2016年08月20日

「生きるに値しないいのち」について ぁ20160821

●今週の一言 「生きるに値しないいのち」について ぁ 20160821)
 かつてホームレス支援活動の中で、当事者たちへのアンケート調査の結果、私たちはある重要なデータに直面した。それは、支援を受ける前よりも支援を受けた後のほうが自己有用感が下がる、というものだった。助けを受ける側ばかりに身を置くと、人間は自分が必要な存在だと感じにくくなる、ということが示されていたのだ。
 困窮し孤立状態にあった人が、支援を受けて、今度は誰かを助ける側に回ること。互いに助け助けられ合う関係性を構築していくこと。そのことの重要性が、抱樸の運動の中で意識されはじめたのは、それからのことだ。
 ありがとうと言われ、自分が誰かの役に立ったと知る。端的にいえば、そのときに、私たちは自分の存在の意義を見出すのだ。
 先に紹介したウィンダーらの研究によれば、障がい児が生まれることによって、人類の祖先の集団にはやさしさや共感性が育まれ、それによって集団そのものの生存が図られた。障がいや弱さをもって生まれた者たちこそが、人間を人間へと、人類を互いに助けあう者へと進化させてくれた。人間の社会をはぐくんでくれた。そうであるならむしろ「ありがとう」こそ、彼ら彼女らには相応しいといえないだろうか。
 イエスは「あなたがたは地の塩、世の光!」と言った。この言葉は、イエスを最後に見捨て裏切って逃げた弟子たちに向けられていた、と聖書は語る。弱さを抱えた彼らこそが、この世界を照らし、味付けしているのだ、とイエスは言ったことにならないか。
 いや、これはもともと弟子たちにではなく、名もない、ガリラヤの農民たちに向けられた言ではなかったか。収奪と抑圧の中で極貧の生活を強いられ、いのちの瀬戸際に追い詰められながら必死で生きていた人々に、イエスは、あなたたちのおかげで世界は明るいのだ、この世は味があるのだ、ありがとう、と言っていたのかもしれない。みんな嬉しかっただろう。香油を注がれて感謝したイエス。苦しい日常を生き抜いてきた女性に水を求めたイエス。そこに今日わたしたちが「福音」と呼んでいるものの核心、原型があったのではないか。
 これが、人を元気にする。やる気にさせる。生きる気を起させる。もう一度立ち上がらせる。弱さをもった者たち、助けを必要とする者たちに贈られる心からの「ありがとう」こそが。それによって、今日も人間は人間になる。わたしたちはもはや見えなくなり触ることさえできなくなった死者たちにさえ感謝するではないか。ほんとうにいるのかどうかさえしばしば怪しくなる「神」に、そして無力にも十字架の上で殺されて果てたイエスに、「ありがとう」と言うではないか。そんなことをするのは人間だけだ。そのとき、わたしたちは死者たちを、神を、イエスを、力づけてさえいるのだろう。
 生きるに値しないいのちなど、ない!わたしちはそう宣言し、感謝して共に生きる。それがわれわれの人間宣言であり、それが際限なき弱肉強食が渦巻く現代社会におけるわれわれの抵抗と闘いの宣言であり、信仰宣言だ。アーメン。(おわり)  
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「生きるに値しないいのち」について  20160814

●今週の一言 「「生きるに値しないいのち」について  (20160814)
 人間は、共に生きることを選びとって、人間になった。人間とは、共に生きる存在。いみじくも「人・間」という呼び方にもその理解は現れている。他者の存在の前に自らを置いて生きる。他者と自分の間で、起きる対話や、交流が、人間を人間たらしめる。他者を介在して、自分の存在を確かめる。助け合って、社会を構成して生きる。その生き方へと人間は進化した。そのように最近の科学も考えるようになりつつある。
 古人類学者カレン・ローゼンバーグと生物人類学者のウェンダ・トリーバスンは、脳の肥大化と二足歩行に伴う骨盤の縮小によって人類は難産になり、「助産」を生存の方法として選びとったと考える。誕生の瞬間から、人間は他者の手を借りることになった。いや、人間は他者の助けを借りなければ生まれ出ることさえできないという弱さを選びとった。そうやって助けられながら生まれ生きることによって、人類は人類として進化した。さらにこの助産を基礎として、社会を構成していった。そのように彼女らはいう。苦しい出産、そしてそれを助ける助産という、女性たちの営為においてこそ人類は進化し、社会もできあがっていった、というこの学説は、男性中心的な、そして強者が弱者を淘汰して生き延び、それによって人間は進化したという通説を根底的に覆し、その正当性や蓋然性を問う。
 さらにイギリスの人類学者ウィンダーらは、薄い体毛、小さな顎、木登りに適さない真っ直ぐな脚や短い腕などは、人類が誕生したころの交配によって生じた障がいや「奇形」であった可能性を指摘する。こうした弱さをもった存在を守り育て、共存する中で、人類は優しさや共感性、コミュニケーション、対話の能力を生存適応のために育み、身につけていった、という。この学説もまた、従来の人類の進化論モデルを大きく転換するものだ。
 助けられながら生きること、助け合いながら生きること。そのように進化したことが、人類の繁栄をもたらした。そのような生き方を身につけることによって、人間は人間になった。そのように研究者たちも考えるようになった。強い者が生き延び、弱者は淘汰される、という進化モデルは科学的ではない、とさえ考えられるようになったのだ。
 これが人間への進化であったのなら、「生きるに値しないいのちは死ね、殺せ、安楽死させろ」などという思想や行動、制度は人間の退化を志向するものであり、人間性の廃棄だといえる。そしてその考え方は、人間を生存の危機へと追いやる、ということになる。相模原事件とそれを生んだ現代世界の在り様は、人間が人間として生存していくことができるかどうかの危機、瀬戸際にわれわれがいることを示しているのかもしれない。(い砲弔鼎)  
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「生きるに値しないいのち」について ◆20160807

●今週の一言 「生きるに値しないいのち」について ◆ 20160807)
 「いのちは尊い。かけがえがない。地球より重い。いのちは大事。生きるに値しないいのちなど、ない。絶対。」
この宣言は必然的、不可避的に、宗教性を帯びている。「絶対」は「神」と言い換えうる。そしてここには同時に、人間が踏み越えてはならない一線が引かれる。殺してはならない。殺すな。
 聖書・創世記の天地創造物語において、神は人間を大切な存在として、ご自分の形に、ご自分に似せて創った、と記されている。ここには人間のいのちを絶対的に肯定する思想がある。それは如何にして生まれたのか。
 この物語が成立したのは紀元前六世紀、バビロン軍による破壊と虐殺によってユダヤの国が滅亡し、多くの人々が捕囚の民としてバビロンに連れ去られ、囚われの身となった出来事(バビロン捕囚)の最中といわれている。人間としての尊厳、いのち、存在を踏みにじられ、無視され、破壊された人々の、「人間のいのちは絶対に大事」という抵抗の叫び。それがこの物語に満ちている。
 さらに「殺してはならない」の戒めを第六戒とする「十戒」もこのバビロン捕囚の頃に成立し、残されたと考えられている(「申命記資料」)。殺される側の人びとの「殺すな!」の叫びが「宗教」となった、あるいはそれこそが宗教であった可能性が浮かび上がる。
 そしてここに描かれた「人」はバビロンによって傷つけられたユダヤ人だけのことを言っているのではなく、バビロンの兵士たちを含むすべての人間のことを言っているはずだ。兵士たちは、国家等の権力によって殺人を命じられる。それまでの日常生活で絶対の宣言であった「人間のいのちは大事」「殺すな」を踏み越えることへの許可を受け、兵士たちは殺戮に興奮し我を忘れ、時に文字通り狂ったように虐殺に走る。「絶対」を破壊し、超えてはならない一線を踏み越える万能感、あるいはある種の解放感を得るからかもしれない。
しかし人間は絶対ではない。脆く、弱い。そんな存在が「殺すこと」に耐えられるのか。人が人を殺すとき、殺される側だけでなく、殺した側もまた壊れていくのではないか。だからこそ戦闘に参加した兵士たちの多くが、病むのではないか。人間を殺すという経験は、その当事者の存在の根っこを、核心を、深く傷つけるのではないか。
 人間には共感の能力が強く備わっている。それが人間性そのものだといえるかもしれない。他者の経験を、自分の経験としても受け取る能力。他者に自分自身を鏡映しして自分自身を認識する脳やこころの働き。それが備わっている人間が人間を殺すとき、それは他者だけではなく自らを殺す経験として自分自身に受け取られる、ということではないか。他者を殺す者は、そうやって自らをも殺しているのだ。
 殺される側に立たされた者たちの中から叫びとして生まれた宗教的宣言「いのちは絶対に大事」は、殺す側の人間たちに対する愛をもって「殺すな」と叫んでいるのではないか。そこには、無条件に、敵さえも我が事として愛する宗教性が表れているのではないか。
 ここに立ち、ここからいのちを見る。これを信じる。そのときにこそ、わたしたちは絶対的に宣言しうるのではないか。生きるに値しないいのちなどない、殺していい人間なんていない、と。 (につづく)


  
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「生きるに値しないいのち」について  20160731

7月26日に相模原市で起きた、障がい者施設入所者殺害事件に関連して、7月31日、8月7日、8月14日、8月21日の4回の日曜日に発行された南小倉バプテスト教会週報「今週の一言」に「『生きるに値しないいのち』について」と題した論考を連載しました。北九州でホームレス支援に関わってきた立場から、そしてキリスト教の立場からのひとつの小論です。よろしければお読みください。

●今週の一言 「生きるに値しないいのち」について   21060731)
 神奈川県相模原市の障がい者施設で一九名もの重度の障がい者が殺される事件が起きた、と報じられている。犯行後すぐに自首して逮捕された容疑者はかねてより障がい者は安楽死させるべきだ、と主張していたといわれ、ヒトラーの思想が自分に降りて来た、というようなことも言っていたという。
 ナチス・ヒトラーはドイツ・ゲルマン民族を純化させ進化させるために、障がい者らを「劣等分子」として安楽死させるプロジェクトを一九三九年から一九四一年にかけて国家的に進め、少なくとも十二万人以上のいのちを奪った。実数はその倍以上とも言われている。いわゆる「T4作戦」、「生きるに値しないいのち」根絶政策だ。
 容疑者はこの影響を受けたといわれている。またインターネットを通じていわゆるネトウヨのまきちらす「憎悪」「ヘイト」に強く影響を受けたとも言われている。
 たしかに異常だ。しかし、他人事だろうか。
 この「民族」を、社会、とか経済、とか、国家とか人とかヨノナカとか、そういうものに置き換えると、それは一気に我々自身のこの時代、この現実そのものに重なってこないか。それらの役に立たなければ生きるに値しない、という観念は、この社会を覆っていないか。「一億総活躍」のスローガンはどうなんだ。「役に立たない者は死ね」とはっきり言う者たちの言葉はネットの世界に溢れ、近年ヘイトスピーチとして路上に溢れ出てきている。政治家たちも平然と同類のことを言うじゃないか。この自分や他者に対するきわめて暴力的・脅迫的観念は、もはや他人事ではない。そしてそれはわたしたち自身の中に、それはうごめいていないか。
 自分のいのちをそのようなモノサシでしか見られない者は、他者のいのちへのある種の憎悪や暴力、否定をその内側に抱え込んでいることになる。ネトウヨや今回の事件の犯人ほどにはっきり言い、行動に移すかどうかは別にして。そして逆もまた然り。他者のいのちを何かに役立つかどうかで価値判断する者は、自分自身のいのちへの否定を抱え込むのだ。我々自身は大丈夫か。またこの社会は。大丈夫ではないと思う。
 くしくも同じ神奈川県内で一九八三年に起きたホームレス殺害事件のことが重なる。山下公園でホームレスが殺害され、中学生を含む少年たちが逮捕された際、彼らは「横浜の地下街が汚いのは浮浪者がいるせいだ。俺たちは始末し、町の美化運動に協力してやったんだ。清掃してやったんだ」「乞食なんて生きてたって汚いだけで、しょうがないでしょ」「乞食の味方をされるなんて、考えもしなかった」「なぜこんなに騒ぐんです。乞食が減って喜んでるくせに」などと供述したと伝えられている。
 こどもはおとなを見ている。ホームレスを口では「いのちは大切」などと言いながら実際は邪魔者、ゴミ扱いし、排除している社会のありようを、じっと見ている。それを体現し、社会のために具体的で直接的な行動に移したにすぎない、と彼らは言った。少年たちは「この社会が必要としていること」「正しいこと」を遂行した、とさえ感じ、自らを英雄視していた。そのことが今回一気に思い起こされたのだ。  (△砲弔鼎)  
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2016年08月15日

川下直広ソロCD「漂浪者の肖像」

最新の川下直広さんのカルテットのCD「First I Love You」を入手、一曲目の"First Song”でもう、やられる。ただ、歌がそこにある。どこまでも。どこまでも。歌。わけいっても わけいっても 青い山。

そんな風に思ってたら2007年発表のソロ作品「漂浪者の肖像」をつづけて落手。2005年の北海道でのライブ。

すごい。前半5曲はソロ。息づき、漲り、弾けて飛び散り踊ったかと思えば、うをん、と立ち上がる音たち。いろんな音が同時に聞こえてくる歌。踊ってる。もちろん溢れる情念や情感は川下サンの演奏の真骨頂ではあるのだけれど、ここでは音そのものの豊かさに嬉しくなってしまう。すとんと迎える曲の終わりも、またいい。後半、渡辺勝さんの悲しい風のような歌に寄り添う音のやさしく切ないこと。最初の音なんて、フルートかと一瞬思った。しまいには「ラヂヲのように」(コントラバス・船戸博史、トランペット・関島岳郎、ドラムス・中尾勘二、ヴァイオリン・向島ゆり子、福井岳郎・チャランゴ)。もうアカン。いつまでも踊っていたい。ついていきたい。どこまでも、どこまでも。

耳福。

今頃、どうもすみません。でもしかたない、今なんだから。

川下直広「漂浪者の肖像」(SAXOPHONE VAGRANT) offnote, 2007。



  
Posted by aogoomuzik at 03:32Comments(0)TrackBack(0)音源 

キャリーケース、壊れる

キャリーケースが壊れた。エフェクターケースを箱ごとそのまま詰め込んで、その他機材を山盛りにして蓋をバン。結構重宝して、死ぬほど重いのを、あっちへゴロゴロ、こっちへゴロゴロ。ああ、ブエノスアイレスにも行ったなあ、そのときに中の仕切り板壊されたんだっけ。
前のは、かつて大阪だったかの演奏に向かおうと最寄の駅へ向かった途端に取っ手が壊れて、仕方なくタオルだか手ぬぐいだかをゆわえてそれを引っぱって。大阪で師匠のお宅に遊びに行ったら、見かねて、使ってないのがあるからどれでも持って行きなさい、といただいたのは、ブログ調べてみたら2009年の1月。そうかあ、あれから7年半かあ。ショウコ先生ありがとう。壊れるまで使いましたヨ。
あ、今回最終的に壊れたのは8/6、家に辿り着く数十メートル手前。翌日もげた車輪が路上のそこにころがってた。そしてそこはその前のが壊れた場所の手前数十メートルのところ。なんとまあほぼ同じ場所。
代わりのを仕方なく買う。2キロほど軽くなった。しかし前のとほぼ同じサイズなのに中の突起類の都合で、エフェクターケースやら機材やらが入りにくい。悪戦苦闘。ええい、と思い切ってエフェクターケースの蓋をはずしてそのまま入れてみたら、あら、いい具合。上に毛布敷いてその上にまたエフェクター類積んで、キャリーケースの仕切りやらで押さえて。エフェクターケースの蓋閉める手間も要らないし。軽いし、こりゃーいいかもしれん、しばらくこれでいくとするか。
色々と新しくなる気配の今日この頃のタイミングに、ずっと使っていたものが壊れるというシンクロニシティ。
そういうことなのかもしれない。
なるほど。はーい。  
Posted by aogoomuzik at 01:38Comments(0)TrackBack(0)雑記 

2016年08月14日

八月五日の夜だった

広島アビエルトの中に川が流れていた。小さな土手には草が繁り、小さなせせらぎの音。広島の、川のように。
皮切りは生のヴァイオリンだけで。「八月五日の夜だった」。
後半、大槻オサムと共に、即興。ひとつの流れの終わりの中に、次が孕まれ、始まっていく。音楽も、音楽とダンスの関係も。終わりの中から始まりが生まれくる。次々に。
ヴァイオリンのノイズ重なり響くなか、あの日、広島の川を無数のひとびとが埋め尽くして流れていくのを幻視した瞬間、大槻オサムが「おおお、おお!」と呻くように、呼ばわるように、声を挙げた。すとん、と腑に落ちる共振。そうだよな、とうなづく刹那。
9/20-22、「ホシハ チカニ オドル」広島公演、この同じ場所で。

11年前の2005年8月、大槻オサムとの初共演の直前、こんな文章たちを書いていた。大槻オサムとの、流れの源流。(8/16追記)  
Posted by aogoomuzik at 22:48Comments(0)TrackBack(0)ライブ 

交読宣教 平和ってなに?2016

南小倉バプテスト教会では毎年の夏の平和礼拝でこどもたちとおとなたちの合同の平和礼拝をささげます。ここ数年、7月の末に開催されるデイキャンプでわかちあわれたこどもたち、おとなたちの言葉をもとに、それらとの対話を基調とした「交読宣教」を毎年つくって読み交わすことにしています。

今年のデイキャンプのテーマは「力づけること」。エンパワメント。おたがいを力づけあうことができるわたしたちは、神さまだってはげますことができるんじゃないか。だいたんにもそんなことを考えてみました。

今年の平和礼拝で読み交わすのは以下、交読宣教「平和ってなに?2016」。

要領は以下のとおり。

平和ってなに? という言葉は最初のだけを司会者が、あとは全て、その日の礼拝参加者の誰かが読みます。誰でもOK。即興です。それをきっかけにその後の部分の読み交わしが始まります。

一文字あがっているところは司会者、「>」印の一字さがっているところをみんなが読みます。
太字ゴシックのところは司会者もみんなも全員で声を合わせて、大きな声で。
☆じるしの部分は参加者が順番にひとつずつ。

途中で自由に発言する部分が入るかもしれませんが、これが基本形です。実際のものの漢字部分にはすべてふりがながうってあります。

それではどうぞ。

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交読宣教「平和ってなに?2016」
20160814 南小倉バプテスト教会平和礼拝

平和(へいわ)ってなに?
 >ちからづけること
ちからづけてもらうこと
 >またたちあがるために
あるきだすために
 >まけないために
かみさまもきっとうれしい
 >イエスさまもそうだった
香油を注いでもらって
 うれしかった

教会デイキャンプで神さまをはげますてがみをかいてみたよ。☆じるしのところをじゅんばんにひとりずつ声にだしてよんでみてください。はい、どうぞ。

☆子どもが3人、ありがとう!きたえられる〜!!ひぃ〜
☆いつもいつもありがとう。
☆かみさまいつもまもってくれてありがとうございます これからもよろしくおねがいします
☆みんなのこといつもみていてくれてありがとう 目がつかれたらみどり色をみるといいよ
☆かみさまきょうもまもってくれて ありがとうございます。これからもまもってください。
☆いっつもみていてくれてありがとう。かみさまもかなしいことやくるしいことあるとおもいます。そんなときでもみていてくれてありがとう。
☆神さまが作ってくれたお花たちとってもキレイ。大好き ありがとう。お花見てると元気になるよー
☆ときどき文句ゆってごめんね でもいっしょにいてくれてありがとう。
☆いつもおねがいきいてくれてありがとう これからもおねがいします
☆夜がこわくないように 楽しい夢を見させて!
☆これからもわたしのことも みんなも みまもってください
☆なんてすてきなセカイ おつかれさまでーす。ありがと。

ありがとうって、うれしいことば
 >げんきがでる
ちからがでる
 >かみさまも、きっと。
いっしょにいてくれて
 >ありがとう
まもっていてね
 >ありがとう

☆おなかがへったらどーしますか?あれやったらカレー食べよ!つくるつくる!じゃがいもはおおきいほうがうれしいねー
☆デザートは好きですか?「果摘」クッキーシュ、とってもおいしいですよ。
☆神さまのすきなたべものはなに?
☆かみさま!こんどいっしょににごはんたべにいこうね。
☆いっしょにケーキをたべよう
☆魚と肉 野菜と果物 どれがすき?ぼくは全部好きー!!神さまは果物が好きそう!!ぶどー酒のんでるじゃん。おおきくなったら一緒にのもー!!
☆寝られんときとかあるん?あるんやったらゆっくりあったかいココアのむといいんよ。
☆お魚食べましょう お寿司もいいですね。
☆神さまへ 神さまはごはんはいつたべているのですか
☆ごはんたべた?すいようごはんにきてよ
☆おりょうりはじょうずですか じょうずならたべさせてください。
☆上手にパンをさくコツをおしえて 神様にパンさいたるでー。

へいわってなに?
 >たべること
みんなでいっしょに。
 >おなかいっぱい。
かみさまだってげんきになる。
 >だからイエスさまはいっつもみんなとたべていた。
せえの
 いただきます!
おいしい?
 >おいしいね
せえの
 ごちそうさまでした!

☆ときどき きゅうけい したくない?
☆たくさん本をよんだからいろいろなことを知っているのですか?みんながおねがいばかりするからたいへんだよね。
☆むかついたときはどうするんですか
☆かみさまの本拠地どこですか?空の空のそのまた上?いやいやワタシのそば?どこにでもいけるけど疲れないでね。
☆ないてもいいよ なきたくなるよね。
☆雨がふるときは泣いてるの?タオルかそうか?
☆かみさまはさみしくなるときはありますか 何でも相談してください。
☆ねつがでたらなんきょくのこおりでさましてね。
☆ホントはあのひとキライって思うことありますか それでも愛するって大変だろうなあ
☆かみさまはなくときは、あるの?
☆もういやだ、神さまなんてヤメテヤルーって思うことある?たまにあるよね、きっと。
☆ちょっとひるねもいいとおもうよ。
☆かみ様はおとうさんやおかあさんはいますか?いなかったらあそびにきてね。
☆いらいらしたことはありますか?
☆かみさまは何でもできるけど こまることあるの?
☆かみさまは転ぶことはありますか
☆天国のそうじって大変?みんなでやってね。
☆かみさまはわからないことがあるの?かみさまがんばってね。

へいわってなに?
 >おもいやり。
かなしい つらい しんどい 
 >くるしい いたい さびしい
そんなこのきもちをだれかが
 >じぶんのことのようにかんじてくれたら
だれだってうれしい
 >かみさまだって。

☆上を向いて歩こうとか歌うからきいとくれ
☆うたえば元気になるかもさあいっしょにうたおう
☆おどってみる?まさかおどったことないなんてことはないよね。
☆いっしょにうたお!げんきでるかも!
☆こわいときは大きな声でうたおう

へいわってなに?
 >いっしょにうたって、おどること
こわいとき ふあんなとき ちからがひつようなとき
 >いっしょにうたっておどる
ちからがでる
 >まけないぞってきもちになる
だれだって
 >かみさまだって

☆たまには相談してね ききます。
☆ひとりでなんでもできると他のひとが助けてくれませんよね。しんどいときは「たすけて!」っていってください。だいじょうぶ、一人じゃないですから。
☆うれしいときやたのしいときはかみさまのことわすれてる。こんどたのしいときもおぼえておくからね。
☆いっしょに笑おう
☆おうえんしてます がんばってね
☆これからもがんばってね ずっとおうえんしているよ アッパレ!
☆かみさま がんばれ
☆へんがおするよ 笑ってね
☆フレーフレーかみさま
☆かみさまファイト
☆だいじょうぶだよっていってあげるよ
☆どこがこそばい?なんにもしないから言ってみて。
☆へんがお笑うかな にらめっこめっちゃつよかったりして
☆わらってよ げんきになるよ 
☆みずあそびとかダジャレ言ったり、もしもひとりでさみしかったら一緒にあそぼう
☆きれいな花を大事にしようとおもいます 見てげんきになっておくれ
☆神さまがんばれ
☆いつか遊ぼう
☆だいじょうぶ きっとなんとかなるなる
☆これからもがんばってください
☆らぶ
☆ベンキョーしてんの?水ようゼミで一緒にベンキョーしよ
☆ずっとえがおでいてください
☆これからも ひとつ、よろしくです
☆これからもかみさまのしごとをがんばってください
☆笑
☆とってもうれしいきもち
☆よしよし

へいわってなに?
 >ひとりぼっちじゃないってこと。
いっしょにいるってこと
 >なぐさめてもらうこと
わらわせてもらうこと
 >おうえんしてもらうこと
イエスさまは「かみさまはいっしょにいる」っていった
 >かみさまもそれがうれしい
きっとそう
 >だれだってひとりぼっちはいやだ

☆神さまの好きなことってなに?!
☆ポケモンGOっちあぶないよねー神さまももしかしてやってるの?
☆神さまどこにすんでますか。
☆かみさまは見えないけどどこのだれとくらしているんですか?
☆かみさまはどこにいるんですか なんのどうぶつがすきなんですか ぼくはトラがすき。
☆おとうさんやおかあさんはいるんですか
☆かみさまは せかいはすきですか
☆かみさまはどこにすんでいるんですか
☆かみさまは雨はどうやってふらせていますか
☆何人でくらしていますか。
☆かみさまのほんとうのなまえはなんていうんですか
☆毎日どんな生活をしているんですか
☆かみさまはどこにすんでいるんですか 天国にすんでるんですか
☆神さまはこんな(お城みたいな)家に住んでるの?

へいわってなに?
 >りかいすること
じぶんじゃないひとのことを
 >りかいしたいとおもうこと
ぜんぶはわからなくても
 >すこしでも
だってだれでもわかってもらえたらうれしい
 >かみさまだってきっと。

平和ってなに? 
>「せんそうがおきない」。
せんそうが起きるとたくさんのいのちが殺される。
>神さまが、大切に創ったいのちが殺される。

平和ってなに?
 >「殺人がおきない」。
殺していいいのちなんて、ない。
>みんなイエスさまに愛されたいのち。
いきるに値しないいのちなんて、ない。
 >いのちは、だいじ。
どんないのちも
 ぜったいに!

平和ってなに?
 >「おだやか」。
軍隊や基地や、兵器や武器に
 >ひとをころすくんれんをつんだへいしたちに
せいかつや、いのちを
 >こわされずにいきること
しずかに、ともに
 >ただそれだけのこと
  
平和ってなに?
国などにめいれいされたひとたちに
 >だれもなぐられたり
おさえつけられたり
 >とおせんぼされたりしないこと
じゆうにのびのび、いきること
 >いやなことはいやっていえる
ただそれだけのこと
 >ただそれだけのこと

平和ってなに?
 >「自然がある」
戦争は自然を壊す。
 >戦争はいやだ!平和がいい!神様が創った自然が言ってる。
ジュゴンもサンゴも、ノグチゲラも。
 >オリーブも。

平和ってなに?
>「せんそうがおわって全員生きている」
そうだ、戦争は終わる。戦争は終わらせることができる。
 >そうだ、みんなで生きることはできる。
平和って、そんな未来のこと。
 >そうだ、戦争が終わって、みんな笑って生きている未来のこと。

平和ってなに?
 >ちからづけあう
ありがとうっていってもらう
 >いっしょにたべる
おもいやり
 >うたっておどる
いっしょにいきる
 >りかいする
いのちがだいじ
 >どんないのちも
おだやかで
 >じゆう
しぜんがだいじにされる
 >せんそうはおわる
平和はきっとくる
 >だからまけない
だから、さあいこう!
 >へいわをつくりだそう
ともに
 >てをつないで
せえの!
 アーメン!

  
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2016年08月12日

ライブスケジュール8月〜10月中旬

2016年の8月から10月中旬にかけてのライブスケジュール更新しました。これから増えたり確定したりする予定や詳細についてはその都度アップしていきますのでどうぞチェックしてください。予定の急な変更などもありえますので、念のため会場等にご確認の上、ぜひお運びください!

8/18(金)ゴーイングホームトリオ(ギター:原田敏夫、ベース:フクヤマワタル)
センター交流会
【小倉・ホームレス自立支援センター北九州】
18時半〜

8/21(日)デュオw長沢哲(ドラムス)
長沢哲ソロCD発売記念ライブ
【長崎・オハナカフェ】095-827-2405
長崎市浜町2-25-2F
18:30 / start 19:00 / charge ¥2,000 (1ドリンク込)
出演:長沢哲(ドラムス)、シマカワコウヂ (倍音楽器)、尾口陽軌 (guitar)、谷本仰 (violin)

8/22(月)谷本仰ソロダイヤローグス
【大村・ロニスコッツ】0957-52-9345
長崎県大村市本町437-3
※ゲスト:長沢哲(ドラムス)
open 19:30 / start 20:00 2000円+order

9/1(木)谷本仰ソロダイヤローグス
【北九州八幡・デルソルカフェ】093-662-2013
北九州市八幡東区前田3-10-26
19時半開演(19時開場)2000円要別途オーダー
※即興を中心に。新しいソロダイヤローグスの兆し。

9/3(土)いのちのうたデュオ(ピアノ:中島由紀子)
【小倉・松田楽器ホール】
18時〜

9/8(木)トリオ・ロス・ファンダンゴス
【東向島プチローズ】03-3611-0105
東京都墨田区墨田3-5-13
19時開場 19時半開演 3500円1ドリンク付き

9/9(金)トリオ・ロス・ファンダンゴス
ミロンガ 
【銀座・スタジオタンゲーラ】03-3547-6190
東京都中央区銀座6-13-7 同郷会館ビル6F
ミロンガ20:30〜23:30(ライブ2ステージ)、3500円

9/10(土)トリオ・ロス・ファンダンゴス
ミロンガ
!VIVA LA "TLF" MILONGA!
【大崎・STUDIO501 Bスタジオ】03-4405-9716
東京都品川区大崎5-4-12八重苅ビルB1F
ミロンガ18:30〜22:30、3000円
※ダンスデモ:マーシー&マギ

9/11(日)トリオ・ロス・ファンダンゴス
ミロンガ ”ギラギラミロンガ”!!
【恵比寿ラ・バルドッサ】03-3445-1346
東京都渋谷区恵比寿1−1−6 エビスオークビル4F
ミロンガ13時〜16時半 予約前売り3,000円、当日3,500円 
予約・前売りはメールで受付。web.tp@gmail.com(@を半角にしてください)
問合せ090-2327-0916(棚田)

9/11(日)トリオ・ロス・ファンダンゴス
ミロンガ
【渋谷ミブリン】03−3461−3111
東京都目黒区青葉台3ー5ー5 東京富士青葉台ビルB1F
ミロンガ19時〜23時30分、予約2500円、当日3000円
※ライブ20:30〜、22:00〜

9/12(月)
【雑司ヶ谷エルチョクロ】03-6912-5539
東京都豊島区南池袋3−2−8
開場18時半、開演19時半、4000円
※ゲスト:タンゴ歌手KaZZma
info@el-choclo.com

9/13(火)jトリオ・ロス・ファンダンゴス
【三重・津 三重県総合文化センター・フレンテみえ多目的ホール】059-233-1111
三重県津市一身田上津部田1234
14時半開場 15時開演 2000円
ゲスト歌手:北岡樹

9/16(金)
【福岡大橋・カフェドトワレ】092-405-9605
福岡市南区塩原4-12-17
20時〜、2500円

9/18(日)ドグラマグラ
【北九州八幡・デルソルカフェ】093-662-2013
北九州市八幡東区前田3-10-26
19時半開演(19時開場) 2000円・要別途オーダー

9/20(火)〜9/22(木) ホシハ チカニ オドル広島公演
【カフェテアトロ・アビエルト】
広島市安佐南区八木9丁目10-40(可部線「上八木駅」ヨコ)
 9/20(火) 19:30 終演後シェアタイムゲスト:鏑木悟道(演出家/演劇企画室Vektor代表)
 9/21(水) 19:30 野外劇団「楽市楽座」
 9/22(木) 14:00 上村崇(福山平成大学教授/ゾンビ愛好家)
(上演時間約80分)
予約 2500円 当日3000円 学生(小〜大学・専門)予約1500円
 ※Again予約=今までどこかの会場で本作品を観たことのある方は、
  その時の会場名・時期を書いてご予約頂けたら500円割引になります。 
 ※Repeat予約=今回の公演を複数回ご覧になる場合、2回目以降は
  1500円でご予約できます。
席数の調整のため、直前でも構いませんのでご予約頂けると助かります。
お問い合せ/ご予約 tanise@har.bbiq.jp(ピカラック)、090-9412-3241(大槻) 082-873-6068(アビエルト)

9/24(土)いのちのうたデュオ(歌・ヴァイオリンほか:谷本仰、ピアノ:中島由紀子)
【北九州・南小倉バプテスト教会】093-571-5072
北九州市小倉北区弁天町11-19
14時より。
入場無料、自由カンパ・投げ銭・献金あり(久山療育園のために)

9/25(日)ミロンガ
【福岡天神・ティエンポ】092-762-4100
福岡市中央区大名1-15-11 Daimyo11511ビル 3F
19時ミロンガ開始、非会員: 2,300円| T.I.会員: 2,000円

9/30(金)ソロ
【北九州・槻田市民センター】
10時〜12時

10/1(土)長沢哲(ドラムス)×波多江崇行(ギター)×谷本仰トリオ
【北九州八幡・デルソルカフェ】093-662-2013
北九州市八幡東区前田3-10-26
19時半開演(19時開場) 2000円・要別途オーダー

10/2(日)デュオダイヤローグス(コントラバス:フクヤマワタル)
野外劇団楽市楽座「ヨイショコラショ」小倉公演
【小倉城大手門前広場特設野外劇場】

10/7(金)谷本仰ソロダイヤローグス
【八幡東大蔵・mama福】093-616-0606
福岡県北九州市八幡東区大蔵2-11-14
19時開場、20時開演 2000円 別途要オーダー
※曲を中心に

10/9(日)ソロ
亀山ののこ meets 門司港 『9』写真投影ライブ
【旧門司文化服装学院】
門司区庄司町3-18)
16:00開場 16:30開演 予約2000円(当日2500円)
※ライブ後、18時まで亀山ののこ トーク(お相手:谷本仰)
予約・問いあわせ lottalotta0829@gmail.com 090-5938-8009 (しんどう)

10/13(木)デュオダイヤローグス
【薬院・遊来友楽YURAYURA】090-8352-2165
福岡県福岡市中央区高砂1-20-2
20時 2000円 別途要オーダー
※久しぶりの福岡でのデュオダイヤローグス!お楽しみに!



  
Posted by aogoomuzik at 22:33Comments(0)TrackBack(0)ライブスケジュール 

2016年08月09日

そこが平和でないなら −高江を思いながら−

そこが平和でないなら
ここは平和ではない
そして
どこも

いずれどこもかしこもそうなる
などと
誰かがつぶやく

そこだからか
まだなのか
ここではないのか
いずれなのか

そこで今
殴られているというのに
殴っているというのに

わたしたちではない
とでもいうのか

闘いのただなかで
かたりかけている人がいる
青く硬い服を着て
たちはだかる機械の
目の奥に浮かぶ涙の欠片
胸の底にゆらめく灯火を
懸命に
探し求めながら

祝おう
歌おう
踊ろう
座り込もう
立ちはだかろう

寿げ
人間たちよ

ほかにどこに
あるというのだ

そこに今
平和がないというのなら  
Posted by aogoomuzik at 17:27Comments(0)TrackBack(0) | 雑記

2016年08月04日

川のながれるあのまちのそらの向こうで

ねじれ
狭い道を探し
辿り
あたまつきだし
うまれでたでた
あよいよい
ひいひいふう
はっはっはっ
息をあわせて
かぞえきれぬわい
ひしめき
なみうち
うかび
おしあいへしあい
うまれていったのだ
おぎゃーおんぎゃー
おおよしよし
おいつかぬわい
まるで銀河
あの日
川のながれるあのまちの
そらのむこうで
  
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2016年07月25日

変わりつつあるらしい

予想やコントロールのしにくいこと、カラダそのものを使うこと。そういうことがますますやりたいらしい今日この頃。その傾向は今までもあったけれど、気づけばそれがとても強くなっているらしい、どうもどうも。予測できない動きをする変なシンセや妙なエフェクター、さらに空中の手の動きを感知するケッタイなセンサーを使ってみたり。もともとMorleyのBad Horsieを気にいって長年使っていたのだけれど、あれが好きだった理由はコレか?さらにAlesis Air Fxを近年再び使い始めたのも?そうだったのか!ちがうか!
今日のダンス平山等子さんとの「四月の魚」ライブでも、声出しながら両足、左手でそれぞれにペダルやセンサーを不規則不安定に動かしたり、あたしゃタコか。すんましぇーん。あ、そういえばトムコラの動画みてタコかと思ったことがあったような気がする。タコ万歳。
それと、もっと響きやノイズそのものでいきたい感じも強くなっている。Geoff Leigh & 河端一デュオにゲスト参加させてもらった時の、流れと響きの中をたゆたいながら、不断に変化していくあの感じがカラダに残っている。
夕焼け空の刻々と移り変わっていく光と色のことを今日終演後に来てくださった方々とオモテで夜風にあたりながらしゃべってて思った。ゆっくりと、でも確かに変わりゆき、そして夜空へ、漆黒へと溶けていく。ホシたちが気づけば瞬いておどっている。
エレクトリックと生のヴァイオリンや声、鳴り物の境もぼやけてきた。黄昏、誰そ彼。おっとこれも夕暮れか。
あるいは行ったり来たり。往来、オーライ。
ソロCD出して一年ちょっと。頭で考えて決めて動くってのがどうもうまくない人間なのだけれど、どうやらいつのまにやら動き出していたらしい。にょろり、ぐにゃり。そしてこれは色んなところに波及する可能性もあるかも。いやないかもだけど。
さあて。この後のソロは8/5広島、9/1デルソル。そして10/7mama福。
どうなりますことやら。  
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2016年05月05日

タンゴの節句2016 4/30〜5/3

4/30
震災で被害のあった大分でのタンゴの節句。3年ぶりのブリックブロックに戻って。まだ余震がおさまらない。お客さんは、でもそんな中を精一杯誘いあわせて来て下さり、楽しんでくださった。ありがたい限り。あのやわらかくあったかい感じ、うれしかった。大分でタンゴを大切にしてきた人たちの姿があった。われわれを応援し続けてくださっている方々に、本当に感謝。そして今回の震災で大きな被害を受けた熊本・西原村からも、タンゴが縁で結ばれた若いごカップルはケンジさんに誘い出され、すてきに踊ってくれた。豊後高田で10年前にプルポとルイサと共にやった時のタンゴの節句以来、ずっと来続けてくださっているお客さんも。
時代は変わる。状況も、人も。でも、変わらないものも、ある。ずっと続いているものもある。そして、始まるものも。
また大分で、みんなと一緒に、タンゴを!ブリックブロック・マスター大津さん、今年もありがとうございました。次もどうぞ宜しくお願いいたします!!
…そして熊本でも、きっといずれ。

5/1
大入り満員ソールドアウトの小倉・北九州芸術劇場小劇場公演。210名あまりのお客さんがひしめき合う会場。昨年2公演の合計入場者数を1公演で軽く上回ってしまい、慌てる。開演直後からお客さんが積極的にこのショウを楽しみに来てくださった様子が伝わってくる。みんなの嬉しそうな顔、顔、顔が迎えてくれる。ケンジ&リリアナが現れたとたんに湧き上がる黄色い声援!ロビーのワインは休憩時間までに完売!17年前に北九州で活動を開始した直後、トリオ・ロス・ファンダンゴスという名をつけて活動を開始した直後のライブをやらせていただいた「カフェ・ド・くら」のママさんの姿も。まあ歳とったわね、だって。あはは。そのとおり。そこでピアソラものを中心にガシガシ演奏している映像がVHSテープで残っている。それから17年。でもあの頃、無謀にも燃やし始めたタンゴへ思いが、やっぱり今にいたる我々の演奏の核、土台をなしていることはマチガイない。小倉の満員のお客さんも、それをまるでわが事のように受けとめ続けてきてくれたのだ。

5/2
広島アビエルト。タンゴの節句7公演の中で、唯一ノーマイク、生音で臨む公演。マイクとスピーカーからカラダが解き放たれる。大槻さんの参加も予定調和にならないオモシロサをはらんでいて。事前に時間をかけて組み立てたプログラム、流れに不安定な要素が加わることによって流れが「ゆらぐ」、その感じがここではほしかった。彼が変な格好で出てくるとお客さんは笑う。しかしやがて彼の身体の動きにぐぐっとみんながひきつけられていくのがわかる。
ケンジ&リリアナのダンスは、ダンスそのものによる説得力、訴えかける力がこの広島でぐっと前に押し出されてくるカンジがあった。今回のツアーの、ココ広島がヒトツの転換点になるのかもしれない。それにしても大槻さんのカレーやら打ち上げメニューの数々最高でした。
打ち上げのときに小さな音で「6」をBGMで鳴らしてくれていたのだけれど、それでもまったく楽しめるのだった。これはミックス段階で気づいていたことなのだが、細部まではっきり聞こえなくても、そして特に低音がかきけされてしまっていても、ずっと流れやグルーヴを感じられて楽しめるこの感じ。ベースレストリオとしてやってきた我々は、実はこれを目指してきたのかもしれない。そこに近づけているなら、うれしいこと。

5/3
下関コルトーホール。昨年はたしか初夏を目前にしたうららかな日差しの中、のんびり本番を待っていたような気がするのだけれど、今回はなんと嵐。山陽本線も山陰線もストップ。お客さんの足が危ぶまれたけれど、予約してくださっていたお客さんは殆んどご来場くださったとのこと、感謝感激。「大河内百笑村」のみなさんが育て作ったお酒を楽しみながらの公演も、恒例。2年前にこのホールに引っ越す際に大変お世話になった片山さんも、昨年市会議員に選出され忙しい身ながら駆けつけてくださる。九州舞台さんの照明も映える!
今回のツアーではステージ上で、全く気負いなく演奏している自分に気づく。自分より、タンゴのノリ、グルーヴ、そして歌のほうがはるかに大事。そこに意識が向かっているせいかもしれない。レコーディングでそれをこれまで以上にはっきりと意識して確認したせいかもしれない。お客さんに直接ぶつけるという意識ではなく、みなさんの前にそれを「置く」感じかもしれない。あるいは鳥とか、蝶とか、魚とかを空や水に「放す」感じか。それだけ。あとはタンゴがなんとかしてくれる。歌が、曲が働いてくれる。それ以上のことはしなくていい。だいじょうぶ。ことさらに力まなくても、お客さんは楽しんでくれるだろう、だって、こんなにいいんだから、タンゴ。そんな感覚。そうそう、アンコール曲の終盤、お客さんの間にまるで「ああもうしんぼうタマラン!」とばかりに起きた手拍子も、座っているみんながわっと踊り始めた瞬間のように感じたなあ。やはり、ミロンガで与えられてきたものがこうしたコンサートでも、形に現れ始めたのかもしれない。スタッフこうきちゃんは「どうぞ、とさしだす感じなんよねえ」と評してくれた。あ、ケンジさんもそんなことを。ありがたいこと。

さあ、タンゴの節句2016、残すところはあと一日。5/7(土)、アクロス福岡円形ホール、昼と夜の2公演!怒涛の5連続公演で進化してきたタンゴの節句2016の最終形!
VAMOS!!  
Posted by aogoomuzik at 16:01Comments(0)TrackBack(0)ライブ 

2016年04月30日

アタマからカラダへ、みんなで タンゴの節句2016初日に感じたこと

タンゴの節句2016、宮崎での初日では、ゆっくりめに展開した一部から二部に入って、演者とお客さんが一体となってスピードや回転が一気にあがっていく感覚が新しかった。ケンジさんによれば「ジェットコースターに乗ってるようなスピード感」一体となるというのは単にお客さんがjみんなで笑ってるとか、拍手喝采を送ってくれているとか、そういうことではない。演者とお客さんの間で、言葉ではなく、身体のいろんな反応のやりとりがどんどん高速で行われるようになっていき、いつしかみんなでうわーっとひとつのカラダみたいになって駆け出していく、回転し、踊り始める、そんな感じ。

何曲かをつないで、間にしゃべりを入れずに続けて演奏する場面も、これまで以上に自然にスムーズに感じられた。繰り返し繰り返してきたミロンガでのタンダ形式の演奏が、この感じを生んだのかもしれない。ミロンガの場合は、ひとつのタンダで3〜4曲、同じスタイルの曲を続けるけれど、タンゴの節句では違ったスタイルの曲が並ぶことがほとんど。それでもそんな風に感じられたのだ。それは演奏者の感覚だけではなく、これもまた、お客さんのカンジから、みんながそれをひとつの、つながりをもった「流れ」として身体で感じてくださっていることが伝わってきた、ということ。

踊っている人たちのための演奏を繰り返してきて、気がつけば、座って聴いているひとたちの身体ともこうして対話することができるようになってきた、ということなのだろうか。

アタマじゃなくて、カラダで。自分たちだけではなく、みんなで。互いに、感じあいながら。

そんなことが、ひょっとするとミロンガを経由して、タンゴの節句においても始まったのかもしれない。

トリオ・ロス・ファンダンゴスでタンゴの演奏を始めて17年。ケンジ&リリアナと一緒にタンゴの節句が始まって14年。15回目のタンゴの節句の初日、ようやく、遅まきながら、ここに至ったことを感じる一夜であったのだとすれば、それは画期的なことだ。  
Posted by aogoomuzik at 12:28Comments(0)TrackBack(0)ライブ 

2016年02月20日

「ホシハ チカニ オドル」北九州公演終了 (南小倉バプテスト教会2016/2/7週報今週の一言)

 「ホシハ チカニ オドル」北九州公演終了。一四〇名近い方々に見ていただくことができ、ほんとうにうれしかった。今回の計四公演は通算二八〜三一回目。二〇一〇年秋の初演以来五年余り、ついに上演が三〇回を超えた。
 振り返れば大槻さんとぼくが一緒に作って二〇〇五年に最初の共演となった作品のタイトルがすでに「死者の書(テガミ)」であり、互いに関係のないさまざまな死者たちが次々に登場して独白をし、踊り、去っていくという構成だった。また「ホシハ チカニ オドル」の前身の即興的パフォーマンス「Dialogues in the dark」は広島市立大学の湯浅正恵さんの「原発事故で亡くなった人々をよみがえらせるようなパフォーマンスを」という要請がきっかけ。つまり、初めからずっと、「死者」「復活」がテーマ。
 大槻さんの芝居も、ぼくの音楽も、公演を重ねるごとに少しずつ変化する。この作品は、こうした即興的で可変的、対話的な要素を随所に残してある。それがこの作品をつねに変化させ、ダイナミックにし、うねらせる。回を重ねてもこの作品上演が演者自身にとっても新鮮で、おもしろくあり続ける所以だ。
 「復活」に関する表現はより豊かに、より強くなって。森の妖精は夜空を抉るように指さしながら、星たちの光が闇に塗りこめられても塗り込められても、ぐりぐりと孔を開けてピカーッと漏れ出してくる、というようなことを語る。その指によって、光が指し示されると同時に、闇を破り穿ってこちら側へと突き出してくる光の復活の強い力が新たに表現されていた。
 また、「笑い」も物語の中での重要性を増している。笑いのもつ解放や復活の力、希望、そして優しさに光があてられ、それが星のように輝く。死者が笑う。死者に笑わせてもらう。笑いがテーマになっている場面で、何度も涙が出た。
 ステージ上でぼくが心から笑っていたのがよかった、という感想が幾つもあった。お客さんが、舞台を取り巻いて座り、舞台の向こう側とこちら側でお客さん同士の顔が見える形は、韓国の民衆のマダン劇に通じる。広場、だ。演者と観客だけでなく、観客相互の交流によっても一体となっていく、「ホシハチカニオドル」。
 また、二〇一三年の京都と広島で初めて取り入れられ、その後しばらく姿を見せなかった「食べる」ということがお客さんを笑わせ巻き込みながら再登場。うれしかった。
 前回の東京公演で経験したぼくの機材トラブルも改善。前回からより強くダンスを意識し始めた第三場「興」のソロ演奏も楽しかった。音楽と芝居の一体性はぐっと深まった。
 「ホシハ チカニ オドル」は、上演三〇回を超え、それ自体が身体をもったイキモノのようになってきたと感じる。つながり、息づき、問い、嘆き、踊り、歌う、モノガタリのカラダ。もはや「作品」と呼ぶことはなにやら相応しくない感じすら覚えるほどに。
 ゲストとの言葉のやりとりも毎回おもしろかった。黒田征太郎さんはその後、全国上演の資金のために、とすでに三〇枚あまりの絵を送ってくださった。ありがたい限り。
 何度も繰り返し観てくださるお客さんも増えてきた。駆けつけて手伝ってくれる仲間たちの存在が嬉しく心強い。「ホシハ チカニ オドル」が共同体のようなものを呼び集め始めている。
 旅は続く。世界のキズアトと響きあいながら、「死者たちのまなざし」(レヴィナス)の前に、下に、上に身を置いて。復活の祈りの生きたモノガタリとして。一〇〇回公演を目指して。新しい出会いを求めて。どうぞ応援のほど、宜しくお願いいたします!
 あ、カンパもありがとうございました。次回をお楽しみに!
  
Posted by aogoomuzik at 14:53Comments(0)TrackBack(0)南小倉バプテスト教会「今週の一言」 | ホシハ チカニ オドル

「『慰安婦』問題に関する日韓『解決』合意に関して」その5 (南小倉バプテスト教会週報今週の一言20160131)

 イエス・キリストは復活した、と教会は信じ語ってきた。二千年にわたってそう物語ってきた。しかしそれは十字架の上で殺されたあのイエスが、殺され続けてもなお、よみがえり続けたという物語を含んでいたはずだ。あらゆる一度目の殺人、あらゆる二度目の殺人、あらゆる記憶の抹殺の企図にもかかわらず。
 イエス・キリストの復活は、イエスだけの復活ではないはずだ。傷つけられ無視され、殺害され、隠ぺいされ、二度目の殺人を繰り返されてきた者たちの復活と共に、それはある。こうした人々の復活の中にこそ、主イエスの復活は見出される。こうした人々の復活から離れて、イエス・キリストの復活はないのだ。教会が復活を信じると宣言するとき、わたしたちはこのことを信じる、と宣言していることになる。
 しかし教会は、そう信じてきたか、この二千年の間。復活を特権的に独占しようとしては来なかったか。こうして傷つけられてきた人々と共にあるべき復活のイエス・キリストを、彼ら彼女らから引き剥がそうとしてこなかったか。そうであったならそれは加害への加担に他ならない。そこに教会の罪があったのではないか。
 イエス・キリストの復活は、そうではなく、ナクバに抗して芽を出し続けるあのオリーヴの種のようなもの。そのようにして、傷つけられた者たちの存在を塗りこめて忘れさせようとする力に抗って、この世界に何度も何度も芽を出すことそのもの。それは希望の闘い。それは倒されても倒されても何度も立ち上がり踊り歌いはじめるいのち。「信じる」とはこの復活を真に受けること、そして自分自身の中に、その萌芽を見出して生きることだろう。
 だから、復活を信じることは、この復活に参与し、関わるという宣言を含む。わたしたちは祈る。祈りは記憶の抹殺への抵抗を含んでいる。そこにすでに種は蒔かれている。わたしたち自身において、復活のオリーヴを芽生えさせること。わたしたちの内に、その芽を見出すこと。わたしたち自身が、その芽になること。それが信じることであるはずだ。
 聖書に記されたイエス・キリストの天国の譬の多くが「種」の物語であることは、だから、決して偶然ではない。もっとも低いところに、もっとも強い復活の力が現れる。そこに、また立ち上がる、立ち上がらせる神の力が、宿っている。天国の物語は、だからこそ、復活の物語に他ならない。
 「『慰安婦』問題に関する最終的かつ不可逆的な解決」など、無理だと思う。あらゆるところで行われる記憶の抹殺も、いのちへの否定も。復活を心に留めれば留めるほど、胸のうちにその思いが芽生えるのだ。熱く、強く。



  
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2016年01月26日

「『慰安婦』問題に関する日韓『解決』合意に関して」その4 (南小倉バプテスト教会週報今週の一言20160124)

 岡真理は続けてこう書く。
 私たちがナクバを知らないということは―ナクバの表象それ自体が寡少であるにしても―私たち自身の意図はどうあれ結果的に、ナクバの、すなわちパレスチナ人の民族浄化の、記憶の抹殺に加担していることになる。逆に言えば、私たちがナクバについて知るということは、現在なお継続する、このメモリサイドの暴力に、小さな、しかし致命的な一石を投じることである。私たちが事実を知っても、ナクバの悲劇それ自体は取り返しがつかない。しかし、かつて彼らに振るわれた暴力がまぎれもない不正義であったことが広く認められ、その歴史的不正の結果を今日まで生きることを強いられている者たちが、これまで否定されてきた人間としての尊厳を回復するための、それは、不可欠で、大切な、一歩なのである。(同五八―五九頁)
 繰り返される二度目の殺人に対する抵抗。それは記憶の抹殺(メモリサイド)への抵抗を伴う。「知る」ことだ。「聴く」ことだ。埋もれさせないこと、忘れないこと、なかったことにしない、させないことだ。何度も何度もよみがえらせること、常に新しく聴いたことへの応答を、変わることを、対話を始めることだ。終わらせない、不可逆にさせないこと。記憶を、往来させることだ。何度もこの身に、この世界に、よみがえらせること。生きている彼女たちだけではなく、殺されてしまった彼女たちの眼差しを受けながら、聞こえないけれど確かに響いているその声を聴きながら。そして祈りながら。新しくされながら。きっとそれが二度の殺人の犠牲になり続けている者たちの復活に参与することそのものにつながっているはずだ。
 生き残った被害当事者たちも、身体の、心の奥底に、この記憶を抱え込み、隠して生きざるをえなかった。しかしそれは忘れようとしても忘れられない痛みであり、決して過去のものにはならなかった。一九九二年、戦後四七年を経てついに、金学順ハルモニが証言の口火を切った。次々に証言者が現れた。その具体的存在と物語に日本が鋭く問われ、揺さぶられてきたのだ。殺されたはずの記憶、殺されたはずの物語、殺されたはずの犠牲者たちの、復活。
 岡真理は、イスラエルによって暗殺されたパレスチナ人作家でジャーナリストのカナファーニーの作品を紹介しつつこうも語っている。
 かつてパレスチナ人が暮らしていた村は破壊され、村の外延を縁取っていた樹齢を重ねたオリーヴの樹々は切り倒され、松や杉の木が植えられた。だが、パペによれば、それらの松の木を二つに断ち割って、幹の間からオリーヴの若木が生え現れているのだという。数十年という歳月を経てなお、記憶の抹殺(メモリサイド)に抗して。カナファーニーが作品に刻んだパレスチナ人一人ひとりの五感に深く記憶されたナクバの痛みこそ、別の物語/歴史に覆われた大地に胚胎された、このオリーヴの種子に他ならない。(前掲書八四頁)
 殺された者たちは、こうしてよみがえる。引き継がれる闘いのうちに。聴き取られ、再び息をふきかえし、殺害者の存在を根底から揺さぶる物語のうちに。 (つづく)
  
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2016年01月17日

「『慰安婦』問題に関する日韓『解決』合意に関して」その3 (南小倉バプテスト教会週報今週の一言20160117)

 「最終的かつ不可逆」。その文字を目にしたとき、「記憶の抹殺」という言葉を思い出したのだ。
 一九四八年のイスラエル建国に伴って八〇万人もの先住パレスチナ人が故郷から追い出されて難民化した事件「ナクバ」(大厄災の意)。パレスチナ文学の研究家である岡真理氏はその著書「アラブ、祈りとしての文学」の中で、これに関連してユダヤ人歴史家イラン・パペの「記憶の抹殺」ということばを紹介しつつこう書いている。
 イスラエルにおける先住民の存在とその歴史、そして「ナクバ」は一貫して抑圧されることになる。パレスチナ人住民がいなくなった家々はダイナマイトで爆破され、むらむらはブルドーザーで破壊されて物理的に抹消されたのみならず、アラビア語の地名はヘブライ語の名前に置き換えられることによって、地図からもその歴史的名存在の痕跡が抹消された。パペによれば、イスラエルにある森林の九割はイスラエル建国後に植林されたものであり、植えられたのは、パレスチナの自然の植生とは異質な松や杉などとの針葉樹であるという。パペはそこに、ヨーロッパ的外貌のユダヤ人国家を築こうとするシオニズムの欲望を看取している。広大な国立公園の案内には無人の荒野に植林したと記されているが、現実には、これらの木々の下には、破壊されたパレスチナ人の村々が埋められている。村の外延を縁取っていたサボテンや、果樹園のオリーヴ、アーモンドの木々も倒され、その上に新たな木々が植林されたのだった。国立公園の建設は、難民たちに故郷への帰還を物理的に不可能にするためであると同時に、故郷の村というパレスチナ人の集合的記憶の場そのものを針葉樹林というヨーロッパ的外観の異質な風景に置換することで、パレスチナ人がナクバの記憶も、ナクバ以前のパレスチナの記憶も、そこで想起し記念することを不可能にするためのものである。パペはこれをナクバのメモリサイド―記憶の抹殺―と呼ぶ。(前掲書五七〜五八頁)
 日本軍がアジア各地において数え切れない女性たちを性奴隷化し、虐待の限りを尽くした証拠は敗戦直後に組織的に隠蔽されたと言われている。書類は焼却破棄され、「慰安所」は破壊された。「慰安婦」たちが銃殺されたケースもあったという。
 そして今回の「合意」。責任の所在を曖昧にして誤魔化したまま、カネで、高齢化した被害者たちをなだめておこうとする態度は、まるで生き証人としての彼女らの死を待っているかのように見える。日本政府が少女像の撤去を求めているのは、被害当事者たちの歴史や存在、そして記憶を抹殺し、忘れさせようとする姿勢を如実に露呈しているといえる。さらにそれに韓国政府が同意したのだ。被害女性たちは自国政府にさえもまた殺されようとしている。
 こうして彼女たちへの「第二の殺人」は記憶の抹殺・メモリサイドとしての姿をもとっているといえる。彼女たちはこれに対して問いと否を叫び、抵抗し、闘っている。生きること、存在そのものが、その闘いだった。それは殺され続けてきた者たちの文字通りいのちがけの、復活をめぐる闘いなのだ。(つづく)  
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2016年01月10日

「『慰安婦』問題に関する日韓『解決』合意」に関して その2 (南小倉バプテスト教会週報今週の一言20160110)

 慰安婦問題が最終的かつ不可逆的に解決されることを確認?政府間で勝手に、当の被害者たちには一言もなく勝手にこれで終わりにすることなどできるはずがない。当事者の痛みは終わらないからだ。傷は何度も疼く。その痛みへの共感や理解や、謝罪がなければ更に。記憶は不可逆ではない。それは去来し、往来する。甦る。記憶は可逆だ。それを拒否することは記憶の封殺であり、それも「二度目の殺人」であるはずだ。
 互いに非難や批判を控える?日本政府は被害者の痛みの声に耳を傾けなければならない。歴史教育の中でそれを次世代に伝える必要もある。そしてこの声は世界において聴かれねばならない。韓国政府も、アメリカに促されたからと言ってこれを無視してはならない。
 責任を「痛感」?「認める」という言葉が避けられている。なすべきは加害の事実の確認と罪責告白と謝罪、それに基づく賠償だ。責任の所在と存在が曖昧な「補償」や「支援」ではない。
 沈黙を続けてきた被害者が重い口を開いて、自分の身に起きたことを証言し始めたのは、戦後四六年を経た一九九一年のこと。しかし被害者たちが待っても待っても、求めても求めても日本政府は自らの関与と責任を認めようとしなかった。二〇一一年、日本の謝罪の要求と抗議を込めて、韓国挺身隊問題協議会がソウルの日本大使館前に設置したのが、慰安婦少女像だ。
 ソウルの少女像には以下の碑文が添えられている。日本語訳は以下。(訳文は英文からの私訳。韓国語と齟齬がないかどうかは呉光現氏にチェックしていただいた。)
  断ち切られた髪の毛は少女が故郷から日本帝国軍によって連れ去られたことを象徴する。
  硬く握られた拳は彼女が正義の実現を固く決意していることを示す
  裸足で浮いた足は、冷たく無共感な世界によって打ち棄てられてきたことを示す。
  肩の鳥はすでに亡くなった犠牲者たちとわれわれのつながりを示す。
  空いた椅子はいまだ正義の実現を見ぬまま年老いて死のうとしている生存者たちを示す。
  少女の影は老婆のものであり、沈黙のうちに過ごした月日を象徴する。
  その影の中の蝶はいつの日か謝罪を受けるために犠牲者たちが甦る希望を示す。
 今回の合意の中に、この像を一〇億円の「補償」と引き換えに撤去することを暗に韓国政府に求める内容が含まれていることは、日本政府が少女像の眼差しに耐えられないでいることを示している。一〇億円。それで被害女性たちの横っ面をはたいているのだ。これで黙れ、これで忘れろ、これで目を逸らせ。なんという恥知らず。そしてそれは、我々の税金なのだ。恥ずかしい。
 今、この像を若者たちを中心とした人々が取り囲み、徹夜で守っているのだと報じられている。悔しくて悲しくて申し訳なくて、そしてうれしくて、涙が出る。ここに、復活は現実化しているといえるのかもしれない。封じられても、札びらで叩かれても、殺されても殺されても、正義を求めて、共感において、また立ち上がる者たちが現れる、その現場に。(続く)
  
Posted by aogoomuzik at 23:57Comments(0)TrackBack(0)南小倉バプテスト教会「今週の一言」 

2016年01月02日

「『慰安婦』問題に関する日韓『解決』合意」に関して その1 (南小倉バプテスト教会週報・今週の一言20160103) 

 先週月曜日の一二月二八日、日本と韓国の政府間で慰安婦問題の解決合意がなされたというニュースに驚かされた。岸田文雄外相と韓国の尹炳世(イビョンセ)外相による会談で妥結が確認されたというのだ。
 報じられた合意内容の骨子は以下の通り。(毎日新聞、一二月二九日付)
・慰安婦問題が最終的かつ不可逆的に解決されることを確認。今後、互いに非難や批判を控える。
・日本政府は、当時の軍の関与の下に多数の女性の名誉と尊厳を傷つけた慰安婦問題の責任を痛感
・安倍晋三首相は心からおわびと反省の気持ちを表明
・韓国政府が元慰安婦を支援する財団を設立し、日本政府の予算で一〇億円程度を拠出
・韓国政府は在韓国日本大使館前の少女像への日本政府の懸念を認知し、適切な解決に努力
 これは一体何なのか。
 日本軍の組織的な関与のもとで「慰安婦」という名の性奴隷とされ、筆舌に尽くせぬ苦しみを味わった女性たちは、戦後も身体と心に残る傷と痛みに苛まれ続けてきた。また韓国の社会の中でも彼女らは差別に晒され、息を潜めるようにして生活せねばならなかった。さらには、日本政府や政治家たちによる、この歴史の歪曲と隠蔽によって幾度も幾度も自らの存在そのものを否定される経験をしなければならなかった。
 そして今回、そんな痛苦の人生を生きてきた彼女たち自身の頭越しに、彼女たちの話もきかずに、韓日両政府は事柄を進めたのだった。年老いた被害女性たちが共同生活するナヌムの家を訪れてこの「解決」の報告をしようとした韓国政府関係者に対して、「なぜわたしたちを二度殺そうとするのか」と叫んだハルモニは、自らの存在の否定を「二度目の繰り返される殺人」と表現したのだった。この合意の押しつけ自体がそのようなものであるなら、どうしてそれが最終的で不可逆の解決などになりえるだろうか。
 それは文字通りの二度目、ではない。一度目がすでに数えきれないほどの傷を負わされた、性奴隷としてのおぞましい経験の数々を示している。そして、その後、「二度目」が繰り返されてきたのだ。そして今回も、自国政府による被害者の売り渡しさえ伴って。
 背後にはアメリカの存在がある。日本と韓国の間の大きな外交問題を解決することで、東アジアにおける安全保障を、日韓の軍事連携の強化を通じてより効果的に進めさせようとするアメリカの思惑。それに従わざるを得なかった両国の妥結であったのであれば、この「解決」はどちらにとっても本意ならず、心ならず、のものであるに違いない。そうであればなお、被害当事者のハルモニたちは、そしてすでに亡くなった被害者たちは一層うかばれない。
 二度殺され続ける彼女たちの復活は、ないのか。 (つづく)
  
Posted by aogoomuzik at 19:36Comments(0)TrackBack(0)南小倉バプテスト教会「今週の一言」