2007年05月18日

音楽史02〜ルネサンス、フランドル楽派初期〜

音楽史では15世紀中頃から16世紀までの約150年をルネサンス期と呼ぶ。

この時代にはフランドル楽派と呼ばれる作曲家達が活躍した。
彼らはルネサンス期全体に渡って時代をリードし、
西欧諸国に絶大な影響をもたらした。ルネサンス音楽といえば、
それはすなわちフランドル楽派のことだと言ってもいいほどである。
今回はそのフランドル楽派の初期の面々を見ていくことにしよう。


《初期フランドル楽派(ブルゴーニュ楽派)》

この時代、フランスのフランドル地方ではブルゴーニュ公国が繁栄していた。
初期フランドル楽派の作曲家たちはそこに仕えた宮廷音楽家であったため
特別にブルゴーニュ楽派と呼ばれ、
中期以降のフランドル楽派と区別される場合がある。
ブルゴーニュ楽派は、それまでの西欧諸国の音楽を積極的に吸収していった。
アルス・ノヴァを始めとする地元フランスの音楽だけでなく、
イタリアのトレチェントやイギリスのダンスタブルの音楽をも取り入れ、
それを発展させることでルネサンス音楽を開拓していった。

デュファイとバンショワ(デュファイとバンショワ)
●ギヨーム・デュファイ
 Guillaume Dufay(1397-1474)
そのブルゴーニュ楽派において最初にして最大の巨匠がデュファイである。
音楽史はデュファイの登場により中世からルネサンスへと移り変わった。
その意味で、後のモンテヴェルディやバッハ、ベートーヴェンに相当する
時代の変革をもたらした重要な作曲家といえるだろう。
シャンソンなどの世俗音楽も作ったが最大の成果は定旋律ミサの確立である。
定旋律ミサとは、ミサの各章で固定の旋律を統一的に使用する手法である。
使用される旋律は、本人の作品もあれば他人の曲である場合もあった。
また、教会音楽だけでなく世俗音楽が用いられることも多かった。
中にはミサには相応しくないと思えるような俗っぽい歌もあり
意外にもかなり自由な表現が許されていたことが伺える。
定旋律ミサはその後のミサ曲のスタンダードな形式となっていった。
お勧め:「ミサ・ス・ラ・ファス・エ・パル(私の顔が青いのなら)」
 自作のシャンソン「私の顔が青いのなら」に基づく定旋律ミサ曲。
 世俗音楽による定旋律ミサとしては最初期のものとされる。

●ジル・バンショワ
 Gilles de Binchois(1400頃-1460)
初期ルネサンスの大家としてデュファイと並び称された人物。
美しい旋律を作ったことで知られ、
ミサ曲よりも世俗歌曲の分野でより多く活躍した。
お勧め:シャンソン「次第次第に(De plus en plus)」

オケゲム
●ヨハネス・オケゲム
 Johannes Okeghem(1410頃-1495)
ブルゴーニュ楽派後期の作曲家に当たり、
ブルゴーニュ楽派から中期フランドル楽派への橋渡しをした。
すなわちルネサンスの初期と中期を結びつけることになった人物である。
その音楽は強い表現力を特徴としており作曲技法も高度であった。
指導的立場としても重要な役割を担い、人々の尊敬も集めたといわれる。
オケゲムから強い影響を受けたジョスカン・デ・プレは、
その死去に際して「オケゲムの死を悼む哀歌」を作曲している。
お勧め:「レクイエム」
 現存する最古の多声レクイエムである。

●アントワーヌ・ビュノワ
 Antoine Busnoys(1430頃-1492)
オケゲムと共にブルゴーニュ楽派後期を代表する作曲家。
特に世俗歌曲で有名だった。
お勧め:「絶望した運命の女神(Fortuna desperata)」
 この曲は当時から人気があり、
 後に多くの作曲家によって定旋律ミサに使用されている。


この後ブルゴーニュ公国は滅亡する。
しかし、その宮廷音楽家たちは
活動を更に国外にも広げていくことになった。
こうしてルネサンス期は、初期から中期へと転換していくことになる。


wrote by Au-Saga

次回は「フランドル楽派、盛期」


antonio_salieri at 17:29│Comments(0)TrackBack(0)clip!au-saga | 音楽史

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