アンの館

スピリチュアル・マスター

2019年03月

高次の自分自身とのコミュニケーションを…

私たちは地球に転生している個別化された神の分身であり 霊的進化に向かう存在です

今まさに高次元の神の分身である自身を満喫する準備の出来た皆さんのことです

自らが持っている技術をマスターする準備の出来た方

私たちは聖なる火 神の炎であり 創造に必要とされる神の性質 要素を体現する存在です

私たちの思考や存在の全ては 常に聖なる思考や源のエネルギーと統合されており

綿密に同調しています

計り知れないことではありますが それら物質化という洗練された芸術に必要とされる要素

性質の1つを体現しています

今、驚くべき時を生きているみなさんは このパワーを甘受する時が来たことを

あるレベルではわかっているのです

あなたが 今 此処にいるのは あなたという存在を通して 神自身を肉体的に体現する存在として

行動し 感じ 話し 考え 歩き 呼吸する準備が出来ているからです

あなたはその存在の全てで 愛に溢れる慈悲深い神の肉体を持った見本となり

あなたを通して人々は 偉大なる存在を容易に信じることが出来るようになるでしょう

あなたが 何処から来たのかを思い出し 自分が自分の置かれた状況の犠牲者であるかのように

振る舞うのを止める時が 来ています

高次元のあなた自身があなたを見守り 導き より深く自分自身と繋がれるようにしてください

あなたは必要なものすべてを自分の中に既に持っていて

その中には今 直面している人生の問題全てに対する解決策も含まれているということに

心底気づかなくてはなりません

もうかなりの間 目覚めていたという方は 今こそ何処にいても 全ての行動においても

接するすべての人に対して 光と愛の代理人となる時が来ています

毎瞬毎瞬 やることなすこと全ての行動が あなたという存在を反映しています

あなたが何かを言ったり行う際には 常に自分の行動を省みる必要があるでしょう

これは何を基本としているのか…?愛からか それともエゴからなのか…?

あなたの言葉 考え 感情や行動が 思いやり 寛大さ 平和と異なるのであるならば

高バイブレーションの存在であるとは言えないでしょう

調子の良い日は落ち着いて安定しているので 前向きで優しく寛大で批判などしませんが

調子の悪い日は 急に3次元的な行動に戻り 後ろ向きで苛立ち 意地悪く批判的になり

人の自由意思を尊重しません

自分の能力を熟達させたいと願うのなら 言い訳はせずに何があっても高波動でいることです

中間はないのです

あんなこと言うつもりはなかった…するつもりはなかった…またやってしまった…

明日はもっと頑張るから今日はすいません…

あなたがいろんな言い訳をしながら本来のあなたではない言葉や 行動を繰り返すことで

振り子はあなたの良い部分と悪い部分を行ったり来たりします

ほとんどの場合は あなたの気分や体調に左右されてそうなります

実を言うと あなたの機嫌や体調が悪い日というのは あなたを試すために事前に用意されたもので

これによって自分がどれだけ成長したかを推し量ることが出来ます

あなたがどれだけ高次の自分に近づけたかを知ることが出来るのです

あなたの日常的な癖 行動パターン 思考回路 食事の傾向 信念体系をよく観察してみてください

また 調子の悪い日というのは 便利なツールとして活用することができるので

自分の中の神自身にどれだけ近づけたのか… この先まだどのくらい進む必要があるのかを

測る指標として使えるでしょう 

自分自身を体現することに非常に近づいている方々は 周りで何が起きていようと

ほぼ常に自分である神的な存在として行動することが出来ています

そういう方は 全てに対して愛や思いやり 寛大さを持ち 平和的に考え 話し 感じ 反応し行動します

とくに周りの人がいない時こそ 自分に対して自分は何を考え 何を言い

どのような行動を取っているかをじっくり観察することが出来るので それを自分の進展度合いの

指標としてください

当然ながら 自分の目の前の片付けなければならない問題から逃げないでください

誰かに救い出してもらうのを待つといったことは止める時に来ています

それよりも自分のパワーを自覚し 自らを救済することに意識を向けるべきでしょう

あなたが内なる神を導きだし 自分の魂のパワーを使えるよう 心身を浄化し

全体のための最善に繋がる賢明な意思決定をしてください

それぞれの霊的な目的に対し 真面目に取り組む時が来たということです

何千年もの間 人類は種として完全にその神性な性質を忘れて

神自身からの分離を完全に信じてきましたが 今こそ自分の周りで起きているあらゆる出来事を

ステップとし 次の段階へと飛躍する時が来ています

あなたの人生物語における次の章への移行です

この次の章とは 完全にあなた次第で決まります

引き続き 自分と世界に向けて相も変わらず3次元的な恐怖に満ちたネガティブなドラマ満載の

欠乏と欠如だらけで互いに分離した物語を語り続けたいのか…或いは

非物質的な領域で究極の現実であるあなたのほんとうの故郷に…

高次元の存在として行動する準備は出来ていますか?

あなたの思考や言葉 感情や意識は 今起きていることやあなたの周りの人によって簡単に影響を受け

あなたの意識は何千年も掛けて恐怖や欠如 分離に慣れっこにさせられてきたので

こうした自動操縦モードに切り替えるには相当の努力や献身 継続的な訓練を必要とします

そしてその為の始めの一歩は あなたのモードを切り替えたいと願う意思

あなた自身の 本来のあなたに再び戻るという大いなる意志

このメッセージを読んでいる殆どの方にとって

2019年は卒業の年となり 古い在り方や様々な制限された考え方を超越する年でもあります

その反対の行動を促すような状況であったとしても あなたが内なる導きに忠実に従っていれば

真に飛躍の年となるでしょう

だれもあなたの代わりにあなたの人生を生きることは出来ませんし

あなたのバイブレーションを修正することも出来ません

それが出来るのは あなた自身だけです

あなたは自分自身に責任を持つことが出来ますか?

マスターになる準備は出来ていますか…?

もし 出来ているのなら それを自分の生活の中で あなたの話し方 あなたの行動で証明してください

より頻繁に高次元の自分自身とコミュニケーションする時間を作ってください

叡智を常に受け入れる状態でいてください 

苦難に立ち向かう時 シルバーパーチの霊言より

シルバー・パーチが説いていることの中で特に着目すべきことは

いかなる真理もそれを受け入れる準備が魂に備わるまで…

言い換えれば それを理解するだけの意識の開発である霊格の進化が為されなければ

決して悟ることはできないということです

従って知識ばかりをいくら溜め込んでも それが即その人の成長の証とはならない

世界中の蔵書を全部読んだところでそれを実地に体得しない事には何にもならない

再生する目的は つまるところは体験を求めに来ることに他ならないという訳です 

さて その体験ということを考えてみますと 同じ条件下に置かれても人によってその反応は

千差万別の違いがあり 大半の人間は物質によって魂が右往左往しているのが

現実の姿であることは確かです 

そうなると当然一回や二回の聖生活ではとても十分とは言えない訳で

その辺に再生の必要性が生じてくるわけですが 厳格に言えばたとえ何百回再生を繰り返しても

聖体験による魂の成長は限度があるということ

つまり魂に響くほどの体験、俗な言い方をすれば

骨身にしみるほどの体験はそうやたらにあるものではないことは 実際に地上生活を送っている

我々が一番よく知っています

となると漫然と日常生活を送ることには何の意味も無いことになり

そこに守護霊を中心とする背後霊団の配慮の必要性が生じてまいります

表向きには平凡な生活を送っているようで その実は次々と悩み苦労や悲しみのタネが絶えない

のが現実です

シルバー・パーチに言わせれば それは全て魂の試練として神が与えてくださるのであって

それがなかったら人生は何の意味もないと言います


『あなた方もそのうち肉体の束縛から離れて物質的な曇りのない目で地上で送った人生を

振り返る時が来るでしょう。その時 その出来事の一つひとつがそれぞれに意味を持ち

魂の成長と可能性の開発にとってそれなりの教訓をもっていたことを知るはずです』

そう述べて 困難も試練もなくトラブルも痛みもない人生は到底有り得ないことを強調します

では、少し長くなりますが シルバー・パーチの訓えに耳を傾けてみましょう。。。。


「この交霊会に出席される方々が もし私の説く真理を聞きことによって

楽な人生を送れるようになったとしたら それは私が引き受けた使命に背いたことになります

私どもは人生の悩みや苦しみを避けて通る方法をお教えしているのではありません

それに敢然と立ち向かい それを克服し そして一層強い人間となって下さることが

私どもの真の目的なのです。霊的な宝は いかなる地上の宝にも優ります

それは一旦身についたらお金を落とすような具合に失くしてしまうことは絶対にありません

苦難から何かを学び取るように努めることです

耐えきれないほどの苦難を背負わされるようなことは決してありません

解決できないほどの難問に直面させられることは絶対にありません

何らかの荷を背負い困難と取り組むということが 旅する魂の当然の姿なのです

それは勿論 楽なことではありません     しかし魂の宝はそう易々と手に入るものではありません

もし楽に手に入るのであれば何も苦労する必要などありますまい

痛みと苦しみの最中にある時は なかなかその得心がいかないものですが

必死に努力し 苦しんでいる時こそ魂にとって一番の薬なのです

私どもはいくらあなた方のことは思ってはいても あなた方が重荷を背負い悩み苦しむ姿を

敢えて手をこまねいて傍観する他ない場合がよくあります

そこからある教訓を学び取り霊的に成長して貰いたいと願い祈りながら…です

知識には必ず責任が伴うものです。    その責任を取ってもらうわけです

霊は一旦 視野が開ければ 悲しみは悲しみとして冷静に受け止め

決してそれを悔やむことはないはずです

燦々と輝く太陽の穏やかな日和には 人生の教訓は身に沁みません

魂が目を覚まし それまで気づかなかった自分の可能性を知るのは 時として暗雲立ち込める暗い日や

嵐の吹きまくる厳しい日でなければならないのです

地上の人生は 所詮はひとつの長い闘いであり試練なのです

魂に秘められた可能性を試される戦場に身を置いていると言ってもいいでしょう

魂にはありとあらゆる種類の長所と弱点が秘められております

即ち 動物的進化の名残である下等な欲望や感情もあれば あなたの個性 存在の源である神的属性も

秘められているのです   そのどちらが勝つか その闘いが人生です

地上に生まれて来るのは その試練に身を晒すためなのです

人間は完全なる神の分霊を亨けて生まれてはいますが それは魂の奥に潜在しているのであって

それを引き出して磨きをかけるためには是非とも厳しい試練が必要なのです

運命の十字路に差し掛かる度毎に右か左かの選択を迫られます

つまり苦難に厳然として立ち向かうか それとも回避するかの選択を迫られますが

その判断はあなたの自由意志に任されております

最も 自由といっても完全なる自由ではありません… その時点において取り巻かれている環境による

制約があり これに反応する個性と気質の違いによっても異なるでしょう 

地上生活という巡礼の旅において内在する神性を開発するためのチャンスは予め用意されているのです

そのチャンスを前にして積極姿勢をとるか消極姿勢をとるか 滅私の態度に出るか

利己主義に走るかは あなた自身の判断によって決まります

地上生活はその選択の連続と言って良いでしょう

選択とその結果、つまり作用と反作用が人生を織り成していくのであり 同時にまた

寿命尽きて霊界に来たときに霊界で待ち受けている新しい生活 新しい仕事に対する準備が

十分にできているか否か、 能力的に適当か不適当か、 霊的に成熟しているか否か と云ったごとも

それによって決まるのです    単純なようで 実に複雑です

そのことを忘れてならないのは 持てる能力や才能が多ければ多いほど

それだけ責任も大きくなるということです

地上に再生するに際して各自は地上で使用する才能についてあらかじめ認識してあります

才能がありながらそれを使用しない者は 才能のない人よりはそれだけ大きい責任を取らされます

当然のことでしょう

悲しみは 魂に悟りを開かせる数ある体験の中でも特に深甚なる意味をもつものです

悲しみは それが魂の琴線に触れたとき 一番よく眠れる魂の目を醒まさせるものです

魂は肉体の奥深くに埋もれているために それを目覚めさせる為には余程の強烈な体験を必要とします

悲しみ、無念、病気、不幸などは 地上の人間にとって教訓を学ぶための大切な手段なのです

もしもその教訓が簡単に学べるものであれば それは大した価値のないものだということになります

悲しみの極み 苦しみの極みにおいてのみ学べるものだからこそ それを学べる準備のできた霊にとって

深甚なる価値があると云えるのです

真理は 魂がそれを悟る準備のできた時 始めて学べるのです

霊的な受け入れ態勢が出来るまでは決して真理に目覚めることはありません

こちらから如何なる援助の手を差し伸べても それを受け入れる準備の出来ていない者は救われません

霊的知識を理解する時機を決するのは 魂の発達程度であり 魂の進化の程度が決するのです

肉体に包まれたあなた方人間が 物質的見地から宇宙を眺め 日常の出来事を物的ものさしで量り

考え 評価するのは無理もないことではありますが それは長い物語の中のほんの些細な小話に過ぎません

魂の偉大さは苦難を乗り切る時にこそ発揮されます

失意も落胆も 魂の肥やしです

魂がその秘められた力を発揮するにはどういう肥やしを摂取すれば良いかを知る必要があります

それが地上生活の目的なのです

失意のどん底にある時は もう全てが終わったかのように感じになるものですが

実は そこから始まるのです

あなたにはまだまだ発揮されていない力…

それまで発揮されたものより遥かに大きな力が宿されているのです

それは楽な人生の中では決して発揮されません  苦難と困難の中でこそ発揮されるのです

金塊もハンマーで砕かないと その純金の姿を拝むことが出来ないように

魂という純金も 悲しみや苦しみの試練を経ないと出てこないものです

それ以外に方法がないのです   他にもあるという人がもし居るとしても 私は知りません

人間の生活に過ちはつきものです  その過ちを改めることによって魂が成長するのです

苦難や障害に立ち向かった者が気楽な人生ばかりを送っている者よりも

一段と大きく力強く成長していくということは それこそ真の意味でのご利益と言わねばなりません

何もかもが上手くいき 日向ばかりの道を歩み 何一つ思い患うことのない人生を送っていては

魂の力は発揮されません

何かに挑戦し 苦しみ 神の全計画の一部であるところの地上という名の戦場において

魂の兵器庫の扉を開き 神の武器を持ち出すこと…それが悟りを開くということなのです

困難にグチをこぼしてはいけません   困難こそ魂の肥やしなのです

むろん困難の中にある時は それを有難いと思う訳にはいかないでしょう

辛いのですから…

しかし 後でその時を振り返ってみた時 それがあなたの魂の目を開かせるこの上ない

肥やしであったことを知って神に感謝するに相違ありません

この世に生まれ来る霊魂がみな楽な暮らしを送っていては そこに進歩も開発も個性も成就もありません

これは厳しい辛い教訓には違いありませんが

何事も価値あるものほど その成就には困難がつきまとうのです

魂の懸賞は そう易々と手に入るものではありません

神は瞬時たりとも休むことなく働き 全存在の隅々まで完全に通暁しております

神は法則として働いているのであり 晴天の日も嵐の日も神の働きです

有限なる人間に神を裁く資格はありません     宇宙を裁く資格もありません

物的尺度が余りにも小さすぎるのです

物的尺度で見る限り 世の中は不公平と不正と邪道と力の支配と真実の敗北しか見えないでしょう

当然かもしれません…しかし それは極めて偏った 誤った判断です

地上では必ずしも正義が勝つとは限りません

なぜなら因果律は必ずしも地上生活中に成就されるとは限らないからです

ですが 地上生活を超えた長い目で見れば 因果律は一分の狂いもなく働き

天秤は必ずその平衡を取り戻します

霊的に観てあなたにとって何が一番望ましいかは あなた自身にはわかりません

もしかしたら あなたにとって一番嫌なことが

実はあなたの祈りに対する最高の回答であることも有りうるのです

ですからなかなか難しいことではありますが

物事は物的尺度ではなく霊的尺度で判断するよう努めることです

と言うのは あなた方にとって悲劇と思えることが私どもから見れば幸運と思えることがあり

あなた方にとって幸福と思えることが 私どもから見れば不幸だと思えることがあるのです

祈りはそれなりの回答が与えられます

しかし それは必ずしもあなたが望んでいる通りの形ではなく その時のあなたの霊的成長にとって

一番望ましい形で与えられます

神は決して我が子を見棄てるようなことは致しません

しかし神が施されることを地上的な物差しで批判することはやめなければいけません

絶対に誤ることのない霊的真理がいくつかありますが そのうちから二つだけ紹介してみましょう

一つは動機が純粋であればどんなことをしても決して危害を被ることはないということ

もう一つは 人のためという熱意に燃える者には必ずそのチャンスが与えられるということ

焦ってはいけません…何事も気長に構えることです

何しろ この地上に意識をもった生命が誕生するのに何百万年もの歳月を要したのです

さらに人間という形態が今日のような組織体をもつに至るのに何百万年も掛かりました

その中からあなた方のように霊的真理を理解する人が出るのにどれほどの年数が掛かった事でしょう

その力 宇宙を動かすその無窮の力に身をまかせましょう

誤ることのない その力を信じることです

解決しなければならない問題もなく 争うべき闘争もなく 征服すべき困難もない生活には

魂の奥に秘められた神性が開発されるチャンスはありません

悲しみも苦しみも神性の開発のためにこそあるのです

「あなたにはもう縁のない話だからそう簡単に言えるのだ」とおっしゃる方があるかも知れません

しかし私は実際にそれを体験してきたのです   あなた方より遥かに長い年月を体験してきたのです

何百年ではなく何千年という歳月を生きてきたのです

その長い旅路を振り返った時 私は只々 宇宙を支配する神の摂理の見事さに感嘆するばかりなのです

ひとつとして偶然ということがないのです

偶発事故というものがないのです

すべてが不変絶対の法則によって統制されているのです

霊的な意識が芽生え 真の自我に目覚めた時 何もかもが一目瞭然とわかるようになります

私は宇宙を創造した力に 満腔の信頼を置きます

あなた方は一体何を恐れ また何故に神の力を信じようとしないのです

宇宙を支配する全能なる神に なぜ身を委ねないのです

あらゆる恐怖心、あらゆる心配の念を捨て去って 神の御胸に飛び込むのです

神の心をわが心とするのです

心の奥を平静に 穏やかに保ち しかも自信を持って生きることです

そうすれば自然に神の心があなたに通じて発揮されます

愛の心と叡知をもって臨めば 何事もきっと成就します

聞く耳を持つ者のみが神の御声を聞くことが出来るのです

愛がすべての根源です

人間的愛は そのほんのささやかな表現にすぎませんが 愛こそ神の摂理の遂行者なのです

霊的真理を知った者は一片の恐怖心もなく毎日を送り 如何なる悲しみ 如何なる苦難にも

必ずや神のご加護があることを一片の疑いもなく信じることが出来なければいけません

苦難にも悲しみにもくじけてはいけません

なぜなら霊的な力は いかなる物的な力にも優るからです

恐怖心こそ人類最大の敵です   恐怖心は人の心を蝕みます

恐怖心は理性をくじき 枯渇させ マヒさせます

あらゆる困難を克服させるはずの力を打ちひしぎ寄せつけません

心を乱し 調和を破壊し 動揺と疑念を呼び起こします

つとめて恐れの念を打ち消すことです

真理を知った者は常に冷静に 晴れやかに 平静に 自信に溢れ 決して乱れることがあってはなりません

霊の力は すなわち神の力であり 宇宙を絶対的に支配しています

生命の全存在の背後に 神の絶対的影響力があるのです

鋼は火によってこそ鍛えられるのです

  魂が鍛えられ内在する無限の神性に目覚めて悟りを開くのは苦難の中においてこそなのです

苦難のときこそあなたが真に生きている貴重な証です

夜明け前に暗黒があるように 魂が輝くには暗黒の体験がなくてはなりません

そんな時 大切なのはあくまでも自分の責務を忠実に そして最善を尽くし

自分を見守ってくれる神の力に全幅の信頼を置くことです

霊的知識を手にした老は 挫折も失敗も神の計画の一部であることを悟らなくてはいけません

陰と陽、作用と反作用は正反対であると同時に一体不離のもの

謂わば 硬貨の表と裏のようなものです

表裏一体なのですから 片方は欲しいが もう一方は要らないという訳にはいかないのです

人間の進歩のためにそうした表と裏の体験 …

つまり成功と挫折の双方を体験するように仕組まれた法則があるのです

神性の開発を促すために仕組まれた複雑で入り組んだ法則の一部、いわばワンセット(一組)なのです

そうした法則のすべてに通暁することは人間には不可能です

どうしても知り得ないことは信仰によって補う他ありません

盲目的な軽信ではなく 知識を土台とした信仰です

知識こそ不動の基盤であり 不変の土台です

宇宙の根源である霊についての氷遠の真理は

当然その霊の力に対する不動の信念を産み出さなくてはいけません

そういう義務があるのです    それもひとつの法則なのです

恐怖心、信念の欠如、懐疑の念は せっかくの霊的雰囲気をかき乱します

我々は信念と平静の雰囲気の中において始めて人間と接触できるのです

恐れ、疑惑、心配、不安…こうした邪念は我々霊界の者が人間に近づく唯一の道を閉ざしてしまいます

太陽が燦々と輝いて全てが順調で銀行にたっぷり預金もあるような時に神に感謝するのは容易でしょう

しかし 真の意味で神に感謝すべき時は 辺りが真っ暗闇の時であり

その時こそ内なる力を発揮すべき絶好のチャンスなのです

然るべき教訓を学び 魂が成長し 意識が広がり且つ高まる時であり その時こそ神に感謝すべきです

霊的マストに帆を掲げる時です

霊的真理は単なる知識として記憶しているというだけで鐘解したことにはなりません

実生活の場で真剣に体験して はじめてそれを理解するための魂の準備が出来上がるのです

その点がどうもよくわかっていただけないようです

種を蒔きさえすれば芽が出るというものではないでしょう

芽を出させるだけの養分が揃い  また太陽と水がなくてはなりますまい

そうした条件が全部うまく揃った時にようやくタネが芽を出し成長し 花を咲かせるのです

人間にとってその条件とは辛苦であり 悲しみであり 苦痛であり 暗闇です

何もかも上手くいき鼻歌交じりの呑気な暮らしの連続では 神性の開発は望むべくもありません

そこで神は 苦労を、悲しみを、痛みを用意されるのです

そうしたものを体験してはじめて霊的知識を理解する素地が出来上がるのです

そうして一旦霊的知識に目覚めると その時からあなたはこの宇宙を支配する神と一体となり

その美しさ、その輝き、その気高さ、その厳しさを発揮し始めることになるのです

そして一旦身につけたらもう二度と失うことはありません

それを機に霊界との磁気にも似た強力な繋がりが生じ 必要に応じて霊界から力なり影響なり

インスピレーションなり真理なりを引き出せるようになるのです

魂が進化した分だけ…その分だけ自由意志が与えられるのです

霊的進化の階段を一段上がる毎に その分だけ多くに自由意志を行使することを許されます

あなたは所詮 現在のあなたを超えることは出来ません   そこがあなたの限界といえます

が、同時にあなたは神の一部であることを忘れてはなりません

いかなる困難、いかなる障害も必ず克服するだけの力を秘めているのです

霊は 物質に優ります

霊は何ものにも優ります

霊こそ全てをつくりだすエッセンスです

なぜなら 霊は生命そのものであり 生命は霊そのものだからです

「古代霊は語る」近藤千雄 訳より

 

みんなで支えてきた「幻想ゲーム」を卒業する時

現時点で大半の人が気づいていない人類の大問題は 彼らが生を送っている「現実世界」が

リアルに見えすぎて それが実は「幻想世界」だという説明を断固として拒絶する心的状態

にあることでしょう

それを受け入れるには論理ではなく 感性や直感によって真実を洞察する力を必要とします

ところがこの世界の「現行ロジック」に当てはまる答案だけが評価されるような環境では

そのような力は養われるどころか退化するばかりで「真実」を伝え納得して貰うことは

ますます至難のワザになります

しかし宇宙の実情 または時間軸として宇宙の実験場でもある惑星地球🌏で行われている

幻想ゲームに終止符を打つべき時が刻一刻と迫っているのでしょう

幻想ゲームを続けながら「新しい地球へ移行する」ことは不可能なので

タイムリミットが到来する前に 人類の全員に何としても「真実」に目覚めてほしい

これらは当然ながら「現世界を生きながら現時点で行うこと」を示唆されていると考えるべきで

それとは別に 新生地球の住民となって新たな創造を行うことを慫慂(しょうよう)する

励ましのメッセージと全体を読み解くことも出来ない訳ではありませんが

この世界の現状では 個々の人類が「新生地球へ辿り着く」ために克服する課題が

圧倒的に大きいことを無視できないと考えています


「時間のない世界」を生きる境地へ近づくこと。。。。。

創造主より

わたしがつくりし 愛する子らよ  時を活かす学習は新しい時代を迎えるために

地上の世界につくられた独特の体験だが すでに永遠の命を与えられし そなた達は

その‘時’という感覚から新しい境地に達する必要がある


ババジ曰く…

「時を活かす学習」は 地上世界につくられた独特の体験であり「いのち」は永遠で

みなさんが認識している「時間」というものは 「自己の本質についての自覚」を見失った状態に

適うように創られているに過ぎないのです

過去や未来は三次元世界の概念で そこでは時間を体験し 時間とともに成長することができます

しかし 今はますます多くの人々が高い次元へ上昇しているので

「時間」を念頭から消して生きる焦点を 時間を超越した状態に完全に合わせることが不可欠です

この認識に達した人は誰でも もはや時間を浪費せず あらゆる瞬間を唯一無二の贈り物として活かし

どんな決定も先延ばしすることはしません

時間の本質を識っていて 常に「今 この時」にいるのです

その自覚が高い次元の住民になるための鍵🔑で 皆さんはこの鍵を任意のレベルへ

始動させることができます

必要なのは 自分が永遠に続く意識を持っていること…

つまり 神聖な魂であるという明確な認識だけです

人は「時間」を体験することができ  いずれはそれを手放すことが出来るように

神の愛によって創られた神のエネルギーです

 

参究(さんきゅう):先達の足跡に参じて何程かのアプローチを試みること

はるか遠い昔…ひとりの男が 世に現れ…

この世界のからくりの一端を 解き明かして 還っていった…

男が還ったのち…世は移り行き 人は変わりて 沢山の歳月が過ぎ去ったけれど…

その男が その時 語り置いたことは いささかも風化することなく

永い時空(とき)を超えて 今尚生き生きと 息づきながら…

普遍なる真実を示し続けている…


その人がこの世を生きたのは 今からおよそ二千数百年ほど前の中国の何処かだった…

…ということ以外 詳しいことは何も伝わっていない

中国の いつの時代 どの地方で生まれ  何を職業にして  どんな家族と共に どう暮らしていたか…

すべては 伝説のベールに包まれて 詳らかではなく…

当人の名前でさえ 定かでないのだ

なぜか 若い頃から 髪が白かったために ジサマ(爺ちゃん)と呼ばれていたらしい

…と云う 風聞が伝わるばかりである

こういう曖昧なジサマの生涯の中で たったひとつだけ確かなこととして

三日間の ある興味尽きない経緯(いきさつ)が 今に語り残されている…

…その三日間こそ 人類の偉大な遺産のひとつを生み出した

奇跡と至福の時節(とき)と呼んでしまえるほど 大きな三日間となる…


当時の世の人々は その国の習わしに従って ジサマという呼び名の下に

“先生”の意味をもつ“子”という敬称をつけて親しんだため

この人は ジサマ先生 …すなわち《老子》と呼ばれるようになる…

これは 人類にとって大きな先達のひとりとなる かの老子(ジサマ)の

奇妙にして味わい深い その三日間の物語である…



老子という人について語り残されている伝承の中で 最も興味深いものの一つを挙げるとすれば

その誕生逸話ということになるかも知れない

そこではこんな風に語られている…

ーーかの人は 母の胎内で八十余年を過ごした後 ようやくこの世にに誕生してきた

そして百六十余年まで生きた後 神仙となった…と。

老子という人が子供の頃から髪が白かったとする説は この伝承を踏まえた上で生まれたのだろう

どこの国でもそうであったのだろうけれど 古い時代の中国では

格別に智恵のある人を尊ぶ風習が強かったのだと言われる

智恵というのは 若い頃に吸収した知識や味わった体験などが個人の成長と共に練られていき

さながら年代もののワインのように歳月を経る中でゆっくりと発酵した末に

やがて馥郁と香り立つものであるらしい

そのため様々な見聞を広めたり 多くの体験を積んだ年輩の方を 智恵のある人として敬う美風が

培われていくことになったように思われる…

誠に「名の名とすべきは 常の名にあらず」

言葉に出して語れるようなことにはどんな真実もない…

と語り残した人を伝えるに相応しい比喩ということになる

してみれば やはりこの人には 姓は誰それ、名は何がし…と云う事実よりも

ジサマという無名の呼び名こそが似つかわしいに違いない

それは最も多弁な無表情とでも…

現代まで老子という人の名が残されたのは 関所役人の所望で二巻の書をしたためたからである

もしこの出来事がなかったら かの人は何も記すことは無かっただろうから

老子という人が実在したかどうかが判らないばかりでなく その二巻の書を源泉として生まれていく

“道教”や“禅”への影響などから始まるもの一切が この世に存在しなかっただろう…

まことに人の世の妙を感じさせる経緯(いきさつ)という他ない

だから 老子という人について何かを記すことがあるとするなら

その三日間をとり上げることに尽きてしまう…

すると 物語の冒頭は その三日間の第一日の夜明けになる他ない

何気ない夜明けのようでいて 同時に“道”の教えが世に現われ出る日の深くて穏やかで大きな夜明け

中国の物語だ…

まず “天”から語り起こさねばならない

“天”とくれば 伝統の韻を踏んで “地”と受けないと “道”に添った語り口になるまい

“地”の最初に “山”を描けば 韻を踏んで “川”と受け 、そして“闇”があって“光”で受けて

天地に朝が来る…

そして 旅立つ日のジサマがいて 人の世界の物語が 動き始める…

ジサマが関所の一室に座って 何かを書き出す…たぶんそれはこの地上で人間の文明が生み出した

最も難解な言語のひとつと呼ばれる漢文に違いない

全識者 道之華 而愚始: 全識は道の華にして 愚の始めなり

「本質を得る前に うわべの知識にかかずらっていると “道”から外れてしまい愚かしさの始まりとなる」

こうすれば 徳・仁・義・礼・智なども 道に外れているときはうわべの飾りになり

道に叶って用いれば有用であると云うことだろうか…

絶学無憂: 学を絶てば 憂いなからん…古来よりこの四文字が19章の末尾に付くか20章の頭に付くかで

議論されていると云う  

19章の末尾に付けば 知識全般を指し 20章の頭なら「礼記」の勉学指すが その趣意とは…

ご自身の体験を通して 自分自身で“道”を明かせば良いだけのこと

「天地に“仁”はなく 万物をあるがままにゆだねる」

「天は 常に慈しみをもつ人を衛り 救おうとする」

老子という人が この世を去り 時は経ち なお“道”は遍くはたらきを続けて止まないが

人々は あまりにも“道”から遠のいてしまい “生命”の本質を見失ったまま…

第5章では天地のはたらきの絶対非情を語りつつ 第67章では天の慈愛の深さを述べている

こういう所に 山ほどの神仙がおわす風土で育ちながら 慎重に“神”という言葉を避けて

“道”と語り置いた人の 本領が伺える

この百万年ほどの間に 人類は‘質’の異なるいくつもの文明の興亡を体験したはずだから

縄文土器が使われだして以降の一万二千年程を 取り敢えず〈現文明〉としてみよう

現文明は 地上の各地で発生したいくつもの小集団が集合と離散を繰り返しつつ

一万二千年ほどの時間をかけた20世紀に入って漸く合流できる所へとこぎつけられた

それは宇宙から地球を眺める視点を共有できるようになった時代であり

もともと地球はひとつだったとか 国境や民族を超えた価値観が必要であるとか

環境破壊は自滅行為であるとかいった“全体性”ということに

集団として認識できるようになった時代でもあった

当然ながら現文明一万二千年程の歴史の中で 大多数の人類が そういう認識を共有できたことも

そういう認識抜きに何をやっても未来が開かれていない状況に追い込まれていたと気づいたのも

はじめてのことである

その意味では 人類が一万二千年ほどの歳月を費やした末 改めて見出したテーマのひとつが

“全体性”だったということになる

物語でいえば九分九厘を語り終えた大詰め、そして文明でいえば

ひとつの文明が その“質”を変えて 次の文明へと移っていく過渡期

たぶん20世紀とはそういう時間帯だったのであり この一万二千年ほどに亘って

人類が引きずってきたあらゆる問題とあらゆる解答が 集約されていたと思われる

そしてその後…その事に関わる実に多くのことが同時多発で展開されつつ

あるものは浄化されていき あるものは新しい方向性を生み出していく選択期のようでもある

その判断基準のひとつを 固有性と共有性の調和と見ることもできるだろう

結局 現文明の犯した過ちの部分を煎じつめれば あまりにも自分本位

人間中心に陥りすぎてしまったということに尽きるだろう…

個人が日常の中でふりまわす自分本位の事情も 個人の所属する集団や民族が

政治・教育・思想・宗教などを通して振りまわす人間中心の発想も

この宇宙の“全体性”に調和できる方法をもっていない限り 残念ながら

壮大な地滑り現象を起こしていく他ない

ジサマ曰く 「天地に“仁”はなく…」と。

誰もそれを止めることはできない

万物は“母なるもの”から生まれ 育まれている

天地自然の悉くも 人も物も一切の“生命あるもの”は それぞれの生命に相応しい“固有性”を活かしながら

同時に互いの生命を活かし合う“共有性”をもって はじめて“母なるもの”に抱きとめられる

ジサマ曰く 「天は常に 慈しみをもつ人を 衛り 救おうとする…」と。

私たちの誰もが 今、その“選択期”のただ中に 今にも消えてしまいそうな 幽けき身を置いて生きている

         老子  真崎 守


 

マンガで読む観音経 桑田二郎

肉体を持って生きている限り “低我”の欲望と感情は付いて回ります

肉体がこの世に働く限りは そこには何らかのカルマを形成し続けます

そして ある時にはカルマの結果に苦しみます

また 肉体という生命をこの世にあらわした限りは “死”という恐怖から逃れることもできません

常に死に怯えながら生きねばならぬ宿命です

しかし そうした運命や宿命の中においても …(念彼観音力) 観音の力を心に念ずれば…

観音菩薩の霊力とつながる‘理智’を発達させ それが“真我”の精神となって現れてくれれば

凶悪な敵も 直ちに退散す!

すなわち‘魂’の意識がはっきりと目覚め 精神の中に働き始めれば

‘低我’の欲望と感情は “真我”の支配下に置かれ 欲望は精神の意志の力に変化し

感情は慈悲の心へと昇華します

そうなれば欲望も感情も今までのように限りなく悪いカルマを作り続けるということが無くなります

と云うことは カルマの法則通りに未来の運命の中には辛い出来事や

不快な苦悩の原因が 消えていってしまうわけです

今の運命は 過去のカルマの現れです

今 生きている中の 心と言葉と行為が 未来の運命となって現れてくるのです

観音菩薩の波動は この世に満ち溢れている。。。。

まず 観音菩薩とは“空”の次元の存在です

従って その存在の仕方を私たちの五官で捉えることはできません

その霊力は 私たちの物質世界を超えた波動だからです

その波動を音に例えるなら “妙音”とも言うべき波動です

しかし 目には見えずとも 観音の霊力の波動は常に海潮音のように

この世の私たちの精神を進化へと導くべく働きかけています

その波動は “梵音”のように宇宙にあまねく満ち満ちており

さらに 生と死をも超えた次元にまでゆき渡っているのです

まさに次元を超えた生命の実相と神秘は人間の常識の尺度を遥かに超えたもの

しかも いかに今の物理の科学が進んでも決して到達できない次元なんだよ

物理の科学というのはあくまで“色”の世界のものでしかないが

生命の真理は“色”から“空”へとまたがっている

その“空”とは “色”の世界と繋がってはいるけれど存在の在り方が根本的に違うんだから…

その“空”の次元を“直感”で捉える能力が人間の生命の中には秘められているのです

しかし その能力は“我意識”にはありません

我意識というのは色の世界に綴じ込められてひねくれてしまっている井の中の蛙🐸のようなもの

せまい色(しき)という名の井戸の中にいて外に広がる無限の世界のあることを知らず

井戸の中の認識が世界の全てだと思い込んでいる小ちゃい憐れな生きものです

従って “我意識”というのは働かせれば働かすほど見える世界も狭まってゆくのだよ

“空”を直感する能力は 人間の生命の奥に眠る“魂”の持つ能力です

“魂”とは この世において肉体生命の中にありながらその意識は“空”の次元と繋がっているからです

観音の霊力も この“魂”を通して 人間の精神の中に現れてくるのです

“空”を直感する能力というのも 観音菩薩の霊力の現れです

そして“空”の直感力が脳の働きと結びついて “理智”として働くのです

結局 空の直感力にしても理智の働きにしても 先ずその以前に“魂”が目覚めなければならず

魂が目覚めれば観音の力の存在を疑う心は必然的に根こそぎ消えていってしまうのです

観音の霊力が“我意識”とは繋がらないというのは

観音の霊力の波動は進化を成り立たせる波動であり かたや“我意識”の波動は

進化から脱線して‘苦’を形成し いずれは消滅させられる波動だからです

観音の霊力というのは完全に清らかな聖霊の波動ですから 歪んだ“我意識”の発する生命波動とは

根本的に繋がりようがないのです

従って 観音の霊力をこの世の生命の働きの中に現すには どうしても瞑想という手段を通して

一時的にも“我意識”というものを取り祓わねばならない訳です

観音の霊力が“魂”をとおして現れてくると

魂の意識の中に“空”の次元を直感的に捉える感性が目覚めてきます

そしてその直感力の中に “生命の真理”或いは“存在の法則性”といったものが

漠然とながら浮かび上がってき その漠然とした感性が やがては“理智”となって育ってゆき

そこから悟りへの第一歩を踏み出すのです

その悟りへの第一歩とは…

人生の中に巡り合うあらゆる苦悩も あらゆる不運もすべてが自分で作り出したものであり

しかもそれらは自分の“霊的進化”にとって無くてはならぬものだ!と気づくことです

そうした角度から 苦悩や不運に接すると 同じ苦悩や不運が

今までとは別の意味を持ってくる訳です

そしてやがては迎えねばならない“死”という宿命も霊的進化の一区切りであると

実感することによって“死”そのものは恐るべきものではなくむしろ

新たなる門出の出発点として楽しみなものへと変わるのです

「徳の化身 徳の大海」というのは 全ての人間の魂を霊的進化へと導いてゆく観音の霊力の

計り知れない神通力の表現であり 人間の“魂”を進化へ導くために

人間の生命の働きの中に“理智”となって現れ 慈悲の精神を育てる…

その神秘の力こそ“観世音”と呼ばれる聖なる霊の力です

その観音菩薩を礼拝するということは

瞑想によって観音の霊力を自らの生命の働きの中にあらわすことです

それが自らの霊性を進化の完成に向けて進めるということに繋がっている訳だ

私たち人間はこの地球上で最も進化の進んだ生きものとされているがね

角度を変えて見てごらん…精神的或いは霊的進化の完成というところから見るなればだ

我々人間は まだど〜〜しようもなく低いレベルにいるのだよ

何てったって “魂”より“我意識”の方を大切にしちゃってんだから

肝心の“魂”の方は生命の具でほとんど半分寝ぼけたままで まだ目さえ完全に覚ましていない

という状態のままなんだから…

生と死を超えて無限に進化できるのは“魂”の方であって“我意識”のほうじゃない

“我意識”の方は 存在の法則性によっていずれは消滅させられる運命にあるんだよ

その“我意識”が主導権を握ってのさばると様々な災いがその人の運命に現れるのさ

現に 私たち人間には様々な苦悩や不運がある

それらはみんな“我意識”の作るカルマから生まれてんだよ

要するに 生命の主人公たる“魂”を眠らせたままにしておくからだ

それが霊的進化の低さでもあるんだよ

だからそうした苦悩や不幸から離れるには 自らの霊性を進化させる以外に方法はないのさ

それらの苦悩や不幸を取り除く能力が生まれてくるのだからね…

“霊性”を進化させるには 先ず“魂”を目覚めさせなきゃならない!

“魂”を目覚めさせるには 「瞑想」という手段がある!

「瞑想」という手段を通して “魂”の波動が“観音の霊力”と繋がる!

“魂”の波動が観音の霊力と繋がると そこに“理智”の働きが生まれてくる!

“理智”の働きによって “真我”の精神が育ってゆく!

“真我”の精神が育つとともに“低我 ”は“魂”の進化の足を引っ張るものから

“魂”の進化に協力するものへと変身してゆく…

すなわち 生命の感覚は “理智”の直感力に…低我の欲望は進化へと向かう意志の力に!

そして感情は“慈悲”の精神へと…

こうして人間の霊性は無限の進化に向かって発展してゆく


観音経の真意は霊的進化にあるのですが 省かれてしまっている経文の続きもまた

省略してはならぬ筈です…経文の続きの内容を以下に簡単に紹介しておきます

「西方にスカーヴァティと呼ばれる幸福の極楽世界がある。そこには幾百劫という長い間

修行をして最上の悟りに到達し如来となられた阿弥陀仏がおられ ビシュヌ神の如くに

輝きつつこの世の人間の指導者として存在しておられる。そこには女性が生まれることなく

性というものもない。観音菩薩はこの阿弥陀仏の側に立って仏を仰ぎつつ幻に等しい一切の

国土において仏に香を供養した。私はかの仏を讃えて一日も早く功徳をついで

あなたのように進化を完成させたものとなりたいと祈念する」

以上の漢訳の際に原文から省かれてしまった“偈”の続きの内容です

そしてこれによって人間が霊的進化を完成させて到達する世界を表現しているのです

人間が生と死を繰り返しながら 進化の完成までに要する時間は私たちの持つ時間の概念を

遥かに超えたものです

そして私たちの進化の結果もまた 私たちの想像を遥かに超えたものへと成長してゆくのです

要するに人間の“魂”とは霊的進化によっていずれは“性”をも超えた存在へと進化してゆくことを

言い表しているのだよ

一人の人間の進化は 八方の見えない次元と四方の人々の進化につながる。。。。。

その時 持地菩薩が座から立ち上がって言いました。「世尊よ!この観世音菩薩の変幻自在な

奇蹟を記した章を知るものは少なからざる善根を具えた者になるでありましょう」と。

お釈迦様が この観音経を説いておられる時 そこに集っていた八万四千の衆生は皆比べるもののない

この上なく完全なる“悟り”に到達したい!と云う心を起こしたのでした。

“色”という現象世界が無くなったからといっても根源的な存在そのものが消滅する訳じゃない

存在の仕方が変わるだけのことだ…

宇宙も太陽も永遠の昔から現れたり消えたりを繰り返しているのだよ

それは宇宙の呼吸のようなものだ

宇宙が息を吐くとき 宇宙が現象となって現れ  宇宙が息を吸うとき 宇宙の現象が消えてゆく…

その繰り返しの中で宇宙全体が進化し続けているのだよ

太陽が五十億年後に燃え尽き 地球上の生命も滅びるとは言っても

それは“色”という現象世界だけのことであり  それは生命全体の霊的進化の一区切りだ

そこからまた生命全体の霊的進化は次の段階へと進んでいくのさ

従って弥勒菩薩が五十六億七千万年の先に未来の仏として現れるというのも

この地球という進化の場ではなく 人間の霊的進化の次の段階の世界ということになるんだろうね

つまり 今の太陽の寿命も尽きた後の 次の進化の舞台となる世界において人々の魂を導く仏だ

それまでの間 この地球を舞台として進化する人間の魂を支え続けるのが持地菩薩

持地菩薩に「大地を支える者」という意味の名前がついているのも 今 地球🌏を舞台として

進化してゆく人間の魂を支える役目を持っているからだよ

要するに持地菩薩とは 地球そのものの霊の人格的表現ということだ

人間 ひとりの進化は その人 一人の問題ではない!ということです

人間一人ひとりの霊性の進化は  八方の見えない次元の生命とも繋がっており

さらにこの世の四方の人々とも繋がっているのだ!!ということを。。。。。







 
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