・川端康成

2019年04月02日

虹は死者が渡る橋―――川端康成「虹いくたび」

昭和25年3月号から26年4月号まで、「婦人公論」に連載された作品だという。
新潮文庫で読んだ。

母のちがう三姉妹、百子、麻子、若子。
父は、著名な建築家の水原。

百子の母は、百子が幼いころに自殺して、この世にはいない。
麻子の母も死んで、この世の人ではない。
若子の母は、京都の芸者で、若子は母と京都で暮らしている。

百子の恋人は、戦争で死んでいる。
傷心の百子は、美少年をもてあそび、その少年は自殺した。
美少年の子をはらんだ百子は、その子を堕胎する。

過酷な戦争をくぐりぬけたばかりで、死が人々の身近にあった時代とはいえ、きみが悪いぐらいに人が死んでいる、あるいは死んでいく小説である。
生きている人間を書くことで、死んでいる人間の人生が浮き彫りにされていく小説でもある。

戦後間もない時代に、熱海、箱根、京都と遊び暮らす百子と麻子の日常も、異様だ。
少女小説と同じで、そういう浮世離れしたところが、「婦人公論」の読者に支持されたのかもしれないが。

三人の娘の母のうち、水原が結婚していたのは、麻子の母だけである。
百子の母の自殺の原因は水原にあるとは書かれていないが、水原を愛さなければ死ぬことはなかったにちがいない。
麻子の母の死因にはまったく触れられていないが、京都の芸者を愛し子までなさせた夫の行為に苦しめられていたことはまちがいない。

知的で理性的で紳士的に描かれている水原だが、実は、恐ろしい男性なのである。
百子と麻子の姉妹で、父としてではなく男性としての愛を争っているなんてほのめかされては、水原は魔性の男かと思ってしまう。

日本の伝統美を建築家の水原に解説させながらの観光案内のようにも読める一冊だが、タイトルの「虹いくたび」の虹は、人が死んであの世へ渡る架け橋なのかもしれないなと、思った。

そのぐらい死の色が濃い小説なのである。




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2019年03月09日

養女への深い慈しみ――川端康成「天授の子」

川端康成は、45歳の時に12歳の少女を養女に迎えた。
濃い血縁の子だった。

小説「天授の子」では、主人公の作家に定家という名がつけられている。
養女の名は、民子。民子の実母の名は、時子。

民子を養女にもらってから六年後。
定家は、旅行先の広島で、時子危篤の電報を受け取る。
時子はもう死んでいるかもしれないと思いながら、定家は、大阪に向かう。

戦後間もないころである。
広島から大阪まで、普通電車で七時間。
移りゆく車窓の景色さながらに、定家はとりとめもなく思念を巡らせる。

民子をもらいに行った日のこと。
自身の孤独な生い立ち。
流産を繰り返した妻への思い。
戦争中の暮らし。
戦争に敗けた国への思い。
ヒロシマで受けた衝撃……

民子の父は、定家の従兄だった。
放蕩な男で、地主だった家をつぶし、それがもとで、嫁の時子は末っ子の民子だけを連れて婚家を出た。
民子を定家夫妻の養女にと申し出たのは、時子の方だった。
淡々と書かれてはいるが、民子は父からも母からも捨てられた子なのだった。
定家は民子の境遇を、中学生のころに孤児となった自身と重ねて、憐れんだのかもしれない。
大それた決意も覚悟もなく、ごく自然なこととして、民子をもらい受けた。

叔父の家にきて、民子は幸せだったのだろうかと、定家は、静かに自省する。
有名な作家の子になったことを、民子は重荷に感じているかもしれない。
作家という職業が家に陰鬱な空気をもたらし、そのことが妻や民子を苦しめているとも思う。

「親子夫婦の結びつきも、一面は呪縛である」と、作者は書く。
人の世など先はどうなるかわからないから、良くても悪くても、幸でも不幸でもしょうがないと、恬淡としている。

外面的には、精力的に仕事をこなし、妻や娘や故郷の縁者にも心を砕いて動き回る定家だが、心の内は厭世的で、つねに自殺を考えている。

怖ろしいような気もするが、作者は人間の深い真実を書いているとも思った。

表題作の「天授の子」の前に、「故縁」「東海道」「感傷の塔」という三作品が収められている。
「故縁」と「東海道」は、小説とも随筆とも評論ともつかぬ連面とつづられた文章で、未完のままで終わっている。
いったいこれは何なのだと思いながら読んでいたが、「天授の子」を読んで、「天授の子」を書くために作者が考えを整理していたのではないかという気がした。

「天授の子」を読んだあとで、「故縁」「東海道」を振り返ると、作者の養女への深い慈しみ感じられた。






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2018年12月19日

文豪の若き日。失われた初恋――「川端康成初恋小説集」

川端康成の初恋のひととの出会いは、二十歳の一高生のときでした。
相手は、13歳の少女。一高近くのカフェの女給でした。

「川端康成初恋小説集」(新潮文庫)には、そのひとの写真が掲載されています。
はかなげな陰のある美少女でした。

彼は、彼女に夢中になり、婚約にまでこぎつけますが、その婚約は、一方的に破棄されてしまいます。
川端康成23歳、初恋のひとは、まだ16歳でした。

この小説集は、吃瑤鉢局瑤吠けられています。
吃瑤房められた、「南方の火」「篝火」「新晴」「非常」「生命保険」などの一連の作品群は、初恋と失恋の実体験をほとんどそのままに書いた私小説です。
タイトルと登場人物の名前は変えているものの、内容も文章もほとんど同じ。
ほとんど同じことを書いた作品を続けていくつも読んでいるうちに、川端康成の初恋のカタチが、だんだんに見えてきました。

相思相愛ではなかったようです。
彼女目当てにカフェーに通ってくる客は少なくなく、康成は、そのうちの一人にすぎなかったようです。彼女はまだ幼く、熱心に通って口説いてくる客を、上手にあしらう芸も技術も持ち合わせていなかったのでしょう。性急に、強引に、婚約へと突き進んでくる作家志望の帝大生に、ねじ伏せられるように結婚の約束をしてしまったようです。
大正時代、カフェーの女給といえば、女が都会で自立して生きられる数少ない職業の一つでした。売れっ子だった彼女には、自信も自負もあったのだと思います。まだ16歳、結婚という牢獄に閉じこめられるのがいやだったのかもしれません。単に、康成がタイプの男性ではなかっただけかもしれません。『わたしには或る非常があるのです』と謎めいことを書いた決別の手紙を、強引な婚約者に送りつけました。
その手紙を受け取ったときの、川端康成の失望と混乱ぶりは、「非常」を読めば、痛々しいほどにわかります。

局瑤房められているのは、いわゆる「ちよもの」と呼ばれる作品群です。
川端康成の初恋の人の名は、初代といいました。初代さんは、東北の生まれなので、「つ」を「ち」となまって、「はちよ」ということもあったそうです。

大正8年に一高の校友会雑誌に発表された「ちよ」という作品は、怪談めいた、ちょっと怖い小説です。自身の孤独な生い立ちから、千代松という名の故郷の男に祟られ、恋をする相手は必ず『ちよ』という名の女になるというような――

失恋の傷心の中で、その経験をモチーフにして数えきれないほどの作品を書き、作家としての地歩を固めていったのは、さすが未来の文豪です。
一方の初代さんだって、丙午の女。情熱的な波乱万丈の人生を送ったようです。
幸せであったかどうかは、本人のみぞ知るところですが。


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2018年10月22日

船出の日まで――川端康成「乙女の港」

昭和12年から13年にかけて、「少女の友」(実業之日本社)に連載された少女小説です。2011年に実業之日本社から文庫化出版されたものを読みました。
「少女の友」連載当時と同じ、中原淳一の挿絵が添えられています。

昭和十二年といえば、川端康成は「雪国」を刊行し、すでに文壇に確固たる地位を築いていました。少女小説なんか、ほんとうは書きたくないけど生活のために書いたというのではないようです。巻末の解説によれば、川端康成自身が、少年時代に「少女の友」を愛読していたそうです。オファーがきたときは、きっと喜んで執筆陣に加わったのでしょう。

「乙女の港」は、海の見える港町にあるミッションスクールが舞台です。
幼稚園から、高等部の上の専修科まであり、裕福な家庭なお嬢様たちが学ぶ学校です。
中等部の入学式の日から、物語は始まります。
小柄で美しい三千子のもとに、上級生から、まるで恋文のような手紙が二通舞い込みます。
一人は五年生の洋子。もう一人は、四年生の克子。
三千子は、洋子の人柄と美しさに惹かれ、エスの関係を結びます。
洋子は、ただの苦労知らずのお嬢様ではありません。
三千子は、どんな不幸にも動じず、おだやかな笑顔で前を向く洋子に、深く心を寄せていきます。

ふたりの間に割って入ろうとするのが、克子です。
はなやかで美しく、競争心が強く、勝気。公平で正義感も強く、人をも自分をも、厳しく鞭打つ。
夏休み、三千子が軽井沢に避暑に行くと、たまたま克子もそこにいて、ひと夏をともに過ごします。
洋子を裏切るようで心苦しさを感じながらも、克子にふりまわされる三千子。
エスが姉妹のエスならば、三人姉妹でいいじゃないかと思うのですが、恋人や夫婦と同じで、お互いが唯一無二の存在でなければだめなようです。

物語は、洋子の卒業で幕を下ろします。
乙女の港とは、世間の荒波から隔てられた女学園のことをいうのでしょう。
卒業は、船出を意味します。
「わたしたちは、一生一緒にいることはできないのよ」と、洋子はいいますが、ふたりの友情よ永遠にと、昭和の少女たちは、願いながら本を閉じたことでしょう。

それにしても、川端康成という人は、乙女(少女)がすきなんだなあと思います。
「竹取物語」の解説で、かぐや姫のことを、「一個の可憐な乙女」と書いていた人ですから。





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2018年09月14日

ノーベル賞作家最後の少女小説――川端康成「親友」

小学館の月刊誌「女学生の友」に、昭和29年1月から30年にかけて15回に分けて連載された少女小説です。小学館文庫で復刊されています。

都内のとある中学校の1年B組、新学期の一日目から、物語は始まります。
「ふたりの少女」と小見出しの付けられた最初の章は、クラス担任の高田先生の視点で書かれています。受け持ちのクラスには、18名の女子生徒がいるのですが、安宅めぐみ田村かすみが、双子でもないのに瓜二つなので驚く、という内容です。めぐみとかすみが、どれほどそっくりかを読者に伝えるために、先生の目を借りたのでしょう。高田先生の視点で書かれたのは、この章だけでした。

めぐみとかすみは、誕生日までもが同じでした。二人は、お互いに親しみを感じ、仲良しになります。めぐみは、何一つ欠けることのない恵まれた家庭の女の子ですが、かすみは、母一人子一人の寂しい家庭の子です。かすみのさびしい境遇が、ふたりの友情にも影を落とします。

ストーリーの展開が早く、次から次へと小さな事件を起こしていく手法で、読者をひきつけます。
文章は平易なのですが、ときどき、ハッとするような見事な表現があります。
例えば、かすみが、初めてめぐみの家を訪れる場面。めぐみのおかあさまが、娘たちを出迎えるために、玄関に立っています。

色白にふっくらと太って、幸福が迎えているようです。

めぐみの家が、善意と思いやりにあふれた、笑い声の絶えない家庭であることが、過不足なく表現された見事な一行だと思いました。

昭和29年の時点で中学生ということは、登場する子どもたちは、昭和13年から16年の生まれでしょう。彼女たちの家庭は、運不運の差はあっても、戦争による傷を負っています。かすみが母一人子一人なのも、おとうさまが戦争で亡くなったせいです。おとうさまの遠い親戚のお金持ちのおじさまから、おかあさまが経済的支援をうけていることに、かすみは少女らしい潔癖さで、反発しています。かすみが、「おねえさま」とあこがれる坂本容子も、大陸でおとうさまが戦死、兄は東京の空襲で行方不明になってしまいました。

「伊豆の踊子」や「招魂祭一景」などの作品を読むと、川端康成が、旅芸人やサーカス団などの漂泊の民にシンパシーを感じていたことがわかります。この小説にも、そういう人がでてきます。坂本容子の兄の郁夫。東京空襲の混乱の中からいのちを救ってくれたのが、テキヤの五平おじさんでした。フーテンの寅さんのような人です。郁夫は、七年間も、五平おじさんと旅から旅へ、日本全国を怪しい薬を売り歩いて暮らしました。東京にもどってきたとき、偶然におかあさまにみつけられ、家に帰ることができたのですが、なかなか市民社会になじめさません。善良な市民ばかりの登場人物の中に投げ込まれた、アウトローの悪のエッセンスとして、郁夫の存在は、読者に緊張感を与えます。

わずか7,8か月の間の話なのですが、少女の読者は、かすみとめぐみの永遠の友情を信じて本を閉じることができるでしょう。その父母や祖父母の年齢の人が読めば、ちょっと不穏な陰を感じるかもしれませんが……

本文のところどころに、連載当時の玉井徳太郎氏の甘美なイラストが載せられています。ついうっとり見とれてしまうような。



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2018年03月11日

少女は満月をのんで死んだー―川端康成「名月の病」

「伊豆の踊子」と同じ年に、「都新聞」に掲載され、その後埋もれてしまっていた作品だそうです。
「新発掘作品」として、「2018年新潮4月号」に掲載されていました。

短いのです。短編というより、掌編。一段組で見開き二ページ。

少女が温泉の湯に映った月をのんで、二日患って死んでしまうという話です。

少女は、山から来たばかりの宿の女中です。
野性味のあるどこか神秘的な女の子なのでしょう。
宿の仕事が終わって、もう夜もおそいのに、湯殿ではなく、河原に下りて外湯に入るのです。
湯の面には、大きな満月が映っています。

さっきの少女が湯から胸を出してヤマネコのように目の前の月を睨んでいた。かぶっと月に噛みついた。そして、頬を膨らませながら力一ぱい湯を吹き出した。月のかけらが銀の砂のように散った。

うっとりするような文章です。繰り返し読んでしまいました。
山という異界から来た少女は、湯に映った月という神秘的なものを狙って食べて、死の世界へいってしまったんですね。
月と少女。かぐや姫を連想します。

大正時代の話なのですが、宿の温泉が男女混浴なので、ちょっとびっくり。
脱衣所も、いっしょみたい。
男湯と女湯が分けられたのは、いつごろからなんでしょうね。

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2016年10月02日

永訣を重ねる――川端康成「葬式の名人」(塩見鮮一郎編「被差別文学集」より)

川端康成は、幼少のころに両親と死別した。
祖父母のもとで育てられたが、8歳の時に祖母が死に、16歳の時には祖父も死んだ。
祖母と祖父の死の間に、姉も死んでいる。
16歳で祖父の葬式の喪主を務めた康成は、従兄たちから「葬式の名人」と呼ばれるようになる。
作者24歳の時の作品で、肉親の縁薄い作者の寂しさが、ひしひしと伝わってくる。
この小説が、河出文庫『被差別文学全集』(塩見鮮一郎編)に収載されている。
この作品がなぜ被差別文学集に?と、最初は腑に落ちなかったが、巻末の作品解説を読んで、ああ、と思った。
川端康成は、73歳で自死した。
死後、その理由を探索した小説が出版された。少女のような家政婦への失恋が原因だとか、その少女の出自は……とか。
川端康成は、踊り子や温泉街の芸妓や曲馬団の娘など、社会の底辺を漂流するように生きる少女をよく書いた。自身の初恋の人も、田舎から出てきたカフェの女給だった。
同情とか、哀れみとか、義憤とか、思想からくるものではない、被差別の側にある人に親しみを感じ共感する魂の持ち主だったのだと思う。
それは、「16歳の日記」や「葬式の名人」に書かれたような、彼自身の生い立ちによるものではないか。
多感な時期に、肉親との永訣を重ねた。そのことが、自死の遠因になっているように思う。
日本の文豪が、ゲーテのように十代の少女に恋をしていたとしても、少しも不思議ではないけれど。
恋人の出自を気にするような文豪じゃないさ!


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2016年01月14日

文豪も虜になった――川端康成訳「現代語訳 竹取物語」

1937年に発表された作品である。川端康成三十八歳、「雪国」が書かれたころか。
河出文庫で読んだ。とくにぶっとんだ訳というわけではなく、ごくふつうの「竹取物語」なのだが、後半の本人による解説に読みごたえがあった。
学者ではなく作家の目で、小説「竹取物語」を分析している。
「竹取物語は小説として、発端、事件、葛藤、結末の四つがちゃんとそろっている」「一種象徴的な美しさと永遠さと悲哀があっていい」と、べた褒めである。超自然な不自然なことを堂々と書いても、おかしいと感じさせないところは、古代人の太い神経、古代文の現代文の及ばない簡潔さ、そして作者の腕の賜物なのだという。
五人の貴公子の求婚の段は、「いろいろの人間の型を出してきて、それをかぐや姫の前で踊らせる。作者の腕には侮りがたいものがある」と、高い評価。
かぐや姫の昇天の意味については、こんなふうに書いている。
「かぐや姫の昇天は、この世に失望した人の昇天である」
かぐや姫が、周囲のすべての人間を一蹴したのは、彼女の「高い清純さ」のためだという。
いかに高い清純さのためとはいえ、現実を軽蔑した者のさびしさを、彼女もまた受けなければならなかった。
「この物語は、一種のペシミスティックな色を帯びている。と同時に、理想に対するほのかな憧れを持っている」
川端康成は、かぐや姫のことを「一個の可憐な娘」と書く。
月から来た美少女は、昭和の文豪も虜にしちゃったみたい。







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2015年12月27日

北條民雄の死を悼む――川端康成「寒風」

「その作家が死んだという、癩院からの電話は、十二月の夜明け前、ベルの音まで氷原の中でのように響いた」
その作家のモデルは、北條民雄である。
北條民雄が東京の全生病院で、腸結核のため二十三歳の若さで逝ったのは、昭和十二年十二月五日のことだった。
全生病院はハンセン氏病患者の隔離病院だった。一旦入れば、まずは終身出られない。
当時、ハンセン氏病は、業病と恐れられ、忌み嫌われた病気だった。
患者は、社会生活を捨て、肉親との縁を絶って入ってくる。北條民雄も、入院の前に父親から籍を抜かれていた。
『寒風』は、北條民雄の訃報を受け、文学の師であった川端康成が、全生病院に駆け付けたときの一部始終を小説にしたものである。
昭和十六年から十七年にかけて、雑誌に発表された。
その作家の死後、時を経て書かれたせいか、亡くなった当日のできごとを柱に、後に故人を巡って起きたできごとへの作者の思いも入り混じる。
「彼の現身は人知れず生き、人知れず死に、ただ彼の作品だけが世に出ているとしてやりたかった」と、作者は書く。
その配慮は、川端康成と北條民雄の書簡集からも十分に読み取れた。
後日、故人の人となりを誹謗する文章を発表した癩院の医師がいたらしい。
作者は、死者を言葉で鞭打つその行為を、静かに憤る。
孤独に心を高くもてと、手紙の中でくり返し故人に助言した真意を語る。
死屍となった故人と対面したあと、作者は、故人の文学仲間と面会する。
院内の文学青年たちが、大きなテーブルをはさんで、作者の対面に居並んだ。
作者は、厳かな筆致で書いている。
「一斉にこちらを注視している青年達から、異様にひたぶるなものが私に迫ってきた」
「文学の厳粛な姿と対面しているようだった」
一日の終わりに、院内の「有毒地帯」と「無毒地帯」を分ける溝を渡っているとき、若い看護婦が駆けるように通りすぎて行った。寒さのために赤くそまったその人の足を見て、作者は胸を温かくする。
作者の故人への愛情が切々と伝わって来るような追悼小説である。







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2015年12月24日

孤独に心を高く――北條民雄、川端康成との往復書簡(九十通)

七條晃司は、十八歳のとき(1933年)、ハンセン氏病の診断を受けた。
翌年の五月に、父に付き添われ、東京の全生病院に入る。
父は徳島から上京する前に、発病した息子の籍を抜き、東京蒲田を本籍とする手続きをすませていたという。
病気治療のための入院というよりも、社会からの隔離収容だった。
三か月後の八月、彼は、川端康成に手紙を書く。
自分は、ハンセン氏病で入院していること。ずっと前から文学に励んでいること。作品を読んで批評してほしいこと。すがるような必死さで、川端に請い、訴えた。
返事が来たのは、二か月後だった。温かい内容だった。「お書きになったものは拝見いたします」「現実を生かす道も創作の道にありましょう」「文学の御勉強を祈り上げます」
川端の励ましに狂喜し、業病を病んだ青年は、創作に励む。書き上げた「間木老人」を川端に送る。
約束通り、川端は、無名の青年の作品を読んだ。「感心しました」「私共から見ても書く価値あるだけ、よいものです。発表するに値します」「立派なものです」。青年の病身をいたわりながら、励ましと賛辞を書き送った。
最初の返事は、過酷な運命を背負った青年への同情と作家的好奇心が書かせたのかもしれない。作品を読んでからはちがった。川端は、青年の才能を確信し、添削や批評を書き送るばかりでなく、作品の発表のために奔走する。よい筆名をつけることも提案し、二転三転した末、北條民雄という名が決まる。
「北條民雄 小説随筆書簡集」(講談社文芸文庫)には、北條民雄と川端康成との往復書簡九十通が収められている。そのうち川端から北條に宛てたものは、二十通余りしかないが、それらの手紙の文面からは、川端がいかに北條の才能を愛したか、過酷な境遇にある北條をいたわり、作品だけが世に出るように心を砕いていたか、痛いほどに伝わってくる。
「ほんとうに書きたいものだけを書く習慣を守りなさい。そしたら、あなたは文学にとっても同病者にとっても、尊い存在になりますよ」「原稿の註文は一切小生という番頭を通してのことになさい。でないとジャアナリズムは君を滅ぼす。文学者になど会いたいと思ってはいけません。孤独に心を高くしていることです」
川端の励ましで書きあげた「いのちの初夜」は、芥川賞候補にもなった。
昭和十二年九月二十七日、北條民雄は川端康成に短いハガキを送っている。
「胃腸病が悪化したので、また重病室へ入室加療することになりました。体の具合の良い時をねらって、続重病室日記を書こうかと思っています」
北條民雄が二十三年の生涯を閉じたのは、その約二か月後、十二月五日のことだった。死因は腸結核だった。




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