2007年05月

2007年05月31日

音楽史04〜ルネサンス、イタリア〜

ルネサンス期のイタリアは
美術や建築などにおいて常に文化の最先端の国であった。
しかし何故かこと音楽に関してはそれが当てはまらず
その中枢は長くフランドル楽派によって占められていた。

イタリアが音楽面で目立った活躍を見せ始めるのは
ようやくルネサンスの後期になってからだった。


《宗教音楽》

宗教音楽の分野ではパレストリーナが登場する。
彼こそはルネサンス期におけるイタリア音楽界の最重要人物であった。

パレストリーナ
●ジョヴァンニ・ピエルルイジ・ダ・パレストリーナ
 Giovanni Pierluigi da Palestrina(1525-1594)
フランドル楽派の多声音楽を基礎としながらそれを徹底的に磨き上げ
独自のパレストリーナ様式と呼ばれるスタイルを完成させた。
その完成度の高い様式は後世に至っても模範とされ
多くの作曲家がパレストリーナの作品に影響を受けた。
19世紀になるとその存在は神格化されるほどだった。
パレストリーナが活躍しだした頃、イタリアの教会では
フランドル楽派の音楽は敬遠される傾向にあった。
音楽が高度で複雑すぎる上、世俗音楽を定旋律に用いる点などが
好ましくないというのが理由だった。
パレストリーナはそういった教会の要求に答えるために
シンプルで磨き上げられた様式を築き上げ、
絶大な信頼を勝ち取ることに成功したのだった。
20世紀前半まではルネサンス音楽といえば
何を置いてもパレストリーナのことであった。
しかし、現在の評価はやや違ってきている。
フランドル楽派の音楽が、純粋に音楽的要求から洗練されていったのに対し
パレストリーナのそれは教会の求めに応じ人工的に磨き上げられたものだった。
どの曲も美しいが、それは同じような曲ばかりだからだともいわれ、
新たな音楽を作り上げるという観点においては大きな足跡を残さなかった。
したがって現在ではジョスカン・デ・プレを差し置いて
ルネサンス最高と評価することには否定的な意見が目立っている。
もっとも、洗練の度合いが非常に高いのは事実であり
求めに応じて理想的な音楽を書けるのも稀有の才能といえる。
後世への影響が大きかったのは疑いようもない事実であるから、
ルネサンス後期における最重要な作曲家であったことに変わりはないだろう。
お勧め:「聖母被昇天のミサ(Assumpta est Maria)」
 多作家であり何だかんだで名作は非常に多い。まずはこれを。
 非常に美しい曲でパレストリーナ様式がふんだんに味わえる。
 パレストリーナの音楽はすっと耳に入るから気に入れば様々な曲が聴ける。
 他にも「ミサ・ブレヴィス」「教皇マルチェスのミサ」
 「レクイエム」「スターバト・マーテル」「ソロモンの雅歌」など、
 お勧めが多くて多くて困ってしまうほどだ。


《世俗音楽》

教会音楽では、パレストリーナの登場まで
フランドル楽派の影響下にあり続けたイタリア音楽界だが
世俗音楽についてもそれは全く同じ状況であった。
イタリア世俗音楽の代表的なものはマドリガーレだが、
初期マドリガーレの成立において最も重要な役割を担った人物は
チプリアーノ・デ・ローレであった。もちろんフランドル楽派である。
イタリア人による重要なマドリガーレ作曲家が登場するのは
やはり教会音楽と同じくルネサンス後期になってからだった。

●ルカ・マレンツィオ
 Luca Marenzio(1553-1599)
マドリガーレにおいて歌詞と曲を密接にシンクロさせ
高度な作曲技法によってそれまでにない表現力を獲得した人物。
極めて大胆な音楽はイタリア国内だけでなく他国にも影響を与えた。
お勧め:「優雅な鳥のささやき」

ジェズアルド
●カルロ・ジェズアルド
 Carlo Gesualdo(1560-1613)
マレンツィオを更に凌ぐほどの強烈な表現力を発揮した人物。
その歌詞は死や苦悩を取り扱ったものが多く、
音楽も半音階や不協和音が多用された。
ジェズアルドは、不貞の妻を殺害したというエピソードでも知られ
終生その罪にさいなまれていたという説もある。
その影響からか、音楽には暗い影を持つものが非常に多くなっている。
ジェズアルドの特異な表現はそれ故に後世のどの作曲家にも受け継がれず
音楽史上の孤高の存在となっている。現在でも人気の高い作曲家である。
お勧め:「かなしや吾は死す」


《ヴェネツィア楽派》

ルネサンス後期からバロック初期にかけて
大きな影響力を持ったのがヴェネツィア楽派であった。
ヴェネツィアは当時交易の中心地であり、
音楽も様々なルートで集められ、また同時に発信地ともなった。

ヴェネツィア楽派の開祖とされるのはアドリアン・ヴィラールトで
例に漏れずフランドル楽派の音楽家であった。
ヴェネツィア楽派の音楽は、いかにも交易地らしく賑やかなもので
各地から集めた様式を派手に発展させるというものだった。
合唱団を分割する複合唱や金管楽器のファンファーレなどに
その特徴を強く見ることができる。

ヴェネツィア楽派は、ヴィラールトの門下である
アンドレア・ガブリエリ(Andrea Gabrieli, 1510-1586)を経て
その甥のジョヴァンニ・ガブリエリの時代になって頂点に達した。

●ジョヴァンニ・ガブリエリ
 Giovanni Gabgieli(1557-1612)
ヴィラールト以来の複合唱を大きく発展させ、
それを更に器楽分野にも応用させた。
音響効果を最大限に活かした音楽作りは
正にバロック時代の到来を告げるものだった。
他に音楽後進国であったドイツから多くの若手を
ヴェネツィアに留学させたことでも注目される。
ドイツバロック初期の重要な音楽家シュッツやプレトリウスも
ガブリエリに学んでドイツに音楽を持ち帰った。
お勧め:合唱曲「大いなる神秘」
 他に金管楽器のためのファンファーレも注目。


《ルネサンスからバロックへ》

イタリアはルネサンス後期になって勢いを手にすると、
音楽の中心地としての地位をフランドルから奪い取ることに成功した。
そして音楽界はその手によってバロックへと移行されていくことになった。

この時代変革において
最も重要な役割を果たした作曲家はモンテヴェルディである。
モンテヴェルディはガブリエリ後のヴェネツィアで活躍し、
マドリガーレと宗教音楽の作曲で多大な功績を残した。
正にここで述べてきたイタリアルネサンス音楽を集約した人物だといえる。
同時に新たにバロック音楽を作り上げていった人物でもあるのだが
その詳細はバロックの項で述べることにする。


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次回は「ルネサンス期のフランスとスペイン」


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2007年05月21日

音楽史03〜ルネサンス、フランドル楽派〜

フランドル楽派の音楽家達はブルゴーニュ公国の滅亡後、
他の西欧諸国へと活動の場を大きく広げていった。
各国におけるその音楽的影響は絶大であった。
こうしてルネサンスは中期(盛期)を迎えることになる。


《フランドル楽派、最盛期》

ジョスカン
●ジョスカン・デ・プレ
 Josquin Des Pres(1450頃-1521)
フランドル楽派最大の、すなわちルネサンス最大の音楽家といえば
ジョスカン・デ・プレということになるだろう。
当時の全ての作曲技法を完璧にものにしていたといわれ、
存命中から最高の作曲家として賞賛を浴びていた。
ミサにおいては「通模倣様式」を確立。
これは各声部が同等の動きを行うことで立体的表現を可能にしたものだ。
ミサ以外にもモテット(ミサによらない教会音楽)や世俗音楽を残したが
その全てにおいて高度な出来栄えを示している。
その完璧ともいえるほどに作り上げられた音楽は、
それ故に近づきがたい、楽しめないといった意見もしばしば聞かれる。
そういう面も確かにあるが、タリス・スコラーズのように
演奏家もまた完璧である場合は、その音楽は極上の響きを獲得する。
お勧め:「ミサ・パンジェ・リングァ」
 グレゴリオ聖歌「パンジェ・リングァ(舌よ歌え)」に基づく定旋律ミサで
 通模倣様式がふんだんに盛り込まれた晩年の傑作である。
 有名なモテット「アヴェ・マリア」も小品ながら非常に美しい名作。

●ハインリヒ・イザーク
 Heinrich Isaac(1450頃-1517年)
ジョスカンと同時代の著名な作曲家。ドイツに渡って活躍した。
ドイツの世俗音楽であるリートに名作を残したことで知られる。
ドイツは当時音楽後進国であったが、
フランドル楽派はそういった国にも影響力を広げていった。
イザークの音楽は分かり易く親しみやすいので
生前はジョスカンに匹敵するかそれ以上の人気だったといわれる。
お勧め:ドイツ・リート「インスブルックよさらば」

●ピエール・ド・ラリュー
 Pierre de La Rue(1460頃-1518)
幅広い分野の作品を残したことで知られる。
柔らかな音色が特徴で、オケゲムやジョスカンにも匹敵する
高度な作曲技法を持っていた。
お勧め:「レクイエム」
 穏やかな作品。
 鋭い響きのオケゲムの同名曲との対比は興味深い。

この他に、ジョスカンと同じ時代を生き
フランドル楽派最盛期を形成した作曲家として
ロワゼ・コンペール Loyset Compere(1450頃-1518)
アントワーヌ・ブリュメル Antoine Brumel(1460頃-1512頃)
ヤコブ・オブレヒト Jacob Obrecht(1457年頃-1505)
などがいた。


《中後期》

以下、ジョスカンの次の世代の作曲家たち。

●アドリアン・ヴィラールト
 Adrian Willaert(1490頃-1562)
非常に器用で様々な分野にわたる作品を残した。
イタリアに渡り、後に最盛期を迎えるヴェネツィア楽派の開祖となった。
お勧め:「分割合唱のための詩篇集(Salmi spezzati)」

●チプリアーノ・デ・ローレ
 Cypriano de Rore(1515頃-1565)
やはりイタリアに渡り、ヴェネツィアでヴィラールトに学んだ。
その後イタリアの代表的世俗音楽である「マドリガーレ」
の発展に大きく関与し、この分野での第1人者となった。
お勧め:マドリガーレ「別れの時」

他、この時代には
ニコラ・ゴンベール Nicolas Gombert(1495頃-1560頃)
ジャック・アルカデルト Jacques Arcadelt(1505-1568)
クレメンス・ノン・パパ Clemens non Papa(1510頃-1555頃)
などといった作曲家達がいた。


《後期》

絶大な影響力を誇ったフランドル楽派も、
ルネサンス後期になるとその勢いは次第に失われていった。

原因の一つに、フランドルがスペインの属領となり、
強い圧力がかかるようになったという政治的な理由があった。
音楽家は活動が制限され、
国外に出たきり故郷に戻れないという状況も生じた。

その時代にあって果敢に活動したのが
後期フランドル楽派の面々であった。

●フィリップ・デ・モンテ
 Philippe de Monte(1521-1603)
イタリアに渡り、マドリガーレの大家となった。
当時としては長命であったが、
政治的理由から故郷には戻れず、最後はプラハで息を引き取った。
ラッススのような実験的な作品は残さなかったが
そのマドリガーレは非常に変化に富んでいる。
お勧め:「バビロン川のほとりで」

ラッスス
●オルランド・デ・ラッスス
 Orlande de Lassus(1532-1594)
フランドル楽派最後の巨匠であり、パレストリーナやビクトリアと並ぶ
後期ルネサンス最大の作曲家といわれる人物。
イタリア語形でラッソ(Lasso)と呼ばれることもある。
多作家で2000にも及ぶ声楽作品があり、その中には
ラテン語、フランス語、イタリア語、ドイツ語など
様々な分野の音楽が含まれている。
ミサ曲も多く作ったが、その本領はより自由な形式の作品にあり
マドリガーレやモテットにおけるラッススは、
荘厳なものから滑稽なものまで正に変幻自在であった。
国際的な名声を確立したがやはり故郷に帰ることは叶わなかった。
お勧め:「聖ペテロの涙」
 数々の名曲を生み出したラッススが最後に残した、
 自身の集大成とも言うべき記念碑的作品。

●ジャケス・デ・ヴェルト
 Giaches de Wert(1535頃-1596)
主にイタリアで活躍したフランドル楽派後期の作曲家。
伝統的な多声ミサよりも世俗音楽で名をなし、
前衛的なマドリガーレを多く作った。
その様式は次代のバロック様式をも予見している。
お勧め:「今や天も祝って」


《フランドル楽派の終焉》

後期ルネサンスに至ってフランドル楽派が勢いを失ったのは
たしかに政治的な理由もあったが、それだけではなく、
音楽的な側面もあったのではないかと考えられる。

フランドル楽派の音楽とは、ポリフォニー(多声音楽)を
どれほど高度に洗練させていくかを追求するものだった。
しかしそれはジョスカンよって既に極められていたという見方もあり、
その後の音楽はその発展性において行き場を失っていったといえる。

後期のラッススが、その天才によって辛うじて
自由な形式という独自の表現手法で最後の花を咲かせはしたが、
本来最も重要なはずのミサ曲に代表作が集中しなかったという点でも
フランドル楽派の音楽が袋小路にはまってしまっていた
と読み取ることができよう。

こうして後期ルネサンスはフランドルからイタリアへと
その中心を移していくことになっていった。


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次回は「ルネサンス期イタリア」


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2007年05月18日

音楽史02〜ルネサンス、フランドル楽派初期〜

音楽史では15世紀中頃から16世紀までの約150年をルネサンス期と呼ぶ。

この時代にはフランドル楽派と呼ばれる作曲家達が活躍した。
彼らはルネサンス期全体に渡って時代をリードし、
西欧諸国に絶大な影響をもたらした。ルネサンス音楽といえば、
それはすなわちフランドル楽派のことだと言ってもいいほどである。
今回はそのフランドル楽派の初期の面々を見ていくことにしよう。


《初期フランドル楽派(ブルゴーニュ楽派)》

この時代、フランスのフランドル地方ではブルゴーニュ公国が繁栄していた。
初期フランドル楽派の作曲家たちはそこに仕えた宮廷音楽家であったため
特別にブルゴーニュ楽派と呼ばれ、
中期以降のフランドル楽派と区別される場合がある。
ブルゴーニュ楽派は、それまでの西欧諸国の音楽を積極的に吸収していった。
アルス・ノヴァを始めとする地元フランスの音楽だけでなく、
イタリアのトレチェントやイギリスのダンスタブルの音楽をも取り入れ、
それを発展させることでルネサンス音楽を開拓していった。

デュファイとバンショワ(デュファイとバンショワ)
●ギヨーム・デュファイ
 Guillaume Dufay(1397-1474)
そのブルゴーニュ楽派において最初にして最大の巨匠がデュファイである。
音楽史はデュファイの登場により中世からルネサンスへと移り変わった。
その意味で、後のモンテヴェルディやバッハ、ベートーヴェンに相当する
時代の変革をもたらした重要な作曲家といえるだろう。
シャンソンなどの世俗音楽も作ったが最大の成果は定旋律ミサの確立である。
定旋律ミサとは、ミサの各章で固定の旋律を統一的に使用する手法である。
使用される旋律は、本人の作品もあれば他人の曲である場合もあった。
また、教会音楽だけでなく世俗音楽が用いられることも多かった。
中にはミサには相応しくないと思えるような俗っぽい歌もあり
意外にもかなり自由な表現が許されていたことが伺える。
定旋律ミサはその後のミサ曲のスタンダードな形式となっていった。
お勧め:「ミサ・ス・ラ・ファス・エ・パル(私の顔が青いのなら)」
 自作のシャンソン「私の顔が青いのなら」に基づく定旋律ミサ曲。
 世俗音楽による定旋律ミサとしては最初期のものとされる。

●ジル・バンショワ
 Gilles de Binchois(1400頃-1460)
初期ルネサンスの大家としてデュファイと並び称された人物。
美しい旋律を作ったことで知られ、
ミサ曲よりも世俗歌曲の分野でより多く活躍した。
お勧め:シャンソン「次第次第に(De plus en plus)」

オケゲム
●ヨハネス・オケゲム
 Johannes Okeghem(1410頃-1495)
ブルゴーニュ楽派後期の作曲家に当たり、
ブルゴーニュ楽派から中期フランドル楽派への橋渡しをした。
すなわちルネサンスの初期と中期を結びつけることになった人物である。
その音楽は強い表現力を特徴としており作曲技法も高度であった。
指導的立場としても重要な役割を担い、人々の尊敬も集めたといわれる。
オケゲムから強い影響を受けたジョスカン・デ・プレは、
その死去に際して「オケゲムの死を悼む哀歌」を作曲している。
お勧め:「レクイエム」
 現存する最古の多声レクイエムである。

●アントワーヌ・ビュノワ
 Antoine Busnoys(1430頃-1492)
オケゲムと共にブルゴーニュ楽派後期を代表する作曲家。
特に世俗歌曲で有名だった。
お勧め:「絶望した運命の女神(Fortuna desperata)」
 この曲は当時から人気があり、
 後に多くの作曲家によって定旋律ミサに使用されている。


この後ブルゴーニュ公国は滅亡する。
しかし、その宮廷音楽家たちは
活動を更に国外にも広げていくことになった。
こうしてルネサンス期は、初期から中期へと転換していくことになる。


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次回は「フランドル楽派、盛期」


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2007年05月16日

音楽史01〜中世の音楽〜

《グレゴリオ聖歌:8世紀〜11世紀》
グレゴリウス一世
グレゴリオ聖歌は現在再現可能な最古の西洋音楽といわれている。
聖歌そのものは古くから様々な地区で歌い継がれており
それらを統一的にまとめて、カトリックの典礼に
利用できるようにしたものがグレゴリオ聖歌である。
時のローマ法王グレゴリウス1世が編纂したという説から
名前が付けられたが、現在その説は信じられていない。
もっともグレゴリウス1世が聖歌の編纂に
何らかの関与をしたことは事実のようであるが。
単旋律、楽器なしで歌われるのが特徴で
長い間、ミサや典礼と強く結び付けられてきた。
今もって教会行事にグレゴリオ聖歌が用いられることもあり、
後々に至るまで西洋音楽における大きな存在となっていった。


《ノートルダム楽派》
12世紀頃になると、単旋律のグレゴリオ聖歌を発展させ、
オルガヌムといわれる多声部による音楽が作られるようになった。
ポリフォニーの誕生というと少々難しいが、要するに
歌が複数パート(声部)になったといえば分かりやすいだろう。
この頃に台頭したのがパリのノートルダム楽派であった。

●レオニヌス(またはレオナン)
 Leoninus(Leonin)
12世紀に登場したノートルダム楽派のレオニヌスは
最初のオルガヌム作曲家であり、同時にその最高の担い手と言われた。
レオニヌスの手によるオルガヌムは全て2声部である。

●ペロティヌス(またはペロタン)
 Perotinus(Perotin)
12世紀後半から13世紀に活躍したノートルダム楽派の作曲家。
レオニヌスの後を継いでオルガヌムを更に発展させ
3声部や4声部の曲も作った。残されている最も有名は曲は
4声の「地上のすべての国々は」であろう。


《世俗音楽》
吟遊詩人
中世西洋音楽の中心はあくまでも教会音楽であり
専門の音楽家はみな教会音楽に携わっていたのであるが
それとは別のいわゆる世俗音楽も民間には存在していた。
これらは教会音楽のような記譜が残されているわけではなく、
主に吟遊詩人たちによって歌い継がれていったものであるから
現在まで残っているということはほとんどない。
しかしこの時代の音楽を語る上で素通りはできないものである。

これらの世俗音楽は芝居や踊りなどとも結び付けられていて
一種の大道芸ような趣で捉えられるものだった。
音楽の担い手は高位ではなく、貧民層など、むしろ
社会の底辺に位置する者たちであることが多かった。

しかし世俗音楽は12世紀頃から、
騎士を始めとする貴族階級にも広がりをみせていき、
貴族そのものが吟遊詩人になる例や、
詩吟の才能を認めらて逆に貴族に叙せられる者も登場した。

世俗音楽の内容は愛を歌うものから英雄叙事詩まで多岐に渡った。
愛を歌うという文化は12世紀の発明だなどとも言われるほどである。
また、聖歌と違って歌だけでなく楽器演奏を伴うものも多かった。
吟遊詩人には、自ら作った歌を自分で歌い演奏するものもいれば
歌手や楽器奏者を雇って一座を形成するものもいた。

13世紀になると騎士の没落と共に
世俗音楽は宮廷音楽や専門の作曲家に吸収されていった。
こうして、中世の音楽は
教会音楽と世俗音楽、単旋律と多声部、歌と器楽が
相互に影響しあって発展を遂げていくことになるのである。


《アルス・ノヴァ:中世末期》
14世紀になると、それまでの音楽様式が集大成される。
代表的なものが1320年頃にフィリップ・ド・ヴィトリが著した
理論書「アルス・ノヴァ(新しい芸術)」であろう。

マショー
●ギヨーム・ド・マショー
 Guillaume de Machaut(1300頃-1377)
アルス・ノヴァに基づく最大の音楽家はフランスのマショーである。
本業は聖職者であり外交官であったが、同時に最大の詩人=作曲家でもあった。
後のルネサンス期になると詩人と音楽家は分業されていくことになるのだが
マショーはその最後期の大家であったといえるだろう。
代表作「ノートルダム・ミサ」は歴史上最初の通作ミサ曲である。
通作ミサとはすなわちミサの通常文全てに曲をつけ
それらをまとめて1つの曲としたものである。
それまでは、通常文それぞれに個別に曲をつけるか
またはグレゴリオ聖歌で代用するなどしていた。
この後、ミサ曲は音楽界で最も重要な形式となるのだが
その原型がマショーによって作り出されたことになる。
またマショーの貢献はミサ曲だけではなく
中世最大の音楽家らしく世俗音楽でも多くの作品を残した。
マショーは世俗音楽において「AAB」といった「形式」を積極的に採用した。
それらは以前から存在していたが、マショーによって固定され、
後の音楽界に浸透していったものであった。
代表曲:
 やはり「ノートルダム・ミサ」ということになるが
 教会音楽とは随分印象の違う世俗音楽も一聴の価値ありだ。

●フランチェスコ・ランディーニ
 Francesco Landini(1325-1397)
イタリア、トレチェント音楽の最大の作曲家。
トレチェント音楽はフランスのアルス・ノヴァに匹敵する音楽様式であり
アルス・ノヴァが複雑なリズムを重視したのに対し旋律をより重視した。
ランディーニは盲目であったと伝えられるが名オルガニストであり
ペトラルカをもうならせる偉大な詩人でもあった。
代表曲:「春はきたりぬ」

●ジョン・ダンスタブル
 John Dunstable(1390頃-1453)
マショーが進化させたアルス・ノヴァ独自のリズム技法は
イギリスに渡って更に複雑に発展した。
ダンスタブルはその時代にあって最大のイギリスの作曲家である。
イギリスには古来の音楽があったが、ダンスタブルは
それと大陸の技法とを融合させ新しい音楽を開拓した。
ダンスタブルの影響力は大きく、その音楽は後に大陸に逆輸入され
初期ルネサンスの音楽家に受け継がれていくのである。
代表曲:「来たれ聖霊」


《その他の国々》

中世スペインでは、著名な作曲家の登場はなかったが
「カンティガ集」や「モンセラートの朱い本」など
独自に聖歌の編纂が行われていた。
それらの音楽は土俗的で色彩が強く、非常に魅力的なものである。
CDの入手も容易なので一聴をお勧めしたい。

ドイツには、ワーグナーの楽劇でおなじみのマイスタージンガーたちがいたが、
その音楽は画一的で発展性がなく、歌合戦でも減点方式を採用するなど
基本に忠実であるかを競うだけの極めて後進的なものであった。
中世においてドイツ音楽は他の西洋諸国に遅れを取っていたといえるだろう。


wrote by Au-Saga


「次回はルネサンス音楽」



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2007年05月15日

音楽史00〜中世からバロックまで〜

覚え書き的な意味合いも込め、
今後数回にわたり西洋音楽史を総ざらいしてみたいと思う。
とりあえず対象とするのは中世からバロックまで。
いわゆる古楽と呼ばれる時代だ。
時代区分は大きく以下のようになるだろうか。

《中世》
前期(8世紀〜10世紀) グレゴリオ聖歌が発達
中期(11世紀〜13世紀)ノートル・ダム楽派が登場
後期(14世紀〜15世紀初め) アルス・ノヴァが起こる

《ルネサンス 》
前期(15世紀中頃) ブルゴーニュ楽派の登場
中期(16世紀前半) フランドル楽派が活躍
後期(16世紀後半) ヨーロッパ各地に宗教・世俗音楽が広がる

《バロック》
前期(17世紀前半)器楽の発展とオペラの登場
中期(17世紀後半)宮廷音楽や組曲の発展
後期(18世紀前半)音楽形式の確立、対位法の完成と終焉

早速次回から時代別国別に代表音楽家を列挙していきたいと思う。


wrote by Au-Saga


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