日記

1990年生まれ。虚実入り混じっております。

2016年10月

【93】代打の切り札

休日の昼間に僕はテレビの前でお酒を飲みながらプロ野球中継に興じていたのである。
画面の中では、「赤」と「青」といった対照的な色合いのユニフォームを着たチーム同士が日本シリーズ進出をかけて総力戦を繰り広げていた。その試合の様子はどちらのチームも贔屓でない僕であっても手に汗握るほどであり、テーブルの上に積まれるビールの空き缶は回を重ねるごとに増えていったのである。
試合は9回裏を迎えても均衡したままであった。しかしながら、攻撃側に回る赤いユニフォームのチームがフォアボールを足掛かりとして、結果として2死ながらも3塁にランナーを置く絶好のサヨナラのチャンスを演出したのである。球場は異常なまでの盛り上がりを見せて、その異様な雰囲気はアルプスのみならずグラウンドまで伝播しているようだった。マウンドに上がる青いユニフォームの守護神は帽子を取り自らのユニフォームで汗を拭っている。
そのうち中継カメラは、赤いユニフォームのチームの監督を映した。監督は颯爽とベンチから出てくると、なにやら球審に近づいていき何事かを耳打ちしたのである。その後、主審がウグイス嬢や記録員がいるキャッチャー後方のブースに向かうと、ウグイス嬢が代打の選手の名前をコールした。そしてバックスクリーンに映る選手名がくるくる回転して代打の名前を映すと、球場は更なる盛り上がりを見せた。その選手は「代打の切り札」であった。
彼は、観衆からの声援を背にベンチから出てくると、ガムを噛みながらゆったりとした足取りでバッターボックスまで向かった。そして彼は打席に立つとバットを高く掲げてピッチャーに対して鋭い眼光を向けた。
とてつもない緊張感であった。この大一番、球場もしくはテレビの前で観戦している全国のプロ野球好事家たちはきっと手に汗握りながら思い思いの言葉を吐いたことだろう。当然、例に漏れず好事家の一人である僕はビールの缶を握りしめながらこう叫んだ。
「僕も仕事中にガムが食べたい」
さて、社会人たるもの、仕事中にガムを噛むなんてことが憚れる場面が非常に多い。雑多な社会的な制約の元、人々はガムを噛むことなく労働力を発散しているのである。しかしながら、多くの国民が注目している状況においてこの代打の切り札はガムを噛んでいるのである。しかも、観客らは仕事中にガムを噛んでいることに対して怒ることもせず、それどころか熱い声援を送っているのである。僕は心底羨ましいと思った。心のうちから憧れとでもいうような感情が溢れて心底は水浸しになった。
思えば、数あるスポーツの中でガムを噛みながらできるスポーツはなかなかない。もちろん、武道などでは御法度であるし、水泳ではガムを噛む暇などない。強いて挙げるとすれば野球、サッカー、その他少しの団体競技くらいであろうか。特にその中でもプロ野球はテレビ中継も多いし、私たちが実際に彼らのガムを噛む姿を目の当たりにすることが多くある。ただそれは、同じ野球と言えどもアマチュア野球ではほとんど見られず、例えば高校野球ではガムを噛むことは許されていないのである。ガムを噛むこと。それはプロ野球にだけ許された特別な特権なのである。
そんなことを考えているうち、僕ははっとした。もしかして高校球児やアマチュア野球人たちが一生懸命頑張って、血眼になりながらプロ野球選手を目指すのは、仕事中にガムを食べたいからではないだろうか。だとしたらアスリートとはまるで無縁の貧相な体をしている僕も初めて彼らとわかりあえる気がするのである。
契約金で大きなスポーツカーを買って、高い年俸で美味しいものを食べ、仕事中にガムを食べる。やっぱりプロの世界は華々しい。そもそも観客がこんなに歓声を上げているのは、仕事中にガムを噛んでいる状況に興奮しているのではないか。プロの選手は私たち一般人ができないことを易々とやってのける。そこに人々は歓喜、熱狂する。それがプロスポーツ観戦の醍醐味である。
結局、代打の切り札は一度もバットを振ることなく、相手チームによるワイルドピッチによってサードランナーが生還して試合が終わった。赤いユニフォームを着たチームの面々が続々とグラウンドに流れ込んできて、半狂乱になりながらその現状を伝える実況の甲高い声を最後に僕はテレビを消した。
突如訪れた静寂の中、泥酔した僕はリモコンを置き、のそっとベッドに入るとそのまま眠りに落ちて夢を見た。
それは、筋骨隆々の外人選手が顔を紅潮させながら、ぷーっと風船ガムを膨らまして東京ドームを作ろうとしている夢であった。
正夢になれば良いと思った。

【92】レストランのトイレにて

交際者とのデート中に立ち寄ったレストランのトイレの扉の前で僕がしばし放心していたのは決して漏らしたからではない。
僕の前に佇むトイレの扉は、高級店の名に恥じぬほど重厚なものであり、男性用トイレで見かける男性マークのその下には「Gentlemen」などと書いてあるのであった。ジェントルメン、すなわち紳士である。僕はそれを眺めながら、やはりこういうところのトイレは安居酒屋に掲げられているような「殿方」といったものではなく、そういった細部の所までレストランとして一貫した世界観を保持しているのだなあと感心したのである。そして僕はこうした非日常感に満足した表情を浮かべながら、扉に手を掛けて中に入ろうとした折、こんなことを思ったのである。
「僕はジェントルマンではない」
それから数秒の間、僕は動きを止めて沈黙していた。その間、加点法、減点法、AO入試など様々な方法で自らがジェントルマンであることを証明しようとしたがそれは土台無理な話であった。僕はどう贔屓目に見ても紳士ではなかったのである。つまりは、このトイレに入る資格がないということになり、ここで糞尿を垂れ流さなければならないということである。
あんまりだと思った。悔しさに顔を歪め、天を仰いだ。まさかデートの最中、こんな事態に陥るとは思わなかった。そうしてしばらく沈黙を続けているうち僕は、はっとしたのである。これは、「踏絵」だ。何故なら、本物のジェントルマンであればそのような後ろめたさを微塵にも思わず、スマートにこの扉を開けるだろう。しかしながら、ためらいの気持ちを持ってしまって扉を開けられない僕の姿は、キリストが描かれた踏絵を前にふるふる震えている隠れキリシタンと一緒であり、自らがジェントルマンではないということを周りに喧伝しているのである。
負け惜しみではないが、例えば、トイレの扉に「Gentlemen」ではなく、「腐れ外道」と書かれていたら僕は満面の笑みを湛えてトイレの扉を開けるのに。
ただ、だからと言ってこのままトイレに入らず自らがジェントルマンではない現状を呪詛しながら糞尿を垂れ流すのはジェントルマン以前に人間としてどうかと思うのである。そのため僕は当初の目的と勉強も兼ねて、中に入って用を足す真のジェントルマンの姿を確認してみたいと思った。きっとこの扉の向こうには経済的にも精神的にも成熟した紳士が極めて紳士的な佇まいで用を足しているに違いない。僕は扉にかける手に力を加えて勢いよく中に入った。
僕の目の飛び込んできた光景、それは酒に酔っぱらい、顔を紅潮させたアロハシャツを着たおっさんが勢いよく立ち小便器に向かって痰を吐いている姿であった。僕の脳裏に抱いていた紳士像は早々に打ち砕かれた。トイレの中にある紳士の国などなかったのである。僕は、かつて夢の国北朝鮮を目指し、帰国事業で海を渡った在日朝鮮人が直面した絶望を抱きながらそのおっさんを眺めていた。
しかしながら何故、このようなことが起きるのだろうか。僕が思うにそれは、人間それぞれが感じる自己評価と客観的評価との間に多大な乖離が発生しているからである。もしかしたらおっさんは自らのことをジェントルマンであると思っているのかもしれないが、僕が感じるにおっさんはジェントルマンではないと思う。果たしておっさんがジェントルマンであるのかどうかは判断の難しいところであり、素人の判断では手に負えない部分もある。そのため、プロの判断によってそこのところをきっちり仕分けしてほしいと思うのである。
そこで提案なのだが、トイレにコンシェルジュを付けたらどうだろうか。コンシェルジュがその場に訪れる様々な人に合ったトイレを案内するのである。例えば、僕が先ほどと同様、「Gentlemen」と書かれたトイレに入ろうとすると、コンシェルジュが後ろから僕の肩を叩き、にこやかな表情で「もしもし、あなたはこちらですよ」と言って、腐れ外道のトイレを案内するのである。僕は、「あっ、そうでしたね」と恥ずかしそうに笑いながらそのトイレに向かう。腐れ外道のトイレからは断続的にチェーンソーの駆動音が聞こえているが、僕は満面の笑みを湛えて扉を開ける。素敵ではないか。
と、そのようなことを考えていると、果たしておっさんはどのようなトイレなら似合うのだろうかと気になった。そしておっさんのことを再び見ていると、おっさんの着るアロハシャツの赤地に白のハイビスカス模様といった毒々しい色合いがまるでおっさんをヤバそうな外来生物のように見せていたので、とりあえず「危険外来生物」のトイレに案内してあげれば良いのではないかと思った。

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