2007年10月25日
音楽史07〜バロックを準備した人々〜
音楽界におけるルネサンスからバロックへの転換は、
鬼才モンテヴェルディの登場によって行われたというのが通説となっている。
しかし時代の変革者は全てそうだが、
モンテヴェルディもあるとき突如として現れて
一人で時代を一新させたたわけではない。
それ以前に様々な人々がその登場を準備していたのだ。
バロック期を取り上げる前に、今回はつなぎ編として
ルネサンスからバロックの橋渡しをした人達を見ていこう。
《ヴェネツィア楽派》
ルネサンス期イタリアでも取り上げたため重複することになるが
やはりヴェネツィア楽派を外すわけにはいかない。
ヴェネツィア楽派はフランドル出身のヴィラールトを始祖とし、
アンドレア・ガブリエーリ、そしてその甥のジョバンニ・ガブリエーリ
と受け継がれていき、その頃に最盛期を迎えた。
その代表的な様式である複合唱や器楽の積極的な使用は
正にバロック音楽の原型ともいえる作りとなっている。
このジョバンニ・ガブリエーリの登場をもって
既にバロック時代がスタートしていたとする分類もあるほどだ。
そしてこの後、モンテヴェルディがヴェネツィア大聖堂の宮廷楽長となり
新たな輝かしい時代を作り上げていくことになる。
《マドリガーレの発達》
マドリガーレはイタリアを代表する世俗音楽であるが、その成立の
最重要人物はフランドル楽派のチプリアーノ・デ・ローレであった。
その後ローレからの流れは同じフランドル楽派のヴェルトを経て
国内に次第に浸透していき、やがて
イタリア人の作曲家も多く登場するようになった。
●ルッツァスコ・ルッツァスキ
Luzzascho Luzzaschi(1545頃-1607)
ローレの弟子であると伝えられる。極度に前衛的ではなかったが
バロック形式を先取りした作曲家の一人とみなされている。
そのマドリガーレは当時から非常に高く評価されており、
ルネサンス最大のマドリガーレ作曲家であるジェズアルドが
唯一人、強く影響を受けた人物としてルッツァスキの名を上げている。
●ジョヴァンニ・ジャコモ・ガストルディ
Giovanni Giacomo Gastoldi(1550頃-1622)
ヴェルトの後を受けてマントヴァで活躍した。
ガストルディの曲は、より世俗的な内容のものが多く、
イタリア国内だけでなくドイツやイギリスにも広く影響を及ぼした。
特にイギリスでは後にイギリス・マドリガルが成立していくが
ガストルディの曲はそれに大きく関与している。
その後マドリガーレはイタリアで最重要の音楽となり
ルネサンス後期にはマレンツィオと、そしてとりわけ
ジェズアルドによって最大の発展を遂げることになった。
そしてモンテヴェルディの登場によって、更に新たな
バロック形式によるマドリガーレが生み出されることになる。
《カメラータの登場》
カメラータは16世紀後半にフィレンツェで作られた音楽サークルである。
古代ギリシャ劇音楽の復活を目的とし、様々な研究が重ねられていった。
メンバーには知識人が集まり、かのガリレオ・ガリレイの父、
ヴィンチェンツォ・ガリレイもその一員であった。
このカメラータの研究成果によって生み出された様式がモノディ様式である。
●ジュリオ・カッチーニ
Giulio Caccini(1545頃-1618)
カメラータのメンバーで、モノディ様式最大の担い手がカッチーニであった。
モノディとは、器楽の和音伴奏に乗って語るように歌われる音楽である。
歌詞が聞き取りやすく、形式的な制限もないため表現に自由の幅があり
オペラやマドリガーレに取り入れられていった。
カッチーニのモノディ様式が結集した代表作は「アマリッリ麗し」である。
(カッチーニといえば「アヴェ・マリア」が非常に有名であるが
現在では完全に偽作であることがわかっている)
カッチーニはフィレンツェでメディチ家に仕えたが、
出世欲が強く、ライバル対する嫉妬心も非常に激しかった。
●ヤコポ・ペーリ
Jacopo Peri(1561-1633)
史上初めてオペラを作曲した人物。
1597-98年にかけて、カメラータ研究の総決算として
本格的なギリシャ劇の作成が計画され、音楽担当にペーリが選ばれた。
こうして作られた音楽劇「ダフネ」は史上初のオペラである。
残念ながらこの作品は現存していないが、
同じく1600年頃にペーリが作った「エウリディーチェ」は残っており、
これが今のところ現存する最古のオペラとなっている。
カッチーニはペーリがこの大役に抜擢されたことが相当気に入らなかったらしく、
2作目「エウリディーチェ」が作られた際には
自分も同じ題材でオペラを作曲し、ペーリよりも先に出版した。
しかもそれだけでなくペーリ側の出版の妨害までも企んだと言われている。
●エミリオ・デ・カヴァリエーリ
Emilio de Cavalieri(1550頃-1602)
オペラと並ぶ重要な形式であるオラトリオを最初に作った人物。
オラトリオは歌詞に物語性がある点でオペラと共通するが
オペラが舞台上で演技を伴うのに対し、オラトリオには演技が付かない。
最初のオラトリオ「魂と肉体の劇」は1600年頃作られており、
時期的にもオペラの誕生とほぼ一致する。
近年ではカヴァリエーリの曲は正式にはオラトリオではないとする意見が有力だが
その成立において重要な役割を担ったことに変わりはない。
カヴァリエーリもカッチーニにライバル視されてしまった人物だ。
1600年にフィレンツェでアンリ4世とマリア・デ・メディチの婚礼が催され
ペーリの「エウリディーチェ」が演奏されることになった。
その指揮者に選ばれたがカヴァリエーリだったのだが
カッチーニの妨害によってその座から引き摺り下ろされてしまった。
カッチーニの妨害話はさておき、これらモノディ、オペラ、
オラトリオといった形式は、正にバロックを代表するものであり、
彼らが先駆者として果たした歴史的役割は非常に大きい。
しかし、音楽的には、いずれも実験的な内容に過ぎず
芸術作品としての昇華には、もう少し時間が必要であった。
モノディとオペラはモンテヴェルディによって、
そしてオラトリオはカリッシミによってバロック期に花開くことになる。
《マドリガル・コメディ(音楽喜劇)》
16世紀後半に作られたマドリガル・コメディ。
マドリガーレの連作により物語性を持たせた娯楽音楽であり、
内容は軽く、気楽に楽しめる作品として作られた。
かつてはオペラの前身と捉えられていたが、
カメラータの大掛かりな取り組みとは一線を画しており、
その発祥も違うので、現在では世俗音楽の独自の発展により
生まれた作品と解釈されている。
オペラやオラトリオのようにその後大きく発展することはなかったが
この時代を代表する世俗音楽であり、ルネサンスからバロックへと
音楽が大きく変化する過程で生み出された貴重な記録であるといえる。
代表的な作曲家として
●オラツィオ・ヴェッキ Orazio Vecchi(1550-1605)
●アドリアーノ・バンキエリAdriano Banchieri(1568-1634)
などがいる。
《ローマ楽派》
これまで見てきたように、時代の移り変わりにより
新たな音楽が生み出される動きが出始めていたのだが
中には保守的な作風を頑なに守った例もあった。
教皇のお膝元であるローマでは、
大家パレストリーナの影響が根強く残っており、
いつまでもその伝統的な音楽が好まれ続けた。
そのため音楽的発展が見込まれることはなく
忠実なパレストリーナ様式の継承者が音楽を担っていった。
●マルカントニオ・インジェニエリ
Marc Antonio Ingegnieri(1547-1592)
何といってもモンテヴェルディの師として有名な人物。
しかしその音楽は、教え子のものと違って非常に保守的で
パレストリーナの音楽を更に平明にしたようなものであった。
作品も伝統的な教会音楽がほとんどである。
●グレゴリオ・アレグリ
Gregorio Allegri(1582-1652)
ローマ楽派を代表する作曲家。時代的にはむしろバロックだが、
その音楽様式からルネサンスに位置づけられることが多い。
確かにバロック音楽から見れば保守的ではあったが
それでもただ前時代の音楽を再現しただけではなく
通奏低音や合奏器楽など当時の様式も取り入れた。
最も有名な作品は「ミゼレーレ」であろう。
この曲はパレストリーナの「スターバト・マーテル」と共に
ローマのシスティナ礼拝堂以外での演奏が禁じられ、
楽譜の流通も許されなかった。したがって、
これを耳にするにはローマの礼拝に参加するしかないのだが、
1769年に少年モーツァルトがこの地を訪れた際に
この曲を二度聴いて全て覚えてしまい、この門外不出の曲を
正確に記譜してしまったというエピソードは有名である。
《ルネサンス期ドイツ》
ドイツはルネサンス期には音楽後進国であり
世界的な音楽家はまだ登場しなかった。
ドイツ音楽の発展に貢献したのは、
例に漏れずフランドル楽派であり、
特にイザークとラッススの功績は大きかった。
ルネサンス中期にはイザークの高弟であった
ルートヴィヒ・ゼンフル Ludwig Senfl(1486-1543頃)、
また後期にはラッススに師事した
レオンハルト・レヒナー Leonhard Lechner(1553-1606)、
更にはヴェネツィアに留学し、アンドレア・ガブリエリに学んだ
ハンス・レオ・ハスラー Hans Leo Hassler(1562-1612)
などがいたが、ドイツで最も注目すべき作曲家は
ミヒャエル・プレトリウスではないだろうか。
●ミヒャエル・プレトリウス
Michael Praetorius(1571-1621)
ルネサンスよりも初期バロックに位置する作曲家かもしれない。
多作家であり、ルター派プロテスタントの宗教音楽を多く作曲した。
しかしプレトリウスを最も有名にしているのは
唯一の世俗音楽である舞曲集「テレプシコード」であろう。
プレトリウスは演奏法や楽器法についての熱心な研究でも知られ
その著作は現在においても非常に重要な文献となっているが
「テレプシコード」はその研究に基づいた作品である。
wrote by Au-Saga
次回、いよいよバロック期に入る
鬼才モンテヴェルディの登場によって行われたというのが通説となっている。
しかし時代の変革者は全てそうだが、
モンテヴェルディもあるとき突如として現れて
一人で時代を一新させたたわけではない。
それ以前に様々な人々がその登場を準備していたのだ。
バロック期を取り上げる前に、今回はつなぎ編として
ルネサンスからバロックの橋渡しをした人達を見ていこう。
《ヴェネツィア楽派》
ルネサンス期イタリアでも取り上げたため重複することになるが
やはりヴェネツィア楽派を外すわけにはいかない。
ヴェネツィア楽派はフランドル出身のヴィラールトを始祖とし、
アンドレア・ガブリエーリ、そしてその甥のジョバンニ・ガブリエーリ
と受け継がれていき、その頃に最盛期を迎えた。
その代表的な様式である複合唱や器楽の積極的な使用は
正にバロック音楽の原型ともいえる作りとなっている。
このジョバンニ・ガブリエーリの登場をもって
既にバロック時代がスタートしていたとする分類もあるほどだ。
そしてこの後、モンテヴェルディがヴェネツィア大聖堂の宮廷楽長となり
新たな輝かしい時代を作り上げていくことになる。
《マドリガーレの発達》
マドリガーレはイタリアを代表する世俗音楽であるが、その成立の
最重要人物はフランドル楽派のチプリアーノ・デ・ローレであった。
その後ローレからの流れは同じフランドル楽派のヴェルトを経て
国内に次第に浸透していき、やがて
イタリア人の作曲家も多く登場するようになった。
●ルッツァスコ・ルッツァスキ
Luzzascho Luzzaschi(1545頃-1607)
ローレの弟子であると伝えられる。極度に前衛的ではなかったが
バロック形式を先取りした作曲家の一人とみなされている。
そのマドリガーレは当時から非常に高く評価されており、
ルネサンス最大のマドリガーレ作曲家であるジェズアルドが
唯一人、強く影響を受けた人物としてルッツァスキの名を上げている。
●ジョヴァンニ・ジャコモ・ガストルディ
Giovanni Giacomo Gastoldi(1550頃-1622)
ヴェルトの後を受けてマントヴァで活躍した。
ガストルディの曲は、より世俗的な内容のものが多く、
イタリア国内だけでなくドイツやイギリスにも広く影響を及ぼした。
特にイギリスでは後にイギリス・マドリガルが成立していくが
ガストルディの曲はそれに大きく関与している。
その後マドリガーレはイタリアで最重要の音楽となり
ルネサンス後期にはマレンツィオと、そしてとりわけ
ジェズアルドによって最大の発展を遂げることになった。
そしてモンテヴェルディの登場によって、更に新たな
バロック形式によるマドリガーレが生み出されることになる。
《カメラータの登場》
カメラータは16世紀後半にフィレンツェで作られた音楽サークルである。
古代ギリシャ劇音楽の復活を目的とし、様々な研究が重ねられていった。
メンバーには知識人が集まり、かのガリレオ・ガリレイの父、
ヴィンチェンツォ・ガリレイもその一員であった。
このカメラータの研究成果によって生み出された様式がモノディ様式である。
●ジュリオ・カッチーニ
Giulio Caccini(1545頃-1618)
カメラータのメンバーで、モノディ様式最大の担い手がカッチーニであった。
モノディとは、器楽の和音伴奏に乗って語るように歌われる音楽である。
歌詞が聞き取りやすく、形式的な制限もないため表現に自由の幅があり
オペラやマドリガーレに取り入れられていった。
カッチーニのモノディ様式が結集した代表作は「アマリッリ麗し」である。
(カッチーニといえば「アヴェ・マリア」が非常に有名であるが
現在では完全に偽作であることがわかっている)
カッチーニはフィレンツェでメディチ家に仕えたが、
出世欲が強く、ライバル対する嫉妬心も非常に激しかった。
●ヤコポ・ペーリ
Jacopo Peri(1561-1633)
史上初めてオペラを作曲した人物。
1597-98年にかけて、カメラータ研究の総決算として
本格的なギリシャ劇の作成が計画され、音楽担当にペーリが選ばれた。
こうして作られた音楽劇「ダフネ」は史上初のオペラである。
残念ながらこの作品は現存していないが、
同じく1600年頃にペーリが作った「エウリディーチェ」は残っており、
これが今のところ現存する最古のオペラとなっている。
カッチーニはペーリがこの大役に抜擢されたことが相当気に入らなかったらしく、
2作目「エウリディーチェ」が作られた際には
自分も同じ題材でオペラを作曲し、ペーリよりも先に出版した。
しかもそれだけでなくペーリ側の出版の妨害までも企んだと言われている。
●エミリオ・デ・カヴァリエーリ
Emilio de Cavalieri(1550頃-1602)
オペラと並ぶ重要な形式であるオラトリオを最初に作った人物。
オラトリオは歌詞に物語性がある点でオペラと共通するが
オペラが舞台上で演技を伴うのに対し、オラトリオには演技が付かない。
最初のオラトリオ「魂と肉体の劇」は1600年頃作られており、
時期的にもオペラの誕生とほぼ一致する。
近年ではカヴァリエーリの曲は正式にはオラトリオではないとする意見が有力だが
その成立において重要な役割を担ったことに変わりはない。
カヴァリエーリもカッチーニにライバル視されてしまった人物だ。
1600年にフィレンツェでアンリ4世とマリア・デ・メディチの婚礼が催され
ペーリの「エウリディーチェ」が演奏されることになった。
その指揮者に選ばれたがカヴァリエーリだったのだが
カッチーニの妨害によってその座から引き摺り下ろされてしまった。
カッチーニの妨害話はさておき、これらモノディ、オペラ、
オラトリオといった形式は、正にバロックを代表するものであり、
彼らが先駆者として果たした歴史的役割は非常に大きい。
しかし、音楽的には、いずれも実験的な内容に過ぎず
芸術作品としての昇華には、もう少し時間が必要であった。
モノディとオペラはモンテヴェルディによって、
そしてオラトリオはカリッシミによってバロック期に花開くことになる。
《マドリガル・コメディ(音楽喜劇)》
16世紀後半に作られたマドリガル・コメディ。
マドリガーレの連作により物語性を持たせた娯楽音楽であり、
内容は軽く、気楽に楽しめる作品として作られた。
かつてはオペラの前身と捉えられていたが、
カメラータの大掛かりな取り組みとは一線を画しており、
その発祥も違うので、現在では世俗音楽の独自の発展により
生まれた作品と解釈されている。
オペラやオラトリオのようにその後大きく発展することはなかったが
この時代を代表する世俗音楽であり、ルネサンスからバロックへと
音楽が大きく変化する過程で生み出された貴重な記録であるといえる。
代表的な作曲家として
●オラツィオ・ヴェッキ Orazio Vecchi(1550-1605)
●アドリアーノ・バンキエリAdriano Banchieri(1568-1634)
などがいる。
《ローマ楽派》
これまで見てきたように、時代の移り変わりにより
新たな音楽が生み出される動きが出始めていたのだが
中には保守的な作風を頑なに守った例もあった。
教皇のお膝元であるローマでは、
大家パレストリーナの影響が根強く残っており、
いつまでもその伝統的な音楽が好まれ続けた。
そのため音楽的発展が見込まれることはなく
忠実なパレストリーナ様式の継承者が音楽を担っていった。
●マルカントニオ・インジェニエリ
Marc Antonio Ingegnieri(1547-1592)
何といってもモンテヴェルディの師として有名な人物。
しかしその音楽は、教え子のものと違って非常に保守的で
パレストリーナの音楽を更に平明にしたようなものであった。
作品も伝統的な教会音楽がほとんどである。
●グレゴリオ・アレグリ
Gregorio Allegri(1582-1652)
ローマ楽派を代表する作曲家。時代的にはむしろバロックだが、
その音楽様式からルネサンスに位置づけられることが多い。
確かにバロック音楽から見れば保守的ではあったが
それでもただ前時代の音楽を再現しただけではなく
通奏低音や合奏器楽など当時の様式も取り入れた。
最も有名な作品は「ミゼレーレ」であろう。
この曲はパレストリーナの「スターバト・マーテル」と共に
ローマのシスティナ礼拝堂以外での演奏が禁じられ、
楽譜の流通も許されなかった。したがって、
これを耳にするにはローマの礼拝に参加するしかないのだが、
1769年に少年モーツァルトがこの地を訪れた際に
この曲を二度聴いて全て覚えてしまい、この門外不出の曲を
正確に記譜してしまったというエピソードは有名である。
《ルネサンス期ドイツ》
ドイツはルネサンス期には音楽後進国であり
世界的な音楽家はまだ登場しなかった。
ドイツ音楽の発展に貢献したのは、
例に漏れずフランドル楽派であり、
特にイザークとラッススの功績は大きかった。
ルネサンス中期にはイザークの高弟であった
ルートヴィヒ・ゼンフル Ludwig Senfl(1486-1543頃)、
また後期にはラッススに師事した
レオンハルト・レヒナー Leonhard Lechner(1553-1606)、
更にはヴェネツィアに留学し、アンドレア・ガブリエリに学んだ
ハンス・レオ・ハスラー Hans Leo Hassler(1562-1612)
などがいたが、ドイツで最も注目すべき作曲家は
ミヒャエル・プレトリウスではないだろうか。
●ミヒャエル・プレトリウス
Michael Praetorius(1571-1621)
ルネサンスよりも初期バロックに位置する作曲家かもしれない。
多作家であり、ルター派プロテスタントの宗教音楽を多く作曲した。
しかしプレトリウスを最も有名にしているのは
唯一の世俗音楽である舞曲集「テレプシコード」であろう。
プレトリウスは演奏法や楽器法についての熱心な研究でも知られ
その著作は現在においても非常に重要な文献となっているが
「テレプシコード」はその研究に基づいた作品である。
wrote by Au-Saga
次回、いよいよバロック期に入る