2014年05月07日
4月14日に、ナイジェリアの北東部にあるボルノ州の女子中学校が襲撃を受け、生徒200人以上が連れ去れる事件が起こっており、いろいろ思うことがあったので、これについて少し。
1 反欧米
今回の事件は報道によると、ボコ・ハラム(アラビア語で「欧米・禁止」)というイスラム系の組織で、さらわれたのは大半がキリスト教徒だそうです。
彼らは、女子教育に反対しており、女性は家にいればよいという思想を持っているそうで、結果生徒を連れ去った後、学校に放火をするということも行っております。
それ以外にも今回の事件の背景には、ナイジェリアはアフリカきっての産油国だが、その富は一部のものに独占されており、貧富の差もこうした事件の背景にあるとされております。
2 自由
私は相対主義者で(相対主義)、他人に思想を強要されることをもっとも嫌う性格なので、こうした暴力で他人に自分の思想を押し付ける行動については断固反対の立場です。そのうえで思うのは、もし自分がこうした国々に生まれていたらどうなっていただろうということです。
人はどう頑張っても言語を使って思考する以上、まず言語の影響を受けます。更に小さいころからどのような教育を受けてきたか、どのような両親に育てられたか等(親(オタク)が子育てに与える影響、児童虐待という現実と放送)、社会環境の影響を受けて育つこととなります。
結果、どうしても育った時代や、社会環境(含む家庭環境)の影響を受けるということになるわけですが、国際政治的に見ると生まれ育った国の影響という話になるかと思います。
つまり、先進国に生まれればそれだけで乳児死亡率が低く、生き残る可能性が高くなります。言語も国際的に通用する言語を母国語とするかどうかによって、国際化の時代大きな影響を受けます。
教育でも言論の自由、学問の自由があるかどうかによって、学べる知識に差が出てくるという話で、そうした知識を学ぶことができないところとそうでないところでは大きな差となります。
3 価値
そういうところで学んだ人は自分のいるところ、受けた教育が制限されているところがおかしいと思いがちで、皆が自由に学べるようになるべきだと考え、そうした発想の普及に努めるわけで、これ自体は崇高な考えかと思います。
ただ、問題はこれが結果として自分の価値観の押しつけになっていないかという面を考慮する必要があるという話です。
例えば、今回の事件も広い意味で男女差別という話なるわけですが、「男女平等」と一言で言っても、何を目標とするかによって目指すところは大分異なってきます。
例えば、文化の問題もあり、いわゆる「女人禁制」をすべて一概に男女差別とみなすのは多少乱暴だと思いますし、男子学生を受け入れない女子大が男女平等に違反しないのかという問題もあれば、性差を無視するようなことを目指す方もおられます。
4 多様化
私自身、価値の多様化を理想としているわけですが、「価値」というものはどうしても他の発想を排除して成り立つ面もあれば、全く反対の相容れない価値観も存在します。
そうすると、結果として私が理想とする価値観とは相いれない価値観(今回の事件もその一つ)をどうするかという問題が出てきます。
憲法学などであるテーゼで、憲法で思想の自由が保障されている以上、憲法を否定する思想についても保護すべきかという問題とある種共通するものかと考えます。
5 最後に
ただ、こうした思考は一種の思考的な遊びに過ぎず、あくまで思想(理屈)面で言えるだけの話であり、現実にはどこまで通用するのかという面もあります。
私自身、価値の多様化などときれいごと言っておりますが、当然普段そんなに他人の意見ばかりを尊重して生活しているわけではありませんし、日常生活で全く付き合いたくない方、受け入れがたい思想をしておられる方というのもいらっしゃいます。
また、冷戦時代ほどではありませんが、共通の価値観を有している人が増えるということは、ある種自分が生活しやすい社会が増えるという面もあります。
そういう意味で、価値観が陣取り合戦の様な面を有していることを否定するつもりはありません(欧米との価値観の共有を狙う日本と中国)。
私自身、価値の多様化を理想としているという点で、欧米的な「自由」を支持しておりますが、そうは考えない人から見れば余計なお世話になりかねず、そういう人たちの考えを排除するのは思ったほど簡単ではないし、一概に排除してよいのかいろいろ疑問に思っている面もあるという話です。
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この記事へのコメント
よって、「イスラムの教え以外はすべて邪教」こういう価値観があるわけですが。
もちろん、全てのイスラム教徒がこのような閉鎖的な価値観で凝り固まっているわけではなく、開放的な価値観の持ち主もいるわけですね。
特に、欧米と密接にかかわらなければならない、産油国の王族などは嫌でも開放的な価値観をもたなければならないでしょう。
昨年、「砂漠でサーモンフィッシング」という映画を見に行きました。
この作品は、イエメンの石油王(当然イスラム教徒です)が自国内の川(アラビア半島でも南部のイエメンには川があります)にサケを放流して「サケ釣りをしたい」という希望をもって、その希望にイギリス人の水産学者(主人公)が振り回される。というものです。
とはいえ、その王様は単なる道楽でサケ釣りをしたいというのではなく、「自分の代では不可能でもいいから、砂漠に川を流すことによって砂漠を緑化して農業などを根付かせたい」。という理想をもっていることが、明かされます。
当初、非協力的だった主人公は、その理想を聞くことで、王様に協力するようになっていきます。
「911」以降イスラム教と言うと、排他的で危険というニュアンスで語られがちですが、そのすべてが、過激で原理的ではない。こういうお話でした。
まず、昨日書いたとおり、縦軸に閉鎖的か開放的かをとり、横軸に唯一神教的か、多神教的かをとります。
唯一神教的と多神教的というのは、単純化すると「正しいものは一つだけ」というのと、「複数の「正しさ」があっていい」ということです。
また、閉鎖的と開放的は「自分(自分たち)のことしか考えない」、「自他の関係性を重視する」そういうことになります。
すると、おおむね「価値観」は「閉鎖的で唯一神教的」、「閉鎖的で多神教的」、「開放的で唯一神教的」、「開放的で多神教的」の4つのパターンに大別することが分かります。
凛様の掲げる「相対主義」は、「開放的で多神教的」な価値観でしょう。
自分としても、それが一番ベターだと思います。
問題なのは、閉鎖的で唯一神教的な価値観の持ち主でしょう。
こういう人たちは、「自分以外は全部敵で自分たちだけが絶対に正しい」こういう観念に凝り固まっているわけですから。
その結果として、自分とは違う意見や価値観の持ち主を、前後の見境もなく攻撃するわけですね。
その挙句、テロがあったり、また、そういう価値観の持ち主同士(国家や集団)の戦争があったりするわけですが。
また、個人レベルでもそういう価値観の持ち主が、増えている現実があります。
では、どうすればそういう争いを治めることが出来るかというと、結局「人は他者とかかわらなければ生きていけない」という事実を身をもって、分からせるしかないのでしょう。
私が話したのは幹部の数名と何度か話をしただけですが、少なくともその彼らはごくごく普通の人達です。普通の勤めもしている。そのあたりのおじさん、お兄さんです。
そして世間のイメージとは全く違って、イスラムへの信仰心があついわけでも何でもありません。
単にお金儲けの手段として、アルバイトとして過激派をやっているだけでした。
イスラムへの信仰は、単なる建前、アルバイトを効率よくするための呪文にすぎませんでした。
また、他の人からも同様の話をききます。
現在ではイスラム過激派や共産系の過激派というのは、信仰心や政治思想などもはや持たず、単に政府や企業から金を受け取りやすくするための受け皿に過ぎないということです。
不法なものの販売、通行料の徴収や身代金が彼らの収入源なのですが、いずれも何の政治色もない団体名でやるよりは、イスラム過激派や共産派を名乗った方が脅しがききますし、また不法行為を彼らや周辺住民に対して正当化しやすいということです。
今回のナイジェリアのイスラム組織がどの程度信仰心に篤いグループなのかはわかりませんが、上記のような単に名前だけのイスラム組織かもしれないと思うと、また違った様相が見えてきます。
アメリカでは(想像できると思いますが)、このイスラムの「非人道的」価値観に対して強い非難が繰り返し行われています。
高等教育を受けられなかったイスラム女性のインタビューがラジオで流されてるのを聞いたこともあります。
しかし、一方でそのイスラムの価値観を頭ごなしに否定してしまうのも本当によいのかどうかというのは確かに疑問です。
相容れない価値観、それも双方が正しいと確信している価値観の調整というのはとにかく難しいとしか言いようがないですね。
孔子の弟子に子貢と顔回という人物がいます。
この二人は色んな意味で、対照的です。
子貢は単純にいえば拝金主義者です。
その逆に顔回は現代風にいえば、貧乏長屋に住んで、三度のご飯にも事欠く暮らしをしています。
で、彼らの師である孔子は、この真逆な生き方をする両名を、同様に褒めるわけです。
「子貢は天命を受けているわけではないのに、商売をして、それがたまに当たって大もうけをする。その辺りは偉いものだ。
顔回は貧しい暮らしの中でも、愚痴や不平を言わずに学ぶことを欠かさない。これは素晴らしい」と。
普通に考えると、この両者は矛盾するもので両立しないでしょう。
実際の話、お金がすべてと考える人は、顔回を軽蔑するでしょうし、清貧が正しいと思う人は子貢を敵視するでしょうから。
それを矛盾させることなく両立させて、さらに褒めるこの孔子の思考法に「相いれない価値観の調整」を行うカギがあると思います。
それを少し考えてみます。
単純にいえば、物事を考えるための「枠」が一つしかない場合、矛盾が起きます。
例えば、道路が一本しかない状態で、上りと下りの車を同時に通せば衝突しますが、この衝突が「矛盾」です。
では、どうすればいいかというと、道幅が十分にある場合には、センターラインで区切って、上りと下りを分けてあげれば、衝突は回避されます。また、上り専用と下り専用の道路を用意すれば、最初から衝突はありません。
この「道路」を前述の「思考の枠」に置き換えれば、複数の思考の枠を用意することで、「複数の正しさ」を仕分けして両立させたり、全体的なバランスをとることが出来るようになります。
これが、孔子の思考法であり、また、「多神教的な価値観」ということになります。
これと同様な論理を、違った角度から検証しているのが、バートランド・ラッセルの「集合論」です。
このラッセルの集合論を考えるときの肝は、「自分を元(集合に加わるための要素)とする集合を作らない」と「階型の違い」です。
例えば、「白い馬は馬ではない」これを考えてみると、「普通の馬と白い馬は、違う階型に属している。よって白い馬は普通の馬と分けて考える必要がある」となるわけです。
これを単なる言葉の遊びと捉えるか、衝突や対立を回避するための方法論ととらえるかは、人それぞれでしょうが。
小林秀雄が孔子について書いておりますが、おっしゃるとおり、いろいろな弟子をもっておりながら、それらを全てうまく対応した人として書かれております。
ただ、彼の死後結局はバラバラになってしまったけであり、儒教思想も細分化されていくようになってしまいました。
より大きい枠組みで、皆の考えを包含できる思想が理想かと思いますが、現実問題として、創始者はそうしたことができるものの、二代目以降は同格とみなされてしまうため、なかなかできないという事例は多くあります。
おそらく、包含されるということは上に立たれるという感じになってしまい、こうしたことも事態を複雑にしているのかと考えます。
イスラム過激派と話ですが、すごいですね。フィリピン在住時代でしょうか?
確かに彼らにしてみればビジネスという面は間違いなくあるかと思います。
まともなことをしても食べていけない以上、失うものは何もなく、何をしても怖くないという発想に至った人間ほど怖いものはありません。
イスラムの価値化といった場合、日常生活まで規律されているので、付き合う上でいろいろ面倒だと思いことが確かで、こうしたことも誤解を生むもとになっている面はあるかと思います。
確かに「より大きい枠組みで、皆の考えを包含できる」ようになることは、難しいと思います。
ですが、今のように国家間ではベトナム対中国、あるいは、日本関係での「反日問題」民間レベルでは「美味しんぼ問題(放射能で鼻血云々)」のように、複数の「正義」が衝突する状況だからこそ、孔子の思考法及び孔子の思考法の実践できる人物が、必要とされると思います。
結局、それらに共通して言えることは、それぞれが「階型の異なる正義」だということです。
例えば、美味しんぼ問題では、健康被害と風評被害は元々違う階型に属すると、思うのですよ。
また、イスラムの価値観と欧米の価値観でも、やはり階型の違いが存在する。
これを、ごちゃごちゃにしているから問題が起こる。
いわゆる「味噌と○○を一緒にする」という状況です。
そして、その当事者にどこかの市長さんや元知事さんのように、自分の「正義」だけを振りかざす人が存在するから、なおのこと事態が悪化(特に感情面で)する。
また、自分の利益だけで、物事(対立)をあおる勢力(マスコミや軍需産業など)も存在しますし。
逆に、様々な価値観(正義)の「仕分け」をして交通整理をすることのできる存在がいれば、無意味な衝突は回避できるだろう。こういうことですね。
また、それ等が必要だという認識があるから、論語も2500年間読み継がれていると思いますし。
この「階型の違い」を短絡的に「差別」と認識して騒ぐ人がいるから、また無用なトラブルが発生したりするわけで。
「階型の違い」いろいろ考えさせられます。
私的にはフェミニズムなどをかじっていたことがあるので、男女の問題にこうした発想を取り入れてみるといろいろ面白いかと勝手に考えておりました。
参考になるご意見まことにありがとうございました。
イスラム過激派との出会いですが、これが全然すごくはないのです。
彼らは普段はごくごく普通の市民なので、偶然があれば誰でも簡単に出会います。
もう少し書くと、私は過激派の一人の家に1週間ほど泊まってました。当時、幹部の妹とつきあってたからなのですが、別に何かを脅されたり、宗教的な話をされたりということも全くなかったです。
毎夕、彼が表の仕事から帰ってくると、家の庭に座って一緒にのんびりビールを飲んで世間話をしていただけです。
彼らは、ステレオタイプな「貧困ゆえの闘争」や「固い信仰心ゆえの闘争」とは全くかけ離れていて、単に副収入を得るため(ちょっと贅沢をするため)に過激派をやっているような状態です。
私の知人は、別の国で共産党過激派(今なお毛沢東主義を掲げる原理主義的な党)の No.2 と会ったことがあります(こちらは、私のような個人的なつながりではなく、経済浮揚についての相談が理由でであったようです)が、やはりこちらも No.2 の人は結構普通の人だと言っていました。経済政策についても驚くほど普通のことを語っていたようです。
やはり、21世紀の現代に生きる団体というのは、建前はともかく実体は多かれ少なかれ世俗化しているようです。
途上国では、先進国の人間が持っているステレオタイプな物の見方がまるっきり的外れだということを感じることが多いですが、過激派についての認識もその1つかと思います。
私的には十分すごいと思え、今さらながら高田さんの交友関係の広さには驚かされます。
世俗化というか、やはり人間生きていかなくてはなりませんし、生きていく以上は良い暮らしをしたいので、どうしての金という方向に流されるという面はあるかと思います。
おっしゃるとおり、過激派に対するステレオタイプというのは間違いなくあり、ビンラディンなどの潜伏生活がそういう印象に拍車をかけた面はあるかと考えます。

