2007年01月09日

近衛文麿↓F盂

近衛文麿↓F盂奸癖鹸院法1940.7月22日〜1941.10月18日〉

さて、陸軍期待の親独派、近衛文麿が首相になる。

1940年、基本国策要綱に基づき、直ちに新体制運動を開始。これは、ナチスやファシスト党を模して、国民組織を結成しようとする運動だ。

この運動により、政党は解散させられ、大政翼賛会となり、隣組(ご近所付き合い)が、その最末端組織となる。

大政翼賛会の総裁は、近衛文麿が就任。

労働組合も解散し、大日本産業報告会となる。総裁は、厚生大臣。

そして同年(1940)、日独伊三国軍事同盟を締結。

内容は、3国の殴亜における指導的地位を確認し、第三国からの攻撃に対し、相互援助を協定した。
これにより、日米の対立は決定的になる。

さて、同40年、日本は北部仏印(フランス領インドシナ)に進駐。目的は、蒋介石を助ける補給路である、「援蒋ルート」を遮断するためだ。

※援蒋ルート…重慶の蒋介石政権に対する、米英の物資援助ルートのこと。

翌41年、日ソ中立条約締結。これにより、南進政策が決定する。

※南進論と北進論

アメリカやイギリスから石油を買って、日露戦争以来の満州・シベリア進出を目指すのが北進論。

それに対し、仏印・蘭印の経済資源(主に石油)を目指すのが南進論。こちらを取れば、米英と仲が悪くなる。

んで、日ソ中立条約により、南進論を採用する運びとなる。

つまり、日独伊三国で同盟を結び、ソビエトの中立を保つ事により、都合4ヵ国でユーラシア同盟を組み、米英に決戦を挑むという事になったのだ。

これは、大きな日本の転機だった。

南進論をとっていたのは東条英機。北進論をとっていたのは石原莞爾。

陸軍の実権を握っていたのは東条だったのだ。

さて、1941年、国民学校令が出され、小学校が国民学校に改組され、義務教育が8年制になる。(ナチスドイツ式教育)

同年、ドイツがソビエトに宣戦布告→独ソ戦の開始。
日本は、対ソビエト戦準備のために、関東軍特種大演習を満州で実施。

日本は、仮想敵国が北(ソ連)にも南(英米)にもあるという状態の、両面作戦を強いられる。

さらに同年、南部仏印進駐を行う。

目的は、天然資源、主に石油の確保の為である。

これにより、アメリカは、イギリス、中国、オランダと「ABCDライン」を強化し、南進阻止の共同戦線を組む。

さらにアメリカは、対日石油輸出を禁止し、在米日本人の資産を凍結する。

またまた、さらにアメリカは、イギリスと大西洋憲章を結び、日本に対する戦争態勢を完全に作ろうとした。

日本は、何とか戦争を避けようとして、日米交渉を、アメリカのハル国務長官と行う。

日本側の交渉担当は、野村吉三郎と、栗栖三郎。

しかし、野村は海軍大将であり、外交の駆け引きや機微を解さず、交渉は上手くいかなかった。

この交渉の間、「帝国国策遂行要領」が可決される。
※帝国国策遂行要領…近衛内閣が、御前会議で決定。1941年の10月下旬までに戦争準備を終え、もし10月上旬までに戦争打開の見込みがなければ、戦争を決意するという内容。

さて、近衛は総力戦研究所を作り、日本とアメリカが戦った場合どうなるのかのシュミレーションを行うが、敗戦は確実という結果がでる。

そして、近衛と東条が対立し、10月中旬に退陣。


aniaclub at 20:38│Comments(0)TrackBack(0)clip!

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