た行

2017年06月12日

熱く輝いて燃え尽きる――高山文彦「火花 北条民雄の生涯」

ずっと読みたいと思っていた本だった。キンドル版で復刻されているのをみつけ、迷わずダウンロードして読んだ。
川端康成との往復書簡や、「寒風」をすでに読んでいたから、新しく知ることはあまりなかった。それでも、読んでいると胸が熱くなった。
第一章で、著者は、北条民雄の故郷を訪ねる旅をしている。四国徳島。海と山と川のある町。著者は、北条民雄の未完の小説「鬼神」の一節を頼りに、出身の町と遺骨の一部が眠る墓を探し当てる。こんもりした小さな丘の上に、墓地はあった。癩を病んだ若者を追放した村である。立ち並ぶ墓石の中に、北条民雄の実名を刻んだものはみつけられなかった。旧い大きな家だったという生家も、いまでは絶えてしまったのか、当時をしのばせるものは、裏庭の大きな夏ミカンの木だけだったという。
読み終えてから、「火花」というタイトルの意味を考えた。
社会的生命を絶たれ、肉体が崩れいき、それでもなお生きてそこにあるいのち。何度も自殺を思い立ったが死にきれず、生と死のはざまで揺れ続け、むき出しのいのちを見つめ続けた北条民雄の短い生涯は、周囲を焼き尽くすほどの熱をもちながら、一瞬だけ輝いて燃え尽きる「火花」に似ている、と。



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2017年05月20日

ビューティフルチャイルド――トリイ・ヘイデン「ヴィーナスという子」

これはノンフィクションなんだと、自分に言い聞かせながら読む。ヘイデンの本は、どれもそうだ。「ヴィーナスという子」も、例外ではなかった。
トリイは、学習障害の子のクラスを受け持つことになった。
ヴィーナスは、トリイの受け持ち児童の一人で、選択性無言症。しゃべらないばかりか、無表情で、動くことさえしない。立ったら立ったまま。座ったら座ったまま。泣きもしなければ笑いもしない。この子の背景に何があるのか、トリイはヴィーナスを救うことができるのか。
ノンフィクションなのに、ミステリーのようなおもしろさがある。ヴィーナス以外の子どもたちのことも、ていねいに書かれているので、ひとりひとりの子どもが、とても魅力的だと思う。
知的な能力が低い子に対しても、幼児に対しても、言葉を尽くし、心をこめて語りかけるトリイの姿勢には頭が下がる。
ヴィーナスは、貧しい移民労働者の子だ。母親と、その情夫と、九人の異父兄弟と、トレーラーハウスで生活していた。一番上の姉には知的障害があり、彼女はヴィーナスを「ビューティフルチャイルド」と呼んで、学校へ連れてくる。ヴィーナスは、実は、この姉が産んだ子だという話さえあった。父親は、母親の以前の情夫だという。性的虐待の果てに生まれた子なのだ。
そして、ヴィーナスが母親の情夫から受けていた酷い虐待。
母親とそのオトコと、父親のちがう兄弟姉妹という家族は、母系の部族社会では、ごくふつうのものなのかもしれない。移民の個人も家族も、アメリカという文明社会に適応できないまま、貧困に陥り、心も家族も病んでいくのだろう。
ヴィーナスは、氷点下が続く真冬に何日もバスタブで寝かされ、意識不明になって病院に運ばれた。両親は逮捕され、ヴィーナスと兄弟たちは、それぞれちがう里親のもとで養育されることになった。
やれやれよかったと思うが、一番上の姉と別れ別れになったことを、ヴィーナスはうつになるほど悲しんでいた。
人の脳や心ほど不思議なものはない。トリイの本を読むたびにそう思う。



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2017年04月28日

憎しみを制御して生きる――トリイ・ヘイデン「檻のなかの子」

いままでに読んだトリイの本の中で、いちばん恐かった。
ケディは、十七歳の思春期の少年で、身長が180センチもある。
幼少期に義父から酷い虐待を受け、精神に重い障害を負ってしまった子だ。
誰とも口をきかなくなった。
目に見えるもの耳から入る音の多くに、恐怖心を示した。とりわけ水を怖がった。
トリイは、そんな少年と、鍵のかかった狭い部屋に二人きりになり、治療という名のセッションを行う。
トリイも少年に負けないぐらい大柄だというが、まだ二十代の若い女性だ。
だいじょうぶだろうかと、不安な気持ちになって読んでいった。
何年も話すことを拒否していたために、ケディは、声を出すことすらできなくなっていた。
極度の水恐怖症のため、何年も入浴もシャワー浴もしておらず、身体から悪臭を放っていた。
トリイの熱意と愛情は、そんなケデイの心を徐々に開かせ、快方に向かわせていく。
明らかになっていく、彼が過去に受けた身も凍るような虐待の数々。
ノンフィクションなのだが、たくみに伏線がはられた構成で、ドキドキしながら読み進んだ。話せるようになったケディがトリイに見せるようになったのは、虐待を加えた義父に対する強い憎しみであり、殺意だった。憎しみは、ときどき狂暴な発作となって現れ、他者や自身を傷つけた。
いったいこの少年はどうなってしまうのだろう、サイコパスやシリアルキラーにならなければいいが…… 小説ではなく、ノンフィクションだからこそ、不安にさせられた。
ケディは、絵が上手だった。トリイが、ケディが描いた絵を文章で表現しているのだが、それを読む限り、彼は、天才と思われるような絵の才能があった。
これが小説だったら、生涯を精神病院で送った天才画家の物語になったのではないかと思わせるほどに。
画家にこそならなかったが、ケディの話は、明るい未来を予感させる終わり方をしている。
しかし、十八歳はまだまだ人生の入り口。幼少期に受けた心の傷を、うまくコントロールしながら、どうか穏やかに生きていけますようにと、祈らずにいられない。


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2017年04月11日

親が子を傷つける――トリイ・ヘイデン/入江真佐子訳「霧のなかの子」

トリイ・ヘイデンの本を読むのは、これで四冊目だ。前に読んだ三作では、トリイは教師として情緒障害の子に関わっていた。この本では、精神病院のセラピストとして精神を病んだ子を治療している。
カサンドラという名の8歳の女の子は、他人や自分を傷つける行為をしたり、人を窮地に陥れるような嘘を平気でついたりする。カサンドラの両親は離婚しており、六歳の時に父親に誘拐され、帰ってきてから、おかしくなったという。トリイは、反抗的なカサンドラに手を焼きながら、いっしょに遊んだり、絵を描かせたりして、父親に誘拐されている間に何があったのか、根気よく聞き出していく。8歳の女の子の口から語られたのは、おぞましい性的虐待の事実。あまりに辛い経験だから、生きるために、その記憶を頭の片隅に閉じ込めて鍵をかけておいたのだろう。思い出させるのは残酷なような気もするが、胸に秘めていてはいけないのだという。話すことによって、特別な思い出はふつうの思い出になり、心的外傷は癒されていくのだという。
ドレイクという名の4歳の男の子。天使のように愛らしい子どもだが、選択性無言症だという。話をするのは母親と二人きりでいるときだけで、他の誰とも話をしない。とても頭のいい子で、聴覚も正常だ。トリイは、あの手この手で、ドレイクから言葉を引き出そうとするが、彼は、笑うときさえ声を出さない。やがて、ドレイクは生まれつき声帯に異常があり、選択性無言症は、母親のでっちあげだったことがわかる。心を病んでいるのは、ドレイクではなく、むしろ彼の両親だった。
子どもの深刻な精神の病は、たいていは、親が原因なのだ。


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2017年03月29日

悪魔よりも恐ろしい――「幽霊のような子」(トリイ・ヘイデン/入江真佐子訳)

トリイが新しく赴任した小学校の特殊クラスに、ジェイディという八歳の女の子がいた。家では普通にしゃべるのに、外ではまったく言葉を発しない。選択制無言症という障害を負う子どもだった。身体に病気や障害があるわけではないのに、いつも体を二つ折りにしていた。
トリイは、根気よくジェイディに接し、彼女から言葉を引き出すことに成功する。
八歳の少女との会話から見えてきたのは、彼女が家で性的虐待を受けているらしいこと。背景に浮かび上がったのは、黒魔術を操る悪魔崇拝の教団……
まるでオカルト小説を読んでいるような展開に、最後はどうなるのだろうと固唾をのんで読み進んだ。
だが、これはノンフイクションなのだ。警察が介入し、ジェイディの家の大捜索が行われたが、悪魔教団の存在を示す証拠は発見されなかった。ジェイデイが両親から虐待を受けていたことは間違いなく、選択的無言症はそのせいだった。彼女は、両親から離され、里親のもとで暮らすようになって、精神的安定をとりもどす。
考えてみれば、性的虐待をする親とは、悪魔よりも恐ろしい。子どもに逃げ場はない。助けを求めようにも、自分がされていることがおぞましく恥ずかしいことであれば、言葉にすらできない。絶望の中で八歳の女の子が生み出した妄想が、悪魔教団だとしたら、あまりにも痛ましい。





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2017年03月20日

真実は多面体――「タイガーと呼ばれた子」トリイ・ヘイデン/入江真佐子訳

「シーラという子」のその後を書いた作品である。一刻も早く読みたくて、キンドル版をダウンロードして読んだ。
やっと7歳になろうとしていたシーラと、トリイが別れてから七年。トリイは、行方が分からなくなっていたシーラを手を尽くして探し当て、再会を果たす。
14歳になっていたシーラは、トリイが思い描いていたような少女ではなかった。

トリイは、シーラに「シーラという子」の原稿を見せる。
シーラは、そこに書かれている事のほとんどを、覚えていないという。
そして、トリイのことを、深く恨んでいた。
あんたは、わたしを、捨てたんだ、と。無理もないことだった。
トリイは、シーラに、職域を超えた愛を注ぎながら、任期を終えるとシーラの前からさっさと去って行ったのだから。六歳の子に、教師との別れを受け入れる分別があるわけがない。

「シーラという子」は、感動的なノンフィクションだったが、読んでいて、ゾッとした箇所がある。
トリイとボーイフレンドのチャドが、シーラを高級ピザ店に連れて行き、ごちそうした夜。
チャドは、シーラが欲しがっていたドレスまで買ってあげた。裁判に勝って、シーラが精神病院に入院しなくてもよくなったお祝いだった。
その夜のシーラは、まるでシンデレラだった。帰りたくないというシーラを、ふたりは、酒と薬に溺れる父親の家に送り返したのだった。魔法の時間は終わったのよ、といわんばかりに。
これでは、光の中に救い上げた幼い子どもを、また闇の中に突き落とすようなものではないか。
ここまでしたのなら、トリイはシーラを養子にするべきではないかという気がした。

再会したトリイとシーラは、7年前と同じような時間を過ごすことになる。
精神病院の情緒障害児のためのサマーキャンプに、シーラはボランティアスタッフとして参加することになったのだ。もちろん、先生はトリイである。七年前と同じような濃密に関わる日々を過ごす中で、トリイは、シーラが生きてきた境遇が、想像以上に過酷なものだったことを知る。
父親は、酒と薬の中毒で、刑務所への出入りを繰り返し、そのたびにシーラは、施設に入れられたり里子に出されたりした。薬の売人や里親から、性的虐待も受けた。
知能は優秀でも、落ち着いて学校に行けるような境遇ではなかった。
シーラは、辛い日々を生き抜くために、トリイの教室にいた幸せだった五か月を、意識的に忘れ去ろうとしていたのだった。

「タイガーと呼ばれた子」には、シーラが成人するまでが書かれている。
人並み外れて高い知能を持つシーラだから、奨学金を得て大学へ進学することをトリイは望んだが、シーラは、高校を卒業すると、一日も早く自立したいからと、ハンバーガー店に就職した。

トリイが幼いシーラに、職域を超えて過剰な関りを持ったことは、果たして良いことだったのかどうか。トリイがトリイの立場で書いた著作だから、なんとなく良かったことのようになっているが。
「シーラという子」も「タイガーと呼ばれた子」も、シーラのことを書いているようで、実はトリイ自身のことを書いているのではないか。
トリイと関わった日々のことを、シーラがシーラ自身の立場で書いたものを読んでみたい。
ひとつの真実の別の面を知ることができるだろう。真実は、多面体なのだ。






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2017年03月17日

現実はフィクションを凌駕する――「シーラという子」トリイ・L・ヘイデン/入江真佐子訳

図書館のボランティアで、本の修理をしてるときに、この本に出合った。
奥付を見ると、1997年39版発行と書いてある。たくさんの人に読まれてきたのだろう、ページが何箇所かで外れかけ、何度もボンドで修理された跡があった。
表紙裏の内容紹介文にあった、貧困、虐待、情緒障害、という言葉が心にひっかかり、修理したばかりの本を借りた。読み始めたら、最後の一行を読み終えるまで、シーラという小さな女の子のことが、気になってしょうがなかった。
貧困の中で、母親に捨てられ、父親に虐待されていた6歳の女の子シーラ。まるで野生動物のように育ってしまったシーラが、たまたま精神病院に病床の空きがなく、情緒障害児のクラスに回されてくる。
シーラの担任になった女性教師トリイが、動物のようだった子どもを、一人の賢くかわいい女の子に再生させていく過程を、丹念に描いたノンフィクションである。その期間は、たった6か月。一人の教師が一人の子どもに注いだ愛情とエネルギーは、明らかに教師の職域を超えていた。一人の子どもが、一人の教師から6か月間に受けた愛情は、六年間の愛情の欠乏を補って余るほどにも思われた。
トリイは、シーラが実はIQ182の天才児であることを発見するのだが、そんなことはたいして重要ではない。シーラが平凡な女の子だったとしても、愛され抱きしめられて、動物から人になっていったことが大切なのだ。
どんなに強いきずなで結ばれていても、別れが来るのが教師と教え子の宿命である。トリイと別れて、その後シーラはどうなったのか。IQ182の天才にふさわしい人生でなくてもいい。誰かを愛し誰かに愛される、人としての喜びや悲しみに満ちた人生を生きられますように。本を閉じたあと、そう願わずにはいられなかった。
もうひとつ、この本の中で、感動したことがあった。トリイの助手を務めていたアントンという29歳の青年。貧しい季節労働者の子として生まれ育ち、高校さえ出ていない彼が、障害児たちの世話をするうちに、自分も教師になりたいという望みを持つようになり、密かに努力を続け、奨学生試験に合格したことだ。彼が、トリイの誕生日に、自分の合格通知を、トリイに捧げるように見せたシーンを読んだときは、涙が止まらなかった。まるで、計算された小説のストーリーのようだと思った。しかし、この話は、虚構ではなく、現実にあったことなのだ。現実は、フィクションを凌駕している。フィクションの百倍も感動的だと思った。


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2015年05月20日

怖ろしくも可笑しい小宇宙――田中慎弥の掌劇場

3ページぐらいの短い小説が、38作ならんでいる。
この中のいくつかを、川端康成の「掌の小説」に混ぜても、違和感なく溶け込んでしまいそう。
タナトスというのか、多くの作品には、死の影がつきまとう。
人が本能的に持つ、死への憧れ、欲求。
愛し合う男女の双方の胸底に潜む殺意。ああ、恐ろしい。
親と子の話では、両親と子の安定した三角形の構図は、どこにも見られない。子どもの前で別れ話をする両親。我が子を殺して、晴れ晴れと笑みを浮かべる母親。子と暮らすアパートの部屋で、生を鬻ぐ母親。
「男たち(一幕)」は、おもしろかった。ときの権力者が、一堂に会して、勝手なことをしゃべっている。その中になぜか、三島と太宰が混じる。石原慎太郎が連れてきちゃったらしい。
震災をテーマにした作品もある。
そのうちのひとつ「感謝」。
町の本屋で、見知らぬ青年に、あんたは人の不幸を浅く軽く書くのかとなじられ、作家が開き直る。
「…俺は小説を書く意外にやりたいことなんてないんだよ。役に立たないものを書くことに命を懸けてる。坂を転がり落ちていくようなもんだ。……」
その前に、作家は、こんなこともいっている。「考える前に書け。作家の鉄則です」
あっぱれ、田中慎弥の作家魂炸裂。
掌編小説というのは、ひとつひとつが小さな宇宙のようなものだ。
できそこないの宇宙もあるけどね。


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2015年05月12日

人生の仕舞い方――田中慎弥「夜蜘蛛」

「よくも」と読むのか、「やくも」と読むのか。
作家に長い手紙を送ってきた、七十才を超えたぐらいの男性は、戦争中、空襲警報が鳴ると、防空壕だか押し入れだかに逃げ込んだ。暗くて狭いその空間に、ろうそくか提灯のぼんやりした灯に照らされて、大きな蜘蛛がくっきり浮かんでいたのを、よく覚えているという。
この小説の大部分は、その人の手紙の文章で占められている。
ていねいな女性的ともいえる文体で、自分の父親のことを書いている。
父親は、三度も日中戦争に召集され、昭和天皇の大喪の日に自死した。入所していた老人施設で、首を吊って。父親は、息子に遺書を残していた。
「天皇陛下に殉ずるという死に方を教えてくれたのはお前だ」、と。
息子は少年のころ、父親の戦争体験を聞き、「お父ちゃんは乃木大将と同じだね」と、言ったことがあったのだった。明治天皇に殉死した乃木希典と、である。父親を自殺に導いたのは、幼かったころの自分のあの言葉なのかと、息子は、悩み続けた。そして、父親の死から二十三年経って、自殺をテーマにした小説を多く発表している作家に、長い手紙を書くことを思いついたのだった。
父親は、一兵卒として戦争にかり出され、命を拾って帰国した。赤紙でかりだされた兵隊であっても、陛下のために闘って死ぬことが名誉と教えられ、そう信じて、命を捨てる覚悟で闘ったのだろう。戦後、四十数年の歳月を生きても、天皇が存命である限り、父親の戦争は終わることはなかったのだと思う。ずっと戦争を抱いて生きてきたから、天皇の死とともに、自分の人生の幕を引いたのかもしれない。
空襲の夜、防空壕で見た蜘蛛は、息子にとって戦争の象徴だった。だから、あの蜘蛛を殺しておけば、父親が戦争をひきずって生きることもなく、天皇に殉ずることもなかったと、息子は自分を責めるのだ。
作家がこの手紙を公表する前に、手紙の書き手である息子も、自ら命を絶った。
父親の死から二十三年も経っているから、後追い自殺というわけでもないだろう。
「おとうちゃんは乃木大将と同じだね」という息子のことばに示唆されて、父親が自死したように、父親の自死に示唆されて、息子は自分の人生の幕を引いたといえないか。
戦死であれ事故死であれ病死であれ老衰であれ、人生はいつかは終わるのだ。自死という仕舞い方があってもいいじゃないか。







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2014年07月18日

ただ生きて在れ!―― 太宰治「めくら草紙」

太宰治の処女創作集「晩年」に収められた十五編めの作品である。
「新潮」昭和11年1月号に発表された。
18枚ぐらいの短い小説(作者が作中にそう書いている)だが、妙におもしろくて、三回も繰り返し読んでしまった。
これを書いたとき、太宰治は28歳ぐらい、薬物中毒で、死にたい病にかかっていたころだ。さいしょの妻、小山初代と暮らしていた。初代さんは、青森の料亭の芸妓だった人で、大地主の坊ちゃんだった太宰とは、戸籍上の夫婦になることは許されなかった。

語り手の「私」は作家で、東京のどこかで一軒家に家人と住んでいる。
「私」が夜眠れなくて苦しんでいると、「どうぞ私の体をお撫で下さい」なんて、家人はいう。家人とは妻のことなのである。「私」は、めんどうでつまらない用事を、次から次へと、家人にいいつける。家人は、「私」に卑屈なほど従順である。この時代の夫婦は、対等の男女ではなく主従のようなものなのだろうが、妻への敬意のかけらも感じられないことが酷いと思うのだ。
隣家にマツ子という16歳の娘がいる。「私」は、マツ子を気に入り、毎日家に遊びに来させる。家人に命じて、隣家にそうするように言いに行かせたのである。
マツ子を自分の部屋によんで、話をしたり、小説の口述筆記をさせたりする。「わたしはこの子をいのちをかけてたいせつにしている」なんて小説に書く。マツ子の肉体をどうこうするわけではないが、若い娘を家に毎日よんで、ふたりきりで部屋に閉じこもるなんて、妻のいる家ですることではない。残酷な夫だと思う。妻は妻で、不倫をしているらしいが、無理もないと思う。夫の仕打ちがひどすぎるもの。
寝ている間に、家人がつくった扇形の花壇を見て、「私」が流した涙は、なんだろう。
花壇に植えられた春咲く花の球根の名札を見て、いちいち植物の名を原稿用紙に書き移す。

作家の苦悩に満ちた作品なのだが、初代さんの身になって読んでしまった。
支離滅裂でも、ユーモアを忘れず、読ませてしまうのは才能か技術か。
タイトルの「めくら草紙」は、「枕草子」のもじりだが、現代では許されない差別語。
昭和12年、太宰治は小山初代と薬物で心中を図るが未遂。ふたりは、半年後に離婚する。その後、初代さんは満州に渡り、33歳で死去した。平凡な男性と結ばれていれば、平穏な一生を送れただろうに。



さらさ らん(赤い芥子粒)の本









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