2016年04月24日
【舞台】 猟銃(2016)
小説などの物語を読んでいるうちに迷宮にはまり込んでしまうことが時々あるが、あらかじめ迷宮そのものが張り巡らされている物語がある。その代表格と言ってよいのが、井上靖の小説「猟銃」だ。なにしろこの物語の導入部の語り手「私」は、語られる物語にはまったく関係がない人物。見知らぬ「三杉と名乗る男」に依頼されて、「読み終わったら破棄していい」と言われた3通の手紙を読んでいるだけなのだ。「私」は詩人で、ある山中ですれ違った中年猟師の背中のたたずまいと猟銃の美しさにいたくインスパイアされて「猟銃」という作品を発表したところ、「モデルになったのは私だろう」とこの「男」から手紙が届き、彩子、薔子、みどりという3人の女から「男」のもとに届いた3通の手紙を読んでほしいと送り付けてきたのだ。手紙が組み上げていくのは後述するような不倫をめぐる複雑な男女の関係。「男」の意図も分からないまま、「私」は妖しげな世界に取り込まれていく。翻訳されて幅広く海外でも知られているこの小説を2011年に舞台化したのが映画「レッド・バイオリン」「シルク」などの監督や「Zed」などのシルク・ドゥ・ソレイユ公演の演出を務めてきたフランソワ・ジラール。この作品を初舞台に選んだ女優の中谷美紀が3人の女を演じ分ける斬新な構成と相まって、カナダや日本の観客を魅了したことは記憶に新しい。5年ぶりの再演となった2016年の舞台「猟銃」は、静謐な空間にあふれる饒舌でなまめかしい言葉がはてしない神秘性とともに観客の心を刺激し、あらかじめ失われることが運命づけられている手紙という空間の中に宿した愛の迷宮の中で永遠にさまよい続けるような気持にさせられる稀有な作品に仕上がっていた。
★舞台「猟銃」特設サイト
舞台「猟銃」は中谷の一人芝居ではない。モノローグで3人の女を紡いでいく中谷の背後で、身体表現を得意とするカナダ人俳優ロドリーグ・プロトーが無言のまま三杉の心理を体で表すように演じていく、変則的な「二人芝居」である。
そもそも三杉と3人の女とはどんな関係なのか。後半のポイントにもなる部分も含まれているため、あくまでも簡単にだけ説明しておくと、みどりは三杉の妻である。彩子(さいこ)はみどりのいとこで、薔子(しょうこ)は彩子の娘だ。三杉はみどりという妻がありながら、彩子と深い関係にあり、彩子が自殺する前日に母の日記でこの関係を知った薔子は父のように慕っていた三杉の裏切りに驚愕する。彩子にはかつて門田という夫がいたが、門田が外に女をつくったことに耐えられず離婚したのだ。ただ門田を愛する気持ちは消えていなかった。物語は主に芦屋や西宮、神戸などの阪神間で展開していく。
まあよくある不倫の話と言えなくもないが、破たんした愛が複雑に絡み合っている状況の中で、はかなげな生の痕跡が描かれていく様は、井上靖の鮮烈な文体の力もあって、私たちの心に決して消えない傷を残していく。
すべてが明るみに出た時、3人の女から三杉に手紙が届く。当然ながら、それは三杉をなじり、糾弾し、告発し、そして冷徹な別れの儀式ともなる。彩子はこの世に生きてさえいないのだから、ことさらだ。
そしてこの手紙は、ひとつの不倫という関係を3つの視点から照射することともなる。事件のただ一つの真相を複数の証人の証言によって解き明かしていく裁判や捜査もののようなサスペンスフルな雰囲気を漂わせる一方で、真実は決して一つではないのではないかと思わせるミステリアスな空気もまとう。
中谷は、歳(みどりと彩子は同世代と思われるが)や性格や立場の違う3人の女をただ単に演じ分けているだけではない。ある意味、3人は三杉という男に翻弄された、あるいは裏切られた被害者としての連帯感さえ感じさせることがあるし、そしてまたひとりひとり違った愛情を三杉に抱く(あるいは抱いていた)プライドさえ見せることもある。
薔子はまだ少女のようなイノセンスを感じさせつつも、だからこそ余計に残酷で加減もない。みどりは早くから彩子と夫の不貞に気付きながらも妻を演じ続けた矜持を見せ、彩子はもう何をしようと取り返しのつかない立場に相手を追い込みながら、覚悟の決まった言葉を繰り出していく。
そんな三者三様のありようを、中谷はまるで花びらを閉じたり開いたりするように表現していくのだ。ここでは「演技力」という言葉を使うのは陳腐に思える。抑制された照明や静謐な舞台上の雰囲気とも相まって、中谷は存在そのもので表現していることがありありと伝わってくるからだ。
せりふがまったくない背後のロドリーグ・プロトーが身体だけで演じる三杉は、3人の女の糾弾に打ちひしがれているようでもあり、すべてをあきらめた男の開き直りのようでもある複雑な表情を見せる。そこにはニヒルさとともにちょっとした抵抗であるこわばりも垣間見える。時折彼が抱える猟銃は、けものを撃ったり、火花や硝煙を噴き出したりしていない時の、なんともいえない静けさや冷たさに感じる美しさを見せつける一方で、命を奪う道具だけが持つ冷酷さで、死や滅びを激烈に暗喩しながら、観客たちの心を奪っていく。
敗戦後すぐとはいえ、こうした虚無的な物語が時折激しい愛の炎を噴き上げながら、明治期から大正、昭和初期にかけてはぐくまれたそこはかとない幸せの象徴ともいえる阪神間モダニズムの残り香の中で語られるのだから、阪神間で青春のほとんどを過ごした私のような出自を持つ人間でなくとも、心が締め付けられるような気持に追い込まれてしまうことはいたし方のないことだろう。
舞台「猟銃」は、4月24日まで東京・渋谷のPARCO劇場で、5月4日に新潟市のりゅーとぴあ新潟市民芸術文化会館で、5月7〜9日に京都市のロームシアター京都サウスホールで、5月14日に愛知県豊橋市の穂の国とよはし芸術劇場PLAT主ホールで、5月21〜22日に兵庫県西宮市の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、5月27〜29日に北九州市の北九州芸術劇場中劇場で上演される。
上演時間は約1時間30分(休憩なし)。
★チケット情報=地方公演の情報もあり
★舞台「猟銃」特設サイト
舞台「猟銃」は中谷の一人芝居ではない。モノローグで3人の女を紡いでいく中谷の背後で、身体表現を得意とするカナダ人俳優ロドリーグ・プロトーが無言のまま三杉の心理を体で表すように演じていく、変則的な「二人芝居」である。
そもそも三杉と3人の女とはどんな関係なのか。後半のポイントにもなる部分も含まれているため、あくまでも簡単にだけ説明しておくと、みどりは三杉の妻である。彩子(さいこ)はみどりのいとこで、薔子(しょうこ)は彩子の娘だ。三杉はみどりという妻がありながら、彩子と深い関係にあり、彩子が自殺する前日に母の日記でこの関係を知った薔子は父のように慕っていた三杉の裏切りに驚愕する。彩子にはかつて門田という夫がいたが、門田が外に女をつくったことに耐えられず離婚したのだ。ただ門田を愛する気持ちは消えていなかった。物語は主に芦屋や西宮、神戸などの阪神間で展開していく。
まあよくある不倫の話と言えなくもないが、破たんした愛が複雑に絡み合っている状況の中で、はかなげな生の痕跡が描かれていく様は、井上靖の鮮烈な文体の力もあって、私たちの心に決して消えない傷を残していく。
すべてが明るみに出た時、3人の女から三杉に手紙が届く。当然ながら、それは三杉をなじり、糾弾し、告発し、そして冷徹な別れの儀式ともなる。彩子はこの世に生きてさえいないのだから、ことさらだ。
そしてこの手紙は、ひとつの不倫という関係を3つの視点から照射することともなる。事件のただ一つの真相を複数の証人の証言によって解き明かしていく裁判や捜査もののようなサスペンスフルな雰囲気を漂わせる一方で、真実は決して一つではないのではないかと思わせるミステリアスな空気もまとう。
中谷は、歳(みどりと彩子は同世代と思われるが)や性格や立場の違う3人の女をただ単に演じ分けているだけではない。ある意味、3人は三杉という男に翻弄された、あるいは裏切られた被害者としての連帯感さえ感じさせることがあるし、そしてまたひとりひとり違った愛情を三杉に抱く(あるいは抱いていた)プライドさえ見せることもある。
薔子はまだ少女のようなイノセンスを感じさせつつも、だからこそ余計に残酷で加減もない。みどりは早くから彩子と夫の不貞に気付きながらも妻を演じ続けた矜持を見せ、彩子はもう何をしようと取り返しのつかない立場に相手を追い込みながら、覚悟の決まった言葉を繰り出していく。
そんな三者三様のありようを、中谷はまるで花びらを閉じたり開いたりするように表現していくのだ。ここでは「演技力」という言葉を使うのは陳腐に思える。抑制された照明や静謐な舞台上の雰囲気とも相まって、中谷は存在そのもので表現していることがありありと伝わってくるからだ。
せりふがまったくない背後のロドリーグ・プロトーが身体だけで演じる三杉は、3人の女の糾弾に打ちひしがれているようでもあり、すべてをあきらめた男の開き直りのようでもある複雑な表情を見せる。そこにはニヒルさとともにちょっとした抵抗であるこわばりも垣間見える。時折彼が抱える猟銃は、けものを撃ったり、火花や硝煙を噴き出したりしていない時の、なんともいえない静けさや冷たさに感じる美しさを見せつける一方で、命を奪う道具だけが持つ冷酷さで、死や滅びを激烈に暗喩しながら、観客たちの心を奪っていく。
敗戦後すぐとはいえ、こうした虚無的な物語が時折激しい愛の炎を噴き上げながら、明治期から大正、昭和初期にかけてはぐくまれたそこはかとない幸せの象徴ともいえる阪神間モダニズムの残り香の中で語られるのだから、阪神間で青春のほとんどを過ごした私のような出自を持つ人間でなくとも、心が締め付けられるような気持に追い込まれてしまうことはいたし方のないことだろう。
舞台「猟銃」は、4月24日まで東京・渋谷のPARCO劇場で、5月4日に新潟市のりゅーとぴあ新潟市民芸術文化会館で、5月7〜9日に京都市のロームシアター京都サウスホールで、5月14日に愛知県豊橋市の穂の国とよはし芸術劇場PLAT主ホールで、5月21〜22日に兵庫県西宮市の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、5月27〜29日に北九州市の北九州芸術劇場中劇場で上演される。
上演時間は約1時間30分(休憩なし)。
★チケット情報=地方公演の情報もあり


