最近は夜中の時間になると借家を勢い良く飛び出し、自宅近辺をお散歩するのに興じているのだが、その道中、家から一番近い公園に差し掛かるとかなりの高頻度でガラの悪そうな若者の集団に出くわすのである。
彼らのほとんどは公園の街灯が照らす薄明りでもわかるほど頭髪を金色や茶髪に染めており、なにやら缶酎ハイを飲みながら、何1つ面白くないことを叫んでは頓狂な笑い声をあげている。しかも、今年の夏とあってはどこぞかのスーパーで購入してきた安花火に火を付け、しかも振り回したりするものだから辺りには行き場をなくした煙が充満。まるで舞台演出が施されたような公園の中を私は彼らに目もくれず歩き抜けるのである。
しかしまあ、私も大人である。秩序を乱している彼らに対していちいち目くじらを立てることはしない。きっと彼らはありあまる若気の熱量をどのように発散して良いのかわからないのだろう。ただ、年長者として彼らに対して物を申せるとすれば、彼らを横一列に並ばせた状態で前に立ち、一言「もっと俺を楽しませて欲しい」と伝えたい。
公共の場にいて他人が意識を向けるような声を上げたり動きをすることは、もはや若者各人の「遊び」という範疇を超え、周囲の人間への「パフォーマンス」としての一面を持っている。そういう視点で彼らの行動を見つめると、彼らは自覚がないかもしれないが、常に人様に何かを表現しているということである。せっかく元気が有り余る若者が雁首揃えているのにも関わらず、そこから生み出した集団芸が「酒を飲んで花火を振り回す」というのは発想が乏しく、いささかお粗末である。やはり、彼らにはパフォーマーであるという自覚を持ってもらい、通行人や地域住民を楽しませることを念頭に置いて欲しい。人数も揃っているのだからやろうと思えばなんでもできるはず。
例えば、私がいつもと同じように夜中に借家を飛び出して例の公園に差し掛かった時、公園の街灯が照らす薄明りの元で彼らがマグロの解体を行っていたら私はとても歓喜するだろう。人間、不意に訪れるマグロ解体ほど興奮するものはない。
彼らは束になってメルカリで落札したマグロ包丁を手に持ちマグロの解体にチャレンジしているのだろう。しかしながら、彼らは素人。マグロをどう解体して良いかよくわからない。そのため、スマートフォンでYouTubeにあるプロの解体の動画を見ながら見様見真似でマグロを解体していく。ただ、だからと言ってあのスピードで捌けるものではない。そのうち、傍らでずっと煙草を吸っている思慮の分別が付かなそうな女がしびれを切らして
「もっとやっちゃいなよお!」
と彼らをけしかけるのだろう。
そして最終時に、慣れないながらもマグロを解体し終わった時の彼らの表情には、花火を振り回している時よりも、ありありとした充実感が浮かんでいるに違いない。私は腕を組み、目を細めながら遠巻きに彼らの様子を眺めている。
ただ、私には1つの懸念がある。それは彼らが花火の燃え殻と同じようにマグロの塊をその場に放置するのではないかということ。ちゃんと解体したマグロは公園のごみ箱に捨てて欲しいと思うが、それは求めすぎだろうか。しかしながら、翌朝、ラジオ体操を行う少年少女の前で借家を飛び出した野良猫が美味しそうにマグロを喰らっている光景は見てみたい気がする。