反出生主義とは、その名の通り出生への反対を掲げる思想である。
ここ数年の間、インターネットを介してジワジワと広まり、近頃では掲示板やSNS等で話題になることもある。恐らくは以前からこの思想に傾倒していたが、括りとなる名称を知らなかった者らに伝わり出したのだと思う。とはいえこの思想自体は遙か昔から存在し、18世紀~19世紀に活動した高名な哲学者であるアルトゥル・ショーペンハウアーが同様の考え方を提唱している他、古くは旧約聖書にまで
既に死んだ人を、幸いだと言おう。
更に生きて行かなければならない人よりは幸いだ。
いや、その両者よりも幸福なのは、生まれて来なかった者だ。
太陽の下に起こる悪い業を見ていないのだから。 

旧約聖書 コヘレトの言葉 4:1-3
といった一節が存在するため、時代を問わず一定数の人々はこういった思考に行き着いていたのだろう。

かくいう私も反出生主義者であり、この主義に関するネット上の議論を覗くことが多い。
その中で、反論と言うにはあまりにも粗末な気もするが、頻繁に目にした反論はというと、

「結局は、人生における敗者だから、この主義を提唱するのではないか」

というものである。この場に書くにあたってある程度言葉を整えたが、これを罵詈雑言やレッテルと共に吐き捨てる者も多かった。勿論、非常に気分を害するものだったのだが、正直に言って、それは恐らく正しいと思っている。私が容姿端麗、頭脳明晰、環境や遺伝にも恵まれた人間であったなら、恐らくはこの主義には出会っていないだろう。しかしそれはあくまで表裏一体であり、今現在幸福な人間も真逆の立場であればこの主義に出会う可能性が高いという意味で、意味の無いことである。
問題はこの思想の内容や正当性であって、それ以外のことは関係ないのだ。
 

個人レベルの反出生主義

反出生主義を一個人レベルで話すのであれば、
  • 生まれることに関して、子供の選択権が無い
  • 親が責任を取ることが出来ない
これらが議題の中心になるのではないかと思う。
子供には拒否権も無く、有無を言うことも出来ないままこの世界へと引きずり出されるが、
それにも関わらず自らの意思でこの世界を出ることは苦痛や恐怖が生じるため非常に難しく、尚且つ良からぬこととされる。まるで“入場がタダ”だからと、半ば無理やり遊園地に入場させられたが、いざ出ようと出口に向かうと“退場料”として膨大な額を請求された…みたいな。幼稚で申し訳ない。
そういえば海外の反出生主義フォーラムにも出生を例えた投稿があった。奇しくも遊園地という通ずる部分があるのだが、
遊園地に大きなジェットコースターがあったとする。このコースターは信頼性に欠け、どの走行でも損壊や脱線の危険性がある。さて、親が子供をこのコースターに乗せるところを想像してみてほしい。無論、大部分の子供達は楽しむかもしれないが、いくらかの子供達は酷い大怪我を負ってしまうだろう。この場合一部楽しんでいる人々の為にこのコースターの稼働を許すよりは、罪のない人々が怪我を負うことの無いようにこのコースターを完全にシャットダウンすることの方が倫理的で、遥かに優先されるべきことなのでは無いだろうか?
この比喩は面白いと思った。確かに、この世に生を受けた子供達の何%かは確実に事件、事故、病気、怪我、虐待、イジメといった事象に巻き込まれる。それを知ってて生み出すのは、ある割合で確実に事故が起こるジェットコースターに乗せることと同じようなことかもしれない。
悲しいことに親の殆どがその事実を知っているが、誰もが「自分の子供には起こるまい」と目を背けて子供を生み出してしまう。そう考えると、よく報道されている「子供の難病手術、渡航費用の募金」や「イジメ被害者の両親が学校を提訴」といったニュースにはゲンナリしてしまうものだ。
こういった親が悪だとは言わないが、あまりにも他人任せのように感じる。まず、子供を作る前に必ず向き合わなければならないことはこの世が無情なのは避けようがない事実だということ。
そして親が子供の痛みを肩代わりすることは絶対に叶わない。生み出した後に出来ることは、ありとあらゆるネガティブな状況を想定し、全力でそれらの回避に尽力することのみなのである。
 

人類レベルの反出生主義

もしも反出生主義を全人類レベルで話すのであれば、重要なのは人類を存続させることに意味があるのかどうかという部分だろう。かつて恐竜は人類の歴史より遙かに長い2億年近くもの間地球で繁栄し続けたが、何かしらの要因によって絶滅に至った。人間を含めたあらゆる生命体が弱肉強食の殺し合いをしながら果てしなく存続した末、恐竜と同じように破滅することを考えると、この時間は何とも無意味で残酷な悲劇の途中経過なのかもしれない。仮に運良く他惑星に移住でもして破滅を免れても、いずれ終わりが来るのだろう。そうして存続する意味が無いと考えた場合、過去から現代までのこの世全ての犠牲が水泡に帰することになる。極端な例になるが、私は女子高生コンクリート詰め殺人事件が起こらないのならば、それだけの為に地球が存在しないよう過去を書き換えても良いと思っている。最終的に意味や見返りが無いのにも関わらず不幸を生み出しながら存続し続けるのは極めてバカバカしいことなのではないか。

幸福と不幸

反出生主義が説明される際に良く使われる言葉として、不幸や幸福、または痛みと快楽といったものがある。人生では間違い無く幸福(快楽)より不幸(痛み)の方が多いといった記述を目にすることは多い。しかし実際のところは幸福や不幸を数値化することは不可能なため、誰もこれらを証明することが出来ないのである。また、不幸な人間か、幸福な人間かというのは流動的であり、人生のどの部分を切り取るかで大きく変わる場合もあり、非常にややこしくなってしまう。

これらの問題に対し私が思うのは、主観での幸福や不幸といったものは全く意味が無いのではないかということ。人間は環境というものに洗脳されており、虐待されて歪に育っても幸福だと感じる人間は存在するし、戦争で国の為に死ぬことを不幸だと思わない人間も居る。街に居る多数の不良や非行少年達もそうかもしれない。ドラッグに溺れる者も主観では幸せであるかもしれない。
世の中には、客観的または平均的に見れば不幸、または幸福でも、その環境に長く浸かるあまり本人は不幸や幸福と認識していないというケースが非常に多い。正直に言ってこれらを論理的に幸か不幸か判断するのは不可能に思う。不幸と幸福には基準が存在しないのだから。
ただ、唯一確かなことは、「万人に訪れ、万人が幸せだと感じること」というのはこの世に存在しないということ。逆に、「万人に訪れ、万人が不幸だと感じること」というのは思いの外多い。死、老化、病、怪我…、これらに関しては主観は関係無いだろう。この二つを考えると、やはり生まれないことが優位になるのかもしれない。万人に保証されている不幸があるのに対し、幸福は無いのである。

人格の形成

ついでではあるが、なかなかに面白い話があるので書いておこうかと思う。
先日イギリスの科学ジャーナリスト、マット・リドレーによる著書『やわらかな遺伝子』を読んだ。
この本は人間を形成する要素が生まれ(遺伝)なのか、環境なのかという、いわゆる「氏か育ちか論争」を扱ったもの。
個人的に、日常でこのような話題を扱う際には、遺伝というよりは環境が先行しがちだと思う。
病気や体質などは遺伝のせいにされても、人格などは育ってきた環境のせいにされることが非常に多い。しかしこの本によると、性格にも遺伝性があるらしく、更に以下の記述があった。
活性の高いMAOA遺伝子をもつ者と活性の低いMAOA遺伝子をもつ者とに分けたところ、驚いたことに、前者に属する男の子は、虐待の影響をほとんど受けなかったのである。彼らは、幼いころ虐待されていても、あまり問題を起こさなかった。
一方、後のグループの男の子は、虐待された経験があるとひどく反社会的になった。MAOAの活性が低くて虐待を受けた男の子は、四倍も多くレイプや強盗や暴行に手を染めたのである。しかし虐待されていなければ、むしろ平均よりわずかに反社会的な性向が弱かった。
要するに、犯罪は遺伝の影響も受けるかもしれないということ。この他にも、“養子に出された子どもは、育ての親よりはるかに生みの親に似た犯罪歴をたどる”といったデータもあった。やわらかな遺伝子はおおよそ10年以上前の書籍のため、最新の研究に関してはあまり分からないが、
最近このようなニュース記事が出ている。記事によると、“性犯罪歴のある人物の実の子どもが性犯罪を犯す確率は、平均の5倍に上る”という。
性犯罪には「遺伝も関与」 疫学研究者
http://www.cnn.co.jp/fringe/35063021.html
上記のデータを見ていると、つくづく人間は遺伝と環境という運命の上で転がされているのだな、と感じる。反出生主義に繋がるわけではないが、運悪く遺伝と環境に飲まれて犯罪を犯し、運の良い民衆らから罵られている人々を見るとやるせない気持ちになる。決して犯罪を肯定しているわけではないが、これらの事実は私が更に反出生主義にのめり込む理由になりそうである。また、今はまだ脳や遺伝についての研究が進んでいないがために判明していない事実もあるかもしれない。
人々からは甘えや努力不足で片付けられる事柄も、深く遺伝や環境が関係していると解明される日が来るのでは無いだろうか?