ヘンデル・バッハ・スカルラッティ生誕333年記念の昨年に出版された本で、これを見つけて以来ずっと読みたいと思っており、この度読了。全編通して読みやすかった。

著者による「はじめに」も書かれている通り、評伝でも研究書でも音楽の解説書でもない、というスタンスで、一般の音楽愛好家向けに親しみやすく、またわかりやすく書かれている。とはいえ、ヘンデルが生きた時代のヨーロッパ史、特に各国の王位継承権の問題やそれを巡る戦争、力関係については少し詳しめに解説し、そのような情勢の中でドイツ、イタリア、ヘンデルで音楽活動を行ったヘンデルの特に声楽曲に籠められた政治的意味を読み取ろうというもの。楽譜を引用しての楽曲解説みたいなものはほとんどない。

取り上げられる話題として、ハノーファー選帝侯時代からの付き合いである後の英国王ジョージ1世との関係からヘンデルのイギリスでの音楽活動を考えるところも面白いし、また、オペラやオラトリオなどの内容に、当時の政治的時事問題が重ねられていることがよくわかる。たとえば、「メサイア」も初演がロンドンではなくダブリンで、そこで成功したのも、内容には反体制的なメッセージが読み取れるようになっており、これでアイルランドのジャコバイトの反応を伺っていたのではないかというのだ。

しかし、もちろん現王朝を讃える楽曲も様々作っているし、またイタリアにいた時代には何人もの枢機卿のパトロンがいて、カトリック教会向けの音楽も作っている。けれどヘンデル自身はルター派。

うまいこと立ちまわって、行く先々の依頼に応じ、よく言えば臨機応変に曲を作り、儲けも結構あったようだが、節操がないというのは果たして言い過ぎだろうか。本書を読んで思ったことは色々あるのだが、その中の一つに、ではヘンデル自身の思想信条というのはどこにもないのか、というところ。もちろん、18世紀の職業作曲家であれば、依頼主に合わせて曲を作るのは当然のことだけれども、ドイツからイタリアに渡ってさらにイギリスに帰化する中で、それぞれ政治的にも宗教的にも違う立場にころころと合わせて曲を作るのに、些かなりとも葛藤はなかったのか、あっても割り切るしかないという意識があったのか、この辺りに触れる文章が本書にはなかった。どこまでヘンデルの本音を探りうる資料が残されているのかわからないが、結局、ヘンデルはそういった政治的・宗教的信条についてはそこまで拘りがなかったのか、人物像として気になるところであった。

あまり詳しいところまで踏み込むのはこの本の趣旨ではないのかもしれないが、ヘンデルという作曲家がいわば敏腕プロデューサーのように行く先々で音楽イベントを盛り上げた人物なのだ、という人物評を下すにしても、上記のような自らの信条との折り合いについての問題は果たしてどうだったのか、気になるところである。イギリス文学史に登場する詩人たちは結構こういう問題で悩んだり憂き目にあったりする者もいるわけであるから。

あとは、器楽曲への言及がほとんどないのだけれど、これは彼の音楽ビジネスとの関連で何か述べるべきところはないのだろうか。などなど、なにぶん多彩な作曲家であるために、一本の筋を通してまとめ上げるのは大変なのかもしれないのだけれど、もちろん面白く読みました。