2020年02月12日

ライブスケジュール2020年2月〜3月

すみません、あんまり忙しくてライブ情報さえ更新できず今にいたってしまいました。とりあえずアップします。ぼちぼち充実させますので宜しくお願いいたします。

2/11(火)中川五郎ライブ&トーク
【東八幡キリスト教会】

2/12(水)2/12(水) 渡辺えりLIVE
【福岡中洲・ゲイツ7】
福岡市博多区中洲3丁目7-24 ゲイツビル7F
(地下鉄 中洲川端駅直結)092-283-0577
17時45分開場 18時半開演、5000円(別途要ドリンクオーダー)
賛助出演 北岡樹、川手夕子、嶋津あい
演奏   佐藤金之助 ピアノ
     トリオ・ロス・ファンダンゴス
お問合せ ジャバラ倶楽部 090-2963-4129

2/14(金)〜15(土) 生笑一座
【滋賀湖南・甲西文化ホール】

2/16(日)ミロンガ
【福岡天神・ティエンポ】 092-762-4100
福岡市中央区大名1-15-11 Daimyo11511ビル
19時オープン、演奏開始20時半ごろ(約60分)
一般2300円/会員2000円(500円分のフードチケット付き)
ダンス:ミゲル&マイレン

2/29(土)『魅惑のタンゴ チャリティーディナーショー』
【ANAクラウンプラザホテル宇部3F 国際会議場】0836-32-1112
山口県宇部市相生町8-1
受付 17:00〜 食事 18:00〜 開園 19:00〜
お一人様 ¥12,000(税込)
お問合わせ先 国際ソロプチミスト宇部 事務局 0836-21-9711

3/1(日)波多江崇行×谷本仰
【北九州八幡・デルソルカフェ】

3/7(土)色音(即興描画・うどのあすか、即興演奏・谷本仰)
【西小倉ケイトミュージック】

3/8(日)トリオ・ロス・ファンダンゴス
ミロンガ
【福岡天神・ティエンポ】

3/12(木)ゴーイングホームトリオ
自立支援センター交流会
【ホームレス自立支援センター北九州】

3/15(日)Stoo Odom
【北九州八幡デルソルカフェ】

3/16(月)谷本仰Solo Dialogues
【小倉・一生もんShop緑々(あおあお)】

3/20(金)谷本仰&Friends
抱樸・おんなじいのちコンサート
【東八幡キリスト教会】

3/27(金)トリオ・ロス・ファンダンゴス
Sakura tango festival MILONGA

3/28(土)トリオ・ロス・ファンダンゴス
Sakura tango festival Gran Milonga
歌:KaZZma

3/29(日)トリオ・ロス・ファンダンゴス
Sakura tango festival Tango Show



西南学院高校母の会
【西南学院高校】

12/5(木)いのちのうたデュオ(歌・ヴァイオリン:谷本仰、ピアノ:中島由紀子)
【城野小学校】

12/7(土)生笑一座
【愛知・知多】

12/8(日)いのちのうたデュオ(歌・ヴァイオリン:谷本仰、ピアノ:中島由紀子)
チャリティ−クリスマスコンサート
【南小倉バプテスト教会】093-571-5072
北九州市小倉北区弁天町11-19、093-571-5072
15時〜、入場無料、お茶お菓子つき。ホームレス自立支援カンパ有り。
※NPO法人抱樸支援のためのチャリティコンサートです。

12/9(月)いのちのうたデュオ(歌・ヴァイオリン:谷本仰、ピアノ:中島由紀子)
【小倉南特別支援学校】
9時半〜11時半

12/12(木)ダンス:岩下徹、ヴァイオリン:谷本仰
岩下徹・谷本仰 Dialogues
【福岡・紺屋2023 konya-gallery】
福岡市中央区大名1-14-28 第一松村ビル202
開場19:00 開演19:30 予約2500円(当日3000円)
限定30席!
予約・問:080-1711-5074 tanise@har.bbiq.jp(ピカラック)
※好評だった7/9東京いずるばでの共演に続き、福岡でも。ヴァイオリン一本で臨みます。

12/13(土)トリオ・ロス・ファンダンゴス
ミロンガ
【福岡・ティエンポ】092-762-4100
福岡市中央区大名1-15-11 Daimyo11511ビル
ダンスデモ Miguel & Mailen
19:00 open/演奏は20:30ぐらいから(約60分)
一般2300円/会員2000円(500円のフードチケット付き)

12/15(日)ソロ
NoN GENRE
【枝光・アイアンシアター】093-616-9890
北九州市八幡東区枝光本町8-26
18時開場 18時半開演 前売り・予約2500円、当日3000円
出演:ダンサー:小林陽子、辻菜津子、振付:井野禎子、演奏:谷本仰
予約・問合せ:stilmo.3k@gmail.com、0902-5440-3251

12/16(月)デュオダイアローグス(歌・ヴァイオリン:谷本仰、コントラバス:フクヤマワタル)
【小倉・一生もんshop 緑々あおあお】093-533-0533
北九州市小倉北区京町4-4-17-1

12/21(土)ドグラマグラ
【北九州八幡・デルソルカフェ】093-662-2013
北九州市八幡東区前田3-10-26
19時開場、19時半開演、予約2000円、当日2500円(別途要オーダー)
メンバー:谷本仰(vn, vo, electronics)、山崎箜山(尺八)、宮野章(g)、フクヤマワタル(b, thermin)、Aji(perc)、白川和宏(ds)

12/28(土)ソロダイアローグス
【北九州八幡・デルソルカフェ】093-662-2013
北九州市八幡東区前田3-10-26
18時開場、18時半開演、2000円、要別途オーダー。
※今年最後のライブです。「今」のソロダイアローグスを演る所存です。宜しければぜひおいでください。  
Posted by aogoomuzik at 01:45Comments(0) ライブスケジュール 

2020年01月08日

南小倉バプテスト教会を応援してくださるみなさまへ。

南小倉バプテスト教会を応援してくださるみなさまへ。

緊急のお願いと、大切なお知らせがあります。宜しければぜひお読みください。

まずは緊急のお願いです。

南小倉バプテスト教会は、今年度かつてないほどの財政難に見舞われています。このままでは年度終わりまで活動が維持できないかもしれない状況です。

そこで緊急のお願いです。もしも可能であれば、緊急のカンパ・献金を送っていただけませんか。南小倉バプテスト教会はとても小さな教会で、基本的にこの教会だけですべての運営をまかなっています。つまり「本部」のようなところからの運営資金は全く受けていないのです。これまで限られた人数でお金を出し合ってやってきたのですが、様々な事情や状況が重なり、とても苦しい状況に陥っています。今年度の活動を最後まで続けるために、よろしければどうぞ少額でも結構ですから臨時の献金・カンパをお送りくださるととても助かります。

ゆうちょ銀行 01730-5-452 南小倉バプテスト教会 まで。
他金融機関からの振込みは 一七九(イチナナキュウ)店(179)当座0000452 まで。

2019年度の主な活動は以下。
4月イースターの復活祭ライブ、6月中村吉基牧師を招いてのLGBTsの方々が共に生きているこの社会を考えるための講演会、8月には小中高校生たちの自殺防止のための教会開放、9月には教会の内外を問わず大切な人を追悼するための召天者記念礼拝、11月バザー、12月クリスマス。毎週日曜日には希望を分かち合うために礼拝を繰り返し、水曜日ごとに学習支援付きの水ようひろば、誰でも利用できる夕食・水ようごはんも分かち合ってきました。毎月聖書講座を開講し、いのちや希望、共に生きることについての学びと対話を深めてきました。またみんながそれぞれに生きていることやその中でのしんどさを語り合う場や、みんながほっとできる交流の場を、地域のみなさんと共に作ってきました。

南小倉バプテスト教会はみんなの教会を目指して歩もうとしています。

どうぞお支えくださいますよう、お願いいたします。

********

次に、大切なお知らせです。

南小倉バプテスト教会は、「網の教会サポーター」を募ることにいたしました。

わたしたちはクリスチャンであるなしに関わらず、さまざまな人生を生きるみんなが網のようにつながりあって支えあう教会を目指しています。この活動を、広くいろんな方々に支えていただくために、「網の教会サポーター」を募ることにいたしました。この教会は2017年から、網の教会・みんなの教会を目指して新たに歩み始めました。活動はどんどんと広がり、この教会は、教会員(この教会に籍を置くクリスチャン)だけではそれを支えることが困難になってきました。それでも課題は広がります。選択肢はふたつ。活動を縮小し、教会員だけのための教会に戻るか、それとも、色んな方々の応援もいただきながらみんなの教会をさらに目指すか。わたしたちは後者を選びとりました。

サポーターになってくださる方は、サポーター献金をお送りください。年間一口1万円で、何口でも可。振込みに際し、お名前とご住所をお知らせください。教会特製網の手ぬぐいと、教会の信仰告白ブックレットをお送りいたします。また教会の状況や活動などのお知らせや報告なども発行予定です。一回だけでも、いつ辞めていただいてもOKです。あくまでも皆さんの自由なご厚意で、できる限りの形で支えていただければ幸いです。

厚かましいお願いですが、できれば今年度中にサポーターになっていただき、以後毎年サポーター献金をお送りくださると本当に助かります。

また、1万円以下でもカンパ・献金は随時お送りください。ほんとうに助かります。

サポーター献金もカンパ・献金も以下によろしくお願いいたします。

ゆうちょ銀行 01730-5-452 南小倉バプテスト教会 まで。
他金融機関からの振込みは 一七九(イチナナキュウ)店(179)当座0000452 まで。

長くなりました。どうぞ思いと現状をお汲み取りいただいて、ご協力いただければ幸いです。

助けてください。支えてください。宜しくお願いいたします。

南小倉バプテスト教会:北九州市小倉北区弁天町11-19、093-571-5072。  
Posted by aogoomuzik at 22:40Comments(0) 南小倉バプテスト教会 

2019年12月23日

クリスマス、おめでとう。

クリスマスが近づくと、心がシンとする。聖書のクリスマス、イエス誕生物語は寂しく、悲しくて切ない希望の物語だからだ。

ローマ兵の暴力によって身籠ったとさえ言われるイエスの母マリア、その夫ヨセフ、皇帝の号令に従わされる人々、最初にクリスマスの知らせを受ける羊飼いたち、家畜たちと共に生きる貧しい人びと、異邦世界から訪れる博士たち、彼らを導く星、領主によって手当たり次第に殺される幼児たち、逃げ惑う人々、そしてイエス自身。聖書のクリスマス物語の登場人物たちは、みんな、苦しみの現実の中にいる。

学生時代の最後の数年間はこの季節から年明けにかけて日雇い労働者の街・釜ヶ崎にいた。機動隊に小突かれたり蹴られたり盾を押しつけられたりしてた。年老いた労働者がでかい機動隊員に囲まれてめちゃくちゃに暴行されているのも目の前でみた。多くのねぐらのない労働者たちが薄着で震えながら焚き火の周りで野宿していた。汚れた裸足が火に照らされているのをみたとき、それが十字架のイエス・キリストの足と重なって見えた瞬間のことを忘れることができない。ルカ福音書の、イエス誕生の知らせを真っ先に受けたのが野宿の羊飼いたちだったという記述も、そんな彼らの姿と重なり合った。だから、ぼくにとってはキラキラと光るイルミネーションよりも、聖書の語る暗いイエス誕生物語の方がはるかにリアル。

世界中に、われわれのすぐ隣でも、苦しさを噛み締めながら堪えている人々がいる。傷を抱え、いつ明けるとも知れぬ悲しみの夜を生きている人たちがいる。居場所、寄る辺のない孤立。閉ざされたアパートの部屋。街の片隅。路上。逃げたいのに逃げられない現実。恐怖。むなしさ。不安。貧しさ。惨めさ。無力さ。悔しさ。痛み。暗闇。その只中にある人々こそ、実は聖書のクリスマス物語の登場人物そのもの、いや主人公たち。

その只中にやってきた救いは、希望は、赤ん坊の姿をしていた。そう聖書は言う。だっこしてやらないと冷え切って、ついえてしまう無力ないのち。赤ん坊のイエスは、希望とはどんなものなのかをリアルに示している。

希望は愛を求めている。抱いてくれる腕を、胸を、求めている。やさしさを、暖かさを、温もりを、帰っていくところを、そのまま安心していられる居場所を、つながりを、共に在ることを、受け入れられることを、命がけで求めている。それに応えること。それがクリスマス。

静かに、希望を迎えよう。無力な赤ん坊のように、この胸に、この腕に、この膝に。そのとき希望は、わたしたちにぬくもりを与えてくれるだろう。そのとき、私たち自身が愛されていることを知るだろう。闇の夜空に目を凝らし、わずかな星明かりを見出そう。それは、遥か昔から、生まれる前から、今わたしたちに見出される時に至るまで暗闇の中を旅し続けてきた、希望への道しるべ。そして傷ついたみんなの胸に、同じ光が灯っている。みんな、星空なのだ。

光は闇の中に輝いている。クリスマス、おめでとう。みんな、おめでとう。

(2019/12/22 南小倉バプテスト教会週報 今週の一言)
  
Posted by aogoomuzik at 00:17Comments(0) 南小倉バプテスト教会「今週の一言」 

2019年08月29日

夕涼み会2019 「生きてるってどんなこと?」

南小倉バプテスト教会夏の終わりの特別企画
「夕涼み会2019 〜生きてるってどんなこと?〜」

今週土曜日8/31は、南小倉バプテスト教会にて「夕涼み会2019」を催します。午後6時から8時半まで。カレー、おつまみ、ソフトドリンク、アルコール類を用意してお待ちしています。どなたも自由に参加できます。参加費500円。ビールやワイン、日本酒、焼酎などアルコール類を飲む方は一杯100円以上を適当に器に入れてください。カンパ・差し入れ大歓迎。

で、7時すぎくらいから、飲み物片手にみんなで対話を。わたくしが聞き手、コーディネーターを務めます。

きっとこの地域にはいろんな人たちが生きている。みんなどうやって生きてるんだろう。みんなどう感じながら生きてる?生きるのは楽しい?しんどい?生きるためには何が必要で何が大事?どうしたらもっと幸せに生きることができるだろう。

みんなの考えが聴きたいのです。みんなで語り合ってみたいのです。ひとりで、出会いのないところで考えてもさっぱりわからない。だから一緒に考えたい。みんなの経験や知恵を、力を貸してほしいのです。わたしたちに、そしてみんなに。語りあうことは、きっと助け合うこと、励まし勇気づけあうことです。

みんなで対話すると、きっとそこから何かが始まる。いのちが深く響き始める。

いろんな人たちのいろんな「いのち」のはなしが夜空の星座みたいにつながりあって響きあったら、きっとたのしい。そしてひょっとしたら「生きる」ことがそこからまた新しく始まったりしないだろうか。そんな風に思って企画しました。

こういう場ってなかなか無い。ぼくにとっても、南小倉バプテスト教会にとっても初めて。宜しければどなたもどうぞ。もちろんみんなの話を黙って聴くだけでもOKです。飲み食いだけ楽しみに来ても勿論OK。今まで教会なんて来たことのない方も、どうぞどうぞ。ちっちゃいこども連れの皆さんも歓迎。小さいけれど、こどもたちが床に座って楽しめる絵本やおもちゃのコーナーもあります。

「生きてるってどんなこと?」

自分の経験。聞いたはなし。最近考えていること。周りの人たちのこと。こどもたちのこと。年配者のこと。若者のこと。男や女やいろんな性のこと。介護。障がいや病。経済や生活。仕事。心配なこと。悲しかったこと。嬉しいこと。国籍のこと。家族のこと。赤の他人のこと。気にかかっている人たちのこと。祈っていること。悩んでいること。笑ったこと。どんな話もきっとぜんぶ、どこかでつながりあうはず。

だからみんなの話はみんな、大事です。ここではみんなの言葉が大切にされます。みんな、生きてる仲間同士だから。

よろしければどうぞお誘い合わせの上おいでください。

南小倉バプテスト教会は、みんながつながり生きる「網の教会」を目指しています。まずは、つながるところから。ぜひどうぞ。

「夕涼み会2019〜生きているってどんなこと?」
とき 2019年8月31日(土)夕方6時から夜8時半。
参加費 500円(カレー他軽食、お菓子飲み物つき。アルコール類は別途、都度都度自由に代金を入れてください)
ところ 南小倉バプテスト教会:北九州市小倉北区弁天町11-19、093-571-5072。

教会夜景手ぬぐい

  
Posted by aogoomuzik at 23:17Comments(0) 南小倉バプテスト教会 

2019年08月25日

「死ぬな、逃げろ」、今年も。

ツィッターに以下の文章を一気に綴りました。一段落一投稿です。宜しければお読みください。
*************

 内閣府が2015年に公表した調査結果によれば、1972-2013の42年間で、18歳以下のこどもが最も多く自らいのちを絶った日が夏休み明けの学校始業日(9/1)。その数131人。そんな訳で今年も北九州市の始業日(8/26)、南小倉バプテスト教会は学校に行きたくない子どもたちの逃げ場所になります。
 2017年にこの取り組みを始めたとき、大きな反響がありました。死ぬな、逃げろ。のツィートへのリツィートは2万以上にのぼりました。メッセージも多数寄せられました。多くは好意的で肯定的なものでしたが、批判的なご意見もありました。
「うちの地域では8月にもう始まる」というご指摘がかなりありました。すみません。この教会の周りの近所の事を考えていて、遠くの、始業日が違う地から応答を戴くなど思ってもみませんでした。でもそれはご自分の住んでいらっしゃる地にも呼びかけてほしい、という思いの表れだと思いました。
 「9/1だけでは不十分」というご意見もありました。確かに突出してこどもの自殺が増えるのは9/1ではあっても、他の日にもその危険性がないわけではありませんでした。毎日が、「死ぬな、逃げろ」の日です。ですから確かに、9/1だけでは不十分なのでした。
でも小さい教会は、365日毎日同じように人を配置し、誰が逃げてきても受け入れる態勢を整えて待つ、という準備をすることができないのでした。完全なことはできない。それでもやる。やったほうが、やらないよりいい。不完全だけど、赦されて、やるしかない。そう思いました。
 南小倉バプテスト教会は全国の思いに応えることも、365日をカバーすることもできない。地元のちっちゃな範囲しか考えられないし、たかだか一日しかできない。申し訳ないことでした。それでもやることにしたのでした。
 いただいたご意見の中には「おとなも逃げたい」「おとなも匿ってくれるのか」というものも幾つもありました。改めてこの時代、社会がどんな現状にあるのかを見せ付けられる思いでした。こどもだけではなく、おとなたちも逃げ場所を必要としているのでした。
 みんなが逃げてくることのできる場所にならなければ、と改めて思わせられました。そのためにも、普段からもっと教会をみんなの居場所にしていく必要があります。緊急の際に駆け込むことができる場所であるためには、そこは普段から気楽に足を運ぶことのできる場所でなければなりません。
 南小倉バプテスト教会は2016年の5月から地域のこどもたちおとなたちのための「水ようゼミ」「水ようごはん」の取り組みを始めていました。子ども食堂ではなくおとなも、誰でも利用できる安くておいしくみんなで食べるあったかい夕ごはん。
 その他にも誰もが気楽に教会に足を向けることができる機会を増やしていきました。教会の為ではなく、色んな人が、ここを利用して元気になってもらうためでした。ひいてはそれは「9/1だけ」ではない取り組みを増やすため、「おとなも逃げたい」の声に応えることでもあると思っています。
 「死ぬな、逃げろ」の呼びかけへの最も厳しい批判は「結局それは汚い宗教勧誘だ」というものでした。そんなつもりは毛頭ありませんでしたが、そこには教会が何かをしようとするときには必ずクリスチャンを増やしたいという「下心」がある、という教会のイメージを反映していました。
 そしてそれは少なからず、教会への真っ当な批判として受けとるべきものでした。教会は、まっすぐにいのちのことを大事にするべきでした。人間が生きるということに、ストレートに向き合い取り組むべきでした。しかし、教会の姿勢は多くの場合、そうではなかったのだと思います。
 教会は往々にしてクリスチャン以外は地獄に落ちるという考え方に支配されてきました。教会の維持のために信者を増やさねばならないとう利己的な考え方からだけではなく、教会は、地獄に落ちる人たちを何とか救わねばならない、という使命感から教会は信者を増やすことを至上命題としてきたのでした。
 地獄から人間を救うことが第一の使命であって、人間の現実に率直に関わることはどうしても二の次になってしまうクセが教会にはあったのだと思います。「汚い宗教勧誘」というご批判は、南小倉バプテスト教会のみならずキリスト教会全体に対するこの姿勢への批判を含んでいるものであったはずでした。
 それは真っ直ぐに受け止めるべき問いだと南小倉バプテスト教会は考えました。クリスチャン以外は地獄に落ちると考え続けるのか。それとも全ての人が神に伴われ、愛され、「救われている」と信じるのか。そう信じるなら、もはや人々を死後の地獄から救い出す事に躍起になる必要はありません。
 そもそもキリスト教徒だけは天国に行き、他の人々はみんな地獄に落ちる、などという考え方は恐ろしい選別主義、差別主義だと思われました。それに支配されると、キリスト教の押しつけも強制も、それによる支配も、正義、そして愛だ、ということになってしまいます。
 2017年の春、南小倉バプテスト教会はこの考え方から離れることにしました。みんな赦され、愛され、救われている、と信じる所から出発することにしました。だからこそ余計に「汚い宗教勧誘だ」という声に、私たちは改めてそうではない教会を目指して出発したのだと思わせられたのでした。
 さてしかし。それでもなおきっと宗教の役割があるのだろうと思っています。「死ぬな、逃げろ」と教会はなぜ言いうるのか。いのちは絶対に大事、と信じるからです。それはいのちは神さまが大切に創り、人間に預けてくださったものという考え方を背景にしています。それは宗教的なのです。
 いのちは絶対に大事、と言いきるなら、そこには宗教の如何を問わず宗教性があります。「絶対」というのは論理や説明や、人知や人間や自然の能力をはるかに超えているという意味を持っているからです。それを前提にするのが宗教。いのちは絶対に大事。こう言い切るのが宗教性なのです。
 確かにちょっと危ない。宗教がどこかで絶対性を帯びることを避けることはできません。それを避ければ宗教ではなくなるからです。そしてそこには常に暴力性の危険が付きまといます。それでもなお、いのちは大事、死んだらアカンで、絶対生きてや!と言おうものなら、そこには宗教があるのだと思います。
 また、いのちと生産性は関係ない、生きる意味のあるいのちと、生きる意味のないいのちの区別もない!そういう選別をしたらあかん、絶対に!というとそれは宗教です。そして南小倉バプテスト教会は、宗教を信じる者として、そう言いたいわけです。だから「死ぬな、逃げろ」なのです。
 長々書きました。2017年の2万リツィートや反響から考えさせられてきたことを、2019年の学校始業日を前に書き綴りました。いのちを大事に。死ぬな、逃げろ。よかったら逃げたいこどももおとなも南小倉バプテスト教会へ。先に逃げてきた者たちが待っています。仲間です、味方です。どうぞ宜しく。(終)

  
Posted by aogoomuzik at 01:04Comments(0) 南小倉バプテスト教会 | 雑記

2019年07月28日

今週の一言(南小倉バプテスト教会週報7/28)

●今週の一言
 二〇一六年七月二六日。「相模原事件」。ひとりの青年が、元職場であった福祉施設「津久井やまゆり園」に侵入し、一九名の重度の障がい者を殺害し、二六名に重軽傷を負わせた事件。
 植松聖容疑者は、職員の身動きを奪った上で、就寝中の障がい者たちひとりひとりに声をかけて起し、おはようございます、と声をかけたと言う。それに答えることのできた入所者は殺されなかった。彼は、自分の氏名、生年月日などを言うことのできない障がい者を「心失者」と名づけ、こうした人々は、不幸しか生み出さない「生きる意味のないいのち」と考えていた。そしてこうした人々を死なせることが、国や社会、世界の負担を軽減させると信じ込んでいた。彼のこの考え方は今も変わっていないと言われている。
 この事件は、当時進めていたわたしたちの教会の信仰告白の改訂作業にも大きな影響を与えた。わたしたちは以下の言葉を、信仰告白の中に入れることにした。
 
 イエス・キリストが指し示した神は、世界を創造し、わたしたちにいのちを与え、恵み、祝福してくださる神。わたしたちはこのかけがえのないいのちをただ受け、感謝し、大切に分かち合って生きる。わたしたちは神から与えられたいのちの尊厳を信じる。「生きるに値しないいのち」などない。
 
 この中で用いた「生きるに値しないいのち」はナチスが障がい者たちを安楽死させるために実際に発動した「T4作戦」の中で使われた言葉。相模原事件の容疑者はこれとほぼ同じ言葉を使ったのだった。
 生産性がない。役に立たない。他人に負担をかける。そのような者は生きる意味がない。それは植松聖容疑者だけの考えではないはずだ。むしろそれはこの社会、この時代に満ち満ちた呪いの言葉。この呪いをかけられた者が、どんな姿になりうるかをこの事件ははっきりと示したのではないか。
 他人事ではない。呪いはわたしたち自身を取り巻き、縛りつけ、わたしたち自身の中に入り込み、わたしたち自身の言葉になりすます。
 呪いではなく、祝福に生きよう。すべてのいのちに意味がある。すべてのいのちに役割がある。人間は互いに負い負われ、担い担われて生きる者。そう信じて生きていこう。
 水ようひろば・水ようごはんの利用をよびかけるフェイスブックの記事の最後に、こんなことを書いた。
 
 いのちの意味が、経済の役に立つかどうかで判断され、役に立たないと断定されたいのちが実際に殺される時代。それはいのちの価値がお国のために役に立つかどうかで決められたあの忌まわしい戦争の時代と同じ姿に見えます。それでいいか。
 南小倉バプテスト教会はそんなのはいやだ、と考えています。いのちそのものに意味がある。すべてのいのちに役割がある。苦しみや悲しみにも、傷にも、大切な意味や役割がある。そう考えています。よろしければどうぞ、ご利用ください。

 
 「みんなの教会」には、使命がある。呪いを解くこと。それはただ、祝福によるしかない。相模原事件から三年。腹をくくって、祝福のうちに、祝福を携えて、歩んでいこう。

  
Posted by aogoomuzik at 13:31Comments(0) 南小倉バプテスト教会「今週の一言」 

2019年06月16日

2019年7月関東ソロツアーフライヤー

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Posted by aogoomuzik at 01:01Comments(0) ライブスケジュール | フライヤー

2019年05月09日

ソロツアー2019四国関西中国編フライヤー

裏面のイラストは黒田征太郎さん画。

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Posted by aogoomuzik at 00:48Comments(0) ライブスケジュール 

2019年04月04日

タンゴの節句2019!

タンゴの節句2019オモテtanngono sekku 2019  
Posted by aogoomuzik at 16:39Comments(0) ライブスケジュール | トリオ・ロス・ファンダンゴス

2019年01月19日

「生笑一座がやってくる!」(南小倉バプテスト教会2019年1月20日週報より)

 二〇一三年春。生笑一座が誕生した。「いきわらいちざ」。ホームレス生活をしたことのある人々が、自分の経験を自分の言葉で語る。こどもたちに伝えたいポイントはふたつ。「助けて、と言っていい」。そして「生きてさえいればいつか笑える日が来る」。
 結成・発足は二〇一三年。小中学校等での講演でホームレス支援について話をする度、内心「でも自分にはホームレス経験がない。外で凍えて眠るしんどさも知らない」とジレンマを覚えていたNPO法人・抱樸理事長の奥田知志牧師(東八幡キリスト教会)が、当事者に経験を語ってもらおう!と思い立ち、メンバーに声をかけて結成。
 同じ頃、抱樸館北九州の建設計画が進む中、地域で激しい反対運動が起きていた。住民説明会で現在生笑一座メンバーである西原宣幸さん、下別府為治さんが懸命に自分の過去を晒し、自立に至る経験を語って理解を求めた。この渾身の証言が生笑一座の原型となり、彼らの一座での言葉の雛形となった。一座の旗揚げ公演は二〇一三年八月。奇しくも抱樸館北九州開所の前月。
 実は最初の公演はその二ヶ月前の六月の予定だった。久留米の小学校から公演依頼があり、メンバー一同、心躍る思いで本番に向けた準備を始めた。しかし校長からストップがかかる。「ホームレスを学校に入れるのは宜しくない」。またも目の前に厳然と差別が姿を現わした。最初の公演は幻と消えた。
 しかしすぐ、助け舟が現れた。福岡県の同和教育推進協議会の和多則幸先生が八月の大会でゲスト公演枠をとって下さった。その上、一座の公演プログラム作りにも加わってご協力くださったのだ。お陰で実現した旗揚げ公演の会場はアクロス福岡シンフォニーホール。いきなり収容人員二〇〇〇人近く、三階席まで先生たちで埋まる大舞台。みんなの緊張した姿が昨日のことのように思いだされる。この公演の成功で、その後の活動に大きな弾みがついた。
 以来、東は東京、北は北海道まで、小中学校を中心に高校、大学、そして様々な研修会等にも招かれ、やがて国の自殺防止対策事業にも選ばれ、全国での公演に駆け回る日々が始まった。一昨日は小倉北生涯学習センターで、抱樸ボランティア新人研修の場で通算一〇二回目の公演。これまでに延べ二万八千人のこどもたち、おとなたちがこの公演に触れた。残念ながら二〇一五年四月に天に召された和多先生も、その後の一座の活動をきっと見守ってくださっているに違いない。
 そして今日、南小倉バプテスト教会にて。実は教会主催の公演は、生笑一座として初めてのこと。
 一昨年、南小倉バプテスト教会は「死ぬな、逃げろ」と呼びかけ、初めて、夏休み明けでこどもたちの自殺の危険性がもっとも高くなる始業日九月一日に教会を開放した。生笑一座は、大きな反響を呼んだこの取り組みのきっかけのひとつでもある。
 さあ、いよいよ生笑一座公演、はじまり、はじまり!涙あり、笑いあり、歌あり、踊りあり、ほんとうのいのちの話だよ、お立ち会い!ひとりでも多くの方に来てほしい。そして希望を、リアルに語り示される未来を分かち合ってほしい。「生きてさえいれば、いつか笑える日が来る!」
  
Posted by aogoomuzik at 16:45Comments(0) 南小倉バプテスト教会「今週の一言」 

2018年12月23日

大槻オサム×谷本仰 『 光・身体・闇 』2010

2010年1月14日の広島koba における大槻オサム×谷本仰の即興パフォーマンス「光・身体・闇」。上関原発建設反対運動に連なる「No Nukes Relay」の一環として「原発事故で亡くなった人を復活させるパフォーマンスを」との声に呼び出されて。演劇的作品「ホシハ チカニ オドル」の原型。およそ9年を経てあらためてみると、生々しい即興性が新鮮。そうか、ここから始まったんだ。

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Posted by aogoomuzik at 18:15Comments(0) ホシハ チカニ オドル 

2018年12月18日

「幼な子イエスを胸に抱いて」

 今年の南小倉バプテスト教会新聞クリスマス特別号に、こんなキリスト教エッセイを書きました。宜しければお読みください。

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 今年もクリスマスが近づいてきました。あちこちでイルミネーションが光り輝き、クリスマスソングが流れるようになりました。クリスマスは、なんとなく幸せで、あたたかでやさしいイメージの季節です。それはどこから来たイメージなのでしょう。
 「クリスマス」は元々、「キリストの礼拝」が語源です。イエス・キリストの誕生を祝い、心に静かに大切に留めるのがクリスマス。浮かれて明るく騒いで、ではなく。
 聖書には、神が、傷ついた人と共に歩む存在だ、と記されています。遠い宇宙の果てのどこかではなく、人生の傷の痛みのあるところこそが神の居場所。
 そしてさらに神は、人を新しい自由な歩みへと招き促す、と聖書は語ります。辛い現実の中に人を留まらせるのではなく、そこから踏み出す一歩を傍らにあって支える。それが聖書の示す神の姿です。
 イエス・キリストは、そんな神の存在を身体ごと示しました。彼に出会った人はみんな、ひとりぼっちではない、生きるって悪くない、人生捨てたもんじゃない、そう思い、未来や、希望を取り戻したというのです。名もない、学も地位も財産も、何もない貧しい傷だらけの人々が、イエス・キリストに出会って笑ったのです。人々にとって、イエスは希望であり、未来であり、解放であり、救いでした。
 イエス・キリストは、しかし当時の宗教者や権力者の憎悪を身に受け、殺されてしまいます。わたしたちが代表的なアクセサリーとして親しみ、クリスマスツリーにも揺れている「十字架」は、イエス・キリストの磔(ハリツケ)の処刑の道具だったのです。
 無残な死を強要されたイエスはしかし、死の中に留まらなかった。復活して、今も傷ついた人々と共に歩んでいる!聖書は不思議にもそう語ります。これを信じるところから教会は始まりました。二千年前のことです。
 人間の赤ん坊は、動物よりもうんと未熟な弱い状態で生まれます。他の動物たちは生まれてすぐに立ち、歩むことができますが、人間の赤ん坊はそうはいきません。弱いのです。守ってやらねばならないのです。冷えないように、飢えないように、渇かないように、寂しくないように。
 聖書は、イエス・キリストが、そんな赤ん坊として生まれたのだと言います。それは神が共におられるということ、どんなに傷ついた人にも未来があり、生きていい、居場所があり、役割がある、というメッセージそのものが、赤ん坊のように大切に守られなければならないという意味を含んでいます。
 希望や未来。それは人を圧する力などもってはいない。それは傷ついた者自身の手の中で守られねばならないもの。生まれたばかりの赤ん坊のように。小さな、小さな、灯火のように。クリスマスはそのことを示しているのです。
 このクリスマス、小さな希望を、共に手に包み、胸に抱いて大切にするようなひとときを過ごしませんか。南小倉バプテスト教会は、そんなあたたかくてやさしいクリスマスを皆さんと共に迎えたいと願っています。ここは、みんなの教会です。
 どうぞ、どなたもおいでください。お待ちしています。

2018年待降節に。
  
Posted by aogoomuzik at 23:18Comments(0) 南小倉バプテスト教会 

2018年12月04日

ソロダイアローグス、更新、亢進、交信。

11/30ソロライブ、「ホシハ チカニ オドル」の影響が最初から。こうしてつながって変化していくのが楽しい。対話。
そして以前から考えていた、自分の今出している音は直接出ないで、どんどん後から後から混ざり合ってグラデーションのように変化していく未知の響きの演奏。弾く、というよりもヴァイオリンで入力する感じ、か。まあ自分でやって自分で意外で面白いのが面白い。あはは。すんません。
あたらしいHikari Monosも楽しかった。REON driftbox s とパラレルで両方をミキサーにつないでエフェクターを通して同時に鳴らす。driftbox のCVは Koma kommander でぐちゃぐちゃにしながら。つまりなんだかよくわからないし、予想もつかない。それがいい。轟音もいいけれど、結局どっちかというと小さい音で変なのが鳴ってるほうにやっぱり惹かれたり。
まあとにかく色んなモノオトや楽音やノイズや演奏や曲や要素が、互いにつながりあって次々に影響しあって。
主体性とか、ほんとうのこととか、ほんとうの心とか、ほんとうの自分とか、「個」とかそんなのはますますよくわからないし、もうどうでもいい。そこに拘ること自体がつまらない。関わり合いやつながりや響きあい、対話のほうが、はるかに面白いし、リアル。少なくとも自分にとってはそうなのだ。
客席には馴染みのお客さんが数名。ソロダイアローグスが新しくなっていく稀有な瞬間にお立ち合いくださってありがとうございました。
いつもいつも、デルソルで新しい試みをやらせていただいて本当ありがたい限り。マスター、ママさん、ありがとうございました。これに懲りず今後ともどうぞなにとぞ、宜しくお願いいたします!

使用機材は以下。
ヴァイオリン(アコースティック、エレクトリック)、エフエクト多数、アナログシンセ2、泡だて器2、ミルクパン、ボウル、風船、携帯用扇風機、洗濯ばさみ、ほか。

そんなこんなでこれからも谷本仰のソロダイアローグス、どうぞよろしくお願いいたします!  
Posted by aogoomuzik at 00:25Comments(0) ライブ | 雑記

2018年10月02日

広島にて「蜜×密」〜ソロ 20180930〜1002

9/30、広島アビエルトにてダンスイベント「蜜×密 月満ツル柘榴ノ微笑」。台風24号の接近で各交通機関に影響が出る中、それでもどうにかこうにか開催に至る。可部線が止まって、予約してくださったのにおいでいただけなかったお客さんも多く、それは残念だったけれど、むしろそれでも尚会場に辿りついてくださったお客さんが沢山いてくださって、ありがたい限り。
到着が大幅に遅れて、当初考えていたシステムを諦め、ばたばたセッティング。ようやく準備ができたのが開演15分前。間に合ってよかった。
一部はSafi、牧瀬茜、中野千春、タカダアキコがソロのダンスをつないでいく。それぞれが音源を準備していて、彼女らのダンスの間はぼくはステージ上手に座ったまま。そして転換の合間に短く1〜2分の即興演奏。それぞれのダンスを受けて音を出すような感じで。余韻の即興。
ソロダンスの間は、演奏しないので、じっくりそれぞれのパフォーマンスを見ることができた。ダンスのために鍛え上げられた身体による表現に漲る力にうなるような思い。語弊を恐れずにいえば、ダンスは誰にでもできる。身体が踊れば、ダンスなのだ。誰でも歌を歌うことはできる、というのと同じこと。しかし。この日に至近距離で見たのはそれを研ぎ澄ましたもの。すばらしかった。
また、この日誰よりも近いところで、彼女らの表現をみたのも面白い体験だった。ひとりひとりがお客さんに見せている正面ではなく、背面、あるいは横から見えるそれぞれのダンス。実は前に見せている「顔」は、背中に支えられているのだ。力は背に宿る。そしてしなやかな「側面」が動きをつないでいく。それがつながり、連動し、ひとつの表現を形作っていく。それはもう、身体の物語だった。
それぞれが選んでくる音源も面白かった。とくにコトバが使われているものたちにとても惹かれた。
一部の終わりはソロ演奏。「雨の歌」。
二部は、つながっていくそれぞれの即興ソロと、即興演奏のコラボレーション。Chiko+宮原千絵「1213」が火と絵を使い、中野千春→Safi→タカダアキコ→牧瀬茜と続き、最後は全員がステージ上で入り乱れて終わっていく流れ。
即興演奏は、必ずしもダンスに「合わせる」ことをしない。べったり同じ調子にしてしまうと、説明的になってしまうし、鬱陶しい。こう感じなさい、ここはこういうイメージですよ、と受け止め方を押しつけられているような感じになって、窮屈で退屈になりがちだ。と思う。
そうそう、先日あるところで見た美しい人が美しい服を来て美しい曲を美しく弾く演奏は、それもあっていたたまれなかった、という面もあったのかもしれない。
そりゃまあ、あんまりにも合わないで勝手なことばかりお互いにやってると、それは観る側にバラバラとしてしか映らないし、勝手にやってれば?となるんだけれど、ふっと合ったかと思うとずれたりすると観る側の中で想像力が活性化するのだ。と思う。それらを結び付けようとして。
そんなこんなで、あれやこれや5組のダンサーたちの入れ替わり立ち替わりに呼応しながら局面を変えながら。
そして、意外にあっさりと終演。それもよかった。
お客さんの喜んだことと言ったら。みんながほくほくしている。笑顔で。来てよかった!とみんなが感じてくださっているのがはっきりわかる顔で。みんな終演後楽しそうにワイワイわいわいやっててなかなか帰らない。去りがたいのだ。その空気の中にもっといたい、そんな感じが満ちている終演後のアビエルトだった。
主催者の苦労を思うと頭がさがる。ほんとうにご苦労さまでした。
打ち上げ時、沖縄県知事選挙の結果を知る。玉城デニーさん当選。おおおお!よかった!ふつふつと喜びが沸く。牧瀬茜さんと固い握手。

いつものように大槻さんのところに泊めてもらった。夢をみた。

ゆっくり、ゆっくり、タンゴを踊っていた。途中、ふと、あ、今寝てしまっていたかもしれない、相手に悟られなかったかな、と思いながらまた動きだしたりしていた、夢の中で。

翌日、アビエルトでゆっくりさせてもらって、横川「本と自由」へ。前夜セッティング使えなかったミキサーを使おうとするも、やはりうまくいかず、前夜と同じ形にもどす。ですぐ近くのお店で串揚げをかじっている最中に、あ、そうか、ミキサー、もっとシンプルな使い方をすればよかったんだ、と気づくも時すでに遅し。思い込んでると、単純なことが見えなくなっちゃうんだなあ。今度試してみよう。
ソロライブ、前夜からの流れで来てくださった方々も何人もいてくださって、ありがたい限り。そんなに意識したわけではないけれど、きっと前夜の余韻がそこに。そしてそれが新しい表現を促し、生み出す。
はっきりと意識しなくてもいい。それはもうそこに在る。いる。息づいている。見えなくても。
そう知っていればいい。そうわかっていればいいのだ。信じるってそういうことかもしれない。
固く信じる、確信する。そんなのでなくたっていいのだ。「意識」なんて大したことないのだ。
もっと大事なのは事実だ。そこに在る、という事実。それは、意識なんかしなくても変わらない。
共に生きるっていうのは、そういうことでもあると思う。
あ、前夜もだったけれど、ふと、琉球旋法が顔を出したっけ。新しい演奏の仕方もほいほいと顔を出した。ああ、いいなあ、と自分がたまたま作った音が、ほんとうに楽しくてうれしくなったり、うおう、と踊りだしたくなったり。
あ、そうだ、朗読!大槻さんにしてもらえばよかった、と気づくもこれもまた後のマツリ。次は必ず。
アンコールの声がかかって、じゃ短く即興を、と言うと横から大槻さんが笑いながら「1、2分で!」と声をかけてきた。わはは、前夜の一部の設定そのままに。うれしくなって、一気に2分ほど、エフェクターを手当たり次第、じゃなく足当たり次第に操作しながら。みんな大喜びしてくれた。あはは。踊ってた!って言ってもらった。
終演後、ステージ前にみんなが集まって、輪になっていつまでもワイワイわいわい。ああ、昨夜のようだ。うれしかった。ありがとう。
あ、やっぱり本を買ってしまった。東琢磨「違和感受装置」、齋藤環「オープンダイヤローグとは何か」。おろちょんラーメン食べて、再び大槻邸へ。

いまは、アビエルト。涼しい空気。踏切のカンカン、カンカン。大槻さんが開店準備のカチャカチャ。電車が通り過ぎていく。ふと鳴り始めた、バンドネオンの音。

ありがとう、ありがとう。  
Posted by aogoomuzik at 12:40Comments(0) ライブ 

2018年09月13日

ミロンガのために! Para la milongas!  

あれからもう7年になる。2011年の冬、トリオ・ロス・ファンダンゴスにとって2回目のブエノスアイレス。ミロンガ「エル・ベソ」でケンジさんに促されるままに、そこでかかる曲に注意を向けていて気づいたこと。自分たちの演奏しているような曲がほとんどかからない。それまで繰り返してきた自分たちの演奏のしかたも、みんなのダンスと合わない。これは…。それが始まりだった。この直後から、われわれの演奏は変わり始める。ブエノスアイレスのミロンガで。
その後、レパートリーが変わっていく。ミロンガでみんなが踊って楽しいかどうか。それが選曲の規準になっていった。演奏のノリも変わっていく。この変化は、2011年のブエノスアイレス前に出したわれわれのCD「4」と、2011、2013のブエノスアイレス公演の後で出した「5」の収録曲の違いにもはっきり表れている。→コチラ
この頃からあちこちのタンゴフェスに、そして各地のミロンガに招かれる機会が増える。我々の演奏で嬉しそうに踊る方々の姿を見、「踊りやすい!」「楽しい!」そんな声をミロンガで聞く度、幸せだなあと感じるようになっていく。
その頃、ある演奏者がこんな風に言うのを聞いた。「わたしたちはまだ若くて、経験も浅いので、ミロンガでの演奏が中心なんですけど…。」居合わせたわれわれ三人は思わず顔を見合わせて笑った。もはやそんなに若くもないわれわれが、ますますミロンガでの演奏の経験を積み、深めることを課題にしようとしていたからだった。
タンゴ演奏者たちにとってミロンガで演奏することは、そう難しいことではない。文字通り、そこに行って演奏すればいいだけのこと。しかし、ミロンガの「ために」演奏することには、独特の技術や経験が必要だとますます思わせられている。ミロンガでみんなが何を求めているかを知ること。みんなの身体を意識すること。ミロンガ全体の雰囲気を察知すること。どんな曲が、なぜ好まれるかを、踊る人たちの立場に立って考えること。みんなのダンスをみて感じながら、その雰囲気や動きを読みながら、自分たちの演奏をリアルタイムで柔軟にコントロールすること。テンポ、ノリ、歌い方、畳みかけ方、緩め方…。時には咄嗟に曲順や、曲そのものを入れ替えたりすることもある。それらのすべてが、ミロンガと一体になるために必要。そしてそれはミロンガでしか培うことのできないもの。
だから、きっとミロンガにおいては、どんな演奏であれ生演奏なら良い、とは限らない。その演奏が、踊っているみんなのためのものかどうか。奏でられているタンゴはミロンガとの交歓をしているか。一緒に踊っているか。どんなに演奏技術が優れていても、なお、ミロンガではそのことが問われるのだと思う。
コンサートで座って聴いてくださるお客さんと違い、ミロンガで踊っている人々は、耳だけでではなく、身体全体で聴き反応している。聴いていないのではなく、全身で感じている。その身体たちとの対話が、したい。そう考えてきた。
ミロンガでは確かに、みんなが演奏者たちの音楽に食い入るように注目し、耳を傾け、拍手喝采を送るなどということはないかもしれない。そこでは精緻なアレンジや高度な演奏技術も目立たないかもしれない。すべては、ダンスを経由して、受け止められるからだ。それが音楽家によっては、ミロンガでは自分たちの演奏が添え物のように扱われた、と感じる所以かもしれない。だからしばしば演奏家は、真っ直ぐに自分たちの演奏に向き合ってくれるコンサートやライブで認められる方が自分たちとしてより高く評価されたと感じ、安心するのかもしれない。
しかし実際には、ミロンガでは、みんないわば、ダンスで聴き、感じ、受け取り、応答している。それと演奏が対話し、響きあうとき、演奏はミロンガの中に共に入り込み、そこで共に踊る。これまで何度も、ミロンガのライブでそれが現実化したと感じる瞬間を何度も経験した。
昨年関西タンゴフェスティバルでのこと。ステージ上で気がつくと集まったほぼ全員がフロアで踊っていた。その曲が静かに終わった後、恐らく百名以上が踊っているそのミロンガで、誰も身じろぎもせず、全員が余韻に浸り、フロア全体が静寂に包まれる瞬間が訪れた。実際にはそれはそんなに長い時間ではなかったはずだけれど、まるでそこにふと、「永遠」が姿を現した、そんな風にも感じた瞬間。そしてそれに続いて、翌日、名古屋のミロンガでも同じ事が続けて起きる。奇跡のような深い静寂の、数秒間。深く、ほんとうに深く、我々の演奏が踊っているみんなのダンスの中に響き、ミロンガそのものと一体になったと感じる瞬間。忘れられない、宝物のような経験。
トリオ・ロス・ファンダンゴスは活動開始から19年。そしてますますミロンガのために演奏していきたいと考えている。各地のミロンゲーロ、ミロンゲーラのみなさん、どうぞ宜しくお願いいたします。
そして、ミロンガ以外のライブやコンサートにもぜひおいでいただきたいと願っています。ミロンガで磨かれ鍛えられているわれわれの目指す「カラダとココロ踊るタンゴ」を、座って聴いてくださる皆さんにも楽しんでいただきたいのです。

どうぞ宜しくお願いいたします!

Para la milongas!   
Posted by aogoomuzik at 22:29Comments(1) タンゴ | 雑記

2018年08月14日

鈍行旅 広島横川〜南小倉

アビエルトでの即興ワークショップは今回はカエルのギロを使って。参加してくださった皆さん楽しんでくれたかなあ。そしてその後のソロライブで、お盆の恐ろしさをまざまざと思い知らされる。こわいこわい。機材トラブルもいくつも重なって、こわいこわい。でも結構おもしろい演奏になり、今後のヒントも得る。転んでもタダでは起きまへんでえ。怪我の功名ちゅうやっちゃ。

一夜明け、以前から行きたかった横川のお好み焼き「みっちゃん」へ。大槻さんとうまいうまい言いながらソバ入りとうどん入りを半分ずついただく。ふわふわのうどん入りと、パリパリのソバ入り、どっちもおいしい。沢山入ったキャベツの甘みがひきたち、ソースはあくまでもその引き立て役。よく冷えたビンビールがこれまた。

さて、と横川から鈍行で帰ってみることにした。まずは岩国行き乗車。途中まで満員、どうなることやらと思ったけれど、途中で座れて、やれやれ。宮島のあたりから海沿いを走る。いいなあ。

岩国で、ようやく、柳井から先、下松まで豪雨災害の影響でまだ不通だと知る。行き当たりばったりだからこういうことになる。おほほ、おもしろいやん。新岩国まで行ってそこから振り替えで新幹線で徳山まで行って在来線に戻るコースと、そのまま柳井まで行ってバスに乗り換えて下松まで行って、また鈍行に乗りなおすコース。どっち?ここはやはり鈍行で、と後者を選択。ちらっと駅で「しかしバスが満員になったら乗れないこともあります…」という言葉をきいたような。ままよ、と柳井まで。途中大畠駅あたりで瀬戸内海の景色が車窓に広がる。わー。水面がキラキラしてた。すばらしい。

柳井。降り際にヴァイオリン一挺を網棚に忘れかけておっとっと。やっぱり網棚は危ない。何度も繰り返す網棚ヴァイオリン忘れ事件。

改札口付近で手続きしている間に案の定、この電車を待っていたバスは定員に達してしまい、乗れず。なんとなく予期していたのだけれどその通りで笑う。30分ほど後に出るのがあるので問題なし。座って待ってる間にふと、キャリーケースが一つないことに気づく。わ、改札口に慌てて戻るとその場に置き忘れてた。あぶないあぶない。バスは下松まで1時間半。四列シートの高速バスみたいなやつ。うつらうつら。

下松から新山口行きに乗り、新山口で下関行きに乗り換え。疾走する鈍行。ぐわんぐわん揺れながら。大丈夫か、鈍行。もうちょっとゆっくりでもええねんで、ムリすな鈍行。お尻が痛くなってきたぞ、腹もへってきた。

下関で門司行きに乗り換え、門司で新田原行きに乗り換え、そして南小倉に到着。7時前くらい。6時間40分ほどの鈍行旅のおわり。

明日は久留米で筑後キリスト者平和の会の平和集会でお話しすることになっているのでその準備をしながらの旅。思いがけず発想が広がったりして、それも収穫。

しかし台風が来るゾ、だいじょうぶかな。  
Posted by aogoomuzik at 20:01Comments(0) ライブ | 雑記

2018年06月20日

水ようごはん、過去最多記録更新。

いやー今日の水ようごはん、すごかった。おとなとこども合わせて計31名が食べた食べた。2015年の5月に水ようごはんが始まって以来、今日が160回目の水ようごはん。そして過去最高の参加人数。テーブルはついに3島に。すごいなあ。たのしかったなー。
あ、昨年の9/1に向けてツィートした「死ぬな、逃げろ!南小倉バプテスト教会へ」は2万リツィートされたけれど、応答の中には「所詮汚い宗教勧誘だろうが」みたいなのが結構あった。キリスト教会がしばしば、結局はキリスト教信仰に導くことが最大の目的で、そのすべてのプログラムは全部この目的遂行のためにやってる、というのがホンネであったことを、みんなよく知ってるってこと。
ウチはそんなのは二の次、と考えている。とにかくみんなで生きていこう。まずはメシくって元気だそう。それ以上でも、それ以下でもない。それでええのです。そういうのを掛け値ナシでやるのが教会。それでええやん。とにかく、食べて元気になったらええのです。
生きていい。居場所がある。それが伝わり共有されることがどれほど大切か。新幹線の中で包丁振り回して、乗客ひとりを殺してしまった人は、直前に警察官に居場所を追い出されたホームレスだったことが明らかになっている。そらあかんよ、人を傷つけたり殺したら、あかん。でも、居場所を追い出され、奪われたら、人間自暴自棄になる。それもまた、そうなんだと思う。
八幡西区で新幹線に飛び込んで亡くなった人がいた。奇しくも「新幹線」が共通してる。居場所はあったのだろうか。攻撃や否定が、「死んだらいい」が、他者に向かうか、自分に向かうかの違い、だったりしないだろうか。
そう考えると「死ね」「死ねばいいのに」などのネット上に溢れかえる憎悪の言辞は、それらと響きあいつながっているのではないのか。ネトウヨとか言われている人々の言葉は、こことつながっていないか。つまり、居場所を奪われていくことへの反応として。
とりあえずメシ食おうや。生きていこうや。居場所がないなら、ここにおいでえや。そう言ってもらえたら。そう言えたら。そう声をかけあえたら。
できることなんて、大したことない。ほんのちょびっとだけ。完全になんか到底なれない。そういう意味では所詮「偽善」かもしれない。いや、偽善でしょう。「善」なんかではありえないのだから。世界を変えるなんてトンデモナイ。でもひとりでも、ちょっとでも、ああ、自分はここでなら黙って座っていられる、そう感じることができるなら。自分は生きてていい、そう思ってもらえるなら。案外世界は変わるのかもしれない。そこで。
だからこそ、ちょっとした笑顔。一言の挨拶。肯定的な言葉。「良質な言葉」(向谷地生良氏)。知らない人への「こんにちは」。コンビニの店員さんへのありがとう。道ですれ違う人への「雨、あがりましたねえ」「良く降りますねー」「楽しかったね」「よかったねえ!」「いただきます!」「おいしいねえ!」「ごちそうさま」…そういうのが大事なんじゃないかなあ。お互いにうれしくなるような、ほんの、一言。
損なんてする?言葉ひとつ、表情ひとつでいい。何か失うものがある?他者を見下して自分がちょっとでも上の立場に立とうとする言葉や行動こそ、自分を破壊し、傷つけるのだ。
ちょっとはなしが大袈裟になったか。とりあえず、食べようや。
水ようひろば、水ようごはん、これからもやります。よかったらぜひどうぞ。南小倉バプテスト教会は、「みんなの教会」を目指しています。  
Posted by aogoomuzik at 23:21Comments(0) 南小倉バプテスト教会 | 雑記

2018年05月21日

「希望のはなし 死ぬな、逃げろ2万リツィートから見えてきたもの」を振り返る

「希望のはなし 『死ぬな、逃げろ』2万リツィートから見えてきたもの」。少し前になりますが、こう題して、4/1の南小倉バプテスト教会のイースターコンサートの中でお話ししました。

昨年9/1、夏休み明けに学校に行きたくなくて自らいのちを絶つこどもたちが多い、というデータに基づき、北九州市で公立学校が夏休み明けの始業を迎えるこの日、こどもたちの逃げ場を作る取り組みとして教会開放をしました。その日には朝からお茶とジュースとお菓子、マンガを用意し、そして何より、ボランティアでこどもたちが万が一やってきたときに迎えることのできるおとな数名が教会に夕方まで待機して過ごすことにしました。

これを知らせるツィッターでの呼びかけが大きな反響を呼びました。2万を越えるリツィート、230万回の表示。色んな意見をあちこちからいただきました。概ね、好意的でした。

しかし幾つかの応答に、考えさせられたのでした。教会のやろうとしていることに、まったく未知の、見知らぬ、この教会においでになったことのないような方々から色んなご意見を数多くいただくなんていうことは考えもしなかったこと、そして全く初めてのことでした。折角ですから、直接ではないにしても、その言葉との対話をしたいと思ったのです。それが、「希望のはなし 死ぬな、逃げろ2万リツィートから見えてきたもの」です。

主に、以下の三つの反響・応答について考えてみました。
ヽ惺擦始まるのは9/1とは限らない。
△となも逃げたい。
宗教勧誘ではないか。

8月下旬には学校は始まる!という応答が幾つも寄せられました。調べてみるとどうやら遠くの方のようでした。ぼくはこの近所の人やこどもたちに届けばいいとおもっていたのですが、意外に遠くの方までことばが届いてしまい、そこでは自分たちやその周りのこどもたちへの呼びかけ、と受け止められたようでした。ひょっとすると、その呼びかけは、この国のあちこちで、自分のところでもそういう取り組みがあったらいいのに、という思いに響き、九州は福岡県小倉の街の片隅の小さな教会のこと、とは思えなかったのかもしれません。それほどまでに、みんなに自分のこととしてこの呼びかけが響いたということでしょうか。

9/1だけでは取り組みとして不足、という指摘もありました。その通りです。こどもたちの自死は、その前日や翌日も、多いのです。さらに言えば、その頃だけが問題、というわけでもありません。そう考えれば、毎日毎日365日が事実、いのちの危機だといわなければなりません。

しかし、何日間も、まして毎日、助けを求めてやってくるかもしれないこどもたちのために教会を解放し、お茶とお菓子と人員の手配をして待つことは、実際にはできません。不完全な、ほんのちょっとのことしかできないのです。事実、まったく力不足です。

それでもやる、と決めたのでした。毎日やれなくても、徹底していなくても、力不足でも、限界と罪を負いながらも、それでも、できることを、やるしかない。そう思わせられました。

キリスト教は、人間には罪がある、と言います。「罪」は有限性や欠け、不完全さ、また好むと好まざるとに関わらず人を傷つけたり、傷ついたりすることそのものをも内包しています。どんな良い行為であっても、そこに罪は含まれている。そうキリスト教は考えます。9/1に限っての教会開放にも、「罪」が含まれているのです。赦されて、やるしかない。そこには自分たちが赦された罪びととして歩むしかない、と信じることが必要でした。

限界があるから、完全にはできないから、やらない。のか。限界があり不完全だけれど、罪も負うけれど、やる。のか。後者を教会は選んだのでした。

そしてきっと、こうした選びとりをする人びとがあちこちでつながれば、それ自体がおおきないのちのための「ネットワーク」、「網」になりうるだろうと思います。南小倉バプテスト教会が、あるいは一人が、何もかもできなくていいのです。網の結び目のひとつになって、網全体でいのちへの関わりを作ればいいのです。

大人も逃げたい。社会人も匿ってくれるか。そんな応答も幾つもありました。こどもたちだけではなく、おとなも含め、この社会の中で、みんなが苦しみ、逃げ場を求めている現実が図らずも浮かび上がりました。

その日に実際に来た小学生はいませんでした。教会にいつも顔を出してくれている中学生と、知人の青年がひとりずつ、そして様子を見に来てくれたおとなの方が数名。みんなでゆっくりのんびり過ごしました。ゆったりした時間が流れていく、いい一日でした。

考えてみれば、行ったこともないような教会に、いきなり悩みを抱え死の瀬戸際に立たされた人が来るだろうか。自分なら行くだろうか。行かないだろうなあと思いました。心配だし、不安だし、怖いし。

だったら敷居を低くして、普段から色んな人が出入りするところにしておく必要がある。そう本当に思いました。何でもなくていいのです。動機なんてどれでもいいのです。ただ、あの教会に行った事がある、なんかあったらまた行ってもいいなと思った、それだけでいいのです。いやむしろそうでなければならないでしょう。そういう人こそが、いざというときにもう一度足を運ぶのではないか。そんなことを思いました。だったらできるだけそんな風にして色んな人が出入りする教会にならなければ、いざというときに逃げ場所にすらなれない。そう気づいたのでした。色んな機会をつくって、みんなが来やすい教会になる。それが、いのちに寄り添おうとする教会の普段からなすべき仕事だと思わせられたのです。

宗教勧誘ではないのか、という声もありました。結局教会はクリスチャンになる人を増やすという目的、「下心」、ホンネを隠し持って、こういうことをやっているのではないか。そんな疑いと恐れをもって教会を見ている人たちが多い現実が示されました。そこには、これ以上自分を否定されたくない、という思いもあると思われます。これまでもう十分傷つけられてきた人びとにとって、それは無理もないことです。さらにそれだけではなく、その疑念は教会自体が招いてきたものでもあるはずです。その人が生きることそのものよりも、クリスチャンになることのほうが大事、という考えを、教会は多くの場合、持ってきました。そして多くの場合、教会は何をするにしても、最終的にはクリスチャンを「作る」ことを最大の目標に人と関わってきたのです。そうした教会のあり方が、こうした疑念を招いたのだと思います。クリスチャンにならないと天国にはいけない。神の愛を最終的に受けることができない。そんな考え方からの脱却が、みんなのいのちに関わろうとする教会には必要だと思わされています。クリスチャンになるかどうかは二の次。何よりもいのちのこと、ともに生きることが大事。そう教会が掛け値なしで言えるかどうかが問われています。

しかし、いのちは絶対に大切なのだ、と言いきろうとするとき、そこに宗教が必要になるのではないかとも改めて思いました。神が創り、人間に託したいのち。神の愛。それを信じるからこそ、わたしたちは理屈抜きに「いのちは大事」」と断言できるはずです。説明しない。なぜ、という問いに答えない。不可侵の聖域として、いのちは大事。生きろ。死ぬな。死ぬまで生きよう。そう断言するならそれは「宗教性」を帯びているのだと思うのです。それを語るのかどうか。そこに宗教の存在意義が問われているのだと思います。

今年は北九州市では9月3日が夏休み明けの公立学校始業日。その日も教会は逃げ場のひとつになりたいと思います。でも一年365日、いつでもそうありたいと考えています。一度、どうぞ場所だけでも確かめておいてください。そして何かの機会に、様子を見にきてください。自分のためだけでなく、誰かのためにでも。まだ会ったことのない、誰かのためにも。

この春から、毎週水曜日16時からの「水ようひろば」が始まりました。これまで3年にわたって17時から開催してきた「水ようゼミ」を拡大し、みんなの自由な広場として教会を開放することにしたのです。勉強や宿題をするもよし、読書やマンガを読むのもよし、絵を描いていてもいいし、手紙を書いてもいいし、シゴトをしてもいいのです。何もしないでもいい。こどももおとなも自由に過ごせる時間、そして「居場所」です。そして18時からは水ようごはん。みんなの夕ごはんです。誰が来てもOK。いつでもどうぞ。材料費200円くらいを缶に入れていただければ助かりますが、足りなければあるだけ、なければまた今度。どうぞご利用ください。

どうぞ宜しくお願いいたします。皆さんのご協力、お手伝いをお願いいたします。

南小倉バプテスト教会:北九州市小倉北区弁天町11-19、093-571-5072。
  
Posted by aogoomuzik at 17:48Comments(0) 南小倉バプテスト教会 

2018年04月11日

そうそう、19歳のトリオ・ロス・ファンダンゴス、福間marutani へ

4月8日は、われわれ4月4日生まれのトリオ・ロス・ファンダンゴスが19歳になって初めてのライブ。福間駅前の洋食居酒屋marutaniにて。デジピを持ち込んで、他は生音で。ライブはとても楽しく、なんかこれまでにない感覚だったのだけれど、あれはなんだったのかなあ。新しい手触りというか感触。すこし肩の力が抜けたのか、なんとなく自分の演奏も、三人の演奏も。Sakura Tango Fes.での大仕事の影響? あ、客席がお店の雰囲気を反映してとってもあたたかい感じだったことは大きな要因かもしれない。途中からうえやまとちさん登場。ブエノスアイレス一緒に行きたいなあ!だって。行きますか!

終演後は嬉しく楽しく呑んで、いっぱい笑って。19歳おめでとう、ありがとう。しんどいことも沢山ある。生きてるってそういうこと。そういうのをまるごと内包して、踊り、笑う、タンゴ。

終電に乗ったのはいいけれど、福間駅ホームになんと携帯を落としたらしいことが判明。さらにmarutani にて別のもっと大変な忘れ物も発覚。あちゃちゃ。翌日再びmarutani へ。ちょうど昼ご飯どきにて、前夜食べ損ねたハンバーガーをいただく。うまかった!maritani さんお世話になりました。

そこから京都へ。順調に会場入りするはずが京都駅でなぜか違う番号のバスに乗っていて、とんでもなく違うところに。気づいて運転手さんに尋ねると「これちがうで」。どう乗り換えたら千本中立売にいけるかバスの運転手さんが運転しながら一所懸命に考えてくれて、いい方法思いついたで、と教えてもらった行き方でようやく到着。スリリングでした。  
Posted by aogoomuzik at 13:19Comments(0) ライブ 

京都・広島 two

two京都・広島公演終了。7年間で通算20-21回目。いずれもこれまでとは違った、新しい感覚。毎回そうだけれど、今回は、それに加えて何か新しい流れのようなものを感じるtwo。

京都の天Qは食堂として営業していた明るいスペースと、古い日本家屋の物置のような雑然としてどこか懐かしく寂しい生活の名残が漂う暗いスペースの二つを持つ店。two には今回の会場の後者がよく合った。小さなスペースに文字通り肩寄せ合う客席と、みんなでその空間や空気を分かち合いながら。

広島では第一部、上八木IBMの即興演奏にぼくが時々合図やサインを出して介在する上八木IBMに絡む若林美保・大槻オサム。指揮のようなことやってみてもいいかな、と大槻さんには提案してみて、おもしろいしみんな喜ぶと思うよ、ということだったので、折角だしと思ってやってみた。終演後、客席からは好評をいただいたけれど、IBMのみんなにとってはうるさく鬱陶しい存在になってやしなかったかな、とちょっと申し訳ない気持ちも。しかしそこで起きていること、聞こえてくる音に注意を向けたり、みんなの中から出てこない要素を投げ込んでみたり、これはこれで色々可能性がありそうなので、IBMのみんなともまた考えていきたいなあ。IBMの皆さん、失礼いたしました、ありがとうございました。

二部はいよいよtwo。アビエルトの高さを十分に生かしたダイナミックな展開。舞台のあちこちに配置され、天井からもぶらさがる華道家・羽鳥智裕の大小の針金オブジェも存在感を発揮。わたくしも、いくつもの新しい奏法へと導かれて。

両日とも、終演後大勢のお客さんが残ってわいわい、その雰囲気もよかったな。終わった後みんながさーっと帰っちゃうのはなんかこう、寂しいものです。自分のせいもあるのでしょうから余計に。

次はいつかなあ。これ、なかなかの見モノなので、ぜひ色んな方にご体験いただきたいと思います。若林美保、大槻オサムの即興ダンスパフォーマンス/即興劇と、わたくしの即興演奏が観る者たちの中に喚起する、それぞれの物語たち。乞うご期待。  
Posted by aogoomuzik at 11:37Comments(0) ライブ