いじめ

2016年01月07日

 日本に帰ってきましたが、相変わらずの時差ボケで、眠いだけで、ロクに何も手につかない状態です。そのためブログの更新も滞りぎみで、誠に申し訳ありません。


1 偶然

 前回書いたとおり(フランス旅行雑感)、今回は行きも帰りも北京空港で乗り換えの、中国国際航空会社を使用しました。

 そこで思ったのが、東京から北京までの対応は本当に良いのですが、北京からパリまでの対応がかなり違っていたということです。

 行く時はもしかしたら、たまたまそうなのかとも思いましたが、帰りもそうだと、偶然というよりは意図を考えた方が良いと思った次第です。


2 問題対応

 パリから帰ってくる時、座席の前のテレビが壊れて映らなかったのですが、その時、フライトアテンダントにその旨をいったら、壊れているから席を代われというだけで、案内もしてくれません。

 テロの影響か、結構空席があったとはいえ、エコノミーの3列のどこに座るかは結構大きな問題で、そんなに簡単なことではありません。

 文句をいったら、隣が空いている席を探し出してもらえたのですが、本当いやいやという感じがミエミエで、これにはかなり閉口しました。


3 サービス

 それに対して、東京-北京間は物腰も丁寧ですし、言い方も本当に穏やかで、かなり訓練されていることが見て取れました。

 邪推するに、日本―中国は競合相手(航空会社)が多いことや、利用する日本人(含む団体客)が多いので、いろいろうるさいクレームなどがはいることなどが原因かと思います。

 それに対して、北京-パリはそれほど有力な競合相手もいないでしょうし、利用する人も中国人を想定している感じで、本当にフライトアテンダントもかなりフランクな対応となっていました。


4 一部

 ここまでが前書きで、ある意味ここからが今日の主題です。こうした「東京-北京」と「北京-パリ」の対応を受けた人がどう感じるかと言う話です。

 前者だけを見た人は、中国のサービスもかなりの水準に達したとみるでしょうし、後者だけを見た人は、まだまだと感じるでしょう。

 同じ航空会社、同じフライトアテンダントとは言っても、全く違った印象を与えてしまうわけです(中国を知っていますか?(中国と化石2))。

 実際、これまで何度も書いている様に中国は本当に大きな国と人口を持っているので、能力、個性千差万別です。結果、素晴らしい人も多ければ、どうしようもない人も多くいるという話になります。

 その、どちらを見るかによって、中国に対してかなりうける印象が異なってしまうわけですが、どうしても悪い方が目立ちやすいので、そちらの印象を持つ人が多いようです(中国人観光客の「悪習」とその原因中国人海外旅行客の買い物の評判)。


5 理想主義、合理主義

 あと1つ述べておきたいのが、日本と中国の違いです。日本であれば、精神性というか、理想が先に立ち、サービスは書くあるべきだ、客には丁寧であるべきだという発想が最も優先されます。

 しかし、中国の場合、もっと合理的で必要なところを丁寧にすれば良いと考えるようです。結果、日本の場合は皆にそれなりのものを提供しますが、どうしても平準化しがちです。

 それに対して中国の場合、特定の人、必要なところには重点的に資力、労力を投入します。結果、(日本人)トップが真っ先に懐柔され、そのため部下が苦労するというパターンになりがちです。


6 最後に

 もちろんどの制度にも一長一短があるわけで、日本であれば、同調意識の強さ、それについて来られないものを排除するイジメという話になるのではないでしょうか。

 また、理想を追い求めた結果、細かいことにこだわりすぎて、全体が見えなくなることもあるかと思います。

 中国の場合であれば、こうした意識の違いが、貧富の差を容認することになったり、関係と呼ばれるコネを優先する思想(自国の法制を全く信用していない中国人中国の縁故採用等)に繋がるのではないかと勝手に思った次第です。



凜amuro001 at 21:54│コメント(2)トラックバック(0)

2015年12月23日

 相変わらず時差ぼけの毎日で(フランス旅行雑感)、変な時間に目が覚めてしまい、やることもないので、日本のネットなどを見ているという最悪の時間つぶしをしております。

 そしたら、貧困問題についての記事がいくつか目についたので、これについて少し。


1 女性と子供

 最近の傾向として、どうも女性と子供に焦点が当てられているものが多いようです(『貧困の中の子ども: 希望って何ですか』)。

 以前は男性の低賃金労働者などに焦点があてられることが多かったわけですが、彼らにも妻や子供がいることがあり、その場合、どうしても貧困という問題は避けては通れません。

 ある意味、これまで見逃されてきた面にやっと関心が来たということもいるかもしれませんが、身もふたもないことを言ってしまえば、マスコミ的にこちらのほうが絵になるという側面もないとは言えない様な気がしてなりません。

 同じ困っているにしても、子供がホームレス同様の暮らしをしているのと、中年男性では全く受ける印象が異なります。

 子供の場合であれば、親の責任とは切っても切り離せませんし、保護という面での行政の責任なども出てくるかと思います。

 それに大人のホームレスは既に問題が長期化しており、今更という面や、自己責任という話も出てきやすく、最近ではあまり注目もされないようです。


2 負の連鎖

 それに、正直大人の場合は、どちらかというと中年以降の方が多く、これからどれだけ変わりうるかという問題もあります。

 その点まだ若年層であれば、これから変わりうる側面も多ければ、社会的にも何とかしてやろう(自分で何とかできるようになれ)という圧力が強く、それが関心に結びついている側面もあるのかと思います」(貧困の連鎖と親の影響)。

 それにどうしても子育ては自分がされてきたことがメインとなって行われるため、きちんとした生活習慣など基本的なことを親から教わってきていないため、自分が親になったときに教えることができないという例も散見されます。

 ただ、日本の場合は同調圧力が強いので、子供の頃であれば、学校で自分が家が他人と異なっていることにかなりの違和感を持つようになるのではないかと考えています。

 こうした時期にきちんとした指導などが行えれば、それなりのことはできるようになるかと思うのですが、実際問題家庭にどれだけ入っていけるか、どう行えるかはかなりの難題かと思います。


3 被害者意識

 最初に断っておきますが、私はいじめは絶対にあってはならないことだと思っていますし、いじめられる方が悪いなどとは全く思っておりません。

 ただ、中には仕事をしていてこの方はちょっとという人に出会うことも少なくありません。当然完全な人などはいないわけで、多かれ少なかれ皆欠点があるわけで、程度問題に過ぎないという側面もありますが、その度合いがと思ってもらっても結構です。

 例えば、学歴が高いことや、語学などの特殊技能ができることを、あまりに頼りにしすぎる方がおられます。学歴が高いこと、特技を持っていることはすばらしいことですが、当然仕事をする上ではそれがすべてではありません。

 他人に合わせることも必要ですが、たまたまそれが苦手だった場合、他人は私が○○に優れていることを妬んでいるなどという発想にいたっていることもあるようです。

 全くないとは言いませんが、実際文句を言っているのは仕事ができないことです。ただ、その人の話となるというどうしてもそうした○○が出てくることが多いので、当事者にしてみれば妬みととることになるのでは
ないでしょうか。


4 最後に

 ネットでの記事では、他に会社に正論を言ったら、問題視され、居づらくなって辞めたなどというのもありました。気持ちはわからないではありません。

 正しいことは正しいわけですが、会社にはこれまでのやり方もあれば、そうしてきた当事者もいる場合が結構あります。

 それらすべてを無視していきなり、正論をはいても、どれだけ相手にしてくれるかという話でしょう。それにどうも私の経験則ではそういう方に限って、自分のやり方を曲げないような気がしてなりません。

 他人に言うことを聞かせたかったら、ゆずるところはゆずるべきでしょうし、やり方(方法)も考えるべきかと思います。

 そうした社会になじめず、結果貧困に陥ってしまったという感じの記事をいくつか見て、ふと自省の意味も込めての今日のエントリーでした。



凜amuro001 at 13:53│コメント(0)トラックバック(0)

2015年11月08日

 本当にひさしぶりにひどい風邪をひいてしまい、ここ1週間ほど何もできない状態が続いております。パソコンも開けないほどで、自分でもびっくりの状態です。

 こうしたこともあり、最近のネタを追いきれない状態で、少し前(10月26日)の話ですが、アメリカで起こった白人警官が黒人の女子生徒を床に引き倒して教室を引きずりだした事案について少し。


1 事件の概要

 アメリカのサウスカロライナ州の高校で、白人の警察官が黒人の女子生徒を床に引き倒して教室から引きずりだしている場面が動画で撮影され、それがネットで広がり話題になったものです。


 


 あまりにもその警官の対応が横暴ではないかとか、人種差別ではないかとか、本来学校の安全を守るために配置されたはずの学校常駐警察官のすべきことかなど、いろいろな意見が寄せられたようです。

 結果、この警察官は解雇されることとなりました。また、この女子生徒は学校では禁止されていたスマホを使用していたことや、警官への暴力などで、州法に基づいて告訴されたそうです。


2 スマホの使用

 確かに学校ではスマホの使用は禁止されているかもしれませんが、それがどこまで守られているかは疑問です。

 実際、今回の騒動にしても別の生徒がスマホを使用して撮影した動画が引き金になっているわけで、この女子生徒以外にも使用していた生徒はかなりの数に上ると思われます。

 それにもかかわらず彼女だけがこうした処罰をうけたのであれば、確かに人種差別という話になるかもしれません。

 ただ、こうしたことは日本でも良くある話で、同じことをしても普段素行の良い方がすれば、大目に見られ、普段からも問題視されている方がすると大事になるというパターンかもしれません。


3 警官(制服)

 あの映像が衝撃的だったのが、制服を着た恰幅の良い男性がまだ幼さの残る女子高校生をという面もあったかと思います。

 普段ぱっとしない人も制服を着ると別人のようにパリッとすることがよくあります。鼓笛隊や演奏会もあの格好でやるから人は感動するという側面は否定できないと考えます。

 これは見る人がそう思うだけでなく、制服を着ている本人もそれを自覚している側面があります。有名な実験として、スタンフォード監獄実験があります。

 これは、看守役と囚人役として学生に割り振って、それらしい恰好をさせたところ、看守役の学生が囚人役の学生に対してかなり非人道的な行為を行えてしまったというものです。

 「警官」という立場で臨んだにもかかわらず、それを無視するような振る舞いをした女子生徒に対する反感の様なものもああいう行動にでた原因の1つかもしれません。


4 最後に

 もちろんアメリカには日本にない事情の多くあるかと思います。もともと、学校常駐警察官が導入されるような学校での暴力事件というのがどういうものか、日本では想像もできない話です。

 そうするとこうした「暴力」に対して、中途半端な対応をとると、なめられてしまって却ってひどいことになりかねないなどの問題もあったのかもしれません。

 確かに今回の警察官の対応に全く問題がなかったとは思いませんが、現場で立つ者にはその者にしかわからない苦労があります。

 警官とか教師などはその最たる例でしょう。その一方、何かあると真っ先にたたかれるというのもこの2つの職に共通していることでしょうか。

 私はそういう意味で今回問題になったから場当たり的に解雇という結論をだしたことについてどうかと思っているという話です。



凜amuro001 at 07:31│コメント(0)トラックバック(0)

2015年07月31日

 『THE PAGE』が掲載していた「それでも彼らは高く飛ぶ -10代ブラジル人の今-」という記事がいろいろ興味深かったので、これについて少し。


1 記事の紹介

 日本で最も在日ブラジル人の数が多い静岡県浜松市で、親に連れられ10代で来日した子どもたちを取材し、それを紹介している記事です。

 7歳で日本へ来て、「日本語を習得し、日本文化になじんでいく中で、『家族から離れていく感覚を味わ』」う少女、その一方で、「いくら真似をしても日本人になれないことが、ただ悔しかった」という思いをせざるをえない現実。

 結果、この方は猛勉強をし、大学に進学し、「外の世界」、「日本とブラジル以外にも国があるんだということを知」ることができたそうです。

 「子どもたちを進学させたい。将来の可能性が広がるから」と言われていた校長先生の「多文化共生とかグローバルという言葉は好きじゃない」「私の軸は4つのキーワード。“お互い理解しようとする→譲歩する→我慢する→あきらめる”です」という言葉が胸を打ちます。

 もちろん、本音では校長先生もあきられているわけではなく、学校の掃除など譲らないことは、多々あります。

 他にも、体育の授業で整列ができず、「アクセサリーじゃらじゃらつけて、ガム噛んで、飲み物持参で来る」生徒など、大変興味深い事例が掲載されております。


2 異文化理解

 私がこの記事から特に深く感銘を受けたのは、異文化理解と教育の重要性の2点です。確かに全く自分たちが普段生活しているものとは異なる異文化と触れ合ったとき、当然びっくりするわけで、その後どう対応するかという話です。

 元記事にある「多文化共生」という言葉は私も正直すきではありません。理由は多文化共生とはこうあるべきだという概念から発生したもので、頭の中にある理想形の様な気がするからです。ただ、異文化との交流接触となると、頭でわかっているかどうかではないことが結構あります。

 卑近な例では、食事をする時に碗を持って食べるかどうか等で、韓国では碗を机に置いて食べる(いわゆる犬食べ)が礼儀とされていますが、日本人にしてみれば不作法となります(「相互理解」は可能か?)。

 これは頭で理解することではなく、そうした行為を気持ち的に受け止められるかどうかという話です。最後は結局どちらかが折れる(我慢する)しかないというのが本当のところで、こうした違いは至るところにあると考えます。


3 教育

 学歴社会という批判があるかもしれませんが、教育(知識)が力であることは間違いありません。

 そして、それなりの学歴がないことには、競争には勝てません。能力的にもきつい面があるでしょうし、それ以前に世間は人を判断する際にいちいちその人がどの程度の能力があるかなど判断してくれません。

 結果、わかりやすい肩書が必要となるわけで、その最たるものが学歴となるのでしょう。 また、教育はある特定の価値観に基づいて行われるため、どうしても以前書いた様に閉鎖的になりがちです(岩手の中二自殺事件を受けてなすべきこと2)。

 結果、学校以外のことを知らない、学校だけが全てとなってしまうことも往々にして起こりがちです。 学校だけが全てではありませし、世界にある国は当然日本だけではありません。どうしてもダメとなったら、それ以外のところに行くという選択肢もあるわけです。

 ただ、それはそれで、これまでの延長でできればよいのですが、そうでないと、1からやり直さなくてはならない訳で、大変なことは間違いありません。


4 最後に

 何事にも長所と短所があるという当たり前の話です。日本の場合同一化の圧力が強すぎるため、それが良い方に働けば、皆最低限度のことはクリアしている、ある程度の質は期待できるということになります。

 これが短所となると、そこから外れたものは「異端」として徹底的に排除されることとなります。結果、今回のブラジル人少女の様に「日本人になれない」と悩むことになるわけですが、それ以外の選択肢が見つかれば問題は解決します。

 そういう意味で私は逃げるという選択肢を否定する気はありません(日本の「いじめ」(大津市の「いじめ」事件より))。ただ、今後どうするか考えながら逃げるべきで、単なる時間稼ぎ的な逃避はどうかと思っているという話です。



凜amuro001 at 21:52│コメント(2)トラックバック(0)

2015年07月29日

 『マイナビスチューデント』が掲載していた「日本の先生は世界で一番働いているが、授業にかける時間は少ない事実」という記事がいろいろ興味深かったので、これについて少し。


1 記事の紹介

 「昨年6月にOECD(経済協力開発機構)が行ったデータによると、中学校では、1週間あたりの平均勤務時間は、参加国(33の国と地域)で38.3時間に対し、日本は53.9時間と参加国中とダントツで最長」だそうです。

 「しかし、そのうち授業に使った時間は。参加国の平均が19.3時間に対し、日本は17.7時間と少ないことが判明。授業以外の時間に使っている時間が長いということになる」としています。

 評論家の尾木直樹氏は、これについて「今さら…、こういう(忙しい)状況はずっと続いている。日本は国際平均の1.4倍働いている。これはきついです。7項目調査して、低い項目が2つあり、そのひとつが授業で、もうひとつは保護者対応。何が多いのかというと、課外活動、つまり部活動。国際平均は2.1時間、日本は7.7時間で3倍強。(部活動の時間を減らすことではなく)教師だけでやろうというのが無理。」


 「行政も良くない。学校は閉鎖的で東京ではテレビは入れないです。閉鎖しているから伝わらない。イジメが起きれば、隠ぺいが行われる。閉鎖的なのがものすごく社会に影響している。」と述べているという記事です。


2 学校

 これはすごく納得できる話で、常々学校には教師と生徒しかいないというのが私的にはおかしいのではないかと思っております。

 それに教師が生徒指導から授業・部活の指導までやらなくてはならないのもどうかと思っております。特に部活となると、普段の指導から土日の試合までで、それも毎年となると、とても私には勤まるとは思えません。

 それ以前にそうしたスポーツの経験のある方ばかりではないはずなので、やったことのない競技をどこまで指導できるのかも疑問です。


3 補助

 何が言いたいかというと、教師以外の第三者の手を借りれば良いのではないかという話です。教師の増員となると金の問題となるわけですが、そこは地域のボランティア的要素をつかえば、対応可能で、特にスポーツ指導などは地域にいる経験者の方が教員よりうまく指導できるかと思います。

 それにいじめなどは、学校という空間が閉鎖されていることが問題の1つにあると思うので、こうした第三者をいれることによって、如何におかしいことが行われているかなどを知ることも大事かと思います。

 ただ、いろいろやっかいなのは、こうした第三者となると、本当に(能力的にも)適切かという問題があり、指導している自分だけが適切と思っているだけで、学校も生徒もその人の指導を全く望んでいないことも多々あるので、生徒の意見を聞いて排除できるようにする仕組みづくりも大事かと考えます。


4 専門

 最後は学校に何を望むかという話です。本来一般常識や道徳などは家庭で教わるべきものかと考えますが、それができない親がいます。

 そうした親の子は諦めるしかないのかというと、それはおかしい話で、誰かが指導してやらなくてはなりません。

 いま、それが学校になってしまっているわけで、授業のほかにあれもこれもというのが実態で、それで何か1つうまくいかなければ、批判を受けるというのであれば、教師もたまったものではありません。

 予備校の様に、授業だけしていれば良く、来ない生徒は一切関知しないというのであれば、教師も楽でしょうが、学校では許される話ではありません。


5 最後に

 私は学校にいろいろなことを期待しすぎていることが最大の問題ではないかと考えます。確かに学校に行くことによって集団生活を学ぶことができ、今後社会生活を営んでいく上で、必要なことを学習します。

 そして、更に生きていくために必要な知識も教えてくれます。しかし、あまりにもたくさんの機能を持たせられすぎているために、期待されているためにいろいろ問題が出ていることも確かではないでしょうか。

 こうした問題を解決するために、ある程度、役割分担をし、部活ならどこぞのクラブや各種教室に委託しても良いのではないかと考えます。結果、教師の負担も減り、子供たちが地域に入っていくことを促進でき、民間の学習機関の有効利用にも役立つのではないかと思います。



凜amuro001 at 19:49│コメント(0)トラックバック(0)