隗より始めよ・三浦淳のブログ

「新潟大学・三浦淳研究室」の後続ブログです。2018年3月末をもって当ブログ制作者は新潟大学を定年退職いたしました。2019年2月より週休2日制(日・水は原則更新休止)。旧「新潟大学・三浦淳研究室」は以下のURLからごらんいただけます。http://miura.k-server.org/Default.htm 本職はドイツ文学者。最新刊は日本文学と学歴についての著書『「学歴」で読む日本近代文学』(幻冬舎)。そのほか、ドイツ文学の女性像について分かりやすく書いた『夢のようにはかない女の肖像 ――ドイツ文学の中の女たち――』(同学社)、ナチ時代の著名指揮者とノーベル賞作家との対立を論じた訳書『フルトヴェングラーとトーマス・マン ナチズムと芸術家』(アルテスパブリッシング)が発売中。 なお、当ブログへのご意見・ご感想は、メールで以下のアドレスにお願いいたします。 miura(アット)human.niigata-u.ac.jp

2016年05月

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評価 ★★★★

 出たばかりの新書。著者は1967年生まれ、慶応経済卒、早大大学院博士課程中退。現在、参議院議員、表現の自由を守る党党首。東工大、早大、東大の非常勤講師なども務めている。

 本書は、児童ポルノ禁止法によって表現の自由が大きく侵害される恐れがあると訴え、なおかつ著者が国会議員としていかにそれを阻止すべく闘ってきたかを説明した本である。

 冒頭、短い物語が掲げられている。或る少女漫画家が、その作品が児童ポルノ禁止法に抵触するという理由で仕事ができなくなったばかりか、すでに描いた漫画の原稿を所持していることも法律違反になるので破棄せざるを得なくなる。電子媒体で海外サーバに所持しても警察につかまってしまう。また日本のマンガ文化に大きな役割を果たしてきたコミケが開催されなくなてしまう。TPPにより著作権違反が非親告罪(著作権を持つものが訴えなくとも警察につかまる)と化し、二次創作(有名作品のパロディ)が不可能になってしまったためだ。

 上の物語を受けた序文で、著者はこのような物語は日本でも実際に起こる可能性があると言い切っている。実際、お隣の韓国では、日本の児童ポルノ禁止法にあたる法律が、2011年の改正によってアニメ・マンガ・ゲームなど架空の児童を描いた創作物も児童ポルノとして取り締まりの対象になることになり、結果として2012年には2千人あまりが逮捕されてしまったという。これにより韓国のマンガ産業は壊滅的な打撃を受けた。
 日本でも一歩間違えば同様の事態が起こりえるのだ。(現代の日本では、実在の子供を撮影したポルノは違法だが、小説や、架空の児童キャラを描いたマンガやアニメは罪に問われない。)

 以下、日本においては児童ポルノ法の制定およびその法解釈において、著者の努力等もあって、韓国と同様な事態はかろうじて避けられたという事情が説明されている。日本の国会議員にはマンガ好きを自称する人も複数いるけれど(元総理の麻生某など)、表現の自由ということについてあまり深く考えていないことが分かる。昔の手塚マンガは健全で最近のマンガは堕落しているという意味のことを言う議員もいるようなのだが、かつて手塚マンガがどれほどPTAの攻撃にさらされたか、そのことを手塚が自伝でどれほど強調しているか、代議士先生はご存じないらしい。日本のマンガ文化を世界に広めようなどとのたもうなら、その程度の勉強はしてもらいたいものだ。
 
 本書はこのほか、上記の著作権侵害非親告罪化の問題、通信の秘密が電子メールに適用されるかという問題、有害図書と軽減税率の問題、青少年健全育成基本法の問題など、関連する問題とそれに対する著者自身の取り組みについて述べられており、非常に参考になる。

 しかし、本書の中で最も注目べき部分は、第3章「国連からのふたつの「外圧」」であろう。2015年10月、国連人権委員会の特別報告者であるマオド・ド・ブーア=ブキッキオ女史が、記者会見で「日本の女子学生の30%が援助交際を行っている」と発言した。日本が児童売春大国であると世界に誤解されかねないこのトンデモ発言に対して、著者によると政府や外務省は当初は無関心だったというのだから驚きである。

 ここで著者は国連人権委員会の特別報告者がどういう存在なのかを説明しつつ、同時に、日本の表現規制が外圧を根拠としてなされてきた歴史を語っている。2009年に国連女子差別撤廃委員会(上記の人権委員会とは別)から「女性に対する強姦や性暴力を内容とするテレビゲームやマンガの販売を禁止する」よう勧告を受けているのである。2014年に日本が児童ポルノ禁止法を改正しようとした際に、マンガ・アニメ・ゲームの規制を入れようとしたのはこの勧告によるところが大きいという。

 ここでまた驚くべきことが指摘されている。勧告は勧告であって強制力は持たないはずなのに、日本国憲法98条は、国内法より国際的な「勧告」を優先すると解釈する余地があるのだという(ただし、文字どおりにそう書いてあるわけではない)。アメリカでは明確に国内法が国際的な勧告より優先することになっているとも。

 このあと、著者などの努力もあってブキッキオ女史の発言は撤回されるにいたる。その過程も本書では詳しく述べられている。ともかく海外からの日本に関する間違いだらけの勧告だとか指摘に日本政府や外務省がきわめていい加減な対応しかしていないことが分かる。もっともここで著者は、誰がブキッキオにデタラメな情報を吹き込んだのかという犯人捜しはすべきでないと言っているのだが(132ページ)、私はこれには賛成しかねる。この問題にかぎらず、国際機関の勧告は精確な事実関係をしっかりとふまえないでなされることがある。その理由や、そもそも人選をどのようにやっているのか、きっちり調べたほうがいい。

 国連などというとよほど高度な知性を持ち判断力も妥当な人材で構成されているように思われがちだが、今回のこの事件でも分かるように、そうとは限らない。国際主義の名のもとに特定のイデオロギーの宣伝機関に堕していたり、まともな判断力もない人間が重い役割を担ったりという場合もあるのである。そういう人間にいちゃもんをつけられないように、今回の事態がどうして起こったのか、ブキッキオ女史の経歴や、彼女を選んだ側の人間がどういう人たちだったのかを含め、根底的なリサーチを行うべきだと私は思う。

 「国際機関」は、下手をすると地球規模のファシズムやスターリニズムの淵源になりかねない。それはIWC(国際捕鯨委員会)の歴史を見ても明らかだ。国連だって例外ではない。われわれは国際機関を自分の頭で評価できるような知性を持たねばならない。

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今年映画館で見た74本目の映画
鑑賞日 5月22日
シネ・ウインド
評価 ★★★★

 青原さとし監督作品、前編102分、後編103分、ドキュメンタリー。

 福島県は、太平洋に面した浜通り地方、東北線が走り福島市や郡山市のある中通り地方、会津若松市のある会津地方に分かれる。このうち、浜通り地方が東日本大震災で大きな被害を受け、なおかつ原発事故が起こったのは周知のとおり。

 浜通りもほぼ三つに分かれる。一番北が相馬市や南相馬市(旧・原町市と周辺町村が合併して誕生)、中ほどが双葉郡、一番南がいわき市。最初のふたつを合わせて相双地区という。

 このドキュメンタリー映画は、相双地区が江戸時代の天明の大飢饉によって大幅な人口減に見舞われたとき、主として越中の砺波地方からの移民を受け入れて、それによって新たな耕地が開墾されていったこと、またそれによって越中の真宗がこの地域に導入され、真宗系統のお寺が増えていったこと、さらには二宮尊徳の高弟による道徳思想の導入や水利開墾が行われたことなどが、丁寧に歴史を振り返りながらたどられている。

 距離的にも遠く、しかも日本海沿岸と太平洋沿岸という違いがある砺波と相双という地域に意外なつながりがあるという内容で、私がいわき市の出身だと言うこともあるが、非常に興味深く見ることができた。相馬藩は越中からの移民を受け入れるに当たって、種籾などを無料で提供したほか、入植後最初の五年間は無税とするなどの措置をとったという。

 もっとも良いことばかりではない。真宗系の住民とそれ以前から相双地区に住んでいた農民との間には、嫁のやりとりをしないなどの対立もあったという。

 また、古来相双地区で農業を営んでいた人々の居住地域は、今回の東日本大震災の大津波が届かないところにあり、恐らくは貞観時代の大津波の記憶がそのような場所を選ばせたのであろうという。
 これに対して砺波地区からの移民たちは、天明の大飢饉で空き家になったところに済んだ場合は別であるが、新たに耕地を開墾する場合は、既存の農地より山側か、逆に海側を選ばざるを得ず、後者は東日本大震災の津波で根こそぎにされたという。

 この映画は歴史をたどるだけではなく、大津波と原発事故によって働く場所を失い、分断されながらも、なんとか故郷で生きていこうと努力する人々の姿をも映しだしている。

 また相双地域と砺波地域だけでなく、越後(新潟県)や常陸(茨城県)などにも移民や信仰との関連で言及がなされている。

 前編と後編に分かれていて、合計で3時間20分あまりかかるけれど、全然退屈しない優れたドキュメンタリーと言えるであろう。

 新潟市ではシネ・ウインドの1週間限定上映、5月27日(金)限り。

 5月21日(土)付け毎日新聞に掲載された浜矩子・同志社大教授の「危機の真相 安倍発言でEU離脱?」を読んでいて、あれ、と思った。

 この文章、安倍首相が今回のサミットの前に英国訪問をして、英国がEU残留をするようテレビで発言したということを捉えて、英国人はへそまがりで外国人から自国の政治に口出しされるのを嫌がるから、安倍首相の発言は逆効果ではないか、といった意味のことを述べている。

 そこはまあ、そうかも知れないし、そうでないかも知れない・・・要するにどうでもいいことなのだが、その後に書かれている部分が問題なのである。以下、引用する。

              

 http://mainichi.jp/articles/20160521/ddm/005/070/005000c

 ところで、筆者は従来イギリスはEUに入っていない方がいいと考えてきた。島国で海洋国のイギリスは、大陸欧州の国々とは、いかにも、感性が違う。景色も違う。大陸欧州は、どこまで行っても小麦畑の世界だ。イギリスは、行けども行けども、羊だらけである。緑の丘陵風景の中に白いものが点々と果てしなく広がる。全部、羊。

 グルメのフランス。舌が音痴なイギリス。歌のイタリア。しゃべりのイギリス。大陸欧州には人知をつくした庭園がある。イギリスにあるのは、自然体の野原だ。政治的計画性主導の大陸欧州。経済的成り行き主導のイギリス。全てが違う。

                  

 フランスやイギリス、イタリアについて「グルメ」だとか「舌音痴」「歌」といった、観光客が誰でも言いそうなステレオタイプで語っているところなんか、この人の知性の程度を推測させるに十分なのだが、そのあとに書かれている部分がアレレなのである。

  「大陸欧州には人知をつくした庭園がある。イギリスにあるのは、自然体の野原だ。」

 まさか。ここで浜氏が言っている「人知をつくした庭園」とは、フランスの宮殿なんかにあるフランス式(もしくはイタリア式)庭園のことなんだろうけれど、英国にだってちゃんと英国式庭園が存在している。人が作ったとすぐ分かるような幾何学模様で構成されたフランス式(イタリア式)庭園と、自然そのままの風景のように作った英国式の風景庭園がヨーロッパ庭園の二大様式であることは、少しヨーロッパを知っている人には常識であろう。

 また、英国式庭園は英国にだけあるのではない。大陸にだって、例えばミュンヘンには有名な英国式庭園があるのだ。

 また、英国にあるのは「自然体の野原」と書いているけれど、英国だって大昔は森林で覆われていたのである。燃料などにするためにそれを伐採したあと、森林の再生はならなかった。それで今のような野原が残されたのである。英国の野原は「自然」なのではなく、人の手が入った結果としてある。この点については以下を参照のこと。

 http://blog.sizen-kankyo.com/blog/2009/09/581.html

 経済学者が全員こうではないだろうけど、この教養のなさ、ちょっと困るなと思いました。

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今年映画館で見た73本目の映画
鑑賞日 5月21日
イオンシネマ新潟西
評価 ★★★★

 是枝裕和監督作品、117分。
 東京の郊外の団地を舞台に、現代日本の家族模様を描いている。

 かつて文学賞をとりながらその後はぱっとせず探偵事務所に勤めている中年男(阿部寛)が主人公。妻(真木よう子)には愛想を尽かされて離婚され、彼女との間にできた息子に月一回会うのが楽しみ。しかしお金がなく、妻への生活費の仕送りにも苦労しており、金策に四苦八苦している。
 
 主人公の母(樹木希林)は団地に一人暮らし。かつては若年層が多かった団地も老齢化が進み、団地内の商店は閉店しているところが多い。ダメ男の息子や、結婚して子供もできている娘(小林聡美)が時々訪ねてくるのを楽しみにしている。

 何でもない日常生活を淡々と描きながら、凡人たちのどうしようもない、しかし絶望に身をよじるわけでもない営みを映像化している作品で、ハリウッドのパニックものとは対極にある映画。そういうものとして見られる大人には静かに楽しめる。

 新潟市では全国と同じく5月21日の封切で、Tジョイ新潟万代を除くシネコン3館で上映中。新潟県内ではTジョイ長岡とJ-MAXでも上映している。

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 いただいたので紹介します。
 オーストリアの作家トーマス・ベルンハルトの自伝的な小説5部作のうちの1冊である『ある子供』の邦訳です。5部作の中では初の邦訳となります。

 トーマス・ベルンハルト(1931~1989)は、ドイツ語圏では非常によく読まれている作家です。日本でもその作品は10冊ほど翻訳が出ているのですが、一般に広く知られているとは言えないでしょう。

 この作品では、私生児として生まれ育った年少期の思い出が綴られています。ただし、精確な自伝として書かれたわけではなく、多少フィクションも混じっているようです。

 巻末にていねいな訳者の解説がついており、読解を助けてくれるでしょう。
 
 訳者の今井敦氏はドイツ文学者で龍谷大学教授、これまでにハインリヒ・マン『ウンラート教授』(松籟社)、ヨーゼフ・ツォーデラー『手を洗うときの幸福、他1編』(同学社)を邦訳されており、著書に『三つのチロル』(新風舎)があります。

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今年映画館で見た72本目の映画
鑑賞日 5月21日
ユナイテッドシネマ新潟
評価 ★★★☆

 英米合作、ビル・コンドン監督作品、104分。

 シャーロック・ホームズが主人公。 

 ただし、コナン・ドイルのホームズものでは、最後にホームズが登場する作品の時代設定は第一次世界大戦勃発直前となっていた。そこでは探偵業から引退して養蜂をやっているホームズが描かれていたわけだが、この映画の時代設定は第二次世界大戦直後である。したがってホームズはすでに93歳。田舎に引退して養蜂をやっているところまではドイルの小説と同じだが、肉体も記憶力もかなり衰えている。

 本作は、老いたホームズの世話をしている家政婦の息子がホームズの記録に興味を示し、それを契機としてホームズが最後の事件を回想する、という筋書きになっている。ただし老いが進行しているホームズの記憶は容易に過去を再現しない。加えて、最後の事件はホームズの探偵という職業の意味を根底から問う性質のものだった・・・

 ホームズの映画というとミステリーを期待するのだが、本作品でもミステリー的要素はあるものの、本質はそこにはなく、ホームズの歩んだ人生の意味が問題とされる。つまり一種の人生映画なのである。

 そこに注意して鑑賞すれば、悪い作品ではない。家政婦、その息子、そして最後の事件で出会った婦人などもそれなりに印象深い。ミステリー的要素のみを求める人にはお薦めしないが、ホームズという著名な名を利用した味わい深い佳品と言えるだろう。

 東京では3月18日の封切だったが、新潟市では2ヵ月の遅れでユナイテッドシネマにて単独上映中。新潟県内でも上映はここだけ。

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5月19日(木) 午後7時開演
りゅーとぴあ・コンサートホール
1800円 (Nパックメイト価格)

 山本真希さんのオルガンリサイタルがりゅーとぴあであった。

 タイトルは標記のとおりだが、副題が「バッハを愛した19世紀の巨匠達」となっている。バッハを意識しながらオルガン曲を作っていったロマン派の作曲家たち、ということであろう。

 いつものように、3階正面Iブロック、4列目左側に席をとる。 
 今回は、山本さんだけでなく、ヴァイオリンの枝並千花さんが加わっての演奏会。

 ジークフリート・カルク=エーレルト(1877~1933): コラール即興曲集op.25より「いざもろびとよ、神に感謝せよ」
 同上: 3つの印象op.27より「夕映え」
 シューマン: バッハの名による6つのフーガop.60より第4番変ロ長調
 シューベルト: アヴェ・マリア (ヴァイオリン+オルガン)
 ブラームス: 11のコラール前奏曲集op.122より第5番「装いせよ、おお愛する魂よ」
 バッハ: ライプツィヒ・コラール集より「装いせよ、おお愛する魂よ」BWV654
 メンデルスゾーン: オルガンソナタ第2番ハ短調
 (休憩)
 ワーグナー/リスト編曲: 歌劇『タンホイザー』より「巡礼の合唱」
 ラインベルガー(1873~1916): ヴァイオリンとオルガンのための6つの小品op.150より「序曲」(ヴァイオリン+オルガン)
 レーガー: 7つの小品より「クリスマス」
 リスト: バッハのカンタータ「泣き、嘆き、悲しみ、おののき」とロ短調ミサ「十字架につけられ」の通奏低音による変奏曲
 (アンコール)
 メンデルスゾーン: 歌の翼に (ヴァイオリン+オルガン)

 正面舞台の後方に座席があり、そのまた背後にオルガン奏者の席と鍵盤があるわけだけれど、座席の一部を外して台が設置されており、ヴァイオリン奏者とオルガン奏者が同じ高さで演奏できるようになっていた。

 ただ、前半と後半で枝並さんの登場は各1曲、それとアンコールというのは、やや少ない気がする。せっかくなので、もう1、2曲増やしてみてはいかがかと。

 オルガンとヴァイオリンの合奏もなかなかで、特にラインベルガーの曲は最初から合奏用に作られているうこともあり、いい曲だなと思った。ディスクを探してみようかな。

 「装いせよ、おお愛する魂よ」でブラームスとバッハを並べているのは、従来からの山本さんの選曲によく見られたやり方だが、同じ詩句で異なる作曲家の持ち味が比較できるので、すぐれた選曲法と言える。

 前半・後半それぞれ最後の、メンデルスゾーンとリストの曲に聴き応えがあった。リストのこの曲は多分初めて聴いたと思うが、15分以上かかる長めの曲で、途中までは晦渋な感じなのに対して、最後のあたりで階調という表現を使いたくなる明晰な音楽に転じていく。メンデルスゾーンのソナタも、この作曲家の明るさがオルガンの響きと合っていて、楽しめた。

 これで客がもう少し入ると言うことなしなのだが。200人くらいかなあ。

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評価 ★★★

 香月日輪を卒論で取り上げたいという学生の主査をやることになったため、全然読まないでは助言もできないということで、読んでみた本。

 著者は1963年生まれで2014年に死去した女性作家。児童文学の賞を複数受賞している。

 この作品は、両親を交通事故で失った少年が、とりあえず伯父宅に引き取られたものの、居心地がよくなくて寮のある商業高校を受験して合格、晴れて伯父宅を離れて入寮のはずが、直前に寮が焼失してしまう。そこで妙な不動産屋から紹介された賄い付きの格安アパートに入るが、そこは人間ばかりか妖怪まで住んでいるアパートだった・・・。

 もっとも妖怪と言っても怖くなくて(外部から時々襲ってくるのには怖いのもあるが)、主人公はアパートの住人であるいわくありげな人間や妖怪と交流する中で、人生について色々と考えていくという筋書き。

 主人公が中学から高校へ入る時期に設定されているということもあり、内容的には中高生向けであろう。

 けれん味のない文章と、多彩な登場人物・妖怪で話はすらすらと進み、あっという間に読了した。同級生がワルの仲間になって退学してしまうといったエピソードもあるけれど、両親を亡くした主人公を取り巻くのは基本的に善意の人物や妖怪で、主人公は彼なりに悩みはするけれど深刻にはならず、話はたえず明るい方向に打開されていく。

 料理の描写がよく出てくるのも特徴か。

 全10巻に別巻が3冊あるそうだけど、とりあえず第1巻だけ読んでみました。この後を読むかどうかは未定。

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今年映画館で見た71本目の映画
鑑賞日 5月18日
Tジョイ新潟万代
評価 ★★★

 福田雄一監督作品、118分。
 2013年に公開された映画『HK 変態仮面』の続編。好きな女の子のパンティをかぶると超人に変身するという変態的なスーパーヒーローが、悪と戦うお話で、原作はマンガ。主演の鈴木亮平、ヒロインの清水富美加など、主要な配役は前作と同じ。

 なので、どうやって新機軸を打ち出すかがカギとなるのだが、前回はヒーローとヒロインは高校生という設定だったのが、今回は二人揃って同じ大学に進学しており、そこで講義を受け持つ美人教授(水崎綾女)がヒーローを誘惑して・・・という筋書きになっている。

 このほか、ヒーローの両親が登場したり、色々な工夫を凝らしているので、続編は往々にして第一作より落ちるものであるが、本作はまあ前作とそれほど変わらない程度に楽しむことができる仕上がりである。ただ、悪役にはもう少し工夫が欲しいところだ。スパイダーマンのパロディ的なシーンがあるのは、前作と変わらず。

 新潟市では全国と同じく5月14日封切で、Tジョイ新潟万代にて単独上映中。県内でも上映はここだけ。

 こないだの日曜日に毎日新聞の書評欄に載った文章だが。

 http://mainichi.jp/articles/20160515/ddm/015/070/024000c
 藻谷浩介・評 『あなたは、わが子の死を願ったことがありますか?』=佐々百合子・著  (現代書館・1728円)
 毎日新聞2016年5月15日 東京朝刊

 親に理不尽な選択を迫らない社会へ

 ある調査の報道を見て、暗澹(あんたん)たる思いにとらわれた。胎児の染色体を調べる新出生前診断で、異常が判明した妊婦の97%が人工妊娠中絶をしていたという。染色体異常の子には生まれる権利がないのか。親がそういう選択をせざるを得ない日本社会に生きる我々に、障がい者を殺害したナチスの体制を批判する権利はあるのだろうか。

 評者の長男にも、先天性の内臓形成不全があった。幸い問題は物理的なもので、出生直後の2度の大手術で無事完治し今日に至るのだが、子供が死にかけた際に親が感じる気持ちというものを、いっとき評者も味わった。理屈抜きの、臍(へそ)の下から湧き上がってくるような悲しみ、生き物としての本能の呻(うめ)きに、自分でも驚いたものだ。

 だが、評者の悲しみなど一時のものだった。胎児を中絶せざるを得なかった母親は、ずっとつらい思いを抱え続けるのではないか。かといって産めばどうなっただろう。障がいを持つ子相手に日々悪戦苦闘する親のしんどさ、「自分が先立った後にこの子はどうなるのか」という心配は、これまたいかばかりだろうか。当事者にしかわからない世界がそこにある。

 掲題書は、出生直前の常位胎盤早期剥離(誰にでも一定の確率でおこりうる)により、第二子が重い脳性麻痺(まひ)になってしまった一人の女性の手記だ。大学院を卒業し製薬会社で社内弁理士をしていた著者は、群を抜いて理知的で意志が強く、夫婦の絆も強く、心ある医療関係者や友人にも支えられている。しかし号泣と痙攣(けいれん)を常時繰り返す子供の病状はあまりに厳しく、公共の支援は穴だらけだ。仕事を続けるどころか自分の時間も皆無となり、エネルギーの限りを吸い取られる日々が続く。

 目の前にいる子供を可愛いと思い必死に育てようとするのは、親の本能だ。本書に挿入されている可愛らしい写真の数々を見れば、誰でもその気持ちがわかるだろう。他方であまりのつらさに、「この子さえ生まれていなければ」とか、「いっそ子供と一緒に死んでしまえたら」といった考えもときに頭をよぎる。先天性の異常ではなかっただけに、「最初に痛みを感じたときにすぐ病院に行っていたら……」という後悔の思いにもさいなまれ続ける。

 そしてこの暴風雨のような日々は、2年3カ月後のある朝、前触れもなく子供の呼吸が止まったことで終わりを告げる。安らかな顔で旅立ったわが子を見ながら、あまりの喪失感に泣き続けた2日間。他方で一瞬心の中を過ぎ去った、重い重い荷物を降ろした瞬間のような安堵(あんど)。経験した当事者だけがわかる本当の気持ちだ。だからこそ彼女は決意する。重い障がいを持って生まれた子供とその親が、それぞれの人生をあきらめることなく、できるだけ普通に暮らしていけるような社会を実現しようと。寝たきりで短い人生を終えた幼児の、力なき者の力が、母の人生を変え、そしていずれ世の中を変えていく。

 人の命に、人は線を引けない。お金だの能力だの体力だの人間が後から作った比較指標で、人の命の軽重を計る社会は、生き物としての自分たちを否定する社会であり、歴史が示すとおり長くは続かない。親に理不尽な選択を迫らない社会、どんな障がいがあっても、短い命でも、それでも誰もが与えられた天寿を普通にまっとうできる、そういう支え合いのある社会を、我々はこれから作り上げなくてはならない。著者の決意に心から賛同しつつ、評者も確かな希望を抱いた。

                      
                  
   ここで取り上げられている本自体は、悪くなさそうだと思う。
 だけど評者の書き方があまりにヒステリックで、かえって「この本、読んでみようかな」という気持ちを萎えさせているのではないか。

 評者はたぶん、あまり日ごろから物事を考えない人なのだろう。例えば冒頭の文章。

 「ある調査の報道を見て、暗澹(あんたん)たる思いにとらわれた。胎児の染色体を調べる新出生前診断で、異常が判明した妊婦の97%が人工妊娠中絶をしていたという。染色体異常の子には生まれる権利がないのか。親がそういう選択をせざるを得ない日本社会に生きる我々に、障がい者を殺害したナチスの体制を批判する権利はあるのだろうか。」

 まず、障害者殺戮を「ナチス体制」と結びつけ、だから 日本社会もダメだと言いたいらしいのだが、こうした表現を読むと、出生前診断の根底にある優生学について評者がまったく知らないらしいと推測せざるを得ない。

 米本昌平ほか『優生学と人間社会』(講談社現代新書、2000年)をひもとくなら、問題がそんなに単純なものではないことはすぐに分かる。優生学はナチスの専売ではなく、他の先進国でも積極的に推進されたのであるし、この本でドイツと北欧の優生学について記している市野川容孝は「ヒトラーという隠喩が、優生学の歴史の多くを、逆に見えなくさせる」と指摘している。(同書、53ページ)

 実際、北欧でも障害者への強制不妊手術などが行われたのであるし(同書、109ページ以下)、優生学を推進したのは右翼ではなく社会主義者や自由主義者だったのである(同書、29ページ)。 

 そもそも出生前診断というもの自体が優生学的発想に基づいている。生まれる前の胎児に異常があるかないかを調べれば、異常があった場合は中絶を、と考える親が出てくることは当然予測されるからである。それは日本が障害者を十分に受け入れる社会であるかどうかとは必ずしも関係があるわけではない。社会がどうあれ、障害者として生まれることは不幸だという価値観もあり得るからである。

 この点について小浜逸郎『「弱者」とはだれか』(PHP新書、1999年)は説得的な考察を行っている。小浜は以下のように述べているのだ。
 
 「障害児が生まれてくる確率の高さを突きつけられたときにそれを避けようとするのは、五体満足を願う親の自然な心情にもとづいている(…)。それは、子どもが病気になったときに何とか治ってほしいと念ずる心情とそれほど違っていない。
 (…)羊水検査の段階でかなり〔障害児として生まれる〕確率が高いと診断された親が中絶を希望する心情は、現に障害児を抱えている親の心情と断絶しているのではなく、連続している。」(68ページ)

 さらに言うならば、現在の日本では出生前診断で異常がある胎児だけが中絶されているわけではない。異常があるなしに関係なく、親が何らかの事情で生みたくないという理由で中絶されている胎児は相当数に及ぶはずである。

 評者の論理からすれば、こういう日本社会は絶望的な社会であり、到底長続きしない社会だということになるのではないだろうか。

 毎日新聞の書評欄はわりに質が高いと私は思っているが、時にこういう問題書評が紛れ込んでしまう。人間の作るものに完璧はあり得ないが、書評者の選択にはもう少し注意して欲しいものである。

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今年映画館で見た70本目の映画
鑑賞日 5月16日
ユナイテッドシネマ新潟
評価 ★★★★

 中村義洋監督作品、129分。江戸時代の伊達藩であった実話をもとにした映画だそうな。

 江戸時代、伊達藩の仙台より北にある小さな町。藩から押しつけられる雑務の費用がバカにならず、町は衰退する一方。そこで知恵者が考え出したのは、千両のお金を藩に供出し、その代わり年1割の利息(当時はそのくらいが相場だった)をもらうことで費用を賄おう、ということだった。しかし千両という大金を農民や町民がどうやって工面するのか・・・

 予告編で見た限りではコミカルな作品かと思っていたのだが、実際に映画館に足を運んでみたらかなりシリアスな内容だった。しかし脚本はよく練られており、キャスティングも悪くない(例外も若干あるけれど)ので、映画ファンにはお薦めできる作品になっている。

 「格差拡大」が言われる昨今の社会に、公共性とは何かを考えさせるという意味で、一石を投じる映画とも評価できるだろう。

 新潟市では全国と同じく5月14日封切で、市内のシネコン4館すべてで上映中。また新潟県内の他地域のシネコン3館でも上映している。

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評価 ★★★☆

 授業で学生と一緒に読んだ本。言わずと知れた人造人間の物語だが、私も中学生時代にダイジェスト版で読んだきりで、完訳を読むのはこれが初めてである。

 1818年、つまり19世紀初頭に書かれたこの小説は書簡体の形式をとっている。最初は北極探検を行っている英国青年ウォルトンが故国の姉にその模様を報告する形で始まり、やがて瀕死のフランケンシュタインと出会って救出し、彼が人造人間を作り、そこから悲惨な一連の事件が起こったいきさつが語られる。また、フランケンシュタインの話の中には、人造人間が人間の世界でいかに悲惨な目にあったかを作り主のフランケンシュタインに告白する部分もある。つまり、ウォルトンの書簡-フランケンシュタインの告白-人造人間の告白-フランケンシュタインの告白-ウォルトンの書簡という左右対称的な構成をとっている。

 また作品冒頭にはミルトン『失楽園』からの引用がなされている。
 「土くれからわたしを、創り主よ、人の姿に創ってくれと、
  わたしがあなたに求めたろうか? 暗黒より
  起こしてくれと、あなたにお願いしただろうか?」

 なぜ神は人間を創造したのか、という根源的な問いが、この小説にあってはフランケンシュタインが人造人間を作ってしまうという行為において改めて提起されている。

 風景描写が多い作品でもある。英国の風景式庭園が流行していた頃でもあり、風景という観念の浸透が感じられる。
 他方、人造人間が命を吹き込まれて動き出すところや、フランケンシュタインの新妻エリザベスが人造人間に殺されるシーンなど、筋書きのクライマックスの描写はあっけないくらいに簡単で、盛り上がりを避けているような感じすらする。

 訳は悪くないが、主人公はスイスに居住しているという設定であるから、人名の訳はドイツ式もしくはフランス式にすべきではないかと思う。エリザベスではなく、エリーザベトなどとするのがいいのではないか。また地名には注をつけたほうが良い。
 
 巻末には新藤純子氏による詳細な解説と著者年譜がついているのも親切である。小説としての技巧はもとより、フランケンシュタインの作った人造人間のイメージが映画によって広まっていったことも指摘されている。

 ただし、「のちにバイロンの愛人となる〔メアリ・シェリーの〕異母妹クレア・クレアモント」と書かれているが(299ページ)、クレアはメアリの父の後妻の連れ子だったので、メアリとは血はつながっておらず、異母妹ではない。もっとも、この事実は21世紀になってから明らかになったので、新藤氏が解説を書いた時点では分かっていなかった。 

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5月15日(日) 午後3時開演
りゅーとぴあ・コンサートホール
Hブロック1列目 Sランク(最高はSS)、Nパックメイト価格13500円

 この日は標記の演奏会に出かけた。佐渡裕がこのオケの音楽監督に就任したのを記念してのツァー。

 客の入りは、あまりよくない。というか、安価なブロックは満席に近い入り。舞台の両脇のA・Eブロックと、その上(3階)のF・Lブロック、そして舞台背後のPブロック。あと1階も結構入っていた。

 それに対して、2階中央のCブロックは前半分はともかく後ろ半分はがらがら。その両脇のB・Dブロックもがらがら。3階正面のIブロックも、最前列と、ランクの落ちる最後尾2列以外はがらがら。その両脇のH・Jブロックもがらがら。

 私はと言えば、Sランク(最高ランクはSS)であるHブロック1列目に席をとった。ちなみにHブロックの客は私を入れて2人だけ。

 うーん、やはり不況のせいか、或いはこの5~7月の新潟市は海外オケやオペラが次々と来演するので、そのせいか。

 指揮=佐渡裕、ヴァイオリン=レイ・チェン

 ベートーヴェン: ヴァイオリン協奏曲
 (アンコール)
 バッハ: 無伴奏ヴァイオリンパルティータ第2番よりサラバンド
 (休憩)
 R・シュトラウス: 交響詩「英雄の生涯」
 (アンコール)
 J・シュトラウス2世: ピチカート・ポルカ
 R・シュトラウス: 歌劇『バラの騎士』よりワルツ

 最初に指揮者の佐渡氏のトークがあった。佐渡氏は演奏会の時いつもトークをする。それはいいのだけれど、私に言わせると10分のトークは長すぎる。5分程度にしてほしい。結婚式の披露宴だって挨拶は短いほど歓迎されるのだから(どういう比喩なのか・・・笑)。

 閑話休題。
 最初の協奏曲に注目した。独奏のレイ・チェンは1989年台湾出身、メニューイン・ヴァイオリン・コンクールとエリーザベト王妃国際コンクールで優勝している。
 そして本日の演奏会は期待に違わぬ名演となった。
 レイ・チェンは東洋人らしく小柄であるが、音がとても美しい。テクニックもまったく危なげがない。解釈もゆったりと急がず、それがバックの、佐渡氏のダイナミックな表現と絶妙のバランスというか、マッチングを保っている。オケも力のある音を出していた。
 また、カデンツァでは3回ともふつうよく弾かれるヨアヒムのものではなく、別のカデンツァを弾いていた。誰のものか私には分からないが、それがまた演奏に新鮮な感じを与えていた。
 ともかく、大変な名演だった。ブラボーが出たのも当然。さらにアンコールでバッハも聴かせてくれるなど、サーヴィス満点。

 できればCDを買ってサインをもらいたいところだったが、3種類あるCDがどうも曲目的に趣味に合わず、次の機会に、ということで。

 後半はR・シュトラウスの交響詩。舞台の上の楽器の数もぐっと増えた。弦楽器も、前半は14-12-8(チェロ)-8(ヴィオラ)-6だったのが、後半は16-14-9-10-8となる。
 佐渡裕の指揮は、こういう曲が合っていると思う。賑やかで迫力があって、緩急はありながらもぐいぐいと迫ってくるのである。またコンマスの女性も、レイ・チェンに劣らぬヴァイオリン・ソロを聴かせてくれた。

 トーンキュンストラー管弦楽団は、ウィーンではウィーン・フィル、ウィーン交響楽団に次いで第三のオケ的な位置づけのようだが、実力はバカにならないと感じた。

 さらにアンコールを2曲やる大サーヴィス。非常に盛り上がった。午後3時開演で終演が5時半。大満足の午後となった。

 この春はコンサートのほうは一昨日まではイマイチな感じで、クラシックファンのスイッチが入らない気分できたのだが、、昨日の新潟室内合奏団で半分スイッチが入り、本日の演奏会で完全にスイッチが入った。  

 映画『ニート選挙』を紹介します。
 2015年制作、沖田光・鈴木公成監督作品、144分。

 タイトルどおり、ニートが選挙に出馬する、というお話です。

 舞台は新潟市。地元の大学を出て地元企業に就職した若者が、一念発起して俳優になる夢を抱いて上京するものの、芽が出ないままに30歳で実家に逆戻り。再就職しようとする努力は実らずニートになってしまいます。

 その若者が、しかし他のニート仲間と出会い、さびれた地元商店街を再活性化する夢を抱き、途中で様々な体験をする中で、市会議員への立候補を決意するに至ります。

 足を使った選挙活動や、仲間たちの応援、さらに開票のシーンや市議会のシーンもあって、選挙や地方議会の実態にも踏み込んだ充実した作品になっています。

 手法的には、短めのシークエンスを連ねていて、物語の展開がはっきりしており、誰にでも楽しめる映画になっていると言えるでしょう。また新潟市内が舞台なので、「ああ、あそこが映っている」といった楽しみ方も可能です。

 この映画が来月に新潟市内で上映される運びとなりました。要領は下記のとおりです。なお下のポスターもごらん下さい。

 日時: 6月26日(日)午後1時30分~4時
 場所: クロスパルにいがた

 このほか、小千谷市の「良い映画を見る会」主催で、7月2日に小千谷でも上映予定です。村上市でも地域おこし協力隊に就任した出演者による上映会が企画されているそうです。

 作品サイトは下記のとおり。また、これ以外に上映を企画してくれる方を募集しているとのこと。作品サイトの最後に連絡先が載っていますので、相談はそちらへ。
 
 http://neet.jpn.org/movie/



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5月14日(土) 午後6時45分開演
新潟市音楽文化会館
1000円 (前売価格)

 新潟のアマオケである新潟室内合奏団は年に2回、春と秋に演奏会を開いている。今回は春の演奏会。客の入りは3分の2くらいか。私は中ほど右ブロックに席をとった。

 指揮=松川智哉

 ベートーヴェン: 「エグモント」序曲
 ブラームス: ハイドンの主題による変奏曲
 (休憩)
 プロコフィエフ: 交響曲第一番(古典交響曲)
 ハイドン: 交響曲第100番「軍隊」
 (アンコール)
 ハイドン: 交響曲第101番「時計」より第2楽章

 指揮の松川氏は新潟の沼垂出身で、1989年生まれというからまだ20代。洗足学園大学と東京芸大に学び、現在は芸大の大学院で指揮を専攻。将来を嘱望されている方のようである。

 さて、今回のプログラムはハイドンがエステルハージ侯爵の楽長に召し抱えられてから250周年ということで、ハイドンをメインにして構成されたものだとか。

 最初はハイドンの弟子でもあったベートーヴェンのおなじみの序曲。スタートとして悪くない。次がブラームス。ハイドンのテーマによるこれまたおなじみの曲。

 しかしプログラムの力点は後半にあった。プロコフィエフでは、第3楽章ののびやかさ、第4楽章の盛り上がりが見事。
 最後がハイドンの交響曲100番。この曲、私はハイドンの交響曲の中でも最後の「ロンドン」と並んで好きなのだが、実演ではなかなか聴く機会がない。その意味で楽しみにしていたが、期待に違わぬ演奏であった。前半二つの楽章が特にチャーミングなのだけれど、その魅力をうまく出していた。第4楽章の盛り上がりも良かった。

 そしてアンコールにはこれまた有名なハイドンの交響曲の楽章が。選曲が絶妙。

 アマチュアながら、それなりの演奏で、プロには及ばないとはいえ昔に比べると確実にレベルアップしている新潟室内合奏団。

 次回は11月12日(土)で、群響チェロ首席の柳田耕治氏を迎えて、シューマンのチェロ協奏曲、そしてブラームスの交響曲第3番を演奏するそう。用事がない限り、また行きたいのだが、うーん、この日はどうかな・・・・微妙かも。

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今年映画館で見た69本目の映画
鑑賞日 5月14日
シネ・ウインド
評価 ★★★

 フランス映画、アルノー・デプレシャン監督作品、123分。原題は"TROIS SOUVENIRS DE MA JEUNESSE(わが青春時代の三つの記憶)"

 文化人類学者である中年男が、パスポートをめぐってトラブルに巻き込まれ、過去を回想するというお話。
 
 第1部では少年時代に親と不仲だった事情、第2部では高校生時代に(当時はまだ存在していた)ソ連へ旅行したとき、無鉄砲にも依頼されてソ連内部の抑圧されている人々にモノとカネを届け、ついでに自分のパスポートを偽造用にくれてやってしまうお話(これが大人になってからのトラブルにつながる)、第3部は或る少女との交際や文化人類学を専攻したいきさつが、それぞれ映像化されている。

 話としては第2部が断然面白く、緊張感に満ちている。
 第3部も悪くないが、少し長すぎて全体のバランスを失しているのが残念。

 東京では昨年12月19日の封切だったが、新潟市では5ヵ月近い遅れでシネ・ウインドの1週間限定上映、5月20日(金)限り。

 私のエッセイ「西尾幹二氏と柄谷行人氏」が、先月末に発売された『西尾幹二全集 第13巻 日本の孤独』(国書刊行会)の月報に掲載されました。
 興味のある方はお読み下さい。

 なお、『西尾幹二全集』の既刊分や内容についてはこちらのサイトから。 

・2月8日(月)  産経新聞インターネットニュースより。
 
 http://www.sankei.com/economy/news/160208/ecn1602080014-n1.html
 2016.2.8 13:37
 捕鯨支持映画HPに攻撃か アノニマス声明、閲覧不能

 和歌山県太地町の捕鯨を肯定的に取り上げたドキュメンタリー映画「ビハインド・ザ・コーヴ」の公式ホームページ(HP)が一時、閲覧できなくなり、国際的ハッカー集団「アノニマス」を名乗る人物がサイバー攻撃の声明を出していたことが8日、分かった。

 撮影した八木景子監督(48)によると、映画は1月30日から東京・新宿の映画館で公開され、前日の29日夜からアクセスできない状態になった。この映画館のHPも閲覧不能になったが、現在は解消されている。

 映画は、捕鯨を批判し、米アカデミー賞の長編ドキュメンタリー賞を受賞した「ザ・コーヴ」を念頭に製作され、海外でも上映された。八木さんは「表現の自由に対する重大な侵害だ。嫌がらせや攻撃には屈しない」と話した。


2月11日(木)  毎日新聞インターネットニュース、および産経新聞インターネットニュースより。
 
 http://mainichi.jp/articles/20160211/ddn/012/040/045000c
 捕鯨文化 和歌山県、日本遺産に申請
 毎日新聞2016年2月11日 大阪朝刊

 和歌山県は10日、同県に伝わる捕鯨文化を、特色ある文化財を認定する文化庁の「日本遺産」に申請したことを明らかにした。仁坂吉伸知事は太地町のイルカ追い込み漁も対象とすることに意欲を示していたが、「申請テーマからそれる」として盛り込まれなかった。


 http://www.sankei.com/west/news/160211/wst1602110046-n1.html
 2016.2.11 17:09
 目的は「イルカ漁反対」…政府機関へのサイバー攻撃、アノニマスが関与認める

 日本の政府機関や企業などのホームページ(HP)が相次ぎ閲覧しにくい状態になっている問題で、サイバー攻撃をしたとする声明を短文投稿サイト「ツイッター」に出した、国際的ハッカー集団「アノニマス」メンバーとみられる人物が、ツイッター上での取材に11日までに応じた。攻撃への関与を認め、目的を「(和歌山県)太地町でイルカが殺されているのを日本人に知らしめるため」と明らかにした。

 アノニマスはツイッターで、日本の捕鯨活動に反対する主張を繰り返している。取材は、ツイッターの機能で、直接のやりとりができる「ダイレクトメッセージ」を利用し、9日から10日にかけて英語で行った。

 この人物は、自分がロシア出身で、年齢は20~50代とした。住所や名前、性別などの質問への回答は拒否、直接面会しての取材も拒んだ。HPが閲覧しにくくなる問題は、イルカを飼育している全国の水族館や厚生労働省、警察庁、安倍晋三首相の公式HPなどでも起きており、警察が情報収集している。


・2月15日(月)  産経新聞インターネットニュースより。
 
 http://www.sankei.com/world/news/160215/wor1602150025-n1.html
 2016.2.15 21:16
 シー・シェパード、「日本船団を発見できない」ことを明らかに 豪、NZ両政府に“妨害船”派遣を要請

 南極海で活動している日本の調査捕鯨船団を妨害しようと、1隻の抗議船を同海域に派遣している反捕鯨団体シー・シェパード(SS)は15日、「日本船団を発見するのは難しい」ことを明らかにした。

 フランスに逃亡しているSS創始者のポール・ワトソン容疑者(国際手配)が声明を出した。

 ワトソン容疑者はオーストラリアとニュージーランド政府に対して、調査捕鯨を妨害するための船を南極海に派遣するよう要請。さらに、SSの妨害活動を可能にするため、両政府に日本船団が航行する正確な座標をSSに提供するようにも求めた。

 日本の水産庁担当者は15日、捕鯨船団の活動について、「船舶乗組員の安全確保の観点から、調査の実施状況についてはコメントを差し控える」と語った。

 ワトソン容疑者が出した声明は、「欧米やオセアニアの反捕鯨派の関心を呼び起こすためのパフォーマンスだ」との指摘もある。


・2月18日(木)  産経新聞インターネットニュースより。
 
 http://www.sankei.com/affairs/news/160218/afr1602180001-n1.html
   2016.2.18 05:00
 調査捕鯨・TPP…国際訴訟敗訴のリスク回避へ「予防司法」導入 政府、態勢整備

 政府は、各省庁が政策立案段階から法務省訟務局の法的助言を仰ぐ「予防司法」の仕組みを、国家間の法的紛争を処理する国際司法裁判所(ICJ)での係争など国際司法にも導入することが17日、分かった。環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)や調査捕鯨をめぐり海外から訴えられた際に敗訴するリスクを抑える狙いがある。政治的な影響を受けやすい国際司法でも法的知見などを事前に検討し、国益を左右する外交交渉力を高める。

 平成26年3月、日本による南極海での調査捕鯨をめぐるICJの判決で日本は全面敗訴した。日本は調査捕鯨を「科学調査」と主張したが、調査捕鯨の科学的成果や手続きの透明性が弱く、ICJが「科学的研究ではない」と認定したためだ。

 日本は昨年12月、調査捕鯨中止を求めた26年9月の国際捕鯨委員会(IWC)の決議は拘束力がないとして調査捕鯨を再開した。だが、政府関係者は「科学的な根拠を示さなければ、日本への批判がさらに強まる」と懸念する。

   安倍晋三首相が国際社会で訴える「法の支配」は、制度や主張が異なる多国間で共通のルールづくりが進んでおり、重要性が高まっている。法務省はこうした首相方針と国際的な潮流に乗り遅れないよう、予防司法の考えを国際司法にも拡大し、外務省と連携した態勢強化に乗り出すことにした。28年度予算案に国際司法に関する調査など計3500万円を盛り込んだ。

 政府は今後、調査捕鯨に関しては国際海洋法裁判所(ITLOS)などで紛争解決を図る構えで、国連海洋法条約などの条文解釈を研究する態勢を整備する。ICJの敗訴についても判決文や日本側の立証過程を検証する。

 (以下、略)


・2月25日(木)  産経新聞インターネットニュースより。
 
  http://www.sankei.com/world/news/160225/wor1602250038-n1.html
 2016.2.25 14:40
 【アイ・ラブ・ニューヨーク】 保護活動はイルカや鯨ばかり…かわいそうな象さん

 リベラルな土地柄とあって、周りは動物愛護家だらけ。知り合いのニューヨーカーもその一人で「どうして社会は関心を持ってくれないのだ」と憤慨する。

 このニューヨーカーは「アフリカ象の保護」に矛先を向けている。高額な象牙を狙った狩猟がアフリカの中央部で横行しているのだが、「米国人の反応が鈍い」。国際条約で象牙取引が全面的に禁止されているのに、「米国内の反密猟キャンペーンは盛り上がりに欠ける」そうだ。

 米コーネル大学の象研究チームを率いるピーター・レッジ部長によると、「遠距離でも超低周波を用いて相互交流するなど、象ほど高い知能を持った哺乳類は珍しい」。同チームではこの超低周波をアフリカで収集することで、象の生態を解明したり、密猟の被害を把握しようとしている。

 活動資金についてレッジ部長は多くを語らないが、前述のニューヨーカーは、「高い知能の動物保護でも、欧米ではイルカ・鯨の方がゾウの保護活動よりも人気で、資金支援も得やすい」と解説する。「支援格差」を数字で証明するのは困難だが、確かに、欧米メディアの報道を見る限り、イルカ・鯨の保護を主張する論陣の方が目立つ。

 訓練すれば、象は絵がかけるほど賢いそうだ。なのに、マーケティング力で劣るのはなぜ? (松浦肇)

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今年映画館で見た68本目の映画
鑑賞日 5月13日
イオンシネマ新潟西
評価 ★★★

 英国映画、ジャスティン・カーゼル監督作品、113分。
 シェイクスピアの有名な悲劇『マクベス』の映画化。

 原作は芝居で、芝居ではせりふによって状況や各人物の心理が表現されるから、せりふの持つ重みがメインになるが、映画ではせりふもさることながら映像の魅力が無視できないし、原作のせりふをそっくりそのまま再現すると説明的になりすぎるということからであろう、せりふは簡略化されており、映像での表現に委ねた箇所も少なくない。

 ただ、『マクベス』という作品は、魔女の予言と、それを信じようとするマクベスが逡巡しながらも妻に励まされ(或いは指嗾され)王殺しを敢行するが、その後の心理的な迷いから自滅していくというストーリーで、戦闘シーンなど映画的な場面もあるけれど、自分自身の心理の葛藤によって迷走するあたりのところは、むしろ近代的な人間の複雑さを背負っているわけで、そういう必ずしも映画的表現に適さない部分をうまく処理できたかどうか、色々工夫をしているのは分かるが、微妙な気がする。

 また、原作の説明的なせりふを少なからず省いているので、原作を知らない観客にはかなり分かりにくくなっているのではないか。

 映画としては原作にかなり忠実な作りであるが、もう少し原作から離れて映画的な論理を押し通しても良かったように思う。主演ふたり(マイケル・ファスベンダー、マリオン・コティヤール)の魅力を出すためにも、である。

 新潟市では全国と同じく5月13日封切で、イオンシネマ新潟西にて単独上映中。新潟県内でも上映はここだけである。

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評価 ★★★☆

 出たばかりの新書。著者は有名な経済学者だから今さらだが、1927年生まれ、東京商大(現・一橋大)卒、長らく京大教授を務め、著書多数。もっとも私は経済に弱いこともあって、この人の本を読むのは初めてである。

 なぜ経済に弱い私が本書を読む気になったかというと、新自由主義が貧富の差を拡大しているだけでなく、実は日本や全世界の大学政策にも影響を与えていることがはっきりしてきているからで、基本からやっていかないと大学政策に関する諸問題とも対峙できないと認識してきているからである。むろん、本書は新自由主義と大学について書かれた本ではないが、アメリカという国と経済学の関係についてはそれなりに説明している。

 副題からも分かるように、本書はアメリカの経済学者ガルブレイスがいかにアメリカという国の体質と関わり合い、それを批判しつつ自分なりの経済学を構築していったかを説明した本である。

 最初のあたりでは、率直に言って、この世代(著者は昭和2年生まれ)特有の偏向した物言いが散見され、閉口した。例えば、「ヨーロッパの共同体は、日本の伝統的共同体のように、村のために個人が犠牲になるような共同体ではなく」(8ページ)というふうに、ヨーロッパを理想的地域と位置づけて日本を卑下する言い方などである。またアメリカでの対比でもヨーロッパをやたら理想的に捉えており、ヨーロッパの提示する理念や思想と、その現実との間には乖離があったという、今日では常識になっている見方が全くと言っていいほどできていない。
 また、大学院という制度はアメリカの大学でできたとしているのはいいが、「ヨーロッパの大学を範とした日本の戦前の大学にはなかった」(47ページ)というのは誤り。戦前日本にも大学院はあった。

 以上のような問題点はあるが、ガルブレイスの経済思想がどのようなものかを私のようなシロウトが知るには悪くない本だと思う。

 第二章でアメリカの経済学の歴史をざっとたどり、第三章ではガルブレイスの生い立ちと経歴をたどっている。彼はカナダの比較的裕福な農家で生まれ育ったが、最初から学者を目指したのではなく、農業という生業に活かすために農業大学に進学し、そこから良き師に恵まれたこともあって経済学の方向に進み、最終的にはハーヴァード大学教授となった。

 第四章以降はガルブレイスの主著を追いながら、その時どきのアメリカの社会的経済的状況をふまえつつ、ガルブレイスがアメリカという自由放任主義傾向が強い国家にあって公共性を重視し、弱者救済のための制度作りを提唱したことが説明されている。

 私が特に面白いと思ったのは大企業の政策決定について説明されている箇所である。現代の大企業は高度な専門的知識を備えた専門家を各部門に確保しなければやっていけなくなっている。すなわち、企業経営を実質的に左右しているのは各組織の専門家集団であって、経営者ではないのである。「テクノストラクチュア」とガルブレイスが名づけた専門家集団が「下から上へと」企業の決定事項を送っていく、というのが企業経営の実態なのである。名目上の最高権力者は、実際には決定の権限をもっていないのだ(143ページ)。
  ここが特に面白いと私が感じたのは、言うまでもなく現在日本の「大学改革」において「学長のリーダーシップ」なるバカげた言い方が文科省を中心に流通しているからだ。現在の高度な学問にあって、学長がそのすべてを理解して必要な部署にお金を多めに配分する、なんてことができるわけがない。(いわゆる専門家だって自分が研究している領域は狭いのだから、隣接領域のことでもよくは分かっていない。)なのに「学長のリーダーシップ」を言うヤカラは要するに大学のことが全然分かっていないのである。ガルブレイスが1960年代の著書ですでに上記のような認識を提示したというのは、私には新鮮な認識であった。

 さて、実質的に企業を担っているテクノストラクチュアは、しかし名目上の経営者に比べると著しく報酬が低い。というか、名目上の経営者の報酬が高すぎる。これは今日でも、いや、今日だからこそよく言われる問題に通じている。この問題に言及している147ページ以下はその意味で貴重。

 本書は最後の補章で、戦前の大恐慌とリーマン・ショックにも触れている。大恐慌がなぜ起こったのか、証券会社の(当時は合法的な、その後非合法化された)やり口のためだという。そして、日本のバブル崩壊時に、拓銀と山一証券がつぶれたが、その時にもアメリカの投資銀行が類似のやり口でもうけを狙ったことが引き金になったのであり、そのやり口はアメリカでは非合法化されていたのに日本では当時は合法だった、という指摘は私にとっては驚きであった。日本はこういう点が甘いんだよな。

 ともあれ、現在の格差問題や若者の貧困問題を考える上でも一読に値する本だと思う。

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今年映画館で見た67本目の映画
鑑賞日 5月11日
シネ・ウインド
評価 ★★☆

 土方宏史監督作品、96分。東海テレビ制作になるドキュメンタリー・シリーズの一作。

 大阪の某ヤクザ一家を取材して作られた映画。一家が根拠地とする建物の内部や、組員の様子が映し出されている。

 しかし肝心のシノギ、つまりどうやってカネを稼いでいるのかはよく分からない。組員も教えてはくれない。非合法のカネ稼ぎなのだろうから、教えて映されたら警察にパクらられるからだろう。その辺が物足りない。

 ヤクザは上等なクルマに乗っている。クラウンとかBMVとか。私のように1500CCのホンダ・ハイブリット車になど乗っていない。羨ましい(笑)。

 ヤクザの顧問弁護士をしているということで警察からにらまれている山之内幸夫氏も登場する。この映画では器物破損教唆か何かで有罪判決(10ヵ月)を受けている。これで氏は弁護士資格を失ったようである。別の弁護士の話では、ふつうなら罰金刑程度の犯罪だとのこと。警察ににらまれたがための判決だ、ということだろう。

 ヤクザの子供だというと、幼稚園にも通えないのだそうだ。日本国憲法の法の下の平等に反する、と本作品では訴えている。そうかも知れない。また、永住権はあっても日本国籍がないので選挙に行けないという組員も登場。在日にヤクザが多い、というのは本当かも知れない。

 全体として見て、上映時間のわりには教えられたことは少ないな、というのが感想。よってこの点数。

 東京では1月2日の封切だったが、新潟市では4ヵ月少々の遅れでシネ・ウインドにて上映中、5月20日(金)限り。

 前回、寄付講座と言ってもアテにならないという話を、最後のあたりで読売新聞の記事を引用しながら、してみた。
 
 さて、その寄付講座だが、現在の新潟大学にはいくつあるのだろうか。
 今月の教授会資料によると、現在12の寄付講座が設置されている。

 しかし、そのうち11は医歯学研究科なのである。医歯学研究科とは、医学部と歯学部の大学院組織のことである。内容的には、講座の名だけでは私にはよく分からないものもあるけれど、11すべてが医学部のものではないかと思う。
 医学部以外では、一つだけ、災害・復興科学研究所に寄付講座が設けられている。「流域保全学研究」という名称になっており、自然科学系ということだろう。

 以上から分かるように、寄付講座と言ってもそのほとんどは医学部に設置されているのであり、文系学部はもちろん、自然科学系学部でもほぼないに等しいのである。「民間資金」がアテにならないことはここからも分かるだろうと思う。

 もっとも、「それは新潟大学が日本のトップクラスの大学とは言えないからじゃないか」という意見もあるだろう。
 そうかも知れない。そこで、京都大学について調べてみた。

 以下で書くことは、すべて下記URLの情報によっている。
 http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/research/funds/kouza.html

 2015年5月1日現在、31の寄付講座が京都大学にはある。
 やはり医学研究科(医学部)が多く、9を数えている。全体の三分の一近くである。
 農学系が4、薬学系が2。工学系は1つしかない。
 霊長類研究所が2、というのはいかにも京大らしい。

 文系はどうか。経営管理研究部に5つあるが、上記URLの記事から分かるように実学的な内容だ。
 このほか、こころの未来研究センターに2つある。「こころの豊かさ研究部門」などとなっているが、漠然としていて、文系なのだろうけれど、よく分からない。
 いずれにせよ、文学部の文学・歴史系や法学部に寄付講座がないことは明らかだろう。
 
 京都大学にしてこうなのである。学問は国が責任をもって守っていかねばならない、という当たり前の事柄がここからも確認できよう。

                  *                 *

 話は変わるが、毎日新聞の「くらしナビ」欄には、定期的に大学ランキングが載る。いわゆる受験偏差値によるランキングではなく、様々な尺度から日本の大学をランク付けしている。その趣旨自体は悪くないのだが、ときどきどうかと思うようなランキングも載ってしまう。昨日のランキングがまさにそういうシロモノだった。

                    

 http://mainichi.jp/articles/20160510/ddm/013/100/044000c
 くらしナビ・学ぶ @大学
 「中根」の目・データが語る 私大改革支援額総合1位 芝浦工大

 今、各大学には生き残りをかけた改革が求められている。国も改革に積極的な大学に補助金を投入するなどしており、その一つに「私立大学等改革総合支援事業」がある。「教育の質的転換」「地域発展」「産業界・他大学との連携」「グローバル化」からなり、今回はその合計額をランキングしてみた。

 トップは芝浦工大。文部科学省のスーパーグローバル大学に選定されるなど注目され、続く金沢工大は課外活動プログラムの「夢考房プロジェクト」などで評価が高い。このほか、国際医療福祉大、長崎国際大、共愛学園前橋国際大といった地方大が健闘している。

 選考では、学長のリーダーシップや組織的取り組みが重視されている。表にある大学は、教職員一丸で改革に取り組んでいるといえそうだ。 【毎日新聞大学センター長・中根正義】

 私立大学等改革総合支援事業の補助金が多い大学
 
 順位 大学名(所在地)      金額(単位・万円)
 1  芝浦工業大(東京)     4600
 2  金沢工業大(石川)     4400
 3  国際医療福祉大(栃木)   4200
 4  長崎国際大(長崎)     4000
 5  明海大(千葉)       3700
 6  共愛学園前橋国際大(群馬) 3300
    上智大(東京)       3300
 8  関西学院大(兵庫)     3200
    中村学園大(福岡)     3200
            2015年度の特別補助

                    

 中根正義の文章の最後のところに着目しよう。
 
  「選考では、学長のリーダーシップや組織的取り組みが重視されている。表にある大学は、教職員一丸で改革に取り組んでいるといえそうだ。」

 文科省が言っていることを、そのまま繰り返しているだけである。何でこういうバカが「毎日新聞大学センター長」なる称号を騙っているのだろうか。

 要するに、このランキングにある大学は、文科省の方針を読んで、それに合うような「改革」をやっているからご褒美にお金がもらえました、というだけの話なのである。

 新聞記者は、或いはジャーナリストは、お上の言うことをそのまま鵜呑みにして報道することが正しい、と中根正義は思い込んでいるらしい。
 毎日新聞は安倍政権には批判的な新聞である。安倍首相が総理大臣だから、その発言は正しいと思い込んでそのまま報道するような真似はしていない。
 いや、別に自民党政権に厳しいだけではない。最近の毎日新聞は中国や北朝鮮に対してだって結構厳しい論調の記事を載せる。
 いいことだと思う。

 なのに、である。なぜこと大学となると、文科省の方針をそのまま鵜呑みにして報道するのだろうか。

 中根正義は、ではどうしなくてはならないのか。
 簡単である。(いや、手間暇がかかるから、簡単じゃないけどね。)
 ここでランキングに出てくる大学の「改革」が本当に教員や学生のためになっているのか、きちんと検証すること。文科省の方針に合わないことをやっている大学と比較して、本当に文科省の方針が正しいのかどうか、を検証すること。それを中根正義はすべきなのだ。そこまでやって、ようやく新聞記者合格、となるのである。

 こんなこと、私が言わなくても常識であろう。その常識が中根正義にはないのである。だから新聞記者失格なのだ。
 中根正義さん、「毎日新聞大学センター長」なんか、お辞めなさい。

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今年映画館で見た66本目の映画
鑑賞日 5月7日
ユナイテッドシネマ新潟
評価 ★★★☆

 横山秀夫原作、瀬々敬久監督作品、121分。原作小説は読んでいない。

 昭和天皇の逝去により7日間で終わった昭和64年。その昭和64年に群馬県で少女誘拐事件が起こった。しかし警察の失態により犯人は身代金を奪って遁走し、少女は死体で発見される。

 この映画は、それから十余年後、犯人を取り逃がして今は広報官として群馬県警に勤務している警察官(佐藤浩市)を主人公に、誘拐事件後の同僚たちの様子や、警察内部の権力争い、さらには記者クラブと警察広報との対立などを描いている。

 こういった組織内のごたごただとか、警察とマスコミの立場の相違から来るケンカなどは、きっちりと描かれていて、見応えのある映画にはなっている。上からこづかれ下からも突き上げられ、さらに記者クラブからもいたぶられる組織人間のつらさを佐藤浩市が見事に表現している。

 ただ、誘拐事件から話が始まっているのに、その事件で土壇場のところ(身代金を犯人が受けとる場面)で警察がどう動いたのかが映し出されていないのが奇妙。これは前編なので、何らかの理由で後編で触れられることになっているのかも知れないのだが。

 とにかく、2部作なので後編を見ないと全体の評価は下せない。

 新潟市では全国と同じく5月7日(土)の封切で、市内のシネコン4館すべてで上映中。新潟県内他地域のシネコン3館でも上映している。

 昨日の産経新聞書評欄から。
 
              

 http://www.sankei.com/life/news/160508/lif1605080029-n1.html
 2016.5.8 12:45
 【書評】 京都大霊長類研究所教授、正高信男が読む『人類のやっかいな遺産』ニコラス・ウェイド著、山形浩生、守岡桜訳

 ■進化めぐる大胆不敵な仮説
 ヒトを含む霊長類の行動研究を専門とし、人類学にも片足をつっこむ評者にとって本書の内容はまさに「ビックリポン」であった。

 荒っぽく書くと、人種によって人間の知性のあり方は遺伝的に異なるというのだ。そもそも今日の人類学では、人種という概念が通用しない。もっとも中国人と白人、黒人が一見して形態的に区別がつくのも確かだから、遺伝的な多様性が地域ごとにあることは否定できない事実ではある。しかし例えば本書では中国人について、何世紀間かの激しい部族間闘争が高い人口密度のもとで繰り広げられ、かつ科挙なども行われ、淘汰(とうた)の結果、独特の中国的知性をもたらす遺伝的基盤が進化したという。なるほど。しかしでは漢字はどうなのかと思ってしまう。地球上には無文字社会で暮らす人と、文字社会で暮らす人、さらに文字といっても表意文字では、かなり特殊な認知情報処理がなされていることが分かってきているものの、そのために特別な知性の遺伝的基盤が進化してはきていない。

 また本の中では、ユダヤ的知性も遺伝的に独特に多様化したとある。これは第二次大戦前にドイツを中心に人種学者がさかんに研究したテーマのひとつだ。けれどヒトラーの後押しをもってしても「これがユダヤ人」という知見はもたらされることはなかったと私は理解している。

 1975年にアメリカでは「ヒューマンソシオバイオロジー」という本が出て、人種ごとに赤ちゃんの段階ですでに行動が違うという知見を発表して話題となったが、やがて立ち消えてしまった。本書の論点とおおいに関連するような主張にもかかわらず、まったく言及のないのが気になった。まあ専門書でないのだから、そんなこと気にせず気楽に「ホンマデッカ」と読めば面白い本ではあるだろう。

 国際政治学者のハンチントンらによれば、日本文化は世界でも希有(けう)なものであるという。その背後にある日本的知性の遺伝的基盤を本書の著者ならどう考えるのだろうかなどと想像するのも、読み方のひとつかもしれない。 (晶文社・2200円+税)

                       

 新聞での書評は、評者が自分で本を選んでやる場合は少なく、おおかたは新聞社から評者へ「この本の書評をお願いします」という依頼があってなされるものである。そういう前提を頭に入れておくと、この本の書評を頼まれた評者の困惑した顔が目に浮かぶような書評である。

 そもそも、人種や民族に先天的な能力の相違があるというような研究自体がタブーに近い上に、内容的に突っ込みどころが多い本らしいことも評者の書き方から推測できる。
 
 でも、せっかくの書評なんだから、著者の来歴くらいは書いておいてほしいという気がする。専門家なのか、ジャーナリストなのか、或いはトンデモな人なのか。むろん専門家であってもトンデモの場合もあるから(元理研の某日本人女性研究者など)、明確な線引きは難しいのかも知れないけれど、この本を読むかどうかを判断する手がかり程度にはなるだろうに。困惑しながらであっても、書評家としての最低限の義務は忘れないで欲しい、京大総長なんですから。

 ちなみに、人種間で運動能力に先天的な違いがあるのでは、という本は出ている。

 ・ジョン・エンタイン『黒人アスリートはなぜ強いのか』(創元社、2003年)

 ただし、黒人はむかしは運動能力が低いと見なされていたことなどを根拠に、人種間の運動能力の差異はあくまで社会的に形成されたものという見方をする本もある。

 ・川島浩平『人種とスポーツ』(中公新書、2012年)

 何にしても、こういう本も書評欄に取り上げられること自体は、なかなかよろしい。清く正しく美しい本だけじゃつまらないもの。世の中には変な本も多いし、大事なのはそういう本も読んで自分の判断力を養うことなのであるから。

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今年映画館で見た65本目の映画
鑑賞日 5月6日
イオンシネマ新潟南
評価 ★★★★

 武田綾乃原作(小説)、石原立也監督作品、103分、アニメ。テレビの連続アニメを劇場用に編集したものだとのこと。私は原作小説もテレビ版も未読未見。

 中学時代に吹奏楽部に所属していて全国大会出場を逃した少女がヒロイン。彼女はユーフォニアムを吹く。同じ中学から同じ北宇治高校に進学したトランペット吹きの少女が准ヒロイン。このほか、やはり同じ高校の吹奏楽部に所属する幼なじみの男子などのサブキャラが何人か。

 北宇治高校の吹奏楽部のレベルはあまり高くなかったが、新任の指導教師に「高校時代の楽しい思い出のために活動するか、それとも全国大会出場をめざすか、どちらかを選びなさい」と問われて、部員だちは全国出場をめざすと答えてしまう。

 その結果、部員には厳しいトレーニングが課せられる。技術レベルの高くない部員は容赦なく大会参加メンバーからはずされるし、ヒロイン自身はなんとか参加メンバーに入ったものの、技術的な難点の是正を要請されてしまう。また、トランペットで誰がソロを担当するかで部員は大もめとなる。

 このように、厳しい指導のもと、部員間の確執などもありながら、最後には地区予選で立派な演奏を披露するに至る高校生たちの姿が真摯に捉えられており、原作小説もテレビアニメも知らない大人でも十二分に楽しむことができる佳作と言えるだろう。

 新潟市では全国と同じく4月23日の封切で、イオンシネマ新潟南で単独上映中。新潟県内でも公開はここだけ。

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評価 ★★★☆

 出て間もない新書。著者は1947年生まれ、北大卒、中東地域研究を専門とする元東大教授で著書多数。現在は三菱商事顧問、フジテレビ特別顧問。

 タイトルがいささか刺激的であるが、ここで言われている第三次世界大戦とは、第一次や第二次のように多数の大国が正面切ってぶつかりあう形の戦争ではない。9.11や最近のパリやベルギーでのテロのように、またISがサイバー空間を用いて先進国の若者たちに仕掛けているように、近代技術とテロを駆使して繰り広げられる戦いを指しており、それは複雑怪奇な中東情勢から発して全世界に広がる恐れがある、ということである。

 本書は序章と終章を入れると全10章から成っているが、著者はまず序章でサウジとイランの一筋縄ではいかない関係を分析するところから始めている。ただし、或る程度中東問題に読者が知識を有するという前提で記述が進むし、(中東の他地域でもそうだが)宗派や歴史や地理の要素が複雑に入り組んだ現代進行形の問題について論じているので、初心者にはお勧めしない。中東問題について一から知りたいという人は、別の初心者向けの本を読んだほうが良い。或る程度予備知識のある人ならいいだろう。

 以後、著者はトルコやロシア、シリアやISの対立や妥協、戦術や敵味方関係について多方面の利害関係や歴史や個別民族ごとの事情を考慮しつつ論述を進めていく。

 そうした中にあって、イスラームの始祖であるムハンマドの思想と、現実に生じた問題に彼がどのような解決を処方したかについて述べた第三章は、分かりやすいし、イスラームに予備知識のない人間にも面白く読める部分となっている。ムハンマドは現代の過激なイスラーム原理主義者のようには振る舞わなかったし、今なら裁判で決するような現実的な問題にもどちらかというと寛容に対処した。ただし背教と不倫には厳しい裁きを行うことが多く、ここがイスラームの根源的な精神となっているという。その意味で、現代のISが先進国の若い女性を誘惑して自領域に連れ込み、性奴隷のごとくに扱っているのはイスラームの精神に反すると著者は指摘している。

 一般に先進国の知識階級は、過激なイスラームは異端的な存在でふつうのイスラーム教徒とは違うという言い方をしがちだが、著者は、これだけ過激なイスラーム教徒がテロやISによって全世界に脅威となっている以上、ふつうのイスラーム教徒もイスラームのあり方について厳しく自問することが必要ではないか、と述べていて、私もうなずくこと大であった。

 話が私的なことになるけれど、一年ほど前、私が授業で「過激なイスラーム教徒はほんとうのイスラーム教徒ではない、という意見があるが、あれはおかしい」と発言したら、某女子学生がレポートで反論してきたことがある。彼女は私の発言を誤解していて、「大多数のイスラーム教徒は穏健な人たちで、あれがほんとうのイスラーム教徒です」と書いてきたのだが、私は彼女におおよそ次のように返信しておいた。「あなたの言うように穏健なイスラーム教徒もたくさんいます。しかし過激なイスラーム教徒も現実にいる。私が授業で言ったのは、どちらもイスラーム教徒なのだということで、どちらが【ほんとう】のイスラーム教徒でどちらが【ほんとうではない】などと議論するのには意味がない、ということです。例えばキリスト教徒について、カトリックとプロテスタントのどちらが本当のキリスト教徒か議論することに意味はありません。クリスチャンには意味があるかも知れませんが、大部分がクリスチャンではない日本人にはそういう議論は無意味なのです。カトリックもプロテスタントもどちらもキリスト教徒、それでいいのです。」

 中東問題について、オバマが積極介入を避ける方針をとってきたため、ロシアとイランの存在が今後重みを増すだろうと著者は述べている。軍事技術に関しても、例えばロシアのミサイルの性能がアメリカのそれを凌いでいる可能性に言及している。この辺は、今後の中東問題にロシアが(ひいては中国が)関与する度合いをはかる上で重要だと思う。

 中東の難民がヨーロッパに多数押し寄せていることがよくニュース種になるけれど(著者は基本的にヨーロッパのヒューマニズムに基づく受け入れを評価しているが、むろんそのために右翼が伸張する危険性もあると指摘している)、難民はサウジなどの中東諸国も劣らず多数受け入れているのだ、という指摘は貴重。 

 問題が複雑なので読後感は必ずしもすっきりよく分かったという感じにはならないが、宗教、歴史、軍事、地政学、欧米の思惑、さらには中国の存在など、多方面に目配りしつつ、中東問題およびそれが全世界に与えかねない影響を語った本として一読に値しよう。

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 フランスのソプラノ歌手ヴェロニク・ジャンス(1966-)によるオペラ・アリア集。トラック3と8は歌ではなくオーケストラ合奏のみ。

 1. エティエンヌ=ニコラス・メユール: オペラ『アリオダン』(1799年)第2幕第6場よりイーナのアリア”何と残酷な怒り・・・私は何を言っているのかしら・・・おお誰よりも誠実な恋人よ”

 2. ロドルフ・クレゼール: オペラ『アステュアナクス』(1801年)第2幕第4場よりアンドロマケーのアリア”ああ、あの不実なギリシャ人どもは・・・神々よ、いったい誰に頼れば”

 3. アントニオ・サリエリ: オペラ『ダナイスたち』(1784年)より序曲

 4. クリストフ・ヴィリバルト・グルック: オペラ『タウリスのイフィゲーニエ』(779年)より第4幕第1場よりイフィゲーニエのアリア”いいえ、私にはできない・・・私は震えつつ乞うのです”

 5. フランソワ・ジョゼフ・ゴセック: オペラ『テーセウス』(1782年)第4幕第1場よりメデイアのアリア”ああ、復讐をせねば・・・仇の女が勝ち誇って”

 6. ジャコモ・マイヤベーア: オペラ『予言者』(1849年)第2幕第6場よりフィデスのアリア”ああ、わが息子よ”

 7. オーギュスト・メルメ: オペラ『ロンスヴォーのロラン』(1864年)第1幕第3場よりアルデのアリア”お前から遠ざかろうとして・・・この静かな夕べに”

 8. エクトル・ベルリオーズ: オペラ『トロイアの人々』(1858年)第3幕より手工業者の入場・船乗りたちの入場・農夫たちの入場

 9.  同上、第5幕第2景よりディドーのモノローグとアリア”ああ、私は死ぬことに・・・さらば、誇り高き町よ”

 10. カミーユ・サン=サーンス: オペラ『ヘンリー8世』(1883年)第4幕第1-2場よりカトリーヌ・ド・アラゴンのアリア”おお、残酷な記憶・・・そなたとは二度と会うまい”

 11. ジュール・マスネ: オペラ『エロディアード』(1881年)第1場第3場よりエロディアードのアリア”あれはジャンだわ・・・どうか私を拒まないで”

 12. ジュゼッペ・ヴェルディ: オペラ『ドン・カルロ』(1867年)第5幕第1場よりエリザベトのアリア"世の偉人たちのむなしさを知ったあなたは” 
 
 取り上げられているオペラは、永遠のオペラ初心者である私には馴染みのないものが多い。
 とくに、ロドルフ・クレゼール(Kreutzer、ドイツ語読みならクロイツァー)とオーギュスト・メルメ(Mermet)は作曲家の名すら知らなかった。この二人は平凡社の『クラシック音楽事典』にも載っておらず、クレゼールはそれでも日本語版ウィキペディアには載っているが、メルメは載っておらず、英語版・フランス語版・カタロニア語版にしか記載がない。かなりのオペラ通でないと知らない名ではあるまいか。
 したがって、曲目的には中級者以上ということになるのかも知れない。

 しかし、アリア集だからそういう面倒くさいことを考えずとも、ジャンスの美しい声とドラマティックな表現でそれぞれのアリアの美しさを楽しめる。特に第10トラックに収録されているサン=サーンスの『ヘンリー8世』からのアリアはなかなか聴き応えがあるしよく出来た曲だと思う。第11・12トラックのマスネの曲とヴェルディの曲も魅力的だ。

 世の中にはたくさんのオペラがあり、まだまだその魅力に接していないオペラアリアもたくさんあるのだなあ、という感慨をもよおしました。

 指揮=クリストフ・ルセ(Christophe Rousset)、演奏=Les Talens Lyriques
 2011年、パリ録音、EU盤、Virgin Classics 50999 070927 2 5 
 解説は仏・英・独語で付いている。歌詞もフランス語の歌詞に英語とドイツ語の対訳付きで収録。
 この3月に上京した際、新宿のディスクユニオンにて購入。

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今年映画館で見た64本目の映画
鑑賞日4月30日
イオンシネマ新潟西
評価 ★★☆

 アメリカ映画、ガス・ヴァン・サント監督作品、111分。原題は"THE SEA OF TREES"。

 主人公は中年のアメリカ人で研究者(マシュー・マコノヒー)。訳あって自殺を決意した彼は、ネットで調べて、日本の青木ヶ原樹海が自殺の名所と知り、行きの航空券だけ買って日本へ。そして青木ヶ原樹海へと入っていくのだが、そこで日本人男性(渡辺謙)と出会う。彼も自殺を決意して樹海に入ってきたのだが、一緒に樹海をさ迷いながら会話を交わすうちに、主人公は自分とは異なって霊性を信じている日本人の世界観にしだいに惹き込まれ・・・・

 主人公がなぜ自殺を決意したのかは、樹海をさ迷うシーンのところどころに挿入される回想シーンで徐々に分かってくるようになっている。要するに妻(ナオミ・ワッツ)との関係なのだが、ここがちょっとありきたりというか、弱い。また、渡辺謙が提示する霊を信じる世界観も、自殺を決意した知的な現代アメリカ人を説得するにはどうも弱いという印象だった。単なる東洋趣味では今どきの観客は説得されないだろう。もう少し勉強した上で脚本を作って欲しい。

 期待したのだが、ちょっと残念な出来だった。

 新潟市では全国と同じく4月29日(金)の封切で、イオンシネマ新潟西と新潟南の2館で上映中。新潟県内ではほかにTジョイ長岡でも上映している。

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 ここ数年、新潟市のこの時期の催し物としてすっかり定着した感のあるラ・フォル・ジュルネ新潟が、今年も開催された。今年のテーマは「自然と音楽」。期待していたのだが、発表されたプログラムは、ここ数年と比べるとやや淋しいものとなった。
 そのせいもあり、2日間の開催のうち、最初の4月29日に2公演を聴くにとどまった。

【221】 4月29日午前11時開演 能楽堂
 ヴィルタス・クワルテット 2000円

 ハイドン: 弦楽四重奏曲第49番ニ長調Hob.Ⅲ-49 「蛙」
 モーツァルト: 弦楽四重奏曲第17番変ロ長調K.458 「狩り」

 ヴィルタス・クワルテットというのは実は全然知らなかったのだけれど、日本人によるカルテットで、2008年にいわき市のアリオスを拠点として活動を開始したとのこと。
 メンバーは某サイトを参考にすると下記のようになっているが・・・

 ・三上 亮(ヴァイオリン) Ryo Mikami

   水戸市生まれ。東京藝術大学を首席で卒業し、アメリカとスイス・ローザンヌに留学。日本音楽コンクール第2位、ストラディヴァリウス・コンクール第2位など、受賞歴多数。2007年に帰国し、11年まで札幌交響楽団コンサートマスターを務める。

 ・水谷 晃(ヴァイオリン) Akira Mizutani
   大分市生まれ。2008年桐朋学園大学音楽学部ヴァイオリン専攻を首席で卒業。第57 回ミュンヘン国際音楽コンクール弦楽四重奏部門にて第3位入賞ほか、受賞歴多数。群馬交響楽団コンサートマスターを経て、13年4月より、東京交響楽団のコンサートマスターに就任。

 ・馬渕 昌子(ヴィオラ) Shoko Mabuchi

   大阪生まれ。桐朋学園大学卒業。パリ国立高等音楽院大学院でブルーノ・パスキエ氏に師事。ミュンヘン国際音楽コンクール・ヴィオラ部門第3位、パオロ・ボルチアーニ国際弦楽四重奏コンクール第3位等、受賞暦多数。

 ・丸山 泰雄(チェロ) Yasuo Maruyama

   仙台市生まれ。東京藝術大学卒業後、イタリア、ドイツで学んだ。日本音楽コンクール第1位、パオロ・ボルチアーニ国際弦楽四重奏コンクール第3位。紀尾井シンフォニエッタ、トウキョウ・モーツァルトプレーヤーズ(首席)メンバー。

 でも、第二ヴァイオリンは水谷さんとは顔が違っていたような気がするのだが、私の目が最近衰えているためだろうか・・・

 それはさておき、演奏はなかなかのものであった。欲を言えば第一ヴァイオリンに音の輝きがもっとあれば申し分のないところだが、近年、クァルテット・エクセルシオなど日本人カルテットの質は非常に高くなっていると思う。特にハイドンの曲は、実演ではなかなか聴く機会がないだけに、貴重な演奏会となった。


【234】 4月29日18時45分開演 音楽文化会館
 ヴァイオリン=アンナ・マリア・スタシキェヴィチ、ピアノ=フランク・ブラレイ  2000円

 ベートーヴェン: ヴァイオリンソナタ第5番 「春」
 ブラームス: ヴァイオリンソナタ第1番 「雨の歌」

 今回のLFJで聴いた2番目の、そして最後の演奏会。12列右寄りの座席。
 このヴァイオリニストは初めて聴いたが、あまり自己主張が強くないという印象を受けた。「春」の出だしなど特にそうで、ちょっとなよっとした感じがあり、日本流に言えばたおやめぶりの演奏かなと。ただし表情はそれなりにつけているのだが、鋭く斬り込んでくるような感じではなく、あくまで一定の枠の中の表情付けになっていたようだ。音はそれなりに出ていたが、強さとか音量はあまり感じられない。

 ピアノは、軽妙かつ洒脱であるが、やはりあまり強度は感じらなかった。ヴァイオリン・ソナタでは、ピアノは必ずしもヴァイオリンの引き立て役ではなく、時としてヴァイオリンが裏方に回りピアノが前面に出る場面もあるわけだけれど、そういう場面ではもっと自己主張をしても良かったのでは。レディ・ファーストを実践していたのだろうか(笑)。

 というわけで、悪くはないけれど、強い印象を残すというところまでは行かない演奏会であった。 

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評価 ★★★★☆

 20年も前に出た新書だが、大学院の授業で学生と一緒に読んでみた。著者は1942年生まれ、上智大文学部卒、ヴュルツブルク大学博士号取得。本書執筆当時はフランクフルト日本人国際学校事務局長。ユダヤ人に関する著書を他にも何冊もものしており、私も読んでいる。

 本書はユダヤ人のゲットー、つまりユダヤ人居住地区について記した書物である。ゲットーという言葉自体はわりに流通しているが(「世界はゲットーだ」なんて曲もあった)、その内実はあまり知られているとは言えない。この本は古来ドイツの商都として栄えたフランクフルト市のゲットーの実態を、史料を駆使して詳細に描いており、非常に面白い。

 文豪ゲーテはフランクフルトに生まれ育ったが、回想録の中でゲットーについても触れており、その狭さ、汚さ、不快さを強調している。

 ユダヤ人は古来、金銭を扱い国際的な商業に従事することが多かったが、それ故に国王や都市の支配者からは必要とされながらも、他方でキリスト教徒でないが故の差別的待遇を受けていた。商都フランクフルトにおいても、そういうわけでユダヤ人は特定の狭い領域にのみ住まうことを義務づけられ、しかも時代がたつにつれて人口は増えていったのに居住地域の制限はそのままだったから、ごみごみした密集した住宅地に押し込められた状態となった。

 また、ユダヤ人と言っても全員が金持ちなわけではなく、金持ちのユダヤ人に下男や女中として仕えるユダヤ人もいた。しかし、平均的に見るなら、ユダヤ人の財産はそれなりのものであった。

 国王や貴族に召し抱えられると宮廷ユダヤ人とされてそれなりの扱いを受けるものの、それでも様々な制約を課され、また何かにつけて寄付や税金をむしり取られるわけで、またフランクフルトにおいては宮廷ユダヤ人すらゲットーに住まなくてはならなかったので、住宅面では決して恵まれてはいなかったという。

 作曲家メンデルスゾーンの曾祖父であるモーゼス・メンデルスゾーンは、ユダヤ人への啓蒙活動を行った学者で、それまで大半のユダヤ人がイディッシュ語しか使わなかったのに対して、ドイツ語を学び使うよう呼びかけた(ただしユダヤ教の信仰は保持した)。しかしユダヤ人の中には自分の民族性に固執してそれを拒む者もいたという。この辺は、移民は同化主義と多文化主義のどちらで行くべきかという現代的な問題にもつながるものがあろう。

 ナポレオン戦争時代にいったんユダヤ人に対する差別的な制約は解消されたが、ナポレオンの敗北によって元の木阿弥となってしまう。しかし、ナポレオン戦争時代にゲットーはフランス軍の砲撃で火災に遭い、焼け出されたユダヤ人たちはゲットーの外にも居住するようになり、そうなるとキリスト教徒とユダヤ人の相互交流の場が増えて、しだいに偏見も薄らいでいった。ちなみに、偏見はユダヤ教徒側がキリスト教徒に対して抱く場合もあった。

 19世紀が進むにつれて、ユダヤ人への差別的な制約は解消されていったが、ドイツでそれが完全に解消されるのは1871年のプロイセンを中心としたドイツ統一・ドイツ帝国成立によるという。ちなみに、プロイセンやその首都ベルリンは、ユダヤ人への差別解消においてはフランクフルトやミュンヘンなど中部・南ドイツよりはるかに先進的だったという。

 ゲットーの実態、そしてフランクフルトにおけるユダヤ人差別を歴史的に知るために欠かせない書物と言えるだろう。

 昨日の毎日新聞記事から。

                
              
 http://mainichi.jp/articles/20160501/ddn/041/100/009000c
 国旗・国歌 新たに15大学が実施 今春、前文科相要請うけ 国立大アンケート

 下村博文文部科学相(当時)が昨年6月、すべての国立大(86大学)の学長に入学式や卒業式での国旗掲揚と国歌斉唱を要請した後、15大学が対応を変え、今春から国旗掲揚や国歌斉唱などを実施していたことが毎日新聞のアンケートで分かった。いずれも「大学として主体的に判断した」と答えた。うち6大学は文科相要請が学内議論のきっかけになったとした。 【大久保昂、畠山哲郎】

   毎日新聞は4月、すべての国立大を対象に2015年と16年の入学式と卒業式での国旗掲揚・国歌斉唱の実施状況などについて書面で尋ね、81大学から回答を得た。福島大、東京大、東京医科歯科大、福井大、政策研究大学院大は回答しなかった。

 (中略)

 日の丸と君が代は多くの国民に受け入れられる一方で、過去の戦争への反省や国民主権の立場から抵抗感を持つ人がいまもいる。特に君が代の斉唱が国立大に広がっていないのは、「学問の自由」をはじめとした自由を重んじる立場が影響しているとみられる。文科省も「大学の自治」を尊重し、以前は踏み込んだ働きかけはしてこなかった。

 今回の要請を無視できない背景として、資金面での苦境を挙げる専門家もいる。国の補助金に当たる「運営費交付金」は、国立大が法人化された2004年度には1兆2400億円あったが、財政難を理由に今年度は1兆900億円まで減らされた。このため各大学は、国が先端研究などに配分する「競争的資金」や民間の研究費を獲得しようと躍起だ。

 ただ、大学政策に詳しい大阪大の平川秀幸教授(科学技術社会論)は「民間資金は期待ほど集まっておらず、競争的資金を得るための研究は、国の受けがよさそうな内容に偏る傾向が広がっている」と指摘。「要請に反応したのも、資金難と無関係ではないだろう。法人化後は研究者の研究時間や論文数が減っており、国立大の疲弊は危機的な状況だ」と話す。【大久保昂】

                         
  
 こういう記事を読むと、いかに日本の新聞がズレているかが分かる。
 現在の国立大学にとって喫緊の課題とは何か。お金がないことである。
 実際、この記事でも最後にその問題に触れている。
 不思議なのは、そうでありながら毎日新聞は直接その問題を調査するのではなく、国旗国歌という政治的な問題についてのみアンケートを実施していることなのである。

 考えてもみよう。
 仮に明日の食物がない人間がいたとして、新聞記者がそういう人に「あなたは国旗・国歌に賛成ですか」「あなたは安保法案に賛成ですか反対ですか」と訊いたとしたら、どうだろうか。まず、その新聞記者はまともな常識がない人間であると判断されるだろう。その人間は新聞記者失格なのである。

 今回の毎日新聞の記事は、まさにその新聞記者失格の記事そのものなのである。

 今の日本の国立大学の最大の問題はお金がないこと、それによって研究も教育もレベルが下降していることである。

 毎日新聞はなぜその最大の問題を調べようとしないのだろうか。怠慢きわまりないと言わねばならない。

 日本の新聞はものが見えていない。いや、新聞だけではない。大学教員にも政治主義に走って、単にお金がないとだけ言えばいいものを、別の政治的問題と絡めないと気が済まない人がいる。

 繰り返す。そういう新聞も大学教員も、完全にズレており、物事の本質が見えていない。世の中はズレた人間ばかりで構成されているのだろうか。

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今年映画館で見た63本目の映画
鑑賞日 4月26日
シネ・ウインド
評価 ★★★

 オランダ映画、エディ・ホニグマン監督作品、98分。
 オランダのロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団といえば、クラシック音楽界ではベルリン・フィル、ウィーン・フィルと並ぶ世界三大オーケストラとして知られている。
 そのコンセルトヘボウ管弦楽団が、2013年に創立125周年を記念してワールド・ツァーを行った。この映画はその模様を映し出したドキュメンタリー。

 アルゼンチンのブエノスアイレス、南アのケープタウン、そしてロシアのペテルブルクと、それぞれ異なる大陸、異なる緯度にある都市での演奏会の様子だとか、その都市のクラシック・ファンの声、演奏会を離れたときの団員の様子などが紹介されている。

 私には各都市のクラシック・ファンの声が印象的だった。タクシー運転手という職業でクラシック・ファンであることの意味を語るブエノスアイレスのクラシック・ファン。かつてオーケストラが南アに来た時にユーディ・メニューインが路上で客引きをしていた思い出を語る黒人の音楽教師。またその教師は、貧しい少年時代、ヴァイオリンを習いたいと思ったが父はヴァイオリンの弓だけ、それも糸のない弓だけをどこかから手に入れて持ってきてくれたが、少年だった彼はそれだけで満足していたという。やがて援助を得て正式にヴァイオリンを習うことが可能になったが、白人教師は習いに来るなら裏口から(黒人が習いに来ていると分かると白人仲間から白眼視されるので)と指示してくるのに対し、ユダヤ人教師はふつうに玄関から入ってきていいと言ってくれたという。スターリニズム時代、そして独ソ戦時代のことを語るペテルブルクの老人の言葉にも重みが感じられた。

 演奏シーンにも、指揮者のヤンソンスやデュトワ、ヴァイオリニストのジャニーヌ・ヤンセンなどが出てきているので、クラシック・ファンには一見に値する映画となっている。

 東京では1月30日の封切だったが、新潟市では3ヵ月弱の遅れでシネ・ウインドの単独2週間限定上映、5月6日(金)限り。

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