元プロ野球選手で、名古屋経済大学高蔵高校(名古屋市瑞穂区)野球部の酒井弘樹監督(47)が、部員に暴力を振るっていたことが話題になっている。
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酒井監督は元プロ野球選手で、近鉄や阪神で投手としてプレーした経歴を持つ。引退後は教員免許を取得し、同校に国語科教諭として赴任し、2009年の野球同好会発足時から監督をしていたという。

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そもそも、酒井監督が暴力を振るっている動画を誰が撮ったのか?

外から、暴力がハッキリわかるように撮影されていることに目を見張ってしまう。

撮影者は、暴力があることを見据えて、カメラを構えていたのだろうか。

後、この動画をもとに、同校の懲戒規定に従って処分が決められるという。同監督は「したことを反省し、しかるべき処分を受けたい」と話しているというが、そもそも、この問題の視点はここにあるのだろうか。

もっと根の深い問題があるような気がする。


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昭和37年は、前年、最優秀選手賞を頂いた功績を認められ、年俸は前年より月7万円(年俸84万円)アップし、年俸420万円(35万円×12カ月)を頂くようになりました。


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 この年、阪神タイガースは、優勝しました。

優勝までには、険しい道のりがあったようです。

『「死闘」昭和三十七年阪神タイガース』(河出書房新社)塩澤幸登著には、次のように記されています。


【混戦に終わった前半】

「阪神は開幕カードで巨人を連敗させたが打力不振のため村山、小山以外ではほとんど勝てず、大きく引きはなされないかわりに、混戦から抜け出ることもできなかった。六月いっぱい、両エース以外の白星は8勝だが、そのうち6ゲームはこの二人が、先発または救援している。したがって、小山、村山が関与しない勝ちはたった2勝というわけだ。

七月にはいって渡辺、石川緑の調子が出てきたため、15節(7月10日)以降11勝3敗と好成績をあげて首位に躍進、大洋に1ゲーム差をつけて前半戦を終わった。(略)オールスター・ゲーム直後の対巨人戦では指の痛みをおしての村山の健投と、ソロムコのサヨナラ・ホーマーで、第一戦をにぎり、余勢をかって2勝1引き分けと勝ち越して、巨人を優勝圏外におとした。巨人はこの敗戦ですっかり気落ちし、連敗の泥沼に落ち込んでいったのである。


【一年中貧打に苦しむ】

19節末奮起した巨人に1勝3敗とはじめて負け越したものの、翌20節前半、川崎で二位大洋との三連勝に全勝して5ゲームの大差をつけることができた。その第一戦(8月14日)は村山、秋山の対戦となったが、六回二死満塁における遠井の一打を黒木がまごついて落とし、阪神の逆転勝ちとなったのである。大洋の三原監督は、優勝を落とした最大の原因としてこの黒木の拙守をあげている。第二戦も2-0とリードされた九回、三宅秀の3ラン・ホーマーなどで阪神は広島との三連戦に逆に連敗して、混戦がいぜんとして続いた。この三連戦には安打の合計が11本という貧打は、一年中つきまとって、苦戦の原因になっていたのである。


【大洋みずから圏外へ】

21節には大洋との三連戦にはじめて小山を連投させる非常手段をとったが、箱田の代打満塁ホーマーを浴びて負け越した。しかし、4ゲーム差を確保、23節には大洋との連戦で星を分け優勝ムードが濃厚となってきた。(略)24節に大洋、国鉄に連敗して二位に落ちた。このときは一日で首位を奪い返したのだが、26節9月25、26両日、川崎での大洋ー阪神二連戦で、大洋秋山に連続シャットアウトをくい、ふたたび首位を奪われた。ゲーム差はわずかに半ゲームだったが、阪神の方が負け数が二つ多いので、自力ではどうすることもできず、あとは大洋の負けるのを待つだけという絶体絶命のピンチに追い込まれてしまった。

しかし大洋は阪神との決戦に全精力を使い果したのか、節末の巨人三連戦に全敗してみずから優勝圏外に去ってしまった。一方阪神は国鉄のまずい試合運びと金田の故障で三連勝し、ようやく安全圏にはいることができたのである。


精根尽き果ててたどり着いた、最後の百三十四試合目に力をふりしぼって勝ち取った決着だった。

(以上、『「死闘」昭和三十七年阪神タイガース』(河出書房新社)塩澤幸登著より抜粋)




(つづく)

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父は、シーズン終了後、この時の賞金とそれまでの預貯金を合算して、墓石を購入し、実家(愛媛県西条市)近くに建立したいと言い始めました。

 母は、住んでいる家(藤村監督排斥事件がきっかけで購入の中古物件)が、なにしろ古い家屋で、雨漏りがしたり、不便が生じていたので、家屋の修繕や建て替えの費用に充てたいと思ったようですが、父の想いを優先しました。

父が、墓石建立にこだわったのは、終戦直前、北朝鮮で亡くなった母と弟、終戦直後、北朝鮮で亡くなった妹を、日本の地で供養したいと考えたようです。

父は13歳の時に、北朝鮮から引き揚げてきました。その時、3人の遺骨を持って帰ることができませんでした。それがずっと気になっていたのでしょう。父は、墓石を建立することが、最善の家族の弔い方と考えたのだと思います。


  実家(愛媛県西条市)近くで墓石建立したいという父の想いは、すぐに実現しました。

実家近くで墓石を購入し、この年の6月に、義父(渡辺義信)が建立したこととして、墓地に墓石を建立しました。


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墓石の値段は、200万円くらいだったそうです。藤村監督排斥事件がきっかけで昭和32年に購入した自宅(140万円)より高かったことを、母は記憶しているといいます。


ちなみに、この年は、年俸336万円(28万円×12カ月)で契約しました。

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シーズン終了後には、最優秀選手賞を頂きました。

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(つづく)


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昭和35年の年俸は、前年と同じ312万円(26万円×12カ月)で契約しました。

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 9月26日、後楽園球場の対国鉄23回戦で登板し、巧みなピッチングを見せ、5安打こそ許しましたが、最後まで三塁を踏ませず、5回三宅さん、ソロムコさんの連安打と、この二人を迎え入れた鎌田さんの適時打で得た2点を守り切り、2対0の完封勝利を収めることができました。この日、藤村監督排斥事件で、共闘した小山さんに次いで「100勝」を記録したのです。

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100勝を記念する表彰式は、10月2日に行われ、表彰状と記念品、賞金を頂きました。

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藤村監督排斥事件から4年が経過した時でした。父は、100勝を記録して、投手として着実に腕を上げたことを実感したのではないでしょうか。


(つづく)


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戸沢社長の素早い計らいで、昭和32年3月、開幕前に、甲子園球場近くに家を見つけてくれました。その家は、甲子園8番町という場所で、町内には阪神パーク(現・ららぽーと甲子園)がありました。
土地の広さは約70坪で、建坪は20坪。売買代金は、140万円でした。
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父は、仕事場である甲子園球場に近いということで、その家が大変気に入りました。

3月25日に、阪神電鉄が間に入り、持ち主と売買契約を交わし、家と土地を購入しました。もちろん、購入費140万円は、球団の立て替えです。

父は、入団時(昭和27年)、契約金なしで、月給1万2000円で契約しました。年俸としては、15万円くらいでした。年々、プロとしての実力がつき、年俸を増額してほしいと球団に交渉し、年俸が上がっていきましたが、郷里の両親への生活費の仕送り、郷里での結婚式費用などで、持家購入に充てるお金はありませんでした。
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藤村監督排斥事件後の昭和33年の年俸は、2760万円で、12ヶ月分割で月23万円を球団から受け取る形式でした。
その内、10万円は、自宅購入時、球団が立て替えてくれた140万円を14ヶ月分割での返済にあてました。

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昭和34年には、年俸が312万円(26万円×12ヶ月)になり、球団に立て替えてもらった自宅購入費は、この年中に、全額返済することができました。
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(つづく)

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父らは、それぞれ個別に会社に条件を付けました。父は、いろいろ考えた末、「体が続く限り、阪神で仕事がしたい。そうさせてくれるなら、藤村監督が辞任しなくても、僕は来季の契約を結びます」「今、結婚して、甲子園球場から遠い(大阪市西区)6畳一間の借家に住んでいる。甲子園球場に近い場所で、持家が欲しい。家を探してほしいのと家を買う為のお金を球団に立て替えてほしい。返済は、給料から天引きしてほしい」と2つの条件を付けたんです。というのは、選手生命は短く、せいぜい10年〜15年です。怪我をすれば、それまでです。父は、その時、阪神のエースとしてプロ野球界で活躍していましたが、選手生命が終わったときには、仕事が無くなることが目に見えていました。転職するとしても、終戦当時の事情で、中学しか出ていない学歴のない父に、自分に合った仕事が見つかるわけがありません。一生、元気な限り、阪神にお世話になりたい。そうであれば、食いっぱくれはない。職を失った時でも、家は絶対必要。家も持っておきたい。そう思ったんです。戸沢代表は、「わかった。渡辺君の条件を受け入れる」と快諾してくれ、その2点について年末(昭和31年)に覚書を交わしました。



●父が中卒の事情

父の父親は、戦前、軍属として徴用され、父は7歳の時に一家で、北朝鮮に渡りました。平壌市内の大同江のそばの官舎で、両親、父と妹、4人での生活が始まりました。そこで、大同江近くの船橋小学校に入学しました。入学後、昭和15年、昭和18年に、妹が生まれました。

昭和20年3月に船橋小学校を卒業し、4月、平壌工業高校(名称は高校ですが、日本で言う中学校です)に入学しました。

入学から4ヶ月後の8月15日に終戦を迎えました。その後の状況は、父が阪神タイガースに入団後、「野球界」(昭和29年12月号)という雑誌の取材で語っています。

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「青春劇場―渡辺省三」

妹の死
「敏子ッ、敏子ッ」
父と二人でいくら呼んでも、3つになったばかりの妹は、もう目を開こうとしなかった。「亡くなりましたか。お可哀そうに」。隣に座っていたオバさんが、目をそっとふいた。しかし、他の人達はやせて大きくなった目をギョロギョロこちらへ向けて、「今日も又誰か死んだ」と口の中でつぶやくだけだった。ここは人間の世界ではない。連日のように襲ってくるソ連軍の掠奪に震えおののき、飢えと寒さに死と直面している地獄絵図だ。

昭和21年2月、朝鮮平壌市の町外れにある醸造会社の倉庫に、終戦と同時に家を失い、働ける男をソ連の強制徴用に、いずこともなく拉致されたあとの婦女子ばかりの邦人200名が集団雑居していた。一日の糧は、一椀の高粱がゆで、栄養失調で死ぬものが、多い時には1週間に10名もいた。生きている人達も、みな老人のようにやせこけて、眼だけがうつろに大きくなって、この世の人とは思わぬほどであった。子供一人の死は、池に小石を投げた波紋ほども、ここにいる人達の心を動かさない。渡辺省三は、この非境の中に最愛の妹を失った。

省三が14才の誕生日をあと10日に控えた時のことである。辛く悲しい生活はまだまだ続くが、ここでこれまでの彼の生い立ちを振り返ってみよう。

省三は、昭和8年2月、指物を職とする父義信氏と母なみ子さんの間に、愛媛県西条市で生まれた。7才の時、お父さんが軍属として徴用され、一家は朝鮮に渡り平壌市外の航空支廠官舎に移り住んだ。ここで船橋小学校に入り、平壌工業学校に進んだが、工業に入った13才の年の7月に、お母さんが8つと5つと2つの妹を残して世を去るという不幸に遭い、その上、8月になって運命の終戦を迎えたのだった。進駐してきたソ連軍は、日本人の働ける男の全部を強制徴用したが、子供ばかりの家族に心配した日本人会の代表者が、お父さんの名を名簿に書かなかったので、お父さんは徴用を免れた。不幸中の幸いであった。

9月に入って、官舎から強制立退きを命ぜられた。「すぐに内地へ送還する。2時間以内に退去すべし」という突然の命令なので、布団を持たず身のまわりのものだけリュックに入れて家を出た。この時、一度家を出た省三は、再びとって返し、堀を乗り越えて家に入り、まだ何か持っていくものはないかと物色した。結局は醤油の一升瓶を持ち出したというが、当時の想い出の中で、このことだけが唯一の笑いであるという。

すぐに内地へ還れるというのは、ぬか喜びだった。200名程度の邦人婦女子は、ある時は風呂屋に起居し、ある時はあてどなく宿を求め、そして新しい年を迎えても、一向に返還の気配は見られなかった。お父さんは、唯一人の男性だったので、この集団の代表者となって外部の仕事に忙しかった。したがって省三は、幼い三人の妹の面倒を見たり、働いて食糧を得なければならない。「何か仕事をさせてください」省三は、朝早起きると、高粱がゆを炊き、三人の妹に食べさせると、町へ飛び出し、そしてソ連兵の官舎に行って、仕事を貰いに回って歩いた。「お前はまだ子供ではないか」手振りで言われて断られると、腕を曲げたり伸ばして見せて、「子供でも力はある」ということを示す。実際14才と言っても、5尺を超えている省三は、腕力には自信があった。薪割り、ガラスふき、庭掃除、頼まれれば何でもやった。ボロボロの服を着て、髪は伸び、ただでさえ色が黒いのに、垢がたまっているから、浮浪児同然の姿であった。仕事に対する賃金は、時には金をくれるところもあったが、たいていは食い残しの黒パンであった。1椀の高粱がゆの腹には、それでさえ貴重だった。新聞紙に包んだ黒パンは、妹たちにとっては、生命の糧だったのである。倉庫の中で死んでゆくものの殆どが、体力のない老人と子供だったから省三は妹達のために、毎日黒パンを得るために街へ出た。

山へ登って見下ろす平壌の町は、平和な何事もない町に見えた。小学校時代の楽しい想い出のある、あの川、あの森、そして自分の住んでいた官舎も見える。全てがそのままである。しかし、可愛い妹は、もういない。異境に生まれ故郷を知らずに、今自分の後ろの土の中に眠っているのだ。むしろに包んだ妹の亡きがらを山へ運び、父と子は、穴を掘って埋めた。新しく掘り返された土の上には、猫かなんかの墓のような形ばかりの墓標がたっている。その墓標を背に、父と子が見下ろす街の、なんと静かなことだろう。省三は、妹の死も、倉庫内の生地獄もウソのような気がしてならなかった。
「一日でも内地を見せたかったね。お父さん」

「省ちゃんの黒パンも無駄になったな」

「けれど、きっといつか内地へ帰れるね」

「どうだかな。でも生きているうちに帰れるよ」。

平和に見える街、それを見下ろす丘の悲しい父と子の会話であった。しかし、待望の内地返還の日は、案外早くやってきた。それから2カ月たった4月、丘の上の墓に、心づくしのタンポポの花を供えて、渡辺家一家は、4月中旬、暗い思い出ばかりを胸に祖国に帰りついたのである。

「ノコギリと金ヅチたのむよ」

「はい」

「ペンチとハリ金」

「はい」

帰国してから西条中学を出ると、倉敷レーヨンに入社した。16才なので、一人前の仕事が出来ず、又労働基準法に触れるので、与えられた仕事が、道具番だった。しかし、仕事は子供の仕事でも、野球部員としては一人前の働きをやってのけていた。帰国後、高等小学校に入ってはじめて握ったスポンジ・ボールだったが、それまで埋もれていた嚢中の錐は、すぐに鋭鋒を現わした。ピッチャーをつとめ、西条中学に入っても、主戦投手、主力打者として重きをなした。しかし、倉敷レーヨンで軟式をやっていることが、省三にはあきたりなくなってきた。そして26年10月、甲子園球場で行われたタイガースのテストを受けたのである。近い将来、阪神タイガースのエースと目されている渡辺省三の歩んできた道は、常人のそれとは全く違った苦難の連続であった。しかし、彼は言っている。「御飯炊きでも、便所掃除でも何でもやりましたが、そういう苦しい体験も、今では人生に対する自信というものを植え付けてくれた尊い体験だと思っています。阪神へ入団してからは、幸い人より恵まれた道を進んで、ようやく幸福らしいものを得ました。

(つづく)

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父が結婚式のため帰郷した後の12月4日、球団は、藤村監督の留任と、金田正泰さん・真田重蔵さんと来季の契約を結ばないことを発表しました。

12月8日の挙式当日には、内紛問題で大変な中、小山さんらがわざわざ愛媛県西条市の式場まで来てくれて、挙式に列席してくれました。小山さんと父は、よきライバルでもありましたが、一番、気心の知れたチームメイトでした。

と母は、挙式が終了後、一週間の予定で九州の雲仙へ新婚旅行に向かいました。小山さんは、西条駅まで、見送りに来てくれました。
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父が新婚旅行に行っている間に、この問題で、セントラルリーグの鈴木会長の要請を受け、巨人の水原茂監督や川上哲治さんらが、仲介役として来阪されたようです。その結果、戸沢代表がすでに解雇した金田さんを呼んで「一切を白紙に戻す」と伝え、結局、再び来季の契約を結ぶことになったようです。金田さんの復帰で、父らは対応を迫られることになりました。そこに、阪神ファンの神風正一さんが仲介に入り、「条件を付けて会社と折り合う」という話にまとまとめてくれたようです。

父らは、それぞれ個別に会社に条件を付けることになりました。

(つづく)

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12月1日(昭和31年)から、契約更改がはじまりました。この日は、父、小山さん、吉田さん、大崎さん、田宮さんが、戸沢代表と下林常務に、大阪梅田の球団事務所に呼び出されました。

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外には新聞記者が待ち受けていました。会社側は父ら選手を一人ずつ呼び、「藤村監督の引際を何とか飾らしてやってくれ」と、説得したんです。

父らにしてみれば、藤村監督を退任させるという言質なしに、引際を何とか飾らしてやってくれと言われても、快諾できるわけありません。

父は、「会社側がはっきりとした方針を示さない以上、契約に応じることはできない」ときっぱりと会社側の申し入れを拒否しました。

会談を終えて、球団事務所を出ると、新聞記者が待ち受けていたようで、父ら選手5人は、こんな風にインタビューに答えました。


「僕は結婚のため2日から帰省する。会社は「結婚式の前にきれいに契約しようじゃないか」と言ったが、藤村監督が辞めなければ僕は絶対契約しない」

大崎投手
「藤村監督が留任するのなら、僕はタイガースを退団してノン・プロに行く。僕はまだ若いんだから使ってくれる会社もあると思う。ノン・プロで一から野球をやり直すのもいいことだ」

小山投手
「僕も大崎君と同じ意見だ。会社側は「野球が出来なくなるぞ」と言ったが、藤村監督が留任するのなら、僕はプロ野球から足を洗うときっぱりいっておいた」

吉田遊撃手
「表彰式だけかと思っていたのに、会社が契約更新の話を持ち出したので、びっくりした。むろん会社の方針が決まるまで契約しない。会社があくまで藤村監督留任の線でくるのなら自分の正しいと信じる道を進むだけだ」

田宮外野手
「会社は僕らが徒党を組んでいると非難したが、考え違いもはなはだしい。一般の会社でも社長の命令が一足飛びに社員のもとにきたりしない。やはり部長から課長、課長から係長と順次伝えられるものだ。僕もキャプテンであるカネさんを通じ監督―代表―社長と順序を踏んだまでだ。かつ僕は、藤村監督退陣というはっきりした要求を出しているのだから、会社もそれに対する態度を明らかにすべきだろう。問題が片付くまで契約には応じない」

戸沢代表談
「徒党を組んで監督を排斥するというようなことはなんとしても好ましくない。藤村監督はタイガースにとって、最大の功労者だから、なんとかして引際を飾らしてやりたかったが、5選手の決意は予想外に堅かった。まだ、何回も会って説得するが、事態の円満な収拾は非情に困難となってきた」


◆◆◆

父は、このインタビューでも答えているように、このころ、結婚式を控えている時期でした。入団前の職場、倉敷レーヨンで知り合った妻と、12月8日に郷里の愛媛県西条市の伊曽乃神社で結婚式を挙げることになっていたんです。戸沢代表に呼ばれた翌日の12月2日、父は郷里の愛媛県西条市に帰省しました。父としては、本心、結婚式前にきれいに契約したいという思いが強かったと思いますが、藤村監督を辞めさせるという言質がなければ、いくら結婚式前でも、契約書に署名することはしませんでした。


(つづく)

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マスコミは、野田社長に解決策について、取材しています。(以下、昭和31年11月20日付け「スポーツニッポン」記事より抜粋)

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記者
「青木スカウトの解職で、反主流派の選手たちの態度が硬化しているが、こういう措置は紛糾解決のためには、良策だったと思われるか」

野田社長
「青木スカウトを解職したのは、結果的に見てよかったのではないか、少なくとも現段階においてはね」

記者
「今夏、青木自身が退職を希望しているのを、社長が引きとめながら、突如解職するというのは、辻褄の合わない話だと思うが・・・」

野田社長
「先に退社を申し出たのは、給与の点で、他社へ移った方が多いということなので、スカウトをしておれば、いろいろの点で金も入用だと思って、給与をよくしてやった。これで青木君が思いとどまったのだ。その時、球団の改革を約束したなどというのは、とんでもないデマだ。しかし、新代表が就任して以来、いろいろと調査した結果、どうも青木君が各選手の間をまわって、面白くない工作をしているということがハッキリしたし、このうえは、百害あって一利なしという結論を得たので解職した」

記者
「ところで、先に鈴木セリーグ会長と会われたが、鈴木会長は、この紛糾について、どういう示唆を与えたのか」

野田社長
「鈴木会長は、監督忌避という問題だけで、12人もの選手が集団で脱退するというのはよくないことだ。もしこういうことが許されるなら、プロ球界にとっては由々しい問題だから、万全を期してもらいたいと言っていた」

記者
「会社側は藤村留任の線を打ち出している模様だが・・」

野田社長
「それはまだ判らない。今後調査を十分にしてみなければ、留任するかどうかはわからない」

記者
「では、藤村監督を留任させないことも考えられるのか」

野田社長
「今は、藤村君をどうするということは、考えていない。しかし、藤村君自身にも問題があるので、例え留まったとしても、いままで通りではすまされない」

記者
「岸技術顧問を、監督に復帰させるというウワサがあるが・・・」

野田社長
「そういうことはない」

記者
「松木大映監督や、藤本前大映監督に交渉したとも言われているが・・」

野田社長
「全然、そういう交渉をしたことはない。とくに松木君の場合は大映に移ったのだし、これから彼の大映における責任も重いのだから、むしろ迷惑だろう。藤本さんにも、タイガースを引き受けてくれというような接渉は全然していない」

記者
「それでは、タイガースは、監督を外に求めるというような考えは全くないと考えて差し支えないのだろうか」

野田社長
「いまのところは、他から監督を持ってくるという交渉は全然やっていない」

記者
「しかし、紛糾の原因は、監督問題なのだから、これが解決しなければ、どうにもならないのではないか」

野田社長
「どんな困難な問題でも、人間の社会で起こった問題なのだから、絶対解決できないというようなことはない。私は、今度の問題も解決する自信はある」

記者
「それでは解決の具体策だが、監督留任の場合、金田主将の退団を要求するのか」

野田社長
「そういうことはない。金田君に退団を要求するということは考えていない」

記者
「では、双方無傷で解決するという自信を持っておられるわけですね」

野田社長
「そういけばよいのだが・・」

記者
「では、解決のためには反主流派の選手の中から、整理される人が出るというのか」

野田社長
「整理選手は、例年やっていることだ。今年も例外ではない。今年も整理する選手は整理する方針に変わりない」

記者
「監督も、主将も傷つけないようにして、解決できるとして、球団の再編のために、外部から潤滑油の役割を果たすような人を求めることは考えられないのか」

野田社長
「それはいい方法だが・・とにかくファンの方々のためにも、できるだけ早く解決したい。契約も例年通り、来月15日ごろまでに、すましたいと思っている」

(つづく)

球団側は、11月中ごろ、その青木さんに、まず、解雇通告したんです。当時、父(渡辺省三)、小山(小山正明)、大崎(大崎三男)が、阪神のエース・トリオと言われていました。マスコミが、この問題について、父らに取材を求めてきたんです。昭和31年11月20日ごろのことです。(以下、昭和31年11月20日付け「スポーツニッポン」記事より抜粋)

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記者
「今度の青木スカウト解職は、君たちには大きな打撃であったと思うが」

大崎
「青木さんが解職された理由が我々をそそのかした首謀者であるということだけなら、それは大間違いだ。青木さんの場合、あくまでも青木さん個人の球団に対する言い分を主張されたことだし、すでに7月に辞表まで出している。せっかく獲った選手も入団後契約当時の条件と全く違うというのだから、青木さんにしても不満はあるでしょう。その点を会社側が考えて欲しいと思う」

小山
「今度の我々の行動が、青木さんに扇動されてやったんだとみられることは心外だ。もちろん青木さんが反主流派の一人に名を連ねていたからそう見られるんだろうが・・・」

渡辺「青木さんの場合と我々の場合と、その目的こそ同じだけど、行動はあくまでも別なんだから」

記者
「青木氏が、戸沢専務に解職を申し渡されたとき、両成敗という意味で、下林常務もそれによって退陣すれば、それで所期の目的は達することができるんだから・・といっていた」

大崎
「それでなければ、青木さんも、ここまでやった甲斐がないでしょう」

渡辺
「会社のやり方があまりにも一方的すぎる」

小山
「青木さんの解職によって、一応、会社側の出方が判る気がするし、藤村さんの留任という見方が非常に濃いとみていいだろう」

大崎
「それならそれで僕たちの信念はあくまでも、押し通すまでだ。鈴木会長が来阪して、その目的が今度の問題のあっせんということでなかったにしても、社長や下林さんと会っただけで、円満解決とか何とか、意見を述べられるのも一方的だ」

小山
「我々の言い分も聞いてほしかった」

渡辺
「一年の監督生活で、結果を出すということは間違っているという声もあるが、昨年だってほとんど藤村さんが采配を振ったんだし、以前にも代理監督をやったことがある」

大崎
「要するに監督としては、あまりにも感情的すぎる。プレイヤ―としての立場ならそれでいいけど、監督としては不満を買うだけだ」

小山
「僕たちの言いたいことは、藤村さん一人を攻撃するんじゃない。我々が明るい気持ちで、真剣にプレーと取り組めるチームを作るということが最大の目的なんだ」

渡辺
「その目的を達成するためには、監督を代えなければということになってくる」


(つづく)

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