宗教

2016年07月05日

 いろいろ心が落ち着かないこともあり、たまたま本棚にあった『100分de名著 ブッダ 最後のことば』という本を読んだのでこれについて少し。


1 本の紹介

 これは花園大学の佐々木閑教授が書かれた本で、原始仏教の経典の1つである『涅槃経』を通してブッダの「最後の旅」の様子を紹介してくれている本です。


 ただ、この最大の特徴はいわゆる小乗仏教の紹介もしながら、ブッダが作り上げた独自の組織(論)について言及しているところです。


2 小乗仏教

 どうしても小乗という言葉自体が大乗との比較で特定の人(僧侶)だけが頑張っており、一般大衆を気にしないというイメージで見られがちですが、それが間違いであることを丁寧に教えてくれる本です。

 どういうことかというと、二元論で、僧(修行のための組織)と俗世を区別し、出家した人は修行をする。そして何をしているか包み隠さず公開する。

 僧の修行が俗世の人に良い影響を与えると共に、俗世の人はそうした修行をする人を援助することが功徳となるという発想です。

 そしてその功徳には現世的利益がメインという発想は初めて知りました。大乗はこの功徳に修行と同じ効果(最高が涅槃に行けること)を与えるというわけです。


3 組織論

 この本のメインは先に書いたように如何にブッダが作った組織がすごいかという観点から書かれております。

 それはそれで大変感銘をうけたのですが、今の精神状態では関心がそちらにないため(葬儀と遺された人、割愛させてもらいます。


4 涅槃

 仏教の基本概念は「生」とは苦しみであり、何もしなければそのまま輪廻転生を繰り返し、その苦しみを未来永劫続けなければなりません。

 そこから離脱して涅槃に行くようにできることにするが修行なわけですが、この人生が「苦」というのはよくわかります。

 他人から見れば羨ましい限りの人生も当事者にとってみれば、苦労の連続ということはよくありますし、幸せの絶頂にある人がいきなり病気になってしまったり、更には亡くなってしまうことも多々あります。

 この苦しみから解放された状態が涅槃であれば、皆が皆どんなに幸せかと思います。


5 来世

 そして、そこでまた愛しい人たちと再会でき、これから幸せに暮らせるならどんなに良いことでしょう(正直私もこの発想が今はとても魅力的に思えてなりません)。

 ただ、怖いのは類似の発想を基に異教徒をせん滅すれば(イスラム教的な)天国に行けると洗脳をしたり、戦死しても靖国神社であえるという考えから命を軽んずることだけはどうかと思います。

 また、その一方で、歳をとって知り合いが皆亡くなってしまい、早くお迎えが来ることを望んでいる方の気持ちもわからないではありません。


6 最後に

 黒澤明監督の『夢』の最後のエピソードにあるように、歳をとって亡くなる大往生は悲しいことではない。そう考えるのが良いのでしょう。


 それをむやみに早くなくそうとしたり、他人を巻き添えにしたりしようとすること、それは間違っているということだけは自信をもって言えます。

 年齢的には大往生でなくても、自分のやりたいことを精一杯やってきて、そこで力尽きればそれも本来は悲しむべきことではないのかもしれません。

 ただ、悲しいかな私がそこまでできた人間ではないことに尽きるのでしょう。



凜amuro001 at 22:40│コメント(0)トラックバック(0)

2016年07月04日

 昨日書いたとおり、私にとって大事な人がガンで亡くなってしまいました。今日その告別式が行われたのですが、思うことがあったので、少し。


1 弔い

 以前誰がが何かで書いていたのですが、葬式は亡くなった人のためではなく、残された遺族のために行われるという趣旨の文を読んだことがあります。

 その逆説的な言い方が印象に残ったせいか、今日まで覚えているわけですが、その時読んだ時は、「そういうこともあるか」位の印象でした。

 ただ、今日の告別式、そこに至る過程で、否応なしに故人は、もう生きてはいないのだということを見せつけられ、本当にその通りだと思った次第です。


2 過程

 特に急に亡くなられた方の場合ですと、どうしてもその死を受け入れることがなかなか難しいわけですが、葬儀などの一連の過程で否応なしに受け入れさせられます。

 感情も同じで、ただ泣いているだけでは他人は私に何があったのかわかりません。

 他人に理解してもらうには、自分の感情を整理してある程度言語化しなくてはならないわけですが、その過程で気持ちの整理をついてきますし、自分の感情を自分で理解することもできるようになります。


3 死後

 そして、今日述べられた弔辞で結構多かったのが、「あの世で待っていてください」「またお会いしましょう」というものです。

 確かに死んでしまえばお仕舞ですが(当たり前だけど死んだらお仕舞い)、その人との関係が強ければそれほど単純に割り切れるものではありません。

 するとどうしてもまた会いたいという思いも募りますし、この世での生が終わってもあの世で幸せに生きていてほしいという思いが出てきます。

 結果、先の様な弔辞になるのでしょう。当然願わくば、自分の死後もそうであってほしいという思いが入っていることはいうまでもありません。


4 最後に

 これが一神教であれば、全く違った発想となるわけですが、今日はとても他のことが考えられる状態ではないので、ここまでとさせてもらいます。

 ブログを書いている理由は、この中にもあるとおり、自分の思いを整理しているためです。そしてそうでもしないと感情に押し流されてしまいそうで怖いためでもあります。

 本当にフロイトの言ったとおり、無意識の部分(言語化できない部分、感情といってもいいのでしょう)、は果てしなく大きく、これを意識でコントロールするのは本当に大変だとつくづく思っている次第です。



凜amuro001 at 21:57│コメント(1)トラックバック(0)

2016年07月03日

 本当に久しぶりの更新となってしまいましたが、以前書いた私の大切な人がガンで亡くなってしまいました。


1 病気

 それまでは、本当にすごく元気で、ガンとわかってからも手術をしてからは以前と何ら変わりのない生活を送っていたのに、あっという間に病状が進行してしまいました。

 奇跡が簡単に起きないことはわかっていましたが、それでもこんなに早く亡くなるとは思っていなかっただけに何とも言えません。

 

2 テロ

 こうした時でも世界ではテロが起きており多くの方が犠牲になっております。特にバングラデシュでのテロは邦人が犠牲となっただけにマスコミも連日報道しており、嫌でも耳に入ってきます。

 「政治学」的にはテロの起きる要因とか何故その場所で起こったかなどが大事なのでしょうが、今の私的にはそうした知識的なことより、「人の命」という面が思いの大半を占めております。


3 宗教

 人は体だけでなく、心の安定がなければ生きてはいけないわけで、そのために頼るものとして、心に安定をもたらすものとして宗教が生まれたと私は考えております。

 斯様に本来人に安定をもたらすためのものが原因で人が殺され、多くの人が難民となり心どころか身体の面でも危険にさらされているとすれば、何という矛盾なのかというのが私の思いです。


4 痕跡

 大切な方を亡くされた遺族の方のことを思うと本当に言葉もありません。テロにあうまでは間違いなくそこに存在し連絡を取っておられた方が急にいなくなってしまったという現実、これに耐えるためにはかなりの精神的な強さが必要です。

 そしてそこかしこにその方が生きていた時の痕跡があり、これまでの積み重ねがあり、これからしようとおもっていたことが無くなってしまった悲しみ、本当につらいものがあることは、想像に難くありません。


5 誤解

 本当はもっといろいろな思いがあるのですが、うまく理論化できません。こうしたことからも、言語化する(できる)ということは本当に自分の思いの一部に過ぎないということがよくわかります。

 そしてその部分しか相手に伝えることができないわけですが、残りの言語化できかなった思いは他人に誤解されがちになります。

 それ以前に言葉が違ったり、そもそも考え方が違えば、誤解が生じやすいのは間違いないわけで、それが他人との争いを生むことは否定しません。


6 最後に

 ただ、それでも人の命ほど大切なものはないわけで、それをないがしろにする思想ほどおかしいものはないと思います。

 宗教に限らず、ある特定の思想が素晴らしいと思うことは自由です、ただ、それを広めようとすると他人との衝突が生ずるわけで、その中で人の命を軽んじてしまう方まで出るのが現実かと思います。

 実際、日本が参加した第二次世界大戦も当然様々な要因で起こったわけですが、今の私には同じようなことが原因だったとしか思えません。人に幸福をもらたすはずの思想が人の命を救う、この矛盾が今の私的にはどうしても納得できなかったが故の今日のエントリーでした。



凜amuro001 at 22:15│コメント(2)トラックバック(0)

2015年12月16日

 これまでも何度か「死」について言及してきたことがありますが(小さい子の死と生きてきた証)、『新華ニュース』が配信していた「韓国 模擬葬式が流行 サラリーマンの自殺を防ぐ」という記事がいろいろ興味深かったので、これについて少し。


1 記事の紹介

 英メディアの翻訳記事で、自殺率の高い韓国で、「従業員に命の大切さを実感させようと、一部の韓国企業は従業員が参加して模擬葬式を行い、従業員らに死を体験させた」というものです。

 具体的には、「参加した従業員らは棺おけの中に横たわり、じっと天井を見つめ」「周りの照明が次第に暗くなり、帽子を被った黒い服の“死亡の天使”を務める人が棺おけの蓋を」します。

 「真っ暗になった後、従業員らは人生の意義を考え直す。死の体験は10分間にわたる」というものです。

2 死の体験

 こうした試み(方法)が良いことかどうかは何とも言えませんが、私的には大変興味深い試みだと思ったというのが本音です。

 人は必ずいつか死にます。兼好法師ほどの方であれば、確かに常々からそうしたことを考えて、自分の生き方を反省し、よりよく生きていくことも可能かもしれませんが、私ごときものにはなかなか難しいところです。

 死はそこで強制的に自分が今やってきたこと、これからやろうと思っていたことを直ちに終了させてしまいます(当たり前だけど死んだらお仕舞い)。

 そのため、本来であれば、その準備をしておいた方が良いわけですが、それは自分の死を現実のものとして考えなくてはならないことになるので、かなりきついものがあります。


3 死の認識

 普段はなるたけ死を考えないようにして(忘れたふりをして)生活しているわけですが、下手にもうすぐ死ぬかもしれないなどと考えるようになれば、何をやっても同じだという発想にもなりかねません。

 結果、未来に対する希望などは考えられないわけで、将来を悲観するうつ的傾向がでてくるということにもなりかねません。

 そのため、普段はなるたけ死に目をつむり考えないようにしているわけですが、テレビのニュースなどで死亡事故などが報道されるとどうしても意識に入ってきます。


4 わが身

 「同情」と言い換えても構わないのでしょうが、他人のことをどれだけ自分のこととして考えるという話です。

 自分と関係のない遠くのところで誰が死のうがあまり自分には関係ありませんし、実際常に多くの人が亡くなっているわけで、そんな遠くの人のことまで心配していたのでは、いくら心配しても足りません。

 ただ、東日本大震災やフランスの同時テロなど、多くの方が犠牲になり、理不尽に急に人生を終えなくてはならない方がたくさんいたとき、それが自分だったら(自分に親しい人だったら)と想像力が働くことになるのでしょう(フランスのテロを自分の問題として捉えること)。

 それはすごく大事なことでしょうし、そんな時だけと言われようが、偽善と馬鹿にされようが、しないよりははるかに良いことだと思います。


5 最後に

 死を考えることによって、今自分がやってきたこと(やろうとしていること)が全て無くなってしまう恐怖を思い、そしてそれを悲しんでくれる人の存在など、結果として自分の命の大切さを考えるようになるのではないでしょうか。

 そして、結果、他人の命も同じ価値があることに気づき、殺人という行為が如何にひどい行為であるか気づくようになるのではないかと思います。

 死ぬことは怖いわけですが、そのため、その逃げ道に宗教を用いることが良くあります。ただ、それが悪用されて、結果自爆テロの様な行動にでる方が生まれることは本末転倒でないかとも考えております。



凜amuro001 at 22:37│コメント(0)トラックバック(0)

2014年09月27日

 『Tech insight』が配信していた「『エボラ犠牲者が祈祷で蘇った』。噂を信じるリベリアの村民らに終息の道は遠く。」という記事がいろいろ興味深かったので、これについて少し。


1 記事の紹介

 「世界保健機関(WHO)も『11月上旬に2万人を超す可能性』と予想。犠牲者の数も3000人におよぶ勢いを見せている」エボラですが、そんな「中、リベリアでは住民への指導体制に逆らうような“儀式”が行われていたもようだ」という記事です。

 リベリア・ニンバ郡で、リベリア人のある医師が、2名のエボラ出血熱患者に対して、「与えられた薬をやめさせ、独自の食事療法に切り替えたら治った。死んだと思われた患者も祈祷によって息を吹き返した」などという噂が、流出しているそうです。

 結果、そうした「噂は真実ではなくその医師がエセであった可能性が高」く、「2人の女性患者は亡くなり、すでに埋葬された」そうですが、「なかなかメディアの情報が伝わら」ず、「海外の医師より地元の医師が安心」という話にもなっており、「新たなエセ医師出現の心配や、住民が医療行為より祈祷などと考え始めていることに、現地の関係者らは改めて警戒感を高めているもようだ。」としています。


2 迷信

 こういう話を聞くと、最初に浮かんでしまうのが、こうした迷信を信じる「未開の地」というイメージかと思います。

 ただ、私自身あまりこういう発想が好きになれないのは、日本も江戸末期に天然痘予防のための種痘接種にあたって、ウシが感染する牛痘の膿を用いたために、予防接種を受けると「牛になる」と信じていた方がかなりおられました。

 また、予防接種を受けてもらうために、当時天然痘よけとして、信仰されていた鍾馗の絵を用いるなど、いろいろ苦労なさった様です。

 そうした当時の日本の様子を日本にきた欧米人がどのように見ていたかという話ですが、いろいろ思うところはあります。


3 迷信2

 ただ、それ以前に今の私たちにも記事にあるリベリア人を笑う資格があるかとなるとかなり疑問です。私は人間はそれほど強いものだとは思っておらず、何か頼るものが必要だと考えております。

 もしかするとそれが宗教かもしれませんし、ゲン担ぎかもしれません。日本の場合どうしても自分たちが無宗教だという誤解をしていることが多いため(『日本人はなぜ無宗教なのか』)、こうした話題を避けようとするかもしれません。

 しかし、実際周りを見てもわかるとおり、縁起を担いだり、占いを信じたり(気にしたり)する人は多く、これらを全く無視して生きている人はそれほど多くはないかと思います。


4 医療

 それ以前に、エボラはウィルスがもたらす、その治療のための薬は製薬会社が開発したこういうものがあると私たちが信じておりますが、これが話して迷信とどう違うのかという話もあります。

 学校などで、小さいときからこういう知識に触れているからそれが当たり前だと思っているだけの話で、実際ウィルスなど電子顕微鏡の写真でしか見たことがありません。

 それが何故本当にウィルスの写真と認識しているかというと、そう信じているからで、迷信を信じているのと大差ありません。

 治療行為にしても同じで、どうしてこういう薬を飲むと治るかなど、全く分かっていないわけで、医師、現在の医療技術を信頼しているから、治療を任せているだけの話で、祈祷師を信頼しているのとどれだけ違いがあるのか疑問です。

 つまり小さい時から、こういう迷信に触れているから迷信を信じているのと、小さい時から科学に触れているから、科学を信じているのとどういう違いがあるのかという話です。


5 最後に

 最後は単に効果があると信じている(知っている)から、それを任せているだけの話です。同じように機械にしてもわかったようなふりをして使っていますが、何故そうなるかなどの原理は全く理解しておりません。

 そういう意味で、偉そうに最新機器を使っていても、単に操作方法を信じているだけで、呪術の手順を信じている人とどう違うのかという話にもなりかねません。

 念のため補足しておくと、私はもちろんこうした祈祷(迷信)を信頼しているわけではないのは言うまでもありません。

 ただ、こうした記事を読んで「未開」云々と批判するほど自分たちは偉いのかと、ふと思ったが故の今日のエントリーでした。



凜amuro001 at 02:46│コメント(9)トラックバック(0)