日記

1990年生まれ。虚実入り混じっております。

【114】腸まで届く乳酸菌

先日、テレビを見ていれば乳酸菌飲料のCMが流れていた。大御所俳優が乳酸菌飲料を一息で飲み干し、カメラに向かって「腸まで届く乳酸菌」と言ってCMが終わったのであるが、そのCMを見た直後からなにやら心がざわざわしてくるのを感じたのである。
私が気になったのは「腸まで届く乳酸菌」というフレーズ。これは乳酸菌を服用してから腸に至るまでの間に胃酸などによって菌が死滅してしまい腸まで届かないケースが多いことを踏まえての発言であり、広告を受ける乳酸菌がしっかりと腸まで届く素晴らしいものであることを示している。しかし、考えてもみて欲しい。そもそも整腸作用を期待されている乳酸菌にとって「腸」は職場であり、「腸まで届く」というのはただの「職場出勤」に過ぎない。私たちで言えば、家を出て電車を乗り継いで会社に行くのと同じこと。つまり、社会人として見てみれば「腸まで届いて当たり前」なのであり、何もCMまで使って告知するような内容ではない。その上、出勤した乳酸菌に対して「お前は腸まで届いてすごい」と称賛しているなんてことは言語道断。理解に苦しむのである。
私は大学を卒業し社会人になってもう4年以上が経過しているが、未だかつて出勤しただけで褒められたことはない。それこそ雨の日だって雪の日だって台風の日だって私たちはただならぬ熱気を帯びた満員電車の中で朦朧とした意識の中、生死を分ける攻防を繰り返しながら出勤を続けている。その苦しみは胃酸を通過するよりも苦しく、実際、乳酸菌を満員電車に乗せた様子を顕微鏡で見てみると瞬時に死滅することが先日のネイチャー誌で発表されていた。そして、我々の素晴らしい所はそんな過酷な環境での出勤を強いられながらも誰一人脱落することなく始業時間には自らの業務を始めていることであり、その点からしても乳酸菌よりも我々の方がタフであることは間違いない。正直、「胃酸にやられました」などとのたまい、出勤しない乳酸菌は社会人としての自覚が足りないと思う。
とは言いつつも、心のどこかで出勤しない乳酸菌を羨ましく思う部分もある。確かに、私だって毎日、「職場に着いたら仕事をしなくてはならないのか」という暗然たる気持ちを胸に抱えて出勤を続けている。通勤電車を途中で下車して、街はずれにある純喫茶の中でメロンソーダを飲みたいと何度思ったことだろうか。きっと、「胃酸にやられました」と言って姿を消した乳酸菌たちは今頃、一人で映画を見ていたり、自宅で本でも読んでめいめいに休暇を楽しんでいるに違いない。むかつく。
そう思うと、誘惑に負けず腸内にちゃんと届く乳酸菌は仕事への責任感の強い乳酸菌なのだろう。ただ、彼らも私たちと同じように「腸に着いたら仕事をしなければならない」という暗然たる思いを抱いて腸を目指しているに違いない。そんな彼らのことを考えると出勤を強要する自分がひどく申し訳なく思えてきたのである。
私はおもむろに立ち上がると冷蔵庫を開け、CMで広告されていた乳酸菌飲料を取り出した。そして封を開けると乳酸菌に対して「途中で家に帰っても良いんだぞ」と言ってそれらを飲み干したのである。
それはまるで自分に言い聞かせているようだった。

【113】ハンバーグの大向こう

先日、テレビを見ていればグルメ番組がやっていた。それは様々な名店の料理が次々に紹介され、スタジオにいる芸能人たちが審査員となりそれらを試食。最終的には投票によってその日の1番を決めるという類のものであった。テーマは「ハンバーグ」。一度は耳にしたことのあるような名店のハンバーグが続々と現れ、見ている私の食欲は多分にそそられたのであるが、その中で気になったことが1つあった。それは「合いの手」。ゲストとして呼ばれていたタレント達がスタジオで調理される過程のハンバーグに対して、「いかにも」な顔を浮かべながら
「うわ~」
「やば~い」
と白々しく叫んでいるのである。しかもそうした合いの手は一度や二度ではなく、例えば、ハンバーグをフライパンで焼いている音を聴けば
「うわ~」
「やば~い」
ハンバーグにデミグラスソースをかければ
「うわ~」
「やば~い」
ハンバーグをナイフで切り、肉汁が溢れだす様子を眺めては
「うわ~」
「やば~い」
実際に食べてみれば…。
と言った調子で非常に代り映えのない合いの手を永遠と繰り返しているのである。私は聴いているうち次第にげんなりしてしまい、そのうち頭を抱えたのである。
「合いの手のレベルの低さがこのハンバーグの舞台を台無しにしている」
歌舞伎の世界では、演技中の役者に対して声を掛ける観客のことを「大向こう」と言う。「成田屋!」、「中村屋!」、「日本一!」などと叫ぶのが有名であるが、この「大向こう」にはその場に適した言葉のチョイス、タイミング、声量など様々な観点においてセンスが要求され、誰でもできるような芸当ではない。しかしながら、その中でうまく声かけをすることによって「演者」と「観客」との間にグルーヴ感を創出し、それが素晴らしい舞台を作り上げることに寄与するのである。つまりは「大向こう」の出来次第によって舞台の出来は変わるのであり、逆に言えば彼らの存在なくしては歌舞伎を語ることはできないのである。
その観点で考えると、この番組のスタジオに呼ばれた芸能人たちはハンバーグの「大向こう」を担っていると言えるのだが、残念なことに彼らのセンスは乏しく
「うわ~」
「やば~い」
としか言うことができないため、場の空気感を白けさせてしまっている。彼らに求められていることは、歌舞伎鑑賞のように調理途中のハンバーグに対して威勢の良い声を掛けること。例えば、熱したフライパンに合挽肉を載せた瞬間に「じゅう」という焼き音が聞こえれば
「待ってました!」
「たっぷり!たっぷり!」
と声を掛ける必要があり、その掛け声が「ハンバーグ」と「私たち」との間にグルーヴ感を創出。それが結果として素晴らしいハンバーグの舞台に繋がるのである。
ハンバーグ鑑賞の玄人である私からすると、そもそも彼らはハンバーグ鑑賞の仕方を良く分かっていないように思える。色々と言いたいことはあるが、この番組を見ていて私が特に気になった場面はハンバーグから肉汁が溢れだす場面。ここはハンバーグの舞台においてクライマックス最大の見せ場である。胴体を切られたハンバーグから悲しげに肉汁が溢れだした瞬間、私たちの脳裏にはそれまで元気であったハンバーグの姿が走馬灯のように浮かび、そのせつなすぎるラストに自然と涙が溢れだす。ただ、この場面は肉汁を出すタイミングが非常に難しく、技術のないハンバーグだと切られてからなかなか肉汁を出すことができずに佇んでいたり、逆に調節が効かず、切られた瞬間にスプラッターな肉汁を噴出してしまうものもいる。しかしそんな中、テレビに紹介されていたハンバーグ達は卓越した演技によってじんわりと肉汁を出すことに成功していた。まさに名人芸。じっとその瞬間を見つめていた私は肉汁を溢れ出た瞬間、涙を抑えることができず
「やっぱりあんたが日本一!」
とテレビに向かって叫んでいた。
結局、どこのハンバーグが優勝したのかもよく覚えていないが、その番組が終わると私はおもむろに立ち上がり小鍋に水を張るとコンロに火を付けた。夢の時間は終わり。現実のハンバーグを食べようと思ったのである。沸騰した水に市販の冷凍のハンバーグをパウチされたままぶち込むと、推奨時間通りに湯煎。そして、解凍したハンバーグをお皿に盛り付けた私はまんじりともせずハンバークを見つめていた。試しにハンバーグの胴体を箸で切ってみたが断面から肉汁などは出てくる訳もなかった。
「技術のあるハンバーグが食いてえ」
呟く私の姿、掛ける言葉が見当たらない。

【112】隣人は胎児

先日、会食中に友人が勿体ぶった口調で悩みを吐露したのであった。
それは友人の住むアパートでの話。最近、友人の隣に住む住民が、友人宅から何か物音が聞こえる度に部屋の仕切りである壁をドンドン鳴らしてくるのだと言う。その鳴らす音は凄まじく、友人が言うには壁を足で蹴っているのではないかとのこと。しかしながら、友人としてはそれほど騒音を鳴らしているつもりはなく、通常の生活音レベルしか発していないのにも関わらずそのような仕打ちをしてくるのは許せない。むかつく。と言っていた。
確かに理不尽な話である。そして、怒りを感じるのもわかる。少しばかりの物音がするだけでそれほど強く仕切りの壁を叩いたり蹴ったりするのは、傍から見ても明らかな異常者。なんとも物騒な話であり、友人は今後注意を払った方が良いと思うが、私にはそもそも何故隣人がそれほどまでに壁を叩くのか気になっていた。そしてしばらくそのことを考えていた折、私の脳裏にある1つの仮説がよぎったのである。私は神妙な顔で友人にこう話した。
「隣人はあなたのことを母親だと思っているのかもしれない」
つまりどういうことかと言うと、胎児が母親の胎内で成長していくにつれ、内側からお腹を叩いたり蹴ったりする「胎動」と呼ばれる現象がある。それと今回の隣人の行動と照らし合わせるととてもそっくりに思えるのである。つまり、胎内から胎外に向けてお腹を蹴る行為が、隣人宅から友人宅に向けて壁を蹴る行為とオーバーラップされるということ。試しに、友人に対して隣人の姿を見たことがあるのかと問うたが、友人は「ない」との返答であった。もしかしたら…、私の推理が正しければ、友人の隣に住む人は「胎児」である可能性が高い。
友人はキョトンとしながらその話を聞いていた。無理もないだろう。私は明らかにふざけていた。ただ、友人が隣人の姿を見たことがない以上、この仮説はまだ棄却されるものではない。もしも、隣人が胎児であった場合、その行動の意図も大きく変わってくる。例えば、仮に友人の隣人が単なる異常者であれば、壁を叩くことは騒音への暴力的なリアクションであるが、隣人が胎児の場合、それは「生存の証明」である。そのため、友人としても壁の向こうから音が聞こえてきた時には、その音に対して、ちゃっ、と舌打ちをするのではなく、「わあ、蹴った!」と明るく言いながら、お腹をさするお母さんのように壁をスリスリとさすってみたり、壁に耳を当てて「わあ、動いてる」と言うのが正解ということになる。
そしてそのような生活を続けていると、いつか隣人が友人宅の呼び鈴を鳴らす日がくるだろう。その時、友人は隣人の姿を確認するや否や「生まれてきてくれてありがとう」と言ってきつく隣人を抱きしめるのである。隣人が生まれる日。それはとても素敵なことのように思う。そしてその日が来るまでは「胎教」と称して隣人に聞こえるように大音量でクラシック音楽を流すと良いだろう。
結局、その日は深酒をしてしまい、友人宅に泊まらせてもらうことになった。電車を乗り継ぎ最寄駅から5分ほど歩くと友人の住むアパートがある。友人の部屋はアパートの二階であるから階段を昇って二階の廊下を歩いていると、その道中に例の隣人の部屋を見つけたのである。驚くべきことに、隣人の部屋からは水が漏れ出しており、それが廊下をびしゃびしゃに濡らしていた。
「破水している…」
私たちは戦慄したのであるが、よくよく見るとそれは隣人宅のエアコン室外機の管から水が流れ出ているだけだった。

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