2013年10月29日
【舞台】 秋のソナタ(2013)
父という存在は息子にとっては大きな壁、そしていつか乗り越えていかねばならない存在だが、母と娘という関係は、どうやらそうではない。もちろん幼いころは、母の大きな愛の中に包まれているのは娘も息子も変わりがないだろう。しかし娘は肉体的にも精神的にも急激に成長し、たちまち母になる年齢になる。そして同じ「女」というレベルに達するのだ。それだけに憎しみも愛情もともに色濃く、渾然一体となって互いの感情の中に沈殿していく。もしそれがまともにぶつかったら。ましてや母の子どもたちに対する愛がいびつなものだったとしたら。舞台「秋のソナタ」は、イングマール・ベルイマンが映画で描いた母と娘の強烈な対峙の物語を二人芝居として構成、舞台化したもの。日本演劇界の至宝、佐藤オリエと、映像界の若きミューズ、満島ひかりが、今現在あらんかぎりの才能をぶつけ合う、魂を揺さぶる作品になった。
ベルイマンの映画「秋のソナタ」は、誕生の過程からして大きな物語の中にある。1950年代に知り合った映画監督のイングマール・ベルイマンと名女優イングリッド・バーグマンは、同じスウェーデン人で同じ名字を持つ者同士で映画をつくろうと盛り上がった。構想はそのまま動かずにいたが、1973年になって二人は再会、1975年についにこの運命の脚本が完成した。1977年に撮影開始、1978年に公開され、世界から絶賛されたことは映画史の一コマとしてあまりにも有名だ。
しかし、単に故郷が同じで名前が一緒だからという盛り上がりだけで出来た作品ではない。黒澤明やフェデリコ・フェリーニと並び当時世界最高レベルの地位にいたベルイマン監督と、俳優界の頂に立ち他の誰も寄せ付けなかった実力派女優イングリッド・バーグマンの共同プロジェクトなのだ。
イングリッドはその役柄に悩んだ。世界的なピアニストでその芸術家としての成功のために子育てに十分な時間を割かず、家庭を犠牲にした母親という背景は、女優として精力的な活躍をし、不倫のかたちでイタリアのロッセリーニ監督の下に走った自らの生きざまと重なる部分が多かったからだ。
ベルイマンとイングリッドは撮影中も激しく議論し合ったという。スタッフの中には、映画「秋のソナタ」の完成を危ぶむ声もあったとする話もあるほど。そして娘役にはベルイマンの秘蔵っ子、リヴ・ウルマンが起用され、その恐るべき才能と常に対峙することにイングリッドはどれほどのエネルギーを必要としたか想像も付かない。
しかし完成した映画への称賛、そしてナショナル・ボード・オブ・レビュー賞、ニューヨーク批評家協会賞、アカデミー賞、ゴールデングローブ賞、全米批評家協会賞という映画主要賞のすべてで主演女優賞を獲得するなど自らに対する名声によって、すべては乗り越えるべき試練であったことが明らかになる。イングリッド自身も自らの演技の完成度を認め、映画から引退。テレビドラマシリーズへの出演はあるものの、「秋のソナタ」が最後の映画となり、4年後の1982年この世を去っている。彼女にとっても運命の映画だったのである。
この世界的な作品。ベルイマン監督は舞台演出家でもあったものの、自らが戯曲化することはなかった。しかしこの濃密な物語に舞台での可能性を感じた世界中の演劇人によって舞台化され、何度も演じられてきた。
今回は、2010年の芸術祭演劇部門大賞作品「おそるべき親たち」で翻訳・日本語台本を務めた木内宏昌と、演出を務めた熊林弘高のコンビが再びタッグを組み、同じく翻訳・日本語台本と演出で参加。二人芝居のかたちで上演する運びになった。
6人の登場人物を2人に絞ったのだから、より濃密さが増している。
ノルウェー北部の田園地帯にある牧師館で、夫のヴィクトルと共に暮らすエヴァ(満島ひかり)は、7年間も会っていない母のシャルロッテ(佐藤オリエ)を我が家に招こうと手紙を書いた。母の長年暮らした恋人が亡くなったことを人づてに聞いたからだ。母のさびしさを思いやり、そしてまた母と「和解」する必要のあることが自分の中で引っかかっていたからだ。
きっと来ないだろうと思っていたシャルロッテは長時間の運転でへとへとになりながらも牧師館にやってきた。歓待するエヴァ。二人は抱き合い、互いの空白を埋めようとする。しかし時が経つにつれ、エヴァはもう一人の娘で脳性マヒにかかっているヘレナを施設から牧師館に引き取ったことを明かし、施設に見舞おうともしなかったシャルロッテを間接的に責める。世界的な演奏旅行の連続で家庭を顧みなかった母のかつての態度をエヴァは事細かになじる。芸術家としての欲望と、奔放な恋愛のため、子育てを夫らに押しつけていた自分の瑕疵を十分に感じていながらも、7年という時や、母と娘の特別な関係は何の助けにもならないのか。シャルロッテの苦悩は深まり、エヴァの悲しみはより深くなる。
この果てしない母娘の愛憎を、二人の女優が行き詰まる緊張感の中で演じ切る。佐藤は、芸術家が持つどこか鷹揚で楽天的なシャルロッテの素地に、悲しみを悲しみでごまかすような致命的なずるさを塗りつける。満島は、キリスト教に帰依する自らの静かな暮らしが本来の自分であるかのように慎ましくふるまいながらも、過去の傷にがんじがらめになっているエヴァの痛々しい激しさを体いっぱいで表現する。
舞台は象徴的な窓やドアの前に、食卓と椅子に白いシーツのような布、いくつかの燭台とろうそくというシンプルな構成で、あとはヘレナが乗っているはずの車いすが時々出てくるぐらい。
しかしこの白い布はテーブルクロスやベッドシーツやピアノの保護用クロスなどさまざまに変化し、食卓もまた家の中のさまざまな家具に変容する。
凝縮されたベルイマンの物語がさらに、静謐に凝縮されている感覚で、おびただしいせりふの鋭さが観客の胸により鋭角的に刺さってくる。観客はただ静かに見つめているというよりも、自分の胸にも激しい葛藤を抱きながら、終わり近くになってようやく身じろぎもせずに見ていた自分に気付く、という感じなのだ。
きっとこの母と娘、どちらが正しいなどという結論は存在しないだろう。どれだけなじろうと反論しようと、母と娘なのだから。
それにしても、満島はいったいどれほどの才能を秘めているのだろう。ダンス&ボーカルクループのFolderやFolder5でのキャリアを持ち出すまでもなく、映画「愛のむきだし」での激烈な演技、ドラマ「それでも生きてゆく」や「Woman」でのピュアでビビッドな存在感、映画「川の底からこんにちは」でのコメディエンヌぶりと、作品に出るたびに新たな魅力を発見されてきた。「ネジと紙幣」「鎌塚氏、すくい上げる」「100万回生きたねこ」など舞台でも多くの経験を積んでいるが、「秋のソナタ」で明らかになったのは、そのたたずまいに神秘性があることだ。ただ舞台にすくっと立っているだけでも、何かが始まる物語性を持った存在なのである。観客の多くがそのことに気付いたはずだ。
舞台「秋のソナタ」は、11月3日まで、東京・池袋の東京芸術劇場シアターイーストで上演予定。
★映画「秋のソナタ」Blu-ray=舞台版とは関連がありませんが、合わせて観ると「秋のソナタ」のすべてが分かります


★映画「秋のソナタ」DVD=舞台版とは関連がありませんが、合わせて観ると「秋のソナタ」のすべてが分かります


ベルイマンの映画「秋のソナタ」は、誕生の過程からして大きな物語の中にある。1950年代に知り合った映画監督のイングマール・ベルイマンと名女優イングリッド・バーグマンは、同じスウェーデン人で同じ名字を持つ者同士で映画をつくろうと盛り上がった。構想はそのまま動かずにいたが、1973年になって二人は再会、1975年についにこの運命の脚本が完成した。1977年に撮影開始、1978年に公開され、世界から絶賛されたことは映画史の一コマとしてあまりにも有名だ。
しかし、単に故郷が同じで名前が一緒だからという盛り上がりだけで出来た作品ではない。黒澤明やフェデリコ・フェリーニと並び当時世界最高レベルの地位にいたベルイマン監督と、俳優界の頂に立ち他の誰も寄せ付けなかった実力派女優イングリッド・バーグマンの共同プロジェクトなのだ。
イングリッドはその役柄に悩んだ。世界的なピアニストでその芸術家としての成功のために子育てに十分な時間を割かず、家庭を犠牲にした母親という背景は、女優として精力的な活躍をし、不倫のかたちでイタリアのロッセリーニ監督の下に走った自らの生きざまと重なる部分が多かったからだ。
ベルイマンとイングリッドは撮影中も激しく議論し合ったという。スタッフの中には、映画「秋のソナタ」の完成を危ぶむ声もあったとする話もあるほど。そして娘役にはベルイマンの秘蔵っ子、リヴ・ウルマンが起用され、その恐るべき才能と常に対峙することにイングリッドはどれほどのエネルギーを必要としたか想像も付かない。
しかし完成した映画への称賛、そしてナショナル・ボード・オブ・レビュー賞、ニューヨーク批評家協会賞、アカデミー賞、ゴールデングローブ賞、全米批評家協会賞という映画主要賞のすべてで主演女優賞を獲得するなど自らに対する名声によって、すべては乗り越えるべき試練であったことが明らかになる。イングリッド自身も自らの演技の完成度を認め、映画から引退。テレビドラマシリーズへの出演はあるものの、「秋のソナタ」が最後の映画となり、4年後の1982年この世を去っている。彼女にとっても運命の映画だったのである。
この世界的な作品。ベルイマン監督は舞台演出家でもあったものの、自らが戯曲化することはなかった。しかしこの濃密な物語に舞台での可能性を感じた世界中の演劇人によって舞台化され、何度も演じられてきた。
今回は、2010年の芸術祭演劇部門大賞作品「おそるべき親たち」で翻訳・日本語台本を務めた木内宏昌と、演出を務めた熊林弘高のコンビが再びタッグを組み、同じく翻訳・日本語台本と演出で参加。二人芝居のかたちで上演する運びになった。
6人の登場人物を2人に絞ったのだから、より濃密さが増している。
ノルウェー北部の田園地帯にある牧師館で、夫のヴィクトルと共に暮らすエヴァ(満島ひかり)は、7年間も会っていない母のシャルロッテ(佐藤オリエ)を我が家に招こうと手紙を書いた。母の長年暮らした恋人が亡くなったことを人づてに聞いたからだ。母のさびしさを思いやり、そしてまた母と「和解」する必要のあることが自分の中で引っかかっていたからだ。
きっと来ないだろうと思っていたシャルロッテは長時間の運転でへとへとになりながらも牧師館にやってきた。歓待するエヴァ。二人は抱き合い、互いの空白を埋めようとする。しかし時が経つにつれ、エヴァはもう一人の娘で脳性マヒにかかっているヘレナを施設から牧師館に引き取ったことを明かし、施設に見舞おうともしなかったシャルロッテを間接的に責める。世界的な演奏旅行の連続で家庭を顧みなかった母のかつての態度をエヴァは事細かになじる。芸術家としての欲望と、奔放な恋愛のため、子育てを夫らに押しつけていた自分の瑕疵を十分に感じていながらも、7年という時や、母と娘の特別な関係は何の助けにもならないのか。シャルロッテの苦悩は深まり、エヴァの悲しみはより深くなる。
この果てしない母娘の愛憎を、二人の女優が行き詰まる緊張感の中で演じ切る。佐藤は、芸術家が持つどこか鷹揚で楽天的なシャルロッテの素地に、悲しみを悲しみでごまかすような致命的なずるさを塗りつける。満島は、キリスト教に帰依する自らの静かな暮らしが本来の自分であるかのように慎ましくふるまいながらも、過去の傷にがんじがらめになっているエヴァの痛々しい激しさを体いっぱいで表現する。
舞台は象徴的な窓やドアの前に、食卓と椅子に白いシーツのような布、いくつかの燭台とろうそくというシンプルな構成で、あとはヘレナが乗っているはずの車いすが時々出てくるぐらい。
しかしこの白い布はテーブルクロスやベッドシーツやピアノの保護用クロスなどさまざまに変化し、食卓もまた家の中のさまざまな家具に変容する。
凝縮されたベルイマンの物語がさらに、静謐に凝縮されている感覚で、おびただしいせりふの鋭さが観客の胸により鋭角的に刺さってくる。観客はただ静かに見つめているというよりも、自分の胸にも激しい葛藤を抱きながら、終わり近くになってようやく身じろぎもせずに見ていた自分に気付く、という感じなのだ。
きっとこの母と娘、どちらが正しいなどという結論は存在しないだろう。どれだけなじろうと反論しようと、母と娘なのだから。
それにしても、満島はいったいどれほどの才能を秘めているのだろう。ダンス&ボーカルクループのFolderやFolder5でのキャリアを持ち出すまでもなく、映画「愛のむきだし」での激烈な演技、ドラマ「それでも生きてゆく」や「Woman」でのピュアでビビッドな存在感、映画「川の底からこんにちは」でのコメディエンヌぶりと、作品に出るたびに新たな魅力を発見されてきた。「ネジと紙幣」「鎌塚氏、すくい上げる」「100万回生きたねこ」など舞台でも多くの経験を積んでいるが、「秋のソナタ」で明らかになったのは、そのたたずまいに神秘性があることだ。ただ舞台にすくっと立っているだけでも、何かが始まる物語性を持った存在なのである。観客の多くがそのことに気付いたはずだ。
舞台「秋のソナタ」は、11月3日まで、東京・池袋の東京芸術劇場シアターイーストで上演予定。
★映画「秋のソナタ」Blu-ray=舞台版とは関連がありませんが、合わせて観ると「秋のソナタ」のすべてが分かります
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