雑感。国際的に通用しない日本の判断五輪開催が政権支持につながらず

2021年07月23日

五輪は「挑戦」するものなのか?

東京五輪が開会式を迎えました。ただメディアが「始まったのだから皆で応援しよう」などというのは論外です。自由意思が認められた国ですから、応援するもしないも個人の自由。押し付けは野蛮な行為です。国の代表…などとされますが、別に国民によってえらばれたわけでもなく、また強さでないケースもある。トーナメントで優勝すれば最強なので代表、はまだしも、陸連の選定でもめてきたマラソンなど、誰もが納得するケースでない場合もあります。大切なのは、誰もが応援したくなる雰囲気作りなのですが、それには完全に失敗しました。まさに最悪のタイミングで迎えてしまう五輪、気持ちが乗らない人がいて当然なのです。
今日の東京の新規感染者数が、1400人も割れました。昨日から600人以上も少なくなった、その変動要因は五輪かもしれない。選手や関係者が本格的に来日するようになり、検査のパイがそちらにとられた可能性があるからです。そうなると、濃厚接触者でも検査をうけず、無症状のまま動き回る、という事態も起きやすくなるでしょう。これまでも、保健所の能力を考えて検査範囲を柔軟に変えており、今回もそんなきな臭さが漂う。過去の動きと異なるものがあれば、それについて考察が必要ですが、そういう発表はなかったようです。

菅首相が米WSJのインタビューで「挑戦するのが政府の役割」と語り、公明の山口代表が「歴史的な挑戦」と語る。その「挑戦」とは、国民が感染拡大により多数の使者がでる可能性に対するものであり、しかもそれを防げる確実な策がない、と自ら認める言葉です。つまりそれは「国民の命と健康を守る」という自らの言葉にも反する。「やめるのが一番簡単、楽」とも語っており、国民の命を犠牲にして挑戦することが「政府の役割」なら、そんな政府を誰も支持しようと思えないでしょう。その「挑戦」とは、国民が安全に五輪と関われるようになって、初めて達成されるものですが、すでにその挑戦には失敗しているのが現状です。
そして始まった五輪。『復興五輪』というお題目事態、今は昔。最近、菅政権は「復興」という言葉すら口にしません。コロナとの戦いに打ち勝つことも大事ですが、復興も大切なはず。東日本大震災から、日本がここまで復興した、と見せるための五輪ではなかったのか? 一部の競技を福島、宮城でやれば事足りるのか? メディアがナゼ、その復興五輪だったことをもっと取り上げないのか? それは被災者に失礼ではないのか? そういう考察もなく、五輪がすすんでいくことに違和感を覚える人も少なくないでしょう。

五輪がはじまったからといって、解決されていない問題を見過ごし、ただそれを楽しめ、というのは無責任の限りです。政府はそうやって世論誘導しようとするものですが、メディアまでそれに乗っかる必要は、本来ありません。むしろ五輪が始まったからこそ、これまでの矛盾や整合性のとれないことに対して、余計に気になるというものです。それを忘れ、見てみないふりをして、何となく流されるような愚民を大量に醸成しようというなら、残念ながら五輪は始まる前から失敗、と評してもよくなるのでしょうね。

明日、明後日はお休みしたいと思います。

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analyst_zaiya777 at 23:05│Comments(0)政治 | 社会

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