2019年10月20日

カラスは都会の空の制覇者――唐沢孝一「カラスは天才!」

ある朝のこと。
カラスが、ゴミ袋を破り、中からゴミをくわえ出している現場を目撃した。
感心したのは、そのゴミ袋には、カラスよけのネットがかぶせられていたこと。
カラスは、器用にネットの下からくちばしをつっこみ、袋をひきずりだしていた。
ゴミ主は、風邪をひいていたのかもしれない。
20リットルのゴミ袋は、丸めたティッシュでふくらんでいた。
カラスは、次から次へとティッシュの玉をくわえ出し、路上に放り投げていった。
残念、そこにはあなたの好きなごちそうはありません、なんてカラスに同情しながら、わたしはゆっくり歩いて現場を通り過ぎた。しばらく歩いて振り返ると、道路には丸まったティッシュが散らばり、路上に白い花がいっぱい咲いているようだった。カラスは、白いお花畑のまん中でくちばしを空に向け、カアッと一声鳴いて、飛び立った。その声は、ごちそうにありつけなかったことを残念がるよりも、いたずらしてやったぜ!と、得意がっているように聞こえた。

カラスは頭がいい。動物たちには住みにくくなる一方の都会で、人間と張り合って生きている。人をからかう余裕さえある。俄然、カラスに興味がわき、図書館で借り出したのが、この本。
唐沢孝一「カラスは天才!」
もう二十年も前に書かれた本だが、カラス学の入門書として、十分楽しめた。

文章は平易で、難解な学術用語は使われていない。見開き二ページごとに見出しをつけ、一つの項目を納めるように編集されている。
我が意を得たりと思ったのは、「カラスはほんとうに賢いか」の章だった。
「カラスに『楽しむ心』はあるか」
「カラスの遊びとネコの遊びはどう違うのか」
「カラスはどこで遊ぶのか」
「カラスは何をして遊ぶのか」
「カラスは何を使って遊ぶのか」
などなど、遊ぶカラスの見出しが並ぶ。
そうそう、カラスは遊ぶのよ。食べられないティッシュを路上に放り出して、カアと笑う余裕がある。色とりどりのビニールひもや針金ハンガーを集めての巣づくりも、わがやの建築を楽しんでいるのかもしれない。
それもこれも、都会にはカラスの天敵がいないからと、著者はいう。
なんでも食べるカラスは、都会にみごとに適応して繁殖している。
街の再開発でノラ猫が繁殖しにくい環境になり、地上の生ごみや残飯もカラスの思うがままだ。
カラスは、空を飛ぶ鳥だから、人間に捕らえられて、猫のように強制不妊手術をされる心配もない。
都会暮らしは栄養豊富だから、通常は二月から三月の繁殖時期も長くなっているという。

カラスは、外見からは雌雄の区別がまったくつかず、肛門と肛門を重ねて交尾するんだって。そのとき、上になるのが雄だという。恋愛感情は淡白で、一度拒絶された雄は、さっさと別の雌を探しにいくらしい。カラスの世界にストーカーはいないんだって。いいね!

ひな鳥が巣立った9月ごろから、次の巣作りの二月ごろまでは、大きな集団ねぐらで暮らす。
都会だと、公園や神社の森になるのかな。
木の枝に止まって眠るらしいが、大雨や台風の時は、どうしているのだろう。それが、解けない疑問として残った。

唐沢孝一「カラスは天才!」(ごま書房・ごま新書)









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2019年10月14日

幽霊に育てられた少年――ニール・ゲイマン「墓場の少年」

2008年に刊行された作品。英語圏のすぐれた児童文学に授与される二大文学賞、アメリカのニューベリー賞(2009年)イギリスのカーネギー賞(2010年)を、史上初めて両方受賞した作品だという。

タイトルに「墓場」という不吉な文字が入るとは児童文学としていかがなものか、なんて、分別臭いことを思いながら、表紙絵のあまりの暗さに惹かれて、つい買ってしまった。
荒涼とした夜の墓場にうずくまる少年、足もとにはぽっかり口を開けた墓穴……

本を開き、本文を読み始めたら、いきなり殺人鬼の登場だ。
闇の中で、血に濡れたナイフを握りしめている男。両親と女の子を惨殺し、あとひとり、ベビーベッドで眠っているはずの男の子を探している……
幸運にも、殺人鬼から逃げおおせた男の子が、この物語の主人公となる。

まだおむつもとれないよちよち歩きの赤ん坊。
逃げるという意識もなく、見えざる何かに導かれるように、墓場にたどりついた。
そこは、大昔からの墓場らしく、千年も前の王様とか、何百年も前の貴族とか、百年も前の将軍とかの墓標が立っている。なかなかの高級墓地のようだ。墓地には門があり、使われなくなった礼拝堂があり、鉄の柵で囲まれている。生きている人間には入りこむことができない場所だ。そこに、殺人鬼の手を逃れた赤ん坊は、入りこんだ。彼には、生と死の境界をまたぐ特殊な能力があるらしい。殺人鬼にいのちをねらわれる理由も、その不思議な血筋にあるらしい。

「らしい」「らしい」と書いたのは、なんだかよくわからないからだ。
ともあれ、殺人鬼は、男の子のいのちを狙っている。墓場の幽霊たちは、男の子を自分で自分の身を守れるようになるまで、墓場で育てようと決議する。男の子にノーボディー(誰でもない)という名をつけたのは、殺人鬼から隠すためだ。

育てるといっても、幽霊たちに何かができるわけではない。生者でも死者でもないサイラスという謎の人物が後見人となり、死者の世界と生者の世界の橋渡しをして、ノーボディーの成長を助けてくれる。

墓場では、幽霊のガールフレンドもできた。魔女狩りで殺された少女ライザ。魔女や犯罪者や異教徒は、柵の外のゴミ捨て場に眠っている。生きていた証として、せめて墓石がほしいというライザ。死んでからも差別は続くのかと思うと、なんだかやりきれない。墓標は生者が死者のために立てるものだ。生きているノーボディーは、死んでいるライサのために墓石を手に入れようと奮闘する。

ノーボディは、サイラスの助力で、生者の世界で学校生活も経験してみた。
とにかく目立たないように、影を薄くして……、殺人鬼にみつかるとたいへんだから……

幽霊たちに慈しまれ、墓場で暮らすこと13年。
死の舞踏会あり、殺人鬼との死闘あり。
血沸き肉躍る展開を経て、主人公が、旅立つときがやってくる。
時間は無限に流れているが、人生は、ほんの一瞬。
生きている貴重な時間を味わい尽くすために、少年は、広い世界に足を踏み出した。


「墓場の少年(ノーボディ・オーエンズの奇妙な生活)」ニール・ゲイマン作/金原瑞人訳(角川文庫)





aotuka202 at 09:22|PermalinkComments(0) 児童文学 | 翻訳文学

2019年10月07日

是非に及ばず――垣根涼介「信長の原理」

小学校一年か二年の時、父が小学生向けの偉人伝「織田信長」を買ってきてくれた。挿絵がたくさん入った、字の大きな本。生まれてはじめて読んだ伝記。子ども向けだから、信長は神々しいほどに天才的英雄として書かれてあった。と、思う。

時代の転変とともに、小説やドラマに描かれる信長像は、ずいぶん変わってきた。
いまでは、織田信長は天才かもしれないがアブナイ人というのが、世の共通認識だろう。
わたしは、信長が好きだけど、ああいう人物とお近づきになりたいとは思わない。
だれが第六天魔王なんかと。恐ろしくって。
遠くから見ている分には飽きない人物として、好きなのだ。

尾張を統一するまでの信長は、かわいそうになるほど孤立無援だった。あの性格じゃあしょうがないとも思うが、支え続けてくれた家臣や小姓衆のおかげで、今川にも勝てたし美濃も征服できた。とりわけ佐久間信盛と林秀貞。時代が時代だから忠義一筋というわけではなかったけれど、うつけの殿を、よくぞ盛り立ててくれたと思う。

さて、垣根涼介「信長の原理」。
信長は、幼少のころにアリの行列を見て、2:6:2の原理を発見をしたという。せっせと働くアリが全体の二割、ほどほどに働くアリが六割、なまけもののアリが二割。働きアリの集団で、この割合は変わることがない、という。信長は、自前の兵団を鍛え上げていく中で、アリのこの割合は、人にも当てはまることを実感する。
信長は、愚か者や怠け者がきらいだった。2:6:2の、しっぽの二割は不要だと考え、容赦なく切り捨てていく。
外から優秀な人材を迎え入れ、さらに競争を激化させる。
集団の質を上げても、やはり、2:6:2の割合で、落伍者は出る。またしっぽの二割は切り捨てる。
そしてついに、大恩あるはずの、佐久間信盛や林秀貞まで、難癖をつけて織田家から追放してしまった。なんともやりきれない。

過酷な競争にさらされている家臣たちの内面を書きながら、信長自身の破滅へとストーリーは運ばれて行く。

常に集団のトップにある光秀と秀吉。主君の異常なまでの効率主義は、彼らにだってつらいのだ。なまじできるから過重な仕事を押し付けられ、責任も重くなる。とうてい受け入れられない理不尽な命令を下されることもある。期待に応えれば、どっさりのご褒美をいただけるが、しくじればどんな仕置きをされるかわからない。
トップの二割だって、身も心もへとへとになれば、しっぽの二割に落ちていくだろう。

光秀の場合それが、謀叛という形で爆発した。
そして、あの華々しい本能寺だ。
「是非に及ばず」と、信長はいったらしいが、こんなふうに人を酷使していれば、やがて自分に刃が向けられると、自覚していたのだろう。

垣根涼介「信長の原理」(角川書店)

aotuka202 at 16:38|PermalinkComments(0) 時代小説 |  ・ 垣根涼介

2019年09月29日

児童書コーナーを救え!奮闘する小学生―――濱野京子「アカシア書店営業中」

宮原大地は、本が大好きな小学五年生。
毎日のように、アカシア書店の児童書コーナーに通っている。

といっても、行くたびに本を買うわけじゃない。
本、とくに児童書は高いから。
「アカシア書店営業中!」だって、1200円(+税)もする。
小学生のおこづかいで買うのは、ちょっときびしい。
大人だって、読みたい本をかたっぱしから買っていたら、破産するから。

でも、本屋さんは、行って本をながめているだけで楽しい。
あ、こんな本もあるのか。おや、お気に入りの作家の新刊が出たのね。なんて。
いろんな発見があって、飽きないもんね。

アカシア書店は、青樹駅の駅前商店街の端っこにある。
なかなか良い立地。
なんといっても町にたった一軒の本屋さんだから、町の財産といっていい。
なのに、その児童書コーナーが縮小されてしまうらしい。理由は、もうからないから。
そんな話を宮原大地は、知ってしまった。
通いつめているから、店員さんたちのヒソヒソ話が聞こえてくることもあるのさ。

さあ、たいへん。児童書コーナーを守れ。宮原大地の奮闘が始まる。

本好き仲間を巻き込んで、あれこれ対策を練るうちに、宮原大地は、「世の中」のことも知って行く。
見ているだけで楽しい児童書コーナーは、売り場チーフの熱意と努力のたまものであったこと。
そのチーフは、契約社員で、店長の方針に逆らうと、クビになるかもしれないこと。
さらにチーフは、同級生のおかあさんでシングルマザー、仕事を失うわけにはいかないこと。

児童書コーナーを維持する条件は、夏休みの間に売り上げ10パーセントをアップを達成すること。
おこづかいをもらったらとにかく本を買おう。常連だけじゃ限界がある。
もっとお客をふやさなきゃ。
目立たない影の薄い子だけど、宮原大地は行動する。友だちに呼びかけ、輪を広げ……

ひっそりと本に読みふけるのも楽しいけど、みんなと行動するのも楽しそうだね、大地君。

伝手に恵まれ、握手会なんて一大イベントを開くことにも成功し、目標は達成できた。
アカシア書店の児童書コーナーを守ることができ、チーフも正社員になることができて、めでたしめでたし。

宮原大地。きみが将来、どんな書店経営者になるか、楽しみにしているよ。

「アカシア書店営業中」(濱野京子・作/森川泉・絵)あかね書房








aotuka202 at 13:31|PermalinkComments(0) 児童文学 

2019年09月27日

ヒロシマ、ナガサキ、チェルノブイリ、そしてフクシマ―――スベトラーナ・アレクシエーヴィチ「チェルノブイリの祈り」

「戦争は女の顔をしていない」(岩波現代文庫)を読んだとき、同じ著者にこの本があることを知った。
スベトラーナ・アレクシエーヴィチは、ウクライナ生まれでベラルーシ育ちの作家。
ベラルーシには、原子力発電所は一基もないという。

ベラルーシの南、ウクライナとの境界近くにあるチェルノブイリ原発が爆発したのは、1986年4月26日午前一時五十八秒。以来、「ベラルーシはチェルノブイリの実験室、ベラルーシ人はチェルノブイリ人と呼ばれるようになった」と、著者は書く。
巻末に添えられた「事故に関する歴史的情報」によれば、「事故の結果、大気中に5000万キュリーの放射性物質が放出されたが、その70%はベラルーシに降ってきた」という。

この本が書かれたのは、チェルノブイリの十年後。著者は、三年間あちこちまわり、さまざまな人から話を聞き集めた。
原発の従業員、医療従事者、農民、兵士、消防士……、男性、女性、母親、父親、老人、子ども、神を信じている人、いない人、インテリ……。
その方法は、「戦争は女の顔をしていない」で戦争の真実を暴き出した時と同じだった。

本編への導入部分で、著者は、自身へのインタビューを試みている。
なぜこの本を書いたのか、この本で何を書きたかったのかを自問自答する形で。
この未知なるもの、謎にふれた人々がどんな気持ちでいたか、なにを感じていたかを書きたかったと、著者は答える。
チェルノブイリは、わたしたちが解き明かさなければならない謎なのだ、と。
チェルノブイリ後、前の世界はなくなり、わたしたちは別の世界に住んでいる、ともいう。
そして、こんな言葉で結んでいる。
「何度もこんな気がしました。わたしは、未来のことを書き記している……」


フクシマが起きるまで、わが国の原発は安全だ、チェルノブイリのようなことは起こらないと、わたしたちはなんとなく信じていたような気がする。少なくとも、政治家たちはそう発言していた。
わが国はかの国とはちがう、チェルノブイリのようにはならないと、わたしも、心のどこかで思っていた。
そんな根拠のないおごりは、3.11でみごとに覆された。

チェルノブイリの人々の証言を読んでいると、マスコミを通じて見聞きしたフクシマのニュースと恐いぐらいに重なる。

チェルノブイリの事故後しばらくして、ゴルバチョフ書記長は言い放ったという。
「チェルノブイリは、完全にコントロールされている」、と。
これと同じ科白を、聞いた記憶がある。
あれは、オリンピックを東京に招致するためのスピーチだった。
「フクシマは、完全にコントロールされている」と、わが国の首相はいってのけた。
社会主義であれ資本主義であれ、国家が国民に向ける顔は同じなのだと思った。


チェルノブイリの大地からは、モグラもネズミもミミズも甲虫もすがたを消したという。
いつか近い未来に、ヒロシマ・ナガサキやチェルノブイリ・フクシマのようなことが起きて、人類が滅亡してしまったとしても、それは自業自得といえるかもしれない。
しかし、地球上に生きる動物や鳥や昆虫や魚たちまで道連れにしてしまうのは、あまりにも罪深いことだ。
悪魔の火を手に入れた人類は、地球上の生きとし生ける命すべてに責任を負うべきだ。

戦争は終わった、しかしチェルノブイリは終わらない。そう証言した人もいた。
それは、ヒロシマ・ナガサキを終わったことにしてしまっていたわたしたちへの、重い警告のようにも読み取れた。

まさにこの書は、チェルノブイリから世界に向けて語る「未来の物語」なのだ。

「チェルノブイリの祈り」スベトラーナ・アレクシエーヴィチ著/松本妙子、訳(岩波現代新書)




aotuka202 at 16:17|PermalinkComments(0) ノーベル文学賞作家 | 翻訳文学

2019年09月21日

人生の扉を開ける―――濱野京子「木工少女」

2011年の3月に講談社から刊行された本です。
図書館の児童書コーナーの本棚に、なぜかさかさまにつっこまれていました。
なおしてあげるつもりで手に取り、そのまま貸し出しカウンターに持って行ったのは、表紙絵の、女の子の後ろ姿がかわいかったから。
コンビニの袋をぶらさげて、バンガローのような家のドアを開けて、中に入って行くところ。おかっぱ頭が、ちびまる子ちゃんに似てるかな? いまはボブヘアっていうらしいけど。

主人公の名は、美楽(ミラク)。小学六年女子。

物語は、美楽の一人称で語られます。
ズケズケとしたものいい、男の子のような言葉づかいと語り口。
勉強はふつう、音楽も体育も得意じゃない、背も高くないし顔もかわいくない、目立つことが苦手。それが、美楽が語る自己像です。
まだ小学生のくせに、世の中から距離を置いて、冷めた目で人や自分を観察しています。引っ込み思案の子を、あなどっちゃあいけません。

美楽は、一年間限定で、山深い峯川村の、峯川小学校に転校してきました。
銀の星高校の英語の先生になったオヤジについてきたのです。
オヤジの任期は一年。だから、美楽の転校も一年限定。


一学年15人の小さな学校。
どこでだれが何をしたかバレバレの、ダダ広いけれど、狭い村。
コンビニ一つなく、夜は、まっくら。
美楽は、学校にも村にも、なじめません、なじもうともしません。
東京にいたときのように、一歩身を引いて、冷めた頭で思うのです。
どうせ1年限定。しょせん自分はよそ者。はやくコンビニのある東京に帰りたい。

そんな美楽を変えたのは、明野工房のデンさんとの出会いでした。
デンさんは、山の木を使って木工作品を制作しています。
棚やベンチやテーブルなどの家具から、ペン立てやブローチなどの小物まで。
デンさんのもとに通ううち、美楽は、自分も木で何か作ってみたいと思うようになります。
やってみるか? デンさんの一言に背中を押され、美楽は、ノコギリを握ります。
不器用だけど、楽しくて、夢中になって取り組みます。
木に向かうことで、美楽は、外の世界に関心を広げていきます。
木のこと、森のこと、山のこと、そこで暮らす人たちのこと。日本の林業のこと、ブラジルの原生林のこと、それを育む地球のこと……

峯川村の主要産業は、林業です。
山林王の川越家が営む川越林業。
デンさんが木工製作に使う木も、川越林業が伐り出したものです。
その山林王の一人娘、優美とのちょっといびつな友情が、物語のもう一つの軸です。
お金持ちの家に生まれ、美人で何でもできる優美の、ままならない夢と葛藤。
一方には、家庭の事情から大学進学をあきらめ、川越林業への就職を決めた、オヤジの教え子の山田。
恵まれた生まれの人もそうでない人も、思うようには生きられない。

ダダ広いけれど狭い村で、美楽が開けたのは、人生のとびらだったのかもしれません。




aotuka202 at 09:11|PermalinkComments(0) 児童文学 

2019年09月17日

流転する世をしなやかに生きよ―――垣根涼介「光秀の定理」

♪一度決めたら二度とは変えぬ それが自分の生きる道〜♪ という歌を聞いたことがある。
タイトルを、「人生一路」(唄・美空ひばり/作詞・石本美由紀)という。
日本人は、こういう生き方に美学を感じるようだ。(外国の人のことはしらないけど)
頑固一徹とか、この道一筋とか……

でも、それじゃあよろしくない。世の中は常に流転するのだから、変節を良しとして、竹のように笹の葉のように、しなやかに生きないと、世の中から取り残されるよ、ぽっきり折れちゃうよ。と、主要登場人物の愚息の口を借りて、作者はいう。

愚息は、遊行層とか、聖とかの類なのだが、宗門や宗派があるわけではなく、仏典の解釈も自己流で、まったく自由気ままな生きざまを見せてくれる。それも、高い知力と武術、元倭寇という人生経験の裏打ちがあってできること。いいたいこといって、やりたいことやって、懐に黄金が転がり込んでくるんだから、うらやましいったらない。

愚息は、辻に茣蓙を敷いて、道行く人を賭けに誘う。
空の椀を四つならべ、そのうちのひとつに小石をしのばせる。
小石は、どの椀に入っている?当たる確率は、四つに一つ、二割五分だよ。
賭け子は、一つを選ぶ。
愚息は、空の椀を二つ取り除く。残りの椀二つに一つ、小石が入っている。
当たりが出るのは五分と五分。
さあ、どっち?最初の選択から変えてもいいんだよ。
変えない人が、ほとんどなのだそうだ。一度決めたら変えたくないという心理が働くらしい。
変えずに、なけなしの銭を取られてしまう賭け子のなんと多いことか……
残った二つの椀のうち、最初に選んだ椀の当たりの確率は二割五分のまま。
残りの七割五分の確立はとなりの椀にある―――これは、定理なんだって。すでに真なりと証明されたこと。そう説かれても、やっぱ変えない、変えられない人もいるだろう。二割五分だって、ゼロじゃないし……

つねに愚息について歩く新九郎という武芸者。剣術の達人でありながら、愚息の生きざまに惚れこみ、崇拝して離れようとしない。新九郎は読者に代わって、愚息の説く理屈に、わからん教えてくれろとせがんだり、おぬしも鈍よの笑われながら、必死に頭をひねって考えたりする。

光秀はうらぶれた浪人時代に、愚息たちと京の辻で出会い、四つの椀に小石一つの賭けを知った。
信長に仕官してからも、自由人の愚息や新九郎との交流は続けた。
その理まではわからぬままに、四つの椀に小石一つの定理を、愚息に教えを請いながら、戦術に応用し、信長に高く評価される。光秀は、日の出の勢いで出世していく。

愚息はいう。光秀や信長は時代の演者よ、わしらは、桟敷席から見物するのみ。

愚息と新九郎は、本能寺の変も、桟敷席から見物していたのだろう。
変に至るまでの光秀の思考や信条は、謎のままだ。なぜなら、天正十年の正月以来、光秀は愚息たちに会いに来なかったから。

本能寺の変から十五年が経ち、愚息と新九郎は、語り合う。無謀な朝鮮出兵で民を疲弊させる、秀吉の治世を嘆きながら。
もし、あれが成功していたら……
それにしても、あやつはなぜあのようなことをしでかしたのか……
日本史上の永遠のなぞなのだから、こたえなんて出るわけがない。
ただ、光秀は、あまりにも多くのものをきまじめに背負いすぎた。
明智一族の運命、信長の期待、所領地の民の安寧……

あのとき、光秀は、四つの椀に小石ひとつの賭けをしたのだろうか。
斉藤利三に椀を四つ並べさせ、「ヤル」と書いた紙片一枚を一つの椀に入れさせる。
空の椀を二つ取り除き、残った椀ふたつ。
「ヤル」かやめるか、ふたつにひとつ。
さあ、どっち?
光秀は、定理にそむいて変えなかったのか。変えたから「ヤル」が出てしまったのか……







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2019年09月11日

心の闇が悪魔を呼び込む――ロバート・ウェストール/金原瑞人訳「かかし」

ひとむかし前、「キレる少年」という言葉が流行った。
ふだんはおとなしい男の子が、とつぜん狂暴になり、恐ろしいことをしでかす。
多くの場合、「心の闇」とセットで語られる。
憎悪とか、孤独感とか、嫉妬とか……人を絶望と破滅に向かわせる負の感情で、「心の闇」はできている。

「かかし」は、そんな心の闇に悪魔を呼び込んでしまった少年の物語だ。

少年の名は、サイモン。13歳。
はじめての事件は、学校の寄宿舎でおこった。サイモンは、ママを笑いものした同級生を、無我夢中で叩きのめしてしまったのだ。気がついたときは、自分も相手も血まみれになっていた。サイモンは、ゾッとした。まるで悪魔の仕業だと思った。
サイモンは、ママを、とても愛している。だから、ママを笑いものしたやつをゆるせなかったのだ。

そのママが、再婚した。サイモンのパパは、職業軍人で、サイモンが幼いころに敵と勇敢に戦って死んだ。サイモンにとってパパは英雄で、遊んでもらった思い出は、宝物だった。ママの再婚は、パパへの裏切りだと思った。

ママの再婚の相手は、ジョー・モートンという有名な風刺画家だった。いろいろ言う人はいるが、悪い人間ではなかった。むしろ、公平で誠実で優しいところもある好人物だ。しかし、サイモンは、触るな、近寄るな、とモートンを毛嫌いする。

ママは、サイモンが苦手だった。死んだパパに似ているから。ママは、19歳のとき、親の強制で結婚した。パパは悪い夫ではなかったが、二人が若すぎたのだろう。情愛の通う夫婦になることができなかった。いや、そうなる前に、パパはママを置いて、死んでしまった。だから、ママはパパのことを憎み、パパに似ているサイモンを、うとましく思うのかもしれない。

妹のジェーンは、父親を知らない。そのせいか、ジョー・モートンにべたべたつきまとっている。サイモンは、そんな妹をウザイと思う。


学校の長い夏休みに、サイモンは家に帰った。
パパとの思い出のあるわが家ではなく、ジョー・モートンのいなかの古い屋敷。
カブ畑の向こうには、水車小屋が見える。
今にも壊れそうな廃屋になった水車小屋に、サイモンは、強く心をひかれた。

家にはアトリエがあり、あいつが絵を描いている。
ママとあいつは、あまったるい声で会話する。
夜は、いちゃいちゃ情事の気配がする。
サイモンは、あいつへの憎悪をつのらせ、家にいるのがいやで、水車小屋に出入りする。
そこは、むかし、二人の男と一人の女が、おぞましい争いを繰り広げたことのある小屋で……

モートンも、ママも、サイモンとの関係を修復しようと努力するが、それはいつも裏目に出る。
サイモンもこれじゃいけない、うまくやろうと、思い直すこともあるが、思いはなぜかすれちがう。

新しい家族に自分の居場所はない。
サイモンの心の闇は、もうまっくろだ。

やがて、水車小屋の前に立った三体の不気味なかかし。
少しずつ、少しずつ、かかしは屋敷に近づいてくる。
サイモンには、わかる。やつらは、自分が心に呼び込んだ悪魔なのだ、ということが……

ぎりぎりのところで、サイモンは勇気をふりしぼり、惨劇をまぬがれた。
手に汗握って読んできた読者は、ほーっと、長く息を吐くことだろう。

絶望と破滅で終わっちゃいけない。だって、児童文学だもの。









aotuka202 at 14:04|PermalinkComments(0) 翻訳文学 | 児童文学

2019年09月08日

人が生きて行くことの罪の深さ――夏目漱石「門」

「三四郎」「それから」「門」の三部作のトリを飾る「門」。

主人公は、宗助、御米の夫婦。
年のころは、はっきり書かれてはいないが、三十代の半ばだろうか。
女中の清と三人で、東京で借家暮らしをしている。
宗助は役所勤め、御米は清とともに夫の世話と家事にいそしむ。
子どものいない、静かな暮らしである。

休暇に遊山を楽しんだり、友人をよんで宴会を開いたりするわけでもない。
夫婦の慎ましい日常を波立たせるのは、妻の病気や弟の小六との同居ぐらい。
そして、ふとしたきっかけで始まった大家の坂井との交流。

どこにでもありそうな夫婦の日常が、四季の移ろいを示す情景描写を織り交ぜて、巧みな文章でつづられていく。
読み進むにつれ、この夫婦には、過去になにか後ろ暗い事情がありそうだということがわかってくる。流産をくりかえす妻の御米には、その事情が原罪のように思われて苦しいのだろうとも見当がつく。
過去に何があったのか。宗助の立場から言えば、親友から妻(恋人)を奪ってしまったこと。御米の立場からいえば、夫(恋人)を裏切り、夫の親友のもとにはしったこと。
そういう事情が、明確にではなく抽象的にしか表現されないことが、二人の胸に刻印された罪の深さをかえって印象づける。

人はだれでも、何十年も生きていれば、後ろ暗いところのひとつやふたつはあるものだ。自分にはやましいところなど一つもないといい切る人は、よほど鈍感なだけだと思う。たいていのひとは、この小説を、身につまされて読むだろう。大家の坂井のように、恵まれた境遇で生長し、何の苦労も不足もなく生きている闊達な好人物でも、それゆえの苦悩はあるだろうから。

宗助は、過去に裏切った親友の影におびえ、禅寺の門をたたく。
十日間の座禅修行を試みたものの、悟りの門の内に入ることはできなかった。

東京に戻れば、平凡な夫婦の日常だ。
役所のリストラにおびえ、五円の昇給を尾頭付きの魚で祝う小市民の生活。
過去の暗い影は胸の奥にしまい込み、今日と明日を生きて行く。

人が生きて行くということの罪の深さを、ありふれた日常の情景に重ねて書き切っている。
文豪にこんなことをいうのは失礼かもしれないが、漱石は小説がうまいなあと、つくづく思った。




aotuka202 at 10:39|PermalinkComments(0)  ・夏目漱石 

2019年09月07日

kndleが動かない!

kndleで夏目漱石の「門」を読んでいた。
読書進捗状況62%、宗助、御米の夫婦の過去に何があったのか、いよいよ明らかにされるという段になって、kindleが固まってしまった。画面がフリーズしてしまってまったく動かない。
こういうこと、まえにもあったなと思い出し、電源ボタンを長押ししてみる。
20秒、30秒、40秒…… 何回も何回も押してみる。
でも、まったく動かない。
「この本を読み終わるまでにあと1時間12分」
しかし、わたしの時は止まったまま。

スマホで検索してみる。「kindleがうごかない」っと。
PCにつないでみたら動いたという答えがあったので、実行してみる。
待つこと2分。
あきらめかけたころに、ポロロンロンと音がして、kindleの画面がしろくなり、やがて見慣れた木の下で読書する人の絵が現われた。

以前より軽快に動くようになって、やれやれ。
こういうこと繰り返して、やがて壊れてしまうのかしらん。


aotuka202 at 22:30|PermalinkComments(0)