読書感想文2017

藤子・F・不二雄の『ある日……』という漫画(小学館文庫『パラレル同窓会』所収)の感想文です。


『ある日……』はこんな作品。



(以下、結末まで書くので注意)



とあるシネサークルの第一回映写会に四人の男が集まって、それぞれ持ち寄った自主製作の8ミリフィルムをくじで決めた順に上映していく。


一人目の作品は『世界を駆ける男』というタイトルで、男が自宅からスタートして、ジョギングで世界各地を走り回って帰ってくる映像。仕事で海外に行くたびにランニングに着替えて撮りため、それらを繋げて作成したらしい。

二人目の作品は、自宅の窓から見える街の様子を固定カメラで八年間撮影しつづけ、五秒で一か月が経過するよう早回しで八分の映像に凝縮したという、何とも気の長い大作。

三人目は打って変わってアニメーション作品で、『STARWALK』というタイトルからして開き直ったパロディ。ストームトルーパーそのまんまな主人公が、広大な宇宙船の中を散々たらい回しにされて走り回るというコミカルな内容。

感嘆してしまうものもあれば笑えるものもあり、お互いの作品を寸評しあい、盛り上がる三人。


しかしそれらの映像に、それまでずっと黙り込んでいた男が「つまらんです」と呟く。彼は佐久間という名前で、サークルの四人目。

どこがつまらないのかと問われ、佐久間はこんなことを言う。


「どれもこれもつまらない。作家の主張が何もない。問題意識のかけらも見当たらない! ひま人の遊びにすぎない!!」


ひま人の遊びで悪いか! と険悪な雰囲気になりかけるものの、ともあれまずは彼の“問題意識とやらにあふれる作品”を鑑賞することになる。

上映の準備をする佐久間。

「これはですね、現代の我われが置かれている状況、戦りつすべき状況をズバリ描いた映画です」


そして映像が始まる。タイトルは『ある日……』。


通勤風景。

昼下がりの公園。

買い物に行く主婦。

遊ぶ子供達。

そんなものが映されていったかと思えば、

プツン…

と、唐突に画面がホワイトアウトし、そこで終了。


「これで終わり?」


どんな難解な作品かと身構えていた三人は、単なる試し撮りの生活スケッチのような内容に拍子抜け。

だが佐久間は彼らに向かって、「わかりませんか」と語りだす。

これは、ある日いきなり核戦争が始まって、小市民の生活が一瞬で消滅したという結末である、と。


「唐突すぎる。」

「伏線もないし…」

「説得力ないね。」



失笑する三人に向かって、佐久間は声を荒げる。


「あんた達だってしってるはずだ。世界を何度も焼き尽くすに充分な核ミサイル網が、今、この瞬間に発射可能な状態で世界中に配置されてるのを!!

「ある日」は唐突にやってくる。

「伏線」など張る暇もなく、

「説得力」のある破壊なんてあるものか。

「ある日」がいつくるか……今日にも……」




プツン…



……





……と、いう内容です。


いかがでしたか?(キュレーションサイトの記事の最後らへんに絶対ある一文)


文章だとわかりにくいかもしれませんが、佐久間の演説の途中で真っ白なコマが差し挟まれて突然終わるという、なかなか衝撃的な結末になっています。


さて、この漫画が言いたかったことはなんでしょう。


ネット上の感想を調べてみると、
「日常の危うさ、いつ破滅が訪れるかわからない恐ろしさを再確認した」
という意味のことを書いている人がほとんどでした。


この漫画は1982年という冷戦まっただ中に発表されたものだそうですが、今の世の中にとっても「明日、世界があるかどうか」「この日々はいつ壊れるかわからない」という題目は、決して現実味のないものではありません。

破滅の恐怖はこの作品の主旨でありメインテーマですし、F先生が表現したかった内容は普遍的で錆びついたりすることもなく、描かれてから三十年が経った今の読者にもしっかり届いているのだと言っていいでしょう。


でもこの漫画、本当にそれだけなのでしょうか?


というわけで本題。


注目していただきたいのは、F先生の描いたこの漫画と、作中作である佐久間の撮影した映像が、どちらも『ある日……』というタイトルで、どちらも“不条理な破壊の恐ろしさ”をテーマに据えた作品であり、どちらも同じ結末(プツン…)を迎えるということ。


ですがこの二つの作品は、受け止められ方が違います。


見てみると、佐久間の演説を一笑に付して相手にしないシネサークルの三人を「平和ボケしていて大事な言葉に耳を貸さない人々」だと見なす方もいるようです。

ということは、佐久間が映画によって表現したかったことはしっかりと読者に伝わったのでしょうか?

そうではないと思います。彼ら三人は危機意識が低いとかではなく、あくまで映像に対して自然な反応をしただけです。

読者はメタレベルで見ているから佐久間の問題意識に同調もできるかもしれませんが、この映像を三人と同じ立場で見れば、まず「はあ?」としか思わないのではないでしょうか。


ともかく佐久間の映像を観終わった三人はしらけきっており、なんら心を動かされることもなければ、彼の言う主題について考えることなどしません。

映画『ある日……』は、娯楽性はもちろんのこと、見る者に自発的に何かを考えさせる力などないどころか、テーマについて作品の外で補足しなければ何も感じる所さえないような、きわめて独りよがりの作品です。

多少なりとも“考えさせられる”としても、それは彼の演説というか解説によってであって、映像がその説得力を裏打ちしているようなことは全くありません。切り取られた絵自体の面白みもなく、極端な言い方をしてしまえば作品としてはまるっきり無価値なのです。


一方で藤子先生の『ある日……』はどうでしょうか。

佐久間の映像は説明不足のために作者自身が一から十まで説明しなければいけませんでしたが、この漫画では彼を登場人物の一人とし、彼の語った内容をそのまま作中に組み込んでいます。

そして、失笑を誘った映画『ある日……』のホワイトアウトとはまるで違い、こちらは唐突な幕切れがしっかり読者にインパクトを与え、背筋のぞっとするような読後感によって“破壊”を強烈に表現した作品に仕上がっているのです。


上で書いたとおり、この二つはタイトル・テーマ・結末が同じ作品です。

では、ひとつは漫画でもうひとつは映画であるという点はさておくとして、両者の作品としての決定的な違いはどこにあるのか。


シネサークルの四人を襲った“破壊”は非常に唐突でインパクトの強いものですが、実は佐久間の映像の中で起こったそれとは違い、きっちり伏線が張られています。

もちろん飛んでくるミサイルなどといった直接的なものはここでも描かれません(そもそも彼らの世界を破壊したものが何だったのかはわからないままです)。

しかし、この漫画においては作中の「伏線など張るひまもなく」「説得力のある破壊なんてあるものか」という台詞がちゃんとオチの伏線になっています。これが不条理なエンディングに意味と必然性を持たせ、作品の強度を上げているのです。


映画『ある日……』は伏線のない破壊を描くべく作られた、その実は単なる無味乾燥な映像であり、“通常の作品の体を成していないこと”に意味を見出すという構造の意外性を除くと何も残らないつくりであるために、作品そのものの説得力までもが犠牲になっています。

漫画『ある日……』は一本の物語として楽しめるように作られ、その娯楽性への譲歩が文学性というか作品性を損なうこともなく、むしろ“唐突な破壊”の衝撃を効果的に演出しています。ここには作者が出しゃばる余地もありません。


これらを並べてどちらが優れているかと訊かれれば、ほとんどの人は後者を選ぶはず。

不条理を描くという意味において、佐久間の『ある日……』は失敗して(スベって)おり、F先生の『ある日……』は成功していると言えます。


ここに踏み込んで解釈するならば、漫画『ある日……』は、“フィクションの失敗例を提示したうえで、その作品の本来あるべき姿を描く”という構造をとった作品なのではないでしょうか。

つまり、確かにこれは核戦争の恐怖を描いたものなのですが、それだけでなく、メッセージ性や問題意識だけが先行して作られたいわば“頭でっかち”な作品への、F先生流のアイロニーが含まれている…という気がしました。

どうなんでしょうね。(どうなんでしょうねオチ)




↓『ある日……』はこの短編集に収録されています。





今回、改行しまくって重要なところを積極的に太字にしたら読みやすいかなと挑戦してみたんですが、こういうのはどこを強調したらよくなるとかちゃんと考えてやらないとだめだなと思いました。

おわり。

壊してしまえ

過去の自分に対してぞっとするほど冷たくなってしまう瞬間というのが誰にでもあると思う。

形は様々だろうけど、たとえば自分の場合、中学のころ音楽の掲示板にした痛い書き込みとか、つまらない詩のサイトとか、インターネット上に自分の抜け殻みたいなものが散らばっている。そんなのはまだかわいい方で、どうやっても美化できない、驕り高ぶった攻撃的な振る舞いだっていくらでもやってきた。

数年前の自分を今見ると、なんだこいつは、繊細な被害者みたいなつらをして、他者のセンスを否定することだけが生き甲斐なのか、どれどれ顔を見てやろう、って俺かい!てな感じになってしまうに違いない(なんだそりゃ)。そんな過去を笑って許せるようになるのはずっと先だろうし、許したら許したで、無責任じゃないかよ、という気もする。

自意識過剰かもしれないが、そんなどうしようもない自分の姿を、インターネットの向こうにいる誰かだったり、二度と会うことのない過去の知り合いとか、そういう人たちの頭の中から二度と回収できないことを思うと、ときどき気が遠くなる。

僕はもうそんなんじゃないんだ、と言って、みんなの目の前で昔の自分を殺してやりたいような気持ちにもなったりする。そんなことを考えながらやっぱり、自分が根っこから変わっているなどとは信じ切れない。というより、外から見れば表面的なことすら何ひとつ変わっていないかもしれない。
嫌だーーーーーーと思うんです。

前置きが長すぎる。





先日のコミックマーケット91で頒布されたピノキオピーの新作『Comic and Cosmic』。廃盤の過去作『漫画』と『遊星まっしらけ』を再ミックスして二枚組にし、ボーナストラックを2曲加えたものだ。ピノキオピーの曲はもともと音圧至上主義的というか良くも悪くも音作りがやかましいので、音量バランスがちょっと変わっただけでも結構印象が違って聞こえる。

で、その二枚組の片割れのCosmicこと『遊星まっしらけ』は、ピノキオピーで最初に聴いたアルバムであり、一気に引き込まれるきっかけとなった思い出深い作品で、いつか全曲きっちり感想書きたいのだけど、今はちょっとその勇気がない。
上に貼った動画はこの『遊星まっしらけ』のタイトルトラックであり、発表以来アルバムでしか聴けなかったのだが、今回の再ミックスにともない動画付きでアップロードされた。
今なら気軽に聴いてもらえるぞこの名曲を、というわけで、今回の記事を書くことにした。
とりあえず一回聴いてから下を読んでほしい。


「遊星まっしらけ」という曲はこんなフレーズから始まる。

最初はどんな生き物だったかな
進化の過程で失われた 尻尾があった


いきなりだけれどピノキオピーの書く詞には圧倒的なエンディング感がある。未来を見つめるというよりは、旅の終点に立ってそれまでの道のりを述懐しているような感じだ。
未来は漠然としているが、過去はつらいことも楽しいことも各々に比較的はっきりとした姿を持っている。それが美しいかどうかはともかく、未来に投げかけるものより過去に注がれる視線の方が、ずっと身近で一般化しやすいものなのは間違いない。

鳥になったり 蛇になったり
魚になったりする その度に
あの頃はどうかしていたのかな
なんてね


そして過去へのまなざしは優しくも冷たい。

花になったり 虫になったり
人になったりする 長い旅に
帰り道はもう無かったから


昔の自分はどんな生き物だったかと想いを馳せながらも、その過去に引き返すことはできないし、引き返したいとも思わないだろう。人になった自分は、鳥や花だったころの自分をどうかしていたと笑っている。
それが、

終わってしまった後の世界の果てで

ということなのだろう。
ここからは個人的な思い入れによるちょっと思い切った解釈になるが、ピノキオピーのこういう曲は聴き手個人に引き寄せられてこそ奥行きを持つものだと思うし、無難になぞって終わりにしてもわざわざ書いてる意味がないので、あくまで一つの読み方として記録しておきたい。
ここまで読んでもらっておいて何言ってんだという感じだけど。

能書きはともかく、この「世界」が「終わってしまった後」という言葉を僕は、今まで自分のいた場所がすでに無価値なものになってしまったという意味なのではないかと考える。
その理由はもちろん、歌われているとおりの「進化」である。自分の姿が以前とは変わったからこそ、これまでと同じ世界で同じように生きることはできなくなってしまったのだろう。

いったん話は逸れるが、ボーカロイドブームはすっかり落ち着いたように見える。
ボーカロイドを使った曲が上がってくればとりあえず聴いてみるというような熱心な人、良くも悪くもミーハーな人たちはたぶん、全盛期に比べて今ほとんど残っていないだろう。そのブームの渦中にいたピノキオピーは、人の、特にウェブでの人々の興味がいかに移ろいやすいものかを、当事者の実感とともによく知っているはずだ。
最近いろいろと新しいことに挑戦している彼の楽曲の動画を見ても、あきらかにリスナーがふるいにかけられているのを感じる。そのためか、上の動画はこれを書いている時点でなんと3万再生にも届いていない。これは既発表曲であることを差し引いても、過去作の伸び方からするとけっこう異常だ。

ともかく、「興味」についての思わしげな雰囲気は他の作品にもいくつか見られる。今回のアルバムでやはり再ミックスされ初めて正式に収録された「マンネリズム」(もともとLINE@の企画で配信されていたもの)という曲からも、そんな色を強く感じた。
きれいな虹が もうありきたりなんて」「大好きな日々が もうつまらないなんて」と自身の興味の寿命について寂しげに歌いながら、さらに「マンネリズムの第三ゲートで待ってて もういないかな」と、自分から離れていってしまう人に向けても語りかけている。すぐに何かに飽きて新しいものを探そうとする自分の気持ちと、飽きて去っていく誰かを引き留めようとする気持ち、そのふたつは矛盾しているかもしれないけれど、まとめて優しく織り込んでしまうのがほんとうにピノキオピーらしい。
(ちなみに、同じくアルバムの収録曲である「週刊少年バイバイ」でも、忙しなく容赦ない“観客”への痛切な心情が吐露されている。こっちも聴いてほしい)

気持ちが冷めるというのはある意味、とても恐ろしいことだ。何かに熱中していたころの自分を、飽きてしまったあとで思い返すと、なぜあんな何でもないことにのめり込んでいたのだろうと感じてしまうこともある。楽しかったはずの思い出を、振り返って馬鹿げていたなと否定しなければならないとき、すごく好きだったはずのものに、ある時ふと何の感動もわかなくなってしまったときに、この先も同じようなことの繰り返しなのかもしれないと思わされ、今の自分はなんなのだろうと怖くなったりする。

なにも作品や人、趣味についてだけでなく、冒頭で書いたように心や思想についてもそうだ。現在の自分が自分なりに信じていることを、五年後の自分は一笑に付しているかもしれない、だなんて考え始めると、それはひょっとして人生って、ものすごく腹立たしくて虚しいものなのではないか。

青春時代の僕も、どうせ数年後の自分は今とまるっきり違う人間であり、今の時代をあとあと「若気の至り」として思い返す気がして、それがなんとなく分かったうえで自由なふりして遊ばなくてはいけないのかと思うと、もう気持ち悪くて仕方なく、どうせ上から塗り替えられる壁に必死こいて絵を描いて何になるのかと、だいぶすねた気分になっていたのを覚えている。

それでも二人は宇宙を旅するのだ。

壊れちゃった後の地球の外へ
疑り深く生きのびた二人


さっき終点にいると書いたけれど、実際は、聴き手がそうであるように、やはりこの歌の主人公たちにもまだまだその先の物語がある。
このアルバムが発表されたとき、タイトルに冠したまっしらけのとおり「いっぺんクリアする」ことがテーマにあるとピノキオピーは書いていた。これまで積み重ねてきたものを一度すべて塵に返して、また新しい道を進み始める。終点の先とは、いわばリセットのあとの世界なのである。

しらけたふりして愛していた
ろくでもない世界を


二人は「疑り深」いからこそ旅に出た。地球にいるうちにいろいろなことが分かってきて、すべてが終わってしまったように感じても、そこが自分たちの行き着く最後の場所だなんてことは信じない。だから壊して、なかったことにする。
環境を変えても自分が変わらなければ何も変わらない、だなんて言葉があるが、それでも、むしろ自分が変わっていき進化してしまえばこそ、同じ場所に居続けることはできないのだ。終わってしまった、振り返れば「ろくでもない世界」だった過去を実は「しらけたふりして愛して」もいる二人だけれど、それでもすでに用事のない地球を後にしなくてはいけない。

次はどんな星を壊すのだろう
空を見下ろし 強がりながら
物悲しげに微笑むだけ


星を壊して去っていく傲慢な二人。だがそもそも彼らにとってそれは、最初から居場所を探す旅などではないのだ。どこかの星に降り立てば、またいつかそれを壊して出ていくことが分かっている。
同じ姿でいることのできない人間は、一つの場所に留まり続けることもできない。子どものようになにもかもを塵に返して、どこか新しい場所へ去っていきたくなる。

自嘲的に、ふっきれたように、「次はどんな星を壊すのだろう」と言う。
どれほど美しい星を見つけても、「進化」し続ける自分にとってあるとき突然それは無価値なものになって、恥ずかしくなって「あの頃はどうかしていたのかな」と思い返すことになる。宇宙をふらふら漂いながら、何度も過去のすべてを裏切って、どうせ同じことの虚しい繰り返しだと悟って微笑み、それでも新しい星を探そうとする強がりで、この歌はしめくくられている。

遊び疲れて馬鹿馬鹿しくなって恥ずかしくなれば全部ぶっ壊して、さっさと次の旅を続けたっていいのだ。
そして、この歌で「生き延びた」のは二人である。さっき「ふるいにかける」と言ったけれど、多くの人々を裏切ることになっても、必ず誰かがついてきて、決して一人きりの旅にはならないという救いが、さりげなく用意されているように感じた。


ピノキオピーはこれまで、「胸いっぱいのダメを」のような、否定の否定さえも否定してしまうとんでもない歌を発表し続け、そのたび聴いているこちらは、こんな一曲で完結しきったものを作ってしまったらその時点で終わりじゃないのか、次どうするつもりなんだ、と不安になった。

それでも何度でもその終わりの先に進んでいくピノキオピーが、今度はどんな進化を遂げ、どこへ着地しようとしているのか。是非あなたにも見届けていただきたい。(それっぽい締め方)


おわり。



12月23日

天皇誕生日なのでとんかつ好きな明仁さまに敬意を表して(こういう適当なこと書いてるとそのうち殺されますかね?)昼休みにとんかつ定食を食べようと思い、完全に松屋のパクリの松乃家というチェーン店に入った。
松屋と同じく券売機で食券を購入するのだが「プラス180円で味噌汁を豚汁に変更できます」という小さい張り紙がしてあるあたりどこまでも松屋のパクリだ。まつやとまつのやで名前も似てるし経営グループまでそっくりそのまま同じとあっては言い訳できない。こんなの最悪だと思います。
豚汁は温かくて素晴らしいから、豚汁が手に入るときに豚汁を手に入れないのは明らかに愚かしい。だがそれなりのとんかつ定食がワンコインで食べられるありがたさが売りなのに、680円というどう見ても500円の2倍はある額に変えてまで豚汁をすする価値はあるだろうか。しかも味噌汁は無くなる。騙されてはいけない。180円で豚汁を買っているように思わされるが、味噌汁を返して豚汁を受け取るわけで店側はさりげなくその味噌汁の料金を計算から外している。壺算である。卑劣すぎる。
こんな卑怯な店に680円も払うくらいなら他へ行って良心的な値段のラーメンを食べるかコンビニで野原ひろし 昼メシの流儀を買って読んだ方がマシな気もしたが、店員が「お前は一生このような手段でしか幸せになれない」とみんなに聞こえるように言ってきたのでばつが悪くなって結局とんかつ定食に豚汁をつけた。
運ばれてきてみると豚と豚の汁だということに気づいて急に気分が悪くなってくる。そしてお盆の上に割引券が一枚載っている。次回以降お使いくださいというやつ。食券制の店は本来、店に入ってすぐ料金を支払ったらそれ以降二度と財布を出す必要はないはずなのに、こうやって食事と一緒に券を運んでくるからそれをしまうためだけにもう一度カバンから財布を出さないといけない。レシートの端っこを割引券として使えるとかそういうスマートな感じにはなりませんか?ただまあ別にこの件に関してはなんとも思ってないし、僕はこの世のあらゆる事に対してなんとも思ってないです。
実際食べてから5時間経ってるしとんかつの味はよく覚えてないけどキャベツがいまいちだったので次回は味噌汁ではなくキャベツを豚汁に変えてみます。僕自身も豚汁に変えます。いっそみんな豚汁になってしまえばいい。豚汁最高!!おわりです。(人生が)


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