日記

1990年生まれ。虚実入り混じっております。

2015年05月

【81】心の中の家探し

最近、かつての純真さを失い、大人になってしまった自分を実感して寂しくなることが非常に多い。例えばそのうちの1つとして「お菓子の家」というのがある。
「お菓子の家」、それは童話「ヘンゼルとグレーテル」の中で、ヘンゼルとグレーテルが森の中で見つける甘い甘いお菓子がふんだんに使われたあの家のことである。僕は幼少期、「ヘンゼルとグレーテル」の童話を親に読み聞かせしてもらった時に、その「お菓子の家」という存在に強い衝撃を受けた。もともとお菓子は大好物であったし、暇さえあれば母親におねだりしてお菓子を買って貰っていた僕にとって、お菓子でできた家というはまさしく夢の産物であり、同時に強い憧れを抱かせたのである。それからというもの、僕は常日頃からお菓子の家のことばかり考えるようになり、外壁はチョコレートにしよう。そして机はクッキーで…、などと自分なりのお菓子の家を考えては幸せな気分に浸っていたのである。ばかばかしい話だが、当時の僕はいつか自分がお菓子の家に住むということを夢見ていた。そんな今思えば、少しばかりこっぱずかしい思い出だが、「お菓子の家」、それは幼き頃の純真な心そのものであった。
それなのに今ではどうか。「お菓子の家」と聞いたところで前より強い興味は抱かなくなった。それよりむしろ、なんだか甘ったるそうだし、なにより太りそうだなというのが念頭に立ち、どうしても後ろ向きな感情が心を埋め尽くしてしまうのである。そもそも、こうした健康面を留意してしまうあたり、自らが大人になってしまったことを実感してとても悲しい気持ちになる。夢や希望を持てなくなった大人。これは僕が一番なりたくないと思っていたものである。
思えば、あの幼少期の頃の僕は毎日が新鮮で楽しいことばかりであった。それは心の中に「お菓子の家」というメルヘンがあったからだと思う。つまり、今の僕が夢も希望もなく日々をのうのうと過ごしているのは心の中に家がないからということになる。僕の心にはメルヘンが足りないのである。もしも、僕が心の中にメルヘンのある家を取り戻せば僕はまた幼少期のように生き生きとした毎日が取り戻せるのではないだろうか。
そのような気付きを得た僕は心の内に「お菓子の家」に変わる新しい家を持つことを決めた。
さて、問題は何で家を作るかだ。幼少期の僕における「お菓子」と同等なほど好きなもの、それは「つまみ」に違いない。毎日酒ばかり飲んで世の中の不平不満を言い並べている僕にとってはこれ以上ない建材。つまみの家。うん。これなら夢があるし、今の僕の身の丈に合ったストレスのない家ができそうだ。そして、数多くあるつまみの中で、健康に留意する僕でも一番ときめきそうな「つまみ」。それは「砂肝」であろう。亜鉛、鉄分、ナイアシンが豊富で、なおかつ低カロリー。そして僕自身、よく酒のあてにしているほど大好きな食べ物である。これならいける。砂肝だ。砂肝。砂肝がいい。
そうして僕は心の中に外壁、内壁、屋根等すべてが砂肝でできた家を思い浮かべた。僕は笑みを浮かべ「メルヘンだ」と呟いた。
こうして僕は新しい家、ひいてはメルヘンを手に入れた。明日から僕は夢や希望に満ち溢れた素敵な毎日が送れるに違いない。僕は小躍りして喜んだ。
という訳で僕は、新築祝いに祝杯をあげた。例の如く、コンビニに売られている味付けされた砂肝を冷蔵庫から取り出し、ビールを開けた。更には缶チューハイ、日本酒を飲んだ僕はそのうち泥酔。机に突っ伏して眠り込んでしまった。ただその時、僕は夢を見ていた。
そこではヘンゼルとグレーテルが森を彷徨っていた。そのうち、ヘンゼルとグレーテルは森の中に一軒の家を見つけ、近づいていくと、それはなんと砂肝でできた家だったのである。ヘンゼルとグレーテルは、「砂肝だっ…!」と大喜び。そこでその家の住人である僕が出てきて一緒に住まないかと持ち掛ける。そしてヘンゼルとグレーテルと僕の3人は砂肝ハウスでの共同生活が始まるのである。なんて素敵な生活だろうか。
「メルヘンだ」僕は寝言でそう呟いた。

【80】約束

また訳のわからない約束をしてしまった。
僕はお酒の席でハイになると余計なリップサービスをする癖があり、その結果よくわからない約束をすることがよくある。
先日。女友達と飲んでいた最中、「縄跳び」の話になったのだが、なんでもその女友達、小さい時から縄跳びが大得意で小学生の時には女の子であるにも関わらず、「二重跳び」や「はやぶさ」を男子顔負けの様子で跳んでいたらしいのである。普通、「はやぶさ」などは男の子でも跳べない子が大勢いるくらいなのに、女の子で跳んでいたなんていう話は生まれてこの方初めて聞いた。僕は驚きの表情を浮かべながらも嬉々として彼女の話す「縄跳び話」に耳を傾けていた。
実は、かく言う僕も「縄跳び」が大好きなのである。自慢ではないが、小学生の頃、地元の市が主催する「なわとびチャンピオン大会」の二重跳びの部で優勝した経験を持つほどの、言わばなわとび猛者なのである。ただ、小学生の時から周りになわとび猛者がいなかったために自身から溢れ出る「なわとび愛」を共有する相手がいなくて寂しい思いを抱え続けていたのである。しかし、今日はどうだ。目の前には自分とも負けず劣らずのなわとび愛に満ち溢れた人がいる上に、しかもそれが女の子だなんて!僕はもうその愛を共有できることが嬉しくて今までの鬱屈した思いも相まって気付いたら饒舌に自身が如何に縄跳びを好きであるかを熱弁していた。
そして、僕はその中で「三重跳び」の話をしたのだが、それに対して女の子は
「わたし、三重跳び見たことない」と反応したのである。
「え、ないの」
「うん。ない。跳べるの?」
「跳べる」
「見てみたい」
と、ここまで話が来て、調子に乗った僕はやめておけば良いのに、
「じゃあさ、今度の誕生日、三重跳びをプレゼントしてあげるよ。歳の数だけ」
などと口走っていた。口に出した瞬間、わちゃあ、また悪い癖が出てしまった、と思った。前述した通り、僕はお酒の席でハイになると余計なリップサービスをする癖があり、今回も相手が喜ばそうとするあまり、例に漏れず思い付きでリップサービスをかましてしまったのである。
しかも、だいたいにおいて、内容がめちゃくちゃである。「女の子の誕生日に歳の数だけ三重跳びをプレゼントする男」というのも文字面からしてやばい感じがひしひしと伝わってくるし、いくら笑いながら言っていたとはいえ、どう考えてもワインを傾けながら話すセリフではない。心底、気持ちが悪い。そして、その女の子は今年の6月で25歳になるのであって、つまり、僕は彼女の誕生月に彼女の前で25回連続の三重跳びをしなければならないということになる。過去の記憶を遡ってみても三重跳びをここまで跳んだという記憶はなく、そもそもにおいて、縄跳びなんてのは中学生以来跳んでない上、体型もふくよかになった現在において三重跳びを25回なんてのは狂気の沙汰に違いない。
これは今すぐにでも撤回しなければ、と思った時には時すでに遅かった。彼女は眼を爛々に輝かせており、「ほんと!」と喜んでいた。
もう引き下がれない。と感じた僕は「そんなもんね、余裕よ、余裕」と言ったのだが、口ぶりとは裏腹に、僕の脳内では、当日の様子が鮮明な映像として映し出されていた。そこに映る当日の僕は、三重跳びが2回くらいしかできなくて、妙な静けさに包まれる公園の中で、女友達に「ハッピーバースデー」と呟いていた。最悪な休日。これではあまりに情けない。というか死にたい。
そして話の結果、刑の執行は6月の上旬に執り行われることになった。罪人である僕は手帳を取り出し、6月の1週目の土曜日の欄に、震える字で「三重跳び 25回」と書き記した。
翌日、僕は起きるや否やスポーツ用品店へと直行。「一番高級な「なわとび」をください」と店員に直訴した挙句、1000円を超えるなわとびを購入した。そしてそれからというもの、僕は時間を見つけては縄跳びの練習に勤しんでいる。今日に至っては、家の前の路上でサッカーボールを蹴り蹴り遊んでた子供が、同じく路上で苦悶の表情を浮かべながら三重跳びに勤しんでいる24歳の姿を呆然と立ち尽くして不思議そうに眺めていた。少年は何も言わなかったが、きっとただならぬ空気を察して「僕は立派な大人になろう」と思っていたに違いない。
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