・車谷長吉

2015年05月23日

愛し愛されることの残酷――車谷長吉「武蔵丸」

一匹のカブトムシが、車谷夫妻の家に来て死ぬまでの話である。
公園で見つけて捕まえたカブトムシに、子のない夫妻は「武蔵丸」と名づけ、わが子のように慈しむ。
高価なメロンを餌に与えた。
籠に入れて、温泉旅行にも連れて行った。
どんなに愛され大事にされても、カブトムシには、さぞ迷惑だったろう。虫としての一生を奪われ、人間の愛玩物にされてしまったのだから。
秋になって発情し、車谷氏の指にしがみついて射精するシーンは、何回も読み返してしまった。カブトムシの神さまから与えられた「種の存続」という使命を、必死になって果たそうとしているようで、痛々しくいじらしかった。
精子を出し尽くしてからも、武蔵丸は生きた。野生のカブトムシなら、交尾を終えて、コロリと逝っただろうに。足は折れ、羽の色は光沢を失い、ボロボロになって生き続ける武蔵丸の姿は、「両親」の愛に必死に応えようとしているようだった。
十一月十九日、武蔵丸は一生を終える。子のない夫妻に「仕合せ」を贈った四か月だった。
愛し、愛されることは、残酷なことだと思った。

この作品、光文社文庫の恋愛小説アンソロジー「感じて。息づかいを。」で読んだ。
選者は、川上弘美。











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2009年09月14日

自虐自嘲の私小説――車谷長吉「贋世捨人」

車谷長吉という作家の小説は、一冊読むと、次から次へと読みたくなる。

私小説だそうで、ふつうの人なら秘めておきたい心の恥部を、これでもか、これでもか、と暴いて見せてくれるから。
見てはならないものを見たときの、隠微な快感があって、やめられなくなくなってしまう。

「贋世捨人」には、主人公の高校時代から、大学、サラリーマン生活を経て、旅館の下足番や料理屋の下働きを遍歴し、文士になることを決意するまでが、書いてある。
生島嘉一というのは、もちろん車谷長吉のことだろう。

自虐的で露悪趣味の作者だから、生島嘉一のダメっぷりが、めんめんと書き綴られているけれど、だまされちゃいけない。
彼は、優秀なのである。

不本意に入学した底辺の公立高校から慶応の文学部に合格したり、
朝日新聞の中途入社試験に合格したり、たいしたもんだわ。
なんといっても、どこへ逃げても追いかけてきて、原稿をせがんでくれる編集者がいた。
まれに見る才能の持ち主だってこと、見る人が見れば、わかったのよ。

へー、と思って読んだのは、生島嘉一が「現代の眼」の編集者をしていたときのこと。
「現代の眼」というのは、六十年代から七十年代のころにあった、新左翼のオピニオン雑誌。
極左の論陣を張りながら、実は、右翼の大物から資金が出ているのだという話は、当時から怪談のように語られていた。
あの話は、ほんとうだったのね。
もし、松本清張が、そんな出版社で働いていたら、社会の矛盾と巨悪を暴く、社会派ミステリーの大作を書いただろうに。
車谷長吉は、作品世界を、個人的精神世界から広げようとはせずに、心に深く深く穴を掘り続ける。

aotuka202 at 21:24|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2009年03月13日

やぶれかぶれに五体震わす――車谷長吉「忌中」

「私ども夫婦は、平成五年十月十七日に結婚した。私は四十八歳、嫁はんは四十九歳、ともに初婚だった。」いきなり、こんな自己紹介から始まる。車谷長吉の「古墳の話」。嫁はんの友人から、結婚祝いに磁器の大皿をもらったのだそうだ。しかし、「私」は、その友人に敵意を抱いている。なぜなら、彼女が死刑廃止論者で、そのための活動をしているから。「私」は、死刑存続論者である…。と、話は、続いていく。小説らしからぬ書き出しに不審を抱いていると、「昔、私の女友達も強姦殺人の憂き目にあった」と、一気に小説世界にひきずりこまれた。
 そこから始まるのは、高校生の初々しい初恋の物語。古墳の多い町で、古墳めぐりの好きだった男子高校生が、やはり古墳好きの女子高校生と、なんとなく惹かれ合うようになる。初めてデートの約束をしたのだが、約束の日時、約束の場所に、初恋の人は、ついに現れなかった。彼女は、見知らぬ男に誘拐され、強姦され、殺され、田植えの終わった田に埋められていたのだった。九回目の結婚記念日に、「私」は、瓢塚古墳の天辺に上る。そこは、初恋の彼女と訪れるはずだったところ。「私」は、故人の慰霊のための祝詞を読み上げる。それは、禍々しい終わり方をした初恋の清めの儀式でもあったのだろう。
文春文庫・車谷長吉作品集「忌中」に収められているのは、禍々しい終わり方をした男女の愛の話ばかりだ。
「三笠山」は、一家心中。始まりは、やはり、高校生の男女の純愛だった。一途な愛が実って結婚し、幸福な家庭を築いていたものの、商売に行き詰まり、借金の返済に困り、ギャンブルに手を出し、にっちもさっちもいかなくなって、幼い二人の子を絞殺し、夫婦は、三笠山の林道奥深くで排ガス心中をする。最後の最後まで激しく求め合う夫婦。作中に引用されている吉野秀雄の短歌が、またすごい。

 ひしがれてあいろもわかず堕地獄のやぶれかぶれに五体震はす

表題作の「忌中」は、妻殺しの話。夫が、治る見込みのない病気に苦しむ老妻を殺し、遺体を茶箱に押し込めて、押入れに隠す。彼は、毎日腐れて行く妻の死体をながめ、腐臭を胸深く吸い、安心して眠りにつく。自分もやがて死ぬつもりで、消費者金融から借りられるだけの金を借り、公衆浴場の若い女に入れ揚げ、将棋仲間の家に、将棋を指しに通う。そして、サラ金から督促の手紙や電話が届くようになったころ、裏に遺書、表に「忌中」と書いた紙を玄関に張り、最後に白骨化した妻の死体をながめ、首を吊って果てるのである。
作品の結びは、短い新聞記事である。夫の自殺は、妻を殺してから二ヵ月半後だった。それまでに夫が逮捕されなくてよかった。夫婦心中を完成させることができたから。
忌中 (文春文庫)
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2008年11月15日

中毒になるようなおもしろさ――車谷長吉「吃りの父が歌った軍歌」

車谷長吉の「吃りの父が歌った軍歌」。

弟が、行きずりに出会ったアメリカ人の青年を家に連れてくる。ベトナム戦争が泥沼化していた1970年ころの話。アメリカ青年の名は、ガザニガさん。彼には、召集令状が来ていた。入隊までの少しの暇を利用して、あこがれの日本を旅行しているのだった。戦地へ赴く異国の青年のために、父と母と弟は、送別会を開き、父は餞に軍歌を歌う。

 勝ってくるぞと勇ましく…

こんなふうに書くと、ずいぶん美しい話のようだが、とんでもない。骨肉の恥部を曝け出した、気が重くなるような私小説だ。

主人公の「私」(行蔵)は、東京の大学を出て就職したものの、会社を逃げ出すように辞め、実家に寄生して、小説を書いている。五歳年下の弟は、工業高校を出てから、職が定まらず、アメリカに無銭旅行に行ったり、奉仕活動に首を突っ込んだりしている。

仲の良い兄弟ではない。まったく異質の個性である。行蔵は、たぶん、愚鈍な弟のことをバカにしていた。嫉妬もしていただろう。弟は、いつもニコニコ人の好い笑顔を浮かべ、母に偏愛されていたから。

やがて、弟のもとに、ガザニガさんの両親からガザニガさん戦死の報せが届く。アメリカは、徴兵制を廃止して、志願制に切り替えていた。アメリカ大使館にも、義勇兵募集の広告が出ていた。弟は、それに応募して、ベトナムへ行ってしまう。そのころ、行蔵は、実家に居辛くなり、料理屋の下働きや旅館の下足番をして、口を糊する漂流生活をしていた。

弟が、小説を書く兄に、「僕も言葉が欲しいわ」と、打ち明けるところがある。私小説を書くということは、心の内奥を照射して、「私とは何者か」を突き詰めていくことだろう。弟は、小説を書く兄とはちがった方法で、「私は何者であるか」を、激しく突き詰めて生きていたのだと思う。

弟が生きて帰ったかどうかは、わからない。
この作者の作品をいくつか読んでいけば、きっとどこかに後日談が出てくるだろう。この小説の中では、弟の名を「のぼる」という。のぼるくんの安否がわかるまで、車谷長吉の小説を読み漁ろうと思った。
それにしても、私小説がこんなにおもしろいとは思わなかった。中毒になるようなおもしろさだ。

新潮文庫「塩壷の匙」所収

塩壷の匙 (新潮文庫)
塩壷の匙 (新潮文庫)


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2008年10月21日

暴露の暴力、自虐の刃――車谷長吉「漂流物」

 新潮文庫で車谷長吉「漂流物」(新潮文庫)を読んだ。表題作の「漂流物」の他に七編の私小説が収められている。

「蟲の息」「木枯らし」「物騒」「めっきり」と並んだ小編は、随筆のような身辺雑記のような文章の中に、突然、超現実的なことが起って、頬を叩かれて目が覚めるような感じになる。作品の中にフルネームで個人が登場すると、この人、実在の作者の知人なのかしら、なんて変なことを考えてしまう。いったいどこまでが作者の実体験でどの辺が創作なのかしらと、詮索したくなるのが私小説の罪なところ。
「愚か者」は、思い出雑記のような小編や掌編の寄せ集めで、かなりおもしろい。遠い過去の出来事でも、つい昨日あったことでも、目の位置を変えて見て文体を工夫して書けば、おもしろい話になるものだなあと感心する。派手なストーリー展開や奇を衒った設定が、小説の面白さの本質ではないのだと思った。

「抜髪」は、母親が息子に延々と説教する形で書かれているが、うんざりするほど自虐的だ。母親は息子の分身で、その分身がばっさばっさと言葉の刃で切りつけてくる。書くことの罪深さ、書いて富や名声を得ることのいやらしさを、息子が血だらけになるまで言い募る。
「漂流物」は、作者が会社員生活を捨て、書くことも捨て、住所不定の漂流生活をしていた時に出会った青川さんという人の語りを主に書かれた話だ。長い身の上話の中で、青川さんが、行きずりの子どもを殺してしまったことを告白すると、読者の眠気はふっとんでしまう。は、はあ、私小説は、こうやって創るのか、と納得してしまったのは、一人合点というものか。

aotuka202 at 14:57|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2006年04月15日

『赤目四十八滝心中未遂』

 車谷長吉作、第119回直木賞受賞作。

これぞ、文学。こういう、魂の底に下りてくるような私小説が、直木賞を受けることもあるのだと、少し驚いた。直木賞は、もっと娯楽性の強い作品に授与されるものだと思っていたから。

 「私」は、東京の一流の大学を出て、一流の会社で会社員生活を送っていたが、身を持ち崩し、「漂流物のような生活」を経るようになり、六年目に尼崎へ流れ着く。
 老朽化した木造二階建てのアパートの二階で、「私」は、病死した家畜の臓物を串に刺す仕事で糊口をしのぐ。そのアパートの住人は、刺青の彫師、その情婦、ゴミ箱をあさって生きる老夫婦、などなど。
 
 彼らは、社会の塵溜めで、腐臭を放ちながら、命を削って生きている。 そういう人々を、作者は、畏敬と共感の気持ちをこめて、淡々と描ききる。

 「私」は、刺青師の情婦アヤちゃんと、関係を持ってしまう。アヤちゃんは、在日朝鮮人で、バタ屋部落で生まれ育った。背中には、鳳凰の刺青があるような女だ。
 そのアヤちゃんの兄が、競馬で作った借金の穴埋めに、一千万でアヤちゃんを福岡の暴力団に売った。
 アヤちゃんは、福岡行きを拒否し、「私」に一緒に死んで、と言う。
「私」とアヤちゃんは、死地を求めて赤目四十八滝を彷徨うが・・・

 文章も見事だった。ああ、そういえば、日本語には、こういう言葉もあったんだ、と何度も「発見」させられた。
 例えば、「ししむら。」「さかしら。」「すさび。」
 「ししむらをむさぼる。」なんて、いつか、何かを書くときに、使ってみたい。
 
『小説を書くなんて、池の底の月をざるで掬うようなもの』なのだそうだ。
 掬ってください、何度でも。すばらしいです、堪能しました。
 車谷さんの小説世界。
赤目四十八瀧心中未遂


aotuka202 at 15:17|PermalinkComments(0)TrackBack(0)