「ホシハ チカニ オドル」北九州公演終了。一四〇名近い方々に見ていただくことができ、ほんとうにうれしかった。今回の計四公演は通算二八〜三一回目。二〇一〇年秋の初演以来五年余り、ついに上演が三〇回を超えた。
 振り返れば大槻さんとぼくが一緒に作って二〇〇五年に最初の共演となった作品のタイトルがすでに「死者の書(テガミ)」であり、互いに関係のないさまざまな死者たちが次々に登場して独白をし、踊り、去っていくという構成だった。また「ホシハ チカニ オドル」の前身の即興的パフォーマンス「Dialogues in the dark」は広島市立大学の湯浅正恵さんの「原発事故で亡くなった人々をよみがえらせるようなパフォーマンスを」という要請がきっかけ。つまり、初めからずっと、「死者」「復活」がテーマ。
 大槻さんの芝居も、ぼくの音楽も、公演を重ねるごとに少しずつ変化する。この作品は、こうした即興的で可変的、対話的な要素を随所に残してある。それがこの作品をつねに変化させ、ダイナミックにし、うねらせる。回を重ねてもこの作品上演が演者自身にとっても新鮮で、おもしろくあり続ける所以だ。
 「復活」に関する表現はより豊かに、より強くなって。森の妖精は夜空を抉るように指さしながら、星たちの光が闇に塗りこめられても塗り込められても、ぐりぐりと孔を開けてピカーッと漏れ出してくる、というようなことを語る。その指によって、光が指し示されると同時に、闇を破り穿ってこちら側へと突き出してくる光の復活の強い力が新たに表現されていた。
 また、「笑い」も物語の中での重要性を増している。笑いのもつ解放や復活の力、希望、そして優しさに光があてられ、それが星のように輝く。死者が笑う。死者に笑わせてもらう。笑いがテーマになっている場面で、何度も涙が出た。
 ステージ上でぼくが心から笑っていたのがよかった、という感想が幾つもあった。お客さんが、舞台を取り巻いて座り、舞台の向こう側とこちら側でお客さん同士の顔が見える形は、韓国の民衆のマダン劇に通じる。広場、だ。演者と観客だけでなく、観客相互の交流によっても一体となっていく、「ホシハチカニオドル」。
 また、二〇一三年の京都と広島で初めて取り入れられ、その後しばらく姿を見せなかった「食べる」ということがお客さんを笑わせ巻き込みながら再登場。うれしかった。
 前回の東京公演で経験したぼくの機材トラブルも改善。前回からより強くダンスを意識し始めた第三場「興」のソロ演奏も楽しかった。音楽と芝居の一体性はぐっと深まった。
 「ホシハ チカニ オドル」は、上演三〇回を超え、それ自体が身体をもったイキモノのようになってきたと感じる。つながり、息づき、問い、嘆き、踊り、歌う、モノガタリのカラダ。もはや「作品」と呼ぶことはなにやら相応しくない感じすら覚えるほどに。
 ゲストとの言葉のやりとりも毎回おもしろかった。黒田征太郎さんはその後、全国上演の資金のために、とすでに三〇枚あまりの絵を送ってくださった。ありがたい限り。
 何度も繰り返し観てくださるお客さんも増えてきた。駆けつけて手伝ってくれる仲間たちの存在が嬉しく心強い。「ホシハ チカニ オドル」が共同体のようなものを呼び集め始めている。
 旅は続く。世界のキズアトと響きあいながら、「死者たちのまなざし」(レヴィナス)の前に、下に、上に身を置いて。復活の祈りの生きたモノガタリとして。一〇〇回公演を目指して。新しい出会いを求めて。どうぞ応援のほど、宜しくお願いいたします!
 あ、カンパもありがとうございました。次回をお楽しみに!