日記

1990年生まれ。虚実入り混じっております。

【112】隣人は胎児

先日、会食中に友人が勿体ぶった口調で悩みを吐露したのであった。
それは友人の住むアパートでの話。最近、友人の隣に住む住民が、友人宅から何か物音が聞こえる度に部屋の仕切りである壁をドンドン鳴らしてくるのだと言う。その鳴らす音は凄まじく、友人が言うには壁を足で蹴っているのではないかとのこと。しかしながら、友人としてはそれほど騒音を鳴らしているつもりはなく、通常の生活音レベルしか発していないのにも関わらずそのような仕打ちをしてくるのは許せない。むかつく。と言っていた。
確かに理不尽な話である。そして、怒りを感じるのもわかる。少しばかりの物音がするだけでそれほど強く仕切りの壁を叩いたり蹴ったりするのは、傍から見ても明らかな異常者。なんとも物騒な話であり、友人は今後注意を払った方が良いと思うが、私にはそもそも何故隣人がそれほどまでに壁を叩くのか気になっていた。そしてしばらくそのことを考えていた折、私の脳裏にある1つの仮説がよぎったのである。私は神妙な顔で友人にこう話した。
「隣人はあなたのことを母親だと思っているのかもしれない」
つまりどういうことかと言うと、胎児が母親の胎内で成長していくにつれ、内側からお腹を叩いたり蹴ったりする「胎動」と呼ばれる現象がある。それと今回の隣人の行動と照らし合わせるととてもそっくりに思えるのである。つまり、胎内から胎外に向けてお腹を蹴る行為が、隣人宅から友人宅に向けて壁を蹴る行為とオーバーラップされるということ。試しに、友人に対して隣人の姿を見たことがあるのかと問うたが、友人は「ない」との返答であった。もしかしたら…、私の推理が正しければ、友人の隣に住む人は「胎児」である可能性が高い。
友人はキョトンとしながらその話を聞いていた。無理もないだろう。私は明らかにふざけていた。ただ、友人が隣人の姿を見たことがない以上、この仮説はまだ棄却されるものではない。もしも、隣人が胎児であった場合、その行動の意図も大きく変わってくる。例えば、仮に友人の隣人が単なる異常者であれば、壁を叩くことは騒音への暴力的なリアクションであるが、隣人が胎児の場合、それは「生存の証明」である。そのため、友人としても壁の向こうから音が聞こえてきた時には、その音に対して、ちゃっ、と舌打ちをするのではなく、「わあ、蹴った!」と明るく言いながら、お腹をさするお母さんのように壁をスリスリとさすってみたり、壁に耳を当てて「わあ、動いてる」と言うのが正解ということになる。
そしてそのような生活を続けていると、いつか隣人が友人宅の呼び鈴を鳴らす日がくるだろう。その時、友人は隣人の姿を確認するや否や「生まれてきてくれてありがとう」と言ってきつく隣人を抱きしめるのである。隣人が生まれる日。それはとても素敵なことのように思う。そしてその日が来るまでは「胎教」と称して隣人に聞こえるように大音量でクラシック音楽を流すと良いだろう。
結局、その日は深酒をしてしまい、友人宅に泊まらせてもらうことになった。電車を乗り継ぎ最寄駅から5分ほど歩くと友人の住むアパートがある。友人の部屋はアパートの二階であるから階段を昇って二階の廊下を歩いていると、その道中に例の隣人の部屋を見つけたのである。驚くべきことに、隣人の部屋からは水が漏れ出しており、それが廊下をびしゃびしゃに濡らしていた。
「破水している…」
私たちは戦慄したのであるが、よくよく見るとそれは隣人宅のエアコン室外機の管から水が流れ出ているだけだった。

【111】シリアスな花火大会

先日、私はありとあらゆる公共交通機関を乗り継いで土浦の河川敷に出向き、「土浦全国花火競技大会」に興じてきたのである。秋田県の大曲で開催される「全国花火競技大会」、新潟県の長岡市で開催される「長岡まつり大花火大会」と並んで「日本三大花火大会」にも数えられるこの花火大会。会場に到着すると、日本全土から集まって来たであろう多くの人々がひしめき合っていて大変な様相であった。その中で、観覧の席が桟敷席だった私は区分けされた自らのスペースに幼少期から使い続けているミッキーマウスのビニールシートを広げると、その上に足を延ばして座り、後はカップ酒を呷ったり、持ってきたお弁当をつまんだりしながら花火が初秋の夜空を彩るのを眺めていた。
やはり、花火の競技大会ということもあり、そのレベルは非常に高いものがあった。様々な制約のある中、各花火師たちは趣向を凝らしてオリジナリティーのあるものを提供していて見ていて飽きることがない。中でも、特に目を引いたのは「犬」や「果物」といったポップな対象を打ち上げ花火で表現していたこと。そうした花火が夜空に打ちあがると、子供たちが花火を指さしてはしゃぎ、大人たちの笑い声が辺りに響くのである。果たしてそれらがどのような仕組みで成り立っているのかはわからないが、そこには花火師たちのたゆまぬ技術革新があるのだろう。そして、私はそれらの花火を見ていて、感嘆の声を挙げると同時に「花火の行く末」について思いを巡らしたのであった。
今後、こうした花火師たちの技術が高まるにつれ、表現能力は一段と増し、「犬」や「果物」だけでなく様々なものを打ち上げ花火として表現することができるだろう。そしてその中で、花火の方向性というものも大きく変容していくように思うのである。例えば、現状、打ち上げ花火は老若男女にもわかりやすいピースフルでハッピーなものばかりであるが、今後においてはその価値観が逆転。人間の暗部を映し出す「シリアスな花火」が世の中を席巻することも考えられる。というのも、近年の映画界では人気のシリーズものにおいて、それまでのエンターテイメント重視のものからシリアス路線に舵を取って大成功しているものが多くある。これは人々が既存のフォーマットからの脱却を望んでいたということであり、これは花火においても同様。これまでの人生の中でエンターテイメント要素の強い花火ばかり見てきた私たちは、心のどこかで人々の心の片隅に暗い影を落とすビターな花火を求めているかもしれない。
仮に、「シリアスな花火大会」が開催された場合、それはどのようなものになるのだろうか。まず、構成を考える上で大事なものとしては、盛り上げ方。基本的に、序盤は軽めのものを打ち上げ、その後、徐々に過激さを増していき、最終的には大花火を乱発。ビジュアル、音などで多角的に観客を圧倒させるのが花火の常套手段である。その流れに準じてシリアスな花火を打ち上げるとするならば、序盤は「へそくり」、「iPhoneの画面割れ」、「大量得点差での盗塁」あたりの軽めの花火が良いだろう。ここで多少ユーモラスなものを混ぜることで子供大人問わず笑みがこぼれることは間違いない。
しかし、そこからシリアスさはギアを上げていく。「所得隠し」、「人種差別」、「株価ストップ安」の花火を経た後に、最終的には「一票の格差」、「富の分配」、「半月板損傷」と怒涛のようにシリアスな花火が乱発されるのである。実際、ビニールシートを広げて夜空を見上げる人々の顔は、断罪される罪人のような顔をしている。彼らはたまらず缶ビールに口を付け、苦虫を噛み潰したような顔でそれを流し込む。
そして花火大会の「締め」となるラストの大花火は、社会人にとって一番身近にあるシリアス、「始末書」の花火。よく澄んだ夏の夜空に始末書を模した大きな花火が打ちあがり、始末書が放つまばゆい光が地上にいる私たちの姿を明るく照らす。
その花火を見た少年少女たちは、始末書を指指して
「わ~、始末書だ~!」
という歓声を辺りに響かすのだろう。そしてそれに対して
「わあ、ほんとだ。始末書だね~」
と極めてにこやかに返答する父親たちの脳裏にはまだ上司に話していない数々の不祥事が浮かんでいることだろう。

【110】貧打

ここ数年、夢の中でヒットが打てない。
野球を習い始めた小学生の頃から現在に至るまで、私は何の因果か夢の中で打席に立たされていることがある。その夢は日々の睡眠の中で唐突に現れ、満員の観客がいるスタジアムの中で打席に立つ自分が、ピッチャーと一打席の勝負をするという不思議な夢。実際、野球を辞めてから随分と経つのにも関わらず、何故未だにそのような夢を見るのかはわからないが、私は見えざる存在に何かしらの期待を持って打席に立たせてもらっているのは確かなのだと思う。
初めてその夢を見た小学生の時、私はホームランを放った。とんでもなくでかい図体をした ピッチャーが投じたストレートをうまく捉え、打球を場外まで飛ばした。夢から醒めた時、あまりに嬉しくて母親にその夢のことを話したのを覚えている。そしてその後も夢を見るたびにファミスタのような軽いノリでホームランを量産した私であるが、自らが高校生になったあたりになると急激なスランプに陥った。バットを振ると自分だけスローモーションになって三振を喫したり、打球を放って一塁まで走っている途中に四肢が取れてアウトになったりした。そして、大学2年生の時に見逃し三振を喫してからこの夢を見る回数が極端に減少。そこからは数年に一回くらいお情けのように打席が与えられるようになったが、そこでもヒットを打つことができなかった。結果的に生涯打率は落ち込み、現在の打率は25分ほどになっている。現実を超越しているはずの夢の世界で25分。その結果は大いに不服であるし、このままの調子では夢の中の自分は戦力外としてチームを解雇されることも考えられる。
私は1人の観客として今後もこの打席を楽しみたいと思っている。そのため、夢の中の自分にもなんとか奮起を期待しているところであるが、夢の中の私はどうも危機感を持っているように見えないのである。実際、打席以外の夢の中での私は、素振りや走り込みをするわけでもなく、未だに高級車に乗ってヘラヘラしていたり、九州くらいの大きさのステーキに舌鼓を打っていたり、巨乳の女の子と遊んでいたりする。こういう正念場に努力を行わないのは現実の私そっくりだと思う。幸い、夢の中の私には、奥さんや小さな子供がいる訳ではないので、所属チームを解雇されたとしても家庭が崩壊することはない。ただ、戦力外通告を受けて職にあぶれた夢の中の私は間違いなくひもじい生活を余儀なくされるだろう。乗り回している高級車や住んでいる住宅のローンを払えず、売り払い、世の中を呪詛している様子が目に浮かぶ。私としてもせっかく眠りについたのに、自らが野草を食べている夢や物乞いをしている夢、ハローワークに通っている夢は見たくない。夢のある夢が見たいと思う。
そんな不安を抱いている折、先週の土曜日のことである。実に2年ぶりに私が打席に立つ夢を見たのであった。やや緊張した様子で打席に入っていた私は、黒人のピッチャーと対峙し、その初球、私は内野側観客席に飛び込もうかというファールフライを放った。すると、その打球をどこぞかから飛んで来た鳥がくわえ、そのまま外野席の向こうまで運んでいった。場外ホームラン。夢の中の私は一瞬戸惑ったのち、大喜びをしてダイヤモンドを回り始めた。
目が覚めて私は、あれほど欲しかった結果を手にしたことに安堵した。この様子だと、きっと近いうちに打席がまわってくるだろう。ただ、その時にまた結果を出せなければその先の保証はない。そのため彼には今後もヒットが打てるように地道な努力を重ねて欲しいと切に願うのだが、ホームランを放った次の日、夢の中で見かけた彼は、知らんおっさんに怒鳴られながらシチューを煮込み続けていた。

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