2016年05月11日

ライブスケジュール5月〜7月

2016年の5月−7月のライブスケジュール更新しました。これから増えたり確定したりする予定や詳細についてはその都度アップしていきますのでどうぞチェックしてください。予定の急な変更などもありえますので、念のため会場等にご確認の上、ぜひお運びください!

5月13日(金)国分寺エクスペリエンス 谷本仰ゲスト参加
【博多・PEACE】092-741-5405
福岡市荒戸1-9-22
19時オープン 19時30分スタート ¥2500+1drink
共演:The Kamohan、ジャスティン(vo、g)

5月14日(土)ソロ・平和コンサート
谷本仰によるヴァイオリンとトーク
【防府・防府市公会堂4号室】0835-23-2211
山口県防府市緑町1-9-1
14:00- 入場無料
0835-22-3379(防府バプテスト教会・國分)

5/15(日)国分寺エクスペリエンス
【北九州八幡・デルソル】093-662-2013
北九州市八幡東区前田3-10-26
18時半開場 2000円

5月20日(金)ソロ
【福岡今泉Domus Focaccia Bar】092-753-7795
中央区今泉1-7-16 Tenjin Ark 五番館 2F
20時半〜、自由チャージ制(どうぞお好きなだけ入れてください制、別途要オーダー)
※今泉公園を眼下に望む新しい店舗に移ったドムスフォカッチャバーにて初のソロ!

5月21日(土)デュオダイヤローグス(フクヤマワタル:コントラバス)
劇団どくんご「愛より速く」小倉公演 ゲスト出演
小倉城大手門前広場特設"犬小屋”テント劇場
19時開場・19時半開演 
前売り予約3000円、当日3500円
ペア5000円、中高生1500円、小学生500円

5月22日(日)トリオ・ロス・ファンダンゴス
【福岡天神ティエンポ】092-762-4110
福岡市中央区大名1-15-11 Daimyo11511ビル3F
ミロンガ開始19時 ライブ20時半ごろ
2,300円 T.I.会員2,000円 (フードチケット500円つき)

5月24日(火)泉邦宏ソロ 谷本仰ゲスト参加 
【北九州八幡・mama福】
全身音楽家・泉邦宏の九州ツアーライブ!
http://blog.livedoor.jp/izumix555/
19:00開場 19:30start  ¥2000+order
北九州市八幡東区大蔵2-11-14  093-616-0606

5月30日(月)ソロ
かんかん村春のコンサート
【南小倉バプテスト教会】093-571-5072
北九州市小倉北区弁天町11-19
10時半〜

6月4日(土)竹内ゆえ 谷本仰ゲスト参加
「2days みんなでライブパーティ First Night」
【西小倉ケイトミュージックカフェ】093-561-8314
福岡県北九州市小倉北区大門2-3-6葭本(ヨシモト)ビル1F
【出演】古ムーン(Gtr.)→渋田亜由美(Vo.,Gtr.)→?→ カワノ(Vo.,Gtr)→ジゼリ(Vo.,Pf.)
→バンダ デル ノルテ ヌエベ(Vo.,Gtr.,Pf.,Bs.,Per.)→休憩
→キネマチコル(Acc.,Gtr.)→パーマンズ(Vo.,ウクレレ,Bs.,Per.,Key,鉄琴)
→竹内ゆえ(Vo.,Gtr.)feat.谷本仰(Vln.)→幻一郎(Vo.,Per.)→Ryoko(Vo.) 
サポート−フクヤマワタル(Bs.)、山田由香(Pf.,Vo.,Chor.)
【時間】開場17:15/開演18:00 〜 終演22:00くらい?
【料金】1day1,000円/2day通し1,500円(要オーダーソフトドリンクバー500円or1アルコール類500円)
※牛筋カレー、焼きそば(500円共にお代わり自由)あります。

6月10日(金)黒田征太郎(イラストレーター)×谷本仰→ 都合により仕切りなおしとなりました。

6月16日〜20日 トリオ・ロス・ファンダンゴス夏のタンゴ旅2016

6/16(木) 夏のタンゴ旅2016
【大阪・ムジカジャポニカ】06-6363-0848
大阪市北区神山町1-24 扇町ビル101
19時開場 19時半開演 
予約2500、当日3000 要別途オーダー

6/17(金) 夏のタンゴ旅2016
【神戸六甲・音楽ホール & ギャラリー里夢SATOM】.078-821-2140
神戸市灘区曽和町1-4-2-B1
開場18:30 開演19:00
前売り 2.500円(1ドリンク別途)/当日3000円(1ドリンク別途)

6/18(土) 夏のタンゴ旅20106・ミロンガ
【芦屋・集空間Tio】0797-25-0177
兵庫県芦屋市茶屋之町7-12
ミロンガ 14時〜17時半
前売り3000円 当日3500円 12時からのグループレッスン参加者2000円
問合せ:080-4645-4478(奈良)

6/19(日) 夏のタンゴ旅2016・ミロンガ
【名古屋・貸ダンスホール名古屋A室】
名古屋市中村区名駅南1-3-14石原ビル6階
17時〜21時、3000円
問合せ jewel.k.w@docomo.ne.jp (Juan)

6/20(月) 夏のタンゴ旅2016
【奈良・オーシャンブールバード】 0742-35-0461
奈良市大宮町6丁目2-2 サンワ新大宮ビル
開場18:30開演19:00
前売り2800円、当日3300円
問合せ:0745-74-6178(レディースファッションCECIL・柏原)

6/24(金)
【福岡大橋・カフェド・トワレ】092‐405‐9605
福岡市南区塩原4‐12‐17
20時〜 2500円(別途要オーダー)

6/25(土)ソロ
【初音保育園】093-871-3468
福岡県北九州市戸畑区新川町3-5

6/26(日)ミロンガ
【福岡天神ティエンポ】092-762-4110
福岡市中央区大名1-15-11 Daimyo11511ビル3F
ミロンガ開始19時 ライブ20時半ごろ
2,300円 | T.I.会員: 2,000円 (フードチケット500円つき)

6/28(火)河端一・Geoff Leigh (谷本仰ゲスト参加)
【北九州八幡デルソル】093-662-2013
北九州市八幡東区前田3-10-26
19時開場、19時半開演 予約2500円、当日3000円
元Henry Cowの肩書きに留まらぬ、幅広い音楽活動を展開するGeoff Leigh、1974年に結成したRadar Favouritesには、脱退後にThis Heatを結成するCharles HaywardとCharles Bullenも参加、Hatfield & The North, Slapp Happy等の録音や、Mike Oldfield「Tubular Bells」コンサート、近年はFaustのツアー等にも参加、ジャンルを越え様々なプロジェクトに関わる英国地下音楽シーンの才人と、Acid Mothers Templeの河端一が、デュオにて共演!プログレともサイケともジャズとも前衛ともポストパンクともノイズとも電子音楽とも似て非なる異能音楽!

伝説の前衛的チェンバーロックの極北 Henry Cow の元メンバー Geoff Leighと、現存するサイケデリックロックの極致 Acid Mothers Templeの総帥たる河端一が、たまさかの機会を得てDuoを組み、極みと極みが戯れる夜。サックス、フルート、エレクトロニクスを駆使したユーモアとインテリジェンスあふれるGeoff Leighの演奏と、めくるめく千変万化の色彩によってサイケデリックな陶酔をもたらす河端一のギターサウンドが出会うとき、如何なる化学反応が現前するのだろうか。

6/30(木)ソロ
【福岡薬院・遊来友楽(ゆらゆら)】092-210-0339
福岡県福岡市中央区高砂1-7−4
19時開場 20時開演 2000円(別途要オーダー)

7/1(金)ソロ
【小倉・緑々(あおあお)】093-533-0533 
福岡県北九州市小倉北区京町4-4-17-1F
18時半開場、19時開演、入場料1800円、要1ドリンクオーダー

7/2(土)トリオ・ロス・ファンダンゴス
【福岡久山・茅乃舎】092-976-2112
福岡県糟屋郡久山町大字猪野字櫛屋395-1
詳細追ってお知らせします

7/8(金)-9(土) ホシハ チカニ オドル松山公演

7/14(木)デュオダイヤローグス:フクヤマワタル・コントラバス、歌・ヴァイオリン谷本仰
【北九州八幡デルソル】093-662-2013
北九州市八幡東区前田3-10-26
19時開場、19時半開演、2000円(別途要オーダー)

7/15(金)生笑一座
【日田】

7/16(土)黒田征太郎(イラストレーター)×谷本仰
【門司港・kuアトリエ】
詳細追っておしらせします

7/24(日)平山等子(dance)×谷本仰
【北九州八幡デルソル】093-662-2013
北九州市八幡東区前田3-10-26
詳細追ってお知らせします

7/26(火)トリオ・ロス・ファンダンゴス
【西小倉・ケイトミュージック】093-561-8314
福岡県北九州市小倉北区大門2-3-6葭本(ヨシモト)ビル1F
19時開場、19時半開演、2500円(別途要オーダー)

7/28(木)波多江崇行(g)Duo
【博多中洲リバーサイド】
詳細追ってお知らせします    
Posted by aogoomuzik at 23:30Comments(0)TrackBack(0)ライブスケジュール 

2016年05月05日

タンゴの節句2016 4/30〜5/3

4/30
震災で被害のあった大分でのタンゴの節句。3年ぶりのブリックブロックに戻って。まだ余震がおさまらない。お客さんは、でもそんな中を精一杯誘いあわせて来て下さり、楽しんでくださった。ありがたい限り。あのやわらかくあったかい感じ、うれしかった。大分でタンゴを大切にしてきた人たちの姿があった。われわれを応援し続けてくださっている方々に、本当に感謝。そして今回の震災で大きな被害を受けた熊本・西原村からも、タンゴが縁で結ばれた若いごカップルはケンジさんに誘い出され、すてきに踊ってくれた。豊後高田で10年前にプルポとルイサと共にやった時のタンゴの節句以来、ずっと来続けてくださっているお客さんも。
時代は変わる。状況も、人も。でも、変わらないものも、ある。ずっと続いているものもある。そして、始まるものも。
また大分で、みんなと一緒に、タンゴを!ブリックブロック・マスター大津さん、今年もありがとうございました。次もどうぞ宜しくお願いいたします!!
…そして熊本でも、きっといずれ。

5/1
大入り満員ソールドアウトの小倉・北九州芸術劇場小劇場公演。210名あまりのお客さんがひしめき合う会場。昨年2公演の合計入場者数を1公演で軽く上回ってしまい、慌てる。開演直後からお客さんが積極的にこのショウを楽しみに来てくださった様子が伝わってくる。みんなの嬉しそうな顔、顔、顔が迎えてくれる。ケンジ&リリアナが現れたとたんに湧き上がる黄色い声援!ロビーのワインは休憩時間までに完売!17年前に北九州で活動を開始した直後、トリオ・ロス・ファンダンゴスという名をつけて活動を開始した直後のライブをやらせていただいた「カフェ・ド・くら」のママさんの姿も。まあ歳とったわね、だって。あはは。そのとおり。そこでピアソラものを中心にガシガシ演奏している映像がVHSテープで残っている。それから17年。でもあの頃、無謀にも燃やし始めたタンゴへ思いが、やっぱり今にいたる我々の演奏の核、土台をなしていることはマチガイない。小倉の満員のお客さんも、それをまるでわが事のように受けとめ続けてきてくれたのだ。

5/2
広島アビエルト。タンゴの節句7公演の中で、唯一ノーマイク、生音で臨む公演。マイクとスピーカーからカラダが解き放たれる。大槻さんの参加も予定調和にならないオモシロサをはらんでいて。事前に時間をかけて組み立てたプログラム、流れに不安定な要素が加わることによって流れが「ゆらぐ」、その感じがここではほしかった。彼が変な格好で出てくるとお客さんは笑う。しかしやがて彼の身体の動きにぐぐっとみんながひきつけられていくのがわかる。
ケンジ&リリアナのダンスは、ダンスそのものによる説得力、訴えかける力がこの広島でぐっと前に押し出されてくるカンジがあった。今回のツアーの、ココ広島がヒトツの転換点になるのかもしれない。それにしても大槻さんのカレーやら打ち上げメニューの数々最高でした。
打ち上げのときに小さな音で「6」をBGMで鳴らしてくれていたのだけれど、それでもまったく楽しめるのだった。これはミックス段階で気づいていたことなのだが、細部まではっきり聞こえなくても、そして特に低音がかきけされてしまっていても、ずっと流れやグルーヴを感じられて楽しめるこの感じ。ベースレストリオとしてやってきた我々は、実はこれを目指してきたのかもしれない。そこに近づけているなら、うれしいこと。

5/3
下関コルトーホール。昨年はたしか初夏を目前にしたうららかな日差しの中、のんびり本番を待っていたような気がするのだけれど、今回はなんと嵐。山陽本線も山陰線もストップ。お客さんの足が危ぶまれたけれど、予約してくださっていたお客さんは殆んどご来場くださったとのこと、感謝感激。「大河内百笑村」のみなさんが育て作ったお酒を楽しみながらの公演も、恒例。2年前にこのホールに引っ越す際に大変お世話になった片山さんも、昨年市会議員に選出され忙しい身ながら駆けつけてくださる。九州舞台さんの照明も映える!
今回のツアーではステージ上で、全く気負いなく演奏している自分に気づく。自分より、タンゴのノリ、グルーヴ、そして歌のほうがはるかに大事。そこに意識が向かっているせいかもしれない。レコーディングでそれをこれまで以上にはっきりと意識して確認したせいかもしれない。お客さんに直接ぶつけるという意識ではなく、みなさんの前にそれを「置く」感じかもしれない。あるいは鳥とか、蝶とか、魚とかを空や水に「放す」感じか。それだけ。あとはタンゴがなんとかしてくれる。歌が、曲が働いてくれる。それ以上のことはしなくていい。だいじょうぶ。ことさらに力まなくても、お客さんは楽しんでくれるだろう、だって、こんなにいいんだから、タンゴ。そんな感覚。そうそう、アンコール曲の終盤、お客さんの間にまるで「ああもうしんぼうタマラン!」とばかりに起きた手拍子も、座っているみんながわっと踊り始めた瞬間のように感じたなあ。やはり、ミロンガで与えられてきたものがこうしたコンサートでも、形に現れ始めたのかもしれない。スタッフこうきちゃんは「どうぞ、とさしだす感じなんよねえ」と評してくれた。あ、ケンジさんもそんなことを。ありがたいこと。

さあ、タンゴの節句2016、残すところはあと一日。5/7(土)、アクロス福岡円形ホール、昼と夜の2公演!怒涛の5連続公演で進化してきたタンゴの節句2016の最終形!
VAMOS!!  
Posted by aogoomuzik at 16:01Comments(0)TrackBack(0)ライブ 

2016年04月30日

アタマからカラダへ、みんなで タンゴの節句2016初日に感じたこと

タンゴの節句2016、宮崎での初日では、ゆっくりめに展開した一部から二部に入って、演者とお客さんが一体となってスピードや回転が一気にあがっていく感覚が新しかった。ケンジさんによれば「ジェットコースターに乗ってるようなスピード感」一体となるというのは単にお客さんがjみんなで笑ってるとか、拍手喝采を送ってくれているとか、そういうことではない。演者とお客さんの間で、言葉ではなく、身体のいろんな反応のやりとりがどんどん高速で行われるようになっていき、いつしかみんなでうわーっとひとつのカラダみたいになって駆け出していく、回転し、踊り始める、そんな感じ。

何曲かをつないで、間にしゃべりを入れずに続けて演奏する場面も、これまで以上に自然にスムーズに感じられた。繰り返し繰り返してきたミロンガでのタンダ形式の演奏が、この感じを生んだのかもしれない。ミロンガの場合は、ひとつのタンダで3〜4曲、同じスタイルの曲を続けるけれど、タンゴの節句では違ったスタイルの曲が並ぶことがほとんど。それでもそんな風に感じられたのだ。それは演奏者の感覚だけではなく、これもまた、お客さんのカンジから、みんながそれをひとつの、つながりをもった「流れ」として身体で感じてくださっていることが伝わってきた、ということ。

踊っている人たちのための演奏を繰り返してきて、気がつけば、座って聴いているひとたちの身体ともこうして対話することができるようになってきた、ということなのだろうか。

アタマじゃなくて、カラダで。自分たちだけではなく、みんなで。互いに、感じあいながら。

そんなことが、ひょっとするとミロンガを経由して、タンゴの節句においても始まったのかもしれない。

トリオ・ロス・ファンダンゴスでタンゴの演奏を始めて17年。ケンジ&リリアナと一緒にタンゴの節句が始まって14年。15回目のタンゴの節句の初日、ようやく、遅まきながら、ここに至ったことを感じる一夜であったのだとすれば、それは画期的なことだ。  
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2016年02月20日

「ホシハ チカニ オドル」北九州公演終了 (南小倉バプテスト教会2016/2/7週報今週の一言)

 「ホシハ チカニ オドル」北九州公演終了。一四〇名近い方々に見ていただくことができ、ほんとうにうれしかった。今回の計四公演は通算二八〜三一回目。二〇一〇年秋の初演以来五年余り、ついに上演が三〇回を超えた。
 振り返れば大槻さんとぼくが一緒に作って二〇〇五年に最初の共演となった作品のタイトルがすでに「死者の書(テガミ)」であり、互いに関係のないさまざまな死者たちが次々に登場して独白をし、踊り、去っていくという構成だった。また「ホシハ チカニ オドル」の前身の即興的パフォーマンス「Dialogues in the dark」は広島市立大学の湯浅正恵さんの「原発事故で亡くなった人々をよみがえらせるようなパフォーマンスを」という要請がきっかけ。つまり、初めからずっと、「死者」「復活」がテーマ。
 大槻さんの芝居も、ぼくの音楽も、公演を重ねるごとに少しずつ変化する。この作品は、こうした即興的で可変的、対話的な要素を随所に残してある。それがこの作品をつねに変化させ、ダイナミックにし、うねらせる。回を重ねてもこの作品上演が演者自身にとっても新鮮で、おもしろくあり続ける所以だ。
 「復活」に関する表現はより豊かに、より強くなって。森の妖精は夜空を抉るように指さしながら、星たちの光が闇に塗りこめられても塗り込められても、ぐりぐりと孔を開けてピカーッと漏れ出してくる、というようなことを語る。その指によって、光が指し示されると同時に、闇を破り穿ってこちら側へと突き出してくる光の復活の強い力が新たに表現されていた。
 また、「笑い」も物語の中での重要性を増している。笑いのもつ解放や復活の力、希望、そして優しさに光があてられ、それが星のように輝く。死者が笑う。死者に笑わせてもらう。笑いがテーマになっている場面で、何度も涙が出た。
 ステージ上でぼくが心から笑っていたのがよかった、という感想が幾つもあった。お客さんが、舞台を取り巻いて座り、舞台の向こう側とこちら側でお客さん同士の顔が見える形は、韓国の民衆のマダン劇に通じる。広場、だ。演者と観客だけでなく、観客相互の交流によっても一体となっていく、「ホシハチカニオドル」。
 また、二〇一三年の京都と広島で初めて取り入れられ、その後しばらく姿を見せなかった「食べる」ということがお客さんを笑わせ巻き込みながら再登場。うれしかった。
 前回の東京公演で経験したぼくの機材トラブルも改善。前回からより強くダンスを意識し始めた第三場「興」のソロ演奏も楽しかった。音楽と芝居の一体性はぐっと深まった。
 「ホシハ チカニ オドル」は、上演三〇回を超え、それ自体が身体をもったイキモノのようになってきたと感じる。つながり、息づき、問い、嘆き、踊り、歌う、モノガタリのカラダ。もはや「作品」と呼ぶことはなにやら相応しくない感じすら覚えるほどに。
 ゲストとの言葉のやりとりも毎回おもしろかった。黒田征太郎さんはその後、全国上演の資金のために、とすでに三〇枚あまりの絵を送ってくださった。ありがたい限り。
 何度も繰り返し観てくださるお客さんも増えてきた。駆けつけて手伝ってくれる仲間たちの存在が嬉しく心強い。「ホシハ チカニ オドル」が共同体のようなものを呼び集め始めている。
 旅は続く。世界のキズアトと響きあいながら、「死者たちのまなざし」(レヴィナス)の前に、下に、上に身を置いて。復活の祈りの生きたモノガタリとして。一〇〇回公演を目指して。新しい出会いを求めて。どうぞ応援のほど、宜しくお願いいたします!
 あ、カンパもありがとうございました。次回をお楽しみに!
  
Posted by aogoomuzik at 14:53Comments(0)TrackBack(0)南小倉バプテスト教会「今週の一言」 | ホシハ チカニ オドル

「『慰安婦』問題に関する日韓『解決』合意に関して」その5 (南小倉バプテスト教会週報今週の一言20160131)

 イエス・キリストは復活した、と教会は信じ語ってきた。二千年にわたってそう物語ってきた。しかしそれは十字架の上で殺されたあのイエスが、殺され続けてもなお、よみがえり続けたという物語を含んでいたはずだ。あらゆる一度目の殺人、あらゆる二度目の殺人、あらゆる記憶の抹殺の企図にもかかわらず。
 イエス・キリストの復活は、イエスだけの復活ではないはずだ。傷つけられ無視され、殺害され、隠ぺいされ、二度目の殺人を繰り返されてきた者たちの復活と共に、それはある。こうした人々の復活の中にこそ、主イエスの復活は見出される。こうした人々の復活から離れて、イエス・キリストの復活はないのだ。教会が復活を信じると宣言するとき、わたしたちはこのことを信じる、と宣言していることになる。
 しかし教会は、そう信じてきたか、この二千年の間。復活を特権的に独占しようとしては来なかったか。こうして傷つけられてきた人々と共にあるべき復活のイエス・キリストを、彼ら彼女らから引き剥がそうとしてこなかったか。そうであったならそれは加害への加担に他ならない。そこに教会の罪があったのではないか。
 イエス・キリストの復活は、そうではなく、ナクバに抗して芽を出し続けるあのオリーヴの種のようなもの。そのようにして、傷つけられた者たちの存在を塗りこめて忘れさせようとする力に抗って、この世界に何度も何度も芽を出すことそのもの。それは希望の闘い。それは倒されても倒されても何度も立ち上がり踊り歌いはじめるいのち。「信じる」とはこの復活を真に受けること、そして自分自身の中に、その萌芽を見出して生きることだろう。
 だから、復活を信じることは、この復活に参与し、関わるという宣言を含む。わたしたちは祈る。祈りは記憶の抹殺への抵抗を含んでいる。そこにすでに種は蒔かれている。わたしたち自身において、復活のオリーヴを芽生えさせること。わたしたちの内に、その芽を見出すこと。わたしたち自身が、その芽になること。それが信じることであるはずだ。
 聖書に記されたイエス・キリストの天国の譬の多くが「種」の物語であることは、だから、決して偶然ではない。もっとも低いところに、もっとも強い復活の力が現れる。そこに、また立ち上がる、立ち上がらせる神の力が、宿っている。天国の物語は、だからこそ、復活の物語に他ならない。
 「『慰安婦』問題に関する最終的かつ不可逆的な解決」など、無理だと思う。あらゆるところで行われる記憶の抹殺も、いのちへの否定も。復活を心に留めれば留めるほど、胸のうちにその思いが芽生えるのだ。熱く、強く。



  
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2016年01月26日

「『慰安婦』問題に関する日韓『解決』合意に関して」その4 (南小倉バプテスト教会週報今週の一言20160124)

 岡真理は続けてこう書く。
 私たちがナクバを知らないということは―ナクバの表象それ自体が寡少であるにしても―私たち自身の意図はどうあれ結果的に、ナクバの、すなわちパレスチナ人の民族浄化の、記憶の抹殺に加担していることになる。逆に言えば、私たちがナクバについて知るということは、現在なお継続する、このメモリサイドの暴力に、小さな、しかし致命的な一石を投じることである。私たちが事実を知っても、ナクバの悲劇それ自体は取り返しがつかない。しかし、かつて彼らに振るわれた暴力がまぎれもない不正義であったことが広く認められ、その歴史的不正の結果を今日まで生きることを強いられている者たちが、これまで否定されてきた人間としての尊厳を回復するための、それは、不可欠で、大切な、一歩なのである。(同五八―五九頁)
 繰り返される二度目の殺人に対する抵抗。それは記憶の抹殺(メモリサイド)への抵抗を伴う。「知る」ことだ。「聴く」ことだ。埋もれさせないこと、忘れないこと、なかったことにしない、させないことだ。何度も何度もよみがえらせること、常に新しく聴いたことへの応答を、変わることを、対話を始めることだ。終わらせない、不可逆にさせないこと。記憶を、往来させることだ。何度もこの身に、この世界に、よみがえらせること。生きている彼女たちだけではなく、殺されてしまった彼女たちの眼差しを受けながら、聞こえないけれど確かに響いているその声を聴きながら。そして祈りながら。新しくされながら。きっとそれが二度の殺人の犠牲になり続けている者たちの復活に参与することそのものにつながっているはずだ。
 生き残った被害当事者たちも、身体の、心の奥底に、この記憶を抱え込み、隠して生きざるをえなかった。しかしそれは忘れようとしても忘れられない痛みであり、決して過去のものにはならなかった。一九九二年、戦後四七年を経てついに、金学順ハルモニが証言の口火を切った。次々に証言者が現れた。その具体的存在と物語に日本が鋭く問われ、揺さぶられてきたのだ。殺されたはずの記憶、殺されたはずの物語、殺されたはずの犠牲者たちの、復活。
 岡真理は、イスラエルによって暗殺されたパレスチナ人作家でジャーナリストのカナファーニーの作品を紹介しつつこうも語っている。
 かつてパレスチナ人が暮らしていた村は破壊され、村の外延を縁取っていた樹齢を重ねたオリーヴの樹々は切り倒され、松や杉の木が植えられた。だが、パペによれば、それらの松の木を二つに断ち割って、幹の間からオリーヴの若木が生え現れているのだという。数十年という歳月を経てなお、記憶の抹殺(メモリサイド)に抗して。カナファーニーが作品に刻んだパレスチナ人一人ひとりの五感に深く記憶されたナクバの痛みこそ、別の物語/歴史に覆われた大地に胚胎された、このオリーヴの種子に他ならない。(前掲書八四頁)
 殺された者たちは、こうしてよみがえる。引き継がれる闘いのうちに。聴き取られ、再び息をふきかえし、殺害者の存在を根底から揺さぶる物語のうちに。 (つづく)
  
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2016年01月17日

「『慰安婦』問題に関する日韓『解決』合意に関して」その3 (南小倉バプテスト教会週報今週の一言20160117)

 「最終的かつ不可逆」。その文字を目にしたとき、「記憶の抹殺」という言葉を思い出したのだ。
 一九四八年のイスラエル建国に伴って八〇万人もの先住パレスチナ人が故郷から追い出されて難民化した事件「ナクバ」(大厄災の意)。パレスチナ文学の研究家である岡真理氏はその著書「アラブ、祈りとしての文学」の中で、これに関連してユダヤ人歴史家イラン・パペの「記憶の抹殺」ということばを紹介しつつこう書いている。
 イスラエルにおける先住民の存在とその歴史、そして「ナクバ」は一貫して抑圧されることになる。パレスチナ人住民がいなくなった家々はダイナマイトで爆破され、むらむらはブルドーザーで破壊されて物理的に抹消されたのみならず、アラビア語の地名はヘブライ語の名前に置き換えられることによって、地図からもその歴史的名存在の痕跡が抹消された。パペによれば、イスラエルにある森林の九割はイスラエル建国後に植林されたものであり、植えられたのは、パレスチナの自然の植生とは異質な松や杉などとの針葉樹であるという。パペはそこに、ヨーロッパ的外貌のユダヤ人国家を築こうとするシオニズムの欲望を看取している。広大な国立公園の案内には無人の荒野に植林したと記されているが、現実には、これらの木々の下には、破壊されたパレスチナ人の村々が埋められている。村の外延を縁取っていたサボテンや、果樹園のオリーヴ、アーモンドの木々も倒され、その上に新たな木々が植林されたのだった。国立公園の建設は、難民たちに故郷への帰還を物理的に不可能にするためであると同時に、故郷の村というパレスチナ人の集合的記憶の場そのものを針葉樹林というヨーロッパ的外観の異質な風景に置換することで、パレスチナ人がナクバの記憶も、ナクバ以前のパレスチナの記憶も、そこで想起し記念することを不可能にするためのものである。パペはこれをナクバのメモリサイド―記憶の抹殺―と呼ぶ。(前掲書五七〜五八頁)
 日本軍がアジア各地において数え切れない女性たちを性奴隷化し、虐待の限りを尽くした証拠は敗戦直後に組織的に隠蔽されたと言われている。書類は焼却破棄され、「慰安所」は破壊された。「慰安婦」たちが銃殺されたケースもあったという。
 そして今回の「合意」。責任の所在を曖昧にして誤魔化したまま、カネで、高齢化した被害者たちをなだめておこうとする態度は、まるで生き証人としての彼女らの死を待っているかのように見える。日本政府が少女像の撤去を求めているのは、被害当事者たちの歴史や存在、そして記憶を抹殺し、忘れさせようとする姿勢を如実に露呈しているといえる。さらにそれに韓国政府が同意したのだ。被害女性たちは自国政府にさえもまた殺されようとしている。
 こうして彼女たちへの「第二の殺人」は記憶の抹殺・メモリサイドとしての姿をもとっているといえる。彼女たちはこれに対して問いと否を叫び、抵抗し、闘っている。生きること、存在そのものが、その闘いだった。それは殺され続けてきた者たちの文字通りいのちがけの、復活をめぐる闘いなのだ。(つづく)  
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2016年01月10日

「『慰安婦』問題に関する日韓『解決』合意」に関して その2 (南小倉バプテスト教会週報今週の一言20160110)

 慰安婦問題が最終的かつ不可逆的に解決されることを確認?政府間で勝手に、当の被害者たちには一言もなく勝手にこれで終わりにすることなどできるはずがない。当事者の痛みは終わらないからだ。傷は何度も疼く。その痛みへの共感や理解や、謝罪がなければ更に。記憶は不可逆ではない。それは去来し、往来する。甦る。記憶は可逆だ。それを拒否することは記憶の封殺であり、それも「二度目の殺人」であるはずだ。
 互いに非難や批判を控える?日本政府は被害者の痛みの声に耳を傾けなければならない。歴史教育の中でそれを次世代に伝える必要もある。そしてこの声は世界において聴かれねばならない。韓国政府も、アメリカに促されたからと言ってこれを無視してはならない。
 責任を「痛感」?「認める」という言葉が避けられている。なすべきは加害の事実の確認と罪責告白と謝罪、それに基づく賠償だ。責任の所在と存在が曖昧な「補償」や「支援」ではない。
 沈黙を続けてきた被害者が重い口を開いて、自分の身に起きたことを証言し始めたのは、戦後四六年を経た一九九一年のこと。しかし被害者たちが待っても待っても、求めても求めても日本政府は自らの関与と責任を認めようとしなかった。二〇一一年、日本の謝罪の要求と抗議を込めて、韓国挺身隊問題協議会がソウルの日本大使館前に設置したのが、慰安婦少女像だ。
 ソウルの少女像には以下の碑文が添えられている。日本語訳は以下。(訳文は英文からの私訳。韓国語と齟齬がないかどうかは呉光現氏にチェックしていただいた。)
  断ち切られた髪の毛は少女が故郷から日本帝国軍によって連れ去られたことを象徴する。
  硬く握られた拳は彼女が正義の実現を固く決意していることを示す
  裸足で浮いた足は、冷たく無共感な世界によって打ち棄てられてきたことを示す。
  肩の鳥はすでに亡くなった犠牲者たちとわれわれのつながりを示す。
  空いた椅子はいまだ正義の実現を見ぬまま年老いて死のうとしている生存者たちを示す。
  少女の影は老婆のものであり、沈黙のうちに過ごした月日を象徴する。
  その影の中の蝶はいつの日か謝罪を受けるために犠牲者たちが甦る希望を示す。
 今回の合意の中に、この像を一〇億円の「補償」と引き換えに撤去することを暗に韓国政府に求める内容が含まれていることは、日本政府が少女像の眼差しに耐えられないでいることを示している。一〇億円。それで被害女性たちの横っ面をはたいているのだ。これで黙れ、これで忘れろ、これで目を逸らせ。なんという恥知らず。そしてそれは、我々の税金なのだ。恥ずかしい。
 今、この像を若者たちを中心とした人々が取り囲み、徹夜で守っているのだと報じられている。悔しくて悲しくて申し訳なくて、そしてうれしくて、涙が出る。ここに、復活は現実化しているといえるのかもしれない。封じられても、札びらで叩かれても、殺されても殺されても、正義を求めて、共感において、また立ち上がる者たちが現れる、その現場に。(続く)
  
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2016年01月02日

「『慰安婦』問題に関する日韓『解決』合意」に関して その1 (南小倉バプテスト教会週報・今週の一言20160103) 

 先週月曜日の一二月二八日、日本と韓国の政府間で慰安婦問題の解決合意がなされたというニュースに驚かされた。岸田文雄外相と韓国の尹炳世(イビョンセ)外相による会談で妥結が確認されたというのだ。
 報じられた合意内容の骨子は以下の通り。(毎日新聞、一二月二九日付)
・慰安婦問題が最終的かつ不可逆的に解決されることを確認。今後、互いに非難や批判を控える。
・日本政府は、当時の軍の関与の下に多数の女性の名誉と尊厳を傷つけた慰安婦問題の責任を痛感
・安倍晋三首相は心からおわびと反省の気持ちを表明
・韓国政府が元慰安婦を支援する財団を設立し、日本政府の予算で一〇億円程度を拠出
・韓国政府は在韓国日本大使館前の少女像への日本政府の懸念を認知し、適切な解決に努力
 これは一体何なのか。
 日本軍の組織的な関与のもとで「慰安婦」という名の性奴隷とされ、筆舌に尽くせぬ苦しみを味わった女性たちは、戦後も身体と心に残る傷と痛みに苛まれ続けてきた。また韓国の社会の中でも彼女らは差別に晒され、息を潜めるようにして生活せねばならなかった。さらには、日本政府や政治家たちによる、この歴史の歪曲と隠蔽によって幾度も幾度も自らの存在そのものを否定される経験をしなければならなかった。
 そして今回、そんな痛苦の人生を生きてきた彼女たち自身の頭越しに、彼女たちの話もきかずに、韓日両政府は事柄を進めたのだった。年老いた被害女性たちが共同生活するナヌムの家を訪れてこの「解決」の報告をしようとした韓国政府関係者に対して、「なぜわたしたちを二度殺そうとするのか」と叫んだハルモニは、自らの存在の否定を「二度目の繰り返される殺人」と表現したのだった。この合意の押しつけ自体がそのようなものであるなら、どうしてそれが最終的で不可逆の解決などになりえるだろうか。
 それは文字通りの二度目、ではない。一度目がすでに数えきれないほどの傷を負わされた、性奴隷としてのおぞましい経験の数々を示している。そして、その後、「二度目」が繰り返されてきたのだ。そして今回も、自国政府による被害者の売り渡しさえ伴って。
 背後にはアメリカの存在がある。日本と韓国の間の大きな外交問題を解決することで、東アジアにおける安全保障を、日韓の軍事連携の強化を通じてより効果的に進めさせようとするアメリカの思惑。それに従わざるを得なかった両国の妥結であったのであれば、この「解決」はどちらにとっても本意ならず、心ならず、のものであるに違いない。そうであればなお、被害当事者のハルモニたちは、そしてすでに亡くなった被害者たちは一層うかばれない。
 二度殺され続ける彼女たちの復活は、ないのか。 (つづく)
  
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2015年12月31日

今週の一言(2015/12/27週報より)

●今週の一言
 昨年の六月から、教会学校で開始された演劇作りプログラム。このクリスマスのページェント上演ですでに五作目を数えた。
 お決まりの読み方、お定まりの教義をおとなから子どもへと伝達注入するのではなく、対話・交流を身体的に行いながら福音を体験化することはできないか。抽象的宗教概念を言葉で学び教えることの難しさに教会学校スタッフ一同で悩んで辿り着いたのが、この演劇プログラム。
 作品化の前に聖書をみんなで読み込む。意見、感想、疑問、反論、なんでも自由に。こどもたちの言葉にならない反応も大きな材料。腑に落ちてるか、楽しんでるか、身近に感じているか。それがこどもたちの言動や雰囲気、表情や身体の動きから見えてくる。そしてそれは、おとな自身のわかっていないトコロの再確認だったりする。すぐに変える。やがて台本らしきものができて、稽古へ移っても試行錯誤は続く。このプロセス全体が学び。最終的な礼拝での上演は、そのひとつの到達点の提示であって目的ではない。
 マタイ福音書の博士たちの物語と、ルカ福音書の馬小屋のイエスと羊飼いたちの物語が互に交わることなく進む普通のパターンと違って、今回もウチのクリスマス劇では、博士たちと羊飼いは鉢合わせし、対話する。今回は、夢で天使からヘロデの元に帰るなと告げられたため、喜びを周りに伝えることができないでいる博士たちが、羊飼いたちの喜びに促され巻き込まれていくというエンディング。なかなか面白かった。
 さて。信仰について考えさせられる。ヒットラーを、そしてゲルマン民族を絶対化していく戦前戦中のドイツにおいて成立したバルトなどによる新正統主義神学の提唱した、神のみを絶対とし、その神の言としての主イエスにのみ従う信仰は、確かにナチズムの暴政への服従に対するアンチテーゼ、「ほかの道」として機能した。しかしそれは戦後、反ナチズムという具体的位置を失って普遍化し古典化する。それへの批判を伴って登場したのが解放の諸神学であり、フェミニズム神学であり、植民地主義を乗り越えようとするポストコロニアル神学など、一九六〇年代以降に次々に生まれてきた新しい神学たちだった、と分析したのは栗林輝夫氏(「現代神学の最前線『バルト以後』の半世紀」)。
 絶対者であり権威そのものである神の、有無を言わさず「上」から垂直に下る上意下達の宣言と命令への絶対服従のみが信仰だとするなら、それは権力者による強制・暴力・抑圧・支配と、カタチの上で重なり合う。いや、中身は愛なのだからチガウ、と言えるだろうか。本当に、一方的な愛は、愛か。愛は、双方向の対話以外の形をとりうるだろうか。
 母と赤ん坊の関係は一方的だろうか。赤ん坊の存在が母を支え励まし育て、母たらしめていくとは言えないか。そのようにして関わる母によってこどもは育ち、愛を感じ取っていくのではないか。この交流こそが愛だとはいえないか。
 主イエスの愛は、ガリラヤの貧しい農民たちとの間のこうした交流そのものではなかったのか。それが虐げられた者たち励まし、力づけたのではなかったのか。そんなイエスに救いを見出すところに、キリスト教信仰の萌芽があった、はずだ。
 さあ、二〇一六年がやってくる。わたしたちの信仰告白作りも正念場。しかしどうせ二〇〇〇年も試行錯誤が続いてきたのだ。われわれがたかだか五〇年。そしてそもそも「戦後」、史上もっとも大きな揺れをキリスト教は経験してきたのだ。我々も揺れて当たり前。むしろ揺れないことの方が非歴史的でオカシイ。
 楽しもう!おっとその前にもう、次の演劇プログラムのことも。楽しみ!
  
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2015年09月19日

ここの声 (2015年9月19日に)

ここ!

歌い踊る
食い飲み眠り 
目覚める

何食わぬ顔で
裾の塵 パッパッと払い
また立ち上がる

たったひとりのわれ ら
ただひとつのからだ ども 
ひっさげて

ここ ここ ここ

魚みたいに
口開けて
口々に歌おう

別のここ
よそのここ
ちがったここ
知らないここ
かなたのここ

まっすぐなここ
かくばったここ
まるいここ
おもいここ
かるいここ
ぶあついここ
ぺらっぺらのここ
かっこいいここ
ぶかっこなここ
まじめなここ
ふざけてるここ
ふつうのここ
へんなここ

こことここ 
とこことこ 
ことここと 

交わって生まれるものたち
叫びあい 呼び交わし 
包囲している天

この地に この空に
あまねく 産声を放っている

負けるな 負けるな

昨日どころか 昔から
未来どころか 明日を貫いて

おぎゃーーーー!
おぎゃーーーー!

ここの歌が
聞こえるか  
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平和物語

「平和物語」

あれほど高い平和の
訴えはもしかすると剣を隠し
侵略を隠蔽する仮面なのかもしれない

平和は軍縮のための円卓の上で
しおれていく−花のようなものかもしれない

もしかすると平和は
盗み食いした食べ物を
吐き出しながら育つ傷みなのかもしれない

平和の国はまだどこにもない
夢の国なのかもしれない

いや、平和はまったく知られることのない
山村で野草の花として咲き
農夫の夕食の場で
咲く
子供たちの祝いの話のような喜びなのかもしれない

山の奥の日当たりのよい
井戸端で交わされるささやかいなのかもしれない
下の村の祝いの席で広がる
笑いの声のようなものかもしれない

(金明植詩集「光の中へ」より)

*****

「平和」と聞くと、理想的で、夢想的で、非現実的で、キレイゴトで、そのくせ手垢にまみれていて、お題目のようで説教くさく、教科書どおりの言葉、と感じるかもしれない。でも平和ってのは、目の前で(たとえそれが何千キロ離れていようが、何年、何十年前のことであろうが)殺し殺されていく人間たちの現実の、歴史の、只中で叫ぶ絶叫でもあると思う。そういう意味では平和はそんなにピースフルな事じゃない。押しつぶされそうになりながらも絶望に抗う歌。戦地で爆撃の合間に路上で遊ぶ子どもたちの声。憎悪や報復の中で傷ついた者が静かに流す涙。それはいのちがけのコトバ、身体。絶望の只中に、それでもどっこい生きている希望。

*****

2010年3月23日、自分がここでこんな風に書いているのを偶然、読み返した。「ホシハ チカニ オドル」が生み出されようとしていた頃。そして5年半が経過し、殺し殺されていく人間たちの現実は、ますます身近になっている。遠い外国でのことだけではない。国内の至るところで、人間を押し潰して生き血を搾り取るような所業が行われつつある。

「平和に生きる権利」は「静かに暮らし生きる権利」のことであるだけではなく、希望の闘いを生き続ける権利のことなのかもしれない。

今、国会前では「憲法守れ」「民主主義ってなんだ?コレダ!」「安倍はヤメロ」のコールが続く。でも、デモ、実はそれだけじゃないのだ、きっと。「平和」や「希望」や「いのち」が目覚めつつあるのだ。身体をもって復活しようとしているのだ。

*****

生きたいと願う生を生きることを「あばれる」と表現し、そのための「あばれる力」の獲得や奪還の必要性を語ったのは「現代暴力論」の栗原康。

平井玄は「暴力と音」の中でこう語っている。

「何一つ語られていない。この世界は、まず第一に巨大な暴力そのものによって成り立っていることを。さらに、そうした暴力の途方もない隠蔽を通じてこの世界は辛うじて維持されてきたのだということを。この世界の『平和』とは暴力的制圧のことである…。」

「私の『暴力への衝動」という傷の根はこの二五年の間、一度として枯れ果ててしまったことなどないのだということ。心身に書き込まれたこの怒りをどこへどう向けるべきなのか―。実に一万日もの間、愚直にも私はただこのことだけを考え続けてきたと言ってもいいのかもしれない。未だ地球上のどこにも現れてはいない、全世界を作り変える『希望としての暴力』への欲求。自らの思惟と行動の幹を滋養してくれる根源の問いとして、それはあったと思う。いわば『メシアとしての暴力』。ほとんど神学的とも言えるような無謀でしかも無力な問いかけの声。…だが、この問いかけは座礁する。座礁し続ける。遂にこの瞬間に至るまで絶え間なく座礁し続けたと見做さなければならないだろう。それは一種の思想的な自己流刑だったのか。…」

平和よ、あばれたいのか。
平和よ、生きたいのか。
平和よ、自由がほしいのか。

平和は、殺戮と収奪と抑圧の道具に、拘束具に、手錠に、足かせに、理由に、言い訳にされ、牢獄に閉じ込められてきた

われわれもだ

獄中仲間だ、兄弟だ、姉妹だ。

出たい
どうにかこの壁の細いひびからでも
漏れ出したい
この壁の向こうへと、外へと
壁に咲く花のように

なあ、おい、平和よ

みんなの声が、きこえる
ここでも、叫んでる
歌ってる

姉妹たち
兄弟たち
平和たちの

歌が咲いている

  
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2015年09月16日

善き力にわれ囲まれ(2015/8/2 南小倉バプテスト教会週報)

●今週の一言  讃美歌「善き力にわれ囲まれ」

 善き力にわれ囲まれ 守り慰められて
 世に悩み共にわかち 新しい日を望もう
 過ぎた日々の悩み重く なおのしかかる時も
 さわぎ立つ心しずめ み旨に従いゆく
 善き力に守られつつ 来るべき時を待とう
 夜も朝もいつも神は われらと共にいます

 たとい主から差し出される 杯は苦くても
 恐れず感謝をこめて 愛する手から受けよう
 輝かせよ主のともし火 われらの闇の中に
 望みを主の手にゆだね 来るべき朝を待とう
 善き力に守られつつ 来るべき時を待とう
 夜も朝もいつも神は われらと共にいます
   
 「この詞は、ボンヘッファーが処刑される前年に獄中で書かれました。彼はドイツ敗戦間際の一九四五年四月九日、バイエルンのフロッセンブルクで、ヒットラーの特別命令で国家反逆罪の名のもとに絞首刑にされました。一九四四年一二月二八日、ベルリンのナチの秘密警察の獄房より婚約者にあてた手紙に、この詞は同封されていました。
 『私があなたにクリスマスにこの手紙を書くことができ、あなたを通じて両親や兄弟たちに挨拶を送り感謝できるのを喜んでいます。きっと私たちの家は静かな時を迎えていることでしょう。私のまわりが静かになればなるほど、あなた方との結びつきがより深まることを実感できるのです。それは、あたかも孤独のなかで、魂が日常生活ではほとんど感ずることができないような感覚を育てていくようなものです。それで私は一瞬たりとも、独りぼっちであったり、とり残されていると感ずることはありません。あなた、両親、戦場にいる友人や学生たちはいつも現実として私の前にいるのです。あなたがたの祈りと良き心遣い、聖書の言葉、昔行った語らい、音楽、本は前にもまして、命と現実性をもってくるのです。そして、その大きな見ることのできない世界に私は住み、その世界の存在をなんの疑いもなく認めるのです。…ここに、この数日、夜の間に浮かんだ詩を記しておきます。この詩は、あなたと両親、兄弟たちへのクリスマスの挨拶です。』」
(以上日本基督教団讃美歌委員会編「讃美歌21略解」より)

 アーメン。われらは未だ明けぬ夜を生きている。信仰はしかし、夜明けが来ることを、それが闇の只中にすでに始まっていることを知っている。信仰は、この世界が来るべき世界にやがて呑みこまれることを、からし種に乗っ取られる畑のようにそうなることを、知っている。朝は、来る。神、われらと共にいます。インマヌエル、アーメン。
  
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2015年09月11日

戦争に備えるよりも (2015年9月11日に。)

あの装備や技術のすべてが、災害時等の人命救助のため、被災地復興支援のためのものであったなら。災害が起きたときに、自衛隊は今とは比べ物にならないほどの活躍ができるだろう。戦闘のための組織と装備であれだけのことをするのだから。
この国は戦後これまで一度も他国からの武力攻撃を受けていない。しかしこの国は何度自然災害に遭ってきただろうか。その都度、自衛隊は出動してきた。そして最も過酷な現場を担ってきた。だからこそ。
全ての武器・兵器を、人命救助のための装備に。すべての組織的戦闘の訓練を、災害対応の訓練に。そうなればもっともっと、自衛隊はいのちのために働くことができる。どれほどそうした備えを、この国は必要としていることか。
そうなれば日本はほんとうに軍も軍備も保有しない、と胸を張って、心から、言える。日本国憲法を、世界の夢を体現することができる。他国において甚大な災害等が起きたとき、どの国よりも進んだ技術と装備をもって現地に入り、人々を助けることができる。自分たちが災害に遭って苦しんだときに助けてくれた国に対して、感謝しこそすれ、誰がテロを起こそうとするだろうか。
装備や技術の開発や革新、充実、整備、増強は常に必要だ。災害救助を想定した出動態勢の整備が要るだろう。隊員の育成も必要だ。テロや攻撃におびえて、「あってはなならない」戦争のために備えるより、これからも必ず起きる災害に国規模で備えるほうが遥かに理にかなっているではないか。
沢山の人が生活を、大切な人を失って途方に暮れている。そんな今だからこそ、忸怩たる思いがする。
夢だろうか。世迷言だろうか。戯言だろうか。
ひとりだろうか。


  
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ソロダイヤローグス九州旅後半のこと

8/27 佐世保の南国食堂地球屋へ。オープニングアクトは重松壮一郎さんのオルガンと片田尚孝さんのチェロがとろけとけておきつななこさんの歌がたゆたう。どんどん入ってくるお客さんに椅子を足して足して満員の二階、感謝感激。でこの日は1セットで演奏。お客さんも、オープニングアクトのメンバーたちも、笑ってた。最後にやった4人の即興セッションには田中隆比古さん飛び入る。最後は案の定お祭りみたいに。
ライブ後打ち上げでもよく喋った。店主の自宅でとれた枝豆がうまかった。開けっ放しのドアから入ってくる夜風が気持ちいい。外のような内、内のような外。相互に流れ込みあう、間(あわい)が好きだ。
お店から30分ほどの世知原の店主宅に泊めてもらう。最近引っ越したという古民家、土地数千坪。あけっぱなしの窓から涼しい風が行き交う。子猫のAjicoが枕元で丸くなってくれた。

8/28 ガラス風鈴の音で目を覚ます。少しゆっくりして街へおりていくと、家々が箱か金庫みたいに、閉ざし、閉ざされて見えた。
1時間半ほどで大村ロニースコッツへ。オープニングの東シナ海バンドがもうリハを終えたとこ。藤山俊子ピアノ、大久保エイジ・ラップスチール、廣瀬成秀ドラムス。出会ってかれこれ25年になる友人たち。
20数年前、エイジのやってたバンドで一時期演奏していた時に初めてつけたヴァイオリン用ピックアップは今もケースの中に眠ってる。藤山俊子ともその頃に出会い、ぼくを音楽療法を引き合わせてくれた。娘さんはぼくと同じ名前。開演時にびっちり満員になった店内にはおれなくなって外で彼女たちのやさしい演奏を聴きながら、なんだか涙が出そうになっちゃったのだった。
最後には東シナ海バンドと共演。みんな大喜び。マスター松村さんにも気にいってもらえたようで何より。トリオ・ロス・ファンダンゴスでもできればいいなあ、ここで。

8/29 泊めてもらった友人Hさん夫婦と久しぶりにゆっくりしゃべって、ゆっくり出発。そういえば嬉野温泉のタダ券を地球屋店主にもらってたぞ…雨の中、露天風呂でちょっとひと息。
佐賀のとねりこカフェ、商店街の感じが変わってたけれど、お店そのものは数年前にデュオダイヤローグスでお邪魔したときと変わらない。店の前にチラシが貼ってあるのがなんとなくほっとする。どの会場でもそうだった。
この日もまたまた大入り満員、すげー。三日ぶりに休憩を挟む形に戻す。なんと佐世保に続き大村にも来てくれてたお客さん二人、三度現る!どうしたことだ!ありがたいじゃないか!やっぱりみんなとっても喜んでくれて、夢のよう。CDも今ツアー最多売り上げ。ありがたいことです。開演前のシシリアンライスもうまかった!

帰りは一週間ぶりに高速で。下の道だけで移動した一週間、いろんなものが見えた。いろんなことを考え、知り、思った。でも、高速道路に乗ると、もう帰るということだけが目的。旅は終わったのだった。

宮崎ひむか村宝箱でのライブ実現に尽力くださったOさんが、当夜のことを書いてくださっている(→コチラ)。

あのヨル、近づく嵐の気配の中で、獣たちや、ひょっとするとモノノケたちと、輪になって一緒に踊り奏でていたのかもしれない。負けるな、負けるな!いのち丸出しで。そのさまにみんながつられて笑っちゃう、そんなソロになっていたのだったら、ええじゃないか。確かにそういえば今回のツアーでは行く先々でお客さんの笑ってる顔が印象的だったなあ。

各地のみなさん、ありがとうございました。また来ます。どうぞ宜しくお願いいたします。

あ、そんなこんなの九州くるりソロ旅ご報告ライブ、北九州でやります。2015年9月18日、八幡デルソルにて。19時半開演、投げ銭制です!宜しければぜひどうぞ!  
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2015年08月27日

ソロダイヤローグス九州旅前半のこと

8/23 日曜日は南小倉バプテスト教会の礼拝も楽しかった。魚釣ってさ、口を開いたら銀貨が入ってたら、それを税金にして納めりゃいいよね、なんていうもんだから生活苦を負った人々はみんな大笑いしてすっかり心が軽くなったのかもねえ、なんて言って。そうか、みんなつられて大笑いしたんだな。開かれ自由になってる人が笑ってるとつられて笑って元気になる、のか。
さて、出発して間もなく高速入り口入ったところでタイヤパンク。ううむ前途多難?いや、ラッキー。これで注意深くなる。誰も怪我してないしね。料金所の人たちが呼んでくれたパトロールの人がジャッキアップしてスペアに換えてくれて大助かり。そのまま別府へ。
クレオールカフェには大分のタンゴ関係者や、ぢゅんぼうさんや、意外な友人が来てくれてうれしかった。泊めてくださった大分タンゴ塚田さん、一曲目の即興でなんかうるっと来てしまった、とのこと。夜聞かせていただいたあの波乱万丈の人生になんか響くものがあったのかなあ。お店の空間に生のヴァイオリンの音が太く響いて楽しかった。

8/24 タイヤを買って、宮崎へ。5時間くらい下道で。けっこう楽しい。「ひむか村の宝箱」は平和公園の中にあるお店。「八紘一宇」の塔を見につれていってもらった。怖い。まがまがしい。水木しげるの漫画に出てきそう。本当にそういう邪な空気をまとって黒々と今も聳え立っている戦争のための祈り。あれはやばい。
ライブには雨風強まるなか、みなさんおいでくださって本当にありがたい。どくんご宮崎受け入れのおひとりで、先日の「ホシハ チカニ オドル」熊本公演もお手伝いくださったMさんには今回も受け付けを含め大変お世話になりました。この会場をご紹介くださった小野さん、トリオ・ロス・ファンダンゴスを応援してくださっていて今回もチラシを預かってくださって応援してくれたAさん、ありがとうございました。店主池辺さんも喜んでくれてナニヨリ。
泊めてもらった宮崎丸山町教会の牧師館のドアのガラスが風にあおられて倒れた自転車があたって割れる。
会堂に、どんどん強まる台風の猛烈な風の音が響いてあまりよく眠れない。かつてウチを直撃して窓を割り、部屋をひとつダメにしてくれた台風19号のことを身体が思い出す感じ。明け方ようやく静かになってしばらく眠った。

8/25 明けて宮崎から鹿児島へ。ジャズのお店「明日の地図」でライブ。前夜もそうだったけれど、お客さんのどんどん嬉しくなっていく顔がこっちもうれしい。でも、前日の台風で被害を受けた方や、その片付け復旧の加勢に行くことになった方が、何人もライブに来れなくなった。どくんごの稽古場が見る影もなく破壊されたというし。ライブ後今回チラシも預かってくれて助けてくれてライブにも来てくれた森さんのバー、コーナーポケットに行ってひと呑み。Song for Cheをかけてくれた。いい曲だなあ。あ、お客さんがライブの感想をあげてくれている。うれしいなあ。

8/26 明けて鹿児島から下の道で熊本へ。山あいの道はあちこちで木が倒れて道にかかっていて片側通行になっていたり、信号がついてなかったり、トンネルがまっくらだったり、お店が軒並み休業だったりした。あちこちで屋根瓦がめくれたり、軒が壊れたりした家。川の向こう側では山の急斜面が木と共に崩れ落ちて下の道を埋め尽くしていた。高速道路からは見えない風景たち。
熊本ADOにはほんとうに沢山のお客さんが来てくれてびっくり。お客さんはやっぱり嬉しそうな顔になって、しまいにゃつられて歌いだした。あはは、こどもみたいにぱかーんと開かれて、歌って踊ってる人間を見るとみんなも開かれるのかな。ほんとうに嬉しかった。わが事のように応援してくれたみやちゃん、いろいろ動いてくれた成一さん、ほんとうにありがたかった。そうそう「ホシハ チカニ オドル」でつながったお客さんも何人も来てくれた。ああしあわせ。そうそう、ADOの店先のテントっていうのかな、台風で壊れてしまったのでした。そんな中ライブをさせていただいて、黒田さん、ありがとうございました!

さあ、いよいよぐるっと九州ソロツアー後半です!

8/27(木)南国食堂地球屋(佐世保市下京町9-20 0956-23-9899)19時開場、20時開演。ゲスト重松壮一郎さん(オルガン)、おきつななこさん(歌)、そして片田尚孝さん(チェロ)!

8/28(金)ロニースコッツ(長崎県大村市本町437-3 0957-52-9345)19時半開演 ゲスト・東シナ海バンド(廣瀬成秀、大久保エイジ、藤山俊子)!

8/29(土)とねりこカフェ(佐賀市城山2-5-19 090-1978-0993)18時開演。

どうぞぜひ、どうぞ。  
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2015年08月23日

積極的平和を創りだす

●今週の一言 (南小倉バプテスト教会2015年8月23日週報より)
 
 「私たちは、国際秩序への挑戦者となってしまった過去を、この胸に刻み続けます。」安倍晋三首相は戦後七〇年談話の最後の部分でこう言った。
 国際秩序とはアメリカを中心とした国際支配体制のことだ。つまり、これに敵対したことへの後悔を胸に刻み続ける、と言っているのだ。なぜか。叩き潰されたからだ。分不相応でした、アメリカに肩を並べようとするなどという大それたことをしようとして失敗し、痛い目にあいました、もう二度といたしません。そう言っているのだ。二千万人のアジアの死者たちの眼差しは一顧だにされていない。卑屈な属国宣言だけがそこにはある。
 「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」。広島の原爆戦没者慰霊碑の碑文も、安倍首相の談話に沿って読めば、アメリカに挑戦して原爆は落とされた、こんな過ちは繰り返さない、という意味にならないか。安倍晋三首相が広島や長崎の平和記念式典で頭を垂れているのは、むしろアメリカに対してだったのではないか。そんな思いに至ってはっとした。
 首相の戦後七〇年談話はこう続く。「だからこそ、我が国は、自由、民主主義、人権といった基本的価値を揺るぎないものとして堅持し、その価値を共有する国々と手を携えて、『積極的平和主義』の旗を高く掲げ、世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献してまいります。」その「国々」はアメリカだけではない。外務省HPには、二〇一四年五月一二日の安倍首相とネタニヤフ・イスラエル首相会談についてこう記されている。「安倍総理は『積極的平和主義』の立場から,地域・国際社会の平和と安定にこれまで以上に積極的に貢献し,自由や民主主義といった価値を共有するイスラエルと協力していく旨述べたのに対し,ネタニヤフ首相から,これを歓迎し,支持する旨表明。」イスラエルはこの直後の七月八日からパレスチナ・ガザ地区への侵攻を行い、八月二六日の停戦までの間に二一〇〇名を超える人々を殺害している。安倍首相はこの殺戮と破壊に事前に承認と賛同を示し、それを「積極的平和主義」と呼んでいたことになる。戦後七〇年談話は、こうした戦争国家と手を携えて歩むことを宣言した「戦争宣言」でさえあったのではないか。
 一九五八年、ノルウェーの平和学者ヨハン・ガルトゥングは「直接的暴力」に加え、貧困や差別、格差など社会的構造に根ざしている「構造的暴力」のない状態を「積極的平和」と呼び、平和を単に戦争のない状態と捉える「消極的平和」と区別した。彼は今、安倍首相をはじめ日本政府の唱える「積極的平和主義」は、自らの提唱した「積極的平和」の盗用であり、これと全く相反する概念だと批判している。国内において安倍政権が貧困や差別、格差の増大を「アベノミクス」「戦後レジームからの脱却」の旗印のもとで政策的に推し進めていることを見ても、それは明らかだ。
 「平和を創りだす人は幸い」。主イエスはそう言った。構造的暴力の下にある人々の隣人となり、共にこれに抗し、差別や貧困や格差を乗り越えた愛と和解の実現する世界を求める事。それが平和をつくりだすことだ。そして「み国を来たらせたまえ」と真に祈ることだ。「平和。」恐怖の中に閉ざされていた弟子たちの前に現れた復活の主イエスの挨拶が、今日、私たちに向けられている。平和を創ろう。復活の主イエス、先立ち伴い給う。
  
Posted by aogoomuzik at 15:14Comments(0)TrackBack(0)南小倉バプテスト教会「今週の一言」 

2015年08月17日

個別的自衛権を考える

「外国から攻められたらどうするか!集団的自衛権を行使して国を守るのだ!」という論に対して「いやそれは個別的自衛権で対処すべきでしょう。だから集団的自衛権の行使なんて今更必要ない」と反論する。

なるほど。

でもさて、憲法を改めてもういっぺん、虚心に読んでみる。われわれの国は、もう二度と戦争はゴメンだと感じた戦後の日本人の気持ちを代弁し、そしてそれ自体が謝罪を含んでいて、とりあえずアジアの人々にも受け入れられた憲法をもった。そこになんて書いてあるか。いや、書いたか。自衛のためなら戦争する、軍備も武器も使って宜しい、と書いたか。

そうは読めない。

紛争を解決する手段として戦争を放棄すると書いた。侵略なんて論外だ。国際的に責められてもそれを解決するためにも戦争はしない、と言ってしまったのだ。ああ言っちゃった、のだ。そんなこと誰も言ってないよ世界でも。国際法上認められている自衛戦争さえ、われわれは放棄する、って言っちゃったのです。

では、どうするのか。とことん外交努力をし、また様々な形で諸外国と利害を一致させて、日本を攻めることなど損、意味がない、という状況を作ることによって国を守るしかない。

仮に攻められたとして、軍事的に抵抗して生み出される犠牲者の数、破壊されるインフラの規模、被るさまざまな損失と、軍事的に抵抗しなかったときのそれらを冷静に分析してはじき出して比べてみればいい。前者が後者をはるかに上回ることは予想に難くない。

さらに、もしそんなことを敢えてする国があるとすればの話だけれど、日本を武力侵略して乗っ取ってしまう国があったとして、抵抗はそこからさらに始まるだろう。あらゆる形の、軍隊や国による武器使用を伴わない抵抗が始まる。国営防衛(暴力)組織ではなく、我々自身による抵抗。不服従。非協力。ボイコット。サボタージュ。流言蜚語。落書き。噂。目配せ。うそ。ストライキ。デモ。笑う。歌う。踊る。黙る。非暴力であっても、これが国全体で起きればまったくこの国を乗っ取った意味など消えてしまうだろう。かりに日本を乗っ取った国がそれに暴力で対抗したとしても、犠牲者は戦争より少ないはずだ。そしてまったく政府の言うことを聞かない国民が大半をしめる国など立ち行くはずがないのだ。そしてさらに、きっと私的に実力抵抗をする者たちも現れるだろう。ゲリラやパルチザンのように。

国がもつ軍隊による軍事力行使だけが「個別的自衛権」の行使ではない。自分にできる抵抗とはなにか。みんなでできる抵抗とはなにか。そのことを考えてみたい。楽しくなる。どうやったら抑圧的な政府はイヤになるか。おっと、未来の仮定のハナシじゃないか。今考えよう。はじめよう。面白いやん。


  
Posted by aogoomuzik at 23:24Comments(0)TrackBack(0)雑記 

2015年07月17日

エエジャナイカ!

熱く踊り狂うタンゴを。
ふつふつと。

底の方から、奥の方から、はらわたのあたり、まんなかのあたりから、湧き上がってくる。言葉にならない、形のない、液状の。胸が焼けるような。熱い、カタマリのような。吐き気のような。

怒り。

「立ったまま喪失感に叫べ タンゴの吐き気の中で!」(ブエノスアイレスのマリア Tocata Reaより)
「いきめマリア!生み出せ、生み出せ!次々に、忘却まで産み落とせ!お前の息む力は両手に、根っこに、怒りにある!」(同 Tangus Dei より)

タンゴの根源には「吐き気」「怒り」がある。
そうオラシオ・フェレールは言った。

「プグリエーセの音に何を感じる?それは何を表している?そう、怒り!」そう言ったのはタンゴDJのルビア。

「タンゴの究極の2ビートはプグリエーセの発案による「ジュンバ」でしょう。彼の弾くピアノは右手も左手もほとんどノイズです。プグリエーセ特有の左右に身体を揺らしながらビートを出していきます。その全盛期は聴衆すべてが足を踏み鳴らし、その音は隣町まで響いたという伝説が残っています。」(齋藤徹、2015/6/26 Facebook記事より)

「昨今の日本のミロンガだって、見栄っ張りや寂しがり屋の集いに留まるどころか、『ええじゃないか』に繋がる可能性さえ宿しているのかも知れません。『荒ぶる』ココロが突然出てきて喜怒哀楽に収まらずとりあえず『踊っちゃう』。嘘や偽りだらけでどんどん貧しくなる世の中で何を信じれば良いのかわからず、とりあえず『踊っちゃえ』。ばかやろ〜、やってられるかよ。」(齋藤徹、同上)


*****

68年前、この国の憲法は何百万、何千万の、戦争による死者たちの叫びに押し出され、誕生した。

それが汚され犯され蹂躙されるのを目の当たりにして、人々が路上へとあふれ出している。
怒りの歌と踊りが、野火のように広がっている。

生者たちの身体がこうして激しく振動を始めたのは、もしかすると、死者たちのコールをその身体が知らず知らずのうちに受信し、これに共鳴したからなのかもしれない。

路上に響くあの声たちは、この国の憲法の、妹たち、弟たちなのかもしれない。

そしてきっと、彼ら彼女らの踏み鳴らすあの足音は、死者たちをまた煽り、興すはずだ。
「興」は、両手でもった酒器を地に注ぎ、地霊を呼び起こすさま、と白川静は言った。

生者と死者の交感。
ハウリングが起きる。
やつらの閉じた耳をつん裂く咆哮。

差し込み突き破るノイズの指先。
開け!「エパタ!」

*****

狂おしく、踊れ
狂おしく、歌え
こみあげる怒りと吐き気で
足を鳴らし響かせろ
地団駄踏んで
喉が嗄れてもなお
ともに
ともどもに
あんたもわしも
ごいっしょに
燃え広がる炎のように
篝火のように
そうだ
エエジャナイカ!





(2015年7月16日、怒りと吐き気の日々に。)

  
Posted by aogoomuzik at 01:08Comments(0)TrackBack(0)雑記 

2015年07月13日

九州ソロ旅2015フライヤー

谷本仰Solo Dialogues:谷本仰が2007年に開始したヴァイオリンソロライブプロジェクト。時にエフェクトを駆使し、時に素のままのヴァイオリン一本で紡ぎ出され織り成される音の対話たちは、「映像のない映画のよう」とも評される。2015年3月同名CD発売。3月の西日本ツアーに続き、今回初の九州ツアー。

大分→宮崎→鹿児島→熊本→長崎佐世保→長崎大村→佐賀。初の九州ソロ旅です。ソロCD「谷本仰 Solo Dialogues」発売記念!各地のみなみなさまがた、ナニトゾ宜しくお願いいたします!お楽しみに!

九州ソロ旅2015チラシ オモテ九州ソロ旅2005チラシ ウラ
























  
Posted by aogoomuzik at 19:00Comments(0)TrackBack(0)ライブスケジュール