2020年06月05日

南小倉バプテスト教会の追悼・抗議声明

Black Lives Matter! ポスター完成版  
Posted by aogoomuzik at 22:17Comments(0) 南小倉バプテスト教会 

2020年06月04日

略奪者とは誰なのか。

略奪者とは誰なのか。略奪とは何か。暴動は悪か。
歴史と社会システムから見れば、黒人たちは、現在の暴動の中で起きているのとは比べ物にならないほどの略奪の被害者だ。
米騒動、一揆、打ちこわし。日本の近世・近代の民衆暴動も、余りにも過酷な搾取と強いられた貧しさ・飢えの故だった。それを否定する者はいない。そしてそれを悪として一面的に教える者もいないはずだ。では、今アメリカで起きている暴動は?
「あれはヨソものがやってる事だ。」今アメリカの暴動に関しても聞かれる言葉は、釜ヶ崎の暴動の時にも聞かれた言葉だった。その言葉に潜むものとは何か。
ある白人警官がプロテスターたちに「プロテスト(抗議)ではなく、パレードをしよう!」と呼びかける様子を伝える動画を見た。デモに共感する警察官として歓迎される彼。しかし。この許しがたいレイシズムの暴力に対する「プロテスト」は間違いなく正しいし、必要だ。奪われ抑えられてはならないものだ。それを祝祭の「パレード」へと簒奪することを歓迎してはならないと思う。

人権活動家タミカ・マロリーのスピーチ→「アメリカは黒人から略奪し、開拓者たちは先住民から略奪した。私たちはあなたたちから暴力を学んだんだ!」

ヴィッキー・オスターワイル(Vicky Osterweil)の論考→略奪行為の擁護論  
Posted by aogoomuzik at 12:19Comments(0) 雑記 

2020年06月02日

We can't breathe!

 なぜ略奪し、破壊するのか。人々が不当に奪われ、貧しさと忍耐を強いられ、破壊されてきたと感じているからでもあるだろう。個別の店ではなく、このヨノナカ、社会への苛立ち。この際少しくらい返してもらっても罰は当たらないだろう。日頃の鬱憤を少しくらい表現してもいいだろう。そんな気持ち。
 どこに持っていっていいかわからないけれど、みんなの胸に蓄積された問い。自分が貧しいのもほんとに自己責任か?なんでこんな思い、境遇で生きなければならないんだ。なぜ店に並ぶものを易々と手に入れることのできる者と自分はこんなに違うんだ。何が違うんだ?
 同じ人間なのになぜ。無言の問いがみんなの中に蓄積され、満ちて、満ちて。ついにはじける。爆発する。暴動。それは人間を人間扱いしないこの世界を動揺させ震撼させる。訳知り顔で暴動はいけません、略奪はやめましょう、などと簡単に言えるとしたら、それはこの問いが他人事だからなのかもしれない。
 それでもなお世界は急に変わらないだろう。社会が一変することを夢見るユートピアニズムは現実的には常に幻滅に終わる。できることは、ひとつひとつのちいさな希望や人間らしさの具体的な表現と共有。そしてそれを続けること。壊れても、崩されても、また何度でも。
 それを見たい。自分自身を通じて、またみんなの姿を通じて。遠い未来の幻ではなく、今ここで見たい。だからこそぼくは、怒り渦巻く抗議行動の最中にあってさえ、人々が人間らしさを表現するのを見てほっとするのだ。
 抗議のデモを行う人々の只中で自らの共感を示し、その怒りと悲しみを共有してヘルメットを脱ぎ、棍棒を手放してひざまづく警官たちの姿には思わずほろりときてしまう。釜ヶ崎でつけまわされ小突かれ蹴られた。目の前で年老いた労働者を数名の機動隊員が囲んで凄まじい暴行を働くのも見た。それでも。
 人間らしくあること。それを見たいのだ、ジョージ・フロイドを殺害した側に身を置く警察官、日ごろから嫌な思いをさせられている警察に属する者においてさえも、みんな。みんな、きっと人間を信じたいのだ。同じ人間であることを感じたいのだ。それが見えない事ばかりにみちた世の中だからこそ。
 各地のデモで警官たちが見せる人間味は、デモを破壊的暴動に発展させないためのテクニックかもしれない。しかし、そうやって人間が人間であることをお互いに確認できる社会は、暴動が起きにくい社会でもあるだろう。人間らしさの剥奪や蹂躙や無視こそが暴動の元なのだとすれば。
 警察そのものが差別や憎悪をどう乗り越える努力を形にしていくか。アメリカだけでなく世界で。日本でも。人間味を示す個々の警官たちだけでなく、組織として仕組みや制度として、いや国や社会自体として人間を大切にする方へと動き出せるか。差別や憎悪や抑圧から脱却し始めるか。それが問われている。
 そしてそれはやっぱり他人事ではない。ココにいるこのわたしはどうだ。どう生きるんだ。どう歩むんだ。人間らしさを大事にして、ちいさくても、一気に社会を変えることなどできなくても、誰も見ていなくても、人間であることを大切にしながら他者や自分自身に関わる事ができるか。今、それを始めるか。
 I can't breathe!ジョージ・フロイドのその呻きは、不当にいのちを蔑ろにされ続けてきた黒人たちみんなの呻きでもある。Black lives matter! そして実はそれはみんなの呻きでもあるはずだ。わたしの呻きでもあるはずなのだ。窒息させられているのは彼だけでも彼らだけでもない。
 みんなが、このわたしが、あなたが、あそこで、そしてここで窒息させられているのではないのか。これは我々だけでなく、みんなの、お前の苦しみではないのか?何度も繰り返され、また大きく叫ばれている”Black lives matter" の声に、そう問いかけられている。そう感じている。
 「歴史は繰り返し繰り返し、不条理な苦難は贖罪の力を持つことを証明している。」M.L.キングは、1963年9月15日に、第十六番通りバプテスト教会爆破による幼い犠牲者たちへの告別の辞の中でそう述べた。
 人間そのものが贖われねばならない。彼の死は、彼ら彼女らの度重なる苦しみは、この世界の人間の苦しみの代表だからだ。人間としての尊厳が理不尽に踏み躙られる痛みが、人間そのものに与えられている暴虐が、彼に、そして彼ら彼女らに最も顕著に、偏り集中しているからだ。
 彼の死において、わたしが殺されている。彼ら彼女らの苦しみにおいて、わたしたち人間みんなが踏み躙られている。I can't breathe!と呻いているのは、わたしでもあり、人間みんなであり、世界そのもの。彼は、わたしやみんなや世界の呻きを呻いたのだ。その事実に立つことこそが、贖いなのではないか。
 新しくならねば。変わらなければ。ここで、たった今から。歴史に促されて。そこに、またそこに彼は甦る。すべてのそこに彼は復活する。この悲しみと怒り、悔しさの中から、人間性のつながりが、ひとりひとりの尊厳を守り大切にしあう社会がひとつひとつ立ち上がるときに。
 暴虐と贖いの十字架はミネアポリスの路上に。世界の、暴虐によっていのち踏み躙られる全ての場所に。わたしのすぐ隣、足下に。そしてわたしたちは復活の後の空っぽの墓の前に立つ。入り口を固く塞いでいた石は脇へと転がされている。墓を背に走りだそう。共に生きるいのちへと。彼と共に。
  
Posted by aogoomuzik at 19:56Comments(2) 雑記 

2020年05月29日

匿名性について

ネットの匿名性に身を隠し潜めて、人はなんと破壊的な言葉を放つことか。人間の尊厳を踏み躙り、いのちを奪う匿名性の、なんと非人間的であることか。

「名を名乗れ」「お前は何という名なのか」。それは匿名性に隠れて人間を破壊しようとする者への抵抗と闘いの言葉。そして本当はみんなが名前を有し、身体を具えているという事実を露にし、明らかにする問い。名前が取り戻されるとき、言葉は抽象性を奪われ、破壊的な力を失うだろう。

一方で匿名性は、言論・表現の自由に属している。匿名の権利は守られなければならない。政権への匿名による批判も個人攻撃とは完全に区別されて、守られなければならない。それが民主主義。

さらに匿名性は、権力の抑圧・支配の下で生き延びようと苦闘する者たちにとっては、身を、いのちを守る術だ。匿名で流れる流言蜚語やデマや嘘、偽の情報は、権力者を惑わすための民衆の抵抗の手段であり続けてきた。

韓国民主化闘争の中で芽生え育った民衆神学はこうした民衆の匿名の声に宗教的な意義さえ見出している。軍事政権下のアルゼンチン・ブエノスアイレスでも人々は命懸けで路上で匿名の落書きをしたという。同じことは世界の至るところで今日も、きっと。

この匿名性を奪おうとする動きや企図が国家や政府、権力者たちによってなされる時、わたしたちはひとりひとりの「匿名」の権利のために異議を申し立て、これに抗わねばならないだろう。そしてこの匿名性による抵抗は、どんなに権力者が対策を講じても、次々にまた立ち現れ続けるだろう。

恐らく僅かな例外を除き、あらゆる人間には名前がある。それは一人一人固有の身体を具え、ただひとつの人生を生きる、唯一の存在であることを示すもの。どんな時にも、匿名性のさなかにあっても、我々はそれを忘れてはならない。相手も人間であるという認識。人間であることにおいて自分と相手はつながっているという意識。

それが見失われるとき、匿名性は、具体的な一個人には全く不可能な苛烈な暴力と際限のない破壊力をもっていのちに襲いかかる。それはネット社会においても、原爆を投下する爆撃機の中においても、抵抗する市民に銃弾を浴びせる戒厳軍においても同じだ。

分断されてなるものか。つながりを手放すものか。人間であることを見失ってなるものか。名前をもった存在であることを放棄してなるものか。

けれどもその思いは、時に歯をくいしばるような忍耐を伴う。恐らく、自分と相手が決定的に異質であると感じ、相容れない、ゆるせない、と思うその時にこそ、わたしたちはこの忍耐をもって、相手とのつながりに留まり続けなければならないはずだ。

仲間、同質な者、身内、価値感を共有する集団。その間でなら、つながりは容易だ。しかしそうでないときにこそ、人間はこのつながりに踏みとどまらねばならない。それはつながりの拡張、いや、越境を必要とする。それは容易ではない。

「敵を愛し迫害する者のために祈れ」。イエスのこの言葉は、だからキレイごとではない。理想でもない。それは極めて現実的だ。そうしなければ、我々はいつも、お天道様の下で生きる事を拒絶し、人間であることの普遍性を見失う。そして、破壊的暴力、憎悪、呪いに囚われる。

名前をもった人間であることを取り戻そう。守ろう。そしてつながりあおう。いのちのために。
  
Posted by aogoomuzik at 18:18Comments(0) 雑記 | 聖書

"Sur"にまつわること。

2013年12月、トリオ・ロス・ファンダンゴス3度目のブエノスアイレスツアー。"36 Billares"というライブバーに、ギターのエステバン・モルガドと歌のリディア・ボルダのデュオのライブを観に行った。地上階がライブバーで、地下がビリヤード場。その後そこは店を閉めてピザ屋になると聞いたけれど。

ライブの途中で、リディア・ボルダはお休みになって、ステージ上にはエステバン・モルガドだけになる場面があった。ソロかな、と思っていると、やおらに客席のお客さんがみんな彼のギターで一斉に歌い始めてびっくり。お客さんにタンゴの名曲を自分の伴奏で歌わせるコーナーだった。なんという贅沢。それを目当てにきているお客さんも大勢いるらしく、みんな歌詞をそらんじていて、嬉しそうに声を合わせていた。

その中の一曲が”Sur"だった。誰も朗々と歌い上げたりせず、それぞれ静かに他の人たちと文字通り声を合わせ息を合わせ、歌を響かせている。

"Suuuuuuur…"

ささやくような、溜息のような、自分の心にそっと歌いかけ、誰かとやさしく歌い交わす、そんな声が、高い天井の空間に静かに満ちた。美しかった。

名歌手が朗々と歌い上げるのもすばらしい。でも、あのとき、あの場所にみちた普通の、名も無いみんなの歌の響きが忘れられない。

それから、この歌の演奏をライブで始めた。
そしてそんなわけで、今回youtube に挙げるなら、まずはこれ、と相成った次第。

よろしければ動画をご覧ください。→Sur(Anibal Troilo, 1948)谷本仰Solo violin

この時のみんなの歌がきっかけでソロでやり始めた歌がもう一曲あるけれど、それはまた。  
Posted by aogoomuzik at 17:39Comments(0) タンゴ | ソロ

死へと

ノスタルジア。

古い世界へ。古い社会へ。古いつながりへ。
古いわたしへ。古いあなたへ。
古い政治へ。古い経済へ。
古い生へ。

死んでも帰りたい

死へと、死へと、死へと

崖から雪崩をうって
湖に飛び込み
果てる
六千頭の豚
わが名はレギオン
我ら多きが故なり
我ら多きが故なり

死へと、死へと、死へと  
Posted by aogoomuzik at 01:40Comments(0)  

2020年05月25日

お天道様は見ている。

 破壊のために使うのか、創造のために使うのか。憎しみの為か、愛のためか。呪いか、祝福か。死か、いのちか。言葉を何のために使うのか。言葉というものをもっている人間には、それが問われている。
 匿名の人間は存在しない。顔も素性もその心も、知られていない人間はいない。みんな、見られている、知られている。だから、誰もみていなくても、人間らしさや、誠実さ、やさしさ、正直さをもって生きなければならない。昔はそれを「お天道様がみている」と言った。今はそれをなんというのだろう。
 ネット社会には直接性や身体性、具体性を失ったコトバが溢れる。そこでは本来直接人に向けることなど到底できないような言葉が恐ろしい速度と頻度、そして破壊的な力で他者に向かって、世界に向かって放出される。コロナで身体の距離をとらなければならない状況下それが加速しているのではないか。
 みんなの前で、みんなが見ている前で、わたしはこの言葉を発することができるか。一人の人に向かって何かを語ろうとするときにも、そこに他の誰もいなくても、わたしたちはそうした厳しい問いの前に立たねばならないのかもしれない。
 みんなの前で語ることのできる言葉は偽善的だろうか。そうではなく「普遍的」なのだと思う。あるいは社会的に吟味された言葉だと思う。それこそが人間らしい言葉なのではないか。
 「お天道様」はこの「みんな」の象徴だろうと思う。この世界を遍く照らす太陽の下で。それはこの世界にいのちを受けて生きているみんなのひとりとして、ということでもある。絶対的な存在の眼差しの下で生きる、とはそういうことだ。人間として、人間性を問われている存在としての言葉と行動のモラル。
 しかし人間性やいのちの尊厳を削り取られ、踏み躙られてきた者たちに、それは自明ではない。普遍的ないのちの価値や尊厳、選びとるべき人間らしい言葉。人間性。もしも今日の社会や政治経済状況がそれらをみんなから奪ってきたのなら、それはみんながお天道様を奪われてきたということでもある。
 お天道様はみている。その感覚。人間であることの誇り尊厳を、どんな時も忘れない。誰もみてないところでも、誰にも知られていなくても、匿名であっても、隠されていても。それはこの社会自体が取り戻さねばならない感覚。
 そういえばイエスは施しをするときに「右の手のしていることを左の手に知らせるな」と言った。自分自身にすら知られないほどの秘匿性。神のみに知られる秘密。善意とはそういうもの。神にはみられているという意識。神の前では匿名でありえないという認識。それが人間の善意を支える、ということ。
 神というのが余りにも宗教的にすぎるなら「絶対に」と言い換えてもいい。絶対に見守られている、大切にされている、という感覚や認識。それをこの社会においてみんなで取り戻していくこと。それが、匿名の言葉による呪いや破壊、憎悪からこの社会を、みんなを遠ざけるのではないかと思う。
 お天道様はみている。みんな人間として生きている。そのことを取り戻したい。人間を愛する言葉。人を生かす言葉。祝福する言葉。みんなに、人間であるからこそ通じ響く言葉。具体的な、体温と体重をもった言葉。共に生きるための言葉。人間の尊厳を表す言葉。それを取り戻したい。心底そう思う。祈る。
 言葉が人を殺しませんように。言葉がいのちへの呪いと破壊から救いだされますように。いのちへの祝福と、人間の尊厳のために、言葉が用いられますように。言葉が癒され、恢復しますように。人間が、取り戻されますように。  
Posted by aogoomuzik at 18:43Comments(0) 雑記 

2020年05月24日

いいのだ、ちいさくて。

 こんなことやって何になる、無力だ、これで社会が変わるか、自己満足じゃないか。誰かの為に何かをしようとして、ついそう思うことがある。問われてさえいないのに、問われているような気がすることも。とたんに自分にできる直接的で小さな善意などとてもつまらない、無意味なことのように思えてくる。
 でも、いいのだ、小さくて。手の届く範囲で。できることで。そう考えるようになっている。実はこれが即時的で早くて、強くて、確実。そこですでに人のつながりが、つまり社会が動き始める。
 社会全体の向上や改善に役立つかどうかを基準にして個々の善意の行動の価値や意味を判断し、時にそれを無駄で無効で不用だと切り捨てる考え方は、結局は経済効率第一主義、金儲け至上主義や、際限なき弱肉強食の新自由主義的な思想・思考に重なる。
 このモノサシにわたしたちのやさしさや他者に関わろうとする思いさえも吸収され支配されてしまっているのではないか。これを自分や周りにあてることに、みんなほとほと疲れてしまっているのではないか。
 そもそも、いのちや、出会いや関わりは、即座に意味づけすることのできないもの。それがどういう意味をもつかなんて、すぐにはわからない。10年後20年後、いや、もっと経ってから見えてきたり、分かることがある。わからないままのことだって、ある。生きているってそういうこと。豊かなこと。
 それを今ここで断じ、切り捨てることは賢明か。むしろそれは愚かさではないか。いのちや、人のつながり、他者の幸せを少しでも願い行動すること。その意味など考えなくていい。それはそのままそこにあっていい。生まれて、生きていればいい。それをそのまま受け入れ喜び合うことこそが、生きる智恵。
 だからそれらを結集し、大きな動きにしていく「必要」もない。そうでなければ意味がない、と考えるときに、われわれはまたあのモノサシにやられているのではないかと思う。
 ひとつひとつ、そこにあればいい。ばらばらでもいい。点在しているだけでいい。点を線に、線を面に、しなくていい。それは結果的にそうなるかもしれないけれど。ひとつひとつの中にすでに大切な宝物があり、光がある。それがすてきなのだ。
 集中より分散。集団より個々、彼方よりココ。大量配布より、ひとつひとつ、手から手へ。一方的なことより、お互いさま。一回こっきりの大きな事より、小さな事を何回も。
 どうぞのつくえが始まって、ちょうどひと月。先月二四日に宮崎からパンが届いたのが始まり。日々刻々動き続ける町の片隅の小さなつくえ。眺めていると、今、ここで大切なことが起きていると実感する。どうぞ、と、ありがとうがどんどんつながっていく。その人間らしさがうれしい。みているだけで幸せだ。
 それがあちこちで星のように輝き始めるなら楽しいだろう。いやもう輝いているはずだ。デザインしなくても、勝手にそれらは自由に繋がって、素敵な巨大な絵になっていくだろう。星座のように。いや、もうこの世界に、それは黙ってつながり、踊っているに違いない。
 他者に何かを与えたい。誰かを助けたい。与えられ助けられたら、またそうしたくなり、せずにはおれない。その先に何が待っているかなんて考えない。そういうことが、うれしく、楽しいことだ、とみんなほんとはこの身体で知っている。そんな風に、人間はできている。
 心配せずに、ちいさなやさしさを、愛を、働かせあおう。それが何になるか、なんて、置いておこう。意味なんて後回し。ただ当たり前のこととして微笑みあいながら、受け取り、与え合おう。それでいいのだと思う。
 考えてみれば、あのモノサシにこそ世界が、みんなが感染してしまっているのかもしれない。抗体を獲得しよう。人間が人間らしくあることをもって抗おう。それぞれの、ここで。小さい、やさしさで。愛で。

(南小倉バプテスト教会5/24週報・今週の一言)  
Posted by aogoomuzik at 18:53Comments(0) 南小倉バプテスト教会「今週の一言」 

2020年05月22日

今週の一言(南小倉バプテスト教会5/17週報より)

 木曜日、福岡県に出されていた「非常事態宣言」が解除された。北九州市では、四月三〇日から五月一五日までの間、検査四三五件、陽性者ゼロ。
 油断はできない。無症状や軽い風邪症状程度の感染者は多い可能性があるし、ワクチンのない現状下、一年あるいは二年と警戒を続ける必要がある、とさえ言われている。
 五月四日には政府専門家会議が感染拡大を防ぐために必要な「新しい生活様式」を発表。身体的な距離を互いに空けることなどを基本にした、感染拡大を防ぐための行動様式。以下「食事」の項抜粋。

 持ち帰りや出前、デリバリーも 屋外空間で気持ちよく 大皿は避けて、料理は別々に 対面ではなく横並びで座ろう 料理に集中、おしゃべりは控えめに お酌、グラスやお猪口の回し飲みは避けて
 
 溜息が出る。楽しいわけがない。第一、わたしたちの教会は「一緒に食べること」を使命としてきた。当時、穢れは食事を共にすることで伝染すると本気で考えられていた。だから宗教的に穢れを負わされた「罪人たち」と共に楽しく食事を繰り返し、その味方となったイエスは当時も激しい非難に晒された。そこに絶対的に共にいる神の存在が映し出されていると教会は信じ、これに従ってきた。教会にとってみんなで一緒に食べることは、だから趣味や好みからすることではなく教会の使命。それなのに。
 それだけではない。マスクで顔の表情が見えない。対面も、近寄って手をにぎり肩を抱くこともはばかられる「身体的距離」。高齢者、病や障がいのある人も見舞いにくい。共感やつながりという人間性の根幹に関わる営みが困難。そんな「新しい生活様式」はさびしい、苦しい。いやだ。この感覚は大事だ。それは人間性そのものを抑えつけることだからだ。私たちには今この状況下で、当面、今までとは違った形でどうつながりや共感を大切にすることができるかを考え、試行し続けなければならない。オンラインの礼拝配信、どうぞのつくえもその試み。また一月に募った「網の教会サポーター」に多くつながりを得たのも、タイミングとして奇跡的だったと思う。
 コロナパンデミックによって明らかになってきたこと。それは、コスト・経済効率第一で、際限のない競争に覆われ、いのちが蔑ろにされているこの世界の現実。余りにも空疎で真実性のない響かない言葉と、独善的な振る舞いに満ちたこの国の政治状況。それらはもう転換されなければならない。いのちへと、真実へと。それを目指すことこそがわたしたちの「新しい生活様式」であっていい。そう思う。
 一方でわたしたちは「ひとりであること」の大切さを取り戻すよう促されているのかもしれない。ひとりで思い、考えること。ひとりの時間を大切にすること。圧倒的な充足感や高揚感のない、静かで淡々とした、他でもないこのありのままの自分の生を味わうこと。こどもたちも、おとなたちも。コロナは、そうやってわたしがわたしであること、わたしがひとりの尊厳ある存在であることへと、みんなを促している、ともいえる。そしてそのことと、共に生きること、つながりの中で生きることは切り離せない。
 「非常事態宣言明け」を迎えた。さあ、どう歩もうか。元には戻りたくない。共に新しい世界へ、新しいわたしたちへ、向かいたい。
  
Posted by aogoomuzik at 19:02Comments(0) 南小倉バプテスト教会「今週の一言」 

2020年05月19日

ユウヅキ、やっぱり呼ばれる。

「ユウヅキ」のソロ演奏を5月18日(「光州民主化運動記念日」)に録って、youtubeで公開した。説明にはこんな風に記した。

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2020年5月18日収録。
2006年広島と小倉で劇団アリノネが上演した作品「新しい天使 月に一番近い丘まで」(作・池内文平)の劇音楽のひとつとして作った曲。夕方の空に薄白く透き通る月。あの日光州で起きたことの一切を、じっとだまって、ただ見下ろして泣いていた月。
40年目の、この日に。ムン・ジェイン大統領の演説に震えた心で。
*****

しかし、その少し前に録った別テイクもアップすることにした。題して「ユウヅキalternate take
鐘バージョン」。それがこちら

ピチカートのループに入る前に、鐘の音のように三回、基音のGを響かせてみている。何かを告知し、呼び集めるようなイメージで。そんなことはライブでもしたことがないのになぜか、この時はそうしたくなって。

実は少しでもこの音を豊かに響かせたくて、ヴァイオリンを変則チューニングして、GとDだけにしてある。無理をしたせいでこのテイクの前に弦が切れて、張りなおしたりした。

当初これを公開しようと思っていたのだけれど、ちょっと音のバランスが気になったのと、冒頭部分を含めて全体がなんとなく長いかなあとも思ったので、結局昨夜最後に録った、より短いバージョンの方を先に公開。→こちら

ところが。

翌日になって「ニムのための行進曲」についてネット上であれこれ改めて調べていたところ、光州広域市の「5.18民主広場」の様子の動画に行き当たった。1980年5月18日から民主化を求めて始まった光州民主化運動。5月27日、市民が立てこもる光州・旧全羅南道庁に軍が突入、市民を虐殺して運動を鎮圧。まさにその現場で、毎日夕方5時18分に「ニムのための行進曲」がチャイムで鳴るというのだ。知らなかった。そしてさらに驚いたのはそのチャイムが始まる直前、5時18分を知らせる鐘の音が、韻々と三回鳴るのだった。(動画は→こちらとかコチラ

三回の鐘。三回の鐘。身体中総毛立って、冷や汗がどっと出た。こんなことがあるのか。やっぱり呼ばれていたのか。

そんなわけで、「ユウヅキ alternate take 鐘バージョン」。改めて聴くと、やっぱりこっちの方が良いような気がしてくる。色々考えて切り詰め整った短い最終版より、ざわめきや生々しさや危うさを抱えたままのこちらの方がよかったってことか。

以下、改めて、この曲のことを。

*******

「ユウヅキ」。

当時(2005年ごろ)によく聴いていたビザンチン聖歌の響きが流れ込んでいる曲。2006年上演の劇団アリノネによる「新しい天使 月に一番近い丘まで」(池内文平・作)の劇音楽を担当したときに、登場人物「ユウヅキ」のテーマとして作った。「新しい天使」は、光州民主化運動(光州事件)当時、その傍らで、「そこ」に居合わせなかった者たちの存在が交錯する物語。

旋律の音符の長さは演奏時に随時変わる。通奏低音のピチカートも微妙に間を変えて複数のループにし、即興的に入れ替える。旋律の伸び縮みとそれが組み合わさって、結果的に不規則な呼吸感が生まれ、コード進行も複雑な構成もなく「歌」だけなのだけれど、自分自身との即興的対話が演奏していて面白い曲。

この日の演奏の中間部には韓国民俗音楽の響きが、エンディングには光州民主化運動とそれに続く民主化闘争を象徴する「ニムのための行進曲」が顔を出す。

この曲とは、2017年の5月15日のライブで再会したのだった。それまで暫く演奏していなかったのだ。その日も「光州」のことは意識していなかったけれど、その日なぜかひさしぶりに演ちたくなって、たったひとり来てくださっていたお客さんを前に演奏した。数日後に「5.18」(光州民主化運動記念日)がやってきて、就任直後のムンジェイン大統領の演説がネットで流れた。そういうことだったのか、呼ばれたなあ、とこのときも得心したのだった。

********
どうもやっぱり呼ばれるのだなあ、この曲。
というわけで、ユウヅキalternate take 鐘バージョン

ああ、びっくりした。  
Posted by aogoomuzik at 23:37Comments(2) ソロ | 新しい天使

2020年05月16日

作品たち

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Posted by aogoomuzik at 12:17Comments(0)  

2020年05月13日

抱樸について。

5/9、抱樸の歩みについてもツィッターにつづりました。人を属性でみない。断らない。個人として人を尊重するとは。宜しければお読みください。

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 ホームレスからの自立後、福祉施設で生活しておられたNさんが、支援をしてきた抱樸に知らされないまま亡くなり、葬られていたことがわかった。家族でないから、プライバシーの問題があるから。そんな理由で何度も、何度も、こうしたことが繰り返されてきた。そしてそのたびに悔しい思いをしてきた。
 実際、本人の同意があれば、家族でなくても支援に関わる情報の提供はできる。法的にも問題はない。Nさんと抱樸の間にも、ケアに関する確認は取り交わされていた。しかし施設はその確認もせず、ただ家族でないというだけで彼の死についての知らせを抱樸にしなかった。
 抱樸奥田理事長は、昨日行われた別の自立者Mさんの葬儀の折にも、夜の炊き出しの現場でもこのことに触れ、これはおかしい、と怒っていた。同感。
 特別給付金にしても、「世帯主」が受け取ることになっている。ここにも日本の政府・行政の「家族主義」が色濃く表れている。基本的に「家父長制」「家制度」がこの国において厳然たる力を持っていることの証左だと思う。
 日本国憲法第一三条のことを改めて思う。「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」
 この「個人として尊重される」という表現は自民党憲法草案では「人として」という言葉に置き換えられている。「個人として」という考え方に対する拒否感があり、人権を考える時も家や家族、民族、ひいては国家への帰属を前提することを、憲法上も明記したいということだろうか。
 個人として。それはあらゆる「属性」「帰属」から離れたたったひとりのその人であることだと思う。職業、職歴。病。障がい。学歴。住居や職の有無。収入や財産の多寡。性別・性自認・性指向。家、家族、血統・血筋、生まれ、民族。そうしたあらゆる「くくり」に縛られない、たったひとりの、その人。
 抱樸はとにかく「属性」で人をみない支援を大切にしてきた。かつては北九州市では住居を有していることが生活保護申請受理の条件としてホームレスたちが生活保護制度から排除されていた。そのときには「住居の有無」という属性が個人よりも尊重されていたことになる。抱樸はそれに反対してきた。
 生活保護の申請にこぎつけても、これまでの人生がどうであったかが問われることも多かった。定職につけなかった。ギャンブルやアルコール依存の問題があった。犯歴。素行。それらとその人は結び付けられ、それからの脱出・離脱、あるいはその意思のあることが実質的に支援を受ける条件とされてきた。
 抱樸もこの30年数年の支援の歴史の中で、それをひとつひとつ乗り越えてきた。それは、結局、支援を続けようとすれば、支援者自身が「属性の縛り」を解いて、そのままのその人「個人」と共に歩むことを要請されるからだった。
 抱樸はそこでも支援をやめられなかった。やめなかった、なんて格好の良い事は言えない。関係を切ることができなかった。臆病だったに過ぎないのかもしれない。逃げ遅れただけかもしれない。でもそのお陰で、強くなった。少々の事では動じない。そんなことはあるやろ、と笑って次の手を考える。
 「断らない支援」を抱樸はさらに展開したいと考えている。それは結局「属性で人をみない支援」であり、「個人として尊重する支援」だ。それをやりたいからこその「希望のまちプロジェクト」。それを始めたいという思いから、とうとう北九州の工藤会本部事務所跡地を購入してしまった。
 そんなお金があるなんて、抱樸はあやしいNPOだ、なんてネット上で書かれたりしたけれど、そんなお金、実際どこにもない。だから銀行から借金。1億3千万。返さないと、始まらない。その上で、施設を建て、人を配置し、事業を展開しなければならない。一体幾らかかるんやろ。ほんまにできるんやろか。
 でも、やるのです。人を、属性で見ない支援をもっと展開するために。それは支援される人だけではなく、支援者側も、「属性の縛り」から解放することになる。われわれは結局、相互に解き放ちあい、解き放たれあっているのかもしれない。そういうものだ。
 どうぞ支えてください。抱樸を今後とも宜しくお願いいたします。あ、「コロナ緊急|家と仕事を失う人をひとりにしない支援」を宜しくお願いいたします。こっちも目指せ1億円!

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コロナ緊急|家や仕事を失う人をひとりにしない支援クラウドファンディングにご協力ください。
→→→コチラ!!!!! 

  
Posted by aogoomuzik at 15:44Comments(0) 抱樸 

今週の一言(20200510)

5/10の週報に以下の記事を載せました。教会について思い、考えていること。前日にツィッターに連投した文章をまとめたものです。

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南小倉バプテスト教会は1965年創立ですが、2017年からクリスチャンであるとないとにかかわらず誰もがいのちや自らの尊厳のために利用できる「みんなの教会」、みんながつながりあう「網の教会」を目指して新たに歩み始めました。

死ぬな、逃げろ、逃げる場所がなければ南小倉バプテスト教会へ、とこどもたちの自殺が増える夏休み明けの9/1に呼びかけたのもその年2017年でした。

コロナで現在休止中ですが、みんなで夕飯食べようよ、と誰でも利用できる夕ごはん「水ようごはん」、学習支援付き自由時間「水ようひろば」(当時は水ようゼミ)は2015年に始めていました。これも「みんなの教会・網の教会」につながっています。

コロナで学校が春休みまで急遽臨時休校になった3月には、みんなの給食の代りに、と南小倉バプテスト教会で月金ランチを提供しました。色んな方が親子で利用し、また沢山の協力を得ることができました。

そして先々週から、「どうぞのつくえ」が始まりました。誰でも誰かに「どうぞ」と何かを差し出すことができ、誰でも誰かから「ありがとう」と受け取ることができるちいさなつくえです。最初からそれを南小倉バプテスト教会がやろうとしたのではなく、ご提供いただいたパンがその発端でした。

「キリスト教会」はこれまで一般的に、キリスト教の教義を広め、信者を獲得することを最も大切な働きと考えてきたのだと思います。信者は天国で救われ、信者以外は地獄で滅びる、と信じてきたからです。南小倉バプテスト教会はこれを脱し、こう信じることにしました。みんな神に愛され伴われている。

コロナの状況の只中で、いのちがどれほど蔑ろにされてきたかが浮き彫りになっています。それはコロナのせいではありません。むしろそのような政治経済・社会体制が、この国で、また世界規模でできあがってしまっていたことが、コロナによって露になったのだと思います。

いのちより金、経済。際限のない競争と貪欲。その価値観に支配されてきた社会。コロナ後にそこに戻りたいのか。今の世界のあり方をそのまま継続したいのか。そのことが問われる思いです。

コロナ後に、元の社会に戻ればよいとは思えません。むしろ新しくなりたいと思います。みんなのいのちやつながりが大切にされ、互いに恩恵を与え合い受け合うことのできる社会を創っていきたい。それが南小倉バプテスト教会の願いでもあります。

南小倉バプテスト教会はとても小さい教会です。できることは限られています。そんな大それた社会変革をリードすることなどできません。でも「社会」が「人と人のつながり」であるなら、小さくても、この足下から、新しい社会を創ることは誰にでもできることだと思います。

その意味では、社会変革をみんなそれぞれに実現することができるのだと思います。よきものを無償で与え、受けとること。どうぞ、とありがとうを次へ、次へと送っていくこと。いのちをお互いに大切にし喜び合うこと。そのひとつひとつが社会変革。きっとそうだと思います。

社会はひょっとすると元々そうやってできたのかもしれません。人間は、互いに守り守られて生き延びるために社会を形成し、弱くても共に生きるという在り方を生存戦略として選び取ってきました。その意味では、この社会のおおもとの在り様へと立ち帰ることが必要なのかもしれません。

コロナ後にわたしたちは本来の「社会」、本来の人間へと立ち戻ることを要請され、そこへと
促され招かれているのかもしれないと思います。

南小倉バプテスト教会は、大したことのない教会です。できることもたかが知れています。でも、コロナ後の社会や人間性のほんとうの意味での「回復」、いや「恢復」を夢見たいと思います。どうぞつながってください。宜しくお願いいたします。

  
Posted by aogoomuzik at 15:28Comments(0) 南小倉バプテスト教会「今週の一言」 | 南小倉バプテスト教会

きんころん

ひさしぶりにyoutubeの自分のチャンネルにオリジナル演奏動画をアップ。赤ちゃんのおもちゃ。揺れて、きんころん、と鳴るやつ。(動画はこちら→「きんころん」)

こういう、楽器とは言えないものからでる「いい音」にものすごく惹かれる。日常生活の中にふと立ち上がる、美しい響き。気づいて耳を傾けなければ、聞こえないまま通り過ぎてしまう音たち。

きんころん、きん、ころん。

じっと耳を澄ますと、その隙間に鳥たちの声が聞こえてくる。高い音の下に同時に低い倍音が鳴っていて、豊かな響きをなしているのも。

かつてソロライブ終演後にお客さんから、あの時時計の音がすごく大きく聞こえたのですが、あれはそういう仕掛けをしたのですか?と尋ねられたことがあった。勿論そんな事はしていない。お客さんの耳がライブ中に開かれて、それまで聞き逃していた音を意識するようになっただけのこと。そしてそう話しているときにも同じように時計の針の音は鳴っているはずなのだけれど、もう聞こえないのだった。

「聴いて。」「聴きなさい。」ヴァイオリンを習っていた子どもの頃、よく先生からそう言われた。家の中には音楽がいつも鳴っていて、母はしばしばぼくとの話を遮って「ちょっとまって、シッ!ここがええんやから」と黙ってしばらくその部分を味わうように聴いていたのを思いだす。

音楽を成立させる三要素は、リズム、メロディー、ハーモニーだといわれる。でもそれがないと音楽じゃないのかというと、そうではない。

きん、ころん。

ほら、ね。

”No music, no life” ということばがある。音楽がなければ人生も無意味だ、みたいなことだ。でも音楽がない、などという情況はありえない。音楽はいつも、どこにでもある。耳を澄ます。耳を開く。それだけで、わたしたちの存在が音楽に寄り添われ包まれていることがわかる。いや、わたしたち自身が音楽だ、ということがわかる。人間は音楽的存在。生きていることは、音楽だ。Life is music, music is life.

先日、日本音楽療法学会九州沖縄支部大会で講師の阪上正巳さんが紹介してくださった儀賀理暁著「あのね、かなちゃんに聞いてほしいことがあるのー緩和ケアが音楽を奏でるとき」をしみじみと読み終えた。人生の最後に寄り沿うケアと音楽の関わりを、具体的なケースを紹介しながらやさしく静かに物語る本。そのまえがきの最後にCharles Ivesのこんな言葉が記されてあった。"Music does not represent life; it is life." 「音楽は人生を表現したりしない、それ自体が人生なのだ。」人生と訳した"life"は「いのち」「生きること」「生活」と訳してもいい。

音楽何ができるか。そのことを考えてきた。釜ヶ崎に出会ったときから。音楽で社会を変えられないのか。そして牧師になって、もっと具体的に音楽で人の病や障がい、苦しみにより直接的に関わり、それを軽減したり癒したりできないかと強く思うようになった。だから音楽療法士になった。そもそも牧師になったのだって、元はといえば同じような思いからだったと思う。キリスト教、教会をその手段として用いて。考え方は同じ。ああ、かっこいいことはなんてかっこ悪いことなんだろう。(早川義夫)

でも。音楽は手段以上のものだ。たしかに音楽で人の状態を良くすることができる。それはとても魅力的。でも音楽は道具以上のもの。最近ますますそう思う。いのちだ。生きてるってことだ。

てっきり、このコロナの自主隔離状態の中で、まずyoutubeにあげるのは自分のヴァイオリン演奏だろうと思ってたのに。ちがってびっくり。いや、ちがって、やっぱり。

きんころん、きん、ころん。
ころん、ころ、きろん、ころん。

なんでもない、きれいな音たち、ころがる。

音楽、だなあ。
生きてるってことだ。
生きていこうってことだ。
響きながら。  
Posted by aogoomuzik at 14:56Comments(0) 雑記 | ソロ

「ワタシのオンガクをシンガクするココロミ」レポート記事

クリスチャン新聞のWebサイトに昨年7/11の東京・富坂キリスト教センターでの「ワタシのオンガクをシンガクするココロミ」のレポートが掲載されています。楽しかったなあ。→→コチラ

自分と音楽の関わりを、神学的な視点から振り返って客観視するココロミでしたが、沢山の方々がおいでくださって、みんなすごく楽しんでくださったのでした。でもまだ触れていないポイントがいくつかあって、いつかパート2をやりたい、と思っています。

あ、「おたま」ではなく、泡立て器!校正ミスだ…しまった。
  
Posted by aogoomuzik at 12:18Comments(0) ライブ | 雑記

2020年05月07日

死ね、と言われれば

死ね、と言われれば

ああ
死ぬよ、必ず 
と答えよう

ああ
おまえもな
と笑おう

今その準備で忙しいから また後で
と言おう

おぎゃあ おぎゃあ おぎゃあ
その中に
死の歌はもう響いている

なんだ
生きるってことじゃないか

なんだかめでたくなってきた  
Posted by aogoomuzik at 01:15Comments(0)  

2020年05月04日

今週の一言「どうぞ、どうぞ。」(20200503)

南小倉バプテスト教会週報5月3日版より

●今週の一言
 教会で、新しい取り組みが始まった。「どうぞのつくえ」。
 教会の玄関に置いたつくえに、みんなが誰かのために、と思い思いに持ち寄った品物が並ぶ。欲しい人は誰でも自由に無料で持って帰ることができる。みんなが与えあい、みんなが受け合うことができる小さなつくえ。
 始まりは先週の金曜日、宮崎の「らいふのぱん」から段ボール箱いっぱいの調理パンが届いたところから。日曜日の午後には水ようごはん常連のご家族が掘りたての筍をお裾分けしてくださった。月曜日には、残った筍の横に今度は土のついた玉ねぎがいつのまにかどっさり。後でそれは知人の仕業だとわかったのだけれど。インターネット上でその事を報告すると全国から四〇〇人以上の人たちが「いいね!」と喜んでくれた。そうやってやさしさがつながっていくのをみて嬉しかった、との声が相次ぎ、絵本「どうぞのいす」を思い出したと何人もの人が言うのだった。
 うさぎが椅子が作り、「どうぞのいす」と書いて木の下に置いていく。やってきたろばは、拾ってきた沢山のどんぐりをいすに置いて木の下で眠る。通りがかったくまがどんぐりを食べ、それでは後の人がお気の毒、と蜂蜜を置く。次にキツネが来て蜂蜜を平らげてパンを、そしてりすがパンを食べて栗を置いていく。ろばが目をさましてどんぐりが栗になっているのに驚く。「どうぞのいす」はそんなおはなし。
 屈託なく「どうぞ」を受けとる。そして持っているものを後の人のために置いていく。それがつながっていくおはなしを、みんながこの教会の玄関で起きていることに重ね、喜んだのだった。
 火曜日、玉ねぎはきれいになくなった。つくえはからっぽになった。
 水曜日。折角だからこの流れにつながろうと思い、我が家から少し「どうぞ」してみた。またキティちゃんの貯金箱に入ったカンパ・献金は、教会で同額を上乗せして、抱樸がこの日から始めた「コロナ緊急|家や仕事を失う人をひとりにしない支援」に寄付することも決まった。みんなの「どうぞ」が教会の「どうぞ」を生み、全国の人々を支えることにつながることになった。「どうぞのつくえ」と名づけた。
 土曜日、品物は一気に増え、ついにつくえに乗り切らなくなった。
 先週の日曜日の総会で教会は今年度、「希望をわかちあう みんなの教会・網の教会として」をテーマに歩むことになった。この状況下でも様々な取り組みを柔軟に展開しながら、みんなの教会づくりを進めることになった。そんなタイミングで突然始まった「どうぞのつくえ」。不思議だ。風に吹かれるように。
 分かち合うことが、どうぞ、どうぞとつながっていく。それはなんて幸せなことだろう。きっとわたしたちはそれを通じて人間として大切なものを取り戻している。それはこの闇の状況の中で、ちいさな星たちの光のようにつながって輝いている。「光は闇の中に輝いている。」聖書の言通りに。実際に品物をやりとりする者たちだけではなく、この様子を見ながら、絵本を読んでうれしくなる子どもたちのように幸せを感じてくれるみんなのためにも、また全国の家や仕事を失う人たちのためにも、大切にしたい。
 どうぞのつくえ、ご利用ください。どうぞ、どうぞ。                          
  
Posted by aogoomuzik at 12:46Comments(0) 南小倉バプテスト教会「今週の一言」 | 南小倉バプテスト教会

2020年05月03日

上海ノオトのNorwegian Wood

どうやら2016年に開設していたらしいaogu tanimoto のyoutube チャンネル。変わったアナログシンセサイザーとエフェクターの組み合わせを試奏してる動画が幾つかと、"ブエノスアイレス午前零時"のソロ演奏動画の一部だけがアップされてて、休眠状態だった。

コロナで演奏の機会がゼロになり、ソロの演奏でも撮ってアップするかなあ、と考え始めていたところ、たまたま部屋の片隅から出てきたDVD。再生してみたら、なんとソロの最初期の演奏の記録。しかも折尾・上海ノオト。2007年9月29日。

マスターだった故・江島勉さんは、恐らくぼくがたった一人でヴァイオリンで即興演奏をするのを初めて聴いてくれた人。まだソロライブなど始めるはるか前の話。知人に連れて行ってもらった初めての上海ノオトで、自己紹介代わりに。

それ以後色んなライブを上海ノオトでさせてもらった。ドグラマグラは、ここが出発点でホームグラウンド。不破さんとデュオもやった。高岡さんともやったっけ。電気代が未払いでリハ中に停電になって、江島さんが支払いに走っていって、電気がつくまで待つことになって笑ったのは泉さんとのライブのときだっけ。ああ、川下さんとも演奏した。他にもいろいろ。

ソロのライブ活動の出発点は広島。2007年の7月15日、旧日本銀行広島支店で開催された、広島とパレスチナをアートで結ぶイベント「オリーブプロジェクト」での演奏の後に、居酒屋やけっ八で。上海ノオトは、その直後。

Norwegian Wood"。「ノルウェーの森」は間違った訳で、実際には「ノルウェーの家具」。その頃既に活動を始めていたベース・フクヤマワタルさんとの”Duo Dialogues"でよく演奏していた曲を、ソロでやってみたのだと思う。

DVDには暗い店内にたゆたう、ゆっくりとした静かな演奏が収められている。ああ、こんなだったのか、あの頃。ぼくの後ろにはあのネオンが光ってる。13年前の上海ノオト、13年前の自分。江島さんは写っていない。でも、そこには明らかに彼の気配があり、彼の存在が映っていて、響いている。

ずっとざあざあ言ってるのは、誰かがオーシャンドラムを鳴らしている音。

抑制のきいた、コンパクトな演奏。生まれて間もないSolo Dialogues の記録としても面白い。懐かしい上海ノオト。改めてyoutube チャンネルを再始動させるにあたって、やっぱりコイツを出発点にしようと思ったのだった。

すんません、江島さん。やっぱりお世話になります。今後ともよろしくお願いいたします。

というわけです。どうぞご覧ください。上海ノオトの、”Norwegian Wood”
チャンネル登録もしてくださるとうれしいです。これからちょくちょく演奏など、アップしようと思っています。
  
Posted by aogoomuzik at 00:28Comments(0) ソロ | 雑記

2020年04月30日

「どうぞのつくえ」

はじまりは先週の金曜日。宮崎のパン屋さん「らいふのぱん」から教会に段ボール箱一杯のパンが届いた。お礼の電話をかけたら「教会が色んな人を助けてるから」とのこと。でも今は教会でみんなが集まって飲み食いしたり賑やかに過ごすことができない。おすそ分けした残りを、小さなテーブルにのせ、教会のドアを開けて玄関口に置いてみた。「ご自由にお持ち帰りください」と書いて。いつのまにかパンはなくなっていった。

日曜日に今度は水ようごはんの常連さんご一家が「筍どうぞ」と掘りたてを持ってきてくれた。同じ様に置いてみたところ、やっぱりなくなっていった。

月曜日には新玉ねぎがいつのまにかどっさり置いてあった。後から友人だとわかった。残った筍と一緒に置いておくと、翌日にはすっかりなくなった。

火曜日、つくえは、カラッポになった。

フェイスブックでこの様子を報告するとそのたびにみんなが喜んでくれた。絵本「どうぞのいす」を思い出した、とみんなが言うのだった。

無料だけど、カンパもよかったらしてください。そう書いておいた。キティちゃんの貯金箱を振ると、音がした。

水曜日、抱樸が全国規模で「コロナ緊急|家や仕事を失う人をひとりにしない支援」を立ち上げるための1億円クラウドファンディングを開始。キティちゃんの貯金箱に入ったのと同額を教会で上乗せして寄付することが決まり、この取り組みを継続することにした。とりあえず我が家から「どうぞ」してみた。

今日木曜日、どうぞ、とご近所の友達がその知人から託された品物を持ってきてくださった。黙っていつのまにか置いていってくださるどなたかもいて。つくえの上はまた、いっぱいになった。

最初のどうぞから、七日目。

うれしい。

つながっていく、人を思う気持ち。
つくえのうえのものがなくなっていくのも、増えるのも。
ネット上でその様子をみて、みんながほっこりしているのも。
少しずつでもそれがこのコロナパンデミックの状況の中で仕事や家を失う人の支えにつながるのも。
教会がそのみんなのカンパと同額を上乗せできるのも。
小さなつくえをきっかけに、人間らしいあたたかさがつながり広がっていく。

しあわせだ。

人と人の距離を空けなければならないこの状況。
だからこそ、つながりがこんなにも、ありがたい。

「どうぞのつくえ」。

店長ヨッキーも待っています。

どうぞ、どうぞ。

南小倉バプテスト教会:北九州市小倉北区弁天町11-19、093-571-5072。

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Posted by aogoomuzik at 16:04Comments(1) 雑記 | 教会

2020年04月28日

ありがとう。うれしいです。

NPO法人・抱樸が、コロナパンデミックの影響で家や仕事を失い、いのちの瀬戸際へと追いやられる人々を支えるためのクラウドファンディングを開始した。「家や仕事を失う人をひとりにしない支援」

1997年のアジア通貨危機の時、翌年にかけて自殺者とホームレスが激増した。2008年のリーマンショックの後も、ホームレスが大量に生み出された。そのことを思えば、このコロナパンデミックの影響がどうなる可能性があるかは明らか。「ホームレスを生まない社会の創造」を掲げて活動してきた抱樸は、このときに行動を起こさねばならなかった。それがこの1億円のクラウドファンディングだ。

4月に入り、コロナの影響でライブやコンサートが全て途絶え、生活がいよいよ厳しくなっていた。それだけでなく、自分の生そのものが音楽と共に奪われたような感覚を覚え、涙だけが零れる日々が続いた。

そんな中で思い切って始めたのがCD通販キャンペーンだった。思いがけず色んな方々からのオーダーが入り始めた。ひとつひとつが、差し伸べられた手、助けと支援・応援そのものだった。それがどれほどありがたかったことか。ぼくを元気づけ、勇気づけてくれたことか。それは今も続き、ぼくを支え続けてくれている。

そんな折に、このクラウドファンディングが立ち上がった。これまでの、そしてこれからの自分への支援が、同時に、いのちの危機に直面する人々の支援にもつながるなら幸せだと瞬間的に思った。”Pay it forward"。受けた恩恵は、次に渡していく。恩送り。そのチャンス。そう思った。

生活が楽でないのは変わらない。だからあまり立派なことはできない。でも売上げの10%なら可能だ。そして折角ぼくを支えようとしてCDをお買い上げくださり、カンパも送ってくださった皆さんも、それぐらいならきっとゆるしてくださり、喜んでくださるだろう。そう思ったのだった。

支援、応援は結局他者のためだけになるのではない。それは自分自身のためにもなる。それはやがて自分に報いとして返って来るのではない。それは誰かを支えた瞬間に、支えた本人を豊かにする。寄付も支援も見返りを必要としない。それを行った瞬間に、報いは与えられているからだ。

イエスは愛についてこんな事を言っている。「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せ」。そう、自分を愛する事と、他者を愛することは、つながってる。

イエスはまたこんなことを言ってる。「敵を愛し、迫害する者のために祈れ。」「敵」という言葉は当時のユダヤ人にとっては身内、同族でない者のことを指す言葉だった。つまり自分に利益をもたらすことのできない存在のこと。愛というのは、返ってこないときにこそ真実。そういうことだ。

いや、きっと、返ってこないようで、もう愛は実行された瞬間に、愛を行った人自身を豊かにしている。だからやっぱりそれは愛なんだ。

また恩恵は、ただ受けるしかない。どんなに恩返しをしたとしても、それは受けた恩恵に見合うものではありえない。受けた恩を返すことは、実際にはできない。もし恩をそれに見合う何かで返せたなら、それはそもそも「恩恵」ではなく「借り」にすぎないだろう。借りは、返せばチャラだ。しかし、「恩恵」はそんなわけにいかない。返せない。チャラにならない。

だから、次に回すしかない。エネルギーが保存されるように、恩恵もただそのようにして、保存されるのかもしれない。受けただけ、次へ送ることによって、恩恵は生き続ける。

寄付の文化が育つことが、きっともっとこの社会を豊かにするだろう。恩恵があちこちで送り、送られて、輝き生きて働いているのを目の当たりする社会はきっと、人間として生きることの豊かさを本当に味わうことのできる社会であるはずだ。

今の世の中はむしろ「貸し借りのバランス」のことばかりに敏感なのではないか。自己責任、などというのも、自業自得、などというのも、結局はそういうことではないか。そもそも「いのち」というものはバランスで語ることのできない「恩恵」として与えられたものではないのか。

支えられ、与えられ、恵まれて生きる。「すみません」なんて言わず、申し訳なく感じず、それを笑って喜んで受ける。そして幸せになる。それでいいのだ。そして、見返りを求めず、同じように笑って喜んで誰かと分かち合い、誰かに与え、幸せになる。それでいいのだ。

教会に先日、宮崎「らいふのぱん」から段ボール一杯のパンが送られてきた。タンゴの節句宮崎公演でいつもお世話になっているパン屋さん。色んな人を助けている教会で用いてほしい、とのこと。でも教会にはたくさんの人が集まる機会が今はもうない。水ようごはんも、日曜日の午後の昼食も休止中の、がらんとした平日の教会。玄関先に机を出してパンを並べ、欲しい人に自由に無料で持って行ってもらうことにした。するといつのまにか知らないうちにパンは少なくなっていった。

数日後今度は友人が筍を持って来てくれた。同じようにした。誰かが持って行って少なくなったと思ったらいつのまにか大量の新玉ねぎが置いてあった。別の友人が持って来てくれたものだった。同じようにした。一日半で、すっかりなくなった。

ネット上でそのことを伝えたら、みんながとっても喜んでくれた。やっぱり、そうか。そうやって恩恵がつながっていくのを見るだけで、みんな幸せになるんだ。

ぼくは今、とても幸せです。みんなに支えられて、誰かを支えることができる。
恩送りが、こんなに人間を幸せにするのを目の当たりにしている。

ありがとう。うれしいです。  
Posted by aogoomuzik at 23:24Comments(1) 雑記