毎日新聞の日曜版は長期連載で同じ人物が書き続けるケースが多く、マンネリになりがちである。よほどエッセイストとしての才能に恵まれた(そして勉強を欠かさない)人間でないと長期連載は質の低下を招くものだから、執筆者は原則1年交代にしたらどうだろうか。

 そういう見解をここに書きたくなるような日曜版エッセイが先日、5月20日に載った。海原純子の「新・心のサプリ」である。

 念のため言っておくと、この人のエッセイはいつもダメというわけではない。時々だが、「なるほど」と思える記事になっている場合もある。しかし、「何、これ?」と言いたくなる場合も少なくない。今回はそういうケースである。

 今回のエッセイで海原純子は、最初はサウジアラビアで女性の権利が拡大していることに触れている。そして、【その当時は全く問題がなく、それが正しい、と言われてきたことが後になって実は大問題だったということはたくさんある。例えば、最近明るみに出た国による強制不妊手術もそのひとつだ】と述べる。

 そして手術が1960年代になっても行われていたことに言及し、【今の社会通念では考えられないような手術も、その当時はむしろ正しいとされてきたことに驚く。また「お上」が決めたことだからと、受けいれざるをえなかったのだろう。「お上」に逆らうことは許されない風潮だったと思う。】

 私はここを読んでびっくりした。理由は二つある。

 まず、「お上」に逆らえない風潮が1960年代にあったのか、ということである。言うまでもなく当時は今よりはるかに政治での左右対立が強かった時代である。政治だけでなく文化でも反体制的な左翼の力は大きかった。60年安保では保守政党がかろうじて自分の意向を通したけれど、国会を囲む「安保反対」のデモ隊の勢力は政府首脳を恐怖させるほどだったのだ。そういう時代をどうして「お上に逆らえない風潮」と簡単に、いや乱暴にひとくくりにできるのか。

 もう一つ、私が驚いたのは、不妊手術が横行したことを「お上に逆らえないから」で片付ける論法である。障害者に対する不妊手術の根柢にあるのは優生学思想だが、優生学思想は決して「お上」の独断だけで浸透するものではなく、医学界の趨勢やものの考え方によって大きな影響を受けたはずだからである。そして、海原純子は「心療内科医」、つまり医者の端くれである以上、この問題について考えるに際しては、自分が所属する医学界の暗部に踏み込む作業が欠かせないはずだからである。

 ところが、医師である海原純子は、こんにち犯罪視されている優生学思想の所業を「お上」の責任ということにして、医学界の責任には触れないままにしてしまった。これほど無責任な文章があるだろうか。仲間内なあなあ主義の典型である。

 要するに海原純子には「考える」能力がないのであろう。知識面からしても、医者であれば優生学についての本の一冊くらい読んでおくべきなのに、それもしていないのだろう。
  
 仮に海原純子が1960年代に生きていたら、そして彼女が産婦人科医だったら、何の疑問も抱かずに不妊手術をやっていたのではないか。この人は、「現在の通念」を疑ってみること自体ができない人だからだ。考えるとは、現在の通念をも疑ってみることなのだが、この人の文章にはそういうものの片鱗もうかがえない。

 毎日新聞さん、こういう不勉強で無責任な人間に、連載記事を書かせないで下さい。

 なお、海原純子のこのエッセイは下記URLから読むことができます。

 https://mainichi.jp/articles/20180520/ddv/010/070/012000c