2013年07月13日

『あの花』旧OP/新OPの比較と考察

※本稿は、『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』が2011年に放映された際、既に視聴された方が読むことを想定しています。
重大なネタバレを含んでいますので、ご注意ください。
 

オープニング映像(以下「OP」)というものには、これから語られる<誰も知らざる物語>の方向性を暗示し、それがどのような物語であるのかを視聴者に説明する機能が担わされている。
ならば、既に語られた物語にOPというものをつける時、それに同様の機能をもたせるということは、果たして合理的だろうか。

『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』(以下『あの花』)の放送が、ノイタミナ枠で開始された。周知の通りこのアニメは2011年春季に放映されたものである。
これが2013年の夏に放映されるという。それも、新たなOPという装いを得て。
ここでは、2011年放映版のOP(以下「旧OP」)と2013年放映版のOP(以下「新OP」)とを比較してみたい。
結論から言えば、そこには明確な差異がみられた。そしてその差異こそが、物語を<語り直すこと>ということ、同じ物語を再び語るという行為への補強といえるのではないだろうか。


はじめに、旧OPの映像的な構造を分析しておこう。
旧OPは、”10年前”と”現在”とを比較したカットから幕を開ける。ここにおいて、”10年前”には存在した「めんま」が”現在”において描かれない、という形をとることでこの物語を駆動する大きな要因――めんまの喪失――を暗示する。
以後のカットでは、超平和バスターズの面々の”現在”を描き、そこに”10年前”を重ねてくる。そして「走るカット」の挿入によって、離れてしまった”現在”の面々の再集結を描き、「めんま」を迎え入れるカットへと続く……大まかに言えば、以上のようになるだろう。
特に記すべきは、「”現在”と”10年前”の各々を比較」するカット、及び最後の「めんまを迎え入れる」カットである。


まず前者において、「じんたん」を除く4人の”現在”と”10年前”とを対比する時、そこに結界の存在――”現在”と”10年前”との間に横たわる大きな断絶の暗示が存在することを指摘したい。


まず、「あなる」の”現在/10年前”を描くカット。ふたつの間には鉄の柵という結界が存在する。あたかも”現在のあなる”は檻に閉じ込められているかのようにそこでは描かれる。
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続いて「ぽっぽ」のカット。”現在/10年前”にはガードレールの存在が描かれる。[*1]
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「ゆきあつ」と「つるこ」のカット。拝殿の内/外という区分が、がここでは結界として機能する。
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このように、旧OPにおいて”現在/10年前”は、絶対的に区分すべきもの、結界の内/外として大きな断絶が存在するものと描写される。
その理由は、この『あの花』という物語を既に見た視聴者の前において明らかだろう。この物語は、10年前の悲劇――「めんま」という一人の少女の喪失によって断絶されてしまった仲間たちの再生の物語であるからだ。
そうであるからこそ、この断絶の中において「じんたん」のみが例外的に扱われることも説明可能となるだろう。「じんたん」ことが、”現在”に生きてなお”10年前”と区分されない存在、めんまを視ることの許された人間であるのだから。


次に旧OPにおける後者、つまり「めんまを迎え入れる」カットについて。
このカットにおいて、5人はめんまを<視る>。しかし、彼らとめんまの間とには、テーブルという障壁が存在する。そうして、カメラに背を向けていた「めんま」が振り返った時、5人は(さらには"10年前"の幻影は)消失し、画面には「めんま」のみが残される。
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これもまた、『あの花』という物語を暗示させるカットと言えるだろう。「めんま」は最後まで「じんたん」意外の面々に<視られる>ことはないからだ。そうしてまた彼女が、現世にとどまるということもない。彼女はただ一人、この世ならざるものとして消えていくのだから。


このように、旧OPでは「断絶」と「めんまの喪失」とが、強く暗示されていた。それは、『あの花』という物語の主題説明そのものである。
では、新OPにおいてはどのように描かれたのか、既にこの物語の方向性を知り、その主題を知る私達の、旧OPに配置された記号を十分に解釈可能な私達の眼前にはどのようなOPが展開されたのか。


新OPにおいて重大な差異を孕んだカットが最初に存在する。自宅の庭で「めんま(の幻影)」と向かい合う「じんたん」、しかし「じんたん」の眼前から「めんま」は<消失する>。その光景を「じんたん」は、それをあり得るものとして受け入れいているように描かれる。『あの花』という物語において、彼は「めんま」と他の4人を、つまりは”10年前”と”現在”とを結合するチャネルであったにも関わらず。
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続くカット、4人の”現在”と”10年前”とを対比するカットの登場は旧OPと同様である。しかしそこにも大きな差異が存在することを指摘したい。
その差異とは、<結界の不在>だ。

旧OPにおいて檻の「あちら側/こちら」側といった様にえがかれた「あなる」のカットにおいて、そのような強い結界の存在は描かれない。
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「ゆきあつ」と「つるこ」のカット。座席は異なるが、同じ車両という空間に”現在”と”10年前”は存在する。旧OPに登場したような拝殿の内/外といった峻別は存在しない。[*2]
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「ぽっぽ」のカット、ここにも旧OPに登場したようなガードレールといった結界は登場しない。ここにおいて”現在”と”10年前”は、同じものを見ている。
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「同じものを見ている」という表現は、「じんたん・めんま」以外の4人が集合したカットにおいても登場する。神社の境内において、”10年前”と”現在”の彼らは、視線を交わらせ、同じ方向に視線を向けるのだ。
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そして新OPの最後、ここにおいても旧OPとの大きな差異が登場する。めんまは、5人と肩を並べ、仲間として迎え入れられたように描かれるのだ。
そこには、旧OPにあった断絶も、あるいは現世から消えゆくものの孤独もない。めんまは超平和バスターズの一員である。”10年前”そうであったように、”現在”もまた。
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新OPに示されたものは何であったのか。
言い方を変えよう。旧OPに描かれなかったものは何であったのか。


『あの花』は、一人の少女の喪失を通して、一人の少年が社会に回帰し、そして一つの集団が再生していった物語であったと言えるだろう。[*3]
そのように見立てた時、旧OPは喪失から再生までの過程、つまりは<これまで>を描き、新OPはこの物語が幕を閉じた向こうの物語、<これから>を描いたとは言えないだろうか。


既に語られた物語を再見する私たち、画面に展開するあらゆる記号を解釈可能となった私たちに、<これから>への想像を開いているのが新OPなのだと、ここでは理解可能ではないだろうか。


[*1]
このぽっぽのカットにおける”現在”と”10年前”との区別は、しかし他のメンバーと比較すれば弱い。それはめんま(=10年前の幻影)を視認可能なじんたんとの距離感の現れであるとも考えられるが。

[*2]
このシーンにおけるゆきあつとつるこの微妙な距離感といったものも、『あの花』の物語を知るものにとっては印象的と言えるだろう。

[*3]
旧OPにおいて、「じんたんとめんまを、4人が迎え入れる」といった描写が挿入されるのは、まさに「一人の少年の社会への回帰」を描いていると思えるのだが。



2012年12月19日

『ガールズ&パンツァー』における上手/下手

『ガールズ&パンツァー』(以下『ガルパン』)が面白い。
戦車を始めとするメカミリタリ描写の細やかさにもグッとくるところではあるが、そういった描写の上に載せられてくる、トラウマの克服や友との関わりといったドラマが描かれてくる点もやはり評価したいところだ。

さて、そんな『ガルパン』であるが、映像表現に注目して見ていく時、そこにある一つのシンプルな、しかし厳正な”ルール”の存在が垣間見えてくる。。

ここでは、原則的ではあるが厳正でシンプルなルール。つまりは結論から言ってしまうと「上手と下手」ということ。「大洗は常に上手に位置し、その対戦相手は下手に位置する」というシンプルだが厳正なルールに着目し、第8話~第9話からプラウダ戦を題材にとって、少し分析してみたい。

まずは第8話から。
対プラウダ戦は、冒頭から「上手/下手」という対立によって幕を開ける。戦場に立つ大洗側が「上手→下手」という視線誘導を促す画面配置になっているのに対し、プラウダ側が「下手→上手」という形で画面に登場する。
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次に、対峙する大洗とプラウダを遠景で捉えるカット。ここにおいて、視聴者には「大洗の優性」が印象付けられるだろう。上手に配置された多数の戦車と、下手に配された一台のトラック。実際の戦力差はどうあれ、説明的なこのカットは、そして物語の中で初めて対峙する大洗とプラウダを示すようなこのカットからは、大洗の優位性が伺える。
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以降、場面は戦車戦へと移るわけだが、この戦車戦のシークエンスにおいて、前述の「上手/下手」という対立構造は最高潮となる。下手から上手に向かってフレームインするプラウダ側戦車群とそれに対峙する、上手から下手に向かって進む大洗。
以降、画面は「上手の大洗と下手のプラウダ」というルールに従って展開をしていく。
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一般に、上手側に立つものは能動的に何かをするもの、その場面における主体である、と考えられる。そのような「上手に立つもの」を受け止めるのが下手に立つものだ。そして、この「上手/下手」という立ち位置というものは、安易に入れ替えるべきではない。
立ち位置の入れ替えというものは、そのまま物語における立場の入れ替えそのものとなってしまい、混乱をきたすからだ。[*1]

しかし、『ガルパン』においては、ある場面をトリガーとしてこの「上手/下手」の位置関係が、あるいは視線の移動が逆転を見せる。
大洗が包囲されていることに気が付き、一斉砲撃を受ける場面。ここにおいて、これまで「下手から上手」を向いていたプライダ側は、「上手から下手」へとスイッチするのだ。
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第9話、教会に包囲された大洗側に対しタイムリミットの到来を伝達にくる特使。ここにおいて、第8話で降伏を勧告した場面と「上手/下手」の立ち位置が変わっていることによって、状況が第8話とは明確に変わってしまったことを示していると考えられるだろう。
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これ以降、大洗側の立ち位置は二つの分岐を見せる、窪地からの脱出~逃走というシークエンスにおいて下手→上手というフラッグ車の移動を追う視線。もうひとつは、プラウダをやり過ごし、相手フラッグ車への攻撃を行うという「上手→下手」という眼差しだ。
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この二つの対立する眼差し、「逃走」というネガティブな要素と「攻勢」というポジティブな要素が絡みあうことで、第9話Bパート終盤に向かって緊張感は加速していく。[*2]


第8話と第9話を題材に、駆け足で「上手/下手」に着目して観てみた。
『ガルパン』においては、この「上手/下手」の関係性が、その場面における関係性そのものを表している箇所が散見される。そこに注目し、見なおしてみるのも面白いだろう。[*3]


参考資料:
GAINAXアニメ講義第1回 「上手・下手、イマジナリーライン」|講師:鶴巻和哉


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[*1]
ここでは戦争映画を例に引いてみよう。
『プライベート・ライアン』(1998/スティーブン・スピルバーグ監督)では、冒頭のノルマンディー上陸戦では「下手から上手に向かう連合軍/上手に立つナチス軍」という描き方によって、連合軍側の劣位が表現されている。これと対置するするように、終盤では「下手から進撃するナチス軍と、上手より迎撃する連合軍」が描かれる。
また、『グローリー』(1989/エドワード・ズウィック監督)のクライマックスである、砦に突撃する北軍のシークエンスは「下手から上手に向かって進撃する」ことによって、その後の悲劇が予感される。

[*2]
この緊張は、俯瞰のカットが最後に挟まれることで一旦の緩和を見せる。

[*3]
対サンダース大なども、「上手/下手」に着目すると面白い。



2012年08月05日

夏コミ告知

いよいよ一週間前となりましたが、今年の夏コミにも参加します。

夏コミは5年ぶり2度目ですね……

アニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』の分析・解説を徹底的に行う同人誌『涼宮ハルヒの解説』も7巻目、ようやく第一期最終話「サムデイ・イン・ザ・レイン」まで到達しました。
 
お手すきでしたら、3日目・東T-26a「K.B.C」までおこしください。お待ちしております。 

kaisetsu07


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2012年06月19日

氷菓 08話/『氷菓』はフェアか、あるいはメタか

前回も書いたように、奉太郎は論理を積み上げて「最も確からしい仮説」をえるに提示する。
えるが納得をすればその「最も確からしい仮説」はその時点における"真実"として採用されるし、彼女が納得しなければそれは破棄される。えるはこの物語において、真実の審判役であるとも言えるだろう。

さて、奉太郎は、その観察眼と推察力によって「最も確からしい仮説」に向かい論理を積み上げていくわけなのだが、それは言い換えれば、彼は、彼が手に入れられる範囲の情報のみから推理する、ということになる。そうしてまた、彼は彼が得た情報から結論に至る道筋を(そうしないと、えるを納得に至らしめることができない、という理由もあるだろうが)懇切丁寧に説明する。奉太郎は、当然のことではあるが、彼が得ることの出来なかった情報を材料として推理をすることは出来ない。『氷菓』という物語が奉太郎のモノローグによって進行する以上、奉太郎が手に入れた情報とはすなわち、視聴者の眼前に提示される情報でもある。
つまり、『氷菓』は奉太郎と視聴者は同じ眼差しに立脚する、非常にフェアなミステリであるとみなすこともできるだろう。

今回のエピソードは、これまでの「奉太郎の下にもたらされた/奉太郎が発見した情報」から推論を重ねる、というこれまでのスタイルとはやや趣を変えている。奉太郎はただ一本の未完のVTRを見せられ、この犯人をあててみせよ、と迫られるのであるから。
だから、説明的に挿入される「二十則にも十戒にも九命題にも従っている」という台詞は、「これはフェアなミステリである」という立場を堅持するためのエクスキューズであるかのようにも見える。(*1)


「フェアなミステリ」において、「探偵」と「視聴者」は同一視される、「探偵」が手に入れられる情報は余さず「視聴者」にも提示されねばならない。誰もが見ていないようなものすら目にするような「神の眼差し」は、そこにおいて存在を許されない。
そうであるからこそ、『氷菓』においてもやはり「視聴者」の眼差しは奉太郎らに寄り添うものであると考えられるからこそ、Bパート後半における「江波に連れられる古典部」を捉えたカット――窓の外から5人の横顔を捉えるカット――は異質さと緊張感を持って立ち上がってくる。

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純粋に「ミステリ」という枠組みで捉えるならば、この『氷菓』という物語はとてもフェアである。推理の手がかりとなる情報は余さず提示され、注意深い視聴者であればそれに気がつくよう配慮されている。
しかし、この物語をその枠組から外れて眺めた時、謎解きというギミックの外側に目を向けた時、この物語を伏流する別の主題が顕在化してくるのではないか。
この「枠組みの更に外側から物語を眺める」という行為は、物語世界の中にいるものにとって困難な振る舞いでもある。それを許されるのは、物語世界の外側にある我々の特権でもある。
主観と客観、この2つの、全く異なる性質をもった眼差しを違和感なくシームレスに移動することを可能にするのが、映像表現というものではないだろうか。
映像を眺める我々は、映像を鑑賞するという行為は、ちょうど奉太郎達がそうするように、「映像に写ったもの」を材料に推察という行為そのものではないのか。

そう考えていくと、今話から始まるエピソードは、とてもメタな構造をもったモノではないか、とすら思えてくるのだが。

(*1)
それぞれ正しくは、ヴァン・ダインの二十則、ノックスの十戒、チャンドラーの九命題。いずれもミステリかくあるべし、といった原則を書いたものであるが、共通して言及しているのは、「読者に対してフェアであるべし」という事である。



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2012年06月14日

這いよれ!ニャル子さん_第09話

・僕があいつであいつが僕で
山中恒の児童文学『おれがあいつであいつがおれで』(1979)が元ネタ。
これも、男女の中身が入れ替わってしまう、という性転換ものである。

・アヴァンタイトル
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ゲーム『ときめきメモリアル』より「伝説の樹の下での告白シーン」だ。

・真尋が頭をぶつけたゲーム機
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松下電器が1994年に発売した据え置きゲーム機「3DO REAL」。

・抱き枕
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なお、原作イラスト担当・狐印の手による「ニャル子さん抱きまくら」というものは、2009年に開催されたコミックマーケット76で頒布された。

・ダゴモン
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任天堂のゲーム『ポケットモンスター』っぽい。
さらに言えば、クトゥルフ神話でおなじみの「ダゴン」が元ネタか。

・SANKAKUI
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モデルはJR国分寺駅の駅ビルでもある「マルイ」だろう。

・ダゴモンアドベンチャー
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アニメ『デジモンアドベンチャー』(1999)が元ネタか。

・ザ・ウィンドウ! ザ・ウィンドウショッピング!
ラヴクラフトの短編『ダゴン』の結文「窓に!窓に!」より。

・メガネのマスコット
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ライトノベル『深山さんちのベルテイン』よりベルテインである。なお、『深山さんちのベルテイン』の原作者は、『ニャル子』と同じ逢空万太。

・ぶっちゃけありえませんよ……
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アニメ『ふたりはプリキュア』OP「DANZEN!ふたりはプリキュア」の歌詞より。
「一難去ってまた一難/ぶっちゃけありえない!」

・寝具売り場の看板
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THE 寝具→The Thing。映画『遊星からの物体X』(1982)の原題である。
同じく看板に記載されている図柄は、クトゥルフ神話に登場する「Elder Things」(古のもの)だろう。どちらにも共通して言えるのは、「太古の昔、宇宙から南極に飛来した地球外生物」という点である。

・ニャル子のメール着信音
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「落ちろ蚊トンボ!」。アニメ『機動戦士Ζガンダム』(1985)よりシロッコの台詞である。

・幻夢郷
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ドリームランドとも。人間がみる夢の世界の、さらに奥底に存在する異世界。
なお、クトゥルフ神話において、ニャルラトホテプは幻夢郷の神々を保護している、と記述されている。

・私の使命は重力に……もとい
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これまた『機動戦士Ζガンダム』よりシロッコの台詞。「私の使命は重力に魂を引かれた人々を解放することだと思っている」。
ノーデンスを演じる島田敏はシロッコの声優でもあるので、当然といえば当然か。

・ルーヒーのポーズ
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アニメ『セーラームーン』(1992)より、セーラームーンの決めポーズに近い。

・キラッ
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アニメ『マクロスF』(2008)挿入歌・「星間飛行」での振り付けからか。

・スタッフゥー!スタッフゥー!
芸人・狩野英孝の持ちネタ「スタッフゥー!スタッフゥー!」。
彼も最近見なくなった。

・どっかの神殿にいって、たこ焼き屋から魔法熟女にジョブチェンジしたんですよ
神殿で転職といえば最初に思い当たるのはゲーム『ドラゴンクエスト』シリーズにおける「ダーマの神殿」である。職業を変えることが出来る、というこのシステムは『ドラゴンクエストIII』から実装された。
なお、ジョブチェンジとはゲーム『ファイナルファンタジー』における同種の転職システムのこと。

・イースの偉大なる種族
「イースの大いなる種族」とも。イースと呼ばれる銀河の彼方から地球にやってきた精神生命体。ちなみに6億年前から地球にいる。
別の生命体と精神を交換する、知識を得る為調査に訪れる、といった描写は原作に準拠している。

・熱血ドッジボール部主将のドジっ子
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ゲーム『熱血高校ドッジボール部』(1987)が元ネタか。

・精神交換機
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一見すると、8mmカメラのようだ。

・満足げなニャル子
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ゲーム『『DUEL LOVE 恋する乙女は勝利の女神』(2008)より。「汗を拭く」というミニゲームがあるのだが、これに成功すると「ヘブン状態」という恍惚状態となり、背景が虹色に変化する。
何をしたって、ナニでしょうなあ……

・らめ、らめぇ
漫画家・みさくらなんこつの作品に頻出する喘ぎ声。あまりに特徴的なので「みさくら語」とも呼ばれる。


・「八坂真尋がクー子に命じる!ニャル子とハス太を連れて、リビングで寝るんだ!」
「イエス・ユアハイネス!」
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アニメ『コードギアス・反逆のルルーシュ』において、皇族に了解の意を伝える言葉。
「イエス・ユアハイネス」より。
あえて訳すなら「あなたの御心のままに」といったニュアンスか。

・フォークを刺されるぐらい怖がらなくてもいいじゃないか…
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漫画『ジョジョの奇妙な冒険』第三部より。
「ゲロを吐くぐらいこわがらなくてもいいじゃあないか……安心しろ……安心しろよ花京院」



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■管理人:スミス@長野


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たまにコミケに出てます。
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出したり出さなかったりしてます。

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