2013年12月10日
【舞台】 八月の鯨（2013）
人生の老境を描いた名作に「黄昏」という映画（もともとは舞台の戯曲）があるが、どちらかというと老いそのものよりも、疎遠だった娘との確執と和解が主要なテーマだったのに対して、同じように戯曲と映画で知られる「八月の鯨」は、絶頂期をはるかに過ぎ、人生の涯てに近づいた人間の絞り出すような日々を綴ったまさしく老境の名作。年老いた姉役と妹役を奈良岡朋子、日色ともゑという現在考え得る中で最高のキャスティングで劇団民藝が実現した舞台「八月の鯨」は、その心のこもった２人の演技とともに、月光のきらめきやカモメの鳴き声、ニシンの群れなど、舞台上には見えないものもすべてが、観客の心の中に入り込んでくるような臨場感のあふれる作品になった。決して見えないはずの八月の鯨までもが、閉じたまぶたの中に浮かんでくるような気までするのだ。
米国の劇作家デイヴィッド･ベリーが生み出したこの「八月の鯨」は、当初１９８０年ごろはリーディング作品として上演されていたが、自ら脚本を手掛けた映画「八月の鯨」が１９８７年に公開されると、大反響を呼び、カンヌ国際映画祭でも特別賞を受賞するほどの評価を得た。
舞台は１９５４年８月、米メイン州の沿岸にある島の別荘。２人で暮らしている老いた姉リビー（奈良岡朋子）と、まだ少し元気な妹サラ（日色ともゑ）の姉妹が主人公だ。夏は避暑地としてにぎわうが、カナダに近い北方のため、秋から冬にかけては厳寒の地となり、氷に閉ざされることもしばしば。気楽な別荘生活というにはほど遠い、やむにやまれずこの地に住んでいるとも言えそうな２人だ。
もともといろいろと理屈をこねるタイプだったリビーは、目が不自由になって、サラの助けを借りないと歩き回ることも出来ない。唯一の楽しみは海が見える庭に出て過ごすことぐらい。本当はこんな自分に腹を立てているのだが、それはイライラとなってサラや周囲の人間に当たり散らすことにつながる。気むずかしさはますます進行中だった。
そんな姉の世話をするサラは、元来、働き者で面倒見がいいため、嫌な顔もせずに日々世話を焼いている。それでも愚痴っぽくなってきた姉と一緒にいるのがなんだか憂鬱になっては来ていた。島に住む親友のティシャ（船坂博子）はサラに、リビーを施設に預けて一緒に住もうと持ちかけてくるし、さすがのサラも気持ちがぐらぐらしていた。
そんな不安定な２人の関係にさらに大きな揺らぎを与える存在がやってきた。ロシアの亡命貴族マラノフ（篠田三郎）だ。島の女性の家に居候していたが、その女性が急死し、島を出るかどうか微妙な状態だった。
サラはマラノフの高貴な出自と波乱とロマンにあふれた亡命や逃避行に胸をときめかせる。島の生活では考えられない教養にあふれた会話も楽しませてくれる。
しかしリビーはその偏屈な性格が邪魔をしてなかなか心を開くことが出来ない。しかも、人を鋭く射貫く目を持ったリビーは、マラノフの没落ぶりをすばやく感じ取り、絶対的な距離を置く。
物語は姉妹とマラノフの関係を中心にしながら、島の修理工（稲垣隆史）との交流や、さまざまな人々の人生観を交錯させながら、後半へと導かれていく。
かつては夏になるとこの島の岸辺近くにまで鯨がやってきたという。サラは今年も来るのではないかと心待ちにしているが、リビーはもう決してやってこないとあきらめている。これは２人の性格を表すとともに、２人の人生観の違いを表している。
鯨は「決して来ない希望」の象徴であり、「かつてあった希望」の表象である。
サラはどんな決断を下すのか。その決断を受けてリビーはどんな人生を選択するのか。
観客は終盤に訪れるであろう、そんな場面を想像しながら、２人とともに考えている。姉妹とそう変わらない年頃の方々も、まだ老いがはるかかなたにしか見えない若い観客の人たちも。
一見、寂しすぎてやりきれないこうした物語が、実は何とも言えず、さらさらとしている。深刻すぎるテーマではあるが、人は誰しも必ずこうして人生の涯てにたどり着き、なんらかの決断を迫られるのだという、達観と悟り。不思議な静けさとともに、厳しい冬が来る前のわずかな夏の終わりに海辺の別荘に自らの身を置いているような気になるのだ。
奈良岡は、リビーのどうしようもない焦燥感とあきらめを、激しく表現する。動きがたくさんあるわけではないのだが、会話のエッジがきいていて、互いに刺すようなやり取りが大いに見せる。
まだ人生が残っている。やり残したことがたくさんある。そしてまだまだ元気だ。そんなサラの慎ましやかなエネルギーを日色は見事に醸し出す。どれほど姉に手を焼いても面倒を見ることをいとわない生来の優しさと、決断への道をまっすぐに歩んでいく厳しさ。サラの持つそんな二面は観客にはっきりと伝わってくる。
劇団民藝で先輩後輩として切磋琢磨してきた演技力を激しくぶつけ合う様は、圧倒されるほどだ。
静かでなにか謎めいた篠田も良い。舞台「細雪」などでも定評のある落ち着いた演技。安定感は商業演劇の俳優の中では最高レベルだろう。
そして船坂と稲垣が実にいい味を出している。二人とも、袋小路に入ってしまった姉妹や亡命貴族よりも自由で、明確なキャラクターを芝居全体の中で明確にアクセントにしている。老いという重いテーマの中で、島の人間の生命力を感じさせる演技はいちいちうなずかされるほどの出来。命も人生も人も土地もまた連綿と続いていくのだということを一方で感じさせ、秀逸だった。
これらの魅力的な面々をまとめた演出家、丹野郁弓の手腕はますます深みを増している。
カーテンコールで舞台に姿を見せた作者のデイヴィッド・ベリーも感慨深げだった。
舞台「八月の鯨」は１９日まで、東京・日本橋の三越劇場で上演。
米国の劇作家デイヴィッド･ベリーが生み出したこの「八月の鯨」は、当初１９８０年ごろはリーディング作品として上演されていたが、自ら脚本を手掛けた映画「八月の鯨」が１９８７年に公開されると、大反響を呼び、カンヌ国際映画祭でも特別賞を受賞するほどの評価を得た。
舞台は１９５４年８月、米メイン州の沿岸にある島の別荘。２人で暮らしている老いた姉リビー（奈良岡朋子）と、まだ少し元気な妹サラ（日色ともゑ）の姉妹が主人公だ。夏は避暑地としてにぎわうが、カナダに近い北方のため、秋から冬にかけては厳寒の地となり、氷に閉ざされることもしばしば。気楽な別荘生活というにはほど遠い、やむにやまれずこの地に住んでいるとも言えそうな２人だ。
もともといろいろと理屈をこねるタイプだったリビーは、目が不自由になって、サラの助けを借りないと歩き回ることも出来ない。唯一の楽しみは海が見える庭に出て過ごすことぐらい。本当はこんな自分に腹を立てているのだが、それはイライラとなってサラや周囲の人間に当たり散らすことにつながる。気むずかしさはますます進行中だった。
そんな姉の世話をするサラは、元来、働き者で面倒見がいいため、嫌な顔もせずに日々世話を焼いている。それでも愚痴っぽくなってきた姉と一緒にいるのがなんだか憂鬱になっては来ていた。島に住む親友のティシャ（船坂博子）はサラに、リビーを施設に預けて一緒に住もうと持ちかけてくるし、さすがのサラも気持ちがぐらぐらしていた。
そんな不安定な２人の関係にさらに大きな揺らぎを与える存在がやってきた。ロシアの亡命貴族マラノフ（篠田三郎）だ。島の女性の家に居候していたが、その女性が急死し、島を出るかどうか微妙な状態だった。
サラはマラノフの高貴な出自と波乱とロマンにあふれた亡命や逃避行に胸をときめかせる。島の生活では考えられない教養にあふれた会話も楽しませてくれる。
しかしリビーはその偏屈な性格が邪魔をしてなかなか心を開くことが出来ない。しかも、人を鋭く射貫く目を持ったリビーは、マラノフの没落ぶりをすばやく感じ取り、絶対的な距離を置く。
物語は姉妹とマラノフの関係を中心にしながら、島の修理工（稲垣隆史）との交流や、さまざまな人々の人生観を交錯させながら、後半へと導かれていく。
かつては夏になるとこの島の岸辺近くにまで鯨がやってきたという。サラは今年も来るのではないかと心待ちにしているが、リビーはもう決してやってこないとあきらめている。これは２人の性格を表すとともに、２人の人生観の違いを表している。
鯨は「決して来ない希望」の象徴であり、「かつてあった希望」の表象である。
サラはどんな決断を下すのか。その決断を受けてリビーはどんな人生を選択するのか。
観客は終盤に訪れるであろう、そんな場面を想像しながら、２人とともに考えている。姉妹とそう変わらない年頃の方々も、まだ老いがはるかかなたにしか見えない若い観客の人たちも。
一見、寂しすぎてやりきれないこうした物語が、実は何とも言えず、さらさらとしている。深刻すぎるテーマではあるが、人は誰しも必ずこうして人生の涯てにたどり着き、なんらかの決断を迫られるのだという、達観と悟り。不思議な静けさとともに、厳しい冬が来る前のわずかな夏の終わりに海辺の別荘に自らの身を置いているような気になるのだ。
奈良岡は、リビーのどうしようもない焦燥感とあきらめを、激しく表現する。動きがたくさんあるわけではないのだが、会話のエッジがきいていて、互いに刺すようなやり取りが大いに見せる。
まだ人生が残っている。やり残したことがたくさんある。そしてまだまだ元気だ。そんなサラの慎ましやかなエネルギーを日色は見事に醸し出す。どれほど姉に手を焼いても面倒を見ることをいとわない生来の優しさと、決断への道をまっすぐに歩んでいく厳しさ。サラの持つそんな二面は観客にはっきりと伝わってくる。
劇団民藝で先輩後輩として切磋琢磨してきた演技力を激しくぶつけ合う様は、圧倒されるほどだ。
静かでなにか謎めいた篠田も良い。舞台「細雪」などでも定評のある落ち着いた演技。安定感は商業演劇の俳優の中では最高レベルだろう。
そして船坂と稲垣が実にいい味を出している。二人とも、袋小路に入ってしまった姉妹や亡命貴族よりも自由で、明確なキャラクターを芝居全体の中で明確にアクセントにしている。老いという重いテーマの中で、島の人間の生命力を感じさせる演技はいちいちうなずかされるほどの出来。命も人生も人も土地もまた連綿と続いていくのだということを一方で感じさせ、秀逸だった。
これらの魅力的な面々をまとめた演出家、丹野郁弓の手腕はますます深みを増している。
カーテンコールで舞台に姿を見せた作者のデイヴィッド・ベリーも感慨深げだった。
舞台「八月の鯨」は１９日まで、東京・日本橋の三越劇場で上演。
