谷本仰

日々の思いや、ライブのことなど

やっと更新!5‐6月はこんな感じです!

5/23(木)第二回ルンルンレコードナイト 語り部:谷本仰
【小倉・美容室ルンルンケッケ】080-1538-5068
小倉北区木町2丁目19-18
19時開始、入場料1000円(食べ放題、飲み物持参)
お座敷で様々なレコードをかけながら、まつわる話を。

5/31〜6/2 三枝彩子「歌の帆日記:大地は緑に」
      アルバム発売記念ライブ3days

三枝彩子(モンゴル民謡他)、谷本仰(ヴァイオリン)三枝彩子

5/31(金)親子向け歌の帆演奏会
【LAくべるコミュニティカフェ(阿蘇高森フォークスクール内)】
阿蘇郡高森町上色見1390-1
14時〜15時
参加費:大人1000円/子ども無料

5/31(金)
【熊本・tsukimi】096-227-6593
熊本市中央区南千反畑町1-3満月ビル2F 
19時半開演(19時開場)
大人3,000円+ワンドリンク/学生1,000円+ワンドリンク
▼お問合せ・ご予約: long6bridge@yahoo.co.jp  / tsukimi インスタDM  @tsukimi_kumamoto
ご予約は[イベント名・お名前・ご連絡先・ご参加数]を記載してご連絡ください。

6/1(土)
【熊本御船・オーガニックカフェそらのもり】
熊本県上益城郡御船町七滝5021
14時開演(12時開場)
ライブ料金(ワンドリンク付き):大人¥2,500/学生¥1,000
ランチ料金(12:00〜※要予約):ランチ¥1,000/デザート¥500
▼お問合せ・ご予約:TEL 090-8390-5616(オガタ)soranomori.cafe@gmail.com

6/2(日) 
【北九州八幡・DELSOL CAFE】093-662-2013
福岡県北九州市八幡東区前田3-10-26
19時開演(18時半開場)
2,000円(別途要オーダー)

詳しくは→ https://utanoho.blog.jp/archives/23657796.html


6/3(月) 寺田町&麋高志(cb)九州ツアー
【北九州八幡・デルソル・カフェ】093-662-2013
北九州市八幡東区前田3-10-10−26
開場19時 開演19時半
料金 予約 3000円(要別途オーダー)
ゲスト/谷本仰(ヴァイオリン) Aji(パーカッション) 月光ワタル(エレクトリックギターと歌)


6/7〜8「ホシハ チカニ オドル」広島公演2024
【広島上八木 カフェ・テアトロ・アビエルト】
広島市安佐南区八木9丁目10-40
6/7(金) 19:00〜20:40
6/8(土) 13:00〜14:40 16:30〜18:10
開場は開演の30分前/上演75分、5分後からトーク20分での、全長1時間40分。
出演 大槻オサム:芝居・身体表現
   谷本仰:音楽・演奏
※終演後トークゲスト
6/7➀ 田浪亜央江 さん(パレスチナ文化研究)/ 藤原辰史さん(歴史学者)
6/8 平石もも さん(アートマネジメント)
6/8 ガタロ さん(画家)
一般予約 2500円 当日3000円 学生(中〜大学・専門) 1500円 
小学生1000円(未就学児無料)※演出上、会場が真っ暗になる場面があります。ご留意ください。
※アゲイン予約=今までホシチカを観たことのある方はその時の会場名・時期を書いてご予約頂けたら500円割引。
※リピート割引=今回の公演を両方ご覧になる場合2回目は1500円でご予約できます(学生500円)。  
予約・お問い合わせ tandokuryokousha@gmail.com
           080-1711-5074(ピカラック)

6/12(水)ソロ
かんかん村音楽会
【南小倉バプテスト教会】093-571-5072
福岡県北九州市小倉北区弁天町11-19

6/21(金)村田十三(ds)、谷本仰(vn)、AVAN(cb)
【北九州八幡・DEL SOL CAFE】093-662-2013
福岡県北九州市八幡東区前田3-10-26
開場19時 開演19時半0
2,500円(別途要オーダー)

6/23(日)トリオ・ロス・ファンダンゴス
ミロンガ
【福岡天神ティエンポ】092-762-4100
福岡県福岡市中央区大名1-15-11・3階
開場 18時 演奏開始20時半前後
チャージ 2,800円 (T.I. 会員2,300円)
※ ワンドリンクチケット込み
ダンスショウ:Martin y Viveka

6/28(金)トリオ・ロス・ファンダンゴス
【日田・アートカフェ桃の木】080-3900-1402
大分県日田市亀山町2-17
19時開場、19時半開演
3000円

6/29(土)Solo Dialogues
【北九州八幡・DEL SOL CAFE】093-662-2013
福岡県北九州市八幡東区前田3-10-26
開場 18時半 開演 19時
自由に金額を決めて入れてください制(要別途オーダー)

マタイ福音書5章13-16節。「いのちの水は流れて MOL説教・証詞集4」(1979)より。

国立ハンセン病療養所沖縄愛楽園・祈りの家教会司祭による説教。

塩は防腐剤、調味料。塩の役目をする人々はなくてならぬ存在。それを果たすためには塩自身の形を失わねばならない。イエス様のご一生がそれだった。

塩には独特の味があり、それを失っては塩の役割は果たせない。人間の体に塩は必要。また塩は解毒剤でもある。

信仰の味も塩のようにピリッとしていなければならない。砂糖のように甘いのではダメ。

神の義によって塩漬けられた信仰の戦いは涙と汗でかち取らねばならない。涙と汗もまた塩で味付けられているから尊い。

光は暗黒を照らす。そこに光の正義性がある。またそれは暗闇の中で道しるべ。そこに光の愛の性格が現わされる。イエスはこの世の光。

人間は三つに分類できる。第一の人は、利己的な人。第二の人は、義理は果たすが損をするような事はしない人。第三の型の人は、富貴栄達を望まず、損得を顧みず、悲しめる人、苦しんでいる人のためには、生涯を捧げても悔いない人で、世間体とか人の顔色を伺わないかわり、神のみ声を聞く人。

家庭、教会、社会、国家において、どの型の人が多いか少ないかでその命運が決まる。第三の型の人によってその文化、福祉は進歩発展している。この人たちこそ、地の塩・世の光。

熊本回春病院長になったハンナ・リデル、そして彼女に遣わされて沖縄での激しく暴力的な拒絶に遭いながらもやがて愛楽園を誕生させた青木恵哉は、この地の塩、世の光そのもの。

当初激しく反対し迫害を加えていた地元・済井出の人びとも、現在では百名以上が愛楽園に就職し、「救ライ」の第一線で活躍しているのは不思議な因縁。たとえ、ライ無き輝かしい将来においても、愛楽園の広大な施設は福祉施設としてますます活用され、地元済井出の就職は子々孫々に及ぶだろう。

昔、あんなに嫌ったライ者のお陰で愛楽園が創立され、就職難の今日、希望者は殺到し、現在では愛楽園様様。今昔の感なきにあらず。

そう徳田は語る。

愛楽園創立者の青木恵哉が受けた数々の激しい迫害の描写、無人島に患者らと共に追いやられた彼の言葉が胸を打つ。

魚ならば海にもぐりても生きん
鳥ならば空に舞い上がりても逃れん
五尺の体住む所なし

自らハンセン病患者として愛楽園に隔離収容された徳田自身の人生の悲しみが響き合っている。迫害していた地域住民の生活を愛楽園が支えているのを眺める徳田の複雑な思いも見てとれる。そのようにして示される「地の塩・世の光」の悲しみ、希望と未来。

詩篇139篇。「地の基ふるい動く」(1947)より。

神が必要でないところは、天にも、死の底にもない。

自分の何もかもが神に見通されていて、知られている。自分の知らないところまで、知られたくないところや隠しておきたい恥辱と醜さも。

誰が、それに堪えられるだろうか。どの途にも、どの休息の場所にも、いつでもいるような伴侶を憎まないものがあろうか。そのような普段の伴侶の獄を破ろうと望まないものがあろうか。

自分以外に、自分以上に、自分を知っている者などほしくない。誰も、絶対的に知られることを欲しない。人間は神でありたい。神から逃げたい。

しかし、絶対的独居、究極的孤独はない。われわれは常に、われわれより偉大で、われわれに対して要求し、われわれからの応答を要求するような何物かによって把持され、包含されている。魂の奥底の最もひそかな動きさえも、全く我々自身のものではない。これらはわれわれの友人たち、人類、世界、そしてすべての存在の「基」、我々の生命の目的に属する。どのようなものも絶対的には隠されえない。

この緊張から人間は逃れられない。神を殺す者は結局、人のうちに神を見出す。神は常に、何か、あるいは何者かのうちに復活する。神は殺されることがない。

神から逃れ、神を殺す以外のもう一つの解決は、神をほめたたえること。神は人間の生命の基、創造的根拠。そして生命、人生の全貌を見通し、そこに究極的意義を見出し与える。そう詩篇作者は言う。

しかし作者は突然神に背く。怒りに燃え「敵を殺してください」と叫ぶ。讃美は呪詛に変わる。自分の憎むものを神も憎み、神の敵は彼の敵でなければならない。彼はたった今語ったばかりの、彼の思いと神の思いの間の無限のへだたりを忘れ、自らを神と等しいものと感じる。宗教的狂信が現れる。これが教会の頑迷さ、道徳家の残酷さ、正統派の頑固さに油を注いだ。宗教の罪が最大の詩篇のうちに現れる。教会の歴史やキリスト教の理想を歪めたのはこの罪であり、パウロ、ヨハネにおいても完全に避けられていないもの。

しかし彼は突如また詩篇の冒頭に帰る。彼は自分の誤りを感じ、何かは知らないが神はそれを知っていると確信し、最も偉大な祈りで結ぶ。「神よ、どうか、わたしを探って、わが心を知り、わたしを試みて、わがもろもろの思いを知ってください。わたしに悪しき道のあるかないかを見て、わたしをとこしえの道に導いてください。」彼は、迷いを克服する。

この緊張に到達したか、これに堪えうるか否かによって人間は究極的に裁かれる。これに堪えることは、何よりも恐ろしく、困難。しかしそれだけが、われわれの生命の究極的意義、喜び、自由を獲得しうる道。一人一人がみなこれに堪えるべく召されている。この召命に堪える力と勇気を持ちたい。それが人間の使命だから。

ティリッヒはこう語る。

子どもの頃、トイレに入って座っているときも、神さまは何でも見ているなら、今も見られているのか、と考えてなんだか居心地が悪かったのを思い出す。あれだ。

わたしの、まだ知らない未来を、神は知っている。わたしがまだ見ていない、わたしの夜明けを、神は見ている。トイレに座ってひとりため息をついているわたしの、まだ見ぬ明日を、神は見ている。

詩篇42編2-6節。1917年8月12日。

われわれの中に何ものかがあって、それが活ける神を渇望している。

神は、われわれがくり返し突き当たって何か名前をつけなければならない、未知ではかり知ることのできない存在か。われわれの生活の上方にある重く暗い力か。一つの美しくて真実な思想か。時折感情をあたためなおしてくれる火か。

それらはわれわれを決して満足させない。われわれはそれとは別のものを本来、目指している。われわれはそれらに飽き飽きしている。それが活ける神への渇き。

活ける神は真に神であり給う神。無であるすべてのものを破って力強く現われ出てくる存在そのもの。すべての車輪を押し進める車輪。存在する全てのものから中心へと強力に進んでいく方。すべてのものの上に存在しすべての者の中に存在しまず人間において栄光を受けようとする、自由の明るい力。死の力に打ち勝つ生命の力。電気の力やダイナマイトの力のように−あるいは金の力や病気の力のように、リアルで明白で本物の力。世界の中に差し入れられた梃子。現実化される事実、どのような状況にあってもその上に人が二本の脚で立つことのできる事実、パンによって養われるようにそれによって養われる事実、人が砦に退くようにその中に退く事実、次々に喜ばしい出撃を四方に向かって敢行する包囲された軍隊のようにそこからわれわれが打って出る砦。

その「先」というものはない。この場所に−活ける神を求めての渇きと叫びのもとに、あくまで留まること。

もしわれわれが、そのような者であり続けるならば。われわれは永遠にわれわれを潤す泉の前に立つ。

こうバルトは語る。

神とは何かをバルトは示そうとする。しかしそれは抽象的で、内面的で、難解で、わくわくしないし、わからない。何より現実の中で苦しみを負って生きる者たちの具体的な悲しみや痛みとの結びつきがない。だから神の力を電気やダイナマイト、金や病気、戦争といった、陳腐な力にそのまま喩え、これを「リアルで明白で本物」と言ってしまう。M.L.キングなら、どう語るだろう。

生きる元気や希望を奪われている者。尊厳を踏みにじられた者。つながりを断たれて孤立している者。この世界で呻いているみんなが、生き延びるためのことばが欲しい。「渇き」はさらに強くなるのだった。

ヨハネ福音書1章14‐18節、「福音と世界」1977年5月号。

「言は肉体となった」。これはヨハネ福音書の重要なテーマ。肉体は、初期のキリスト教を取り巻いていた支配的思想であるギリシャ哲学では原理的に拒否、否定、克服されるべきものであり、受肉は堕落。しかしヨハネ福音書はそこに大胆にも栄光を見出す。

神は自らの本質を、肉体において、見える形で示した。それは人間のためになされた神の自己限定、自己謙卑化。神は自ら堕落し、汚れてくださったことによって、罪と死、孤独と不振、不正と暴力を運命とするこの私どもの「肉」が、それにもかかわらず、神に受け入れられた。

「受肉」において、悲惨と不条理に満ちたこの世界は、もはや失われることなき救いの出来事に摂取された。それは恵みの出来事だった。私どもの「肉体」は汚れに染み、この世界は醜悪そのもの。しかしそれがみ言葉の「受肉」の場となったことによって肯定され、真に美しいものとされた。私たちはこの世界以外に生きる場所を持たず、持つ必要もない。この世を十分に生きればよい。

神の言はイエスという肉体となって「わたしたちのうちに宿った」。イエスは私たち人間の運命に連帯し、私たちと共に、重いこの世の生活を生きた。それは私たちも主イエスの生に連帯させられ、彼と共に歩む者とされたことを意味する。

それはめぐみとまことに満ちていた、とヨハネ福音書は言う。「めぐみ」はゆるし、慈しむ。「まこと」はさばき、正す。私たちは主イエスの慈しみのもとで、ゆるしの中で、さばかれ、正しくされる。愛の中で真実にされ、正直にされる。

「肉体」の反復だけでは何も起こらない。人間はそれでは生きられない。言が先行し、言が肉体となってこそ。

主イエスが「肉体」を愛し、「肉体」において苦しんだからこそ、私たちもそうする。「肉体」として生きることの喜び、「栄光」そして感謝。それは「イエス・キリストをとおしてきた。

関田寛雄はそう語る。

人間は本性的に汚れていて、罪に満ちている。キリスト教の原罪論はそう語る。しかしこのキリスト教の立場自体、ギリシャ哲学やグノーシス主義の影響を受けたものに違いない。確かに人間は不完全。汚れや「罪」に満ちている。しかしそれはいずれも実際の生の中で、現実、事実として立ち現れてくる事柄。それは「本性」なのか?「本質」「本性」は疑わしい。それは「具体性」からわれわれを遠ざけ、生を抽象化する。

神のみが完全な「清さ」であるなら、神は人間と共に生きることはできない。なぜ神は、わざわざ「卑下」しなければならないのか。むしろそのような清さや高さに、神を祭り上げたのは、人間を下らない存在だと規定しようとする者の仕業ではないのか。それは支配者、差別者の思惑と一致する。そんな思惑を内在化させてしまうなら、我々自身もまた彼らを自らのうちに受肉させることになる。

「受肉」とはむしろ、その神が、自らに着せられた偽りの「清性」の衣を脱ぎ捨てた出来事ではないか。そんなところに、わざわざ降りて来なければならないような高きに座す者として神は存在しない。神は共に汚れや罪の現実の中で苦しみながら、しかしそんな人間の生を祝福し、そこにある美しさや光を喜ぶ。イエス・キリストが示したのは、そういう神だったのではないか。荊冠のイエスは、偽りの光輝を放つ王冠を投げ棄て、神のほんとうのしるしを身に着けたのではなかったか。

人間に、とりわけ支配者によって着せられた清性をかなぐり捨てた神こそが、わたしたちの光であり希望。この説教は、そんなことを思わせた。

コロサイ人への手紙3章1-4節、1932年6月12日・三位一体後第三主日。

「このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。…」これらの言葉によって我々の生は支えられ、取り上げられ、救い上げられる。

この世の現実に常に忠実である事が無数の人びとの関心事。キリスト者も例外ではない。神からわれわれに課された課題にこの地上で忠実であったかどうか、神に問われる。事柄をあるままに放置せず、信仰は不正の満ちたこの世のただ中で心安らかに満足させる阿片では決してないこと、われわれは、上にあるものを思うゆえに、この地上にあって、はるかに強硬に、目的をよく意識して抵抗するということを証ししなければならない。言葉と行動による抵抗を、どんな代償を払おうとも、先頭に立って実行せねばならない。

それでもなお、わたしたちはこの救いの言葉を求めている。

ここには「あなたがたは死んだものである」という言葉が立ちはだかっている。われわれは限界づけられた存在。生きている時も死ぬ時も、失われた者、神に捨てられた者。わたしたちは神のうちにすでに守られていて、神のところにすぐ簡単に一歩で行けると考え、それを教会で聞きたいと願う。しかし聖書は逆のことを言う。

それは「そして、あなたがたのいのちはキリストと共に神のうちに隠されているのである」と続けて言うため。死の現実のただ中に、イエス・キリストが共におられる。そして彼によって、われわれは復活の出来事に引き入れられる。「あなたがたは死んだものである−だがしかし、あなたがたはよみがえらされているのだ!あなたがたには不安がある−だがしかし、あなたがたはよろこべるのだ!」

われわれの現実の生がたとえどのようであろうと、この事実に変わりはない。我々自身がこの故郷を失った者の異郷の地でのさすらいのただ中で、すでに、故郷にいる。

われわれの現実の生はかなたへと、夢のように、呪いのように流れて行く。悪魔的なものに支配され、もろもろの危機に巻き込まれ、罪によって積み重ねられ−この生は、死せる生。しかし、それはすべて神のうちに救い上げられている。死の手中に落ちているものとして、それは神によって死より引き離され、失われた者として、神に救われている。

「どのような涙も無駄に流されず、どのような嘆息も聞き流されることはなく、どのような痛みも軽くあしらわれず、どのような歓呼も消え失せることはない。現実のこの世界はすべてを越えて、かなたに消え去っていく。しかし、恵みと憐れみと大いなるいつくしみとによって、神はわれわれの燃えて熱する生を集め給う。神はそれをイエス・キリストのゆえに栄化し給う。神はそれをあの隠された世界で、新たにし、よきものとなし給う。」

そうボンヘッファーは語る。

ナチスが国会で第一党となる前月。徹底的に、希望は神のところにのみある、と語る説教。神は、燃え尽きて熱い灰になってしまったあらゆる涙、溜息、痛み、喜びをかき集めて復活させる、というくだりに、胸が熱くなる。

通算39号のほぼ月刊ソロCDR、5月号はこんな感じです。

1 アナログミキサー1:普通はマイクや楽器をつないで、音量のバランスをとって出力させるための「ミキサー」を、楽器・発音機として使って。ミキシングボードの出力端子を入力端子につないで、内部でフィードバックを起こして出る音を演奏するいわゆる"no-input mixing board"での初めての演奏。エフェクトペダルで変調させながら。楽しい音がいっぱい。

2 アナログ・ミキサー2:1とは違う音を目指して。わずかなツマミの動きが音を変えるので、ものすごく微細な操作で音を変調させる。こちらはエフェクトを通さず、ミキサーそのものの音のみ。

3 海:ほぼ月刊CDR初めての歌、か?エレクトリックヴァイオリン爪弾きながら。
 
 海は広いな大きいな 月がのぼるし日が沈む
 海は大波青い波 揺れてどこまで続くやら
 海にお船を浮かばせて 行ってみたいなよその国

4 アコースティックヴァイオリン自由即興:アコースティックヴァイオリンだけ、ノーエフェクトで。生ヴァイオリンの即興は短く終わることの多いけれど、これは7分余りかけて、ゆっくり。

5 エレクトリックヴァイオリン自由即興:11分近くの即興演奏。こちらもゆっくり。

そんなこんなの5曲入り。お楽しみいただけたなら幸いです!

1000円以上、カンパ歓迎。
通販・郵送いたします。ブログトップの右側の「お問い合せ」からメールで、またはfbやX、Instagramのメッセージでどうぞ。

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マルコ福音書10章35-45節、1985年6月23日。

キリストのからだである教会は、世界に向けての神の愛を言葉と行動で伝えるために存在する。そのために僕(しもべ)の役割を果たさねばならない。仕える者となる以外に、イエスの弟子になる道はない。

教会が仕える者として存在し働くとき、五つの結果がついてくる。

⑴苦痛が伴う。教会が民衆と共に正義と自由のために献身的にたたかう時、危険を覚悟しなければならない。権力と権威で民衆を自分たちの目的に利用しようとする者や、社会的不平等と不義によって利益を得る人々にとって脅威となり、不利益となるから。

⑵受難の主イエス・キリストに忠実であろうとし、預言者的宣教に向かう教会は、世間一般でいう「成功」をおさめられず、教会員が増えず、社会の安全を乱すと非難され当局から憎まれる。これは貧しい者と虐げられた者の友である受難のイエス・キリストに従う時、教会が支払わねばならない高価な代価。教会員が増え財産と地位と影響力が大きくなる教会では、信徒の期待に応えるために福音の告知が制約を受ける。富と健康と成功を約束する説教は、信徒たちに十字架を負うよう説得することが出来ない。このような教会の宣教は教会員の霊的な必要を満たすことに重点を置き、それが成功と名声を与える。

⑶少数の権力者が多数の民衆を支配するために作られた間違った構造と制度の改革を宣教の使命としなければならない。

⑷自分たち・教会やクリスチャン以外にも仕える共同体があるという事実を認め、受け入れなければならない。

⑸報酬や代価を期待することなく他人に仕えなければならない。それが自由であり解放。教会は自己愛を拒否する共同体。

朴炯圭はこの日も警察署前の路上のソウル第一教会礼拝で語った。韓国民主化運動に連帯し、受難のイエス・キリストに忠実な歩みを目指す教会の信仰的矜持が端的に示されていて、身が引き締まる。

1967年4月9日、イリノイ州・ニュー・カヴィナント・バプテスト教会にて。

完全なる人生には長さ、幅、高さの三つの次元がある。

人生の長さとは、自分自身を愛さねばならないということ。人生の基本原理である自己受容が人生における基本原理。それぞれの人生で最善を尽くすとき、人生の長さを成就することになる。

人生の幅とは、他者の幸福に対する具体的関心。「この人を助けたら私はどうなるだろうか」という恐れを乗り越えて「この人を私が助けなかったら、この人はどうなるだろうか」と問い、他者を助けること。最後の日、神は私たちにこの関わりの有無を問う。そもそも私たちはみんな他者に依存して生きている。神がそのように世界を構成した。

人生の高さとは、神がおられると信じ、神を求めること。神の中に安息を見出すまでは、誰も平安であることができない。

シスター・ポラードはバスボイコット運動の中で「私の足は疲れてますが、わたしの魂は安らかです」と言って歩き続けた。わたしが疲れと恐れの中にあったとき、彼女はわたしを励まし、最後に「主があなたの面倒をみてくださいますよ」と言ってくれた。

色々なことを経験する度、この言葉を思い出す。それゆえ私は誰に対しても、しっかりと大地に足をつけ、顔を上げて立ち向かうことができる。

「夜はさらに暗くなり、闘いはさらに厳しくなるかもしれない。だが正しいこと、正義、公義のために立ち上がれ。見よ、わたしは世の終わりまであなたがたと共にいる。」そうイエスは語る。

決して離れない、一人にはしない、とイエスは約束してくれた。これを信じるなら、周りの他の人びとが泣き叫んでいる時に、微笑むようになる。これが神の力。

これら三つの次元を全部見出したとき、みなさんは歩きだすことができ、決して疲れなくなる。…

M.L.キングはそう語る。

心が、世界が、大きく広げられ膨らむ説教。慰められ、勇気づけられ、うれしくなる。

アルゼンチンタンゴ楽団トリオ・ロス・ファンダンゴスと、ダンサー・ケンジ&リリアナが、2002年から毎春GWに開催してきたタンゴショウ「タンゴの節句」。2020年、21年のコロナ禍での中断の後、一昨年、昨年と二年をかけて少しずつ徐々に回復、そしてついに今年、五年ぶりの全日程ホール公演で完全復活。

「やっとです。でも元に戻ったのではありません。ご覧いただくのは、この間も成長を続け、すっかり新しくなったタンゴの節句です。どうぞ心ゆくまでお楽しみください。」プログラムの挨拶にはこう書きました。

何よりもの新しさは、マーシー&マギが加わり、タンゴの節句が格段にバラエティとスピードを増したことです。お二人は、タンゴの節句が小規模ながらまた立ち上がった2022年に、手弁当で北九州にかけつけてくれ、それ以来この旅に加わったのでした。そして23年、門司港・三宜楼でのタンゴの節句2023千秋楽。金屏風を背にしての百畳間で、二組のダンサーが目まぐるしく入れ替わり立ち替わり登場しては世界を変え、時に芝居仕立てで二組がタンゴの物語を演じ、観客に息をつく暇さえ与えない、かつてない見世物へと、タンゴの節句は踏み込んだのでした。

今回福岡の会場は初めてのサイエンスホール。本公演前夜5月2日のミロンガには沢山のタンゴファンがおいでくださり、フロアにきれいなダンスの輪・ロンダが出来ました。ミロンガを大事にしてきてよかった、と心の底から思えた一夜でした。

翌日は同会場でいよいよ本公演。久しぶりの広々としたステージ、そしてフロアでのタンゴショウ。演奏中に、感覚が戻ってきたのでした。ケンジ&リリアナのダンスには思わず涙。演奏の音やタイミングを細かくとって踊るマーシー&マギに、にやり。新曲を含めて熱唱するKaZZmaの歌はこの間さらに円熟味を増し、演奏との掛け合いはさらに丁々発止に。二組のダンサーと歌と演奏が一体となっての大団円の迫力は、これまでにないものでした。

5月4日は五年ぶりの北九州芸術劇場小劇場。満員の客席を前に「ただいま戻ってまいりました!」と挨拶した瞬間、「おかえり!」という熱い歓声と拍手がホールに満ちて、ぐっと来ました。こんなにまで熱く迎えられたのは、初めてかもしれません。終演まで、ただただ幸せでした。

5月6日、宮崎市民文化ホール。宮崎でのタンゴの節句は五年ぶりです。宮崎で開かれているいわつなおこさんのアコーディオン教室のメンバーが中心になって、集客や会場準備など本当に献身的に担ってくださり、この公演を迎えることができました。満員の会場につめかけた皆さんが、温かいのでした。やさしくてやわらかいのでした。KaZZmaが北九州公演終演後、東京に帰り、七人でのステージ。ここだけの出し物を幾つも用意してのスペシャルプログラムが客席を沸かせました。宮崎での公演を最初から支えてきてくださり、今回二人の息子さんに両脇を抱えられるようにしておいでくださったAさんは終演後、目に涙をためながら、「生きんと損だと思った!」と力強く語ってくださったのでした。

ようこそ、タンゴの節句2024へ。そうプログラムに書きました。しかし迎えられたのは、タンゴの節句自身でした。いや、みんな迎えられたのです。今日という日に。ようこそ、は本当によくぞ、という意味です。誰もがみんな、この間を生き延び、生き抜いて、「今」に辿り着いたのです。本当に、ようこそ。

スタッフの皆さんには本当に助けられました。ありがとうございました。

もう次のことを考え始めています。ようこそ、ようこそ、と迎えられながら生きる。生きんと損、とばかりに生きる。その喜びを味わうタンゴの節句を、これからも!

ありがとうございました。

詩篇29編、1977年11月。「この囲いの外の羊をも」より。

詩篇はパレスチナの砂漠を襲う激しい嵐と、その嵐のまえで高い山々が子牛のように踊り、林の木々が裸にされる光景を描き、その中で神の栄光への賛美をうたう。

7回繰り返される「主のみ声」は雷鳴のこと。それに折り砕かれる「香柏」は高さ40メートル、周囲10メートルにもなる大木。神に踊らされる「レバノン」は2000メートル級の山々がそびえるレバノン山脈、「シリオン」はヘルモン山、レバノン山脈の向こう側を走る山脈の中で一番高い山。

東シナ海の嵐の海を船で通った時、衝撃と恐れの中で、嵐に翻弄される木の葉のような船は、人間の運命の象徴のように思われた。高知の桂浜では、人々は嵐のとき、嵐をみるために桂浜に行くという。

しかし詩篇は、ただ嵐の力強さを賛美したのではなく、大自然の暴風雨の中に、神のさばきと恵みを見出している。

「主は洪水の上に座し」という言葉は、神が地上の嵐がどのように吹き荒れているときも、神はその嵐のはるか「上に」座しているという信仰をうたっている。

イスラエル民族は、どのような高い山に対しても、その山自身を神としたり、山が神の住居であるとは考えず、その山のはるか「上に」、天にいる神を信じた。そこから見れば、地上にそびえる山々も地表面のでこぼこにすぎない。

地上で激しい嵐が吹き荒れる中にあって、天上では、すべての天使が神のわざを賛美している。

秩序だった社会を、歴史の嵐が通り過ぎる。歴史上の建物や人物、法秩序、国家、社会が、この嵐の中で折り砕かれ、揺さぶられる。

嵐の上に存在する神、最後の嵐である死に打ち勝って甦ったイエス・キリストを信じ、嵐を避けず、嵐のない海を幻想せず、嵐の中を堂々と生きていく信仰を与えられたい。戸村はこう締めくくる。

嵐の上にいるはずのこの神が、嵐のただ中に共に在る。イエスが示したのはそんな神。不思議な神だったのだ。

マタイ福音書18章20節。1996年7月4日、西南女学院短大学寮夕拝にて。

テレビドラマ「ロング・ヴァケイション」で主人公の二人は互いに似た感性を持っていて、気の合う友達だった。しかしいざ恋人同士になり、ガシっと向き合うとうまくいかなくなる。

それはわたしたち全ての関係においても言える。たとえば寮のルームメイト。仲良すぎると息が詰まってくるが、適度な距離感があるとうまくいく。

韓国と日本の関係においても言える。非常に似た感性をもつ韓国人と日本人。しかしガシっと向き合って話し始めるとうまくいかなかったりする。

よく似た二人の人間が、二人で共に生きていて、お互いに衝突しないでうまくいくというのは、実はそこに、目には見えないけれど、もう一人の、三人目の人がいて、その人が二人を結びつけている。聖書で言うと、その三人目の人がイエス・キリスト。彼がそのようにそこにおられる時、私たちは本当にお互いに人間として、まっすぐに愛しあうことができる。

イエス・キリストがどのような姿で私たちの間におられるのかは、わからない。ある時は二人の間に流れるピアノのメロディーとして、ある時は、二人の間に生まれた子どもとして、またある時には、二人の先生や友達として、イエス・キリストは、私たちを守り、私たちがお互いに誤解したり、行き違いをしたりすることなく、心から愛しあうことを助ける。ある時には二人の間のクッションとなり、ある時には二人をしっかりつなぎとめる鎖となって、私たちの関係を守る。片山寛はそう語る。

ピアノのメロディーとして人間の間を取り持つイエス・キリスト、というくだりが印象的。あの手この手で、変幻自在に、人間を結びつけるイエス・キリスト。風のように。

トルストイの「愛あるところに神あり」(「靴屋のマルチン」)をも思い出した。イエス・キリストは助けを必要とする誰かとして、わたしたちの所に来る。

1977年1月16日。ヨハネ黙示録22章10—16節。「主イエスよ来たり給え ガリラヤ教会説教集」より。

「わたしはすぐに来る」と言うキリストは、歴史の始めであり、終末をなしとげる方。歴史の中で具体的事件を起こす方。明けの明星として新しい時代の黎明を負って来る方。今が新しい世界の幕明け前夜、古い歴史の終末直前であることが、彼によって示されている。

かつては、まだ封じておくよう指示されていた神の言が、ここでは、その時が来たのだから封じてはならない、と記されている。

「前夜」は不義な者と義なる者の両極化によって示される。不義な者は一層不義な行いを強める。義なる者は義・聖なることを行わねばならない。

義なる者には新しい世界と時代の主人公になる資格が報いとして与えられる。不義な者は滅びゆく世界・時代と歩みを共にする。

今、苦しんでいる人びとと共に苦しみ、受難に会うことがキリストの血・受難への関わり。それがなければ新しい時代に参与できない。

これは不義な者への勧告と警告でもある。

1919年3月1日の「三・一独立宣言」には前夜的希望が充ち溢れていた。しかし30年後、民族は分断され、民衆は踏みにじられていった。

就任した米国カーター大統領は、黎明を渇望する、鉄のカーテンの向こうを含む全人類の叫び、暁を知らせる鶏の声。そこにキリストの近づく足音を聞く。

暁の直前には暗さがひとしお濃く、盗賊が乱舞する。義なる者は追い出され、弾圧される。しかしキリストは必ず「すぐに来る」。歴史の車輪を逆転させることはできない。義なる者は恐怖の鎖を断ち切って、一層義なる闘いのために選択された自分の道を貫徹しなければならない。たとえ城門外に追い出されても、やってくる新しい世界は、そのような人びとのものになる。

安炳茂はこう語る。光州民主化運動の3年前、民主化運動によって追い詰められた慮泰愚の「民主化宣言」の10年前。文字通り夜明け前の韓国における預言者的説教。

コヘレトの言葉11章7-12章1節。2000年8月18日。バプテスト中四国連合バプテスト大会講演。「旧約聖書説教集@長住バプテスト教会」より。

「あなたの若い日に、あなたの創り主を覚えよ。」(12章1節) それはあなたを今日生かし、今ここで命を与え、人生の喜びや楽しみのチャンスと可能性を与えて下さっている神をしっかりと心に刻みつけよ、ということ。

「光は快く、太陽を見るのは楽しい」(11章7節)。光も太陽も、いのちの喩え。

「若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。青年時代を楽しく過ごせ。心にかなう道を、目に映るところに従って行け。知っておくがよい/神はそれらすべてについて/お前を裁きの座に連れて行かれると。」(11章9節)「若者」「若さ」「青年時代」を、命を与えられ、人生を楽しむことのできる可能性と機会の比喩と取ることも可能。子どもも大人も、それが与えられている時に、それを逃さず、楽しみなさいという勧告。後半は、快楽主義に対する戒めというよりも、「せっかく神から与えられた命を本当に喜び、楽しんだかどうか」が問われることになる、とダメ押し。

8節、10節で繰り返される「空しい」は、それが永続性がなく、一時的であるという意味。だからこそ、今を楽しむことが促されている。

イエス・キリストも人々と命を楽しんでいた。イエス・キリストに従うということは、禁欲主義に陥ることではなく、この命、この人生を神が与えて下さっているものとして受け入れること。失望や落胆、悲しみ苦しみもあるが、人生の喜びや楽しみを神からの贈り物として喜んで受けて行くこと。コヘレトの言葉の楽しみへの勧告は、そのことを創造論の中核的部分として熟慮し生命化するようにとの勧告。そう小林は最後に語る。

「勿体」は本来の形、を表す言葉。勿体ない、とは従って、本来あるべき形が失われている状態を指す。楽しまねば、共に生きねば。神に与えられたいのちが、勿体ない。

1980年10月19日、コロサイの信徒への手紙2章6-15節。「おじゃまします 吉田晃児牧師退任記念説教集」より。

パウロはが語るキリスト教の奥義は、「あなたたちは、キリストの十字架と一緒に死んで、古い罪の体とは縁が切れた」「十字架によって死んだ体は、どん底まで下り、キリストの復活によって共によみがえらされ新しい生活をいただいた」という二つのこと。

二千年前、イエス・キリストが十字架にかかったとき、この二つのことはもう起き、とっくにすんでしまった。

信じる事は、生きている間、自分の罪の体の葬列と、復活の凱旋パレードに参列しながら歩いていくこと。そこではわたしとキリストの間を切り裂く、いかなる力も入り込むことができない。パウロのことば(ローマ人への手紙8章35-39節)を引用しながら、吉田はそう言う。

イエスは当時のかけあいのわらべ歌を引いて言う。「結婚式をしましょ −今はそんなに楽しくない」「お葬式しましょ −今はそんなに悲しくない」イエスは、それが、理由をつけてはキリストと共に行くパレードに加わろうとしない者の姿だと言った。

それでもあなたはパレードの棺おけの中に、イエスと共に横たわっている。イエスは、おまえといっしょに死んだよ、さあ、拒みを捨てて、私と共に凱旋しよう、と語りかける。

奥義は見えてきましたか?顔は輝いてきたでしょうか?と問いかけて吉田は説教を終える。

自らの葬送と復活のパレードはニューオーリンズのセカンドラインを連想させた。最後のくだりは不気味だけれど、なんだかユーモラス。

椎名麟三の言葉を思い出した。恐怖とユーモアは紙一重、と語ったヒッチコックは恐怖に紙一重の壁を置いた事で誤解した。それこそが鉄壁であり、ユーモアをユーモアとして成立しなくしてしまう壁。恐怖でありながら、ほんとうには恐怖でないこと、それが恐怖におけるユーモアの構造だからだ。(「神のユーモア」より)

1932年6月12日、コロサイ人への手紙3章1-4節。「説教 ボンヘッファー選集8」より。

「あなたがたはキリストと共に甦らされたのだから」。本来、神の審判のように恐るべきこの言葉を、キリスト者は他人事としてしか聞かない。それが実際何の役に立つか、としか考えない。様々な具体的問題に際して、これを第一の課題として考えない。キリスト教は極度に貧弱になっている。

「神の名によって、アーメン」も同様。唱えはしても、それを自分自身を揺さぶり、新しい生へと駆り立てるような危険なものとは捉えない。唱えた後は、神の名に背を向け、自分を頼りとした生の充実に向かう。

生のあらゆる場面でわれわれは有効な解決手段を探し、そこにのみ救いを期待する。それが崩れれば専門家にさらに激しく解決策を求める。それが空しいと知ると、再び宗教に解決を求める。その姿勢は民族間の反目や紛争にさえ向かう。

キリスト教の何と貧弱で愚かでくだらないこと。

われわれはこうして神から逃げている。宗教的であっても、「神の名によって、アーメン」と唱えても、それによって神を、畏れず、切り棄て、自らの生のために有用なものとし続けようとする。それが不服従、逃亡、救いがたい堕落。

われわれが真にこの言葉に立ち帰ることがありうるだろうか。

神ご自身が思いを私たちに対して必ず明らかにする。われわれがキリスト共に死んだけれど、またキリストと共によみがえらされたということは真理だから。これが我々を束縛し、われわれに義務を課し、われわれを人間に固く接合するだろう。

こうしてこの真理に捉えられて教会に集まる時、われわれは初めて互いを正しく見出し、新たに知り合い、愛しあう。そうボンヘッファーは語る。

ドイツのキリスト教、教会、クリスチャンの信仰を厳しく批判するボンヘッファー。ナチスによる政権奪取前夜、キリスト教が民族間の反目や紛争にさえ人々を向かわせる、という言葉は予言的。

1985年6月16日。ガラテヤ人への手紙5章13-15。「曠野の行進 朴炯圭牧師説教集」より。

ソウル第一教会の警察署前街頭での礼拝説教。会堂から軍事独裁政権側の暴徒によって締め出され、路上の礼拝が始まって半年。朴は以下のように語る。

利己主義は分裂と競争、欺き、支配への欲望を生む。他人を自分の手段とし、自分を隣人愛から遠ざける。個人の利己主義は集団化し、差別、排他主義、相互不信を生む。

キリストを信じる時に得られる自由が、人をこの鎖から解放し、他人・隣人中心にする。

この自由は人を自己愛の束縛から解放し、他者への隣人愛の強制力、支配、原則、拘束のもとに置く。それが神の愛に包まれること、完全な自由。

キリストは最も完全な自由人であり、望む者には誰にでもこの愛への自由を与える。

愛のためにクリスチャンは召し出された人々。他の信仰・思想を持った人々も呼び出される。

キリストにある自由は個人的ではなく共同体的。自己の自由を、共同体の生活向上、共同体の全ての人びとを容認し、支援するために使用する責任がある。

キリストにある自由は総体的。霊的、社会的、道徳的、感情的、政治的局面の全てを包括する。内面的で個人的な罪からの解放だけを意味しない。人間の利己主義と支配体制と搾取と分裂を克服する制度と機構を創造していく自由、人々が互いに理解しあい、許しあい、正義と寛容と平和と犠牲的な奉仕によって共に生きる自由。

「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」との命に従うこのすべてのことの中に、キリストにある真の自由がある。朴はこう語って説教を閉じる。

民主化前夜の韓国の路上で、暴力と抑圧のただ中にあって語られる愛への自由、解放、そして束縛。しかし自分を愛する事は大事。それが隣人を愛する事といつもつながっていることが必要。また強いられた自己犠牲は抑圧や搾取とひとつ。共同体的で総体的な愛は、自分がその中で守られ保たれ生かされることを含むはずだ。

2020年の4月24日でした。
宮崎の「らいふのぱん」から教会が色んな人の助けになるために、と送られてきた段ボール箱一杯のパン。何とか色んな人に手渡そうとましたが、緊急事態宣言下、それ以上どうすることもできず、余るのです。しかたなく、教会の玄関を開けてちいさなつくえを出し、そこに並べたのでした。

これがみんなのつくえの始まりだったのです。

その後、たけのこが持ち込まれ、そこに玉ねぎが加わり、そして4月29日から現在につながるような色んな品物を並べるような形になりました。それからの1年のあれこれについては「みんなのつくえ、丸一年」に書きました。

丸4年。365日、朝9時開店、夜8時閉店。雨の日も風の日も雪の日も。地域の方々の利用も定着しています。手作りお弁当の提供も定番。小さな炊き出し。全国からの寄付も続いています。ありがたいことです。

コロナの危機的状況は一応過ぎました。みんなのつくえの当初の目的、役割は果たせたと思います。しかし様々な生活困窮状況の中にある方々の利用が続いています。全国の皆さんの期待もあります。簡単にやめるわけにはいきません。そうそう、小5の道徳の教科書にもとりあげられました。

5月からは、態勢を少し変えようということになりました。土曜日と日曜日の午後はお休みにして、補充も定時(朝9時、お昼12時、午後3時、夕方6時)を基本に。教会にやってくるこどもたちのスペースがみんなのつくえのストック保管でかなり狭くなっているので、その状況の改善もしたいと考えています。補充を定時にすることで補充作業の分担も可能にしたいと思います。

昨年、月イチの教会の食事提供プログラム「みんなのごはん」が始まりました。そこに「みんなのつくえ」を利用してきた地域の方々もおいでになるようになりました。2020年の春の緊急事態宣言まで、2015年から続けてきた「水ようごはん」ではあまり見られなかった光景です。「みんなのつくえ」は教会の敷居を確実に下げ、入り口を広げることにもなりました。

昨年から日曜日の礼拝も新しくなっています。月イチの「こどもとおとな・みんなのれいはい」は全体の時間を30分ほどとして、文字通りこどもたちも含め、みんなで楽しむ礼拝を目指しています。

また今年度から「にじのカフェ」をはじめ、対話や映画を楽しむひとときなど、あたらしい企画もどんどん始めて行くことになりました。この間もっぱら「みんなのつくえ」が担ってきた教会の、いろんな人に具体的につながり開き、みんなのいのちを支え応援する役割を、さまざまな新しいプログラムでさらに広げる時がいよいよきたと教会は考えています。

こうしたプログラムのひとつひとつをわかりやすくお知らせする役割を、新たに開設した南小倉バプテスト教会のインスタグラムが担うことにもなりました(@minamikokura1965)。フォローが増え広がることを願っています。

これからもどうぞみんなのつくえを、そしてこの教会の働きを、応援してください。宜しくお願いいたします。

そうそう、ヨッキー店長、これまでほんとうにありがとうございました。まだ続きます。少し休みも作りますから、どうぞこれからも宜しくお願いいたします!
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出エジプト記1章33-2章10節、汽灰螢鵐3章6-7節。2020年2月16日。「神の民の解放 出エジプト記1〜18章による説教」より。

ヘブライ人の男の子の赤ちゃんは皆殺しにせよ、ナイル川に投げ込めというエジプト王ファラオの命令の下で生まれたモーセは、女性たちの救出リレーによって生きながらえる。

モーセの母ヨケベドは、赤ん坊を籠に入れてナイル川の水草の茂みに置く。神から授かった子を神の手に委ね、希望をつなぐ信仰。

赤ん坊は王女に拾い上げられ、再び母の手に委ねられ、やがて王女の元に戻される。こどもを育てることは神から子どもを預かり、神に返すこと。

姉ミリアムは、弟を拾い上げた王女に乳母を探す、と申し出、赤ん坊は乳母となる母の元に帰る。母の祈りをつなぎ、とりなすミリアムも神による配置。

王女は赤ん坊が父の政策の犠牲者であるヘブライ人の子であることを知り、不憫に思う。彼女は、罪滅ぼし、反抗のしるしとしてこの子を引き受ける。

侍女、女奴隷たちは王女が王の命令に反していると知りながら、王には黙って彼女に協力する。みんな彼女と同じ気持ちだった、これは女性ならではの感覚、と松本は性差別を意識しながらも言う。

女性独得の思いやり、子どもを思う気持ちのリレー。女性の生き延びる、命を守る強さ。子どもを何としても守り抜く強い意志。それは女の方が強い。この物語においてモーセの父の影が薄いこともそれを示す。

讃美歌21の364番「いのちと愛に満つ」は神が母の強さと父の優しさをもつ、と歌う。作詞者ブライアン・レンが大切にした神のイメージ。

この物語の二人の母の背後には神がおられる。そのことをパウロの言葉の引用で示し、説教は終わる。

ルカ福音書のイエス誕生物語でも母マリアに比べ夫ヨセフの影は薄い。今パレスチナに満ちる母たちの慟哭をも思う。女性の存在とつながりが解放の出来事の端緒、基礎、推進力という物語はこの世界、歴史への視点、視線を整えてくれる。

雅歌8章4-7節、1996年6月4日、西南女学院短大英語科2年チャペル。「風は思いのままに 若者たちにマラナ・タと祈る説教集」より。

風間健は言う。現代の若者が愛に憧れると同時に不安をもっているのは、恋愛についての物語に触れる機会が少ないから。フィクションを通じて恋愛観をインプットしていないために、自分の恋愛観を培う作業をしていない。だからモデルがない。

恋愛に関するマニュアルは数多く存在するがそれに沿って行動したとしても、それでいいのか、と不安になる。

片山は自分の、マニュアルから遠く離れた恋愛経験をユーモラスに紹介し、それが結婚につながったと告白する。

心理学者・岸田秀は言う。人間は本能の壊れた生き物。恋愛という高度な精神作用のためには、よほどの教育が必要。恋愛の情熱を描いた数多くの有名な文学や詩を読むことで、恋愛の方法や技術より、その情熱そのものを教わっている。『愛する』ということそのものを学ばなければならない、それが人間。

「愛は死のように強く、熱情は黄泉のように酷い」。聖書・雅歌は愛やその熱情が運命の力、逆らうことのできない死のように、私たちを動かし、燃え上がり、時に人間を滅ぼしてしまう恐ろしい力だと語る。

様々な物語や詩を通して、わたしたちは人を愛することの苦しさ切なさ、激しい喜びをを学んできた。

キリスト教は「愛の宗教」。結婚を大事にし、夫婦の愛をすべての人間関係の基礎と考え、恋愛について学ぶ宗教。そう片山は言う。

聖書のいろんな箇所から愛について、また人を愛することの喜びと痛みを学んでください。そう促して、片山は説教を終える。

片山が心配した当時よりさらに今日、若い人たちは本から離れ、ネットの、真偽も判然としない、歴史の評価を経ない情報の波に晒されている。教会は様々な恋愛経験の物語とそこから得られた人生観の響き合いにアクセスし、愛することを深く学び、知ることのできる場所であっていいと思う。

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