就職

2016年03月23日

 「ベネッセ 教育情報サイト」が掲載していた「国立大、今や必ずしも学費は安くない……?」という記事がいろいろ興味深かったので、これについて少し。


1 記事の紹介

 「現在の国立大学の授業料は、年間53万5,800円で」、これは「国立大学が法人化された直後の2005(平成17)年度以来、10年以上、据え置き」だそうです。

 「一方、入学料は28万2,000円。こちらは2002(平成14)年度からの据え置きです」で、授業料と入学料計で、「入学初年度に81万7,800円」が必要としています。

 「これに対して、私立大学は2014(平成26)年度の平均で、授業料は86万4,384円、入学料は26万1,089円」と、「国立大学に比べると、授業料は1.6倍、入学金と合わせると1.4倍」だそうです。

 「30年前の1984(昭和59)年度、国立大学の授業料は25万2,000円、入学料は12万円で」、それと比較すると「それぞれ2.1倍、2.4倍になっています」。

 こうした状況を受けて、記事では、「昔のように『家計が苦しくても、国立大学なら行ける』という状況でないことも確か」としています。

 その上で、「大学教育の質を向上させるためには、財源が必要なことも事実です。公私を問わず、教育費負担の在り方を、国の政策として真剣に考えることが求められます。」として記事を終えています。


2 方策

 おそらく一番簡単な方策は暴論を言ってしまえば、重点方式でしょう。ある一定程度の成果を挙げている大学(学部)には、資金(補助金)を提供するが、そうでないところは大幅にカットするというものです。

 最後は大学が何のために存在するかという話にもなるわけですが(中堅の大学より、底辺の大学の方が就職しやすい?)、本来高校などで行うべき教育を再度行っているようなところに補助金を提供する意味がどこまであるのかという話です。


3 基礎学力

 国民の学力向上が必要なのは間違いありませんが、本来そのために義務教育があり、高校があるのはでないかと考えます。

 特に私が日本の教育で疑問に思っているのが、こうした基礎教育です。日本の場合どうしても横並び意識が強いので、留年や落第となるとかなりの精神的負担がかかることは理解できます。

 しかし、本来進級する能力を有していないにもかかわらず、卒業させてしまえば学校の責任は果たしたとばかりに、卒業するだけの能力を有していない方々を進級、卒業させるのはどうかと思っております。


4 留年

 本来進級に足りうる能力を有していないのであれば、留年でも何でもさせるべきで、その上でしかるべき教育を施すというのが本来の義務教育のあるべき姿ではないかと思います。

 それに今は留年があってはならないことのように取扱われ、例外的措置とされてしまっているので、当事者も留年を恐れるという面があるのではないかと思います(小中学生の留年を認めるべきか(秋原氏への疑問点))。

 これが、留年が(ある一定程度存在するのが)当たり前という状況になれば、必要以上に恐れることもなくなるのではないでしょうか。


5 進学

 無理にでも卒業させた結果、学力不足の学生が大量に育成されるわけですが、高校にしてみれば、とりあえず進学させてしまえば自分達の責任はまっとうしたことになります(教師の都合とそれで大学進学を決めて苦労する学生)。

 大学も一旦できあがった以上、教員、職員を維持する必要があるとなれば、学生を集める必要が生じてきます。

 結果、学力をさほど問わずに入学させることになるわけですが、そうしたところに補助金(税金)をつぎ込んで何をしたいのかという話になります。


6 成果

 確かに基礎学力を向上させたことで話題になった大学などがありますが、そのために使われた補助金は妥当な使い道だったでしょうか。

 同じ成果を挙げるのであれば、高校で留年させてでも教えこませれば済む話ではないでしょうか。

 大学の数が多くなってしまったから補助金を奪い合う対象が増えてわけで、大学の数が減れば、1つあたりの大学に行く補助金の額は増やすことが可能です。結果、個人負担を減らせるという極めて簡単な話になります。


7 最後に

 念のため補足しておくとベネッセともあろうものが、こうした自明の理がわからないはずはありません。 

 しかし、教育関連企業として、こうした意見を主張すれば、教育機関から反感をかうのは確かで、そのため疑問形で記事を終わらせたということではないかとも思っております。



凜amuro001 at 22:01│コメント(0)トラックバック(0)

2016年02月28日

 すいません。愚痴その2です(その1は「別の見方をすることと「逃げ」)。

 「意識高い系」というとどうも悪い意味で使われることが多いようですが、私がこれまで遭遇した方々について少し。


1 ボランティア

 もちろんボランティアそのものを否定するつもりはありませんが、本当の意味で役に立つボランティアをしようとするとかなり大変です。

 既に組織化され、単なる労働力としてきまったことをするのなら誰でもできるわけで、実際災害があったときの清掃作業などは本当に人手が必要です。

 しかし、困ったことにいわゆる「意識高い系」と言われる方々はそういう仕事をあまり好まないようです。 

 また、ボランティアといっても医者などの専門技術があるかたならそれをやればよいわけですが、普通の方に何かそうした特殊技能があるのかというとむろんありません。

 何かしなくてはという気持ちを否定するつもりはありませんが、何もできない方がその気持ちだけで、現場に行ってどうなるのかという話です。

 それにボランティアの人も当然食事をしなくてはならないわけですが、災害などの現場には満足な食事などがあるはずもありません。

 しかし、こうした方々程、ボランティアに来てやっているのだから感謝して当たり前、食事位用意していて当たり前という発想をするようで、見ていてどうかなと思った次第です。


2 語学

 これも単なる私の経験則ですが、語学ができる方ほど、できることを自慢しません。実際しなくてもその方ができることは何かの機会に皆に知れ渡っているので、そういうことをする必要がないのかもしれません。

 私が閉口した方に、それほど語学ができるわけでもないのに、できるようなふりをするために、勝手に歌謡曲を英語に翻訳して、忘年会などで無理矢理それを披露して悦にはいっておられる方がおられました。

 こうした方法をとるのはわからないでもありません。実際、歌であれば、多少発音がおかしくても誰も何も言えません。

 更に私の出会った方の中には、英語ではどの程度できるかがわかってしまうために、それ以外の言語を習得したと吹聴し、他の方を煙にまくことを常とする方がおられました。

 当然、本物ではないので、普段は吹聴しているくせに、本当に話せる人やネイティブが近くにいると絶対に話そうとしませんでした。


3 発展途上国

 これも結構目にするパターンですが、発展途上国に行ってボランティアらしきことをして悦に入っている方々です(発展途上国を自己満足のために利用する人たち)。

 これも1のボランティアと同じで、何もしないよりは良いのは間違いありません。

 ただ、私が結構目にするのは、「貧しい発展途上国を助けてあげているすばらしい自分」に酔いしれている方々です。

 発展途上国の人々の貧しさは本当に底なしで、構造的な問題を解決しない限り、本当の意味での解決はできません。

 だから何もするなと言うつもりはありませんが、無法図に金をやっても何にもならないので、やるのならせめて系統たててやるべきだと思うのですが、そうなると単なる「歯車」になってしまいそれが気に食わないようです。


4 目的

 私が見て、本当にどうかなと思った事例をもう一つ紹介させてもらいます。

 その方は東日本大震災が起こった際に、何かしなくてはという意気込みから、ボランティアとして東北に入ったそうです。

 あれだけの災害ですから、やることが多くあり、それなりに何かをしていたようですが、ボランティアに入った際に、いろいろ思うことがあったようで、仕事を辞めて東北に来られました。

 最初はある程度蓄えがあったことや、ボランティアとしての人でも必要だったので、それなりに食べていけたようですが、震災が落ち着いてくるとボランティアもそれほど必要でなくなります。

 するとどうやって食べていくのかという話になるわけですが、仕事を辞めてしまっておりますので、金はありません。

 結果、現地の人にたかるような感じで、何とか仕事らしきをもらって食べていたようですが、住むところもないので、これまた現地の人の好意に甘えていたようです。

 そうなると本来その土地の人を助けるという高尚な目的のために現地に入ったのに、何のためにいるのかという話だなと思った次第です。


5 最後に

 何が言いたいかというと、やはり地に足をつけることが大事だという話です。

 頭でいろいろ考えてやることは当然大事ですが、相手のことを考えるということは、方法や手段が伴います。

 それなくして、思い入れだけで、何かをしようとしても、単なる空回りや自己満足に陥ってしまうという話で、人を支援するにはそれなりの技術を、語学を習得するためにはそれなりの努力(個人的体験に基づく留学の現実)が必要だという当たり前のお話でした。 



凜amuro001 at 21:00│コメント(0)トラックバック(0)

2016年02月09日

 『キャリコネニュース』が掲載していた「『日本は住むにはいいけど、働くにはビミョーな国』 留学生がそう感じていることが経産省の調査で明らかに」という記事がいろいろ興味深かったので、これについて少し。

1 記事の紹介

 経済産業省の調査で、外国人留学生等が「『日本に住むこと』を魅力的と答えた割合は82.7%を占め」る一方で、「『日本で働くこと』を魅力的だと答えた留学生は22.0%にとどまっていた。」ことを受けて書かれたものです。

 日本で働くことに「非常に魅力的」が4.3%、「全く魅力的でない」が15.6%、「あまり魅力的ではない」が34.3%で、計49.9%と約半数が「魅力的ではない」と答えていたそうです。

 実際、この記事では、「日本での就職を希望する率は70.4%」でありながら、「実際に日本企業に就職する留学生は29.7%にとどまって」いるという数字も紹介しています。

 その理由として、「昇進する見込みが感じられない」「給与が低い、給与がなかなか増えない」などの「年功序列賃金やローテーション人事」などを挙げています。


2 留学生

 留学生として日本に来ると言うことは、もともと日本に関心があったわけで、実際日本に住むことを魅力的に思っていることからもそれは見てとれます。

 なおかつ、彼らは日本で教育を受けたわけですが、大学教育には税金がつぎ込まれていることを考えると、それが日本に還元されないというのは残念なことかと考えます。

 もちろん、母国に帰って、日本の現状を伝えるという意味もあるので、全部が全部というわけでありませんが、やはり希望する方が7割もいて、実際には3割というのは彼らの就労を思いとどまらせるものが日本にはあると考えるのが妥当かと思います。


3 年功序列

 記事にあるとおり、年功序列などの制度が大きな足かせとなっているのは間違いないでしょう。

 確かに日本の場合は、初任給はたかがしれており、長年働いてやっともとがとれるという形の給与体系が伝統的にとられてきました。

 これは若いうちは苦労するが、歳を重ねると楽ができるという、企業の支配階層に都合がよかったことや、「家族的経営」という言葉に代表されるとおり、若い者が苦労をするのが当然という発想からでてきたのかもしれません。

 また、長くいることによって初めてもとがとれる形態にし、離職を防ぐという狙いがあったのかもしれません。


4 変化

 ただ、留学生にこうした発想が通用するかというと別問題ですし、それ以前に企業も長期の不景気で余裕がなくなってきており、働かない壮年層を雇っておくのが難しくなってきたという現実があります。

 留学生にしてみれば、いつまでいるかわからない面があります。確かに日本である程度の年数がいることは考えているでしょうが、それが一生となると別問題です。

 それに中国的発想では、一円でも賃金の高いところに勤めたがるという傾向があり、そのためには転職も厭いません。

 また、欧米出身であれば、優秀な学生であればあるほど、欧米特有のエリート意識が強くでるでしょうから、いきなり下働きをやらされることを拒否したくなるというのもわからないではありません。


5 採用

 企業にしてみれば、これまで運営できてきた面や、大半は日本人という状況で、どこまで留学生のために制度と変えるかとなると、殆ど変えないという話になるのかと思います。

 それに、いわゆる終身雇用も悪い面だけではなかったと考えます。

 採用で優秀な人材と言っても、実際ある程度働かせてみないとわからないという面はあり、その中で出世という形で選定を行っていくという側面があります。

 その中で、使い物にならないと思われてきた人をどうするかという話で、終身雇用では、これまではある程度面倒を見てきた側面があり、そこが日本的だったのでしょうが、今後そうした面は縮小されていくでしょう。


6 最後に
 
 そういう意味で日本も当然変わっていかなくてはならないわけですし、国際化には否応なしに対応していかなくてはなりません。

 そうであれば、私的には留学生にもっともっと働きやすい職場になることを期待しているわけですが、それは日本人に変化を強いることになります。

 そこを如何に柔軟にできるか、それこそが腕の見せ所なのでしょうが、言うは易く行うは難しの典型かと思いますし、総論賛成、各論反対になりやすいところでしょう。

 ただ、人口の面からも、国際化に対応するためにも、外国人を受け入れなくてはならないことは間違いなく、そのための変化は日本に求められていることだけは間違いないかと思った次第です。



凜amuro001 at 22:13│コメント(2)トラックバック(0)

2016年01月14日

 留学について、いろいろ聞く機会があり、いろいろ思うことがあったので、これについて少し。


1 語学

 留学の目的は何という話になると、どうしても最初に来るのは語学かと思います。必要性という意味では学位なども必要になるわけですが、そのためにはかなりの期間が必要となります。

 そうした覚悟(将来の見通し)を決めて留学するのなら別ですが、そこまで決めてかかる人は少なく、大半は数か月から1年程度の語学習得をメインとした留学ということになるのではないでしょうか。

 ただ、言語は当該国にいれば、言葉を覚えられるなどという簡単なものではありません。日本語でも間違った意味で覚えていることがあり、恥をかくことがある位ですから、外国語となればなおさらです。


2 勉強

 私は寡聞にして、日本にいるとき勉強しかなった留学生が外国に来て急に勉強するようになるというのもあまり聞いたことがありません。

 極めて当たり前の話ですが、自分で苦労して辞書を引くなりして覚えた単語しか意味はわかりませんし、使うことができません。

 それに覚えた表現を使う場面が適当かどうかは、使ってみて相手の反応を見なければわかりません。斯様に、覚えただけでもダメなわけですから、当然覚えなければ(その位は勉強しなくては)話にもなりません。

 また、前後の関係で何となく意味がわかると思っている方もいるようですが、得てして単語の意味を勘違いをしていることが多いのが実情です。

 更に言葉は場面場面で使い方が違ってきますので、会話文は使えても書面で使う書き方はできなかったり、専門分野を外れると専門用語が全くわからないというのはあまりにもありすぎる事例です。


3 日常生活

 それ以前に、下手をすれば留学しても現地の人と殆ど触れ合わずに終わってしまう事例もないわけではありません。

 当然学校の事務の人とか、教師とかは現地の人ですが、彼らはいわゆる通常の現地の人とは異なります。外国人が困っている事例はある程度パターン化されているので、それにどう対処するか慣れています。

 また、外国人との付き合いにもなれているので、彼らと顔を合わせる(話をする)機会が多くとも、それが一般の現地の方の対応というわけではありません。

 確かに、買い物とかで現地の人と会う機会はあるわけですが、それも所詮はルーチン化された会話で済みますし、下手すれば会話なしでも済ませることができます。

 現地の方が日本人に興味関心を持ってくれれば友達もできやすいのでしょうが、先進国相手ではなかなか難しいのが実情ですし、何か目的(下心)がある場合もあるのでないかとの勘繰りも必要になることがあります。


4 専門分野

 更に学位を取得するとなると、そこに外国語を使って研究するという更に1つ上のものが必要となります。 これは自国人でも難しいわけですが、この研究の指導となると留学一般というよりも、教官の資質の問題になるのかと思います。

 実際アドバイスできる方は専門の方に限定されてしまうわけで、結果指導教官に頼るしかありません。それに指導教官の関門をクリアできなければ、修了できないという現実もあります。

 更に論文の構成というか、書き方そのものからして、国ごとに違いあるようです。日本では修士論文ではできるだけ範囲を狭めて書けと指導されますが、中国では全面的であることが求められ、かなり苦労しました。

5 最後に

 そのくせ、悲しいかな時間だけは極めて速く過ぎていきます。1年あると思っても気がつけば、半分が過ぎ、もう残り○○という状態になってしまいます。

 何が言いたいかと言うと、留学に過度な期待を持つのはどうかという話と、何事でもそうですが、留学は自分で頑張らなければ何にもならないという当たり前の話です。



凜amuro001 at 22:34│コメント(0)トラックバック(0)

2015年12月23日

 相変わらず時差ぼけの毎日で(フランス旅行雑感)、変な時間に目が覚めてしまい、やることもないので、日本のネットなどを見ているという最悪の時間つぶしをしております。

 そしたら、貧困問題についての記事がいくつか目についたので、これについて少し。


1 女性と子供

 最近の傾向として、どうも女性と子供に焦点が当てられているものが多いようです(『貧困の中の子ども: 希望って何ですか』)。

 以前は男性の低賃金労働者などに焦点があてられることが多かったわけですが、彼らにも妻や子供がいることがあり、その場合、どうしても貧困という問題は避けては通れません。

 ある意味、これまで見逃されてきた面にやっと関心が来たということもいるかもしれませんが、身もふたもないことを言ってしまえば、マスコミ的にこちらのほうが絵になるという側面もないとは言えない様な気がしてなりません。

 同じ困っているにしても、子供がホームレス同様の暮らしをしているのと、中年男性では全く受ける印象が異なります。

 子供の場合であれば、親の責任とは切っても切り離せませんし、保護という面での行政の責任なども出てくるかと思います。

 それに大人のホームレスは既に問題が長期化しており、今更という面や、自己責任という話も出てきやすく、最近ではあまり注目もされないようです。


2 負の連鎖

 それに、正直大人の場合は、どちらかというと中年以降の方が多く、これからどれだけ変わりうるかという問題もあります。

 その点まだ若年層であれば、これから変わりうる側面も多ければ、社会的にも何とかしてやろう(自分で何とかできるようになれ)という圧力が強く、それが関心に結びついている側面もあるのかと思います」(貧困の連鎖と親の影響)。

 それにどうしても子育ては自分がされてきたことがメインとなって行われるため、きちんとした生活習慣など基本的なことを親から教わってきていないため、自分が親になったときに教えることができないという例も散見されます。

 ただ、日本の場合は同調圧力が強いので、子供の頃であれば、学校で自分が家が他人と異なっていることにかなりの違和感を持つようになるのではないかと考えています。

 こうした時期にきちんとした指導などが行えれば、それなりのことはできるようになるかと思うのですが、実際問題家庭にどれだけ入っていけるか、どう行えるかはかなりの難題かと思います。


3 被害者意識

 最初に断っておきますが、私はいじめは絶対にあってはならないことだと思っていますし、いじめられる方が悪いなどとは全く思っておりません。

 ただ、中には仕事をしていてこの方はちょっとという人に出会うことも少なくありません。当然完全な人などはいないわけで、多かれ少なかれ皆欠点があるわけで、程度問題に過ぎないという側面もありますが、その度合いがと思ってもらっても結構です。

 例えば、学歴が高いことや、語学などの特殊技能ができることを、あまりに頼りにしすぎる方がおられます。学歴が高いこと、特技を持っていることはすばらしいことですが、当然仕事をする上ではそれがすべてではありません。

 他人に合わせることも必要ですが、たまたまそれが苦手だった場合、他人は私が○○に優れていることを妬んでいるなどという発想にいたっていることもあるようです。

 全くないとは言いませんが、実際文句を言っているのは仕事ができないことです。ただ、その人の話となるというどうしてもそうした○○が出てくることが多いので、当事者にしてみれば妬みととることになるのでは
ないでしょうか。


4 最後に

 ネットでの記事では、他に会社に正論を言ったら、問題視され、居づらくなって辞めたなどというのもありました。気持ちはわからないではありません。

 正しいことは正しいわけですが、会社にはこれまでのやり方もあれば、そうしてきた当事者もいる場合が結構あります。

 それらすべてを無視していきなり、正論をはいても、どれだけ相手にしてくれるかという話でしょう。それにどうも私の経験則ではそういう方に限って、自分のやり方を曲げないような気がしてなりません。

 他人に言うことを聞かせたかったら、ゆずるところはゆずるべきでしょうし、やり方(方法)も考えるべきかと思います。

 そうした社会になじめず、結果貧困に陥ってしまったという感じの記事をいくつか見て、ふと自省の意味も込めての今日のエントリーでした。



凜amuro001 at 13:53│コメント(0)トラックバック(0)