2017年01月23日

ふ〜〜〜〜

退屈で、早くこの存在が消滅することを願いながら、気がつけば10年過ぎていた。

相変わらず生きにくく、勘にさわる事の多い世の中だが、多少老いてきたおかげか、ある程度は受け流せるようにはなった。

つまらん!非常につまらんよ!
生きていくこととは、期せずして奪った命への償いとおもって過ごしているが、なかなかの拷問である。

まだ生きてなきゃいかんかい?

2015年11月11日

忘れられた事件

いまだにATM事件というのを覚えている人はどれぐらいいるだろうか。
現金自動預け払い機ではない。
九州のある街で起きた、ある財団法人が絡んだ、とんでもなく根深く陰湿な事件だ

この事件はいまだ解決していないし、するはずもないものだと思っている。
当時は色々と動き回って調べていたが、もっともたどり着きたくない結論がもっとも可能性が高くなり、人間とは信頼すべき生き物ではないと再認識し、人間嫌いが悪化してしまった。

誰が見るかわからない場所に私見を書くのもなんですが、どこかに記録を残しておくのが、わずかでも関わった人間としてのささやかな抵抗だと思ったので書いておきます。

ATMは殺された。
醜悪な人間の浅はかな考えによって。
そして隠された。
人間達の体面の為に。
そして事実は曲げられた
人の上に立つ人間達の互助会的精神によって。
そして忘れられた。
組織の運営者達の思い通りに。


今も彼らの仲間の一部は地獄を生きているかもしれない。

忘れないで貰いたい
命の価値に差はあるが、魂の価値に差はない事を。
人が生きるために多くの犠牲があることを。
人間の犠牲になっていいもの等、何一つこの世に存在しない事を。

受け継いで貰いたい
他の全てを慈しむ心を



もう3年が過ぎようとしているが、いまだ臭い物には蓋がされたまま、事実は公表されていない。

2015年10月21日

まだ生きてます

ついに追い付いたよ

お前と違って大して変わっていない

相変わらずの浮草の卑怯者だ

約束は守ったし、いいだろ

とりあえず誰に言いようがないんで此処にかくよ




偉大な兄に歳だけ追い付いた凡愚な弟より

2012年04月06日

なんとなく

久しぶりにブログでも書いてみようと思ったんですが、久しぶりというレベルじゃなく放置してましたm(__)m


その間にいろいろあったんですが、結論から言うと、「真剣に生きてる人間なんかほとんどいない」って事を知りました。


なんとなく、それなりに、ほどほどに生きるのであれば私の存在価値は無く、真剣に生きるにはこの世界は生き辛いんですよ…(-.-;)

で、私が出した答えは「自分をなくす」でした。

そうすれば生きていけると思ったんです。



でも、晏平沖に、「野良犬と言うより野犬」と言われた人間を飼い馴らせる人間はおらず、あちこちで人間に噛み付いてましたf^_^;


んで、私の実家とも言える荒尾競馬場が閉鎖になり、根無し草に逆戻りしてフラフラしてます(笑)



これだけ放置しているブログにもかかわらず、何故かチョコチョコ足跡が付いているのも面白いので、なんとなく近況を書いてみました。


まだ生きてます。そしてこれからも生きて行きますよ(^_-)-☆

2009年01月29日

安易すぎやしないか

不況を口実にしたリストラをたやすく受け入れていいのだろうか?
何の努力もせずに己だけを守ろうとする姿を仕方ないと許容すべきだろうか?


数字のマジックを鵜呑みにしている愚か者のなんとも多い事!

資本主義において無知と無能は罪であり、無茶と無恥が美徳である事は私でも知っているのに、何故にこれほど愚か者多いのか?


搾取される者が無知であれば更に搾取される事に気付き、怠惰なる者が少なきように願う。

2009年01月09日

葉隠

鍋島論語とも呼ばれる口述書であり、山本常朝の談話を田代陣基が書まとめた物である。


「武士道といふは死ぬ事と見付けたり…」

と言えば聞いた事がある人もいるでしょうが、内容を知る人は少なく、この一言で敬遠したり分かった気になる人がほとんどでしょう。


さらに、私自身が得心出来る部分があるくらいですので、大半の人には合わないとは思いますが、九州人(私だけかも…)の思考に興味を持って貰えればと思って書いてみます。


まず、葉隠の背骨として、「武士は武士でなければならない」というのがあります。
「武士はどうあっても武士である」と言われれば確かにそうですが、理想の武士にならなければならないのです。
それを飾りなしに極めた言葉がかの有名な言葉で、それを私に直せば、「私は私でなければならない」となり、自分の行動規範となるのです。


私の規範は「自由である事」であり、それを基準にすれば全ての行動は考える必要もなく決まります。(ちなみにこれも葉隠にあります)
自分があるべき姿を決めてしまえば、無駄な迷いはなくなるのです。


何度も何度も自分であり続ける事、自分の理想を追い続ける事を言い続け、自分を律しながら生きる事を書いた「葉隠」を、気が向いたら読んでみて下さい。

2009年01月08日

携帯

また知らない間に止まってましたf^_^;


晏平沖が死んでいらい、電話が掛かる事もメールが来る事も激減したので、解約も視野に入れて検討中です。



元々、

「連絡が取れんと不便だけ持て!」

と晏平沖に言われてから持ちだした物なので、無くても支障がないんですよね。

実際、今はただの時計に成り果ててますし…(-.-;)

2008年10月23日

補足

処理能力は経験によって補足される。


一桁の足し算を指を使わなくても出来るようになるように。



人の脳みそはコンピューターを超えた計算を無意識にしている。
そして、その最初はおおざっぱな計算も、経験を積む事で精度を増していく。

2008年10月21日

お茶を濁してみる

運とは何なのか…

人為を除いたものを運だと言えば、運など無いと言える。



それは競馬を例にとれば顕著である。
全ての事象は必然であり、それはすなわち人為である。

私は度々運任せと言うが、それは読みきれない鈍さを言う事が多い。

完璧な予想とは全てのファクターを組み込み、現実に同じレースが行われた時のみを言う。
私は20年以上競馬場に通ってますが、晏平沖以外に予想出来た人を見た事が無い。
それはファクターが多過ぎて、私のような凡人にはとても処理出来ないからだろう。(まあ、晏平沖は「馬がそうするてゆ〜たもん!」って言ってましたが…)

だから私は余計なファクターが少ない少頭数のレースで、不安なファクターが少ない馬を選ぶ。
それでも当たらない時は、たいてい明らかな人為が見られる。
しかしそれは予測可能なものでしかなく、厳密には運ではない。
予想で抜けたファクターが作用したのは手落ちでしかないが、それが極微小なものであった時に“気休め”として運と言う言葉を使う。



不思議な事に、ここに来る全員が麻雀と言うゲームを好むので麻雀を例にすると、己の処理能力によっては卓に落とす順番や位置によって積み込みも不可能ではないのは誰だって知っている事だ。

であれば運等と言う言葉が不適切であるのは自明の理であろう。




結論

運とは己の無能をごまかす気休めでしかない

と言う、その辺のガキでも分かってる事を書いて開きすぎた更新間隔をごまかしてみる(笑)

2008年10月06日

対人博打においては癖は武器にもなりますが、たいていはキズになります。


麻雀では「鳴き方」「捨て方」「好き嫌い」etc…、たいていはキズになりますよね。


私は天才ですから一定の形ってのはありません。
別に馬鹿だからパターンを覚えきれない訳ではないですよ…(-.-;)



晏平沖から、

「形にこだわると自分の形を崩すぞ!」

って教えこまれたもんで…

「水や空気は形がないから壊れないし、どんな状態にも対応できる。」

これを至言としています。


それに、気分でやってそこそこ遊べたら楽ですよ。
負けて悔しいってほど努力するのは私のスタイルじゃないですからf^_^;