2007年10月16日

音楽史06〜ルネサンス、イギリス〜

《イングランド王国》

ルネサンス期のイギリス音楽界は他のどの国よりも
国の消長に大きく振り回されることになった。
主要な音楽家を見ていく前に、
簡単にこの国の流れを俯瞰する必要があるだろう。


《政治と音楽の関わり》

中世末期、イギリスは音楽先進国であった。
ジョン・ダンスタブルらによるイギリス伝統の和声音楽は、
ルネサンス初期のフランドル楽派にも影響を与えたほどだった。

しかし、ルネサンス期に入ると状況は一変する。
100年戦争やバラ戦争による国内の政治不安と、
それに伴う国外との交流の断絶などによって、
社会的にも文化的にもイギリスは不毛の時代を迎えることになった。

その後16世紀になるとヘンリー8世の治世のもと国力も回復していき、
音楽界も次第に勢いを取り戻していった。

しかし、ここでイギリス音楽界にとって最も重大な事件が発生する。
1534年の「首長令」がそれであった。
これにより英国はカトリックとの断絶を発表し、
独自の英国国教会(プロテスタント)を成立させることになったのだった。


《宗教改革による混乱》

これまでの音楽史シリーズで見てきたように、
当時の音楽家にとって教会音楽は非常に重要なジャンルであった。

しかし、国がカトリックからプロテスタントに変わったということは
典礼そのもの、すなわち教会音楽そのものが改革されるということであった。
それまでに使用されていたラテン語のミサ曲やモテットは使われなくなり、
代わりに英語によるサーヴィスやアンセムが使われるようになった。

当時の作曲技法の最先端は教会音楽、特にミサ曲によっていたのだが、
この時期の英国作曲家はそれまでに蓄積されたこれらのノウハウを切り捨て
一から生み出される英国国教用の典礼音楽を創作しなくてはならなくなったのだ。


《宗教改革前》

●ジョン・タヴァナー
 John Taverner(1490頃-1545)
ルネサンス中期に国内で非常に高く評価された音楽家である。
主に宗教改革が行われる以前が活躍時期にあたるため、
代表作のほとんどはミサ曲やモテットなどのカトリック音楽であった。
お勧め:ミサ曲「西風(The Western Wynde)」
 この曲の一部が「イン・ノミネ」の名で取り上げられ
 数々の作曲家の手によって編曲された。
 タリス、バード、パーセル等、名だたる作曲家が編曲を手がけている。


《宗教改革との戦い》

タリス
●トーマス・タリス
 Thomas Tallis(1505-1585)
ルネサンス期イギリスを代表する作曲家。
タリス自身はカトリック教徒であったが、
英国国教音楽の成立に大きく貢献した人物として評価されている。
実質、英語典礼用の音楽はタリスによって形作られたと言ってもいい。
しかしタリスの代表作はやはりカトリックの音楽であった。
首長令後もタリスはカトリックの音楽を作り続けた。
王室音楽家として厚く信頼されていたというのもあったが
実際には首長令が発せられてからすぐにカトリックが締め出されたわけではなく
しばらくはラテン語と英語が併用されるという形がとられていたようだ。
カトリックへの締め付けが強くなるのは1560年代以降のことであった。
お勧め:「エレミアの哀歌機Ν供
 2つのエレミアの哀歌は別々の機会に歌うために作曲されたようだが
 現在のコンサートでは続けて歌われることが多い。
 典型的なカトリックの音楽である。
 エルサレムを追われたイスラエル人の哀しみが歌われるが、
 一説にはカトリックへの引き締めが強くなった時期に
 カトリック教徒へのメッセージをこめたのではないかと言われている。

バード
●ウィリアム・バード
 William Byrd(1543-1623)
英国ルネサンス史上最大の作曲家とされる人物。
王室から絶大な信頼を得ていたタリスに学び、その後継者となった。
生前から国内外において英国最高の音楽家と評価され、
その地位はタリス以上でさえあった。
しかしバードの悲劇は自身が熱烈なカトリック教徒だったことだ。
それほど締め付けが強くなかったタリスの頃とは違い、
バードがその後継者となった頃には既にカトリックは強く弾圧されていた。
王室に仕える身であり、当然のことながら英語典礼の曲も多く作曲した。
その代表作「グレート・サーヴィス」はこの分野屈指の名作とされる。
しかし、やはりバードの最高傑作もタリスと同様カトリック音楽であった。
表立って曲は作れないので、ロンドンから離れた場所で
カトリックの密会を行い、そのために曲を作るなどした。
バードは国教忌避者リストに入れられ危険人物としてマークされていたが
それでも最後まで王室音楽家の地位を解かれることはなかった。
それほど音楽家としての名声が高かったということであろう。
お勧め:3つのミサ曲(3声、4声、5声)
 バードの最高傑作。もちろんカトリック音楽である。
 他にもわずか数分の小品だが「アヴェ・ヴェルム・コルプス」は
 美しい名品で、まずバードの曲を、という方に推薦したい。


《器楽の発展》

英国の世俗音楽は、
混乱の教会音楽と違って比較的スムースに発展を遂げた。
もっとも、社会的混乱が収まってからのことなので
時期的にはルネサンス後期にあたることになる。

まず特筆すべきは器楽の発展であろう。スペインのオルガンと並んで、
イギリスのリュートはルネサンス器楽音楽の最先端であったといえる。

●ジョン・ダウランド
 John Dowland(1562-1626)
バードもいくつかの器楽曲を作ったが、
やはり英国リュートの第一人者といえばダウランドということになる。
ダウランドの作るリュート音楽は、リュート伴奏による歌曲、
リュート合奏、リュート独奏など様々な形に対応していた。
ダウランドの楽譜は有名なのでここで取り上げておきたい。
(図参照)
図の楽譜は、4つのパートが4方向に書かれている。
これは机の上に楽譜を置き、四方を囲むことで
1枚の楽譜で4人が演奏可能になるというアイデアである。
しかもどれか1つのパートだけでも音楽が成立するように作られており
1〜4人まで自由に参加できるという工夫が凝らされている。
いかにも世俗音楽のための楽譜といえるだろう。
ダウランドもカトリック教徒であったため、
宮廷音楽家を目指すもなかなか願いは叶わなかった。
晩年になってようやく国王付属のリュート奏者となることができた。
お勧め:「涙のパヴァーヌ(Pavana Lachrymae)」
 元々は「流れよ、わが涙」というタイトルでリュート独奏曲であったが、
 7連作の「涙のパヴァーヌ」としてリュート合奏曲に編曲された。
 非常に物悲しい魅力的作品で、ダウランド自身による歌曲編曲や
 オランダの作曲家エイクによるリコーダー編曲なども知られている。


《世俗音楽-声楽》

英国の声楽による世俗音楽はイタリアのマドリガーレの影響が大きかった。
特にマレンツィオ、ラッスス、ガストルディなどの作品が人気が高く
初めのころはそれらの影響を強く受けた作品が多く作られた。

その後ルネサンス後期(というよりバロックに入っていたともいえる時代)
にはイギリス色の強い作品が作られるようになり、
イギリス・マドリガルという分野が形作られた。

●オーランド・ギボンズ
 Orlando Gibbons(1583-1625)
イギリス・マドリガルの作曲家は列挙すればかなりいるが、
代表を挙げるとすればギボンズということになるだろう。
お勧め:「白銀の白鳥(The silver swan)」
 イギリス・マドリガルの代表作。


《バロック期》

少し時代は下がるがバロック期の英国音楽についても触れておこう。

ここまで見てきたように、ルネサンス期における
英国音楽の最大の担い手はカトリック音楽の大家であった。
これはカトリックと決別した国にとって望ましい事ではなかった。
英国国教のために曲を作った優秀な音楽家はたくさんいたが
どうしてもタリス、バードとの比較になってしまい、
最高という称号は与えられずにいた。

英国音楽界がようやく溜飲を下げるのは
バロック期のパーセルの登場を見てからだった。

パーセル
●ヘンリー・パーセル
 Henry Purcell(1659-1695)
いまだイギリス最高の作曲家と呼ばれる人物。
もちろん、英国国教のための名作を数々手がけた。
正に国が求めたスターであった。
30代で早世してしまったことや
歌心にあふれた作品を多作したことなどで
イギリスのモーツァルトなどとも呼ばれる。
その音楽は特に英語詞の扱いにかけては比類なしといわれ
歌曲や劇音楽で本領を発揮した。
バロック時代の象徴的な音楽にオペラがあるが、
パーセルは英国オペラの唯一にして最高の作り手だった。
お勧め:「アブデラザール、またはムーア人の復讐」
 劇音楽として作られた。その中の第2曲「ロンド」が
 後にベンジャミン・ブリテンによって「青少年のための管弦楽入門」
 で主題として使われている。

ヘンデル
●ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル
 Georg Friedrich Handel(1685-1759)
ご存知、バッハと共にバロック音楽を完成に導いた大作曲家である。
元はドイツ国籍だったが後にイギリスに帰化した。
音楽家としての存在感はパーセルをも軽く凌駕しており、
人々の熱狂度、後の時代への影響などを考慮すれば
ヘンデルこそがイギリス最高の音楽家と呼ばれるに相応しい。
しかし実際にそう呼ばれることはほとんどない。
元ドイツの作曲家に英国最高の称号を与えるべきではないという
英国人のナショナリズムも多分に入っているのだろうが
英語詞の扱いという点でパーセルとは差があったという指摘もされる。
ラテン語による音楽が支配していた時代には存在しない評価であったろう。
時代が下り、母国語の重要度が増したということが分かって興味深い。


《パーセルの呪縛》

その後、イギリスには世界的な名声を獲得した音楽家が現れなかった。
19世紀後半から20世紀になってようやく名の知れた作曲家が登場しはじめるが
それらが登場した際には全て「パーセルの再来」という言葉が添えられた。
エルガー、ヴォーン=ウィリアムス、ホルスト、ウォルトン等
いずれも「パーセルの再来」と呼ばれたのではないだろうか。
イギリスに生まれた音楽家は皆パーセルの呪縛と戦わなければならないのだ。
一応現在ではベンジャミン・ブリテンが最新の「パーセルの再来」
となっているのではないかと思うが、いずれにしろ英国が
世界的な作曲家を求め続けていたことがわかるエピソードである。

しかし、実はパーセルの呪縛はむしろ後の世代の作曲家ではなく、
パーセル自身にかけられているのではないかと私は思う。

イギリス唯一の世界的な作曲家であるパーセルの音楽が
ドイツやイタリアの作曲家ほどに現在一般に浸透しているだろうか。
冷静になってみれば意外なほど名前のみの存在であることがわかる。
最近までは地元イギリスの演奏家が取り上げるだけの作曲家であった。

「イギリスのモーツァルト」などいう呼称自体が問題である。
パーセルのほうが100年も前の人物なのにこの呼び方はおかしい。
同格であるなら「イギリスのパーセル、オーストリアのモーツァルト」
といった同等の呼称であるべきなのだ。
誰もショパンをポーランドのリストとは呼ばないし、
ベートーヴェンをバッハの再来などと呼んだりはしない。
イギリス音楽界はパーセルの価値を高めようとするあまり
焦りすぎて裏目に出てしまったのではないだろうか。

近年は古楽復興の勢いにのって
パーセルの音楽も頻繁に取り上げられてきている。
その真価が認められるのはこれからであり
パーセルこそ、今後の再評価が待たれる音楽家なのである。



wrote by Au-Saga

次回は、バロックを準備した人々


antonio_salieri at 11:03│Comments(0)TrackBack(0)clip!au-saga | 音楽史

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