』
海老原嗣生『「若者はかわいそう」論のウソ データで暴く「雇用不安」の正体』
津山恵子『「教育超格差大国」アメリカ』
山本直治『禁煙にすればするほど煙たくなるニッポン』
末松広行『食料自給率の「なぜ?」 どうして低いといけないのか』


 内容的には、やや現代風のテーマが多くなっているかな。
 三井美奈『イスラム化するヨーロッパ』や高崎順子『フランスはどう少子化を克服したか』はかなり大事な問題だと思うんだけど、新潟大には入っていなかった。ちなみに少子化については講談社現代新書からも(高崎順子さんと同じくフランス人と結婚した日本女性により)同じテーマで本が出ているんだけど、やはり入っていなかった。
 筆坂秀世『日本共産党』なども、日本共産党の幹部だった人の本だからかなり貴重な文献だと思うんだけど、やはり入っていなかった。
   困りますね。

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今年映画館で見た56本目の映画
鑑賞日 3月31日
イオンシネマ新潟西
評価 ★★★☆

 神徳幸治監督作品、105分。原作はマンガだそうだが、私は未読。

 奈緒(平祐奈)は高校に入学したばかりの女の子で、母の弟、つまり叔父(高橋優)とふたりで暮らしている。奈緒が6歳のときに両親は交通事故で急死し、それ以来叔父が親代わりになって育ててくれたのである。そして奈緒はひそかに叔父に恋していた。

 しかし高校に入ったばかりの奈緒は、乱暴な男子生徒・鬼瀬(平野紫耀)から「結婚を前提に付き合ってくれ」と迫られる。怖くてノーと言えない彼女は承知してしまうが・・・

 いかにもマンガチックな出だしてあるが、筋書きが進んで行くにつれて鬼瀬も案外まともな人間だと分かってきて、落ち着いた展開になる。サブの人物設定もまあ悪くないし、若い美男美女が主役脇役の物語だから(主役のふたり以外に、横浜流星、水谷果穂、浅川梨奈らが出ている)見ていて楽しいということもあるし、結構いい線いっているのではと感じた。

 ・・・それにしても今どきの青春映画って、料理を作って好きな異性に持って行くのは、女じゃなくて男なんだねえ。前期高齢者の年齢に達した私としては、世の変化に愕然とするのでありました。

 新潟市では全国と同じく3月31日の封切で、ユナイテッドを除くシネコン3館で上映中。県内では他にTジョイ長岡でも上映している。

都合により、明日(4月6日)は更新を休止します。

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今年映画館で見た55本目の映画
鑑賞日 3月30日
ユナイテッドシネマ新潟
評価 ★★★★

 アメリカ映画、スティーヴン・スピルバーグ監督作品、116分、原題は"THE POST"。

 実話をもとにした映画。
 ニクソン大統領時代のアメリカ。ヴェトナム戦争に関するアメリカ政府の秘密文書を、ニューヨーク・タイムズ紙がすっぱ抜く。これによって、歴代大統領がこの戦争の見通しや米軍の払った犠牲に関して正しい情報を国民に提供していなかった事実が明らかとなった。

 しかし、政府からの裁判所への申し立てがとりあえず認められ、ニューヨーク・タイムズ紙はこの連載記事を中断せざるを得なくなる。しかしこのとき、政府の秘密文書に関する情報はワシントン・ポスト紙へも寄せられていた。

 当時のワシントン・ポスト紙は、今と違ってニューヨーク・タイムズ紙と並ぶ全米的な高級紙とは見なされておらず、あくまで首都を根城とする地方紙だった。また、この新聞の経営者が少し前に死んで、その未亡人が経営という慣れない仕事をする中で、政府の秘密文書を掲載すれば、一躍全米的な注目を浴びる可能性もあるが、逆に経営が破綻する恐れもあった。

 記事の掲載を強く求める編集主幹(トム・ハンクス)と、慎重派の幹部との板挟みになった未亡人経営者(メリル・ストリープ)の下した決断とは・・・

 重要な記事が新聞に掲載されるまでの様々な経緯や新聞社内部のごたごた、さらにはマスコミの人間と大統領など政府要人との私的交際にも光が当てられており、当時のアメリカの一面がよく分かる映画になっている。

 スピルバーグの映画作りは手堅く、逆にそこからオーソドックスすぎる作品という印象も出てこないでもないが、素直に作品に浸っていれば満足感が残る映画であることは間違いない。

 新潟市では全国と同じく3月30日の封切で、市内のシネコン4館すべてで上映中。県内では他にTジョイ長岡でも上映されている。

 3月はオペラを見るために2度上京したことは、このブログでも報告した。
 その際に「へえ」と思ったことを記しておく。

(1)
 
 宿泊したホテルのある西葛西で、「鳥貴族」に初めて入ってみた。
 周知のように、この飲み屋チェーンはメニューを絞り、価格を安価に統一することで急成長しているが、新潟には支店がないので、首都圏滞在中にいちど入ってみたいと思っていた。

 今回初めて入ってみて、一人客なのでカウンター席に案内されたが、カウンターと言っても隣席との間は少し空いていて、はっきりと一人客用に作られた席である。注文は最近の回転寿司と同じでタッチ式のパネルで行うようになっていて、いちいち声を出して店員を呼ばなくて済む。

 結局、ビール(中ジョッキ)1、日本酒(一合)2、食べ物3を注文し、合計価格は2000円弱だった。
 ただ、今は気温が高くないからビールは1杯で済んだけど、私は夏だとビール中ジョッキ2杯を頼むのが常なので、暑い季節に入ると2000円を超えそう。ふつうの居酒屋だと、ビールには中ジョッキと大ジョッキがあるので、夏なら大ジョッキを頼めばいいのだが、ここは価格が統一されているからビールは中ジョッキしかない。その辺で融通が利かない面はある。

  とはいえ、普通の飲み屋チェーンに比べるとだいたい三分の二のお金しかかからない。価格面での魅力だけでなく、一人客でも落ち着いて楽しめるように座席ができているところもプラス評価である。

 ところで、私の少し後に若い男性の一人客が入ってきて、私の右隣(と言っても上述のように十分な間隔がある)のカウンター席にすわったが、しばらくメニューやパネルを見たあげく、店員を呼んで、「メニューに値段が書いていないが」と質問をしていた。

 よく見れば書いてあるのだが、この「鳥貴族」が統一価格の店であることを知らないで入ったらしい。地方都市に住む、すでに前期高齢者の年齢に達している私ですら知っていたのに、若い人でもこの種の情報に通じていない人間がいるんだな、と内心ちょっとびっくりした。

 もっとも、事情が分かるとその客は年齢にふさわしく(?)タッチパネルをすばやく操作して注文を出していたが。


(2)

 新宿駅南口の構内でいわゆる「駅ナカ」事業が大々的に展開されていることに気づいた。

 3月の2度目の上京で、新潟に戻る日に映画を3本見たが、3本目は新宿の映画館だった。
 映画を見終えると、JR新宿駅から中央線で東京駅に向かい、そこから新潟行きの新幹線に乗る。

 午後6時くらいの時間帯だから、夕食は新幹線の中で駅弁を、ということになる。
 ふだんはこういう場合、東京駅南側通路(有楽町駅の側)に入っている崎陽軒でシウマイ弁当を買うことが多いのだが、この日は新宿駅南口の構内に高級食品店や高級スーパーが入っているのに気づいたので、そこで弁当を買ってみた。

 高級食品店や高級スーパーの弁当といってもそんなに高価ではない。それに夕刻なので、ものによっては割引価格で売っている。結局、焼き鳥弁当と称するものを1割引で購入。

 新幹線に乗ってから食べてみたが、焼き鳥弁当と称しているわりには焼き鳥とネギは少ししか入っておらず、むしろサツマイモだのジャガイモだのニンジンだのの野菜が数多く入っている。「*種の野菜弁当」とでも呼んだほうがよさそう。たぶん、都会人の健康志向に合わせた弁当なのであろう。

 新宿駅南口構内には他に駅弁専門店もあったが、値段の設定がやや高いように思われた。また、通勤客が自宅に帰るときに寄りそうな食材店もあった。

 ともかく、新宿駅南口構内の駅ナカ事業は活性化している。未経験の方は、上京した際に立ち寄ってみてはいかがだろう。

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評価 ★★★

 研究室の本の整理をしていると、買ったきり忘れていて読んでいない本に出くわす。本書もその一冊で、新書ということもあり今さらのように読んでみた。

 煙草に対する風当たりは最近きわめて強いけれど、身体に悪いと言われながらもこれだけ長く喫煙の習慣を人類が続けてきたのにはそれなりにワケがあるはずである。

 時代の動きに過度に流されるずに、文化としての喫煙について改めて考えてみるのも悪いことではあるまい。

 本書は神話伝説の中の煙草から始まって、「新大陸」からヨーロッパや日本に煙草が伝えられ、広まっていく過程をたどりつつ、煙草に関する様々なエピソードを紹介し、様々な観点から煙草に光を当てた本である。

 日本でも葬儀や法事の時には線香を焚くけれど、あのような香を焚くことで神という超越的な存在と交わるという思考が人間にはあるわけで、この点は煙草にも当てはまるという指摘が興味深い。そこから喫煙はアメリカの先住民にとっては聖性を帯びた行為であり、それゆえひとりではなく全員で行うべきものだったという。

 また現代では煙草というと紙巻き煙草が主流だが、かつてはパイプ利用が主流だったわけで、パイプだとパイプの清掃など手間がかかるからむやみに連続した喫煙はできないが、安価な紙巻き煙草が主流になったためにむしろ煙草の大量消費がなされるようになり、それが煙草害悪論につながっていくという指摘も、なるほどと思わせられた。

 「嗜好品」と呼ばれるものの代表格である酒、コーヒー、茶、煙草について、その生理作用から明快な分類を行っているところも貴重。
 アルコール類は中枢神経を抑制する。つまり人間ならではの思考や感情を支配する大脳新皮質の働きを抑制するので、食欲や性欲などの本能的な部分を司る旧皮質部分の働きが活発化し、大胆な言動をするようになるのである。
 コーヒーや茶に含まれるカフェインは、逆に中枢神経を刺激して、大脳新皮質の働きを活発化させ、疲労感を取り除き、そのために人は仕事がはかどるようになるのである。
 煙草のニコチンはというと、興奮と鎮静の二相性作用があるという。意識の覚醒レベルが低いときには興奮により覚醒をもたらし、逆に意識の覚醒レベルが高い時には鎮静作用、つまりストレス緩和の作用がある。

 という説明をした上で、著者はシヴェルブシュの著書から引用しつつ、コーヒーと煙草は近代の知的労働のために恰好の嗜好品だった、という説明を行っている。煙草が好きな人にとっては、理論武装のために役立ちそう。

 ただ、本書は近年の反煙草運動にもページを割いているが、そのあたりは「大人の態度の退潮」というような論法がとられているけれど、あまり歯切れがよくないし、説得性もさほど高くない。

 私は、煙草は身体に悪いという側面はそれと認めた上で、しかし人間にとっては長生きや健康があらゆるものに勝る価値とは限らないこと、しばしば煙草は健康に悪いから医療費(つまり税金)増加につながるという論法がとられるけれど、実際には最近のように人間が長生きするほうがかえって医療費はかかること(つまり、いわゆる健康寿命以降の生存期間が長くなればなるほど医療費はかさむわけで、ということは「健康にいい」ことをすればするほど医療費はかさむということになるのである。これは最近出た本――タイトルを忘れてしまったが、どこかの選書か叢書――に書いてあったことである)、などをもって、「ルールを守った上で喫煙を認める」文化を養成すべきであり、現代のように「喫煙は諸悪の根源」的なヒステリックな風潮は好ましくないと考えている。「健康は何にもまさる」と信じ込んでいる人は、たぶん、人間を知らない人である。

 ちなみに、大学時代の私の恩師は、今はやめているが、かつては喫煙者で、現在九十代後半でご存命である。それに対して、恩師の教え子で私の一年先輩だった人と二年先輩だった人は、いずれも喫煙者ではなかったが、それぞれ満57歳と61歳であの世に旅立った。死因はいずれもガンだった(ただし肺ガンではない)。

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今年映画館で見た54本目の映画
鑑賞日 3月28日
シネ・ウインド
評価 ★★★☆
 
 スイス・スペイン合作、アランチャ・アギーレ監督作品、83分。原題は邦題に同じ。

 バレエ界で天才振付師と言われた故モーリス・ベジャール。彼がかつててがけたベートーヴェン第九交響曲のバレエ化作品を、今の時代に再演しようとする試みをドキュメンタリー映画化したもの。

 リハーサルの様子や、関係者の発言等を多数収録しており、ヨーロッパのドキュメンタリーは一般に言葉での解説が少なく日本人には分かりにくいものが少なくないが、本作品はそういう欠点もなく、バレエにはシロウトである私が見てもそれ相応の映画になっている。

 またこのバレエには日本のバレエ団も参加しているので、日本人も少なからず登場する。・・・しかし、見ていて私はううむと慨嘆せざるを得なかったのである。

 一つには、バレエというヨーロッパ発祥の芸術はやはりヨーロッパ人に向いているということ。手足が長いヨーロッパ人が踊るから見栄えがするわけで、手足が短い日本人がいくら頑張っても限界があるんじゃないか。最近はそういうことを言うと差別だと批判されるから表向きは誰も言いませんけどね。

 もう一つは、言葉で何かを表現するということに、日本人はもう少し努力すべきじゃないか。作中、日本人評論家の三浦雅士が登場するんだけど、日本語でしゃべっていいからと言われてインタビューされて、何も言えなくなってしまう。外国人の前で日本語でしゃべることに慣れてないからと言い訳していたけど、評論家でこの程度だから、まして日本人ダンサーがインタビューされたときにきわめて幼いことしか言えないのは無理もないのかも知れない。が、ともかくこういう時代なんだし、バレエは身体表現の芸術だから言語は関係ないなんてことは言わないで、ふだんから言葉でバレエについて表現できるようにしておくべきだろう。これはバレエ界の人間だけじゃなく、音楽界についても言えることだと思う。

 まあそれはさておき、ベジャールの振り付けになるベートーヴェンの第九交響曲、見ていて本当に充実感があって面白かった。晩年のベートーヴェンは聴力を失っていたから、視覚芸術であるバレエによって音楽を表現することは作曲家の意にも適っているのでは、という或る人物の発言にははっとさせられた。

 音楽はズービン・メータ指揮のイスラエル・フィル。メータのインタビューも出てくる。

 東京では昨年12月下旬の封切だったが、新潟市では3ヵ月弱の遅れでシネ・ウインドにて2週間上映された。

 3月24日(土)は、恒例の大形卓球大会の日だった。場所は例年どおり、新潟市東総合スポーツセンター。いつもなら2月開催のはずだが、会場の確保が難しかったのか、今回は3月下旬にずれ込んだ。
 技倆別にAとBに分かれ、くじ引きで男女のペアを作り、6ペアで1グループとして、グループごとのリーグ戦を行う。私はもちろん下手なほう、つまりBである。

 前半は、隣のグループと合わせて台が3台だった。それで中間の台は交互に使うことにして試合を進行させた。でも、隣のグループのほうが早めに全試合を終えたので、最後のあたりはこちらが2台を専有する形に。つまり、こちらはフルセットの試合が多くて時間がかかったということである。
 私の成績は1勝4敗だから、ほめられたものではないが、まあ他の方々に花を持たせたということで(笑)。

 昼食をはさんで、午後はまたくじ引きをして新たなペアを作り新たなグループでのリーグ戦となるのだが、今回は例年と違って、午後の部のグループが小さく設定されていた。つまり、午前中は6ペアで1グループだったのに、午後は5ペアで1グループだったのである。それだけ試合総数は減るので、台も午前中より減らされていて、1グループ1台となった。また、そのせいで試合終了時間がいつもより早かった。

 これがどういう理由からなのかは分からない。主催側に何らかの事情があったのかも知れない。例年だと午前の部と午後の部でリーグの編成が大幅に変わったり試合数がはっきり異なったりすることはなかったはずだが。
 運営側の都合はともかく、試合に参加する側からすると、やはり1試合でも多い方が楽しいわけなのだ。

 ともあれ、午後の部は合計4試合をやって、2勝2敗でした。黄金の中庸を行っていますね(笑)。

 今回私がペアを組んだ女性は午前午後とも私と同年代かと思われる方だったが、午後の部の方はさりげなくおしゃべりで(さりげなくと言うのは、うるさくしゃべりまくる品のないオバサン・タイプとは違うという意味)、ふだんは日中に某市立スポーツセンターで練習しているという話をされていた。私は小学校の体育館を夜間に借りてやっている社会人クラブに入っているわけだが、その方も一時期類似の社会人クラブに入って夜もやっていたものの、主婦の立場として夜は出にくいということがあって、結局夜はやめたそうである。私より5歳年長の70歳だそうだが、昔の女性は70歳ならいいおばあさんだったけど、最近の女性は若々しいから、外見的には昔なら50代で通りそうな感じの方である。

 最後にくじ引きでお土産をもらうのが、この卓球大会の最後の楽しみ。くじ引きだから、いいものが当たるかそうでないかは運次第。成績次第ではないのである。

 で、今回の私は、日本酒の4合ビンを当てました。これは当たりなんです。ハズレだと、350MLの発泡酒1缶に100円程度のツマミ1袋ですから。(土産は紙に包まれているので、開けてみないと中身は分からない。)
 今回は最後に運命の女神が微笑んだ、ということでしょう。

 新潟大学図書館に寄贈する新書のリスト。これで5回目となる。
 今回は文春新書と洋泉社新書(新書y)である。前回までと同じように、新潟大学にはないか、少なくとも新潟大学の中央図書館に誰でもすぐ読める形では備えていない本ばかり。

【文春新書】
菊池英博『新自由主義の自滅 日本・アメリカ・韓国』
黒田勝弘『韓国人の歴史観』
塩野七生『ローマ人への20の質問』
船橋洋一『あえて英語公用語論』
阿川弘之ほか『二十世紀日本の戦争』
村上春樹+柴田元幸『翻訳夜話』
武光誠『名字と日本人 先祖からのメッセージ』
宮田毬栄『追憶の作家たち』
中島義道『孤独について 生きるのが困難な人々へ』
坂本多加雄ほか『昭和史の論点』
島内景二『文豪の古典力 漱石・鴎外は源氏を読んだか』
若林直樹『近代絵画の暗号』
紀田順一郎『名前の日本史』
山本夏彦『誰か「戦前」を知らないか』
山本夏彦『男女の仲』
長谷川三千子『民主主義とは何なのか』
藤原明『日本の偽書』
下條正男『竹島は日韓どちらのものか』
萩原遼『拉致と核と餓死の国北朝鮮』  「和田春樹氏の鉄面皮」
小田部雄次『四代の天皇と女性たち』
秦郁彦『旧制高校物語』
溝口敦『歌舞伎町・ヤバさの真相』
文春新書編集部編『論争 若者論』
木田元『なにもかも小林秀雄に教わった』
河合信和『旧石器遺跡捏造』
篠沢秀夫『愛国心の探求』
野田宣雄『二十世紀をどう見るか』
金子隆一『ファースト・コンタクト 地球外知性体と出会う日』
三浦展『団塊格差』
三代史研究会『明治・大正・昭和 30の「真実」』
半藤一利『恋の手紙愛の手紙』
半藤一利ほか『あの戦争になぜ負けたのか』
平山洋『福澤諭吉の真実』
中嶋繁雄『閨閥の日本史』
泉三郎『岩倉使節団という冒険』
上杉隆『世襲議員のからくり』
立山良司『揺れるユダヤ人国家 ポスト・シオニズム』
井上薫『ここがおかしい、外国人参政権』
石田あゆう『ミッチー・ブーム』
佐々木健二郎『アメリカ絵画の本質』
山村修『書評家〈狐〉の読書遺産』
井上章一『夢と魅惑の全体主義』    [全体主義と建築]
山下史路『ヴェネーツィアと芸術家たち』
山田順『出版大崩壊 電子書籍の罠』
織田一朗『「時」の国際バトル』
半藤一利・秦郁彦ほか『徹底検証 日清・日露戦争』
稲葉振一郎『不平等との闘い ルソーからピケティまで』
エドワード・ルトワック『戦争にチャンスを与えよ』
浅見雅男『皇族と帝国陸海軍』
エマニュエル・トッド、柴山桂太、中野剛志ほか『グローバリズムが世界を滅ぼす』

【洋泉社新書】
佐野山寛太『追悼「広告」の時代』
雨宮処凜『プレカリアート デジタル日雇い世代の不安な生き方』
小谷野敦『天皇制批判の常識』
小林章夫『召使いたちの大英帝国』
森暢平、香山リカ、ほか『雅子さま論争』
福地誠『教育格差が日本を没落させる』
諏訪哲二『学力とは何か』
プロ教師の会(編著)『教育大混乱』
真実一郎『サラリーマン漫画の戦後史』
三宅俊彦『時刻表のヒミツ』
名取春彦+上杉正幸『タバコ有害論に異議あり!』
武田良夫『「タバコは百害あって一利なし」のウソ』
奥武則『論壇の戦後史 1945-1970』
井崎正敏『ナショナリズムの練習問題』
佐藤忠男『映画から見えてくるアジア』
石弘之+安田喜憲+湯浅赳男『環境と文明の世界史』
金原瑞人『大人になれないまま成熟するために』
田中優子『張形と江戸をんな』
氏家幹人『大江戸残酷物語』
上西俊雄『英語は日本人教師だから教えられる』
青井博幸『ビールの力』
池田清彦、小浜逸郎、小谷野敦ほか『天皇の戦争責任・再考』
小浜逸郎『なぜ人を殺してはいけないのか 新しい倫理学のために』
小浜逸郎『人はなぜ働かなくてはならないのか 新しい生の哲学のために』
小浜逸郎『やっぱりバカが増えている』   [上野千鶴子・寺脇研批判]
小浜逸郎+佐藤幹夫『中年男に恋はできるか』     [エロス・恋愛論]
佐藤幹夫『精神科医を精神分析する』
佐藤幹夫『ハンディキャップ論』   [障害者論]
宮崎哲弥(編著)『人権を疑え!』
山下悦子『女を幸せにしない「男女共同参画社会」』
小沢牧子+中島浩籌『心を商品化する社会 「心のケア」の危うさを問う』
伊東順子『病としての韓国ナショナリズム』
大矢復『パスタの迷宮』
鈴木眞哉『天下人史観を疑う 英雄神話と日本人』
橋爪大三郎『永遠の吉本隆明』


   新書ならではのテーマの幅の広さはこれまでと同じ。
 「これが、なかったの?」としては、まず、船橋洋一『あえて英語公用語論』だろう。当時賛否両論でかなり話題になった本なんだけど。
 平山洋『福澤諭吉の真実』なんかも、かなり内容の充実した本だけど、入れていないのは、新潟大の教員は日本思想史系統が弱いからかなあ。
   エマニュエル・トッド、柴山桂太、中野剛志ほか『グローバリズムが世界を滅ぼす』も、最近わりに話題になった本だけど入っていなかったんですね。
 
 洋泉社新書が、タバコや天皇制についてなど、わりに反時代的な本を出してきたことも分かる。

 他方、石田あゆう『ミッチー・ブーム』は、今どきの若い人にはタイトルだけでは内容の推測がつかない本かも知れないね。今は皇后であられる正田美智子さんが59年前に当時の皇太子(いまは今上陛下)と結婚することが決まった時、マスコミを襲った美智子さんブームについて書いた本なのである。畏れ多くも、美智子さんの3サイズを記した雑誌があったこと(およびその数値)も分かる。しかも雑誌により数値が違っていたようだ。マスコミのタブーの変遷がうかがえるかな。

・12月10日(日)  産経新聞インターネットニュースより。

 http://www.sankei.com/life/news/171210/lif1712100019-n1.html
 2017.12.10 11:15
 【フード 食・名店】
 「元祖くじら屋」 刺し身、ベーコン…脂さらりと 反捕鯨国の外国人観光客も

  日本には数百年に及ぶ捕鯨の歴史があり、第二次世界大戦後の食糧難時代には、貴重なタンパク源として鯨肉が脚光を浴びた。その後、商業捕鯨は事実上禁止され、鯨肉が家庭の食卓に上る機会は少なくなったが、それでも、クジラ専門の料理店は全国に10店ほどが営業を続けているという。その一つ、東京都渋谷区道玄坂にある「元祖くじら屋」を訪ねた。(村島有紀)

 ■外国人観光客も

 創業は昭和25年。代表の棚橋清彦さん(52)によると、建設業を営んでいた祖父が捕鯨業者と知り合い、都内初の鯨肉料理専門店として開業した。1、2階で約100席。インバウンドの影響か、外国人観光客の姿も多い。

 「面白いから食べてみたいという人が多く、(反捕鯨国として知られる)ニュージーランドや豪州の方もいる。普通の和食の店だと思って入り、クジラと知って『NO!』と出ていく人もいます」と棚橋さん。

 一品料理から定食、コース料理まで幅広くそろう。捕鯨全盛期の昭和30年代は鯨肉は財布に優しい庶民の料理。「学生時代によく食べたと、懐かしんで訪れる年配の方も多い」という。

 ■一頭全部が食材

 現在、同店で扱うのは、ミンククジラとイワシクジラ。昭和63年に商業捕鯨が事実上禁止され、水産庁の管理のもとで、北西太平洋と南極海でクジラの生態を調査。その副産物として流通する鯨肉を仕入れている。昭和から平成にかけての捕鯨環境の激変で、多くの店が鯨肉を諦めたが、同店は粘り強く営業を継続。味付けの改良や、カレー風味の「鯨肉インド焼き」など新メニューの開発に取り組む。

 クジラは、油を抜いた「本皮」、高タンパク低カロリーの「赤肉」はもちろん、舌や内臓まで一頭全部が食材になる。赤身には「バレニン」と呼ばれる抗疲労成分(アミノ酸)が多く含まれる。「尾の身」(尻尾に近い部分の肉)は最も美味な部位だ。尾の身は赤身と比べるとサシ(脂肪)が入っているためか色がやや薄くピンク色。マグロに例えるとトロに当たる希少部位だが、淡泊でくせのない味わいだ。

 「鯨肉は究極のジビエ料理。できるだけ素材の味を生かせるよう、一番良い状態で出している」と棚橋さん。

 また、ベーコンは「うねす(畝須)」と呼ばれるクジラの下あごからおなかにかけての縦すじがある部分を塩漬けにしてボイルしたもの。脂の融点は牛や豚と比べて低く16~20度ほど。室温でもとろりと脂が溶け出す。口に入れると、さらりとした脂が広がった。

  江戸から続く文化

 元祖くじら屋の廊下には、江戸時代の雄壮な古式捕鯨の様子を再現した版画が飾られている。

 日本捕鯨協会によると、12世紀には手銛(もり)による捕鯨の記録があり、江戸時代の慶長11(1606)年には和歌山県太地町(たいじちょう)で「鯨組」による組織的な捕鯨が始まり、現在も湾内に小型のクジラを追い込む伝統的な「追い込み漁」が続けられている。

 突き留めた鯨や眠る峰の月 蕪村

 鯨肉販売業「共同販売」(東京都千代田区)の大川敏弘さん(49)は「江戸時代から、鯨肉は日本人のお腹を満たした。戦後の食糧難の時代には子供たちのタンパク源として給食のおかずの代表格だった。食べたことがない若い人にも、食文化としての鯨肉料理を知ってほしい」と話している。

     ◇

 ■元祖くじら屋

 東京都渋谷区道玄坂2の29の22。鯨からあげ定食、鯨天ぷら定食が1680円、鯨お刺身定食1780円、鯨チーズかつ定食、鯨ステーキ定食が1880円(いずれも税別。ディナー価格)。営業は平日ランチ午前11時半~午後2時、ディナー午後5時~10時半(金のみ11時半)。土日祝は午前11時半~午後10時半(土のみ11時半)。フリーダイヤル0120・880・920。

当サイト制作者による補足: 平日のランチには1000円の日替定食もあります。〕


・12月20日(水)  産経新聞インターネットニュースより。 

 http://www.sankei.com/politics/news/171220/plt1712200037-n1.html
 2017.12.20 18:42
 安倍晋三首相が岩手県訪問 第4次政権発足後初

 安倍晋三首相は20日、東日本大震災からの復興状況を確認するため、岩手県を訪問した。首相の被災地訪問は36回目で、第4次政権発足後では初めて。

 首相は、復興状況を定点観測する活動に取り組んでいる県立大槌高校(大槌町)を訪れ、懇談した生徒たちに「今後の震災や津波に対応する上で必ず生きてくる」と語り、活動をたたえた。このほか、山田町で津波被害を乗り越え、今年7月に一般公開を再開した「鯨と海の科学館」を視察し、釜石市の釜石地方森林組合から地元産木材で製作した家具について説明を受けた。

 (以下、略)


・12月25日(月)  毎日新聞インターネットニュースより。

 https://mainichi.jp/articles/20171225/ddl/k35/070/249000c
 支局長評論 下関 鯨と新年 /山口
 毎日新聞2017年12月25日 地方版

 捕鯨基地がある下関では年末、鯨を食べる伝統がある。そこには、新しい年が大きな幸せに包まれたいい年になるように願いが込められている。

 下関市綾羅木にある市立考古博物館に弥生時代の骨が残るように、鯨は古くから食べられ、江戸時代になると捕鯨が活発になった。「下関くじら食文化を守る会」の和仁皓明(こうめい)会長や長門市の「くじら資料館」によると、明治期まで同市通(かよい)の通鯨組などが仙崎湾に入ってきた鯨を見つけ、船で近寄り、捕まえてきた。和仁会長は「鯨はいろいろな部位が食べられ『1頭捕れば七浦が潤う』とまで言われた」と話す。冬の時期、南下してきた鯨を捕獲すれば大きな糧になる。現れると縁起がいいため、海の神様として知られるエビス信仰と結びつき、鯨をエビス様の再来と考えたという。また、明治まで伊勢神宮の参拝に全国から人を集めてきた御師(おんし)は「今年も来てください」と呼びかける際に和歌山県太地町で捕れた鯨の塩漬けを持参したとされる。和仁会長は「冬の季節、エビス信仰や伊勢神宮参拝などが結びつき、大きな恵みの鯨が来てくれることを望むことが、新しい年への希望となった」と説明してくれた。

 鯨を年末に食べる伝統は、下関のさまざまな場所に残る。乃木神社の宝物館にある乃木希典将軍の母寿子(ひさこ)が記した正月料理の献立にも、鯨汁が出てくる。また、亀山八幡宮では、12月30日の大祓式(おおはらいしき)の後、鯨を食べて新しい年を迎える。

 太陽暦が採用される前は、季節の変わり目は2月の節分だった。このため、節分に合わせて鯨を食べていた。食文化を守る会では市教育委員会に働きかけ、市も伝統を残そうと毎年2月3日ごろに小中学校の給食に鯨を出している。下関と長門市による取り組みだ。

 平成29年もあとわずか。新しい年が皆さんにとって大きな幸せの年になることを願います。<下関・反田昌平>     〔下関版〕

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3月21日(水・祝)午後3時開演
りゅーとぴあコンサートホール
Nパックメイト価格 1800円 全席自由 3階Jブロック

 この日はオルガンリサイタルに出かけました。
 山本真希さんのオルガンリサイタルも久しぶりのような気がします。
 りゅーとぴあができて20年経ち、楽器のオーバーホールが行われたそうで、音色も鮮烈になったかなという期待を持って行きました。 
 ちなみに、この日の演奏はCD制作用に録音されたそうです。

 色々あって、会場には開演ぎりぎりの時間に着いたのですが、ホールに入ってびっくり、客が沢山入っています。
 りゅーとぴあのオルガンリサイタルというと、本格的なプログラムでやるとだいたい200~300人程度の入りなんですが、今回は少なくとも500人は入っていました。祝日の午後だからか、或いはバッハだからか、ともかく客の入りがいいのは慶賀すべきこと。
 いつもなら3階正面のIブロックにすわるのですが、客がよく入っていて左右両方とも空いている席を見つけるのが難しそうだったので、Jブロックにしました。

 J・J・フローベルガー: トッカータト長調 FbWV103
 G・フレスコバルディ: トッカータ集第2巻よりトッカータ第1番
 J・P・スヴェーリンク: 半音階的幻想曲
 G・ベーム: 天にまします我らの父よ
 D・ブクステフーデ: 前奏曲ホ短調BuxWV142
 バッハ: オルガン小曲集より”おお人よ、汝の罪の大いなるを嘆け”BWV622
      トッカータとフーガ ニ短調BWV565
 (休憩)
 P・d・アラウホ: パッターリャ
 F・C・d・アラウホ: 2声の上声部による分割ストップのティエント第53番
 バッハ: 小フーガト短調BWV578
      幻想曲ト長調BWV572
 A・レゾン: オルガン曲集第1巻「第2旋法によるミサ曲」よりパッサカリアによるトリオ
 バッハ: パッサカリア ハ短調BWV582
 (アンコール)
 バッハ: オルガン小曲集より”われ悩みのきわみにありて”BWV641

 スクリーンで曲の解説が出るので、とても分かりやすい音楽会になっています。
 今回の演奏会では、バッハ自身のオルガン音楽、およびバッハに影響を与えたオルガン音楽がとりあげられました。

 前半はドイツ、ネーデルランド、イタリアからの影響。
 ここでは、やはりスヴェーリンクとブクステフーデの曲が充実していて聴き応えがありました。スヴェーリンクは、以前そのオルガン作品集のCDをネットで買おうとして、品切れで入手し損ねた過去があるのですが、今回の演奏を聴くと、やはり買っておくべきかなという気持ちになります。
 ブクステフーデは、若いバッハが数百キロを歩いて聴きに行った北ドイツ・オルガン音楽の大家であることは、多少ともバッハのオルガン音楽に馴染んだ人なら知っていることでしょうが、やはり作品そのものに力があるんですよね。

 後半はスペインやフランスのオルガン音楽からの流れが捉えられていました。
 フランスの作曲家レゾンのパッサカリアをもとに作られたバッハのパッサカリアが、とても充実した作品で、演奏の迫力も満点で、大満足。

 今回の演奏会の続編は11月10日(土)まで待たなければならないようですが、その前に、りゅーとぴあの過去の専属オルガニストである吉田恵さんと和田純子さんを迎えてのジョイントコンサートが7月28日(土)にあるとのこと。これは楽しみですね。   

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評価 ★★★★☆

 出たばかりの新書。著者は1975年生まれ、東大文卒、フランス国立リール第三大学博士課程修了、上智大准教授、専攻は宗教学・フランス語圏地域研究。

 フランスの政教分離の原則がライシテと呼ばれる。昨今、この原理はイスラム系の少女が学校内でスカーフを着用することを禁じる規定の是非とからめて論じられる場合が多い。

 しかしライシテの解釈については実はきわめて多様な現実があり、歴史的に見ても不変のまま現代に至っているわけでもなく、法的にも(裁判所の判決でも)必ずしも統一がとれているとは言えないという。本書は、ライシテをめぐるきわめて複雑な現実や、識者の見解を紹介した本である。

 冒頭、ふたつの地方自治体の対照的な例が挙げられている。
 まず、結婚式に宗教性を持ち込ませない自治体。教会などでの結婚式はあくまでオプションであり、役所での民事婚のみが法的に有効なのだが、役所での儀式の際に宗教的な発言があったら即刻中止となるという。これ以外に市の施設を借用する場合でも、宗教的な要素は一切入ってはならないことになっている。
 他方、別の地方自治体では、市の施設を使用する場合にそのような制限はない。また、学校の給食では宗教による食事制限(豚肉の禁止など)に配慮して三種類のメニューが用意されている。
 厳格なライシテと寛容なライシテがあるわけだ。
 またスカーフ問題についても、政治家ごとにさまざまな見解があり、右派だから、左派だからという単純な分け方は困難であるらしい。

 以上の指摘に続く本書の第1章では、20世紀初頭にライシテの原則が成立した時の事情やその後の経過が紹介されている。当初は政治への宗教の介入を防ぐという目的があったこの原則も、時代が進んで、かつてのような硬直的な価値観の母胎としての宗教ではなく、不安定な状況下で人々の精神の拠り所を与える宗教という側面が認識されるようになると、ライシテの原則にもともと含まれていた信教の自由という側面に光が当てられるようになってくる。

 とはいえ、もともとフランスにおける宗教とはカトリックのことであり、プロテスタントやユダヤ教はもとより、イスラムとなると本来的にライシテの原則が想定していた様々な前提の中に収まらない場合が出てくる。「カト=ライシテ」と呼ばれる行き方は、カトリック的な儀式や慣習を、(例えばクリスマスの展示などを)宗教ではなく伝統や文化だとして容認する態度のことを言う。ただし裁判ではクリスマスの展示物が宗教なのか文化なのかについて、裁判所により判断が割れているようだ。また、ライシテの原則が公的生活のどこまでに適用されるべきかについても議論は色々ある。義務教育の場である公立学校が公的生活であるということには誰も異存がないが、私企業はどうか。私企業でも様々な宗教を奉じる人がいる以上、そこでの業務は公的なものだから、ライシテを厳格に適用すべきだ、という見解が増えているらしい。

 第2章では、プロテスタント差別に抗議したヴォルテールの『寛容論』とドレフュス事件が取り上げられている。一見するとマイナーな宗教を擁護したかに見えるヴォルテールだが、他方でユダヤ人批判も行っているという指摘が興味深い。
 また、ドレフュス事件とは、ユダヤ人がフランス社会に同化していった中で、それ以前はあくまでユダヤ教という宗教の問題として存在していた反ユダヤ主義が、新たに人種理論に支えられて「ユダヤ人はキリスト教に改宗してもフランスに同化してもやはり異質なのだ」という新たな形での反ユダヤ主義に変質した過程の中で起こったという指摘も貴重。
 さらに、ヴォルテールやゾラは自分の主張の正しさを確信しつつ、反プロテスタント主義や反ユダヤ主義と戦うことができたが、サルトルとなると、一方でイスラエルの建国を支持しつつ、しかしイスラエルによって土地を奪われたパレスチナ難民の立場にも理解を示すという矛盾に置かれてしまい、ここにおいて「普遍的知識人」の時代は終わりを告げた、としているのもなかなか示唆的だろう(119-121ページ)。

 第2章の後半ではスカーフ問題が取り上げられている。この問題が起こった時、フェミニストとして知られるバテンダールを含む知識人たちが声明を発表した。スカーフを絶対に認めるべきではないというのである。彼らに言わせればスカーフは女性差別のしるしでしかなく、それを認めることは人権や理性に対する冒涜となるのである。
 しかしその直後に、この声明を批判して別の知識人による声明も出ていた。こちらは、スカーフを認めないというのは排除の論理であり、平等の原理に違反しているとする。
 また、世論ではスカーフを認めないとする意見が多数だが、学校の現場でイスラム系少女たちと一緒に学んでいる生徒たちは逆で、スカーフを認めるべきという見解が多数だという。

 さらに興味深いのは、1960年頃のアルジェリア独立戦争時に、独立反対陣営のフランス女性が、ムスリム女性を「文明」に導くとしてスカーフを取り外させたという事実があったという指摘である。ここにおいてフェミニズムはパターナリズム(父権主義)に反転していると著者は述べる(137-138ページ)。

 第3章では、スカーフをかぶるイスラム女性とかぶらないイスラム女性の見解が紹介されている。いずれもそれなりの教育を受けた人たちで、かぶる理由もかぶらない理由も様々であり、とても単純な二分法では行かないことがよく分かる。

 終章ではカナダのフランス語圏、そして日本の例が挙げられているが、日本についての言及はページ数が少なすぎて不十分。やるなら別に機会をもうけてやったほうがいい。

 ともあれ本書は、ライシテというものが歴史的に見ても現代の適用のされ方を見ても実に多様なものであり、またイスラム女性やイスラム知識人のこの点に関する意見も様々で、そうした多様性の中で模索が続けられているという実態がよく分かる良書である。現代フランスを考える際には必読書と言えるだろう。 

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今年映画館で見た53本目の映画
鑑賞日 3月15日
新宿K'sシネマ
評価 ★★★☆

 ソ連映画、アレクセイ・トルストイ原作、ヤーコフ・プロタザノフ監督作品、1924年、84分、モノクロ・サイレント。

 新宿のK'sシネマでは「ロシアン・カルト映画祭」をやっていた。時間の関係でこれ1本だけ見てみた。
 ロシア革命でソ連になったばかりの頃の作品で、ソ連映画史上初のSF作品だそうである。

 若い研究者が夢の中で火星旅行をするという話。火星には火星人が住んでおり、地球から飛来した地球人の助力を得て女王アリエータ(となっていたけれど、老いた王が君臨しているから王女じゃないんだろうか)が革命を起こそうとする、というのが一方の筋。

 他方では研究者は若妻の不倫を疑っており、夢の中では妻を殺して逃亡せざるを得なくなって火星旅行に、という設定になっている。夢と現実の交錯がよくできている。

 アエリータ役の女優(ユーリア・ソーンツェワ)が、獰猛な色気、とでも表現するしかないような独特な魅力を放っている。

 映画の原点を見るような気持ちになれる作品。ハリウッド大手作品や最近の邦画に食傷気味の方にはお薦め。

 図書の整理中ですが、長らく雑草社から出ていたまんが専門誌『ぱふ』が数十冊あります。ただし80年代前半のもので、一部、その前身である『だっくす』、および分離独立(ケンカ別れ?)してできた『ふゅーじょんぷろだくと』とその後継誌『Comic Box』を含みます。

 まとめて買ってくれませんか? ただし個人ではなく、きちんと保管して一般にも公開する機能を持った図書館もしくはそれに類した団体に限ります。

 実は新潟大学図書館に寄贈しようとしたのですが、「書架狭隘」を理由に断られました。所蔵しておけば、大学図書館でこれを所有しているところはほとんどないから新潟大ならではの貴重な蔵書になると言ってきかせたんですが、分からなかったのか、分かってもどうにもならないのか、とにかく断られたわけです。

 登録せずに学内の演習室などに置いてもらうという手もありますが、借りても返さないズボラな学生がいるなどして散逸してしまう可能性が高いので、やはりきちんと登録して保管してくれるところがいいと考えました。

 なので、価値を理解して購入してくれる図書館か類似の団体を求めます。その気のある場合はこのブログの最上部に書いてあるアドレスにメールで連絡を下さい。

【追記 3月29日】 雑誌の引取先が決まりましたので、買取先の募集は打ち切りといたします。

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今年映画館で見た52本目の映画
鑑賞日 3月15日
ヒューマントラストシネマ有楽町
評価 ★★★★

 アメリカ映画、ピーター・ランデズマン監督作品、103分、原題は"MARK FELT THE MAN WHO BROUGHT DOWN THE WHITE HOUSE"(ホワイトハウスを崩壊させた男フェルトをマークせよ)。

 実話をもとにした映画。ウォーターゲート事件でニクソン大統領は失脚したが、そもそもの発端は大統領が民主党の建物を監視させ、それをマスコミに暴かれたことにあった。

 大統領の不法な策謀はFBIにも或る程度感知されていた。ちょうど長らくFBI長官の座に君臨していたフーヴァーが急死した頃である。久しく副長官としてフーヴァーを補佐していたのがフェルト(リーアム・ニーソン)で、フェルトがそのままFBI長官に昇格するかと思われたが、ニクソン大統領はそれまでFBIと関わりのなかった元軍人を新長官として送り込んでくる。新長官はFBIがニクソンの身辺を探ることに消極的だった。

 そうした中、副長官のフェルトは、あえて情報をマスコミにリークすることで大統領の動きを掣肘しようと考え・・・

 間もなく公開される『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』がヴェトナム戦争に際して米国マスコミが政府の極秘情報をあばいたという実話をもとに、主としてマスコミ側に焦点を当てて描いている(らしい)のに対して、こちらは情報をマスコミにリークする捜査機関の人物に焦点を当てているところが売りである。

 主役のリーアム・ニーソンが微妙に陰影に富む表情を見せていてすばらしい。脚本もよくできており、緊迫感に満ちた佳作だと思う。

 東京では2月24日の封切で現在も公開中だが、新潟市では例のごとく今のところ上映予定が入っていない。良心的な映画館の英断を望む。

 新潟大学図書館に寄贈する新書のリスト。これで4回目となる。
 今回はちくま新書(ちくまプリマー新書を含む)と角川新書(角川oneテーマ21を含む)である。前回までと同じように、新潟大学にはないか、少なくとも新潟大学の中央図書館に誰でもすぐ読める形では備えていない本ばかり。

【ちくま新書】
先崎彰容『ナショナリズムの復権』
加藤久和『世代間格差 人口減少社会を問いなおす』
塚田孝『大坂の非人 乞食・四天王寺・転びキリシタン』
岩渕潤子『ヴァティカンの正体 究極のグローバル・メディア』
小林美希『ルポ母子家庭』
仲正昌樹『現代思想の名著30』
船木亨『現代思想史入門』
小林章夫『賭けとイギリス人』
大久保一彦『寿司屋のカラクリ』
鈴木邦男『右翼は言論の敵か』
清水義範『早わかり世界の文学 パスティーシュ読書術』
橋本健二『階級都市 格差が街を侵食する』
三宅孝太郎『「悪女」はこうして生まれた』
藤田英典『義務教育を問いなおす』
西部邁『保守思想のための39章』
納富信留『哲学者の誕生 ソクラテスをめぐる人々』
竹下節子『キリスト教の真実 西洋近代をもたらした宗教思想』
土井健司『キリスト教を問いなおす』
小阪修平『思想としての全共闘世代』
金子郁容『学校評価 情報共有のデザインとツール』
山脇修『〈狐〉が選んだ入門書』
森谷公俊『王妃オリュンピアス アレクサンドロス大王の母』
小浜逸郎『大人への条件』
石原千秋『大学受験のための小説講義』
石原千秋『教養としての大学受験国語』
石原千秋『国語教科書の中の日本』
高田里惠子『グロテスクな教養』
高田里惠子『女子・結婚・男選び』
小谷野敦『帰ってきたもてない男 女性嫌悪を超えて』
小谷野敦『性と愛の日本語講座』
赤木昭男『ハリウッドはなぜ強いか』
長山靖生『若者はなぜ「決められない」か』
阿満利麿『日本人はなぜ無宗教なのか』      
山口誠『ニッポンの海外旅行 若者と観光メディアの50年史』
堀江珠喜『「人妻」の研究』
山田雄一郞『英語教育はなぜ間違うのか』
日垣隆『売文生活』
田中宏巳『BC級戦犯』
三輪裕範『アメリカのパワー・エリート』
市川伸一『学力低下論争』
百川敬仁『日本のエロティシズム』
岡田哲『ラーメンの誕生』
切通理作『宮崎駿の〈世界〉』
櫻田淳『国家の役割とは何か』
原田武夫『劇場政治を超えて ドイツと日本』
諏訪哲二『学校はなぜ壊れたか』
八木秀次『反「人権」宣言』
上田浩二『ウィーン 「よそもの」がつくった都市』
桜井哲夫『不良少年』
松浦寛『ユダヤ陰謀説の正体』
今村仁司『群衆 モンスターの誕生』
竹内信夫『空海入門』
細川亮一『ハイデガー入門』
上原誠一郎『ビールを愉しむ』
田之倉稔『ナポリ バロック都市の興亡』
武田徹『戦争報道』
大澤真幸『戦後の思想空間』
山内昶『ジッドの秘められた愛と性』
中山元『正義論の名著』
宮崎学『ヤクザと日本人 近代の無頼』
宮川裕章『フランス現代史 隠された記憶』
石川結貴『ルポ 居所不明児童』
布施英利『マンガを解剖する』
今尾恵介『路面電車 未来型都市交通への提言』

【ちくまプリマー新書】
石原千秋『ケータイ小説は文学か』
張競『海を越える日本文学』


【角川oneテーマ21】【角川SSC新書】
日高敏隆『動物の言い分人間の言い分』
犀川博正『警察官の現場 ノンキャリ警察官という生き方』
皇室担当記者OB編『皇室報道の舞台裏』
渡辺誠『もしも宮中晩餐会に招かれたら 至高のマナー学』
田辺寿夫+根本敬『ビルマ軍事政権とアウンサンスーチー』
おもしろニュース研究会『20世紀B級ニュース』
藤白鈴木会『日本に「鈴木」はなぜ多い?』
門倉貴史『「夜のオンナ」はいくら稼ぐか?』
魚住昭『官僚とメディア』
ケンジ・ステファン・スズキ『消費税25%で世界一幸せな国デンマーク』
遠藤功『結論を言おう、日本人にMBAはいらない』

  テーマの広さは相変わらず。古代ギリシア哲学から、現代日本のアニメやグルメ、貧困問題に至るまで多様。

  阿満利麿『日本人はなぜ無宗教なのか』なんかは300以上の大学に入っているのに新潟大には入っていなかった。切通理作『宮崎駿の〈世界〉』も、昨今のサブカルブームにもかかわらず、そして新大にはサブカルをやる学科もあるし、新潟市もマンガやアニメで売ってます、ということになっているのに、入っていなかった。
  
   遠藤功『結論を言おう、日本人にMBAはいらない』などは、「日本人の大学院進学率を高めよ」とバカの一つ覚えで叫んでいる連中には必読書だぜ。これ読まないで大学院問題に発言している奴は、クビ!

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今年映画館で見た51本目の映画
鑑賞日 3月15日
シネスイッチ銀座
評価 ★★★

 アメリカ映画、マーク・ペリントン監督作品、108分、原題は"THE LAST WORD"。

 一方のヒロインは若い女性アン(アマンダ・セイフライド)で、地元新聞社でおくやみ記事を書いている。
 そこにやってきたのがもう一方のヒロインであるハリエット(シャーリー・マクレーン)。広告業界で成功した彼女は、老いて余命も長くないと考え、あらかじめ自分に都合のいいようなおくやみ記事を書いてもらおうと考えたのだ。
 だがアンがハリエットの関係者に取材しても、誰も彼女のことをよく言わない。
 そこで都合のいいおくやみ記事を書いてもらうために、ハリエットは動き始める・・・

 最初は、ビジネスで大成功を収めているけれど他人には嫌われている老婦人が、若い記者の忠告を容れて善根を積んでいく話かと思ったが、実際には「嫌われている女性起業家は案外いい人でした」というような展開になる。

 それはそれでいいのだが、展開がどうもご都合主義で微温的。彼女を嫌っている人間は要するに悪い人でした、ということなので。ハリウッド娯楽映画の限界が見えてくる作品かな。子役(黒人の女の子・・・政治的正しさを狙っていることが見え見え)の使い方も通り一遍。ハリエットと実娘との関係だけは、曖昧なところに着地点があるので、まずまず。

 東京では2月24日の封切で現在も上映中。新潟市での上映予定は今のところない。

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3月14日(水)午後7時開演
新国立劇場オペラパレス
3階1列9番 Bランク 12960円、パンフ 1000円

 ドニゼッティのオペラ『愛の妙薬』公演のためにまたまた上京。
 1月に2回オペラのために上京するというのは贅沢だが、定年退職記念ということで許してもらおう。

 座席は先週『ホフマン物語』を聴いた席よりほんの少し中央寄り。実はチケットは2回分同時に確保したので、1週間遅いこちらの公演のほうがほんのちょっといい席が残っていたというわけ。ただし、チケット料金はこちらのほうが少し高い。どちらもBランク席で、またいずれも新作ではなく以前上演されたものの再演だから条件は同じはずだが、メインになる役に外国人を多く起用しているからだろうか。

 アディーナ: ルクレツィア・ドレイ
 ネモリーノ: サイミール・ピルグ
 ベルコーレ: 大沼徹
 ドゥルカマーラ: レナート・ジローラミ
 ジャンネッタ: 吉原圭子

 演出: チェーザレ・リエヴィ
 指揮: フレデリック・シャスラン
 合唱指揮: 冨平恭平
 新国立劇場合唱団
 東京フィルハーモニー交響楽団

 パンフレットの内容が相変わらず充実している。
 このオペラは『ホフマン物語』とは異なり、戦前は外来歌劇団での上演がなかったようだ。いわゆる浅草オペラでは取り上げられているが、どの程度ちゃんとやったかは不明。外来歌劇団による最初のちゃんとした上演は1959年、イタリア歌劇団によるというから、早いとは言えない。日本人による完全上演はその10年後、藤原歌劇団による。

 このオペラで有名なアリアと言ったら、後半でネモリーノが歌う「人知れぬ涙」であるわけだが、これについて辻昌宏・明大教授が「場違いなアリア?」という一文を寄せていて、興味深かった。このオペラはそれまで喜劇調で進んできたのに、ここに来て突然メランコリーそのもののアリアが歌われるからだ。そのため、最初台本作家のフェリーチェ・ロマーニはこの曲を入れることに反対したという。ドニゼッティはそれを押し切って入れたわけだけど、最初の公演での客の反応は第一幕のほうが良好で、このアリアが出てくる第二幕はさほどでもなかったそうである。辻教授によると、この曲によってロマン主義的世界観がようやくイタリアのオペラにも入り込んできたのだという。

 さて、本上演だが、「妙薬」にあたるイタリア語の綴り(アルファベット)を大きなオブジェにして、また『愛の妙薬』というタイトルの本をやはり大小のオブジェにして舞台に置き、その中で歌手たちが歌い演技をするという趣向。
 またネモリーノは赤い髪(恋に燃えているから?)、アディーナは白い髪(ネモリーノに冷淡だから?)、  インチキ薬売りのドゥルカマーラは緑色の髪、アディーナに言い寄る軍曹ベルコーレは紫色の髪と、主役たちが髪の色によっても見分けられるようになっている。
  さらに、ドゥルカマーラは飛行機でやってくるという現代的な演出でもある。

 主役ではアディーナ役とネモリーノ役は文句なし。ベルコーレ役はちょっと落ちる感じ。ドゥルカマーラは歌もさることながら演技の楽しさで受けていた。

 全体として喜劇オペラの魅力を堪能できるようになっていたけれど、でも音楽的な聴かせどころが多いという点では先週の『ホフマン物語』のほうが上かな、という気がした。

 3月14日、先週に続いてふたたび上京。今回も主目的はオペラだけど、ついでに映画もというので、有楽町で1本見てから(昨日掲載)、渋谷のシネマヴェーラで「名脇列伝Ⅲ ピラニア軍団・役者稼業」を鑑賞。2本立てなのでまとめて紹介する。

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三池監獄 凶悪犯
今年映画館で見た49本目の映画
鑑賞日 3月14日
シネマヴェーラ渋谷
評価 ★★☆

 小沢茂弘監督作品、89分、1973年。

 明治三十年代の三池炭鉱。そこでは徒刑囚が石炭掘りの仕事をさせられており、しかもしばしば危険な場所で重労働を強いられていた。彼らのヌシ的な存在が郡司(宍戸錠)だった。ところがそこに北海道の監獄から、凶悪犯として名高い友時(鶴田浩二)が転出してきたことから・・・

 囚人たちの刑務所内での勢力争い、および炭鉱内でのきつい労働の様子が描かれる一方で、彼らを搾取している炭鉱経営者や、そこから利益を得て囚人を苛酷に取り締まっている刑務官のあくどい様子も目を惹く。

 ただし、途中から入ってきた凶悪犯の鶴田浩二が何かとてつもないことをやりそうで、意外におとなしいのが筋書き上の難点。

 テレビドラマ『ウルトラセブン』のアンヌ隊員として人気をはくしたひし美ゆり子が、短時間ながら登場している。やっぱり魅力的ですね。彼女の登場時間を長くして、鶴田浩二に大暴れさせれば、もう少しマシな作品になったんじゃないかな。

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極道社長
今年映画館で見た50本目の映画
鑑賞日 3月14日
シネマヴェーラ渋谷
評価 ★☆

 中島貞夫監督作品、82分、1975年。

 ちんぴらが葬儀屋だとか汲み取り屋だとかの商売をやっていたら、タイトルの極道社長(梅宮辰夫)が出てきて上前をはねてしまうが、やがてもっと上手の男が登場して・・・

 率直に言ってつまらなかった。安っぽいと言うほうが的確かも知れない。私はこの手の、ちんぴらが出てくるお手軽な喜劇では全然笑えないタチなので。脚本が薄いというか、低レベル志向というか、こういう邦画は国辱もの(?)じゃないか。

 先週の上京時に比べると、この日のシネマヴェーラの上映作品は2本ともイマイチでした。残念。

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 3月4日(日)に新潟市民芸術文化会館(りゅーとぴあ)で行われた第106回東京交響楽団新潟定期演奏会について、私の書いたレビュー「一流と共演、贅沢な響き」が一昨日(3月20日)、新潟日報の文化欄(第13面)に掲載されました。

 なお、プログラムと演奏者はこちらに記してあります。

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今年映画館で見た48本目の映画
鑑賞日 3月14日
ヒューマントラストシネマ有楽町
評価 ★★★

 英国映画、ギリーズ・マッキノン監督作品、98分、原題は"WHISKY GALORE"。

 第二次世界大戦中、英国はスコットランドの北にある小さな島が舞台。
 ここで郵便局長と電話交換局長を兼ねている初老の男ジョセフ・マクルーン(グレゴール・フィッシャー)。彼は妻に先立たれて、娘二人(エリー・ケンドリック、ナオミ・バトリック)を男手一つで育ててきた。しかしその娘たちも適齢期で、それぞれ相手も決まっている。

 戦時中ながら辺鄙な小島のことで戦争による直接の被害はないが、物資が乏しくなってきて、島の住民にとって欠かせない飲物であるウイスキーが切れてしまう。ウイスキーが飲めないと島の住民の活動には色々と支障が出るのである。

 そんな折も折、アメリカ行きの貨物船が島の近くで座礁してしまう。島の人々は乗組員を救出するが、積み荷の中に大量のウイスキーが含まれていると知って・・・

 父と娘の関係を軸に、戦時中ながらのどかな島の暮らしぶりや、住民と軍人のすれ違い、偶然からウイスキーを大量に手に入れてそして・・・という物語がゆっくりと展開される。

 そもそもが実話だそうである。そういう予備知識を噛みしめながら鑑賞すると、戦争中ながら人間喜劇が演じられる島が、ユートピアのように思えなくもない。傑作と言うほどではないけれど、後味のいい作品だ。

 東京では2月17日の封切で、明日(3/23)までは上映している。新潟市ではシネ・ウインドにて5月中旬から公開予定。

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 いただいたので紹介します。

 群像社の「ユーラシア文庫」の1冊として出た書物で、むかしはユーゴの一部であったスロヴェニアを紹介したものです。6世紀にまでさかのぼって歴史をたどったあと、経済や政治体制、そして現代日本との関係にまで触れています。
 専門書ではなく一般人向けに書かれているので、誰でも気軽に手に取れる本だと言えましょう。

 著者の小山洋司氏は1943年生まれで長らく新潟大学経済学部教授を務めました。東欧経済がご専門で、現在は名誉教授ですが、現役時代と変わらず研究に打ち込んでおられるとか。氏は新潟県長岡市のご出身で、最初は高知大学に勤務。その後、故郷にある新潟大学の教養部に移籍、さらに数年後に経済学部勤務となりました。当ブログ制作者とは教養部時代の同僚ということになります。

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