今や、YouTubeの時代。

長年、父のプロフィールを
ホームページを作って
掲載していたが、
近く、ホームページは
閉鎖しようと思っている。

ホームページに代わるものと
してはYouTube。

YouTubeで発信していく
ことに決めた。

阪神の昔話がヤフーニュースに
掲載されていた。
父のことも書いてありました。

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191026-00000005-baseballo-base&p=2

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年末には、優勝の功労金、10年間同じ球団に在籍した選手が貰える10年選手のボーナスを頂きました。年俸以外にまとまったお金が手に入ったのです。


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その時は、母のかねてからの希望であった自宅の建て替えを行うことになりました。

すぐに、業者に見積もりを頼み、万が一、父が戦力外通告でクビになった場合の時を考え、住宅兼賃貸アパート(3階建て)に、建て替えることに決めました。


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母は、父がクビになった場合、アパートの家賃収入を生活の糧にしようと考えたのです。

建て替え費用は、850万円でした。


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貯蓄や10年選手ボーナス、優勝の功労金などで賄い、10カ月の分割で支払いました。母が今も残している領収書を見ると、昭和39年4月15日に、全額領収と記されていますので、母の記憶に間違いありません。

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渡辺省三の遺族の立場である私は、末永氏のすぐそばにいた。

末永氏は、電話を切ったあと、
「今、阪神交通社からの電話でした。まぁ、これは言わないでおきましょう」と言った。

私は、末永氏のその言い回しが、何やら意味深に思えたが、
その場で、その真意を確かめることはしなかった。

私は、末永氏とは、その時が初対面だった。遠慮で、踏み込んで質問できなかったのだ。

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真意を確かめたのは、渡辺の死から一年が経過したころだった。


末永氏
「阪神交通社から電話があったことについての質問だけど、阪神交通社から、一切電話なんかないよ。電話もないし、電話もしたことないよ」

「いえ、今、阪神交通社からでした。でも、このことは言わないでおきましょう。と言ったでしょ?」

末永氏
「いやいや、阪神交通社、あそこ、たまに使うけど、名前も知らないし、僕の携帯も誰も知らない。顔くらいは知ってるけどー。時々行くから。でも、その時に阪神交通社からの連絡なんて全くないよ」

「そしたら、球団から、阪神交通社からかかったんでーとかいう連絡があったとかー」

末永氏
「いや、全然。阪神交通社という名前を言ったのは覚えてます。それはー横溝さんがーイヤ違う違うーあの時は、わからんかったんや。渡辺さんが買うてることがー。あくる日に、阪神交通社に電話して、予約状況を聞いたら、横溝さんのが入っていて、渡辺さんのがなかったわけや。それで、横溝さんは「行く」というから、「だめだ」と。
僕が、キャンセルしておきますからーと横溝さんに言って、キャンセルしたわけ。その時にね。一度、確認されたらどうですか?と言ってー。
それで、「言わないでおきましょう」と言ったのは、たぶん、広報との話の中で、広報が発表する時に「あまり、細々した家族の内輪話は言わないでおきましょう」と言ったんやと思うけど。阪神交通社なんて、何にも言ってないよ」

「いやー、みんな聞いてますよ。あの時、いっぱい居ましたでしょ?親戚とかー。みんながそれを聞いてて、なんで、末永さんは、そう言ったのかな?とー」

末永氏
「阪神交通社?」

「まぁ、そうおっしゃるなら、それはそれとして、聞き流すとして、こっちに入っている情報としては、キャンセルというのではなく、予約をしに行ったという情報が入っているし、私も、阪神交通社に入る姿を見たからー」

末永氏
「当然ね、9月の8日からか、渡辺さんと横溝さんが、行くことになってたよ。あれは、熊本かな?それで、いつも遠出する時は、渡辺さんが横溝さんのも買ってきて、それで、お金で横溝さんとやりとりしとった。だから、おれ、あくる日かな?阪神交通社に電話して、誰々予約をしてますか?と聞いたら、渡辺さんのはありません。横溝さんのはあります。それで、横溝さんが、わし行くわーというから、今は、行ったらダメです。とー横溝さんも動揺されてるから、今回の話は無しにして、行かないでください。それでキャンセルしたのはおれよ。だけどおれ、交通社なんて話した記憶も全くない。だって10時ごろでしょ?10時ごろに、阪神交通社が開いてる訳ないでしょ?」


「開いてる訳ないですけど、ちょうど9時に報道がありましたよね。テレビのニュースが始まりますよと言って、みんなで見ましたよね。そのニュースを誰が見て、どうしたのかわからないですけど、聞くと、窓口で対応した人が私の知り合いの知り合いで。その人が球団に電話したのか、違う人がしたのか、情報の経路はわからないんですがー」

末永氏
「僕もわからへん」

⬛️

総務次長からの文書の中の

『検察が航空券に関する取引の記録(カルテの写しなど)を所持している可能性があります」

という箇所の事情は、以上のようなことである。

総務次長が、怯えている感じがする。
一体、何を知っていて、何に怯えているのか。

私には、全く感知できなかった。現在もだ。





話が前後するが、

総務次長から、末永氏に送られてきた書面の中で出てきた
「故渡辺氏」とは、
末永氏がスカウト職に就いた1987年当時、既にスカウト歴15年のベテランスカウト、渡辺省三のこと。
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そのベテランスカウトが、1998年8月31日、午前10時ごろ、自宅近くの阪神交通社に赴き、9月8日からの熊本出張のための航空券を購入し、その約3時間後、神戸市内のビルから転落死した。
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この事実は、この日の午後7時ごろ、ニョース速報で「自殺の可能性が高い」と流れ、多くの人が知ることとなる。

航空券を販売した窓口の人も、ニョース速報で知ったといい、
「今朝、9月8日の航空券を購入した人が、自殺するだろうか」と疑問に思い、調べ直した方がいいのではないかという趣旨で、球団に連絡を入れたようだ。


球団は、渡辺の死の事後処理にあたっていた末永氏の連絡先を阪神交通社の人に伝達。

末永氏が、阪神交通社の人からの連絡を受けた場所は、渡辺の自宅。

末永氏は、突然の悲しみに包まれた渡辺の遺族を支えようとしたのか、亡くなった上司の自宅のリビングのソファーに座り、阪神交通社の人からの情報を
自身の携帯電話で聞く形となった。


末永氏が、
関連会社に出向して、
一年半が経過したころ
(2002年8月)。

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末永氏の出向先に、
阪神タイガースの総務次長から郵便物が届いたという。



内容は次のようなものだった。

ーーーー
平成14年(2002年)
8月26日(月)

末永部長殿


◾️送信内容
書籍  「タイガースの闇」の件
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◾️ご案内

標記の件、遅くなりましたが、〇〇弁護士から出された宿題の項目に関し、別紙のとおり〇〇弁護士に提出しましたので報告いたします。

なお、平成10年(1998年)8月31日における、故渡辺氏と旧・(株)阪神交通社(現・(株)阪神ステーションネット)との間の取引内容を、同社に対して照会した結果、具体的な証拠を発見することができませんでしたところ、今朝、渡辺直子氏から箱崎顧問宛に郵送された雑誌記事中、「検察が阪神交通社に対して調査した」旨の記述がありますので、この記事を併せて〇〇弁護士に提出しました。つまり、現在も、検察が航空券に関する取引の記録(カルテの写しなど)を所持している可能性があります。   以上

株式会社阪神タイガース
総務部

〇〇〇〇


末永氏は、着々と
自己流のスカウト稼業を
身につけていったようだ。

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何年かして、
チーフスカウトの
ポストにつき、
1998年には、
編成部長の座を掴んだ。
末永氏、51歳の時である。

定年(65歳)まで、
編成部長を務めたいと
思っていたに違いないが、
2000年12月、
突如、球団から解雇された。

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解雇後、末永氏は、野球とは全く関係がない、
阪神の関連会社に出向となる。





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1987年にスカウト職に着任した末永正昭氏は、現役引退後、
一軍、二軍のマネジャーなどを歴任。球団職員として10年の時間を経て、スカウト職に就いた。


末永氏は、主に外国人選手の獲得に尽力。
末永氏がスカウト職に就いた以後の外国人獲得状況と在籍期間は以下の通りだ。

野手
ジョーンズ  
1988〜1988

フィルダー 
1989〜1989

パリッシュ 
1990〜1990

ウィッグス 
1990〜1990

オマリー 
1991〜1994

ウィン 
1991〜1991

パチョレック
 1992〜1993

ディアー 
1994〜1994

グレン  
1995〜1996

クールボー 
 1995〜1996

マース  
1996〜1996

クレイグ 
 1996〜1996

ハイマット 
 1997〜1997

シークリスト
 1997〜1997

コールズ  
1997〜1997

グリーンウェル
 1997〜1997

ハンセン 
1998〜1998

パウェル  
1998〜1998

ウィルソン
 1998〜1998


投手
郭季建夫 
 1993〜1998

マクドナルド
 1997〜1997

リベラ  
1998〜1999

メイ
 1998〜1999

クリーク 
 1998〜1998






阪神のスカウト編成部に問題が出てきたのはいつからなのか。

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まず、スカウトの変遷から見てみたい。

スカウトの変遷

1956年7月27日に、各球団のスカウトがコミッショナーに登録されることになった。
(スカウト登録制)

この当時、阪神のスカウトは、青木一三氏、浅野秀夫氏、奥井成一氏、御園生崇男氏、杣田登氏の5名であった。

この年の11月ごろ、藤村排斥事件という問題が起き、名スカウトの青木一三氏が退団してしまう。

その後任に、河西俊雄氏というスカウトがやってきた。同時に、中日ドラゴンズで辣腕スカウトだった佐川直行氏が阪神に移籍してきた。

河西氏、佐川氏体制は、1970年ごろまで続いた。

1970年ごろ、佐川氏が阪神を去り、河西氏中心に、櫟信平氏、山本哲也氏、小鶴誠氏、藤村隆男氏らのスカウト体制になっていった。

1972年には、藤村隆男氏が退任し、後任に渡辺省三が着任した。

1974年には、山本哲也氏が退任。

河西氏は、
1976年4月で定年となり、嘱託という形でスカウト職に従事したが、1977年1月に、球団より「スカウト陣若返りのため再契約の意思がない」ことを告げられた。

その1ヶ月前には、朋友だったベテランスカウトの櫟信平、小鶴誠氏も退団を告げられていた。

河西氏、櫟氏、小鶴氏が退き、
残った渡辺省三を中心に、新体制が作られた。

1984年に、広島カープで活躍した横溝桂氏が阪神のスカウトに仲間入り。


その3年後の1987年には、1970年にドラフト2位で阪神に入団し、7年間現役選手を全うし引退した末永正昭氏が仲間入りした。




(参考文献)
「ひとを見抜く
伝説のスカウト河西俊雄の生涯」著・澤宮優






阪神タイガースが開幕直後に、単独最下位に転落していることが話題になっている。

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夕刊フジの記事によると、単独最下位の責任の所在を夕刊フジ公式ツイッターで緊急調査したところ、フロントの責任を問う書き込みが目立ったという。

「阪神「単独最下位」責任の所在 夕刊フジ公式ツイッターで緊急調査 フロントの責任を問う書き込み目立つ」



🔳記事の中のある人の意見

  • 「責任は各所相応にあるのは間違いなかろうが、最大の責任はスカウト部門の無能さ加減が際立っている。
    高い金を掛けて獲得する外国人大砲候補は外れまくり資金だけが無駄に垂れ流しとなっている。
    過去の書面での実績や他人の評価の身に頼ってリストアップしているばかりで、自分の目利きで選択作業をしていないのではないか。
    これ程無能なスカウティングが通用するのは能天気な阪神球団だけで、他社なら責任を取らされて幾つ首があっても足りないだろう。

    (記事中のコメントから引用)

    ーーーーーーーーーーー

    この意見、ごもっともだ。

    21年前(1998年)にもこんなことがあった。


    阪神のスカウト部門は、その年のドラフトの逆指名で、「投手なら上原、野手なら二岡」の戦略を持った。

    6月30日の第一次スカウト会議で、上原浩治選手(大体大)、二岡智宏選手(近大)に加え、矢野英司選手(法大)、松坂大輔投手(横浜高校)も候補者として公表した。


    8月に行なわれた第二次スカウト会議で、編成部長、チーフスカウトの決済のもと、
    「第二次 平成10年(1998年)ドラフト候補者調査リスト」を、作成した。

    リストによると、A評価の候補選手は、高校生は松坂大輔選手、新垣渚選手、大学生は、上原浩治選手、矢野英司選手、二岡智宏選手、社会人は、福留孝介選手、岩瀬仁紀選手、部坂俊之選手、戸部浩選手であった。


    11月のドラフトでは、このリストに沿った選手獲得を試みると思いきやー

    候補選手にあがっていない藤川球児選手をドラフト1位で、候補者リストにもあがっていない金沢健人選手がドラフト2位で阪神入りする結果となった。


    この年以降の詳しいスカウティング状況は知り得ないが、
    同じようなことの繰り返しが、現在のボロボロを招いているように思う。

    起死回生には、相当な時間がかかりそうだ。







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