この集団からな ぜ犯罪者が現れ るのか

(山田直樹=ジャーナリスト 『フォーラム21』H17.6.1)

【余りに多くの学会員 が犯罪に手を染めてき た】 雑誌記者時代、ある法曹関係 者に不躾な質問をしたことがあ る、 「少なくとも粗暴犯がどんな 宗教の信者か、調べて再犯防止 に役立てたりしないんですか。 オウムの事件もあったことだ し、公安は洲べてるでしょうけ ど受刑者からデ一タを取った り……」 せせら笑うかのように、相手 は答えた。 「そりぁ時間のムダ。日本人 はだいたい無宗教だし、人権派 の弁護士にでも知れてみなさ い、"信教の自由を侵害した"と 騒がれるのがオチ」 だがこの回答に、筆者は決し て満足していない。95年秋、 「創価学会による被害者の会」 や日蓮正宗信徒たちの協力を得 て、筆者の所属する週刊誌編集 部はアンケート調査を実施し た。このことは何度か書いてい るが、「創価学会関係者と思わ れる人物から、何らかの嫌がら せを受けたことがあるか」の問 いに対して、実に生々しい回答 が寄せられた。もちろんこの回 答の多くは、91年秋の日蓮正 宗による創価学会破門を機に学 会を脱会した人々だ。回答にさ まざまなバイアスがかかってい るとも考えられる。従って、嫌 がらせの具体的事例を記事化す るにあたっては改めて回答者本 人の話を聞いた。ポイントは、 嫌がらせの相手が創価学会と思 われる根拠、痕跡と証言内容が 時系列的、論理的に成立するか 否かだった。 結果的には、深夜寝静まった 折に実行されたケースのように 判定不可能なものは別にして、 多くの人々が遭遇した嫌がらせ 相手が、氏名・所属、住所も特 定しうる明々白々な創価学会員 達だった。 それを信仰、教義の間での争 い事のみで捉えるのは正しいの だろうか。だいたい、誰が何を 信じようと自由であり、信じな いこともまた自由。憲法が保証 する「信教の自由」とは、そう いうものである。他者から"信 仰を強制される"ならば、それ は戦前の神道(宗教でなく伝統 とすり替えた)と他宗の信者の 関係と同義になる。 脱会した者の家へ押しかけ、 また逆に完全にシカトを決めこ み、脅迫電話をかける行為は明 らかに社会的犯罪である。創価 学会本体は、いつもこういう言 い訳を用意していた。 「会員に(嫌がらせを)指示 したことなどない。個々の行為 については、掌握していない」 無論、これは詭弁に過ぎず、 行動を指示する内部文書は山の ように集まった。で、話がそこ に及べば、 「山所不明の文書を前提にし た話に回答の義務はない」 ―ところが、加害者や被害者が 創価学会員で人間関係の縫れか ら会館内で起きた殺人未遂事件 のケース(99年5月)では、 「世間を騒がせ申し訳ない」と いうような"一般的コメント"で お茶を濁す。しかし我々は知っ ている。余りに多くの創価学会 員が犯罪に手を染めてきたこと を。それを指摘すると、創価学 会関係者はだいたいこう言うの である。 「なにせ大きな組織ですか ら…」 まるですべての犯罪者の中で は"少数派"に過ぎないじゃない かと言いたげなようである。こ こで創価学会員による犯罪史を 書きつらねる紙幅はないが、著 名な事件だけを拾ってみよう。

●吉展ちゃん誘拐事件(63 年)―犯人の小原保は学会員 で、奪取した身代金を仏壇に置 き、題目を上げていた。 ●宝石商・金融業者強盗殺人事 件(84年)―犯人は元警察 官・沢地和夫。沢地は事件後、 「(学会に)入信したおかげで 借金を返すことが出来た」と船 橋市の学会支部総会で、功徳を 披瀝し体験発表していた。 ●長野県でバラバラ死体が発見 された母子殺害事件(89年) ―この時筆者は、事件現場ア パートヘ取材に赴いたが、明ら かに死臭を感じた初めての体験 だった。犯人は夫で、妻ともど も熱心な学会員。死体を入れた ビニール袋には『聖教新 聞』が、そして放棄現場には 「おしきみ」(創価学会員の仏 壇には必須の植物)が置かれて いた。 ●大分県では日蓮正宗寺院か ら僧侶を誘拐し、6億円を要 求する事件(89年)―犯人は 学会員である。

【公明党議員にも腐敗 が蔓延】 一方、元号が平成に代わる前後 から目立つようになったのは、 公明党議員による犯罪だ。かつ ては「サンズイ」を追及する爆 弾質問が、公明党のウリであっ たが、多くの地方議会では与 党、国会でもキャスティング ボートを握るような状況となっ て、権力腐敗が蔓延していっ た。

●リクルート事件に連座して逮 捕されたのが現職国会議員(8 8年) ●大阪を舞台にした「砂利船汚 職事件」でも公明党議買が逮捕 (88年) ●北京で買春事件(92年) ●覚醒剤取締法違反事件、所得 税法違反事件、収賄事件(93 年) ●現職参議院議員がセクハラで 女性秘書(熱心な学会員)から 訴えられた(95年)―この事 件は、議員側敗訴で終結してい る。 ●兵庫県のベテラン公明党市議 が病気の妻を餓死させる事件が 勃発(97年)―相互扶助を原 則にする創価学会組織の"変 化"が読み取れるようになっ た。 ●現職公明党区議が少女20名 以上と買春し、その様子をビデ オ撮影していた事件(00 年)。 もちろんその間、競争入札妨害 や賭博、万引き、飲酒運転やひ き逃げという毎度お馴染みの事 件も起きている。組織の箍(た が)が綬み続けるのは、与党病 そのものに罹っているからか。

【構造的欠陥が創学会 員犯罪者を生み続け る】 学会員の事件にも時代の変化が 起きた。 ●創価大学出身のエリート検 事による取り調べ中の暴行事件 (93年)―その象徴的幕開け だった。 ●埼玉県北部を舞台にした保険 金殺人事件(97年)―主犯、 共犯ともども学会員だった。 ●岩手県の知的障害者施設で学 会員の男性職員が、知的障害者 (女性の人所者)を妊娠させ る事件(97年) ●詐偽商法「八葉物流グルー プ」事件(02年)―トップも 学会員、被害者の多くにも学会 員という構図が生まれた。 ●ドコモ携帯電話通話記録盗み 出し事件(02年) ●ソフトバンク恐喝事件(04 年)

関わり合いの程度には温度差 があるが、選挙違反を除いても 学会員による犯罪はなくならな い。 しかも最近の傾向は、現実社 会の犯罪動向をなぞるように犯 人の低年齢化が認められる。

●東京では警察官の拳銃欲しさ に刃物で襲う事件(98年) ―未成年の学会員によるもの だった。 ●小中高と創価学園、創価高校 一筋に通い続けたフリーターが 凶悪事件(05年)―ゴールデ ンウィーク中に宮城県から上京 した19歳女性に新宿駅東口で 声をかけたのは長谷部泰輔容疑 者(23)。当初から金銭目的 の"ナンパ"だった。松戸市の自 宅アパートに女性を連れ込んだ 長谷部容疑者は、この被害者が 就寝中にキャッシュカードを盗 んで、近くのATMに向かい、預 金の引き出しを試みた。だが、 暗証番号が合致せず、自宅に戻 ると被害者と口論となり、絞 殺。死体をトランクに入れ、柏 市内の水田に放置した。

筆者はことさら「創価学会員 の犯罪」をあげつらうつもりは ない。しかし、その教義、方 針、集団の有り様が、そして トップの指導がこうした事件に 影を落としている点を簡単に否 定できるだろうか。反対者、批 判者への物理的暴力も伴う嫌が らせ、誹謗・中傷。「国法より 仏法」という優先順位。単純に 言えば、「敵を倒せ」の理屈 は、「自らは正しい=絶対者」 の論理に直結する。まともな宗 教信徒であるなら、むしろ犯罪 者は社会全体の比率に対して、 皆無とはいわないが格段に低く なるはずだろう。 公明党以外の政党所属議員 は、信じる宗派、宗教がバラバ ラのはず。であるにもかかわら ず、なぜ創価学会信者である公 明党議員は他党同様汚職に手を 染めるのか。ここには"宗教の 御利益"や"抑止力"をまったく感 じることができない。 創価学会とて、同様である。 すばらしい知性に率いられたと 自負するこの集団から、なぜ犯 罪者が現れるのか。それが止ま ないとすれば、信じる宗教の方 に「構造的欠陥」があると考え る他ないだろう。今からでも遅 くはない。創価学会は「犯罪の 予防」と「犯罪者の更生」にお いても、実績を示すべきだ。ま た同時に、JR西日本のごとく社 会的に謝罪すべきであり、運転 士=末端会員の個人的責任にす り替えてはならない。もしそれ が不可能なら、宗教法人格を返 上し、宗教団体としては自主解 散すべきだと思う。宗教は「人 間を磨く」ものなのだから。

/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_ 【会員に対する池田の 鬼畜指導】 ―ニセ本尊崇拝と併せ、皆三悪 道に―(『慧妙』H17.8.1)

では、彼らの独善性はいかに して培われたのであろうか ――。 「帷幕(いばく)の中に謀 (はか)りごとを巡らし、千里 の外に勝を決する。それだけの 綿密に腹をすえた計画、謀り事 を完壁にして、あとは運だ。そ こまでやれば、きっとやれる。 」 「口八丁手八丁でよ、なんで もうまくやるんだ。社会(党) だって方便を使っている。共産 (党賢)だって目的のためなら 皆な謀略(ぼうりゃく)じゃな いか。一般社会だって利益のた めならあらゆる手段を使う。う ちは信心を守るため、学会を守 るためだ。」 かように"自分の欲望を実現 するためなら、いかなる謀略も 厭(いと)わない"と公言して 憚(はばか)らないのは、他な らぬ池田大作である。まさに、 これは、「強い者を恐れ、弱い 者をあなどり、理性を失って倫 理・道徳をわきまえず、本能的 欲望のままに行動していく」 (『仏教哲学大事典』)畜生の 姿そのものといえよう。