もう一冊、村上春樹。『神の子どもたちはみな踊る』以来の連作短編集。
単行本の帯には次のような文句が書かれている。

きたん【奇譚】〈名詞〉
不思議な、あやしい、
ありそうにない話。
しかしどこか、あなたの近くで
起こっているかもしれない物語。


5つの物語は「奇譚」の名の通り、どれも奇妙な味の小説である。しかし、どの物語も現実には起こりえない、ありそうにない話のようでありながらも、まったくあり得ないと言い切ってしまえないような、リアルな手触りを持っている。それは物語が物語としてのリアリティを有しているからであり、一つひとつの物語が確かな意思を持ち、呼吸し、動いているからである。

この奇妙な味の連作短編集は、「奇譚」というかたち、すなわち「物語」という形式が強く前景化されている。連作の第一篇は語り手村上自身が顔を出し、自らの不思議な体験を語るとともに、「ある知人が個人的に語ってくれた話」として、ゲイのピアノ調律士の話が語られる。そういった「物語」の手続きが踏まれ、ある一定の「物語」のフォーマットにしたがって、5つの「奇譚」が語られていく。
「物語」というものについて、村上春樹は『文學界』(平成15年4月号)のロング・インタビューで次のように言っている。

なぜあり得ることかというと、普通の文脈では説明できないことを物語は説明を超えた地点で表現しているからなんです。物語は、物語以外の表現とは違う表現をするんですね。それによって人は自己表現という罠から逃げられる。(中略)自己表現なんて簡単にできやしないですよ。それは砂漠で塩水飲むようなものなんです。飲めば飲むほど喉が渇くんです。にもかかわらず、日本というか、世界の近代文明というのは自己表現が人間存在にとって不可欠であるということを押しつけているわけです。(中略)でも、物語という文脈を取れば、自己表現しなくていいんですよ。物語がかわって表現するから。
僕が小説を書く意味は、それなんです。僕も、自分を表現しようと思っていない。自分の考えていること、たとえば自我の在り方みたいなものを表現しようとは思っていなくて、僕の自我がもしあれば、それを物語に沈めるんですよ。僕の自我が物語に沈んだときに物語がどういう言葉を発するかというのが大事なんです。物語というのは常に動いていくものであって、その動くという特性の中にもっと大きな意味があるんです。だからスタティックな枠みたいなものをどんどん取り払っていくことができます。それによって僕らは「自己表現」という罠を脱することができる。(ロング・インタビュー「『海辺のカフカ』を語る」pp22-23)


大切なのは「物語が動く」ということ。それは同時に、それとかかわるもの、語る者、語られる者、受け取るものを巻き込んで動いていく、ということを意味している。そこにあるのは、語る者の意図ではなく、語られる者の意図でもなく、ましてや受け取る側の意図でもなく、ただ、「物語」の意図と意思があるだけである。つまり、私たちの「自我」が「物語」のかたちを借りて「語る」のではなく、「物語」が私たちの「自我」なるものを「語る」のである。
連作のなかの「日々移動する腎臓のかたちをした石」のなかには、主人公淳平が付き合っていた年上の女、キリエの次のようなことばがある。

「ねえ、淳平くん、この世界のあらゆるものは意思を持っているの」
 (中略)
「たとえば、風は意思を持っている。私たちはそのことに気づかされる。風はひとつのおもわくを持ってあなたを包み、あなたを揺さぶっている。風はあなたの内側にあるすべてを承知している。風だけじゃない。あらゆるもの。石もそのひとつね。彼らは私たちのことをとてもよく知っているのよ。どこからどこまで。あるときがきて、私たちはそのことに思い当たる。私たちはそういうものとともにやっていくしかない。それらを受け入れて、私たちは生き残り、そして深まっていく」(「日々移動する腎臓のかたちをした石」pp.144-145)


淳平は小説家であり、この物語のなかでも一編の小説を書き上げていく。物語は淳平の腹案通りではなく、彼が思いもしなかった方へと動いていき、彼を動かし、結末へと書き進めさせてゆく。物語が書き上がったとき、キリエは彼の目の前から姿を消す。
この物語の「意思」とは何か。淳平にとって、「日々移動する腎臓のかたちをした石」とは、どういう意味を持った「物語」であったのか。この「物語」を「語らされる」ことは、結局、彼にとってどういうことであったのか。
先に引いた文學界のインタビューのなかで、村上は次のように言っている。

 人間の存在というのは二階建ての家だと僕は思ってるわけです。一階は人がみんなで集まってごはん食べたり、テレビ見たり、話したりするところです。二階は個室や寝室があって、そこに行って一人になって本読んだり、一人で音楽聴いたりする。そして、地下室というのがあって、ここは特別な場所でいろんなものが置いてある。日常的に使うところはないけれど、ときどき入っていって、なんかぼんやりしたりするんだけど、その地下室の下にはまた別の地下室があるというのが僕の意見なんです。それは非常に特殊な扉があって分かりにくいので普通はなかなか入れないし、入らないで終わってしまう人もいる。ただ何かの拍子にフッと中に入ってしまうと、そこには暗がりがあるんです。それは前近代の人々がフィジカルに味わっていた暗闇−電気がなかったですからね−というものと呼応する暗闇だと僕は思っています。その中に入っていって、暗闇の中をめぐって、普通の家の中では見られないものを人は体験するんです。それは自分の過去と結びついていたりする、それは自分の魂の中に入っていくことだから。でも、そこからまた帰ってくるわけですね。あっちにいっちゃったままだと現実に復帰できないです。
 (中略)
いわゆる近代的自我というのは、下手するとというか、ほとんどが地下一階でやっているんです、僕の考え方からすれば。だからみんな、なるほどなるほどと、読むほうはわかるんです。あ、そういうことなんだなって頭で分かる。そういう思考体系みたいなのができあがっているから。でも地下二階に行ってしまうと、これはもう頭だけでは分からないですよね。(前掲p.16)


淳平が物語を書く、語るのも、あるいは、「どこであれそれが見つかりそうな場所で」の「私」が行方不明になったメリル・リンチのサラリーマンを無償で捜索しようとするのも、「地下二階」に降りていくという行為である。彼らだけではない。「偶然の旅人」のゲイのピアノ調律士の出会った偶然も、「ハナレイ・ベイ」のサチが鮫に食い殺された息子の霊の話を耳にしたことも、「品川猿」のみずきが自分の名前を盗んだ猿と対面したことも、すべて、「地下二階」で見たもの・ことに他ならない。それでは、彼ら、彼女らにとって、「地下二階」へと降りていったということにどのような意味があるのだろうか。彼らは皆、そのことによって劇的な変化を遂げるわけではない。どちらかといえば、何もなかったかのように、「一階」や「二階」の日常へと戻ってゆく。「地下二階」に降りたことで彼らはなにか「生」の枠組みを大きく組み替えたりはしない。

 家に戻り、みずきは猿から返してもらった「大沢みずき」の古い名札と、「安藤(大沢)みずき」という名前が刻まれた銀のブレスレットを、茶色い事務封筒に入れて封をし、それを押し入れの段ボール箱に入れた。ようやく自分の名前が手もとに戻ってきたのだ。彼女はこれから再びその名前とともに生活していくことになる。ものごとはうまく運ぶかもしれないし、運ばないかもしれない。しかしとにかくそれがほかならぬ彼女の名前であり、ほかに名前はないのだ。(「品川猿」p.210)

「みずき」のように、彼らはそこで出会った「何事か」を自分自身のものとして、確かに受け入れるだけである。彼らはそこで見たものを「解釈」しようとはしない。ただ、受け入れるのである。つまりそれは、自分の深いところにある「何か」、わけのわからない、理解不能な「何か」をありのままに、受け止めるということである。

それは村上の言う「物語を語る」という行為ときわめて近い。日本の近代小説がどうにかして調伏しようとしてきた「自我」という魔物と向かい合い、ありのままに受け入れるということ。つまり、「地下一階」へと引きずり出してどうにかしようとするのではなく、こちらから「地下二階」へと潜っていくということ。そのための方法こそが「物語」なのだということ。
そしてそのことが、「自我」なるものを近代的な「個」という檻に閉じこめてしまうのではなく、人の背負うその暗闇が、実は深いところで「他者」とつながっているものなのだということに気づかせてくれるのである。例えばゲイの調律士が出会った女性と彼の姉が偶然という糸でつながっていたように。例えばサチが、息子を失った土地で出会ったヒッチハイクの青年たちが、彼の亡霊を目にしていたように。例えば、みずきが、自殺する直前、松中優子から名札を渡されていたように。

「たとえばAという人ならAが持っている自我と、Aの引きずっている暗闇みたいなものは、両方ともA独自のもので、それを組み合わせて物語を抽出するとすれば、そこから出てくるのはAにしかない物語です。ところがたとえば僕がどんどん、どんどん深く掘っていってそこから体験したことを物語にすれば、それは僕の物語でありながら、Aという人の持っているはずの物語と呼応するんですよね。(中略)もし僕がそれである程度、自分が物語を立ち上げたことで癒された部分があるとすれば、それはあるいはAという人を癒すかもしれない−ということがあるわけです。」(前掲インタビューp.25)

「物語」を「語る」ということ、「読む」ということは、ごく個人的な営みであると同時に、きわめて社会的な行為でもある。「私」の「地下二階」の「物語」と「誰か」の「地下二階」の「物語」とが呼応し、つながるとき、私たちの「物語」は、また新たな「意思」を持ち、何事かを「語り」はじめることだろう。