休日に、時たま僕は外に出掛けて、何をするかと言えば何もすることはなく、ただただ無表情のまま電車を乗り継いで思い付きで決めた知らない街で降りる。そして、全くと言ってよいほど馴染みのない街の中を1人で散歩するのが好きなのであるが、その散歩の道中、神社を見つけると僕は毎度の如くふらふらと境内に入り、導かれるように賽銭箱の前まで辿りつくと、唐突に、首が取れるかと思うほど勢いよく鐘を鳴らし、財布の中にあった5円玉を賽銭箱に放り込んで願いをかけるのである。ちなみに、その願いなんてものは、非常に取るに足らないくだらないものであり、例えば、「女の子と遊びたい」だとか、「モテたい」だとか、「スローカーブを低めに集めて打たせて取るピッチングがしたい」といった、実にバカらしい、思春期の猿同然の欲求を大真面目な顔をして拝み倒すのである。
こうして神社に出向き、本殿に向かって自らの肉欲にまみれたお願いをするだけで、心の中がすっきりとデトックスされるのを感じる。それは、自らの心のうちに抱えた下品な欲望を自分ではない誰かにカミングアウトしたというすっきり感でもあるように思うし、例え、その欲望がどんなに無理難題であったとしても、お人よしの神様がそれを嫌な顔1つ見せずに叶えてくれるはずだという希望がそうさせるのかもしれない。
という訳で、今日とて僕は、知らない街の神社に入り、いつも通り賽銭箱に5円玉を放り込むと、懲りることなく猿同然の願い事をした。そしていつも通り、心がすかっとしてすがすがしい気分になった僕は猿同然の笑みを湛えながら神社を立ち去ろうとした。
が、その時、不思議なことに晴れ晴れとしていたはずの僕の胸中に何かいつもとは違う暗い感情が押し寄せて来るのを感じたのである。それはまるで、悪いことをした時に感じるような何とも言いようのないどんよりとした罪悪感や焦燥感であり、それはものすごい勢いで僕の心を覆い尽くした。僕は何故、神聖であるはずのお参りをしてこのような気持ちになるのか理解できなかったため、ふと歩みを止めると、自身の胸に手を当てて少しばかりその不安の根源について考えてみた。自らの感じる違和感を遡っていくと、ある一つの重大な事実に気付いたのである。
5円って少ない」
これが僕を不安足らしめる要因であった。
僕たちは一年を通して何度も神社に出向き、その度に神様に対して自らの願い事を告白、そしてそれを叶えてもらおうとするのだが、いくらなんでもそのお願いをするにあたって発生する神様への依頼料がたったの5円だけなんてのはいくらこのご時世が不景気だとは言え、あまりにもふざけた金額設定であると感じたのである。だって考えても見て欲しい。僕たちが普段行っている「お参り」を冷静に顧みてみると、「ご縁(5)がありますように」などという、理不尽極まりないくだらない駄洒落を理由に、願いを叶えてもらうために投じる5円玉1つが、さも願いを叶えてもらう適正な対価でもあるかのように嘯き、さらには神様からの、「できる」、「できない」、ましてや「金額交渉」などにも一切耳を傾けず、「彼女が欲しい」、「子供が欲しい」、「万事うまくいきますように」といった無理難題を一方的に押し付けた挙句、5円玉を乱暴に投げつけ、「金は渡したんだから仕事は忠実に頼むよ」とプレッシャーを与えてその場を立ち去るのである。
冷静に考えると、僕たち人間は悪魔のようだ。そこには暴力的な圧力が内在しており、それはまるでメーカーにおける下請けと元請けの力関係に近いものを感じる。しかし、御存じのとおり、神様は僕らの下請けではない。むしろ、元請けに近いはずだ。それなのに僕たち人間は悪魔のような微笑を浮かべながら、交渉すらせずに値段を安く叩き、何も言わない神様を良いことに、無理難題を押し付け立ち去るようないじめに興じているのである。
僕はこの「お参り」というシステムが、人間の業の深さ、そして人間が如何に独善的であるかを証明するものであることに気付かされ、今まで当たり前だと感じていた「常識」が音を立てて崩れ去っていくのを感じた。その時感じた寒々しさと言えば、真夏の炎天下にありながら、身震いするほどのものであった。
ただしかし、今まで微塵にも気に留めなかった神様のことを思うと、加害者でありながら不憫な思いがする。割に合わない金額で次から次へと大業な願いごとばかりを言い渡され続け、その願い事を叶えるために寝る間も惜しんで仕事に没頭しなければならないのである。特に、神様の世界は完全なる成果主義であり、もしも、願いを叶えることができなければ、「この神社はご利益がない」などと人々に蔑まれ、神社への人手が遠のいて上司である住職から大目玉を食らうのである。しかもこの問題のもっと根深いところは、僕らが賽銭箱に投じたそのたったわずかな5円ですら、結局はその寺の住職がせしめてしまうのであり、詰まるところ、神様には1円も渡らないことである。神様は日夜、無給でありながら馬車馬のように私たちの願いを叶え続けているのである。
果たして、神様は健全な生活できているのだろうか。住む家があって、毎日バランスの良い食事が取れているのだろうか。僕は、神様が人も寝静まる深夜、ネットカフェに転がり込み、パソコン放つブルーライトを頼りにドリンクバーの野菜ジュースを無表情で飲んでいる様を想像した。神様の目には光がなく、プラスチックのような目をしていた。神様はそのような労働環境にありながら何を思うのであろうか。僕なんかは、そうした環境にありながら仕事を放棄せずにやり遂げようとする神様の仕事の姿勢には、一社会人として頭が下がる思いがする。とはいえ、このままそうした劣悪な労働環境が続くようであれば、神様が栄養失調で倒れたり、うつ病になるということも大いにあるのであり、そうでもなれば僕の「女の子と遊びたい」だとか、「モテたい」だとか、「スローカーブを低めに集めて打たせて取るピッチングがしたい」といった、実にバカらしい、思春期の猿同然の欲求は叶えられないことになり、それでは今度は僕が気を病んでしまう。
という訳で、僕は現状無給で働かされている神様に対して、しっかりと仕事相応の対価を支払うように世の中を変革しなければならないと思うのである。ではどうするのかと言えば、僕はこの「お参り」というシステムに「フェアトレード」という概念を導入するべきだと考える。
フェアトレードとは、発展途上国の原料や製品を先進国が安く買い叩くのではなく、適正な価格で継続的に購入することによって立場の弱い途上国の生産者や労働者の生活改善と自立を目指す運動のことを指す。例えば、アフリカでチョコレートの原料となるカカオ豆を生産している現地民に対して、頻繁に乱高下する国際市場価格とは別に、フェアトレード価格として高水準の価格で持続的にカカオ豆を購入することで生産者の生活向上を図ることがその一例とされる。現状、神様の労働環境は途上国の労働者と同等であり、労働の対価が安く叩かれているがために、ひもじい生活を余儀なくされている。
まず、フェアトレードを実現するためには、私たちの賽銭金額のアップを図るべきであろう。今までの5円などと言う人間の陰湿さの権化のようなちまちました金額ではなく、正当な価格、僕なんかは3万円くらいが妥当だと考える。更には、その支払い方法についても注意が必要である。今まで通り、賽銭箱にお金を投入するスタイルでは、住職にそのお金のすべてを持っていかれる可能性があるため、こうした露骨な中間マージンを取られないように神様と直接金額取引をすることが望まれる。そのため、僕たちは神様の預金口座の番号を教えてもらって、神社ではなく銀行に出向き、口座に直接、賽銭するのがいいだろう。
こうすることによって、神様は飛躍的な収入アップが実現でき、安定した生活も手に入れることができる。そうして神様が精神的にも安定することによって人々の押し付ける無理難題を叶えようとする意欲も以前と比べ著しく向上するのではないだろうか。
そして一方の僕たちはと言えば、神社に行くことはなくなり、新年に至っては、銀行のATMの前に参拝のおびただしいほどの長蛇の列ができるのだろう。皆、思い思いにATMを操作し神様の口座番号を入力すると、大きく口を開けた投入口に3万円を投入する。そして、それらのお金が機械の中に飲み込まれていくのを確認した後、僕らはATMに向かって二礼・二拍手・一礼をして願いを申し込むのである。
参拝を済ました人々は、猿同然の笑みを湛えながら銀行を立ち去ろうとする。ただ、その時人々は気付いてしまうのである。数百円もの振込手数料が搾取されていることに。彼らは、地団太踏み踏み悔しさを露わにする。何故なら、神様は5円玉1つでも僕たちの願いを叶えてくれたと言うのに、ATMの手数料は、何1つとして僕たちの願いを叶えてくれないためである。銀行を出た人々は例に漏れず笑みを失い、呆然と虚空を見つめている。
除夜の鐘が鳴り響く新年の夜更けに、ぎりぎりとした人間たちの歯ぎしりの音が聞こえる。
それはひどく悲しいことだと思う。