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評価 ★★★☆

 出たばかりの新書。著者は1932年生まれ、東大国史学科卒および同大学院修了、東大教授などを勤めた日本近代史学者。本書はその回想録である。

 まず著者の生い立ちが書かれているが、ここが興味深い。東京生まれで東大および東大大学院を出て東大教授という経歴からすると、山の手で中流上層家庭に育ったのかと思いたくなるが、必ずしもそうではないらしい。父は宮城県南部の農家の次男坊として生まれ、苦学をして中学(旧制)の教員免状をとり東京で女学校(現在の高校)教員となり、戦後すぐの頃は秋田中学(旧制)で教員をしていた。著者は戦時中に十歳前後という年齢であったため、父の実家に疎開して宮城県の中学(旧制)に入っており、その後父の秋田行きに合わせて秋田中学(現在の秋田高校)に転校した。この頃から父の書棚にあった平田篤胤を読んで日本古代史に興味を持つようになる。とはいえ戦争直後の物資のない時代で、秋田では苦労が多かったという。旧制秋田中学は途中で新制の高校になり、著者はそこから東大の文科二類(現在の文科三類)に入学。

 著者は東大に入学して駒場寮の歴史研究会に入る。歴史研究会は当時は穏健なサークルだったが、ほどなく歴史学研究会(歴研)と改名して急速に左傾化していった。著者も講座派マルクス主義を熱心に勉強し、その過程で古代史より近代史のほうに惹かれるようになっていく。そして日本共産党に入り、非合法的な活動をして逮捕されたこともあったとか。けれども昭和30(1955)年頃から次第に共産党への疑問を抱き始め、その年の六全協で共産党を見限り、翌1956年のハンガリー動乱で完全に共産党から足を洗うこととなった。
 
 そしてようやく腰を入れて歴史の勉強を始めるのだが、それでも最初は共産党講座派の思考が抜けなくて苦労したという。当時の学界はマルクス主義の発展段階説と階級闘争史観が前提になっていたが、それでは史料がまったく読めないことが勉強するにつれて分かってくる。しかし講座派に代わる方法論がなかなか見つからなかったのだという(10ページ)。私はここを読んで、歴史学というものの持つ宿命的なイデオロギー性を改めて痛感させられた。

 著者はそういうわけで日本近代史を専門にしたのだが、当時は近代史は学問と思われておらず、そもそもその頃に下村冨士男が名大から東大に移ってくるまでは近代史の教授がいなかった。下村は反共で知られていたため、赴任には反対の声もあったそうだ。また他大学の近代史教員も大江志乃夫など歴研系ばかりで、だから修士課程を終えても就職口があるとは思っていなかったという。

 六十年安保の時は、共産党からは離れていたものの付き合いでデモには行き、樺美智子の死を知って彼女の合同慰霊祭を開いたという。ただし日共系と反日共系の対立があって苦労したようだ。

 修士課程修了後、著者は東大社研の助手となり、本格的に昭和史の勉強を始めたが、そもそも昭和史には信頼できる史料が存在しない状態だったため、著者みずからが昭和史の要人の史料を集めて整理する作業を行うようになっていく。著者の学者としての仕事は、そうした史料収集整理が少なからぬ部分を占めており、本書でもそうした作業やそれに伴う苦労が多く語られている。

 昭和38(1963)年、著者は何人かの若手研究者と一緒に、歴研の雑誌『歴史学研究』に岩波講座『日本歴史』への批判的な書評を書いたが、これが歴研からの強い反発を招き、以後歴研とは完全に袂を分かつことになる(36-38ページ)。 
 
 歴史学界のこの種のイデオロギー性は、史料収集にお金がかかるのでアジア財団から援助を貰おうとした(1966年)際のエピソードにも現れている。アジア財団は当時の左翼からアメリカ帝国主義の手先と見られていて、東洋史のグループがそこから援助をもらったときも侃々諤々の議論となったという。それでも著者は断固として援助をもらうことにし、これには当初は丸山眞男や石田雄も賛成していたのに、いざとなったら二人は逃げてしまったという(48ページ)。学者の日和見、そして仲間内で浮かないように行動するという習性がよく分かる話だと思った。今の大学はその頃ほどにはイデオロギー性は強くはないけれど、歴史系や教育系にはいまだに当時と変わらない姿勢でやっている人もいるからだ。

 1969年、都立大助教授になっていた著者は『昭和初期政治史研究』を出版する。これが歴研系の学者からはボロクソに批判された。都立大時代の著者は法学部にいたが、これは東大社研助手の5年の任期が終わり、その後行くところがなかったから、岡義武が世話してくれたポストだという。まあ、当時は大学院→助手→専任講師・助教授というルートは今より容易にたどれた時代だから、その頃としては苦労しましたということなのかも知れないが、今の若手学者からすれば羨むべき順風満帆な学者人生に見えるだろう。

 著者は昭和戦前期の日本を「ファシズム」で規定することには無理があるとはっきりと述べている(第5章)。1950年代や60年代ならいざ知らず、今は伊藤氏のこういう主張はむしろ当然のように思われるのだが、現在の東大史学科教授・加藤陽子氏が先祖返りの「日本=ファシズム」論でやっているのはどう見てもおかしい(本ブログのこちらを参照)。歴研の影響力はいまだ消えず、ということなのか。 

 高校の歴史教師の教え方が一貫して左翼的で、東大受験生の答案にもそれが反映しているとも著者は指摘している。ただし、それは受験生が本当にその歴史観を信じているからではなく、教科目としての日本史ではそのように答えなければいけないのだ、と思っているからだという。教員の教え方は、教科書の内容に左右されないようだ、という指摘もある(98-99ページ)。

 史料収集整理の仕事の過程で出会った様々な人物の印象も興味深いが、ここでは一つだけ紹介して、この書評を終えたい。
 皇国史観の代表的論者だった元・東京帝大教授の平泉澄を訪れてインタビューしたときの模様を著者は紹介しているが、「とにかく権威主義で閉口した」と述べている。そして平泉がプロレスのファンだと夫人が話していたので、プロレスのどこがお好きなのかと訊いたところ、「隠忍に隠忍を重ねて、最後にパッと相手を倒す、これは日本精神に通じる」と答えたのだそうだ(155ページ)。私は声を上げて笑ってしまった。