2008年03月27日

音楽史11〜バロック、フランス〜

バロック期、フランスは独自の道を歩んだ。
かつてはバロックにフランスを加えず独自の音楽体系と分類されたこともあった。

この時代の音楽は、ブルボン王朝の統治、
すなわちベルサイユ文化と密接に関係している。
このことからブルボン王朝下で活躍した音楽家を総称してベルサイユ楽派と呼ぶ。


《バレ・ド・クールとエール・ド・クール》

初期フランスバロックで人気を博した音楽は
バレ・ド・クールやエール・ド・クールであった。

バレ・ド・クール(バレエ・ド・クール)は宮廷の舞踊、
エール・ド・クールは宮廷の歌という意味になる。

初期の音楽家で重要なのは
・ピエール・ゲドロン Pierre Guedron(1575-1620)
・アントワーヌ・ボエセ Antoine Boesset(1587-1643)
・エティエンヌ・ムリニエ Etienne Moulinie(1600頃-1669以後)
・ミシェル・ランベール Michel Lambert(1610-1696)
等であろう。いずれもバレエやエール・ド・クールで知られた。

またエール・ド・クールに合わせて、その伴奏を受け持つ器楽も発達した。
特にリュートはこの時代最も繁栄した伴奏楽器であった。
最も著名なリュート奏者兼作曲家として
・ドゥニ・ゴーティエ Denis Gaultier(1603-72)
の名を上げることができる。
ただしリュートは音量が小さくて扱いが難しいことから
その後衰退していきクラブサンに取って代わられることになった。


《リュリの登場》

初期のフランスバロックではロッシやカヴァッリのオペラを上演するなど
イタリア音楽を取り入れる試みも行われた。
しかし一部では熱狂を持って迎えられたものの、
完全に受け入れらるものではなかった。
むしろそれらの上演で人々を熱狂させたのは、
幕間で演奏されたリュリのバレエのほうであった。

リュリ
●ジャン=バティスト・リュリ
 Jean-Baptiste Lully(1632-1687)
イタリア生まれだが、才能を認められてフランスに渡り、
太陽王ルイ14世の元でバレエの踊り手・作曲家として活躍した。
フランス国籍を取ってからはベルサイユ最高の作曲家として君臨することとなった。
バレエで成功を収めると同時に、オペラの作曲にも取り組み、
フランスオペラの創始者と呼ばれるまでになった。
オペラ、バレエという新旧の音楽で重要な役割を担ったという点で、
イタリアのモンテヴェルディにも匹敵する存在であるといえる。
また管弦楽ではフランス風序曲を生み出した。
これはアレサンドロ・スカルラッティのイタリア風シンフォニアと並び、
古典派以降に大きな影響を及ぼす重要な器楽形式となっている。
リュリはその音楽的重要度の他に、謀略を以って鳴る権力者としても有名であった。
ライバルたちはことごとくその謀略によって失脚させられていった。
権勢と悪名でならしたリュリであったが、晩年はスキャンダルが災いして
ルイ14世の不興を買うなど必ずしも満足のいくものではなかった。
その最期もルイ14世の病気回復を祝って行われた「テ・デウム」演奏の際に
当時指揮棒代わりに床に突いていた巨大な杖を誤って足に突き刺してしまい
その傷が元でこの世を去ることになってしまった。
お勧め:「ディベルティスマン」
 本来はオペラが重要だが、リュリのオペラは他の多くのバロック作品と同じく
 これまで演奏機会に恵まれてこなかった。最近でこそ復刻もされているが
 奇抜な舞台装置が必要であるなど復活上演には困難も付きまとっている。
 現在リュリの音楽を手軽に楽しむには、オペラの旋律や
 間に挿入されたバレエ音楽などで再編成された管弦楽を選択するのがいいだろう。
 また声楽ではリュリを死に導くことになってしまった曲ではあるが
 「テ・デウム」にその華麗な音楽を聴き取ることが出来る。

シャルパンティエ
●マルカントワーヌ・シャルパンティエ
 Marc-Antoine Charpentier(1643-1704)
フランスバロック期最大の宗教音楽家といわれる人物。
イタリアに行き、オラトリオの大家カリッシミに学んだ。
そのためこの時代のフランスでは珍しくミサ曲やオラトリオを手がけた。
シャルパンティエもリュリにその活動を抑えられてしまった人物の一人である。
にも関わらず今日リュリ以上ともいえるほどその音楽が愛好されているのは
ひとえに音楽の魅力によるものだといえるのではないだろうか。
お勧め:「真夜中のミサ」
 まずはミサ曲が重要で、この曲は最も有名な作品である。
 他にもシャルパンティエ最大のミサである「モロワ氏のミサ」や
 晩年の傑作「聖母被昇天のミサ」、3曲作られた「レクイエム」など
 優れた作品が目白押しとなっている。ミサの他にモテットも有名で
 特に「テ・デウム ニ長調」は3曲ある同名の作品のうち最も規模が大きく、
 その冒頭部分が欧州のサッカー番組に使われたことで広く知られるようになった。
 宗教音楽に傑作が多いが、リュリの妨害にあいながらも頑張って作った
 オペラ等の劇音楽も近年復刻の兆しを見せている。

ドラランド
●ミシェル=リシャール・ドラランド
 Michel-Richard de Lalande(1657-1726)
リュリの後に宮廷で最高権力を握った音楽家である。
ドラランドのグラン・モテ(大規模なモテットの意。対してプチ・モテがある)は
当時絶大な人気を誇っており、それを表現する言葉として
「現在でいうベートーヴェンの交響曲に匹敵するほどだった」
という言い回しがしばしば引用されるほどである。
また当時馬車を個人所有する唯一の作曲家であったともいわれた。
お勧め:「テ・デウム」
 まずはやはりグラン・モテを挙げるべきであろう。
 リュリやシャルパンティエの同名曲との聴き比べも興味深い。
 他にも「ミゼレーレ」や「ルソン・ド・テネブル」など聴きやすい曲が多い。
 「サンフォニー」と題されたファンファーレ集もある。

●アンドレ・カンプラ
 Andre Campra(1660-1744)
宗教音楽とオペラの大家として活躍した。聖職者でもあった。
当時聖職者は劇音楽との関わりを禁止されていたため
宗教音楽のみを作曲していたが、
やがて弟の名前を借りて密かにオペラの作曲を行うようになった。
しかしこれが見つかって教会の職を解かることになってしまった。
その後カンプラはオペラ座の指揮者となり、
物語性のないオペラ・バレエという形式を確立するなど
この分野で重要な役割を果たすことになった。
今日でもリュリとラモーを結ぶ重要なオペラ作曲家として認知されている。
これらの功績が認められてか晩年は再び教会職に復帰し
再度宗教音楽に取り組んで優れた作品を残した。
お勧め:「レクイエム」
 後年の作にあたる、フランスを代表するレクイエム。

●ジャン・ジル
 Jean Gilles(1668-1705)
音楽史上にしばしば登場する夭折の天才作曲家の一人である。
パリやベルサイユに行くことなく生涯南仏に留まって活躍した。
地方のみの活動で名声を得た作曲家は当時としては珍しい。
その代表作「レクイエム」は、ある依頼に基づいて作曲されたが
受け取りを拒否されたため憤慨して封印することを決め
自身の葬儀のときに初めて演奏するようにと遺言した。
死後演奏されたこの曲は瞬く間に人気曲となりフランス宮廷でも絶賛された。
その人気はフランスの葬式でジルの曲が流れないことはないと言われたほどだった。
ジルの早い死は惜しまれ、もしも長生きしていれば
間違いなくドラランドの後任になっただろうと言われた。
お勧め:「レクイエム」
 フランス最高のレクイエムと名高い名曲。


《フランス鍵盤楽器》

バロック期に入って次第に衰退していったリュートに代わり
鍵盤楽器であるクラヴサンが活躍するようになった。

クラヴサンとはいわゆるチェンバロのことである。
この楽器は呼称が難しく、イタリアではチェンバロ、
ドイツではハンマーフリューゲル、イギリスではハープシコード、
フランスではクラヴサンと各地でバラバラの呼び名になっている。
日本では一般にチェンバロを使用するが、
ここではフランス音楽を取り上げているのでクラヴサンと記述することにする。

初期の重要なクラヴサン作曲家を列挙すると以下のようになる。

●ジャック・シャンピオン・ド・シャンボニエール
 Jacques Champion de Chambonnieres(1601頃-1672)
フランス・クラヴサン音楽の創始者とも言われる人物で小規模な作品を多く作った。

●ジャン=アンリ・ダングルベール
 Jean-Henri d'Anglebert(1629-1691)
シャンボニエールの弟子にあたり、その後任として活躍した。

●ルイ・クープラン
 Louis Couperin (1626年頃-1661)
同じくシャンボニエールの弟子に当たる。
クープラン一族はドイツのバッハ一族にも匹敵する有名な音楽一族である。
ルイ・クープランはドイツのフローベルガーの影響も受け、
組曲など国外の様式を積極的に取り入れ、鍵盤音楽の規模を拡大させた。

そして、フランス鍵盤音楽界は大クープランの登場を迎える。

クープラン
●フランソワ・クープラン
 Francois Couperin(1668-1733)
ルイ・クープランの甥に当たり、一族で最も活躍したことから大クープランと呼ばれる。
クープランの登場をもって、フランス鍵盤音楽はその頂点を迎えることになる。
200曲以上に及ぶクラヴサン作品はクープランならではの雰囲気を漂わせており、
その音楽は時代を超えてラヴェルやリヒャルト・シュトラウスにも影響を及ぼした。
フランス音楽嫌いで知られたブラームスもクープランの曲は例外的に好んだという。
鍵盤音楽以外にも室内楽や教会音楽などで優れた作品を残した。
フランスに初めてトリオ・ソナタの形式を持ち込んだとも言われ
イタリア様式とフランス様式の融合を目指した「コレッリ賛」と「リュリ賛」は
当時行われていた二つの様式に対する不毛とも言える対立に
音楽的観点から疑問を投げかける作品となっている。
クープランは当時最も人気のあるジャンルであったオペラを手がけなかったが、
それでもフランスバロック最高の作曲家とされている点でその評価の高さが伺える。
お勧め:「クラヴサン曲集」
 クープランのクラヴサン曲はオルドルと呼ばれる組曲の形式でまとめられているが
 主要曲をバラバラに取り出した抜粋のアルバムなども多く作られている。
 個別には「小さな風車」「神秘的な障壁」「恋の夜鳴きうぐいす」などが有名。
 室内楽では「コレッリ賛」「リュリ賛」「王宮のコンセール」「諸国の人々」など
 声楽ではフランス最高のプチ・モテと名高い「ルソン・ド・テネブル」がある。

ラモー
●ジャン=フィリップ・ラモー
 Jean-Philippe Rameau(1683-1764)
フランスバロックの最後を飾る巨匠。音楽理論家としても知られる。
クープランの後を受け継ぐ鍵盤音楽の大家として名を馳せたが
50歳を超えてからオペラの作曲にも取り組み、30曲ものオペラを世に送り出した。
ラモーのオペラはリュリのものと比較されどちらが上かという論争もされたが
現在ではフランスバロックオペラの2大巨頭として等しく評価されている。
またラモーのクラヴサン曲はクープランのものに比べると
流れよりも厚みを重視した作りになっているのが特徴と言える。
バッハやヘンデルと並んでバロック音楽を完成に導いた人物といえる。
お勧め:「コンセールによるクラヴサン曲集」
 クラヴサンだけでも、合奏を伴っても演奏できるように作られた曲集。
 どちらの形態での録音もあるが、やはり器楽合奏を伴ったほうをお勧めしたい。
 また純粋にクラヴサン独奏のために作られた曲集もある。
 オペラについてはリュリと同じ状態で演奏機会に恵まれているとはいえないため
 まずは管弦楽曲集として再構成されたものを聴くのがいいだろう。


《弦楽器》

弦楽器にはヴァイオリン属とヴィオール属があった。

イタリアでは、グァルネリやストラディヴァリといった製作者や
コレッリを始めとする巨匠演奏家の登場により、
新興のヴァイオリン属が急激に勢力を拡大していった。
しかしフランスでは静かで味わいのあるヴィオール属のほうが
相変わらず好まれていた。

●サント=コロンブ
 Monsieur de Sainte-Colombe(1630頃-1700年頃)
代表的なヴィオール奏者だが、不明な点が多く本名も知られていない。
しかし残された音楽はいずれも素晴らしく、
今日のヴィオール奏者にとって極めて重要な作曲家である。
お勧め:「悲しみのトンボー」
 67曲の「2台のヴィオールのための合奏曲」が、
 残されたサント=コロンブの音楽の全てである。これはその中の一曲。

マレ
●マラン・マレ
 Marin Marais(1656-1728)
サント=コロンブに師事したフランスバロック最大のヴィオール奏者。
リュリと知遇を得たこともあり、宮廷内での出世は順調であった。
後にオペラの作曲も手がけ、また指揮者としても活躍した。
お勧め:「サント=コロンブ氏への追悼」
 師であるサント=コロンブの死を悼んで作られた名曲。
 マレには5巻に及ぶヴィオール曲集があり曲の総数は500にものぼるといわれる。

●アントワーヌ・フォルクレ
 Antoine Forqueray(1671頃-1745)
マレと並び称されたヴィオールの巨匠。
「天使のように弾くマレ」に対して「悪魔のように弾くフォルクレ」と評された。
気性が激しく、自分の息子に対してさえも嫉妬心をむき出しにしたといわれる。
フォルクレは自らの神秘性を演出するため自作の出版を一切行わなかった。
そのためその音楽は息子ジャン=バティストによる編集版でのみ知ることが出来る。
お勧め:「ヴィオールと通奏低音のための曲集」
 息子ジャン=バティストの編集によって残された作品集。
 自身作曲家であったジャン=バティストは、
 このうちいくつかをクラヴサン用に編曲しており、
 現在ではそちらのほうが演奏機会が多いかもしれない。
 父から不当な扱いを受けたジャン=バティストだが
 その作品を残すことには献身的だった。

●ジャン=マリー・ルクレール
  Jean-Marie Leclair(1697-1764)
フランス初のヴァイオリンの巨匠。コレッリの弟子であるソーミスに学び、
ヴィオールが支配的であったフランスにヴァイオリンを持ち込んだ人物。
後に隆盛を極めるフランス=ベルギーヴァイオリン楽派の創始者とも言われる。
イタリアの巨匠ヴァイオリン奏者、ロカテッリの影響を強く受けたといわれる。
ルクレールは「天使のように」弾き、
ロカテッリは「悪魔のように」弾いたと評された。
どこかで聞いたような評だが、当時このような言い回しが流行っていたのだろうか。
最期は原因不明の他殺体で発見された。
作曲家が他殺で最期を向かえるというのは意外と珍しいことである。
お勧め:「ヴァイオリン・ソナタ第6番《トンボー》」
 トンボーは「墓」という意味で、死者の追悼のための音楽である。
 この当時フランスで好んで用いられたタイトルである。

この後ヴィオール属はヴァイオリン属に追いやられ表舞台から姿を消してしまう。
現在オーケストラで一般に使われている弦楽器、
ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロはいずれもヴァイオリン属である。
ただし、コントラバスだけはヴィオール属の生き残りであるともいわれている。


wrote by Au-Saga

次回は、ドイツ・バロック



antonio_salieri at 16:12│Comments(0)TrackBack(0)clip!au-saga | 音楽史

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