7/8木曜日、日本バプテスト連盟ホームレス支援特別委員会主催のオンラインミーティングが開催された。テーマは「キリストの体として・・今、教会に何ができるだろう」。こんな言葉も参加呼びかけの案内には添えられていた。「こんな相談を受けたことがありませんか?・お金を貸してほしいのですが… ・三日間食べてないのですが… ・体調が悪いのだが病院に行けない… ・DVを受けて逃げてきたのですが… ・アパートを追い出された… など」。10教会から計22名が参加。
それぞれの関心事も含めた自己紹介で、楽しく予定の時間の大半が過ぎてしまう。そう、みんな自分の事を話したいし、聴いてほしい。自分もそう。コロナでその機会が本当に減ってしまっているのだし。自分を語ることって大事。
 その後フリートーク。ぼくは進行役。話題は、お金に困っている人が教会を訪ねてきて、借金を申し込まれた場合の対応について、へ。どうするのがいいのか、正しいのか。牧師がいないときの対処法は。ほんとうは何に使われるのか。その他様々なケースや思い、悩みが次々に紹介されていく。切実だ。
 訪れる一人一人の事情、状況がそれぞれ全く違うので、これが正しい、という答えはない。個々人の事情や物語もどこまでが事実かわからない。牧師も確信をもって対処できるわけではない。みんな迷いながら、わからないながら、対応せざるをえない。むしろそんな事を真っ直ぐに語り合って共有することが大事なのかもしれない。そんな風に思うのだった。
 そんな中で奥田牧師は、イエスが何十年も病気で横たわったままの人に敢えて「治りたいのか」と問うたエピソードを紹介しながら、一人一人の「本当の願い」がイエスにとって大事だった、ということを示した。確かにこれは当たり前の事のようで、実は当たり前ではない。長らく苦しい状況が続くと、それを生き抜くことだけで精一杯になり、ほんとうはどう生きたいのか、どうなりたいのかがわからなくなることがあるもの。借したお金は実はお酒に消えたかもしれない。パチンコで無くなるかもしれない。実は、と話してくれた深刻な事情にさえ、嘘が含まれているかもしれない。でもほんとは、どう生きたかったのか。そんな自分になりたかったのか。本当はどう生きたいのか。人が癒されて立ち上がるには、実はこの問いが必要なのだ。
 でも、ひとりで考え込んでも、答えが出るとは限らない。むしろそれでは余計にわからなくなったり、迷路に迷い込んでしまうことが多い。この問いは確かに、たったひとりのその人への問い。でも大切な問いであればあるほど、答えはたったひとりでは出せなかったりする。誰かが一緒にいること。誰かと共に在ること。他者との関わり、つながり、出会い。その中でこそ、人はこの問いに真に向き合える。イエスに問われる、とはそういうことでもある。
 人間には他者が必要。自分の本当の願いを知る為に。自分自身になる為に。生きる為に。実はそれこそが人間の本当の願いかもしれない。教会はどう応えるか。イエスから問われているその人に、教会はどう寄り添えるか、つながれるか、一緒に歩めるか。どう共にその問いに関わることができるか。教会自身もその問いを自分自身にどう受け止めるか。そこが問題。
 とても良いオンラインミーティングだった。あっという間に時間が来て、延長しても時間が足りず、来月にもパート2を開催することに。直接会えなくても、こうして大切な事を一緒に考えることができる。その意味ではいい時代になったといえるかもしれない。みんなでまた正直に、具体的に、共に生きることを考えていきたいと思う。

(南小倉バプテスト教会2021/7/11週報今週の一言)