2015年12月31日

今週の一言(2015/12/27週報より)

●今週の一言
 昨年の六月から、教会学校で開始された演劇作りプログラム。このクリスマスのページェント上演ですでに五作目を数えた。
 お決まりの読み方、お定まりの教義をおとなから子どもへと伝達注入するのではなく、対話・交流を身体的に行いながら福音を体験化することはできないか。抽象的宗教概念を言葉で学び教えることの難しさに教会学校スタッフ一同で悩んで辿り着いたのが、この演劇プログラム。
 作品化の前に聖書をみんなで読み込む。意見、感想、疑問、反論、なんでも自由に。こどもたちの言葉にならない反応も大きな材料。腑に落ちてるか、楽しんでるか、身近に感じているか。それがこどもたちの言動や雰囲気、表情や身体の動きから見えてくる。そしてそれは、おとな自身のわかっていないトコロの再確認だったりする。すぐに変える。やがて台本らしきものができて、稽古へ移っても試行錯誤は続く。このプロセス全体が学び。最終的な礼拝での上演は、そのひとつの到達点の提示であって目的ではない。
 マタイ福音書の博士たちの物語と、ルカ福音書の馬小屋のイエスと羊飼いたちの物語が互に交わることなく進む普通のパターンと違って、今回もウチのクリスマス劇では、博士たちと羊飼いは鉢合わせし、対話する。今回は、夢で天使からヘロデの元に帰るなと告げられたため、喜びを周りに伝えることができないでいる博士たちが、羊飼いたちの喜びに促され巻き込まれていくというエンディング。なかなか面白かった。
 さて。信仰について考えさせられる。ヒットラーを、そしてゲルマン民族を絶対化していく戦前戦中のドイツにおいて成立したバルトなどによる新正統主義神学の提唱した、神のみを絶対とし、その神の言としての主イエスにのみ従う信仰は、確かにナチズムの暴政への服従に対するアンチテーゼ、「ほかの道」として機能した。しかしそれは戦後、反ナチズムという具体的位置を失って普遍化し古典化する。それへの批判を伴って登場したのが解放の諸神学であり、フェミニズム神学であり、植民地主義を乗り越えようとするポストコロニアル神学など、一九六〇年代以降に次々に生まれてきた新しい神学たちだった、と分析したのは栗林輝夫氏(「現代神学の最前線『バルト以後』の半世紀」)。
 絶対者であり権威そのものである神の、有無を言わさず「上」から垂直に下る上意下達の宣言と命令への絶対服従のみが信仰だとするなら、それは権力者による強制・暴力・抑圧・支配と、カタチの上で重なり合う。いや、中身は愛なのだからチガウ、と言えるだろうか。本当に、一方的な愛は、愛か。愛は、双方向の対話以外の形をとりうるだろうか。
 母と赤ん坊の関係は一方的だろうか。赤ん坊の存在が母を支え励まし育て、母たらしめていくとは言えないか。そのようにして関わる母によってこどもは育ち、愛を感じ取っていくのではないか。この交流こそが愛だとはいえないか。
 主イエスの愛は、ガリラヤの貧しい農民たちとの間のこうした交流そのものではなかったのか。それが虐げられた者たち励まし、力づけたのではなかったのか。そんなイエスに救いを見出すところに、キリスト教信仰の萌芽があった、はずだ。
 さあ、二〇一六年がやってくる。わたしたちの信仰告白作りも正念場。しかしどうせ二〇〇〇年も試行錯誤が続いてきたのだ。われわれがたかだか五〇年。そしてそもそも「戦後」、史上もっとも大きな揺れをキリスト教は経験してきたのだ。我々も揺れて当たり前。むしろ揺れないことの方が非歴史的でオカシイ。
 楽しもう!おっとその前にもう、次の演劇プログラムのことも。楽しみ!
  

Posted by aogoomuzik at 12:13Comments(0)TrackBack(0) 南小倉バプテスト教会「今週の一言」